私とあの子の神様

伊予葛

ㅤ私は〇〇の味方です。と言っている人間は、大抵が敵である。というのが私の自論だ。だから、目の前の少女が「私は貴女の味方だよ」と微笑むのを、私はうそ寒い気持ちで見つめていた。そもそも、人を突き落としておいて言う言葉ではない。濁流に押し流される体は冷えていく。

ㅤ不意に右手を握られた。川の水よりもいっそう冷えた手のひらは、私の手を掴んで離さない。鱗に覆われた手の甲が、頬を撫でる。ザラザラとした心地に身を引きそうになる。引き上げるように伸ばされた手に引きずり込まれ、水を含んだ体は水底へと沈んでいく。

「私が助けてあげる」

ㅤあの子が焦がれる"竜の神様"は、二股に裂けた赤い舌を伸ばして笑った。


「ね、聞いて。神様に会っちゃった」

ㅤ胸元で手を組み、きゃらきゃらと笑う少女。ドーナツショップでカフェオレを啜りながら、またどんな与太話をと耳を傾ける。彼女の冒険譚を聞くルーチンワークが、私は嫌いではなかった。頬を上気させ、目の前のドーナツのことも忘れた様子で身を乗り出す彼女。

「山のところの神社、知ってるでしょ?」

ㅤ頷く。山のところの神社、とは、あそこのことだろう。国道に出るときによく鳥居を見かける。歩いて行くにはいささか遠いが、彼女の好奇心の前にはそんなことはささいな問題なのかもしれない。高校生である私達は当然免許なんか持っていないし、彼女は自転車に乗るのが壊滅的に下手である。ちょっとした段差に引っかかって横転する姿に驚いて横から絆創膏を差し出す。そんなことを何度か繰り返した結果、「もう歩きなよ」と私が言った。それから彼女はどこへ行くにも徒歩になったのだ。律儀なものだと思う。

「あそこにね、行ってみたんだけど」

「なんにもないでしょ?」

ㅤ廃神社だと聞いたことがある。事実、打ち捨てられた境内は、ろくに手入れもされず煤けている。時折肝試しスポットに使われているらしい。バチあたりなことだ。

「いたんだよ。神様が」

「ふぅん」

「髪の長い女の子だったの」

ㅤそれは、ただの髪の長い女の子なのでは? 何をもってして神様などと言っているのだろうか。カフェオレのおかわりを貰うために立ち上がろうとした私の手を、彼女が掴んだ。

「帰んないでよ」

「帰らないよ」

ㅤ胡散臭い話をしているといえども友人だ。急に帰ったりなどはしない。非難するような目に晒され、おかわりは諦めて座り直す。

「で、どこらへんを見て神様だと?」

「言ってた」

「自分で?」

ㅤ頷き、ようやく目の前のドーナツに手を伸ばす彼女。粉砂糖の沢山かかったそれを器用に口に運ぶ。

「迎えに来たんだって」

「誰を?」

「私を」

「なんで」

ㅤはて、と彼女は首を傾げる。喜びが先にきて、深く考えることをしなかったらしい。危機意識というものが無いのだろうか。無いのだろうな。この子はこういうところがある。初対面で迎えに来た、などと、どう考えても誘拐犯の物言いだ。しかし運命や奇跡などというものに目が無い彼女のことだ。例えハーメルンの笛吹き相手でも目を輝かせてついていくことだろう。

「ついていかなかったんだ」

「まだなんだって」

ㅤ準備ができたら迎えに来ると言って消えたという神様のことを、しばらく彼女は語り続けた。喜色の滲んだ声音にきらきら弾ける瞳。いやな目だな、と思った。鏡の向こうに何度も見ている、この子に会いに行く日の私の瞳だ。こんなこと、気が付かない方がよかったのに。何度か見たことのあるその瞳の向かう先が、今度は神様だなんて。どうやって戦えというのだろうか。好きな子の弾んだ声に滲む恋心に気付かないほど、愚鈍ではない。

「竜の神様なんだって」

ㅤ今度こそおかわりを貰いに行くために立ち上がった私に向かって、彼女はそう言った。


ㅤ好きになったきっかけなんてささいなことだ。彼女は毎年私の誕生日に花をくれる。メッセージカードを添えて。カードに書かれているのは、私へのメッセージではなく花の育てかただ。昔言った、植物はなんだって枯らしてしまうんだよね、というセリフを覚えているらしい。毎回丁寧に手入れの方法をイラスト付きで書いてくれた。きらきらのペンで書かれたそれが、嬉しかった。それだけのこと。彼女から貰った花は、枯らしたことがない。

ㅤところで、鳥居の横に派手なオレンジ色の自転車が停めてあるのを見たことがあるだろうか。あれは私のものだ。兄から譲り受けたカゴの曲がった自転車は、紛れもなく私のもので、つまり、私はあの廃神社に参拝している。より詳しく言うなら、週に二回通っている。あの子は勘違いしていたが、あるいは勘違いではなくそう名乗られたのかもしれないが、この社に住まう神は、竜神ではない。蛇神だ。なぜ知っているのか。本殿を開けて中を見たことがあるからだ。もっとも、本当に住んでいるなんて思っていなかったけれど。興味本位で押したら開いてしまった扉に、恐る恐る中を覗いた。本殿の中にはぽつんと蛇の木像が置いてあった。奉られていたというよりは、置いてあったと言うのが相応しい様相だった。

ㅤあの子が話していたのがもし仮に本物の神様だったとして、毎週訪れる私の目の前には現れず彼女の前にだけ姿を現すなんてこと、あるだろうか。不純な動機を抱えた私は信仰心に問題ありと見なされたのだろうか。本殿の中にはスニーカーの跡がいくつかあったから、バチあたり者は私だけではない。

ㅤ神様に会いたいわけではない。町中の沢山の人で賑わっている神社には、足を踏み入れ難い。去年の夏祭りにあの子と行ったきりだ。綺麗に磨かれた静謐な境内で祈るには後ろめたさが先に来る、あまりにもあんまりなお願いごとを、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。誰に見向きもされなくなったここでなら、囁いても許される気がした。祈ったわけでも、願ったわけでもなかった。

ㅤあの子の心が欲しいのです。

ㅤいつものように賽銭箱の前で手を合わせてから振り返る。辺りは薄暗く、雲行きが怪しい。早く帰った方がいいかもしれない。階段を降りかけて、中ほどに誰かが居るのが見えた。こちらとは逆で、登ってきている。珍しい。あの子が来たことからも、誰も来ないということはないのだろうが、今までここで誰かとすれ違ったことは無い。ゆったりと階段を登ってきた少女は、私の二段下まで来ると、歩みを止めた。邪魔だっただろうか。避けようとすると、俯いていた少女が顔を上げた。

ㅤあ、神様だ。と思った。

ㅤ冷たい風を受けて靡く長い黒髪に、黄みがかった瞳。柘榴のように赤い唇。身にまとった清廉な雰囲気。あの子が言い連ねていた感想に、見事に当てはまった少女がそこには居た。

「こんにちは」

ㅤにこりと少女は微笑む。嫌な予感がした。会釈を返し横を通り抜けようとすると、腕を掴まれた。

「ね、お話しましょう」

ㅤ腕を引っ張って階段を登ろうとする少女。なんなんだと思うが、離してくれそうにもないので、ついていくことにした。

ㅤ神社の中に戻った私は、手を引かれるまま、桜の木を囲む岩に座った。隣で上機嫌に鼻歌を歌い始めた少女に話しかける。

「あなたは誰?」

ㅤ神様という答えが返ってくることを予想していたのだが、そうではなかった。

「貴女の味方」

ㅤ何を言っているのだろうか。やはり怪しい人なのかもしれない。立ち上がろうとしたところで、つと、右手が握られた。帰らせてはくれないらしい。味方と言うのだから、害意は無いのだろう。無いといいが。

「……ありがとう」

「どういたしまして」

ㅤ口元を隠して嬉しそうに笑う少女。こう見ると、幾分か年下のようにも見える。中学生、だろうか。悪戯好きの年頃なのかもしれない。あるいは、そう、本当に自分を神様だと信じてしまう年頃でもある。

「神様なの?」

「神様だよ」

「すごいね」

「どうして?」

ㅤ適当に話を合わせていると、首を傾げられた。どうして、と問われると困ってしまう。だって神様なのだから、きっとなんだってできるのだろう。悩みなんてなくて、願うことなんてなくて、人々に縋られる存在。偉大な存在。この子が神様だなんて思えないけれど。口を噤んだ私に気を悪くした様子もなく、少女はにこにことこちらを見ている。

「貴女の願いを叶えてあげる」

「……願いなんてないよ」

ㅤふいと視線を逸らせば、曇天が目に入る。心なしか湿度が高くなってきたような気がする。シャツの中がじっとりと汗で濡れている。涼しいところに行きたい。冷房の効いた部屋で、アイスを食べたい。

「強いて言うなら」

「うんうん」

「コンビニのアイスが一回くらい当たったらいいなー、とか」

ㅤ適当言うなと怒られるかと思ったが、少女はうんうんと頷いている。

「当たったら嬉しい?」

「まぁ、それなりに」

「当たったらくれる?」

「あげないけど」

ㅤ不満げに眉をひそめられた。一緒に買いに行く気で果ては当たりをせしめるつもりだなんて、図々しいにも程がある。神様なのなら、自分が当てて貴女にあげる、くらい言ってほしい。

ㅤぽつり、雨粒がまぶたに落ちた。

ㅤ一緒に帰ろう、と言われたので頷いた。ここから連れ出してしまえば、あの子が神様に出会うことは今日はもうない。いっそ自宅まで引き連れて行ってもいい。お茶をご馳走してあげよう。そろそろ日が沈む。流石にあの子もこんなところに寄らず家に帰るだろう。

ㅤ帰路の途中でコンビニに寄った。アイスの話をしていたら食べたくなったのだ。今どき珍しい当たり付きのアイスを二本、レジに出す。片方を少女に差し出した。

「くれるの?」

「当たりでもらったわけじゃないけどね」

ㅤありがとう、と飛び跳ねんばかりに喜んで、少女はアイスの包みを外す。チョコレート味のそれをちまちまと食べ始めた。その隣でバニラ味を食べる。熱を持った体に滑り落ちていく冷たさに目を閉じると、隣で「見て!」とはしゃぐ声が聞こえた。隣を見れば、少女の持つ棒には確かに当たりの文字が書いてある。やったやった、と喜ぶ姿は微笑ましく、全然神様らしくはない。

「よかったね」

「あげる」

「自分で持ってなよ」

ㅤ差し出された木の棒を丁重に断るが、どうしても少女は引かない。人が食べたものをもらうのはどうなのだろうと思うが、少女が頑として譲らないので、そのまま持って歩くことにした。

ㅤしばらく歩いていると、川べりで少女が立ち止まったので、つられて立ち止まる。どこか一点を見つめている。魚でもいたのだろうか。川の中を覗き込もうと一歩踏み出す。

ㅤ背を押された。重心を支えるために前に出した右足は地面を捉えずに、転げ落ちた。夏の川は流れが速い。慌てて岸をつかもうとするが、草と土で滑って上手く登れない。焦燥感に駆られ、ぼろぼろと崩れてくる土を引っ掻いていると、隣であぶくが立った。驚いて見れば、飛び降りてきた少女は麗しく笑った。

「助けてあげる」

ㅤ何をしてるんだと叫ぼうにも水を飲みそうで口を開けない。手に持っていたアイスの棒が流されていくのが見える。そうして、手を引かれた。


ㅤ目が覚めた。

ㅤやけに体が重たい気がする。ここは、どこだろうか。私は溺れたのだろうか。起き上がろうとするが、できない。腹が砂利を転がしずるずると這う。土の匂い。外だ。地面が近い。手足の感覚が無い。立ち上がることができない。なんだか視界がぼんやりとする。ずる、ずるとそのまま這っているうちに、胴がびしゃりと冷たいものに触れた。視線を下げる。水たまりだ。這ったまま水たまりに突っ込んでしまったらしい。最悪だ。

ㅤ覗いた水面に映る姿が自分だと気付けたのは、奇跡だったかもしれない。こんな奇跡、嬉しくもないが。水の中からは、巨大な蛇がこちらを見ていた。黒々とした鱗がうねっている。背後に人影を感じ、振り返る。慣れない体での動作は緩慢で、焦れったくなる。果たしてそこにいたのは、長い黒髪に榛色の目をした少女だった。

「おはよう」

「え、これ、私、何?」

ㅤ混乱した頭で少女に近付く。ずる、ずる。蛇だ。ずる、ずる。自覚したらなぜこれまで気づかなかったのだろうと思うほどに這うことが自然にできる。ずる、ずる。嫌だ。何が。なんで。

「落ち着いて」

ㅤ少女が私の頭に手を置いた。目が合う。少女の目は穏やかで、その奥には優しさが揺蕩っている。そのまま抱き締められた。

「私が願いを叶えてあげる」

ㅤ当たり付きの棒を差し出したときの笑顔で、少女は言った。

「願いなんてない」

ㅤこんなことが願いだなんて。そんなはずはない。

「あの子は私のことが好き。貴女は私になるんだよ」

ㅤ何を言っているんだろう。

「なりたくなんてない」

「怖くないよ」

「嫌だ。戻して」

「食べてしまおうよ」

ㅤ何を?

ㅤ少女の赤い舌がのぞく。ちろりと頬を舐められる。

「あの子を食べてしまおうよ」

ㅤ神様が囁く。


ㅤ気がついたらあの神社にいた。

ㅤ雨はやんでいて、蛙の声が響いている。ギィギィギィ。目の前にはあの子がいる。こんな真夜中に出歩くのは危ないといつも言っているのに。早く帰りなよと声をかけようとしたところで、あの子が振り返る。

ㅤ言うべきセリフはわかっていた。

「迎えに来たよ」

ㅤそのときの彼女の綻んだ表情を、私は忘れられないだろう。私の姿があの少女にでも見えているのだろうか。それとも、どれほど姿が変わろうとも神様のことはわかるのだろうか。まるで、運命みたいに。ずる、ずると這って近づいても、彼女は逃げなかった。後ずさることすらない。

ㅤ舌を伸ばして触れた頬は想像していたよりもずっと柔らかい。この柔い肌を爪や牙で傷つけることがないことがせめてもの救いだろうか。そんなわけはない。生き物を丸呑みなんかしたことはない。ましてや人を。目の前で目を閉じた彼女は祈るように指を組んでいる。愛しい愛しい神様に食べられることを望んでいる。神様もそれを望んでいる。私があなたを願ったから。視界の端であの少女が微笑んでいるのが見える。煽られているみたいだ。早く食べてしまえ。手に入れてしまえと。

ㅤひらいた口は想像よりもずっと大きい。どくどくと心臓が鳴る。緊張か、高揚か。もうわからない。

目を瞑り、ばくりと一思いに口に含み、そのまま、呑んだ。悲鳴は上がらなかった。喉のところに引っ掛かりを覚える。思わずえずいた。吐き出せ。このまま吐き出してしまえ。思いも虚しく、あなたの華奢な体は私の体の奥の奥まで進んでいく。これから私のお腹の中でどろどろに溶けていくあなた。あなたの爪が身体の内側を引っ掻くような錯覚を覚える。あなたが神様を傷つけるはずもないのに。傷つけてくれたらいいのに。体温の無いこの体を裂いて破って戻ってきてほしい。生きてほしい。嘘だ。こんなことを望んだのは私だ。骨が開く。肉が、皮が引っ張られる。きっと私の血肉色の体内が広がって、あなたの体を受け入れる。気持ちが悪い。だけど、泣きたいくらいに充ち足りている。ずっとこうしたかったみたいだ。蛇も涙を流せるのだと初めて知った。

ㅤ滲む視界の先で、少女の姿をした蛇神は、至極満足そうに笑っていた。

「私は貴女の味方だよ」

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私とあの子の神様 伊予葛 @utubokazura

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