淡路管区と紀伊管区の過去

また、南海道であまり解説していない淡路は、平安時代は淡路源氏が支配する白い旗の地域だった。伊予の海賊に襲われたりすることもあったり、淡路島にVIPな島流しリゾートとして発展していった。代表的なのは早良親王。早良親王は日本三大怨霊として知られている。三大怨霊の残りは、平将門と菅原道真。できるやつを怒らせると恐いのだ。



淡路島は長沼氏や皆川氏を守護に鎌倉時代も独自に発展していったが、室町時代に細川氏の配下になって、野口氏を中心に四国との関わりが深くなっていく。


戦国時代も淡路島は三好四兄弟の一角を担う、安宅冬康のもと支配された。その後は、一旦、脇阪氏を挟むものの、蜂須賀になる。つまり阿波藩の一部になってしまった。


その後、は一国一城令で阿波藩の淡路国の城、洲本城で稲田氏が淡路島を管轄していくこととなる。


幕末には稲田騒動が起こり、淡路島は兵庫県の一時預かりとなり、いわゆる兄妹喧嘩の様相のまま二百年が過ぎ、和解は行われていない。淡路島と徳島の政治的な関係は断絶したままなのだ。


「淡路島ってどっちの領土なの?」と21世紀のインターネット文化では話題になったとか。



一方、残る紀伊の国も独自の文化が育つ。

古代史でも紀氏が木の国の文化が育てられた。

紀貫之が土佐日記を書いたのも何かの縁だろうか?


紀州は鎌倉時代の西海岸を湯川氏が基本的に治めた。

基本的にというのは、紀州では大きな宗教勢力がいたからだ。南紀は熊野大社の大宮司が仕切っていたし、山あいには真言密教の空海の本拠地・金剛峯寺が君臨している。まさに南海道のスピリチュアルは和歌山で開花したのであった。


また、和歌山の神は鏡の神であり太陽の神。

天照大神が引きこもる岩戸にむりやり太陽ビームを送り込むという嫌がらせを行ったときに使った鏡の神も祀られ、晴れの神も紀伊の国の一宮に祀られている。


徳島には雨の神が一宮神社で祀られている。我が阿波管区と紀伊管区は同じ地名も多い。たとえば、勝浦や那賀、海南に白浜など。同じように東西に吉野川が流れている。


また、千葉県にも徳島と和歌山の鎹のような同じような地名が多いが、徳島や和歌山よりも発展してしまっている。息子は親を超えてこそだろう。


これは一説によると、謎の民族・海の民が福岡を中心に興ったそうだが、倭国大乱の際、滅ぼされてしまった一部の海の民が各地に散らばって、海人というアマントとも呼ばれる集団になり、各地に愛知まで連なる海部民族ができたらしい。

そうして各地で山系の民族と海系の民族が戦っていたらしい。


また、三重との間で未だに飛び地があったり、

県境未確定地域があったり、

いつの世も土地をめぐる問題というのは解決しないのだ。

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