第36話

 別所べっしょとともに向かったのは料亭だった。

 店に向かう道すがら別所が言うには、そこの秋冬限定裏メニューがとてもうまいという。ふだんの、頭を悩ませるものが何もないときならば、贔屓客ひいききゃくにしか振る舞われない一品に興味を覚えただろうが今は無理だ。高崎たかさきから意味深な言葉を聞かされたあとからずっと、別れた男がとった行動の理由を考え続けているのだから。

 富沢とみざわ事務所で働いていた頃、高桑たかくわは多くの顧問先を抱えていた。それに彼の予定は分刻みにスケジューリングされていて、とにかく多忙だったしそれが実は結婚した理由だった。

『結婚して夫婦になろうか。そうすれば、どれだけ忙しくたって家で必ず顔を合わせられるし話ができるから。それに……、遼子りょうこを守りたいんだ』

 求婚されたときはとても合理的で喜ばしい言葉に聞こえたものだが、今振り返ってみると高桑にとって都合がいい言葉にしか感じない。思い返したとたん、頬に触れる冷たい夜風が肌から熱を奪うがごとく心から温かいものを容赦なく奪っていくが、隣を歩く別所の声のおかげで、すさんだ気持ちにならずに済んだ。

「着きました。ここです」

 夜の闇が広がる小路の突き当たり、門前に置かれた行灯あんどんの明かりがぼんやり浮かんでいた。年期を感じさせる門を通り抜け敷地に足を踏み入れると、足下を照らす柔らかい灯りの先に格子戸が見えた。別所に続いて玄関口に向かうと、引き戸がゆっくり開いた。

「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」

 落ち着きのある女性の声がした。

真由子まゆこさん、こんばんは。急にすみません」

 別所が申し訳なさそうな顔で詫びると、板間に座し頭を下げていた着物姿の女性がすっと体を起こした。

「急にどなたかと込み入った話がしたいときのためにここはありますので、かまいませんわ。ささ、お入りくださいませ」

 凜とした女性だった。すっと伸びた背筋が胆力の強さを物語っているが、落ち着いたたたずまいと柔らかい物腰が、女将おかみと思われる女性の雰囲気を和らげている。自分とはまったく違うタイプの女性を目で追いかけていたら、

「初めまして、くるすの女将、真由子と申します。どうぞお見知りおきくださいませ」

 にっこりほほ笑んだ女将から名刺を差し出された。

「抜け目がないねえ」

 別所がにんまり笑顔で言うと、

「長く御店おたなを構えさせていただいておりますので人を見る目には多少の自信がありますの。月の間に案内させていただきます、こちらへどうぞ」

 ふふとほほ笑みながら女将が歩き出す。

「こたつがある部屋です。ラッキーですね、僕たち」

 別所が嬉しそうに言った。

 磨き上げられた廊下を進み、月の間に向かう。長い廊下の突き当たりの部屋に入ると、別所が言ったとおりこたつが部屋の真ん中にあった。

「掘りごたつになっておりますので、お入りになる際御注意くださいませね」

「ありがとうございます」

 女将に礼を述べ、こたつに入る。すでにほっこり温かく、緊張が少し緩んだ。

「温かいお飲み物をすぐに御用意いたします」

「お願いします」

 別所が言葉を返したあと、女将は部屋を離れていった。

 

「うどんすきができあがるまで時間が少し掛かります。その間にお話を聞かせていただけませんか?」

 別所が切り出したのは、玉露が冷め始めた頃だった。遼子は卓を挟んだ向かいにいる別所をまっすぐ見た。

「なぜ、間宮まみやに会わせたんです?」

 高崎が自分に投げかけた言葉の意図を別所は分かっているかもしれない。だから自分に間宮を会わせた気がしてならず問いかけたら、茶を飲んでいた別所と目が合った。

「高崎君のところに行くにせよ行かないにせよ、そうするべきだと判断したからです」

 なんのために?

 遼子は怪訝な顔をする。

「高崎君から間宮さんを紹介されたのは、あなたが彼の事務所に行ったあとでした。なぜ高桑氏があなたに会いたがっているのか、その理由を知りたかったからです」

 別所は落ち着いた声で話しはじめた。

「間宮さんから、あなたが富沢事務所を去るまでのことを聞きました。それに僕が知りたかったことも」

「そう、ですか……」

 ということは、高桑が自分の悪評を広めていたのも知っているのだろう。間宮は知っているようだったから仕方がない。

「彼女が高崎君のところに来たのは、彼のところで働いていた弁護士からの紹介だったそうです。それで会って話をしたのが篠田のパーティの直後だったと高崎君は言ってました。あなたに会ったあとに、あなたのかつての部下を紹介されて、高崎君はこれは好機だと喜んだそうです。彼はずっと企業法務部門を作りたかったので。その辺りでしょう、僕が高桑氏のことについて調べてほしいと彼に頼んだのは」

「え?」

 別所は今、なんと言った?

 遼子は驚きのあまり、声を漏らしたきりぼう然となった。

「あなたを……、守りたかった」

 重い声で言い終えたあと、目線の先で別所は苦笑いした。

「でもね、守ると言ったって結局は独りよがりでしかなかい。だから間宮さんに会わせました」

 向けられた目が真剣みを帯る。

「彼女と会って話をして、これからのことを考えてほしいからです」

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