第3話『楽園』

 仕事から帰ってきた時、一枚の見慣れない用紙がテーブルに置かれていた。男はすぐに用紙を開き、そこに書かれた内容に眼を通す。


『楽園へと行きませんか?』


 その一文が大きく載っており、真下には二つの選択肢。YesとNoの文字がある。そして米印の横に『一つだけをペンで丸を囲ってください』という注意書きが書かれていた。


「なんだこれはバカバカしい。誰かのいたずらか?」


 男は鼻で笑った。


 どうせ、この手の類は宗教の勧誘か、それか学生の頃に流行った不幸の手紙と同レベルな発想のくだらない悪戯だ。まったく……郵便に変なものでも混ざっていたのか?


 男は紙を握り潰して捨てようとしたが、ふと気紛れなことを思いついて手を止めた。


 楽園か……。


 行けるなら行ってみたいものだ。


 男の脳裏には金持ちが豪遊している姿が思い浮かんでいた。日々を退屈だとずっと思っている。不自由はないが、これといって楽しみもない。

 だからなのか、この気紛れな行動は微かな期待と、そして半分は無意識なものと言ってよかった。


 何となく、男はペン立てから鉛筆を手に取ると、Yesに丸をつけた。そして、その用紙を眺めるように手を伸ばして見つめる。


「ふん、バカバカしい」


 丸をつけた後で男はほくそ笑んだ。

 こんなアンケートひとつで幸せになれるのなら苦労などしない。


 用紙を投げ捨てると、男はすぐに床に入って眠りにつく。近頃、出張と残業ばかりで疲れが溜まっていた。明日は久々の休日。早起きを気にしなくていいのだ。

 こんなくだらないアンケートに構ってるほど暇ではない。寝ていた方がマシだ。

 男は部屋の明かりを消してベッドに潜り込んだ。久しぶりの休日を迎える安心感からか、男はすぐ泥のように寝静まった。


 ■□■


 時に不思議なことは起きるものだ。だが、これは常軌を逸している。

 気付けば男は海岸で横たわっていた。


「ここは、どこだ?」


 目覚めて辺りを見回す。

 何もない。無人島のような場所だった。

 なぜ、俺がこんなところにいる?

 なぜだ?

 疑問は尽きない。考えてもこの事態の解答を突き止めることなど……と思った瞬間、そこで男は心当たりを見つけた。


「まさか、あの手紙の仕業か?」


 ただのくだらない手紙だと思っていたが。……いや、考えてみてもそんなことはあり得ない。たった一日でここまで、無人島まで運ぶことができるのだろうか?


 しかし冷静に考えてみると一日だけとは限らない。最後に寝た日から何日経過している? 今日が何日の何曜日か、こうなってしまった以上は知る由もない。


「とにかく、どうにかしないと。ここままじゃ帰ることができねえぞ」


 男の手元にリュックサックが置いてある。無人島へ送る時に用意されたものかもしれない。とりあえず役に立ちそうなものがないか中身を確認した。


【伸縮型ルアー、果物ナイフ、虫眼鏡、ロープ、救急セット、サバイバル指南書、毛布、ハンドタオル、500mlのミネラルウォーター、コッペパン、防寒ヒートシート】


 あるものはこれだけだ。

 一応、サバイバルに必要なものが揃っている。だが、食料に至っては一日ももたない。島で採れるものを探すしかないだろう。男はサバイバル指南書とやらを手に取り流し読みする。食べれる植物、水の精製方法、寝床の作り方、危険生物の解説などなど詳細に書かれている。

 幼い頃、ボーイスカウトでサバイバルの経験は多少あったが、いまではほぼ無知と言ってもいい。この指南書は大事にするべきだ。


「ここで生き延びろってことかよ……」


 大きなため息を洩らして男は肩を落とした。

 砂浜に並べたサバイバルグッズ一式を見渡す。まだ何かないかと男はリュックサックを逆さまにして上下に揺すった。すると一枚の用紙がふわりと落ちる。男は濡れる前に手に取ると、その用紙をまじまじと見詰めた。


「手紙か」


 宛名はなし。

 封を切って中身を見る。


『楽園へようこそ。あなたは選ばれた者達のひとりです。そんな幸運なあなたを讃え、祝いの言葉と、これからの生活にエールを贈りたいと思います。そして、ささやかな施しではありますが、あなた様に知識と楽園を生き抜くための便利なグッズを進呈したいと思います。

 ——あなたの新しい人生に祝福を』


 まるで招待状のように装飾に凝った手紙だった。

 幸運?

 祝う?

 新しい人生だと?


「ふざけるなッ!!」


 男は手紙を乱暴に破ると海に向かって投げ捨てた。


「くそ! 何たって俺がこんなところに、無人島なんかに来なくちゃならねぇんだ! 誰の仕業だ! こんな悪趣味なことをしやがって! 見つけ出したらただじゃおかねえぞ!」


 男は憤慨した。怒っても怒り足りないほど、彼は激怒した。


「くそっ! まず、どうにかしねえとダメだな」


 ほとぼりが冷めた頃、事態の解決に向けて男は動き出す。まずはここが本当に無人島なのかを知る必要があった。

 連絡手段はない。すべて家に置いてきてしまった。

 ここはベタだが、砂浜にSOSの文字を書いておこう。あまり飛行機や漁船が見えないが、いつかは気付いてくれるだろう。


「よし、こんなもんだな。さて、次は……」


 男は足でSOSの文字を書き上げ、次にサバイバル指南書を開いた。

 本の解説によると体力が余っているうちに食料の確保を優先するべきだとわかった。最も好ましいのは果物、栄養と水分の両方が摂取できる。


 ここはどうやら南国の島らしく、砂浜のすぐ近くにヤシの木があった。軽い衝撃、石などをぶつけて落とせば木の実をゲットすることができる。


「たくさん生えてるな、当分は水に困らねえ」


 落ちていたココナッツを拾い上げる。緊張や混乱、怒りで暴れたから随分と喉が渇いていた。だが、これは外側が硬くて中身が飲めたもんじゃない。男はココナッツミルクを飲むために岩にぶつけたりと工夫を凝らした。しかし割るのがうまくいかず中身ごとぶちまけてしまうこともあった。


「ナイフか……」


 外側が硬いならめくるしかない。男はそう思い、抱えていたリュクサックからナイフを取り出して木の実に切れ込みを入れた。そして、一枚ずつ丁寧に剥がしていき、最後には尖った石で穴を開ける。これでどうにか飲めるようになった。男は安心してココナッツミルクを飲み干す。


「まずいな」


 期待していたよりも美味しくはなかった。少し腹も空いていたので内側の果肉もかじり空腹感を満たしておく。


 その後、散策を行ったものの人らしきものは何もいなかった。やはりここは無人島なのだ。


 ■□■


 無人島暮らしも何日か経過した。

 人は環境に順応する。順応しなくてはならない。


 日々の食料の調達はいまのところ問題ない。この島には豊富な木の実があり、海に行けば支給されていたツールで魚を取ることができる。最も重要な水に関しては、葉や岩壁についた朝露をタオルで吸い取る集め方と、海水を沸かして湧き出た水蒸気を汲み取るやり方で少しずつだが何とか確保できる。知識さえあれば、どこでも生きていけるものだ。


「三ヶ月ぐらいか……」


 男は呟いた。

 ひげや髪が伸び、肌は陽のせいで赤く染み付いてきた。おまけに海水で体を洗うから磯臭い匂いが常に鼻腔を刺激する。


「いつまでこんなことを続けるんだろうな」


 溜息を吐く。


 男は今朝にとった魚を木の枝で串刺しにし、ヤシの皮を燃料にして火をつける。すっかり馴れた動作で焼き魚を作り上げてかじりつく。男がいる場所は木と葉で建てた手製の寝床だ。骨組みを木で、屋根を葉でコーティングした簡素な寝床。それでも雨風を凌ぐには充分な出来栄えだった。すべてサバイバル指南書にあったものをフルに活用している。


 無人島生活をうまく遣り過ごしている自分に充足感を感じる反面、一向に帰れない焦りもあった。


「しかし、どうなっているんだ? あれから何日も経っているのに船や飛行機すら見ていない……」


 焦りの理由はもうひとつあった。通りがかった船や飛行機にSOSのサインを送りたいと常日頃から考えているものの肝心なそれらの姿を見たことがないのだ。ここは一体どういう場所なのだ。下手をすれば助けが来ない可能性だってある。地図上にもない未知の島の場合を考慮するならば。


 ならばここに長く滞在するのは得策ではない。自力で脱出する方法を考えなくてはならないだろう。


「やるしかねぇか……」


 それ以来から男は船を作ることにした。石と木で作った石器時代のような斧で大木を集め、蔓を編み込んでロープを作り、海岸に流れ着いた漂流物から補強のための素材を選ぶ。そうして長い時間をかけて素材を集めながら男は地道にイカダを作り上げた。


 島から脱出するには日にちも想定する必要がある。台風の時期を推定し、決行の日取りを選択する。そして漂流の期間を想定して食料も備蓄する。島から取れた果実を使ってドライフルーツや木の実など保存がきくものを作った。水も充分に溜め込みイカダに乗せる。


「ここは楽園なんかじゃねえ。くそくらえだ」


 そしてやって来た決行の日。天気は晴れで波立ちも穏やか。晴れやかな気分で別れの言葉を吐き捨て、男はイカダを海に浮かべた。



 ■□■



 気付けば薄暗い部屋にいた。

 日の光さえ届かないような薄暗い場所だ。


「おい、あんた大丈夫か?」


 声が聞こえたのでそちらへ顔を動かした。


「随分と長く眠っていたな。仲間がお前を見つけた時は驚いたぞ」


 俺の眼の前に体格の良い男が椅子に座っていた。どうやら看病されていたらしい。ベットで横になり傷ついた体も手当てが施されている。


「あんたは何処から来たんだ。海岸にいたと聞いたが」


 男がまた聞いてきた。言葉はわかる。男が生まれた国と同じ言語だ。


「それより……ここは何処なんだ?」


「なんだ、そっちの質問が先か? ここは地下だよ。見ればわかるだろうが。あんただって地下が初めてじゃないだろう?」


「地下……どういうことだ?」


 その問いに目の前の男は意外そうに眉を寄せた。


「なぜって、そりゃ地上は細菌ウイルスに汚染されて碌に住めたもんじゃねえからだよ。汚染された人間は亡者みたいになってるし、人が済める場所なんか地下しかないだろう?」


「細菌ウイルスだと!?」


 男はその言葉に驚き、声を張り上げた。


「……あんた、何も知らないのか? いま世界はとんでもねえことになってるってことを。ラジオを聞きゃわかることだろうに、何も知らないにもほどがあるぜ」


 向けられる猜疑の眼。いま自分は彼にとって不審な男にしか映らない。

 そこで男は正直に自分の身に起きたことを話すことにした。信じられようが、信じられまいが事実だけを告げる。


「俺は、無人島にいたんだ……知らないうちに、そこにいて俺は何か月も時を過ごした。だから俺は何も知らない。お前が言ってることも信じられないんだよ……」


「無人島……? ははっ、そりゃいい話だな。少なくとも此処よりかはいい。資源も食料も豊富だ。いや、むしろだな。バケモンもいねえし、食いもんだってあるんだ」


「楽園……だと?」


 その言葉に男の眼が大きく開かれた。

 あの手紙……楽園、細菌ウイルス、まさか俺は……。

 ウイルスの被害から隔離されていた、のか……。

 それが楽園の正体……。


「冗談、たとえ話さ。ここでの生活はヒドイもんだからな。無人島が楽園に思えるほどなんだ」


 大柄の男はゆっくりと椅子から腰をあげた。


「記憶に混乱があるみてぇだが、落ち着けば大丈夫だ。ここはまだ安全だからな。まあ、とにかくあんたも抗体持ちなんだろ? ゾンビでもねえし。細菌ウイルスがばら撒かれてから何年も経っているんだ。少なくとも薬品投与ぐらいは受けているのが当然だ。違うか?」


「俺は……」


 男は腕を掻いた。とにかく痒くて仕方がなかった。

 ベットは清潔ではない、きっとダニが住み着いているんだろう。


「痒いのか?」


 そんな様子を見た大柄の男が訊ねる。


「少し、な。変な出来物も出てるし、虫に咬まれたのかもしれない」


 男の腕に黒ずんだ斑点が浮かんでいた。不衛生な生活の弊害が体に出ているようだ。


「そうか……」


 大柄な男は眼を細めた。

 彼は背中を向けると、上着の内ポケットに手を入れて何かを取り出そうとした。


「薬をやる。これで収まるだろう」


 尚も斑点の出来物を掻いていた男に彼は手を差し出した。

 その声につられて顔をあげる。


「あ、ありが――」


 ――パン、と乾いた銃声が部屋に木霊する。


 男はベットに倒れ込んだ。

 眉間を正確に銃弾が捉え、男の命を絶つ。彼の行動に躊躇いはなかった。


「すまないな、その斑点はお前が亡者になる前のサインだ」


 冷淡に大柄の男がベットに横たわる死者に語りかける。


「俺は地下のリーダーだ。みんなを危険な目に合わせるわけにはいかない。お前がウイルスに汚染されれば瞬く間に地下はパンデミックだ」


 それを防ぐには汚染される前に殺し、遺体を焼却するのみ。それしか対策はなかった。


「無人島か……そんな場所に行くことができたならどれほど救われたか。ウイルスも亡者も飢えもないんだろう?」


 銃を懐に仕舞い込んで地下リーダーの男は呟いた。


「あんたは無人島から出るべきじゃなかった。あそこは、あんたにとって正真正銘の楽園だったんだよ……」


 そう、こんな狭く暗い世界よりも、そこは楽園と言えた。自由と安全、いまの世界に生きる者ならば誰もが欲するものだ。


 何も知らなければ幸せだっただろう。


 世界が破滅に向かっている事実を知ることもなかった。


 そして、こうして死ぬこともなかったのだから。




【楽園・完】

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