ドライバディ

八田部壱乃介

ドライバディ

 ぼくは今、スタートラインに立っている。不安定な水面の上、揺れる波に乗りながら。ぼくは今、レース開始の合図を待っている。

 モータードルフィン。水底に沈む街の上、そこに用意されたコースをサーフボードで進み、タイムを争う競技。

 体は満たされていた。けれど、心は飢えたように渇ききっている。隣には猛者たちが、皆一様に同じ方向を見据えていた。

 目を瞑り、感慨深く思う。

 すべてはあの日に始まったのだ、と。

 何でもない日々が崩壊したあの日。

 突如目の前を横切った、夢と邂逅したあの日。


 唐突の闇の訪れ。

 目蓋という、夜の帳が下りて──


 それから……、目を開けるとぼくは真っ白な天井、真っ白な壁、真っ白な白衣に身を包む医者に、これまた真っ白な看護師に囲まれている。おまけに横に立つ両親や姉もまた、その顔が蒼白。白目を剥いてやろうかと思った。

 どうしてこんなところに?

 多分ここは、もしかしなくても、病院だろう。

 何があったんだっけ?

 見れば、腕がない。左腕の、関節から先がだった。驚いて両足を動かそうとする。けれどその先も。痛み。愕然として、叫びそうになったけれど、それと察した医者が、

「慌てないで」と宥めてきた。「落ち着いてルナ君。深呼吸するんだ。いいね? ほら、吸って……、吐いて……」

 鼓動は、強く脈打っていたけれど、嫌に頭は冷静で。何が起きたのかぼくはすぐに思い出した。それは、学校からの帰り道。疲れもあって、ぼうっと歩いていたら、石に躓き前のめり。地面とキスして車道に倒れた。落ち着いて立ち上がろうとしたら、もう目の前に鉄塊が近づいていて──

 ドライバーの驚いた顔を良く覚えている。

 申し訳ないことをしたな、と心の中でぼくは思った。

 数ヶ月の入院の後、健康状態にも問題なく、退院出来ることになった。ドライバーとの示談も済まされ、お互いの不注意ということで結論。お詫びにいくらか貰い、それを入院費と義肢に充てた。

 喪った左腕と両足は、こうして補填された。お陰で幻肢痛も綺麗さっぱりとまではいかないけれど、ある程度は和らいだ。だから問題ないか、と言われたらそうでもない。生身とは違うから扱いに困る。

 プラスチック製の腕はともかくとして、義足の方に問題があった。神経接続によって、脳から伝わる動かそうとする意思──筋電位に合わせて動いてくれるのは良いけれど、とにかくやたら重たい。それに何より自然治癒力なんてなく、壊れやすいので、その都度修理しなくてはならなかった。

 だからリハビリもとにかく大変。日常生活は、もっと大変だ。歩き慣れた道を、歩き慣れない足で歩いたり、自由に動かない腕で普段通りに生活しようだなんて無謀なのだ。

 喪ってから気付く。五体満足って、何て素晴らしいことだったのだろう、と。

 絶望というほどではない、それなりの憂鬱を背負い、ぼくは橋を渡っていた。見下ろせば、水没したヴェネツィアが覗ける。元は川に挟まれて道が存在した。昔の人々は、そこを往来していたらしい。映画や小説、教科書にもそんな様子が紹介されていて、ぼくと似ているなあ、と感じていた。

 この国は、というよりこの街は。

 とても潤って見えて、その実、とても渇いている。形としては元に戻ったこのぼくも。もうかつての体とは異なっている。

 今にして思えば、多少感傷的になっていて、だから少しだけ危ういところにあったかもしれない。どうして川に近づいたのかと言えば、引力に誘われていたのだろう。言うなればそれは運命。

 死に惹かれていたのではない。むしろ、その逆。生命力に惹かれていたのかもしれなかった。

 橋から下へ。川のすぐ近くに来ると、上流からけたたましいエンジン音が聞こえた。びっくりして後退り、それから首を向ける。と、何か黒い影がこちらへ近づき、勢いよく通り過ぎようとした。


 瞬間。一陣の風が吹いた。


 目の前は明るく照らされて。爽やかな朝日が昇ったようだった。


 時がゆっくりと進む。

 すべての動きが目に焼き付くように、ぼくは錯覚。

 その人は義足から先に、サーフボードを身につけていて、波の上を突き進んでいた。

 まるで飛んでいるかのよう。

 自由そのものだった。

 腕もまた、人工物。

 ぼくと同じだ。

 けれどその眼差しは、真っ直ぐ前へ向けられている。

 その先には何があるのだろう?

 震え、鳥肌が立った。

 彼女は嬉しそうに笑っている。

 凛とした佇まい。軽やかな動き。風に靡く黒髪。

 ちら、とこちらへ横目に見つめられ、


 ──ぼくは我に帰った。


 その人は既に遥か向こう側。エンジンの音もまた、遠ざかり小さくなっている。今見たものが何だったのか。気になって仕方がない。慌てて追いかけると、義足が思うように動かなくて、何度も転びかけた。

 下流には、その人の姿がある。サーフボードを脇に、座り込んでいた。肩まで伸びた黒髪。切れ長の目。彼女はぼくに気がつくと、眩しそうに笑い、

「あんなところに居ると危ないよ」緩々と立ち上がって言った。「君は?」

 背が高い。ぼくは見上げるようにして名乗った。彼女の名はソラレと言う。

「どうしてあそこに?」と訊かれ、

「どうしてだろう」と悩む。「特に、理由は無かったかも。ぼうっとしていたから」

「へえ」相槌を打ちながら、ソラレは髪を掻き上げて、水を切った。

「何をやってたの」

「モータードルフィン」と一言。「知らない?」

 素直に知らないと告げると、そっか、と残念そうでもなく頷く。マイナーなスポーツなのかと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。というのも、

「これ、パラリンピックの競技にもなっているんだよ」とのこと。

「知らなかった」

「そうなんだ。結構、人気あると思ってたから、珍しいね。テレビは見ないの?」

 ぼくは首肯した。勉強ばかりで、娯楽の視聴は許されていなかったから。そんな面白くもない訳を話すと、ソラレは目を細め、

「大変だね。君も、戦ってるってことだ」鮮やかに破顔する。

「さっきの、とてもかっこよかった」

「ありがとう」

「その義肢って、濡らしても大丈夫なの……」

「耐水性があるからね、大丈夫。でも、義足の方は高価いから、替えがきかない。見たところ君も同じだ」ソラレはにやりとして、「もしかして、興味持った……」

 ぼくは素直に頷いた。

「いつもはここで練習してるんだ」

 夜、ベッドから抜け出して、ぼくたちは湖の畔を訪れた。周囲に灯りはなく、車のライトでは心許ない。そんな森の奥深くに、湖はある。ひっそりとした静寂。見上げれば満点の星空が広がり、水面には、煌びやかな光が映し出されていた。

 ソラレは笑う。

「ね、綺麗でしょ?」と。

「こんな場所、知らなかった」

「意外と穴場なんだよね。昔は、こんなところに森なんて無かったみたいだし。誰も入ろうとしていなかったりして」

 ソラレは車からサーフボードを取ると、

「前に使ってたやつで良かったら、だけど」と言い、ぼくに渡してくれる。

 板自体は思ったよりも重くない。中身は人工筋肉でぎっしり詰まっているという。だから柔らかく、そして湿っていた。

 これだけならば良いけれど、そこにモーターを取り付けるため、重量が増える。沈んだりしないのかな、と気になった。けど、そうならないことは観測済み。ソラレは泳ぎ方を教えてくれた。

 サーフボードに義足を嵌め込み、神経接続を果たす。すると身体感覚が拡張され、板もまた自分の体の一部となるのだ。

 たちまち板はぼくの尾ひれに早変わり。どうして感覚が拡張されるのか、ソラレはこう説明した。


「これは医者の受け売りなんだけど」と前置きして、「幻肢を利用しているんだ。認識の上書きとか言ってたけど」

「認識の上書き」と、ぼくは繰り返す。

「そ。幻肢──中でも幻肢痛の原因はいくつかあってね」

 ソラレがこちらを見たので、相槌を打った。

 曰く、幻肢痛は末梢神経の損傷による、神経腫由来のインパルスの異常。脊髄レベルでの神経細胞、または脊髄よりも上位中枢神経系レベルでの易興奮性など、さまざまな要因によって誘発するらしい。

 その例の一つをソラレは挙げた。

「そしてもう一つ」と人差し指を立てて、「脳は体を動かすために指示を出したり、感覚を受け取ったりする器官だよね。基本的には、その前頭葉にある大脳皮質に──」と、おでこを突きながら、「体の部位と対応する脳の領域が存在していてね。体部位再現地図って言うんだけど、いわば手足と脳のどこが影響し合っているのかがわかるわけ。一連托生ってことね。そして幻肢痛は、この地図が更新。機能の再構築が成されないから生じるんだってさ」と、他人事のように言ってみせる。

「だから、義肢を付ければ──」差異は埋められて、「痛みは和らぐんだね」

 ぼくの気付きにソラレは口許を緩めた。

「そうだよ……。人は手足を喪うと、地図の更新を試みる。そこで対応する脳の領域が縮小するんだ。代わりに別の体部位と対応する領域が拡大する。この反応の変化──担当する地図が書き換わるお陰で幻肢痛が治まることもあるんだって」

 地図の更新。

 認識の上書き。

 ぼくは予感して、彼女を窺った。

「この地図が更新されて、書き換わる間にサーフボードと連結するとどうなると思う?」ソラレは唾を飲むと、「脳内の足に関する領域がサーフボードを自分の体として認識して──地図に組み込むんだってさ」

 こうして脳はサーフボードを含めて全身だと思い込み、身体の変化を受け入れる。本来ならば自身にない器官を。

 サーフボードに触れただけでも、そこから発せられた電気信号が義足を経由して脳へ伝われば、まるで自分が触られたかのような感覚が生じるらしい。

「だから比喩じゃなく、体の一部になるってこと」


 足でサーフボードを動かすのではなく、脳がこれを動かしている。練習を続けていくうち、そんな感覚が芽生え始めていた。

 ソラレはモーターから伸びる糸を引っ張って、エンジンをかける。生まれた推進力を使って、自ら波を起こし、その上を飛ぶのだとか。簡単に実演してみせるので、自分にも出来るのでは、という淡い期待が生まれては、すぐに散る。

 感覚もない頃は、まず板の上に立つことさえ難しい。いくら体の一部になったのだと言っても、新しく得たばかりで、脳が慣れていないのだ。得ることは、喪うこととも似ている。尾ひれを動かそうだなんて、これまでの常識が通じない。新しい普通へと様変わりする。

「人魚になったつもりでイメージしてみて」とソラレは言うけれど、そう簡単にはいかない。

 だって、「サーフボードじゃあ、人魚らしくない」から。

「そう?」彼女は惚けたように表情を浮かべると、「じゃあ半魚人」

「半魚人って、知ってるの……」

 ソラレは返答する代わりに首を振ってから、くすくすと笑った。

「さあ練習しよ」

 どこからか鳥の声がしている。夜中だから、大きく響いた。エンジン音が静かだから忘れてしまいがちだけれど、ここには二人しか居ない。

「実演してみせようか」

 ソラレは口を斜めにした後、悪戯っぽくにっと笑う。ぼくが答える前に彼女は水面に立った。日焼けした腕で髪を結び、化粧っ気のない顔を黄色い月に向ける。くらくらするほどの眩しい光が、彼女から差しているように感じられた。

「この、魚になる瞬間が好きなんだ」

 ソラレは緩やかに動き出す。

 彼女を中心に、小さな波紋が生まれた。次第に大きな円を構築。湖に重力をもたらした。波の発生によって高低差ができ、即席の会場が生まれる。


 彼女のための舞台だ。

 さながら反射した銀河の上を泳ぐ人魚。

 限られた自由の中で、彼女を縛り付けるものは何もなかった。


 ソラレはぼくを一度見て、大きく空を舞う。湖と空の間。そこには宇宙で満たされている。途方もなく、際限なく、始まりも終わりもない。

 すべてを包む光に充てられている。

 小さなモーター音が彼女の位置を知らせた。ぼくの頭上、月の下。ソラレは今、重力からさえも自由だった。

 その姿がはっきりと目に焼き付く。

 微風が気持ち良い。

 瞬きをする。

 穏やかに着水すると、彼女は、するすると岸に着いた。

「やってごらん」

 涼しげに言うものだから、ぼくは吹き出してしまった。まだまだ始めたばかり。そんな上手くいくはずもなく、不恰好な泳ぎになった。

「難しいのは今だけだよ」というのが彼女の感想で、「繰り返していくうちに陸上よりも歩きやすくなってるから」

 ソラレの教え通り、来る日も来る日もモータードルフィンに熱中した。最初は単なる板でしかなかったサーフボードにも感覚が宿り、今では水の冷たさや滑らかな揺れ動きすら良くわかる。脳と定着したということなのだろう、きっと。


 ソラレと出会うまで知らないことだらけだった。勉強ばかりしていたけれど、世界の広さをこうも感じたことはない。ぼくは人生に魅了されていた。そう自覚する。


 新しい体に慣れた頃、ぼくらは湖だけでなく、川でも泳いでいた。下を覗いてみれば、沈んだ街並みに混じって、星空が反射して映る。

 モータードルフィンは最速を求めるスポーツだ。坂を越え、すべてのアーチを潜り、規定されたコースを辿っていく。サーフボード自体に性能の差はない。拮抗した状態で、どう巡るかの問題となる。ソラレと走りながら、思うのは泳ぐ楽しさ。波に乗る喜びで満ち溢れて仕方ない。

「君は風なんだ」とソラレは言った。「それが自由に泳ぐコツだよ」と。

 その意味が、ぼくにもわかったような気がした。深く息を吸い、緩やかに吐いていく。水の上を滑るように、尾ひれを揺らし、静かに走り始めた。旋回。波を作り、流れを伴う。

 ぼくは一陣の風。

 爽やかな空気が、頬を撫でた。

 流れに逆らわず、進みたいように進む。星々の隙間を縫いながら。もっと早く。波を起こし、乗り上げた。

 楽しい──そうか、ぼくは今、人間から解放されている。ここにあるのはぼくでも誰でもない。

 月に照らされて、この瞬間にだけ現れる、小さな、小さな微風。

 確かにイメージできる。そうか、これが答え。なんて嬉しい。なんて素晴らしい。

 生きていて良かった。知ることができて良かった。


 目の前には、月が見える。

 触ってみたい。手を、伸ばす。これでは届かない。だから、ぼくは大きく飛び跳ねる。


 近づきそうで触れない。何故って、ぼくは風だから。それで良い。宇宙を漂う時間となって、後は走るだけ。川の上で、ぼくは喜びの舞を踊った。観客はただひとり。

 その彼女を一瞥すると、目を大きく開けて、ぼくを見つめている。まるでブラックホールのように真っ黒な瞳。それなのに、吸い込まれそうになっていたのは、ソラレの方だった。

 そうだったのか、と理解する。初めて彼女を見たあの時のぼくも、こんな表情だったのだ。

 魅惑され、何か途轍もないものを感じ取った、あの驚き。感動。

 そう、ぼくらは同じものに魅了されている。同じものを見つめているのだ。それは一体、何だろう……。


 自由、

 未来、

 それとも希望?


 何でも良い。ただ、ただ、浸っていたい。無我にも等しい夢中の間。ぼくはまた、目を瞑り、目を開けた。ぼくは宇宙を見上げている。頭はソラレの膝の上。記憶は断絶、こうなるまでに何があったのか、何も覚えていない。

 微かな幻肢痛。

 ソラレの物悲しげな顔から、生命力に溢れた赤い唇が動く。

「サーフボードから感覚を切り離した時、気絶したんだよ」と、目を瞑って。「もうやらない方が良い」

 何故と言葉を投げかける。

 何故そんなことを言うの。

 足先にないはずの感覚が残っている。痺れを感じた。猛烈な痛みが──ある。

「サーフボードがルナの体になったからだ。もはや切っても切り離せない関係ってこと。かつて手足を喪ったのと同じように、さ」

「地図が──」そこで一拍置くと、ぼくは痛みに耐えるべく下唇を噛んだ。「存在するはずのない器官サーフボードを受け入れたから、幻肢痛が始まったってこと……」

 だから陸地に居る今のぼくは、体の一部をもぎ取られた不完全体ということ。あるべき姿とは別物なのだ。

 ソラレは声を震わしながら、「ごめんね、取り返しがつかなくなる前に──医者に診てもらった方が良いと思う」

 医師の診断は、ソラレの説明と似たものだった。体がサーフボードを覚え、喪ったことによる幻肢痛。これ以上の継続は危ないと判断されて、ドクターストップ。薬による治療に専念するため、ぼくから尾ひれは取り上げられた。


 でも今更離れられるわけがない!


 モータードルフィンは、ぼくにとって無くてはならない存在になっていた。いや──最早なくてはならない器官と言うべきだろう。尾ひれのない体なんて有り得ない。今やそれが本当のぼくの姿だった。陸地のぼくは不完全で、水の上に立つ間だけが、唯一の自然体。

 水面に映る、大きく眩い月の上──そこだけがぼくを解放してくれる。生きた心地を与えてくれた。

「モータードルフィンを奪われたら、ぼくはぼくじゃなくなってしまう」恐ろしさが、首にかけられる大鎌のような切れ味とともに、現実との繋がりを裂こうとしている。

「こっちにおいで……」ソラレは部屋の中、鼻息を漏らしながら言った。「君を引き込んだのは私だもんね。助けた責任は取るよ。だからさ……今は何も考えちゃダメ」

 手を取られ、胸元に招かれる。全身を包むソラレの温もり。それが余計に苦しみを助長した。ふと、疑問に思う。

「ソラレはさ、どうやって痛みに耐えたの……」

 彼女だって、ぼくと同じじゃないか。義肢を付けて、サーフボードと神経接続を果たしている。それなのに、どうして。どうして幻肢痛に苛まれていないのだろう?

 ソラレはややあってから、「そうだね」と呟いた。「痛みを痛みで和らげたから、かな……。つまりさ、代償を払ったの」

「代償って?」

 ぼくは虚空に投げかける。答えは返ってこない。背中越しに伝わる、震えた息遣い。ソラレはモータードルフィンのために、何を秤にかけ、支払ったのだろう。痛みと引き換えに必要な痛み。ぼくはどうすれば良い?

「だから」とソラレは言った。「ルナはもう、やめた方が良い」

けれどぼくにはもう。「モータードルフィンしかないんだよ」

 涙で喪失感を潤そうにも手遅れだった。涙は辛さを助長する。だから泣くのは好きじゃない。

 ぼくは苦しみから逃げるように、ぼくを抱きしめるソラレから離れた。そうしてサーフボードを手に、湖へ駆ける。足元は覚束ない。走り方なんてとうに忘れてしまっていた。だって、これは本来の形じゃない。


 白状しよう。ぼくはソラレに魅了されていた。優雅に踊る水上の彼女に。

 そして、モータードルフィンを拠り所としてもいたことも認めよう。ぼくはサーフボードなしには生きていけない体になってしまった。そうだ、自分という在り方は変わってしまった──トラックがぼくを撥ねたあの日から。あの日から、人間としての在り方を変えざるを得なくなった、ということ。

 万物は流転する。現実は変化して止まらない。ぼくはもう、人としての形を擬似的に補填するだけ。人であろうとする必要はない。

「ぼくらは半分魚なんだ、きっと」

 追いかけてきたソラレは、息も絶え絶え。肩を揺らしながら、そっと頷いた。人類の祖先はね、と口を開く。

「人類の祖先はね、ルナ。海の中に住んでいたんだ。それが四億年前になって、陸地に上がった。陸棲生物になったんだよ。そういう進化だった。君も、きっと進化しようとしているんだろうね。水棲生物に戻ろうとすることで、さ……」

 これは成長なんだろうね。

 人としても、私たちとしても。

 ソラレの呟きは、微かな息遣いにか細く消えていく。代わりに、彼女はサーフボードを足に取り付けた。取り繕ったように白い歯を見せて笑う。

「今夜のことは、誰にも言えないね」


 ぼくらは手を取り合って、思い思いに踊った。誰かと競うわけでもなければ、自分のためでもなく。今というこの時を、精一杯、二人で感じ取るために。息継ぎにも似た時間だった。肺の中を酸素が満たしていく感覚。渇きは潤い、全身を喜びが駆け巡る。

 これがぼくだ。

 新しいぼくだ。


 ぼくは今、人生のスタートラインに立っている。


 横並びになったライバルたち。皆一様に神経を研ぎ澄ましている。でもぼくには良くわかった。その胸の内には、この舞台に立てた喜びで包まれていることを。ぼくらと同じ境遇の人間は、驚くほど多い。

 皆、希望という名の光にあてられて盲目になっている。だからこそ、ぼくらは出会ったのだろうか。

 あれから、もう何年経ったっけ。

 ソラレは何も言わず、置き手紙だけを残して、ぼくの前から姿を消した。あの日以来、一度も会っていない。手紙にはこう書き記されていた。


「お互い、痛みを忘れるほど人生に魅了されたかったんだろうね。そしてモータードルフィンと出会い、同じように惹かれ、夢中になった。私たちは同じ夢の中に居たんだ。でもいつかは醒めなければいけない。私にもかつて親しい人が居た。でも痛みは痛みでしか拭えなかった。きっと君も同じ。だからこれが私なりの、責任の取り方」


 ソラレは今もどこかで生きている。それと理解してはいても、心の幻肢痛は癒えなかった。その代わり、サーフボードへの依存症は驚くほどに薄まっている。かつての祖先──水棲生物だった彼らは、陸に上がったがために生き残り、そしてひれを失った。

 それが対価に対する代償。

 なら、陸棲生物でも水棲生物でもあるぼくは、さながら両生類だろうか。体は満たされている。繋がりは断たれた。

 モータードルフィンも今では拠り所ではなく、生き甲斐として、人生を彩る在り方として姿形を変えている。これこそが、支払った代償への対価。ぼくらは同じ道を辿るしかなかったのかもしれない。

 暗澹たる場所にこそ、光は際立って見えるもの。ぼくは喪ったことで希望を見失いかけ、しかしお陰でソラレと出会えた。そしてまた──ソラレは立ち去ることで、描くべき人生の輪郭を、ぼくに提示してくれたのだろう。

 貴方と別れたからこそ、ぼくは立ち直った。

 心は──体はもう、渇いていない。

 想像するのは優勝した自分。歓声とともにぼくの名が轟けば、ソラレの耳にも入るだろう。そうして少しでも彼女の痛みが和らいでくれたら──と、そう祈って。


 ぼくは待った。

 始まりの合図を。

 無限にも似た、楽しい、あの一瞬のために。

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ドライバディ 八田部壱乃介 @aka1chanchanko

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