第19話

 荒ぶる獣は大地を、森を揺るがす。

 ウィリアムはディノトログロフの攻撃を躱しながら、隙を見てそのナイフを突き立てようと試みるが、その隙が見当たらず四苦八苦していた。

 ゲームのような回避はできず、敵の攻撃をいなす技量もない彼には、ディノトログロフの攻撃が届かぬ距離でなんとか回避するしかない。

 恐怖はある。だが、それでも決意が勝った。

「うぉおおおおお!!!」

 溢れ出る脳内麻薬に身を任せ飛び出す。腕をすり抜け、逆手に持ったナイフを力任せに振り下ろす。

 首元を狙った一撃。そして、鋭いナイフの切っ先がディノトログロフの首筋に突き刺さった。

 しかし、肉を切る感触はなく、代わりに金属の爆ぜる音が森に響く。

 世界が静止した。そんな感覚。

 瞬間、彼の視界は加速し、体は宙を舞った。

 全身に走る痛みに意識が遠のくのを感じた。かの暴君の一撃を受けたと知ったのは彼の身体がゴミのように地べたを転げ落ちた後だった。

「ぐ……ぁ、がぁ……」

 傷のついた内臓から溢れた血液を口から吐き出す。

 呼吸もままならぬほどの致命傷。

 死ぬ。

 死ぬ。

「あぁあああああああ!!!」

 わかっていたことだ。

 勝てるはずのない戦い。死神が軽い笑い声をあげて、腹を抱えている。

 彼は勇者などではない。冒険者の命なんてものはいつだって簡単に零れ落ちるものなのだ。

 ウィリアムは地面を叩く。何度も、何度も、何度も何度も何度も。

「死にたく、ない……。母さん、父さん、兄ちゃん、イレイナ……ごめん、ごめんよ、ごめんよぉ……」

 なんとも情けない声で鳴き始め、土の上で転がる。

 このまま戦っても死ぬだろう。逃げようとも結果は変わらぬと自分を奮い立たせたが、そんな決意が死の恐怖を塗り替えるものになるわけがなかったのだ。

「なんでだよぉ、もう一回生きていいって、そう言ったじゃんかよ……神様ァ……」

 遠くから木々を薙ぐ音が聞こえてくる。

 絶望がこちらに向かっている。

 齢十年。短すぎる人生だが、本来ならば既に終わっている人生だ。

「そうだよなぁ、贅沢だよ、ほんと……」

 諦めたような声。達観したかのような乾いた笑い。

 気が付けば、ディノトログロフは目の前に立っていた。

 ディノトログロフが拳を振り上げる。

 スローモーションのようにゆったりとあげられたその拳を見上げるウィリアム。その目には既に光はない。

 彼が目を閉じると、かつての家族の顔が思い浮かんだ。

 突如、彼が死んで、家族たちは何を思っただろうか。きっととても悲しい思いをしただろう。

 嗚呼、またそんな思いを今度は今の家族にさせるのだろう。

 彼の唇に一匹の蝿が停まった。


 ディノトログロフの拳が地面を抉る音が鳴り響いた。


 諦めたはずの命。だが、体は命を諦めてなどいなかった。

 死んでもいいと思っていた。だが、生きたいと思ってしまった。

 それは原初の願いであり、命の本懐。故に体は軽く、信じられないほどに力が漲ってくる。

 彼は土煙の中で何かを吐き出す。血液交じりのソレは蝿の頭だった。

「―――まっず」

 口に着いた血を拭い、彼は冷たい瞳で自身の敵を睨み付けた。

 魔力を練りあげる。呼吸の度に胸が痛む。

 きっと、肋骨が折れているのだろう。無理をすれば肺に折れた肋骨が突き刺さるだろう。

 だが、それは彼にとっては然したる問題ではない。

 神に祈れば救われる世界などない。

 自分の命は自分で掴み取るしかないのだ。例え、ソレが誰かの命の上にしかないものだとしても……。

 ディノトログロフは再び彼に襲い掛かる。

「ファイアボルト」

 一瞬。小さな火花が明滅する。魔力を抑えた下級魔法は閃光となり、大地の暴君の目を焼いた。

 すかさず、ウィリアムは駆けだし、苦しむ暴君の懐へと潜り込む。

「燃えよ、燃えよ、燃えよ。烈火よ、我が敵を滅せよ!」

 呪文の詠唱。本来、自らの魔力のみで行使する術式を、精霊に呼びかけることによって、魔術の質を高めることができる。

「ファイアボルト!!」

 彼の打ち出せる最大威力の炎の矢。

 しかし、その一撃は大地の暴君に致命傷を与えるには至らなかった。

 痛みに体勢を崩すディノトログロフだが、このままでは止めを刺す前にウィリアムの魔力が尽きるだろう。

 ならばとウィリアムは再び詠唱を始める。

「凍てつく矢よ、我が敵に停滞を!」

 ディノトログロフが体勢を立て直す前に、この戦いを終わらせなければ今度こそウィリアムの命はないだろう。

『ディノトログロフは臀部が冷えるのを嫌う』

 師匠の言葉を思い出し、狙いを定める。

「アイスボルト!」

 小さな氷塊が爆ぜるとディノトログロフの臀部が凍り付く。だが、威力は依然として足りていなかった。

 詠唱を伴う魔法を、しかも二回連続で使った影響か、急激にだる気が襲ってくる。

 思考を止めてはいけない。

 ディノトログロフは土煙を上げて暴れている。

 今すぐにでも息の根を止めねば、勝機は失われるだろう。それだけは避けねばならない。

 付与魔法エンチャントを使うなら今しかない。しかし、そのための武器は先ほど壊れてしまった。

 ディノトログロフは息を荒げつつ、体勢を立て直し、ウィリアムを睨み付ける。

 ウィリアムは大きく息を吐くと、神父から預かったロザリオを外す。それを右腕に巻き付け、ロザリオを強く握りしめた。

「付与魔法、モードアイス!」

 全魔力を右腕に集中させると、腕の先から氷点下を越える冷気が溢れ出し、その腕が徐々に凍りつく。

 ともすれば腕が壊死するほどの冷気。皮膚は急激な温度差によって罅が入り、その氷には血液が混じる。

 魔力消費と急激な温度変化で意識が朦朧とする。

 しかし、この方法以外に今彼が思いつく手段はなかった。

 まさに決死の攻撃。その気迫にディノトログロフは何かを感じたのか、徐々に先ほどまでの表情を失っていく。

 野性の勘が、ウィリアムの気迫に負けたのか。否、彼の背負う気迫があまりにも強大過ぎたのだろう。

 ディノトログロフは怯えともとれる表情で、その小さな脅威にたじろぎ、ついには逃げ出した。

 しかし、ウィリアムは毛頭より逃がすつもりはない。

 天命は、かの暴君を殺害せよと命じたのだ。それならば、選択肢などありようもない。

 駆ける足に意思はあるのだろうか?

 ウィリアムは、実家での出来事を思い返していた。

 初めて、生き物の命を奪ったのは五歳の時だった。家族のように大事にしてきた牛を、屠殺した時の感触や感情は今でも思い出せる。

 震える手で、拘束されたエミリーの首に斧を振り下ろした。父は男の儀式だと言い、兄はいつかは通る道だと彼を慰めた。

 村が生きる為だと、これも自然の一部だと受け入れた。

 今もまた彼は生きる為に目の前の猛獣に襲い掛かる。だが、あの日と今では一つだけ違うことがある。

 今、このディノトログロフを殺すのは、彼の殺意エゴだ。

 食べるわけに殺すのではなく、自分が生きる為に殺すのだ。

 ウィリアムは拳を振りかぶる。

「――アイスボルト」

 殺意に満ちた瞳で彼は魔法を唱える。

 凍てついた拳を打ち込むように彼の魔法が、拳が、ディノトログロフの身体を貫く。

「アイスボルト! アイスボルトォオオオ!!」

 体内で放たれた魔法は内臓を凍てつかせ、ディノトログロフの命をも凍りつかせた。

 その手は赤く染まり、彼の心にはどす黒い何かが残った……。

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