第38話
切りたての頃よりも少しだけ長くなった濡れ鴉色の髪を、窓から吹き込む風に靡かせながら、彼女はいつかのように窓の外を眺めていた。
……綺麗だな。不覚にもそう思う。
しかし一体何て声を掛けた物かと思案していると、その答えを出すよりも早く汐里が結也の存在に気が付く。
汐里は結也を見つけた瞬間パッと明るい表情を浮かべるが、すぐに何かを思い出したように眉根を寄せた仏頂面になった。
彼女のそんな様子に戦々恐々とする結也だが、流石にここで逃げ出すような事はできない。
結也は色々と覚悟を決めて、汐里へと歩み寄る。
「あーえっと、久し振り元気にしてた?」
「ええ、まぁ」
「そうか……えっと……ごめん、怒ってる?」
無言のプレッシャーに耐えられず早々に白旗を上げると、汐里がジロリと横目で結也を睨む。
「別に、怒っていませんよ。ただ誰かさんが全然連絡くれなかったのが、不満だっただけで」
その時汐里が小声で何かを呟いた「あんなことしておいて」と聞こえた様な気がしたがきっと聞き間違いだ、そういうことにしておこう。
「悪かったよ。ただなんて言うか、合わせる顔がなくって、何を話せばいいか分かんなかったんだ」
その時、汐里の片眉が僅かにピクリと動いた気がした。何やら微妙に地雷を踏んだような気がするが、何が地雷だったのか結也には斟酌する余裕はない。
「とにかくごめん。俺が悪かった、だから許してくれない?」
「だからこれは、怒ってるんじゃなくて……もういいです」
はぁと汐里は何かを諦めたようにため息をつくと、手に持ったある物を結也に差し出した。
「はいコレ、どうぞ」
ふて腐れたような顔をして差し出されたのは、結也が普段愛飲しているあの缶珈琲だ。
「ああ、ありがとう。ちょっと待って」
「あ、今日はそれいらないです」
結也がいつものように財布から珈琲代を出そうとしたところで、汐里に止められる。
「今日は御礼なので、私の奢りです」
「御礼って?」
特に考えもせず、殆ど反射で聞き返してしまい、そして結也はすぐにその事を後悔することになる。
「決まってるじゃないですか。この前公園で……その……」
あの時の事を思い出したのか、汐里は言葉の途中で顔を赤らめ俯いて言葉を切ってしまった。
そこで黙らないでくれ、こっちも照れる!
気まずいような、むずがゆいような沈黙の中お互い何を言えばいいか黙ること少し。
結也は珈琲を差し出した汐里の手が所在をなくしていることに気が付いた。
「えっと……とりあえずもらっておくよ」
「あ、はい。どうぞどうぞ」
お互いなんとなく目を合わせられないまま、結也が珈琲を受け取ると汐里は壁に背中をあずけ膝を抱いて座り、そこに自分の顔を埋めた。
結也も汐里の隣に腰を下ろして座るが、何かこの落ち着かないかないソワソワした空気を吹き払うような話題が思いつく訳も無く。
やることがなくなってしまった裕也は気を紛らわしがてら、自身の左手を目の前にかざした。
あの夜、この手から伸びていた赤い糸は気が付けば消えてなくなっていた。
どれだけ目を凝らしたところで、そこにはただ自分の左手があるのみである。
「何が見えるんですか?」
何気なく掛けられたその質問に思わずギョッとしてそちらを見ると、自分の膝の上に顔を置いて汐里が結也の事を見ていた。
「最初はなんだか不思議な人だなって思ってたんです。私が誰にも話したことがないはずの秘密を知っていたり、誰にも気付かなかったことに気が付いたりして。それで、最近気が付いたんです、出雲君はよくそうやって何も無いところをじっと見てることが多いなって。まるで私には見えない何かが見えてるみたい」
まるで自由研究の成果を報告する子供のように、無邪気にそれでいて少し楽しそうに汐里が話す。
「ねぇ、一体何が見えるんですか?」
ちょっとワクワクしているような、二回目のその質問に結也はなぜだか小さな笑みがこぼれた。
「確かに、日野さんの言うとおりちょっと前までは見えてたんだけどね」
「ちょっと前まで?」
「そっ、今は見えなくなっちゃった。でもそれでいいんだ、多分もう必要ないって事だと思うから」
そう言って結也はもう一度、自分の左手を見た。
夜の街の中、汐里を探して駆け巡ったあの夜に見えた赤い糸はもうそこにはない。
だがそれはきっと消えて無くなってしまった訳じゃない。
見ることが出来ないだけで、きっと今もすぐ近くにそれは存在している。
結也は汐里からもらった缶珈琲を開けるとそれをゆっくりと口に含んだ。
「……ちょっと甘いかな」
「あれ? 私、間違えて買ってきてました?」
「いいや、そう言う意味じゃないよ」
汐里は怪訝な顔をするが、結也はあえてそれに気が付かないフリをした。
あの糸の先がどこに繋がっているのか、それを確認することはもう出来ない、もしかしたらその先にあるのは辛くて苦しい現実かもしれない。
だけどもしそうだったとしても、自分はその事を恨んだり後悔することはないだろう。
だって人を好きになるということは素敵なことなのだから。
なんてそんならしくもないことを思いながら、結也はいつもよりも少し甘い珈琲をもう一度口に含むのだった。
fin
――あとがき――
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無謀にも先生に恋をしている女子に声を掛けたらなぜかその子の恋を応援することになった 川平 直 @kawahiranao
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