誘惑の甘い香り

綾南みか

第1話


「リーフェ、お前との婚約を破棄する!」

 卒業式後の夜会のホールに、王太子フィリップの声が響き渡る。夜会を楽しんでいた王立学園の卒業生たちは、何事かと声の方を振り返った。


 そこには三人の男女が佇んでいる。声を上げた王太子フィリップ、その前に侍る今、婚約破棄された伯爵令嬢リーフェ、そしてもう一人は王太子フィリップの側に寄り添う美しい金髪碧眼の令嬢。


 そちらを見て卒業生たちは、ひそひそと話す。

「じゃあ、アンシェラ様が──」

 

「お前は毒毒令嬢だ。お前に触れるだけで、毒に侵されやがては死に至るという」


 近頃、リーフェが伯爵令嬢であるのに王太子の婚約者、未来の王妃であることを嫉妬した、伯爵家よりもっと上位の貴族家からの酷い中傷が貴族社会にばら撒かれている。

 それは話しただけで、近付いただけで毒に侵されやがては死ぬという恐ろしいもので、誰も死にたくないからリーフェには誰も近付いたりしない。傍を通るだけで大袈裟に騒ぐ者まで出て、リーフェはとても辛い思いをしている。


 伯爵令嬢リーフェは黒い髪、紫の瞳で王太子フィリップを見る。ちょっと首を傾げ不服そうである。

 この王子は知らないのだろうか。リーフェの体質は王家と伯爵家の間で密約を交わされ公開されていない。

「殿下、それは違いますわ」

 リーフェはアルトの柔らかい声でそう言った。


 しかし、フィリップは怒鳴り返す。

「うるさい、言い訳はするな。私はお前のような者を、側に置いておくのも嫌だ」

 王太子フィリップは隣の金髪碧眼の令嬢を引き寄せた。


「私にはお前のような毒々しい女ではなく、この美しい侯爵令嬢アンシェラこそ、身分も容姿も何もかもが相応しい」

 アンシェラはにっこりと笑みを作った顔を扇に隠して、しとやかに答える。

「まあ、フィリップ殿下。わたくし嬉しゅうございますわ」

 彼女に蕩けるような笑顔を見せて頷いて、王太子はことを進める。

「今まで皆、騙されていたが、私は騙されないぞ。サッサとコイツを牢に連れて行け!」

 王太子が命じると、衛兵たちは噂を恐れて恐々とリーフェを取り囲む。


 リーフェはがっかりした。婚約した時は仲が良かった王太子は、美しいアンシェラに夢中になって、リーフェに冷たくなった。リーフェの噂をこれ幸いと誇張したのは噂を広めたアンシェラだけではなかった。最近では二人で会ったこともない。贈り物も手紙も従者の代筆で、それさえもなくなった。


 リーフェは伯爵家の娘だし、元々この婚約には無理があったのだ。それをどうしてもと、王家に押し切られた。そして、リーフェには辛い王妃教育が待っていた。


 王宮では王太子に愛されないリーフェに、女官達も教師陣も意地悪だった。少しの間違いでもあげつらい、手を打たれたり、飲み物に軽めの毒を盛られたりした。

 だが、その所為で元々あったリーフェの能力は開花してしまった。それはもう大輪の花が開くように。


「わたくしは何もしておりませんわ。でもそのように殿下が仰るのでしたら、もうよろしゅうございます」

 リーフェはカーテシーをしてその場を立ち去ろうとした。

 元々王家に押し付けられた婚約であった。最近の冷たい仕打ちに早々と心は折れて、王太子フィリップに対して最早何の感情も残っていない。


 リーフェの噂に恐れて、衛兵は手を触れようとしない。リーフェは衛兵に囲まれたままホールを出ようとした。



 すると、リーフェを引き留める者がいる。

「お待ちください、リーフェ嬢」

 この国に遊学していた隣国の第三王子エリゼオが引き留めたのだ。何処か身体が悪いのか、エリゼオはゆっくりと足を引き摺るようにしてリーフェの前に来た。

「リーフェ嬢」

 と、彼女の手を取って囁くように告げる。

「私が貴女の婚約者に立候補したい」


「わはは……」

 それを見たフィリップは嘲笑った。

「毒に侵されたようなエリゼオならば、毒毒令嬢にお似合いだろう。すぐにあの世に逝かれないよう気を付けられよ」


 そして傍らにいる金髪碧眼の美少女を振り返る。

「私の婚約者はここに居る侯爵令嬢アンシェラとする」

 フィリップは宣言した。

「まあ、嬉しいわ。謹んでお受けいたします」

 アンシェラはべったりとフィリップにくっ付いた。


 フィリップ王太子とアンシェラはそのままホールを後にする。最早、お互いしか目に入らない。恋に夢中であった。



 リーフェの悪口をフィリップに囁いたのは、このアンシェラだと皆知っている。そして王太子がそれに乗ったのだ。これは茶番劇であった。

 しかし、隣国の王子エリゼオの話は聞いていない。エリゼオは病身で滅多に教室に現れなかった。



 広間にいるこの学園の卒業者たちの関心事はそちらに向いた。

 皆、固唾を飲んで、この新たな登場人物が何を言うのか見守っている。


「リーフェ嬢……、あなたを得られて、無理を押して、この学園に……、遊学した甲斐があった、というものです。ゼイゼイ……」

 エリゼオはゼーハーいう息の合間にリーフェに告げる。

 どうやら今のフィリップ王太子の言葉で、了承されたと受け取ったようだ。


 エリゼオ王子の髪はくすんだ鈍色で、顔は青白く、赤い斑点が浮かんでいる。身体は痩せ細って、従者が支えていた。


「私は毒殺されようとしたり、毒矢を射られたり、呪われたり、毒に苦しめられてきた」

「まあ、お可哀想によくご無事で」

 隣国はなかなか王妃に子供ができなくて、国王は側妃を後宮に入れ、側妃の子二人と王妃の子二人の王子がいる。四人はあまり年も違わず、王太子の座を巡って水面下で熾烈な後継者争いが起こっているという。


「実はあなたの噂を聞いて、毒耐性が欲しいと思ってこの国に来たのです。この国に美しい毒姫がいると聞いて……」

「でも、わたくしは毒を吐き出したりいたしませんわ」

 リーフェは気の毒そうに王子を見る。


「いいのだ。あなたに会ってその美しい姿を見て、ますますあなたが好きになった。この命が永らえられぬのが悲しいが、私の全てをあなたに差し出そう。どうか私に、今しばらく儚い夢を見させてはくれないか」

 エリゼオ王子はリーフェに真摯に願った。


「いいえ」

 エリゼオはその言葉を聞いて絶望に倒れそうになった。その身体を従者と一緒にリーフェが支える。


 リーフェはにっこり笑うと言った。

「わたくしだけが感じるのですけれど、毒は甘いんですの。あなたに毒があるのなら、わたくしが取り除いて差し上げますわ」

 思いもかけないことを言って、令嬢は王子の手を取り顔に引き寄せる。

「あら、この香り」

 彼の手を取り、クンクンと匂いを嗅ぐ。

「あ……」

 隣国王子が儚い声を上げた。みんなギョッとして二人を見る。エリゼオが逝ってしまったのかと思ったのだ。


「これはドクニンジンから抽出したものかしら、少量だとお薬になるのですけれど、独特の匂いがありまして好みが分かれる所ですわ」

 リーフェはエリゼオ王子の手を取って、デザートを頂いた後の猫のような顔をしている。

「少しエリゼオ殿下の毒を頂きましたの。お加減はいかが?」

「何と、そんなことが出来るのですか、そういえば少し呼吸が楽になりました」

「よかったですわ。でも──」


 リーフェは少しはにかんで、迷いながら言う。

「手からでもいけますが、効果的なのは唇からなのですが……」

 それ以上は言えなくて、赤くなって顔を覆った。


「何と……」

 可愛いとエリゼオ王子は思った。今まで受けたハニートラップなど物の数にも入らない。一発で参ってしまう程の可愛さであった。


「私達はもう婚約者です。遠慮なく──。それにここで皆様に効果を見ていただいた方が誤解も解けてよろしいのではありませんか」

 躊躇うリーフェに積極的に願った。


「そういえばそうですわね」

 リーフェは恥ずかしかったけれど、やっぱり毒毒令嬢として誤解されたままなのは嫌だった。誤解を解きたい。それに彼の容態はあまり良くない。この王子の身体を蝕んでいる毒を早く取り除いた方がいい、いや一刻も早く取り除いてあげたい。


 それに──、

 彼からとても良い匂いが漂って来るのだ。リーフェを引き寄せる毒の甘い香りが。

 二人はその場で向き合った。


 エリゼオ王子がリーフェの肩を引き寄せて唇を寄せる。

 ちゅ……。

「これはヒ素ですわ。無味無臭で危険な美味しさですわ」

 ちゅちゅ……。

「これはジギタリスね。この苦味も、……素敵」

「んーーーー!」

「ああ、とても素敵でしたわ」


 王子は目を開いてリーフェを見た。今まであんなに重くて辛くて苦しかったのが嘘のようだ。身体中を爽やかな風が吹き抜けている。腕の中の令嬢は黒髪に紫の瞳が潤んで非常に美しく扇情的であった。

「ううむ、何と素晴らしい、リーフェ嬢。お陰ですっかり毒が取れた」


 何とそこには、毒が取れて美しい銀の髪に薄青の瞳で、殆んど赤い斑点の見えなくなった、輝くほどに美貌の王子様が──。まだ少しやつれて痩せているけれど、すっくと立っていたのだ。


 隣国の王子エリゼオは、すっかり元気になった。

「ああ、ありがとう、あなたは命の恩人だ。これからもずっと私の側にいて欲しい、我が妃」

「あら、こんなに素敵な方なのに、わたくしでよろしいんですの?」

 彼を苛んでいた毒が抜けて、すっかり素敵になった王子様にリーフェは恥ずかしそうに聞く。

「君こそ、我が命! 我が愛! 我が全てだ」

「まあ、喜んで」


 卒業生一同は二人に当てられて、呆然と、しかし、しっかりと見ていた。

 まるで劇のような一幕、美しい抱擁を。



 王子エリゼオはリーフェをエスコートしてホールを出る。隣国の立派な馬車に並んで座って、リーフェの伯爵家の領地に向かった。


「はっ、私は毒が抜けてしまったが、君を喜ばせることが出来るだろうか」

 途中で王子は大変な事に気が付いた。

「大丈夫ですわ。わたくし毒が作れますし、解毒薬も作れますの。オヤツですわ」

「何と解毒薬も」

「夜会では持ち合わせておりませんでしたの。それに、エリゼオ殿下がとても辛そうにしていらっしゃったので……、あの、ご迷惑ではありませんでしたか?」

 リーフェは頬を染めて王子を見上げる。


「何がだい?」

「……勝手に、その、毒を頂いてしまって……」

 恥じ入って聞くリーフェは物凄く愛らしかった。

 エリゼオ王子はリーフェを抱きしめて囁く。

「君のキスは天にも昇る心地だった」

「わたくしを置いて、昇天されてはいけませんわ」

「君を置いては何処にも行けないよ。愛しているよ、リーフェ」


 隣国の第三王子エリゼオは国内のゴタゴタで、何度も毒を盛られていたのだった。

 二人は手に手を取って伯爵家の領地に帰った。伯爵家の両親は時ならぬ隣国からの貴賓客に驚き、リーフェと王子エリゼオの話を聞いて王太子フィリップに呆れ果てた。エリゼオ王子はリーフェと両親を伴って、隣国に出発した。



 王子フィリップは宮殿に帰ると、国王陛下に呼び出しを受けた。

 フィリップはさっそく国王陛下に、リーフェを婚約破棄して、新たにアンシェラと婚約すると報告した。


「何と、お前は馬鹿か、リーフェが何の為にお前の婚約者だったと思っているのだ。この弱小国で、リーフェがいなければ、我々はどうやって身を守ればいいというのだ」

「父上……」


 リーフェが隣国に渡って、第三王子エリゼオの婚約者になったという情報は、すぐに各国に知れた。王家は他国の毒攻撃に遭ってあっさり滅んだ。

 一方、リーフェが結婚したエリゼオは、とても優秀で、それ故狙われていた。彼はリーフェと共にそれらを退け、王太子になり国王になった。




  おしまい


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