だから骨には届かない

日々曖昧

だから骨には届かない

 枝腹先輩の家の電気ポットは、トポントポンとお湯が出る。普通はジョボジョボとかトクトクって感じなんだけれど、枝腹先輩の家の電気ポットはまるで大きな水滴をひとつひとつ落としていくような動きでお湯を吐き出す。

 今日もそんなふうに、トポントポンと注がれたお湯で作られたインスタント味噌汁を机の上に並べて、私がセットしておいた炊きたての白米と、主菜を置く用の平皿には枝腹先輩の焼いた、底の少し焦げたベーコンエッグ、その横にはスクランブルエッグが鎮座していた。

 『朝は卵を三つ食べないと力が出ない』。これは枝腹先輩の譲れないモットーらしい。

 ならばベーコンエッグの卵をひとつ増やせばいいのでは? という問いには、『朝から目玉焼き三つって、飽きるよ』とのこと。燻製肉と添い寝してようがスクランブルされてようが、私からしたら見てくれが変わっただけで同じ卵ですよ。なんて、言ってもしょうがないので言わない。

「……頭、痛え」

 毛先まで綺麗に染まった金髪をぐしゃぐしゃとやりながら、枝腹先輩は目玉焼きの黄身を箸で潰した。その動きはダーツでも投げるみたいに鋭くて、容赦がない。

 黒色のタンクトップからひょこっと生えているように細い腕には、それでも女性としては十分なくらいの筋肉がついていて、その適度な弾力に私は魅了されている。怒られないならフルタイム、休憩なしで触っていたい。

「あれだけ呑んだんですから、何かしらの不調が出てくれないと逆に不安になります」

「じゃあ私が不調で幼木は喜んでんの? それはなんかむかつく。人の不幸は蜜の味って言う人間さ、総じてただのクズじゃんね。幼木だけはクズにならんでくれよ、マジでさ」

 朝に弱い枝腹先輩は、朝に限って強い言葉を使う。なんだかんだでいつも他人を慮る意識の強い彼女の、唯一の悪性。それも、私しか知らないので実際は存在しないようなものだ。

「別に嬉しいとかじゃないです。今の枝腹先輩は不幸でも幸福でもなく、呑みすぎた人が行き着く当然の結果ですから。それに、大抵の人は気に入らない人の不幸を望んでると思いますけど」

「はあ……幼木はそういうリアリストっぽい論調、ほんと好きだね」

 私と話していると頭痛がひどくなる。そんな顔をして枝腹先輩は原型を留めていない目玉焼きを口に運んだ。モクモク、そんな感じに咀嚼する。

 私は枝腹先輩のことが好きだ。それは性別とかあらゆる枠組みを少しはみ出した感情で、なんというか、彼女の存在そのものに救われている。枝腹先輩という指針があるから、幼木雪目は迷子にならずにすんでいる。そういう自覚がある。


「幼木はいつも私が話し始めるのを待ってるよね。責任、取りたくないから」

 昨日の夜、酔った枝腹先輩が言ったことだ。絵に描いたような酔っぱらいの戯言、なのだけれど、その戯れ言に図星を撃ち抜かれているのが私なわけで。

「ねえ幼木、私のこと好き?」

 ああ、こういうのどうせ朝には忘れてるんだろうな、と思いながら「好きですよ」と答えた。

 虚しい。枝腹先輩の頬が赤く染っているのはアルコールによる作用で、私への愛しさによるものなんかでは決してない。それが分かっていながら、本気で好きだなんて伝えてしまう自分が、本気で虚しい。

「あのさ、」

 もう飲み会も終盤に差し掛かろうという頃、枝腹先輩はごろんと横になって、私を自分の顔の前に手招いてから口を開いた。レモンチューハイの酸っぱい匂いと、枝腹先輩の香水の匂いが混ざって、段々と私の方まで酔いが回ってくる。

「なんですか」

「あのさ、幼木」

 酔ったときの枝腹先輩がこんなふうにゆったりと間を持って話すのは珍しかった。

 私は自分勝手だから、枝腹先輩の話もそこそこに、今キスをしたら怒られるんだろうか、なんて考えていた。前は怒られなかったけれど、今度はどうだろう。

 そんな妄想の標的である枝腹先輩の唇が、次の言葉を紡ごうかどうか迷うように蠢き、蠢き、そして蛇口を思い切り捻ったかのように、ぴたりと止まる。一連の動きを、私は息をするのも忘れて見守っていた。

 そして私はまたしばらくの間、呼吸を忘れることになる。

「私ね。人、殺したことあんの。そんで今、私たちが寝てる畳の下に、そいつ埋めてる。もう二年経つから、さすがに骨になってるかもしれん」

 あはは、と枝腹先輩は笑った。

「……あはは」

 なんでか分からないけど、私も笑った。キスをしたかったのに気づいたら枝腹先輩のことを抱きしめていて、枝腹先輩の方が私の首筋にキスをしていた。いやあれは、噛みついていたのかもしれない。

 二分くらいたっぷりと笑ってから、「私も埋められちゃいますか」と訊いた。枝腹先輩は笑い疲れたのかすごく眠たそうで、「好きだよ、幼木」と言った。

 皮膚を鉄の棒でなぞられているみたいに、退屈な言葉だった。

「多分、私の好きとは違いますよ、それ」

 もう眠っている彼女の瞼に毛布をかけるみたいに私はそう言い添えた。枝腹先輩の好きは、一晩経てば全部忘れちゃう好きです。忘れちゃえる程度の好きなんです。そんなもので私を縛ろうだなんて、枝腹先輩は甘いんですよ。

「あ〜……吐きそう」

 喉の奥に込み上げてくるものに蓋をして、私は眠った。枝腹先輩の体の隣で。


 インスタント味噌汁は今日も、表記通りにつくったのにどこか足りない味をしている。足りないな、と思いながら食べ進めるのが苦手で、枝腹先輩の目を盗んで醤油をひとたらし加えた。

「私がリアリストなら、枝腹先輩は妄想患者ですね」

 枝腹先輩の眉がピクっと動く。

「なんか、今日の幼木いつもと違う。噛みついてくる感じ」

 どうやら本当に枝腹先輩は昨夜の記憶を全てなくしているらしい。どこか被害者ぶった態度の枝腹先輩は、私の何かを疑っている。

「違いませんよ、なんにも違いません」

 強いて言うなら、気づいてしまっただけだ。

「あの、枝腹先輩。私、今日でここ出ていきます」

「……ああ、そ」

 なんの気なしに言ったから、なんの気なしに受け取るしかなかったのだろう。枝腹先輩は目玉焼きの残骸を箸でひとまとめにしながら頷いた。

 やっぱり。そう心の中で声がする。

 枝腹先輩は私を埋めない。

 私はちゃんと枝腹先輩のことが好きで、枝腹先輩の使う薄っぺらな『好き』に騙されてあげられないから。

「幼木ってさ。私のこと、本当に好きだった?」

「なんですか、それ昨日も訊かれましたよ」

 枝腹先輩は私を縛るすべを持っていない。

 私が、枝腹先輩のことを大好きだから。

「いや、なんとなく。なんとなくだよ、全部」

「そうですね。枝腹先輩はなんとなくが好きですもんね」

「茶化すな。これが、最後なんだから」

「ああ、はい」

 枝腹先輩は私のことを好きじゃない。

 私が枝腹先輩のことを、本当に好きだから。

「好きでしたよ、多分死ぬほど」

 だから骨には、届かない。

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