百合になれないユリカさん
小ライス
第1話
映画が始まると、乃愛と沙也はあたしの横でキスをする。
たとえばリビングのソファに三人並んでネトフリを観ているとき。たとえば洗濯当番の沙也が乃愛のくつしたを丸めているとき。たとえば乃愛が台所でお味噌汁の鍋をかきまわし、あたしが冷凍ごはんをチンしようとしているとき。
二人の好きは言葉に宿る。態度に宿る。回した腕に、さえずりのような口づけに、あたしが一生理解しえないであろう百合という花園の中に。
一年前ルームシェアが始まったとき、あたしたちはただの仲良し大学生だった。それが三ヶ月経ってふたりのスキンシップが妙にべたつきはじめ、半年経って仲のいい女友達の度を越し、十ヶ月の「実はあたし、沙也のこと好きっぽくて……」から、あれよあれよとセックスだ。
ポップコーンをパーティー開けにして映画を観ていると、そのうち空気中にキャラメルだけじゃない甘さが漂い始める。主人公のマッチョが死にかけの恋人を抱きしめて頬をすりつけるシーンに、ロマンチストの乃愛はあっさり涙を浮かべている。
「ねえ、さや」「……なーに」「ずっといっしょにいてね……」
こうなるともう、お菓子の交換みたいにキスが始まる。きっかけなんて、なんでもいい。二人のあいだにある恋をしている人間にしか押せないスイッチは、映画でも味噌汁でも簡単に押される。
愛が始まると、あたしはおもむろに退散する。嫌な気分でも幸福な気分でもない。わからない言語のテレビが勝手に流れたようなどうでもよさがあるだけだ。
三人の人間がカップルとあまりの一人に分かれるというのはありふれた修羅場で、本来あたしはここにいるべきではなかったのかもしれない。だけどあたしたちはカップルである以前にインカレのいつめんだったし、家賃折半の3LDKを気に入っている同居人でもあった。
そして何より、あたしは百合じゃない。
あたしは二人がわからなかったし、二人はあたしに理解されなくてもよかった。
そういう理由で、このルームシェアは三年目に突入したのだ。
「ねえさやちゃん、このレポ漫画よくなかった?」
「あーね、途中はわかってんなって思ったけどオチ嘘松すぎん? こっからいろいろ乗り越えてパートナーシップ結ぶまでが本番なわけじゃん。尊いとこ切り取って現実みたいな顔されても困る」
「いいじゃん、尊いで。イヤって思われるよりは全然いいよ」
「てかリプ欄地獄だったよね、「早く結婚して」って、できたらとっくにしてるて」
でも、こういうときはちょっと困る。
だらりと集った休日のリビング。必修の過去問――昨日のTL――バズった漫画――日常の話題がシームレスに〝そっち〟に移行したとき、あたしはなんて反応の仕方を見失う。あたしは〝百合〟ではないので、二人が何に共感して何に憤っているのかちっともわからない。世界一幸せな鳥みたいにキスを交換している二人の愛が、どこにどう侵害されているのか、この目で確かめたことすらない。
沙也と乃愛もこの話題のときばかりはお互い刀を収められないようで、いつも結局沙也が「もういいわ」みたいなぶすくれかたをして無言でスマホをいじりはじめる。乃愛もなにか言いたげだけど、食い下がった沙也を追いかけることまではしない。空気がなすすべもなく弛緩する。映画が始まる。さりげなく愛が交換され、ふたりは〝百合〟に戻る。日常の流れだ。
こういう感じで、あたしたちはちょっとした喧嘩をしつつも仲良く過ごす百合カップルとその同居人だった。あたしはこの生活が気に入っていたし、当面は続くことを予測していた。少なくともとりあえず、卒業を迎える一年後までは。
しかし、そうはならなかった。
二月のある日、夜食の焼きおにぎりをチンしようとリビングに降りて行ったときのことだ。
「あんたといて安心なんて一生しない。別にそれでいいと思ってるけど」
張りつめた怒鳴り声が階下から聞こえた。沙也だった。
「普通だと思われるのがそんなに大事? あたしたちって生きてるだけで負い目あんの?」
「ちがう、ただ、こうやって発信することでもっと認めてもらえればって……」
「守る価値のある尊い花ですって? 珍しいものが自分からアピールしてくるんだ、そりゃかわいがられるわ」
ドスのきいたがなりのあとに、なんでそんなこと言うの、という金切り声が響く。
「なんでさやちゃんのほうがそういういいかたで差別するの。せっかく普通になってきたんじゃん。こうやって、みんなが応援してくれて」
「そりゃ応援されるでしょ、あたしたちが無害で弱くてキュートなうちは。猫動画嫌いな人見たことある?」
「なんッでさやちゃんは……ひねくれすぎ! 認められてるんだよ、普通になれてるんだよ、素直に喜ぶこともできないの?」
「承認されなきゃ自分の普通もわかんないの?」
機関銃のように続いた声が途切れ、しばし、お互いに絶句したような沈黙があった。
半開きになっていたリビングのドアのむこうをそうっと覗くと、沙也は蒸したてのまんじゅうみたいに湯気を立てていて、乃愛の頬はあらゆる水分でてらてらになっていた。
まあまあ落ち着いて、みたいな介入が同居人③に求められているロールかもしれない。しかしこの話の落としどころがわからないのでまあまあもクソもなく、あたしは普通に台所に侵入してレンジでおにぎりを温めだす。
わからない。サバサバしてるけど理由なく声を荒げない沙也を、ふだんはマイメロみたいな甘い声しか出さない乃愛を、ここまで狂わせる白い花とはどういうものなのか。そして、あたしがこんなだからこそルームシェアが成立していたという見方もある。この家で絶対に多数決は発生しないのだ。
「……ッてらんない」
そして、おにぎりより早く臨界点に達したのは沙也だった。リビングのドアがばーんと閉められ、あとにはあたしと乃愛が残される。
「…………なんか、だいじょぶ?」
低い駆動音を立てるレンジの横で、乃愛は鼻をずびずび鳴らしながらこくりとうなずいた。カップルチャンネルやろうって言ったら、やだったみたいで。か細い声で告げられた原因がどうしたらあんな大喧嘩に発展するのか、あたしにはやっぱりわからなかった。
「だめなんだよね、こうゆう話、ぜったいさやちゃんとケンカになっちゃうの。わたし、たださやちゃんと一緒にだらだらして、にこにこして、ずっと仲良くしてたいだけなのに、そういうのみんなにもフツーって思ってもらいたいだけなのに、なんか、なんか、ね……」
乃愛が涙声でいろいろ言うけれど、きっとこれはきっかけではなく最後の一ピースだったのだろう。内容は理解できなくても、この手の対話が繰り返されるのをあたしは何度も見てきた。沙也は乃愛といるとき常にどこか戦闘モードで、乃愛は逆に過剰に普通に振る舞おうとしているように見えた。同じ百合でも、ふたりのあいだには何か決定的な違いがある。キリスト教のようなものだろう。
修羅っちゃってごめんね、もうねるね、と乃愛が二階に姿を消す。今夜中が修復のラストリミットだよ、と囁きそうになるけど、やっぱりあたしは何も言えない。百合ではないから。
ちーん、と、誰もいなくなったリビングでレンジが鳴く。
これがあたしたちの、なんとも間抜けな終わりの音だった。
そして、一週間もたたないうちに沙也の荷物が3LDKから消える。
からっぽになった部屋を前に、あたしと乃愛は困ったように顔を見合わせた。
「ほんとにいなくなっちゃったんだね、って、いまさら言っても遅いけど……」
「いやー、うーん……さやちゃん、やるときはやるタイプだったからなあ」
あの夜の喧嘩は、やっぱり別れの決定打になったみたいだった。形式的には沙也が乃愛をふったことになるらしいけれど、詳しく聞けば、乃愛は乃愛で誰彼構わず飲み友になる沙也の奔放なところに限界が迫っていたとか、細かい理由はいろいろあるらしかった。けれどまあとにかく、あたしの友達の恋愛はこの家で始まって、この家で終わったのだ。
「ごめんね、ゆりか。巻き込むだけ巻き込んじゃって」
ほこりが光る廊下で、乃愛がちょこんと頭を下げた。
「よく考えたら、三人でルームシェアだったのに、急に付き合って目の前でいちゃいちゃして、さいごは修羅場って、ひどいよね。居心地わるかったでしょ」
「いやぜんぜん、そんなことないよ。気になんなかったし。むしろ、あたしこそ付き合ったときに出て行かなくて悪かったような……」
「いやいやそんな……てか待ってこないだのゆりか笑っちゃった。わたしたちめっちゃ怒鳴ってんのにれいぞうこ開けてるんだもん」
おなかすいてたんだもん~とあたしが笑うと、つられて乃愛もにへっとした。実際あたしはずっと、白熱する台所を後目に冷蔵庫を開けるような気分でこの家にいた。二人が〝百合〟なことは、わからないのでどうでもよかった。付き合おうと別れようと、そういうものかと思うだけだ。
「それで、どうする?」
乃愛の視線があたしを射抜いた。うさぎのような黒目が、言葉少なながら雄弁に語りかけてくる。
どうする? 終わりにする? わたしたち全員、ここでバラバラになる?
「いやー……、できれば卒業までいたいかなあ」
それなりに重みのある問いに、あたしはへらっと答えを返した。
乃愛がひとりになることに何か思うところがあったわけでは、ない。単純に、卒業までのあと一年のために新しい家を探すのは面倒すぎた。沙也のぶんの家賃負担がでかくなることを差し引きしても、ここはなかなか好条件の下宿だったのだ。
「あ、もちろん乃愛がいるならってことだよ。さすがに一人で家賃払えない」
誤解されないように付け加えると、乃愛のぱっちり二重が初めてふわりとほころんだ。
「よかった、ありがと……」
ゆりかにも切られたらどうしようかと思った、と呟いた声は弱々しくて、あたしは彼女が恋人に振られたばかりの女の子だということを思いだす。
守らないと。小さな背中は、友達から見てもそう思わせる弱々しさがあった。
同居人が一人減ってからというもの、あたしはいつになく真剣に乃愛を慰める係に回った。あたしには恋人と別れた経験も女の子の恋人と別れた経験もないけれど、訊ねるまでもなくダメージは甚大なはずだ。最後がどんなに修羅っていたとしても、思い出の中の沙也は何度でも乃愛に微笑むだろう。
不在が目立つソファでネトフリを観る代わりにレイトショーに連れ出し、料理担当だった沙也の穴を埋められるよう二人でレシピ動画を漁ってハンバーグを作った。
そのかいあってか、最初は微笑みにどことなく元気がなかった乃愛も、少しずつ前の調子を取り戻しているように見えた。
その笑みが柔らかくなっていくのに別のわけがあったなんて、間抜けなあたしは考えもしなかった。
ある夜のこと。
あたしと乃愛はソファに並んで金ローのタイタニックを観ていた。一人あいた隙間は、クッションとタピオカのカップでなんとか塞いだ。家の中の不在を目くらましできるくらいには、あたしも乃愛も新しい生活になじんできていた。
ディカプリオとケイトウィンスレットが甲板でもちゅもちゅやる有名なシーンにさしかかる。ローテーブルのポップコーンを何気なく取ろうとすると、指先にちょんと乃愛の手が当たった。幾度となく触れたはずの肌は、そのときどこか熱を帯びていて。
かすかな違和感を感じた、次の瞬間、乃愛の肩があたしに密着した。
「……ちょっ」
オーバーだったかもしれないけれど、あたしはとっさに飛びのいていた。
だって、そのしなだれかかりかたは明らかに妙な甘さを孕んでいた。女友達へのじゃれあいとそうじゃないものくらい、百合がわからない人間にも区別はつく。
「ごめん、あの……何?」
「なに、って」
ゆるゆると顔を上げると、目を合わせた乃愛は雨に降られたような顔をしていた。
「ごめんね、……ヤなら、やめる」
「いや、やめるとかじゃなくて……な、なに?」
今のは、これまであたしたちが育んできた距離感とはどう考えても一線を画していた。でも、でもあたしは乃愛のこの瞳の潤みを知っている。搦めとるような指先を知っている。これはあたしのためのものじゃない。
沙也に、向けられていたものだ。
「……ゆりか、無理して優しくしてくれたでしょ」
乃愛はうつむいたまま、ぽつりと言った。
「わたしがへこんでるの察して、いろんなとこ連れてってくれて。外で映画観たりとか、慣れない料理とか、一緒にやってくれて」
「……うん」
「いいなって思う理由なんて、それだけで足りると思わない?」
頬を赤らめたまま早口で言われた言葉に、一瞬思考が停止する。
つまり、乃愛はあたしのことが好きということ?
「いや……でも、あたし、むりだよ。沙也みたいには……」
「今すぐとかじゃなくていいの。わたしも、振られて即乗り換えるみたいにはしたくないし」
画面の中でディカプリオたちが渾身の甲板キッスを見せる。真剣な乃愛の言葉はあたしが言いたいこと致命的にずれている。違うのだ、そもそも――。
「あたし、〝百合〟にはなれないよ……?」
おそるおそる口にすると、乃愛の表情がさっと凍りついた。
「フツーじゃないから?」
「え?」
「……いつも、私とさやちゃんのことフツーじゃないって思ってた?」
「いや、ごめ」
「謝るってことはそうなんだ」
「ちがくて。そういうふうに受け取ったんだったら、それはほんとに……ほんとにちがう、よ」
一瞬の戸惑いで取り返しのつかないことになりそうな問いを、あたしは必死に否定した。〝百合〟は――乃愛と沙也の付き合いは、対岸の素敵なパーティーみたいだった。そこに自分が加わる想像がどうしてもできないだけだ。
「じゃあ、どうして?」
「どうして……と、言われても……」
ずっとそう訊ねたかったのはあたしかもしれない。どうして、友達の延長で〝百合〟になれるのだろう。誰かと素早く、恋人になろうと思うのだろう。
乃愛は何か言いたげに言葉に詰まらせたあと、素早い動きで顔を伏せた。
「ごめん、もう、いいよ」
表情は見えなかったけれど、頬に涙が伝っていることは想像できた。声があまりに歪んでいたから。
「なにがいいの。もうさっきから全然わかんないんだけど」
「だって、やっぱ、ゆりかは優しいじゃん。だから傷つけないようにしてくれたんでしょ」
「意味がわかんない」
「だから、ゆりかはわたしとさやちゃんが付き合ったりすること自体はフツーだと思ってて、でもわたしとは無理なんでしょ。それって、単にわたしが好きじゃないってことじゃん」
一瞬、どこかが致命的にねじれる感覚があった。同時に、数年来眺めてきた彼女の顔が、知らない女の子のように見えた。それでもあたしは最低限の否定のために「待って」と絞り出した。
「乃愛のことは……ほんとにだいじだよ。あたりまえじゃん。ずっと一緒にいるし、ごはんの趣味合うし、今更いなくなるなんて考えられないし……」
「じゃあ、それで好きってことじゃだめなの?」
「好きではあるけど……」
「……さやちゃんとも、最初そんな感じだったよ。だんだん慣れて、あんな感じになれたの」
乃愛がしれっと言うけれど、あたしには何もわからなかった。ここから一体何に慣れるというのだろう。友達に、恋人に、……百合に? 一体何が、あたしの本当をラベリングしてくれるのだろう。
唐突に、ひとりになりたいと思った。誰もあたしのことを見ていない場所でなら熱された頭の芯が元に戻る気がした。ふたりの写真立て。おそろいの食器。この3LDKの空気は恋人向けにカスタマイズされすぎている。考えるべきことが砂糖のにおいに流されていく。
「……好きでは、あるのかもしれない」
やっと絞り出した言葉だった。本音には間違いないのに、乃愛に明け渡すにはあまりに危険な言葉であるような気もした。すると乃愛は、「それなら待つね」と言った。
何を、どこまで、待たせればいいのか、あたしには見当もつかなかった。
「あれ、学食めずらしー」
翌日。空きコマにひとりぼっちで素うどんをちゅるちゅるやっていると、向こうから貝塚先輩がやってきた。彼女はあたしに許可を取ることもなく、空いている隣のテーブルにしゅっとチキン南蛮をすべりこませる。アニメ研究会で知り合った先輩は、後輩を見つけるとこうしてよく絡んでくる。
「柘植ちゃんいっつもおべんとうだったじゃん。どしたの、」
「あー……なんというか、生活の変化があって」
あたしたち三人はそれぞれできることで家事を分担していて、料理好きな沙也は材料費と代行費二百円でみんなのお弁当も作ってくれた。そこに穴が空いた今、料理が嫌いなあたしと乃愛は学食素うどん界隈(最も安く、最も手軽)に流れつつあるのだ。
「あれ柘植ちゃんてひとりぐらし? 実家だっけ」
「あ、ルームシェアなんです、サークル……他大の、友達二人と」
「そかそか、映研のほうの?」
「です」
「それでこの時期にシェア解消? めずらしいね」
「あー、はあ、」
一瞬、迷った。
別にこんなところで馬鹿正直に事情を説明する必要はない。先輩は健全なアニオタとして百合もBLも嗜むけれど、いきなり生々しい話をされても反応に困るだろう。ツイッターランドに咲く白い花はあたたかく承認されている。だけど現実に横たわる女同士の接触についての反応に、あたしは驚くほど無知だ。
「……そのー、あたし以外の二人が付き合ってたんですけど、別れた、んで」
それなのにうっかり口をすべらせたのは、フツーじゃないと思ってるんでしょ、と言った乃愛の恨むような表情が、とっさに脳裏をよぎったからかもしれない。
「つきあ……女の子、ふたりでってこと?」
先輩の目がぱっちりどんぐりになって、あっ、と思った。間違えたかな。やっぱりそこまで聞きたい感じではなかったかな。
と、考えたところで。
「えっ、めっちゃいいじゃん」
先輩はチキン南蛮に伸ばした箸を止めたまま、本当に嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「私、ツイッターで百合カップルの共同垢フォローしてるよ。先輩後輩で同棲してるっていうエッセイ漫画もインスタでよく読むし。最高だよね、なんか、尊いてか、癒されるっていうか。え、お友達、そういうカップルチャンネルとかやってないの?」
「いや、まさにそれが地雷になったっぽいんですけど」
「あー、片方が顔出しNGな感じだったり? スタンスの違いとかはまあ、あるよね」
何かズレたものを感じつつ、あたしは「はあ」と呟いた。そのあいだにも貝塚先輩は「こんなとこで最高の話聞くと思わなかった」としきりにうなずいている。
「え、いいね、めっちゃいい。柘植ちゃん、毎日尊み摂取し放題だったってことでしょ」
「わかんないですけど、そうなんですかね」
先輩が話す〝百合〟とあたしの家の中で起きていたことは、どこか微妙に違う次元の話のように聞こえた。ただ、百合でもない自分が誰かの代表みたいに一言言うのも憚られた。大体何を言えばいいのかもわからない。二人が百合だったことに間違いは、ない。
「しっかし百合シェアハウスかあ、ロマンて身近に転がってるなあ」
したり顔で何かを理解したらしい先輩は「で」と箸の先っぽをこっちに向けた。
「柘植ちゃんにもなんかないの。そんなとこで暮らしてて」
「あー……」
「絶対あるやつじゃん、その間は」
ここまで来たら言わないのも逃げな気がして、あたしはなるべく簡潔に、残ったほうの一人に言い寄られていることを話した。案の定、先輩は瞳を輝かせて「ドロドロ系百合だったか」なんて適当な感想を言っている。
「……でも、そもそもあたし、〝百合〟じゃないんですよ」
「相手の子のこと嫌いなん?」
「そうではないですけど」
「じゃあもうそれが百合の芽生えだよ!」
なぜかあたしよりずっと嬉しそうに嘯いた先輩は、頬杖をついた上にちょっといたずらっぽい笑顔を載せた。
「それに柘植ちゃんもさ、ほんのちょっとはそのつもりだったんじゃないの?」
「…え?」
意味がわからない言葉に、反応が半拍遅れた。
「だからそのシェアハウス、どっから見ても百合の楽園じゃん、花園じゃん? そこに住んでるってことは、いつキマシタワー建ってもおかしくないじゃん?」
「いやいやいや……」
古のオタク用語にざらつきを覚えながら、あたしは言葉を選んで、あたしたち三人は元々恋愛的な利害の絡まない友達だったということ、ふたりはきちんとしたおつきあいをしていたことなどを伝えた。この世にきちんとしていないおつきあいがあるのかどうかは、わからなかったけれど。
「いやーいや! 実際別れてすぐ言い寄られてるじゃん! 百合、乱れ咲きでしょ! てかその子元々柘植ちゃん狙いだったりしたのかな? けど、妥協してもう一人の子と付き合って……」
あたしは言葉を返すのを諦めた。代わりに、極限まで美化されたあたしたちみたいなキャラクターが白いワンピースか何かを着てしんなりと絡み合っているところを想像する。先輩の頭の中にあるのはそういうものだと思った。決して、乃愛と沙也のことではないし、あたしと乃愛のことでもないのだと思った。
好きか嫌いかで分類すれば、乃愛はもちろん好き寄りだ。加えてあたしはあまり男性に興味がない。スキンシップだって友達の範疇なら拒む気はない。そこまで百合に漸近していてどうして線が重なり合わないかは、あたしにもわからない。
「付き合ったらぜったい教えてよ! ほんと応援する!」
やけに顔をつやつやにした先輩が去っていったあとには、伸びきった素うどんとあたしが残された。
「……もう、いいよ」
夜のソファ。電気の落ちた空間で、肩を寄せ合っていた乃愛が不意にささやいた。
「いいってなにが」
「だから、無理して近くにこなくてもいいってば」
痛いところを突かれてあたしはちょっと身を引いた。
恒例の夕食後の映画だらだらタイム。挑戦しないことに問題があるのかもしれないと考えたあたしは、できるだけ乃愛と距離を詰めて座っていた。慣れないことで緊張したのかもしれない。ポップコーンで空気を弛緩させても、二人では広いソファにはぎすぎすした隙間がある気がした。
「……いや、でも、もうちょっと頑張ってみるよ。そのうち慣れるかもだし」
その決意表明が更にまずかったらしい。ちょっと笑顔が少ないだけだった乃愛は、膝を立てて本格的に不機嫌モードに入ってしまった。
「……ゆりかはさ、優しいよね」
膝の上につっぷして顔が見えなくなった乃愛は、こういう場面で言うにはあまりに怖いことを呟く。
「自分にも優しいよね」
「…………」
「結局、わたしを傷つけないで本気で向き合う気がないんだよね。誰にでも適当に優しくして、本気になったら濁せばいいと思ってるんだよね」
「……あのさ、どうしてそういう発想になるわけ?」
「だって百合のこと、ほんとにフツーだと思ってたらこれくらいできるでしょ……」
刺すような台詞を残して、乃愛がさめざめと泣く。
「ゆりかがずっとそんな感じなら、もうわたし、出て行くよ。耐えれなすぎる」
「……それはイヤ」
「だからそれが困るんだって。振るなら振ってよ」
ドラマみたいなことを言って乃愛がぐしぐしと頭を掻きまわした。
あたしは百合がわからない。迎合することにすぐキレて最後まで肩肘張るようだった沙也のことも、やたらフツーと言い張って自分の百合に巻き込んでくる乃愛のことも。
別に誰に対してもおかしいなんて思ってない。他人を変えたいとも思っていない。あたしはただ、ささやかにあたしの普通を貫きたいだけだ。尊くも美しくもないものを、あたしがあたしとして存在する以上消せないものを、誰にも価値をつけられないまま、ちゃんと。
そしてそれは、沙也も、乃愛も、きっと同じはずなのだ。
「あのさ、乃愛のことは嫌いじゃないよ。とりあえず、あたしなりに」
あたしの好きは言葉に宿らない。態度に宿らない。けれど、それは不在を埋めたソファに、居心地のいいリビングに、この家のあちこちに宿る。そして、それは一つの確固たる証拠になってあたしを後押しする。
「でもたぶん、乃愛の望むような感じの……百合にはなれない。なんでって言われても、そっちが自然と百合になるのと同じ感じだからどうしようもないけど」
涙目になった顔が、ずびっとこっちを向く。
「だからさ、ちょっと、これからどうなるのか確かめてみない?」
膜の張った瞳と、あたしは初めてちゃんと視線を合わせた。
映画が終わる。
さて、ここから一体何が始まるだろう?
百合になれないユリカさん 小ライス @harunomatiawase
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