第4話『夢幻の館』
灰色の空、モノクロな世界。
そう形容すべきだろう。私の視界の人や物はすべて沈鬱な色に染まりきっている。空を仰ぎ見てみる。快晴の予想も外れたのか空模様は曇りがちだ。
互いの関心を振り払うように人々が行き交う、そんな街中で私はひとり佇む。携帯電話の会話、二人組の学生の笑い声、横断歩道を渡る雑踏、近場の屋外ライブの大音響。
この都会の喧騒もいまは遠く聴こえた。
耳障りでストレスのもとにしかならなかったそれはただの小さな雑音だ。
私の目と耳はおかしくなったのだろうか。
––––ちがう
おそらく、私はこの世界から切り離された存在なのだろう。
64億/1のちっぽけな存在がこの世から消え去ったはずだ。
「––––だって私は死んだのだから」
確かめるかのように私は呟いた。
そう私は確かに死んだはずなのだ。
それだけははっきりしている。
理解し難いのは、なぜ私の意識と体は此処にあるのか。
「…………」
花瓶にいけられた華が歩道の片隅に放置されている。
短い嘆息を吐き、踵を返す。
死因は事故死だ。もちろん自殺でない。生前の私は何かから逃げるほど臆病者ではないと記憶している。
決して私は自ら望んで危険信号には渡らなかった。
あの時、視界が朱く染まり世界が暗転してから私の意識は途切れた。
「ああ、そうか……」と胡乱げにある事を思いだし、納得した。
私には死後に辿り着いた場所がある。
謎の青年が待ち構えていた『夢幻の館』という摩訶不思議な場所に。
◆
『ようこそ夢幻の館へ。此処は行き場のなくなった魂達の願いを叶え、解放する場……』
私が見た異常な光景。私の知らない洋館のラウンジ。
そこの応接間に座っていた青年が開口一番に言った台詞だ。
正体不明な謎の青年、見た目は二十歳前半辺りだろう。
『……あなたは、誰ですか?』私は遠慮気味に尋ねた。
青年は少し考えた後、応える。
『僕の名前は御影。そして此処は君の望みを叶える場所。“夢幻の館”と呼ばれる不思議な世界だ』
その言葉の意味を理解出来なかった。
『そんな、うそ……』
青年はゆっくりとかぶりを振る。何もかも見透かす青年の眼差しが彼女に向けられた。
『うそじゃない。現実だ。君が此処に来たのは死んだからだよ』
悲痛な報告だ。やはり、あの出来事は本物だったのだ。
私は頭を抱えて踞った。次第に
「…………」
街中をあてもなく彷徨った。私の気分は晴れる事のないこの世界と同様に灰色のままだ。
私に与えられた時間には限りがある。それは特別な二十四時間だ。
『君はこの限られた時間を有効活用しなければいけない』
青年はそう言っていた。そのことを思いだし、私の足は自然と目的地へと向く。
「いかなきゃ」
彼との約束がまだ残っている。それが終えるまでは私は後悔したままだ。
–––彼に会いたい。
彼が長年見続けた夢を成就させてあげたい。
それが私の未練。他人が聞けば笑うだろうけど私は本気だ。
私は高校生だった。今も学校の制服を着ている。内気で内省的な性格である私の唯一の趣味は絵を描く事だ。
高校生になったら部活動で他者との親睦を深めたい訳もあり、美術部に入部しようと思い立った。
しかし、学校は美術室があっても美術部はなかった。
いや正式にはあるが廃部寸前だったのだ。
ある放課後に美術室に寄ってみた。誰もいない室内かと思いきや、ひとりの少年がいた。名前は知らない。顔は何回か見た事がある。一眼で優しそうだと思ったひとだ。
彼は私に気付かず絵を描いていた。
なんだかよく解らない次元の絵だ。だが、彼の思い描く想像の世界がそこにあった。意外と、彼とはすぐに仲良くなれた。廃部寸前の美術部に入部し、放課後はいつも美術室で彼と過ごすのが日課となった。
彼はとても素直で優しいひとだった。出会って数日で彼に惹かれ、此処で過ごす時間がかけがえのないものになった。
彼の夢は絵画コンテストで有終の美を飾ることだ。
そして廃部寸前の美術部をやり直させ、絵画の良さを伝えようとしていた。
いつかはすごい絵かきになりたいと語っていた彼は輝いている。
彼の絵画コンテストで優勝する様を私は見届けたかった。
だけど、私は不幸にも交通事故に遭って死んだのだ。
「…………」
私はいつの間にか学校に来ていた。おそらく無意識に足がその方向へと向かって行ったのだろう。
誰からも視認されない私は堂々と校舎に入り、長い廊下を歩いてゆく。周りは下校時を越え、やけに静かになっていた。やがて、たどり着いた美術室の前で僅かに躊躇った。死んだ人間が会いに来ていいのかと。
それでも、と私は思い直しドアに手を掛けて引いた。
たとえ後悔しようとも。
広い美術室の一角、日差しが差し込む席に彼はいた。
数日前に迫った絵画コンテストに出す未完成の絵を見詰めながら物憂げな表情をしている。
彼だけは私に気付いた。予め来る事を予期していたのか振り向いてはいつものように笑ってみせる。
「待ってたよ。やっぱり君がいないとこの絵は作れないなぁ」
多分、彼の耳にも私が亡くなった事故の事柄は行き届いているはずだ。
「…………」
私は彼の変わらない接し方や態度に少し驚いた。きっと今の私は幻のようで希薄なのだろうがいつもみたいに快く迎えてくれている。奇妙で夢みたいだけどそれが何処か嬉しかった。
「久しぶりだよね。来てくれると思ってたんだ。じゃあ、準備も出来てるし早速始めよっか」
頷いて私は彼の隣の椅子に座り、自然な流れで絵を描き始めた。鉛筆の下書きに緩慢な動作で色を慎重に塗ってゆく。
彼は一方的に話し掛けるが私は頷くことしか出来なかった。それでも彼は満足そうに笑う。
夕焼けに染まりつつある頃合いに私達は絵を完成させた。今までで最高傑作だと言い張れる渾身の出来だ。
「本当にありがとう。君のおかげで絵が完成したよ。これなら間違いなく入賞するかもね」
彼は快活に笑っては文字通り自画自賛する。入賞間違いない、と私もそう思えた。
「……うん。そうだね」
消え入りそうな声で呟く。思い出の場所を訪れて、彼にまた会って、絵を完成させて、私の現世に対する未練はもうない。
彼は急に静かになる。そして、真剣味をおびた眼差しで私に訊いてきた。
「やっぱり行くんだ?」
「うん」
私はもっと生きたかった。
両親から虐待を受け、誰かから虐げられたとかそんな辛い過去があってもそれでも生き続けた。
「そうか、悲しいな。もう会えなくなるなんて。此処もまたひとりになっちゃうな」
居場所が出来たから生きてこられた。彼のおかげで。
「絶対に忘れない。君と過ごせて本当に楽しかった。大切な思い出だった。だから絶対に忘れない。……忘れないから」
最後の辺りはわかりやすいほど涙声だった。
––––だけど最後だからこそ面と向かってお別れを告げないと
「ありがとう、私も君の事は忘れないよ」
私は出来るだけ明るく微笑んで彼を元気づけた。気付けば私も涙で頬が濡れている。
「––––さよなら」
短く綺麗な声が室内に響き渡る。彼女はもうその場から消えてしまった。
――――――――――――――――――
夢幻の館と呼ばれる豪奢な洋館に住む青年は少女の願いを叶えた。
彼女を手引きし、後は見守るだけの役目を果たし終えた青年はラウンジの応接間でゆったりと寛いでいる。
「最後に誰かに会いたい。捜し物を見付けたい。成し遂げれなかったことを成し遂げたい。在り来りだけどいちばん多い願いだな……」
頬杖をついて呟く。今まで何人も相手をしてきたが存外苦労した覚えがない。
青年が此処に始めて来た時は彼女と同じようなものだった。だけど誰かがいて未練を聞いてくれた訳じゃない。もとから一人だった。
夢幻の館……それの最初の来訪者であり、自身は願い事を成就せぬまま時を過ごし彼女のような亡霊の未練を代わりに聞いてきた。
慈善活動なんて柄じゃないと思っていたが案外悪くない。幸い夢幻の館に備わった魔法みたいな道具を好奇心で使用し、お悩み相談という偽の理由で無聊を慰めるつもりが本職みたいに板についてしまった。
自分は生前褒められた人間じゃなかった。多分、自分が犯した罪を拭うまでは此処から出られないだろう。
「しかし、未練がましいのは僕か。まだ過去を引きずっているんだから」
青年、御影はそう自省する。生前、有名外科医だった御影は難病を患っていた実妹に必ず治してみせると約束した。
その言葉で妹を勇気付け、希望を与えたのに御影は手術を失敗し死なせてしまったのだ。
御影の両親はとうの昔に亡くなっていた。たった一人の家族を死なせた御影はやがて現実逃避するかのように睡眠薬を大量摂取し死亡した。
夢の中でまどろみ、そして目覚めた御影はいつの間にか夢幻の館に行き着いていたのだ。
「でも此処は僕の願いが叶う場所でもあるんだね」
そこで自分に与えられた使命を自覚する。今度は違うカタチで誰かを助けてやるという使命を。
「与えられた二度目の機会だ。たいせつにしよう」
また誰かを救える力を手に入れたかけがえのない幸運と力を授かり御影は嬉しかった。
ソファに深くもたれ掛かり夢を見るように瞼を閉じ、御影はゆっくりと息を吸って吐く。
「さて、と。次のお客様は誰かな」
御影という名の青年はいつか自分の罪が拭い去れる日を心待つ。
そして行き場のなくなった魂が訪れた時、同じ台詞を口にするだろう。
『ようこそ夢幻の館へ。此処は行き場のなくなった魂達の願いを叶え、解放する場……』
【夢幻の館・完】
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