鬼雨(2:0:0)

Si

鬼雨


登場人物:

源田 浩二(げんだ こうじ)

交番勤務の警察官。50代~。


相沢 健司(あいざわ けんじ)

深夜の交番を訪れた男。雨に濡れている。2,30代~。


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台本:「鬼雨」 作者:Si(@Si_lenceizmine)

https://kakuyomu.jp/works/16817330659500574627

源田♂:

相澤♂:

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源田:(M)


深夜の交番。一人当番。


パイプ椅子を揺らしながら、報告書を書く。

時刻は午前1時すぎ。雨音を聞きながら、鼻歌まじりにペンを進める。

急に降り始めた雨は、なかなか止む気配がない。

パトロールのことを思うと、少し億劫だなとぼやく。


平和な郊外ではあるが、気を抜いているわけでもない。

この時間ならではの、切羽詰まった駆け込みがあったりもする。


酔っぱらいの襲撃、カップルの諍い、衝動に身を任せて家を飛び出した少年少女。

彼らの大抵は、大したお客さんではない。

腰を据えて話を聞いてやれば、大概は満足して帰っていく。

俺の交番勤務の楽しみの一つは、そんな風に人生の岐路に立つ彼らの悲喜こもごもを聞くことだ。

「警察官」という職を身近な裁判官とでも思っているのか、清廉潔白せいれんけっぱくさと公平さを求め、自らの正当性を主張してくる。それらを余すことなく聞いてやった後に、当たり障りさわりのない答えで家に帰す。


その後、どうなるのかはおよそ知らない。

人の心の根っこの問題は、他人には解決できないと、知っているからだ。

後で見かけたとしても、多くは聞かない。それが俺なりの優しさだ。

このやり方で、三十年近く働いてきた。

大した出世欲もなく、いまだ交番勤務というと笑われることもある。

だが、ここでしかできない仕事、楽しみだってあるものだ。


相沢:「っ、あ、あの、すみません、ちょっと、少しだけ…」


源田:(M)その日も、いつものように、この迷子のような男を笑顔で返してやれるだろうと考えていた。


源田:「おいおい、濡れねずみじゃねえか。ほれ、拭きな。おっちゃんのタオルでわりいけどよ。」

相沢:「っふ、ありがとう、ございます…」

源田:「えらいガタガタしてるがどうしたんだい。まだ冬でもないだろうに。」

相沢:「あ、あっあめが・・・・」


源田:(M) そこで一度言葉が途切れる。

妙な様子だと思った。まだ9月の上旬だ。

雨脚あまあしは強いが、凍えるような気温ではない。

むしろムッとした空気が漂っているいうのに、

彼の顔に血の気はなく、必死に細い腕をさすっている。


その肌には、濡れたシャツがびっとりと張り付いていた。


源田:「酒でも飲んでその辺で寝ちまってたのかい?兄ちゃん、見たところまだ若けえみたいだしよ。」

相沢:「っ、お恥ずかしい話ですが、そういう訳ではなく…。」

源田:「んなこと言ってもよ、一時間くれえ前から降ってるぜ。終電だってその頃だろうよ。今まで一体どこにいたんだ?」

相沢:「少し、外に…」

源田:「なんでまたこんな時間に…まあいいか。えれえ顔色だ。落ち着いたら、ビニ傘貸してやるから、家かえんな。」

相沢:「あ、いえ、その‥‥大変ありがたいのですが。」

源田:「なんだ、家この辺じゃねえのか?帰れなくなった口か。」

相沢:「そう、ですね…帰れ、ない、です。」

源田:「そりゃ大変だなあ。俺も仕事があるからずっとは相手できねえけど。外にほっぽる訳にもいけねえしな。」

相沢:「ご親切に、どうも…本当に、ありがとうございます。」


源田:(M) 薄いタオルでガシガシと水気を取っているが、服を変えないとどうしようもない濡れ方だ。

歯の奥もガチガチ鳴っていて、可哀そうになるほど唇の色は紫である。

何があったのかも気になるが、まずは体調をどうにかしてやらなければ。

裏に回って、給湯器をセットする。温かいお茶を入れるのは久しぶりだ。


源田:「ほら、あったけえぞ。飲むか?」

相沢:「っあ。お気遣い、痛み入ります…」

源田:「そんなかしこまらんでよ。あと、こういう時はどうすんのがいいんだっけな。糖分だっけか。誰かが前置いてった飴、これも舐めときな。」

相沢:「ありがとうございます。はは、なんだか子供に戻ったみたいだ…。この飴も、懐かしい。」

源田:「あんた、いくつ?さすがに未成年じゃねえよなあ。」

相沢:「32、です。」

源田:「見た目より上だなあ、うらやましいぜ。ほそっこくて心配になっちまうくらいだし。」

相沢:「そうですかね。自分の見た目については、あまり。」

源田:「俺なんてよ、ほら、この腹だ。兄ちゃん見た目も悪くないし、女には困らんだろ。」


源田:(M) その瞬間、彼の体が凍り付いた。ピシッという音が聞こえてくるようだった。


相沢:「私、私は…」

源田:「悪い!悪かった、軽口で言うことじゃなかったな。モテるモテねえなんて時代遅れの発言だぜ。あー、俺、仕事してっから。なんもねえけど、落ち着くまで座ってな。」

相沢:「違う、違うんです…」

源田:「いいって、無理すんな。」


源田:(M) 視線が揺れているのは言葉を出す前の迷いか、あるいはただの身体的な震えなのか。

湯呑はそこそこに熱いはずなのに、握りこむその指は真っ白だった。


相沢:「いえ。いえ。無理なのです。誰かに話さずにはいられない。むしろ、あなたに懺悔するほかないのです。そう思って、ここに来たのですから。ですから、ですからどうか、聞いてもらえませんか。」


源田:(M)大仰な言い様に息をのむ。思いつめた様子に、こいつ殺ったか、とふと思う。居住まいをただしつつ、ゆっくりと口を開いた。


源田:「なんだ、あんた、自首にでも来たのか?」

相沢:「それで償える罪であればよかったのですが…。もはや許しなど、得られそうにもありません。」

源田:「…落ち着いてから話してくれりゃあって思ってたが、そういう訳にもいかなそうだな。」

相沢:「はい。どのみち、この震えはおさまらなさそうです…」


源田:(M)さすさす、ふうふう。真冬の外気の中にいるかのように、息も吐いて手を温める。おさまらない寒気に観念したように、下を向くと、肩を強ばらせながらぽつりと話し始める。


相沢:「とはいえ、うまく話せるか分かりません。それでも聞いていただけますか。」

源田:「ああ、それでいいぜ。思いついたところからでいいからよ。」

相沢:「ありがとうございます。退屈な、身の上話で恐縮ですが。」



相沢:「私には、妻がおります。勤め先で知り合った、先輩で。優しく清らかで、楚々そそとした中に、不思議な魅力のある人でした。それでいて、仕事は抜かりなく、周囲からも尊敬を集めている、私には勿体ないくらいの女性です。」

源田:「職場結婚ってやつか。珍しくはないが、奥方の様子を聞く限り羨ましい話だねえ。」

相沢:「ええ、本当に、恵まれていたと思います。2年ほど付き合ったあと、俺の昇進を機にプロポーズして。今年で、結婚7年になります…」


源田:(M)この男なら、そんな器量良しを捕まえるだろうなという変な確信があった。そしてこの先の展開も、少しだけ読めてくる。


源田:「7年か。それなりに長い年数だ、いざこざが生まれたって不思議じゃねえな。」

相沢:(深呼吸)「お察し頂いた通りで。付き合っているときは、妻との時間を窮屈きゅうくつに感じたことなんてなかった。職場では眉根まゆねを寄せながらも的確に指示を出す彼女が、私の些細な行動で、少女のように喜ぶ姿が眩しかった。幸せにすると誓ったんです。でも、隣にいる時間が長くなると、いつしかその気持ちも薄れてしまう。」

源田:「ああ、人間てのはそういうもんだなあ。」

相沢:「次第にすれ違う事や喧嘩が増えて…彼女の思う当たり前に、合わせきることができなかった。些細ささいなことで怒らせて、反発して。何より辛かったのが、当時輝いて見えた妻の年に追いついた時の絶望感です。勝手に比較し、自分の未熟さを思い知って苦しみました。」

源田:「同じ職場の結婚っていうのは、そういう事もあるよなあ。年差があるならなおさらだ。」

相沢:「私の被害妄想なのかもしれません。でも、同僚たちから、素敵な奥さんで羨ましい、お似合いですよね――そんな言葉を軽率にかけられる度に、蓄積していくんです。いつも良い評判を聞くのは彼女のことばかり。つまらない劣等感だと分かっているのに、腹の底から消えてくれない。」


源田:(M)そこで彼は一拍、またひときわ深く呼吸を吸った。


相沢:「はっきり言って、ここ数年の夫婦仲はうまくいっていませんでした。そんな中でも、妻はずっと子供を欲しがっていた。それはそうですよね、高齢出産には、リスクが伴う。キャリア的にも、部下が増えて簡単には休めなくなっていくのを感じていたと思います。私の3つ上という事もあって、焦る様子が伝わってきました。可愛らしいお願いは、やがて、悲痛な訴えに変わっていきました。」

源田:「子供か。子供。それはでかい問題だな。」

相沢:「ええ。失礼ですが、お巡りさんはご結婚とか。」

源田:「してねぇなあ。だから大した相槌は打てねえよ。女心ってやつは俺には難しすぎた。」

相沢:「ああ、そうでしたか。無神経なことを聞いてすみません。――ただ、今となってはその選択をすべきだったという思いが襲ってきます。私は家庭の問題から逃げた卑怯者でした。仕事で手一杯だからと言い訳して、彼女の切実さと向き合うのが恐ろしくて、帰宅が遅くなる日が増えました。仕事にやっきになろうとしたところで自分の実力不足に苦しくなるだけなのに――そしてどんなに取りつくろったって、所詮しょせん同じ職場だというのに。妻はずっと苦しんでいました、私に避けられていることに。」

源田:「ああ、そいつはよくねぇなあ。逃げるってのは一時いっときはいいが、

結局その問題が一番大きくなった時に、向き合わなくちゃあいけなくなる。

逃げが最善の時もあるが、諸刃の剣ってやつだ。」

相沢:「全く、その通りです。そして、私の何よりの最低なところは、逃げる事に、他人を巻き込んだことです。同じ部署の後輩に…、手を出してしまった。」


源田:(M) はあ、まったく救いようのないやつだという言葉は、胸の奥にしまっておく。神妙な面持ちで下を向く彼にとって、この話はまだ助走にすぎないのだろう。

それでも、無意識に机を叩いた仕草に不快の念を感じ取ったのか、彼は縮こまった肩をさらに強ばらせた。


相沢:「言わずともわかります。私は本当に最低です。家庭をもつべき人間じゃなかったんです。」

源田:「あー、わりい。でも、それはなあ、ちげえと思うぞ。」

相沢:「すみません、この言い方はずるいですね。私は成長するべき時に成長できなかった人間なんだ。家庭を持ったあとからでも、自分を変えられたなら、それでよかったんです。」


源田:(M)顔を覆って苦しみはじめた姿に、ため息を付きたい気分になった。結局のところ、そんな人間性について懺悔されたって、俺の手に余る。一思いに奥さんを殺してしまったのか、大事なのはそこだ。だが、早合点はやがってんをして追い詰めるのも良くない。


源田:「お前さんの中に反省する心があるなら、これから変わっていけるだろ。まあ、そうもいかねえ事情があるんだろうがなあ。」

相沢:「はい、そうなのです…お巡りさんと話していると、本当に懺悔室にいるような気分になってきますね――やはり、ここに来たのは、巡り合わせだったのかもしれません。」

源田:「んな大層なもんじゃねえさ。ただ、人の悩みを聞くことが案外多いってのは、この仕事の特徴かもなあ。」 

相沢:「そうなのですね。…嫌になることはないのですか。私のような人間が来ることもあるでしょう。」

源田:「そりゃ、時にはどうしようもねえ奴も来るさ。だが、それを更生するのは俺の仕事じゃねえと思ってる。それだけだ。」

相沢:「そのように割り切れるのは、やはり、長年の積み重ねがあるのでしょう。想像でしかありませんが。」

源田:「もう覚えてねぇほど昔の頃は、解決しようとしていたかもしれねえけど。人間、大体途中で気づくもんだぜ、他人の本質ってのは想像するのも馬鹿らしくなるくらい、覆い隠された深いもんだって。

なぜそういう人間たるのか、根幹を知ろうとして、見当違いな所を掘りはじめたら意味がねえ。一手いって間違えたら、根そのものを傷つけることもある。正解を引き続けるよう祈りながら無粋に他所よその土を漁って、挙句の果てに曲がった根を直そうと思うのは、愚か者のすることだって話だ―――ああいや、俺は偉そうに何の話をしてんだ?」

相沢:「いいえ、伝わりましたよ。他人を変えようとすることは、本当に簡単なことではない。自分自身すら、変えることが難しいということは、骨身に染みていますから…。」


源田:(M)そう言うと、彼はまた息を吸って、後悔のにじみ出る息をつく。


相沢:「そして、妻の徒労を思うと。徒労にさせたという事実を省みて、一刻も早く、死にたい気分です。」


源田:(M)その後の彼の語り口は、さらに自嘲的じちょうてきな色を含んでいた。


相沢:「私と後輩の中が深いものになるのに、時間はかかりませんでした。屈託くったくなく笑う彼女の隣にいると、嫌な現実を忘れることができた。嫌な現実と認識している事実さえ、本来許されるべきではないという、罪悪感を塗りつぶすことができた。」

源田:「その子は、にいちゃんが結婚してる、って知ってたのか?」

相沢:「ええ。社内結婚ですから、わざわざ言わずとも周りが勝手に。妻は昔から目を引く存在で、今や管理職の立場ですから。それに、理由もなく指輪を外すこともありませんしね。あの子が妻の下についていた時期もあったと記憶しています。だからこそ、というのでしょうか。彼女は若い自分が、美しい上司の家庭を踏み荒らす悦に浸っていたように思います。」

源田:「それはまあ…背徳は蜜の味ってやっちゃなあ。」

相沢:「お互い罪の意識があるからこそ、自分の意志では、止めることができませんんでした。そうして彼女との関係に身をやつすようになって、2年が立っていました。」

源田:「奥方は、それを知っていたのかい。」

相沢:「おおよそ1年ほど前から、知っていたのだと。今なら、わかります。痛いほどに。地獄のような日々を送っていたのだと、切に感じています。」

源田:「おお?なんだか妙な物言いだな。奥さんの方も浮気したっていうオチか?」

相沢:「違います!そのようなことは決してなかった。妻はこんなことになった今も、私のことを愛してくれている。愛してくれているのです…。だからこそ、この罪はもうそそげない。」


源田:(M)これまでの様子とは不釣り合いなほど、男は声を張り上げた。

いよいよ、事の真相に迫る気配がする。なあ、お前は殺したのか。


源田:「悪かった。それで、奥さんから詰められたのか?」

相沢:「今日が…今日が、結婚記念日だったんです。7年目の。今まで一度も忘れたことはなかったのに、今年は完全に忘れてしまっていた。そして私は、後輩と会っていたのです。出張だと嘘をついて。」


源田:(M)ああ、クズめ。いっそブタ箱に入れ。そんな言葉を押し止める。


源田:「それはまた、修羅場の予感がするなあ。」

相沢:「妻は、後輩のスマホに連絡を寄越してきました。うちの旦那を返してくださいませんかと。うっかり既読をつけてしまった後輩の指は震えていました。起こった事実を理解する間もなく、次は私のスマホが震えました。もうバレているんだと。覚悟を決めて電話を取ると、帰ってきなさい、と。今までに聞いたことのない、冷たい声でした。」

源田:「それで、うちに帰ったんか。」

相沢:「帰るまでの記憶は曖昧です。気がついたら、最寄りの駅に居て。マンションのエレベーターに乗っている間、胃の中のものを何度も押し戻しました。私は何て妻に声をかけたら良い。許してくれと、いつから知っていたと、浮かんできたのは月並みで愚かなものばかり。そして、無常にもエレベーターの扉は開き――共用の廊下に出た瞬間、部屋の前に立つ妻の姿が見えました。」

源田:「…。なんて声をかけたんだ?」

相沢:「顔を見るのも恐ろしくて。ただ妻の前に走り込み、頭を地面にこすり付けていました。何も言う事はできませんでした。胃の中から渦巻くものをせき止めるのでいっぱいいっぱいで。そんな様子の私を見下ろして、妻は一言だけ――私の苦しみを知って、と。その瞬間、なにか冷たいものが首筋から頭に流れていきました。」


源田:(M)閃光せんこうとともに、雷鳴らいめいとどろいた。

いつの間にか外は豪雨で、男の声をかき消さんばかりに暴れ回っている。

それに抗うように、そして絞り出すように、独白は続く。


相沢:「何をされたと理解する前に、私の身には妻の感情が流れ込んでました。あの瞬間、そして今も続くこの感覚を、他にどう表現したら良いか分かりません―雨のように、一つ一つの哀しみが、憎しみが、愛情が、失望が。衣服を貫きつらぬき、皮膚から潜りもぐり込み、臓器を冷たく握りつぶすように。私に背を向けられた時のこと、裏切りを知った時のこと、鮮烈な痛みが頭と体を覆っておおって離れていかない。これは、私が逃げ続けた期間の全てなのだと、悟りました。」


源田:(M)こいつは、何を言っている?人の感情が流れてくる?

そんな馬鹿げた話があるだろうか。

だが、一人真冬の中に居るような異様な雰囲気に、妙に納得する自分がいる。

こいつの精神も肉体も、驚くほど冷え切っているその、理由。

だが、だが――想定外の言葉に呆然とする私に、男はずっと下に向けていた視線を上げる。

こいつの目は、こんなにも落ちくぼんでいただろうか?


源田:「おい…それはどういう…」

相沢:「私は耐えられず、その場から走り去りました。妻に謝るよりも先に、また逃げたのです。それほどまでに、凝縮された心の叫びは重すぎました。だれか、この冷気を洗い流してくれ、この暗澹あんたんを薄めてくれ。がむしゃらに走って走って、走って、どれだけ雨に打たれても、景色が映りかわる度に声と痛みが追いかけてくる。許さない、どうして。愛してる。あなたと過ごした公園、一緒に飲んだコーヒー、買い物をしたスーパー、全てが憎い。憎い。苦しい、助けてと…」


源田:「その声が、今も、聞こえているのか。」


相沢:「今は―今も。少し静かですが。そしてお巡りさん、あなたについての思い出もあるんだ。いつだったか、家出したと思われる少年を優しく諭していたお巡りさん、あなたについて、素敵な人だねと語った日があった。そのかすかな残像が、私の足をここに運ばせた。」

源田:「待ってくれ。そいつは光栄なことだが。なあ。俺にはあんたの言っていることが理解できないし、縋られてもどうしようもできねえよ。」

相沢:「そんなことはありませんよ。貴方は他の人と同様に、平等に、私の話を聞いてくれた。もう息も続かず、このまま車の前に飛び出してしまおうと考えていたときに、ここの灯りが見えたのです。最後のよすがに思えました。誰かに、貴方に、話をしたい、この後悔を吐き出したいと…今ならわかります。妻の声も言っている。ここは、別れと告解こっかいをする場所だったのです。もう妻の前に現れることすら許されない私は、首の皮一枚、情けをかけられて、幸運にもここへ連れてこられた。」


源田:(M)そう言うと、男はへらりと笑う。下手くそで、陰気で、それでいて。

すべてを諦め悟ったような、歪んだ形を描いていた。


源田:「なあ、お前に聞こえる声ってのはわからねえが。まだ道はねえのか?お互いに言いたいことを言って、またやり直すってことだってなくはないだろう。奥方と、面と向かって話してみたほうが良いんじゃねえか。」

相沢:「ああ、温かい言葉だ。いっそ無責任なほどにね。もう、無理なのです。妻の心は愛憎に冷えきり、私の心も同じに凍えてしまった。今更元通りになんてなれるでしょうか。いいえ。これが全うで、あるべき結末です。今一つわかる妻の望み。

それは、私が消えることです。そうだろう。」


源田(M):そう言うと、男は立ち上がった。

相変わらず震える体を、細腕で力強く抱きしめる。


相沢:「この雨は、私の罪を洗い流してはくれません。ただ、これ以上の苦しみを、断ち切るために迎えに来たのです。」


源田(M):嫌な予感がする。

いまこの瞬間、この男を行かせてしまったら。取り返しがつかなくなるという予感。だが、つなぎとめるための言葉を俺は持たない。

俺は、話を聞き、枝葉を理解し、ただ慰めるだけの――ただの、人間なのだから。


相沢:「最期にあなたと話せてよかった。私は、懺悔に消えます。それでは。」


源田(M):喉を震わせる前に、交番の外へ、影が躍り出る。

本能的に飛び出す。かけるべき言葉は分からずとも。

跳ね返るほど強い雨粒が、視界を覆う。雷光で目がくらむ。

届かない予感とともに、一度だけ声を張り上げる。


源田:「…おい、待ってくれ!」


源田(M):そうして、彼は雨に消えた。

その後どうなったのかは――およそ知らない。


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鬼雨(2:0:0) Si @spineless_black

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