第5話 あの日の出来事
※※※
あの日、店に入ってきた彼女を見て、可愛らしい、でも地味な子だな、と
疲れていたのは本当だったらしく、
「私、いつも友達に彼氏寝取られるんです。つい最近も寝取られて絶交中なの」
「あら、修羅場の話?」
魚は修羅場の話は大好きだ。
しかし、続いたのは修羅場の話では無かった。
「私ね、
「うん?」
意味の分からない話をされて、思わず首を傾げた。
「千遥ちゃんは私の彼氏を寝取った後、必ず甘やかしてくるんです。いっぱいキスしてくれたり。それが癖になっちゃって。だから彼氏をを作って、千遥ちゃんにわざと寝取らせるんです」
どうやら、修羅場の話ではなくヤバい癖の話らしい。
「でも、今回は絶交って言っちゃって。引くに引けなくなって、まだ甘やかしてもらってないの。どうすればいい?こっちが折れるのは違うと思うし」
「どうって言われてもねえ」
魚は苦笑した。随分我儘なメンヘラ案件だったようだ。
「素直に甘やかしてって言えば?」
「嫌」
「じゃ、また彼氏作って寝取らせたら?」
「また?」
「まあ彼氏作るまで行かなくても、ワンナイトくらいなら?」
魚は適当に提案した。すると由佳は目を輝かせた。
「そっか!それだ。じゃあ魚さん、今日私を抱いてよ」
「酔っ払いは変な事言わないでねー」
魚はあしらう。バーをやっていれば、下ネタや誘いを受けることは珍しくない。まあ、女のコからっていうのは珍しいが。
「なんでー」
由佳は駄々をこねる。そして呟くように言った。
「キスだけでいいから。甘やかしてよぅ」
酔いが限界なのか俯せてしまった由佳を、完全に寝てしまう前に仮眠室に連れて行こうと、魚はカウンターから出た。そして由佳の体を起こした。
「そろそろ寝ようね」
子供に言い聞かせるように優しく言った時だった。
由佳は起き上がると、勢いよく魚の顔を引き寄せ、口づけた。
生きの良い金魚が水槽から跳ねる音がした。
「捕まえた。魚さんの唇」
先程まで子供のようだと思っていた。それが今や、薄暗い水槽に幻想的に泳ぐ魅惑的な金魚だ。
魚は興味が湧いた。女のコを抱いたことなんて無い。修羅場に巻き込まれるなんてもってのほかだ。なのに。
「じゃ、いいよ。おいで」
引き寄せられるように、魚は由佳を抱きしめ、首筋に口づけた。首筋に赤い和金が泳いた。
由佳はクスクス笑う。
魚は由佳を仮眠室へ連れて行った。
キスだけ。そう思っていたのに、彼女のうっとりとした表情に、さらに次へと進みたくなる。首筋、鎖骨、そして少し服を開いて……だんだんキスするところが増えていく。由佳は楽しそうに笑っている。
はっと魚は我に返って由佳から体を放した。真っ裸になっている由佳は、気持ちよさそうに寝ていた。
慌てて布団をかけて仮眠室をでた。
大丈夫、何もしていない。キスしかしていない。
魚は何度もそう言い聞かせた。
次の日、由佳は何も覚えていないようだった。
魚はホッとした。ホッとして、普通に対応できた。
「また来ます」
そう由佳が言った時、魚はドキリとした。
また来てほしいような、来てほしくないような。妙な気持ちになった。
来るなら千遥ちゃんと仲直りして一緒にきてよ。
もし一人で来ちゃったら……。そうしたらこの夜の事をぶちまけてあげる。
そう思いながら、あの日、魚は金魚のような由佳を見送ったのだった。
唇の中で泳ぐ金魚 りりぃこ @ririiko
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