夕暮れの瀬にはお別れを

倉住霜秋

思い出の墓場

生きていれば、別れというのは付きまとってくる。

それは、死別であるかもしれないし、あっけないものかもしれない。はたまた、思い出のある建物や私物であるかもしれない。

【正しい別れ】というものはどんなものだろうか。例えば、祖父との別れであれば病院で、家族に囲まれた場所で静かに息を引き取ることができれば、正しい別れだと言えるのだろうか。きっと、それは一つの正解だと思う。

だけど、世の中に納得のできる正しい別れがどれほど存在しているのだろうか。ほとんどの別れは納得なんてできないものばかりだ。後悔のない別れなんて存在しえないんだろうか。


これは青年の話だ。半ば都市伝説のように語られてきた話だが、実際にある話だ。もし、君の心が若いのであれば、警句としてこの話を聞いてほしい。これは、君の身にも起こりえる話でもあるから。君の心が育ちきっているならば、安心してこの話を聞いてみてほしい。


たとえば、十七歳の彼は学校から帰る途中、夕暮れの踏切で待ってるとき、考え事をしていた。多感な時期でもある彼は、一週間前に祖父が亡くなってしまい、塞ぎこみそうになっている。


考えるのは祖父の死体のことだった。豪快で快闊な祖父が、冷たい置物のように棺桶に収まっているのが、頭に残っている。頬を触ると固いゴムのようになっていた。


カンカンカンカン。


踏切の音がうるさい。

後ろで並ぶ学生の三人が大声で笑う。甲高い笑い声。うるさい。

レールの上を走る列車の音が聞こえる。うるさい。


彼は耳を閉じて叫ぼうとする。


列車、夕暮れ、多感な青年。


それが鍵となった。彼が目を閉じて叫んだ瞬間、自分の声以外が聞こえなくなる。青年が目を開けたとき、辺りはオレンジ色に包まれた場所にいた。周りの建物が無くなっている。踏切もない。しかし、先ほどまで列車が走っていたレールが一本だけある。


ちょうど、家に帰りたい気分でもなかったので、青年はちょうどいいと思った。


道しるべもないのでレールの上を歩こうと決める。太陽が沈む方角に歩いていく。彼が、この夕陽がこれ以上沈まないと気が付くのは一つ目の建物に着くころだった。


そこは思い出が流れつく場所だ。どこにも行けない、夕暮れの墓場。

都市伝説ではそういう題名がつけられている。


青年はその都市伝説を聞いたことがなかったが、そこが思い出が流れつく場所だとわかっていた。


夕暮れの光は温かく、ずっと浴びていたいような気持ちになる。しかし、この都市伝説を知ってる人間ならば、その温かさを恐れる。肌をできるだけ露出させないようにして、速くこの場所から抜け出さないとと考える。


なぜなら、そのオレンジ色の光は体を侵食していくからだ。光を浴びすぎた人間は体が透けていき、体の部位が無くなってくる。自分の顔を忘れたとき、この場所から帰れなくなってしまうのだ。


この光を浴びていればほとんどの欲求は満たされる。

空腹にもならないし、眠くもならない。そこには時間が流れていないらしい。


しかし、浴びれば浴びるほどその温かさの虜になり、戻ることは困難になる。それをここに来た人間は感覚として理解する。だから、ここに来た人間は大抵は帰る方法を探し始めるのだ。


しかし、時たまに青年のように帰る方法を探そうとせずにそこで死んでしまおうとする人間も現れる。それも無理のない話だ。なぜなら、ここは現実世界で失ってしまった、大切なものばかりあるからだ。


夕暮れの線路を歩き続けると、遠くに建物が見えてくる。レールのそばにあるようなので、青年はそれを目指して歩き続ける。学ランを線路の脇に投げ捨てて、ワイシャツを肘まで捲る。


その建物は廃墟であった。平屋の建物で、窓ガラスが割れ、ツタが白い壁を覆いつくすほど伸びている。塀には動物の絵が描かれており、それが年月が経ってくすんだ色になっている。


そこはかつて青年が通っていた保育園であった。錆びついた門には鍵が掛かってなかった。子供の頃には走り回っていた庭は、何もかもが十七歳の彼には小さく感じた。小さい頃はここを走り回っていた。当時見ていた場所と今いる場所が同じ場所だとは到底思えなかった。


遊具としてあったコンクリートの中を覗くと小さな男の子がいた。色素の薄い茶色の髪の毛が目にかかるほど長く、透明になりかかっていて透けている。小さく膝を抱えて座り込んでいた。


「何しているの?」


「お母さんを待ってるの。」


青年はきっとここに迎えは来ないだろうと思った。園内には他に人影はない。いや、この場所だけでなく、この夕暮れの中に人はいないと感じる。だから、きっとこの子の親も来ない。


「どのくらい待ってるの?」


「ずっと。」


そっか。と青年は言う。子供の声は少し泣きそうに上擦っている

青年にはどうすることもできないと思い、その場所を去ろうと思う。


「お母さん、はやく来るといいね。」


青年は再び保育園を見渡す。楽し気な声が聞こえてこないそこは、まるで死んだように見えた。思い出が流れつく場所、ここは過ぎ去った思い出の抜け殻があるだけのようだ。彼はそれ以上そこにいたくないと感じた。


門をでて、保育園のほうを振り返る。青年は二度とこの場所を訪れることはないだろうと思った。ならば、この瞬間が最後のお別れを言う瞬間だと考える。


「お世話になりました。さようなら。」


頭を深く下げて、心を込めて別れを言う。

青年は心でなにか区切りのようなものが付いたように感じた。


頭を上げると、そこに保育園は無くなっていた。そこに残っていたのは少年だけであった。


青年は不思議に思った。少年はこの保育園の思い出の一つで、独立して存在できると思えなかったのだ。


このままレールを進んでいこうと思っているが、彼を一人置いていくのは忍びないと感じた。青年はレールの上に立ち、少年は跡地に立って彼のほうを見ていた。


「俺についてくるか?」


「いいの?」


もちろんだ。青年は少年と手をつないで再び歩き始めた。

夕暮れにどこまでも続くレールの上を、二人の影が伸びていく。


少年の顔はほとんど透けていて、口だけがうっすらと見える。青年の歩幅が大きい様で、少し歩くと青年の握る手が後方へと流れていく。青年はそれをかわいく思う。


「お母さんを待ってなくていいのか。」


「うん。実は今日はあんまり帰りたくないんだ。」


「なら、俺と一緒だな。」


「お兄さんも帰りたくないの?」


「そうだ。なんだか寂しくてな。」


「寂しいのに帰りたくないの?」


「なんでだろうな。君はどうしてだ?」


「僕も同じかもしれない。」


少年の繋ぐ手に力が入る。青年はそれを強く握り返す。

ここは行き場のないものが流れつく場所なのだろう。


「お兄さんはどうしてさっき、ごめんなさいってやってたの?」


「謝っていたわけではないよ。お別れをしていたんだ。」


「おわかれ。」と言って少年は難しい顔をしていた。


「まだわからなくていいよ。でも、いつかはそれを知らなきゃいけない時が来るよ。その時、後悔のないようにしなきゃいけないんだ。」


少年はまだ子供で、出会いばかりで別れが少ない。これから世界は広がっていき、そのたびに別れを繰り返していくことだろう。青年もまだまだこれから別れが増えていく、彼はそれに気が付いたのだ。だから、前に進むことを躊躇っていて、どこにも行けなくなっている。


「そうか。」青年は気が付く。「別れは普遍的で必ず来るものだから、嫌だと思ったのか。」


そして、隣にいる少年を見て思う。彼はこれから来る別れに耐えることができるだろうか。こんな小さくてかわいい手に、抱えきれない悲しい別れを受け入れていくことができるのだろうかと。


夕暮れはどこか煤けた匂いがして、青年は胸が締め付けられるような切なさに襲われる。このレールはどこへ自分たちを連れて行くんだろうと。


「見て。」と少年がレールの先を指をさす。


そこには、建物ではなく一つの机があった。近づくと、それは青年が昔使っていた学習机だった。その上に一つの封筒があった。青年にはその封筒に見覚えがあった。


「そういえば、こんなものも書いたことあったな。」


少年が封筒を持ち、色々な角度から眺める。そして、それを青年に渡し、


「これなに?」


「これは俺の書いた遺書だ。」


「いしょ?」


「そうだ。死ぬ人間が生きる人間に残す最後の手紙だ。」


「お兄さん死んじゃいたいの?」


「そうなのかもしれないな。」


「死んじゃだめだよ。」


青年は封筒を開けて、中の手紙を読む。

その時の苦しくて、どうしようもない感情が乗った文字を読む青年の目には、涙が溜まっていく。少年が膝にしがみついてきて、青年を慰めようとする。青年は次第にむせび泣く声が大きくなってきて、膝から崩れ落ちる。


「そうだよな。死んじゃだめだよな。」


「泣かないでお兄さん。」


少年は低くなった青年の頭を撫でる。青年は自分でもわからなくなるぐらいに涙が溢れて止まらなくなっていた。


「ごめんな、ごめんな。頑張って生きるからさ、俺生きてるから。」


青年の握る手紙はクシャクシャに握りこまれている。叫ぶように泣き、その声はレールの先にある夕陽に吸い込まれていくように消えていく。


「大人のお兄さんも泣くんだ。」


「ごめんな。君は死のうとなんてしないでくれよ。」


「わかった。」少年は元気に返事をした。


顔は見えなかったが青年には笑顔の顔が見えた気がした。

その声を聞くと青年の涙は少しずつ引いていった。手の中にあった遺書はいつの間にか、消えてなくなっていた。


行こうよと少年が手を引く。青年は立ち上がり、再びレールを進み始める。


少年はその栗毛色の髪の毛を揺らしながら歩く。夕陽が彼の髪に当たって、それは金色に輝いている。青年はこの子がずっとわらって生きられたらいいのにと思う。


静かで優しい時間がそこには流れていた。レールを歩く二人の足音と、ぬるい風が心地よくて、青年は先ほど泣いて腫れた目を細めた。


青年は自分の手が少し透けてきていることに気が付く。


「光浴びすぎちゃったんだね。」


「俺は消えてしまうのか。」


「消えはしないよ。ただ自分の顔を忘れて、ここから出られなくなっちゃんだ。」


「そうなのか。それなら君も出られなくなったんだね。」


「ううん。僕はたぶん置いて行かれたんだ。」


「置いてかれた?」青年は少年の顔を覗く。「お母さんにか?」


少年は首を横に振る。


「わかんない。でも、僕はきっと捨てられたんだ。」


「今は誰に会いたい?」


「じいじ。」少年は俯きながら答える。


その答えに青年の胸は締め付けられる。ここが思い出の墓場だというのならば、祖父もここにいるのだろうかと。


「俺もじいちゃんに会いたいよ。最後に会って、お別れがしたい。」


「じいじともお別れしないとだめなの?」


「そうだ。しないといけない。『さようなら。今までありがとう』って言わないといけないと思う。どんなに身近な人でも、別れが来るんだ。出会ったなら、別れがあるんだ。生まれた瞬間から、僕らは死に近づき始めるんだ。」


「僕死にたくないよ。」


「でも、生きてるだろ。いいか、生と死は正反対のものじゃないんだ。死ぬって言うのは、生きることの最後なんだ。つまり、死ぬって言うのは生きるに含まれているんだ。だから、今生きてるならいつかは死ななきゃならない。ずっと先のことだとしてもね。」


「僕嫌だよ。」


「俺だって嫌だよ。だけど、受け入れないでお別れできないのはもっと嫌なんだ。納得なんてしなくていいんだ。ただ、受け入れなきゃ前に進めないんだ。」


少年は泣き始める。きっと、青年の言葉を受け止めるにはまだ幼すぎたのだろう。少年は歩きを止めて、顔をぐしゃぐしゃにして泣く。青年はその小さな透明な肩を寄せて、力強く抱きしめる。


二人に暖かで寂しい夕日が降り注いでいる。青年のいる場所は別れしかないところだ。だから、ここに涙はいくらでもあってもいいのだ。


「あぁ、そうか。」青年が言う。「今までの涙もきっとここに流れ着いていたんだな。」


少年は一人で立ち上がり、夕陽のほうに向かって歩き始める。青年は少し遅れてそれを追う。二人はそのまま黙って歩き続ける。


すると、レールの先、夕陽の中からまた影が現れる。それはだんだんと近づいてきて、やがてその建物が見えてくる。


「じいじの家だ!」


すっかり泣き止んだ少年が走り出す。

それを見た青年は困惑する。


「なんで、」夕陽のほうにある少年の背中を見て、気が付く。「そうだったのか。」


建物の庭には人影があった。その人影に少年は飛びつく。


その飛びついた人影を見て、青年は涙が再び溢れ出す。


「じいちゃん!」


青年は叫ぶ。しかし、その声はどうやら青年の祖父には聞こえてないらしい。

青年は理解する。


「あぁ、そうだったんだな。君は俺だったんだな。」


少年は祖父に会えてうれしそうに笑い声を上げる。そして、青年の姿も声ももう見えていないらしい。


青年の目には、死体となってしまったはずの祖父が少年を抱きかかえて笑っている。青年は必死に叫ぶがその声は二人には届かない。


「なんだよ。この場所ぐらい話をさせてくれよ。」


でも青年はこの場所に感謝した。それは、お世話になった人の最後にしなければならないことをできると思ったからだ。青年が祖父に最後にできなかったことができるともったからだ。


青年はレールの上から精一杯の気持ちを込めて叫ぶ。


「じいちゃん!今までありがとう。俺頑張って生きるよ、見守っててな!」


それを言うと、青年は泣き崩れる。

次の瞬間、祖父の家が消え始める。しかし、青年は満足している。

青年の聞こえないはずの声に最後に祖父が少し振り向いたような気がした。


青年はそれだけで満足だった。

家が消え、少年も何もかも消えてしまった。


さて、青年は【正しい別れ】ができたのだろうか。

きっと、それがわかるのは時間が流れて青年がまた立ち止まった時だろう。


透けた肌の青年は学ランを取りに夕陽に背を向けて歩き始めた。

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