第3話 家族とは

 咲江の攻撃にビックリはしたが、その後我に返った咲江は、自分が今したことを急に後悔しているようだった。しかし、それは恭一に対してしている後悔ではなく、自分がしてしまったことを悔いているのだ。

 はしたないことをしてしまったと思っているのか、それとも、慕っている兄に知られてしまった自分の性質について悔いているのか。しかし、自分の性格や性質をどうにも変えることができないと分かっているのだとすれば、そのことを悔いるというのは矛盾しているような気がする。

 少なくとも、してしまったことで恭一に対して、

「悪いことをした」

 という意識はないようだ。

 それは、キスをするということが悪いことだとは思っていないからではないだろうか。

キスというものに対してどこまでの感覚を持っているのか分からないが、恭一の方は確かにいきなりでの初キッスだったこともあって、大いに慌てたが、冷静になってみれば、そんなに大したことではないようにも思えてきた。

 恭一は、このことを誰にも話すまいと思った。人に話すようなことではないという思いが強かったからだ。つまりは、話さないのは咲江や自分のためではない。誰かのために話さないというわけではない。話す必要がないことをいちいち話すことはないというだけのことだった。

 ただ、なぜ咲江が自分にキスをしたのか、それが分からないと、どんどん気になってくる。

「私、お兄ちゃんのことが好きなの」

 という言葉が続くのを待っていたというのが本心で、その言葉が聞けなかったのは、そのキスが衝動からの行動で、我に返ったことでどうしていいか分からなくなったという動揺から、そこで気持ちが切れてしまったとも考えられる。それは恭一にとって、何とも消化不良な思いしかしてこなかった。

 そんなことがあってから、その年の夏休み、家族で旅行という話が持ち上がった。恭一の初キッスから二か月くらい後のことだったが、それからの咲江は何事もなかったかのように恭一に今まで通り甘えてきていた。

「お兄ちゃん、勉強教えて」

 と言ってくるので、咲江の部屋に入るのは日常茶飯事になっていた。最初の日と違って二回目からはまったく意識することなく入れた。そもそも女の子の部屋という雰囲気でもないので、気軽に入れたのだ。

「お兄ちゃんが入りやすいように、あんまり派手にしていないのよ」

 と咲江は言ったが。もしそうだとすれば、

「そんな、俺なんかのために気を遣わなくてもいいよ」

 と口では言ったが、咲江の気持ちはありがたかった。

 どうやら咲江には、恭一が感じている女性恐怖症が分かっているのかも知れない。

「女性恐怖症」

 その感覚は、恭一自身にも最近までなかった。

 恐怖症と言っても、形に現れる自分への迫害のようなものを怖がっているわけではないまわりの女性が恭一に無言の圧を掛けてくるわけでもないのに恐怖症だというのは、恭一側に問題のあることだった。

 ただ、本人は恐怖症だと思っていないのだが、まわりが恐怖症だと認めてしまう。それは恭一の行動がまるで発作的に女性を避けてしまうことがあるからだった。

 別に女性を特に嫌いだというわけではない。性質的に受け入れられないなどということもない。昔苛められてそれがトラウマになったというわけでもない。自分でも分からないところで、反射的に身体が避ける行動を取ってしまうのだ。

 それを見てまわりは、

「あいつ、女性恐怖症なんじゃないか?」

 とウワサされるようになり、その頃はまだ異性への興味もなかったので、そのウワサに便乗する形になっていた。

 わざわざ否定するのが面倒だったというだけだが、今度は思春期に突入し、本当に異性が気になり始めると、まわりが意識している自分に対しての、女性恐怖症というイメージをどうすればいいのか分からなくなった。

 このまま、女性恐怖症で押し切ればいいのか、では、本当に好きになった女性が現れればその時はどういう態度を取ればいいのか、それもまわりに対してと、その女性に対して、さらには自分に対しても考えられる。

 咲江は何とか、恭一の興味を引こうとしていた。しかし恭一はそれほど咲江に興味を示そうとしなかった。それがどうしてだか最初は分からなかった咲江に、一つの考えが浮かんできた。

――まさか、お兄ちゃんは、お母さんの方に興味を持ったのでは?

 と勘ぐってしまったのだ。

 だが、その予感の半分は当たっていたことで、咲江はさらに分からなくなってしまった。恭一は確かに女性恐怖症にはなっていたが、それは咲江などの考えている恐怖症とは違っていて、恐怖症というよりも、女性からの誘惑に対して、避けているだけのものだった。女性からすれば完全に避けられていると誤解するのも無理もないことだが、それを恐怖症だと解釈してしまうのも、実は性急すぎるのだった。

 咲江は事あるごとに母親を監視し始めた。それはあくまでも恭一との接触という意味だけのことで、それ以外のことにはあまり興味を示さなかった。道子さんもまさか咲江が自分と義理の息子である恭一の仲を疑っているなど思いもしなかった。ただ、道子さんが恭一を男性として意識していることも半分は当たっている。咲江という女の子は、人が考えていることの半分に対して思い込み、余計な発想から、妄想を果てしなくしてしまう癖のようなものがあった。

 そのことを母親の咲江も知らなかったのだから、他の誰が知ることができるであろうか?

 唯一知っている人がいたとすれば、それは亡くなった父親だった。亡くなった父親は家族に対しての勘は結構鋭く、道子さんに対しても、咲江に対しても思っていたことはほぼ当たっていたようだ。

 元々生まれついての勘の良さもあるのだろうが、最初の子供を亡くした時、道子さんの悲しみを見ていられなかったことで、道子さんに対して暖かい目で見るという意識が強くなった。その思いが嵩じて家族を大切にするための目が養われ、不幸にも亡くなってしまったが、生きていれば理想の家族が築けていたに違いないと思っていただろう。さぞや無念だったに違いない。

 そんな父親にも分かっていたかどうか、咲江は成長するにしたがって、その行動力は、想像を絶するものになっていた。

 そのことは道子さんにもウスウス気付いてはいたことだろうが、成長の過程において、それくらいのことはあって当たり前だと思うだけに、そこまで心配はしていない。特に母親は同性という目で見るので、自分の思春期とその前後のことを思い出すと、少々過激なこともあったような気がして、それほど気にはなっていなかった。

 だが、それはあくまでも親としての贔屓目であったり、遺伝があるからという意識からか、

――あの子に何か過激なことがあれば、私の遺伝なんだわ――

 と思わずにはいられなかった。

 それだけ父親はしっかりしていた人であり、決して石橋を渡る時、叩かないなどという選択をする人ではなかった。しかも、道子さんも子供の頃は結構行動的な性格で、

「おてんば」

 と言われていることもあったくらいだ。

 今の道子さんからは想像もできないが、それは娘である咲江にも同じであろう。そういう意味で自分に行動力があり積極的な性格は、誰からの遺伝でもなく、自分だけが持って生まれたものだという思いに駆られていたに違いない。

 その思いが咲江を有頂天にもした。

 今までの自分の性格は、ほとんどが父親からか母親からの遺伝だと思うことがほどんどだったので、

――私独自の性格ってないのかしら?

 と思っていた。

 その性格がいい悪いを問題にしているわけではなく、まずその存在に気付きたいと思っていた。

 だから気付いた時には嬉しくて、しかもこの性格のどこに悪いところがあるのかと思うほどであった。性格などというのは、ほとんど裏表があり、いい部分が表の場合と悪い部分が表に見えているだけのことで、

「上の下か、下の上かの違いにすぎない」

 という発想を持っていたようだ。

 明らかな違いはあるのだろうが、善悪という意味での違いから考えると、そこまでハッキリとしたものではないだろう。

 実際に今までの行動力はすべてがいい方に展開していた。これからは気を付けなければいけないと思いながらも、この性格に準じていく気持ちに変わりはなかった。

 咲江は正直、自分が義兄の恭一を好きになったのかどうか、ハッキリとしなかった。しかし、恭一があまりにも自分に興味を示さないことで業を煮やした気分になったことで、それまで中途半端だった義兄への気持ちがハッキリと、

「好きなんだ」

 と感じるようになった。

 キスをしたにも関わらず、その時はビックリして、このまま自分のことを好きになってくれるのではないかと期待していたが、その期待はあまりにも都合がよすぎたようだ。恭一は咲江に興味を示すことはなく、ただ、妹として接してくれていた。

 恭一とすれば、義理の、しかも妹なのだから、まるで腫れ物にでも触るような気持ちだった。逆に咲江の方はといえば、

「義理なんだから、お兄ちゃんと言っても、別に血は繋がっていないのだかから、好きになってもいいのよ」

 と思っていた。

 咲江の方が考え方としては現実的だが、自己に都合よく考えているところがあり、恭一の方は、考えすぎと言われるほどではあるかも知れないが、それだけ妹のことを大切に思っているということだろう。

 お互いに思い合っている気持ちに違いはなく、全体的に見ると、微笑ましさもあるのだが、この二人の考え方は決して交わることはない。交差することはあっても交わらなければ、二人は永遠にすれ違いでしかない。

 そのことを、お互いに分かっていなかった。

 恭一ももう少し遠慮の気分を和らげればよかったのだが、これも恭一の性格で、この部分はある意味父親からの遺伝なのかも知れない。そう、性格的には厳格で、本来であれば自分がもっとも嫌いな部分であるはずなのに、それをこともあろうに咲江に見せてしまったのだから、咲江の方としても、意地になってしまうのは仕方のないことであろう。

 そのため、咲江は

――このままお兄ちゃんに近づいているだけでは、私の気持ちは成就しないんだわ――

 と考えるようになっていた。

 行動力がある咲江だったが、その行動力に伴う考えがついていけてない様子なのは、まだ小学生という中途半端な年齢だったからであろう。

 もうすぐ思春期に入ろうとしていて、いや、半分足を突っ込んでいてもおかしくない年齢なので、咲江は自分のことを顧みることも少し増えてきただろう。

 しかし、だからと言って、自分のことが分かってきたわけではない。行動力に伴う頭がついていけていないことは自分でも分かっていたのだ。しかもそこには彼女の中の、

「都合のよさ」

 が見え隠れしていて、彼女の行動はどこに向いてくるのか、本人にすら想像もつかないほどだった。

 咲江がターゲットにしたのは、何と義父だった。父親を誘惑することで、恭一の中にあるライバル心のようなものが燃え上がってくれれば、自分に目が向いてくれるという発想であった。

 これは、誰が考えても実に浅はかなものである。勉強が好きで頭のいいはずの咲江の考えることとしては、いささか矛盾しているように思うが、身体と精神のバランスが崩れてくると、考えることも突飛さが段階を踏まずに飛び越えてしまうようだった。

 恭一が自分の父親を敵視しているということは、咲江には分かっていた。

 ちなみに、道子さんも分かっていたのだが、道子さんが見たのは父親側から見た二人の関係であり、咲江のように息子側から見た二人の関係とは違っている。しかし、咲江の考えはどこか中途半端なところで正解なのが実に恨めしいところであり、どこまでが大丈夫なのか、誰にも分かる問題ではなかった。

 咲江は父親と恭一の性格がまったく正反対であるとは思っていたが、その衝動に対しても正反対だという感覚はなかった。やはりそこは親子だという思いが強かったので、危険はないと思っていたのだ。

 だが、母親から見れば、少し不安はあった。再婚を考えた時、咲江のことが心配ではないわけはなかった。それだけ恭一の父親に対して、オトコとしての疑念を抱いていた証拠であるし、そのことを誰にも悟られないように振る舞っていたのだが、それがよかったのか悪かったのか、答えは出ていないと思っていた矢先だった。

 咲江はわざと父親と二人きりになる時間を、自らが演出した。そして「悪だくみ」という名の、

「ちょっとした悪戯」

 のはずだった計画を、まさか義父に悟られているとは思いもしなかった。

 それだけ義父のことを舐めていたのだし、恭一の父親だということでの安心感もあったのだろう。やはり小学生の浅知恵だったと言えるのではないだろうか。

 その日、父親は少し遅く帰ってきた。少し酒が入っているようだったが、普段に比べればそれほどのことはなかった。仕事の付き合いとは別に、さほど飲まないで帰ってくることもある。それを道子さんは知らないわけでもなかった。

 ウスウスではあるが、

――どこかで、一人で呑んでいるのかしら?

 と最初は思っていたが、どうやら一人ではないようだ。

 その証拠にその日の服には決まって女性の香水の匂いがついていたからだ。

 そのことを道子さんは父尾谷言及したり、ましてや責めたりすることはなかった。知らぬふりを続けていたが、それが父親を却って増長させる原因になったのかも知れない。それからしばらく父親のそんな、

「浅い酒を煽って帰る」

 という所業は続いていたような気がする。

 それをれっきとした浮気として実証することは不可能だが、道子さんはとりあえず、そんな日の状況だけはメモに残しているようだ、いざという時の証拠にと思っているのか、これも彼女なりの自己防衛なのかも知れない。

 それにはいろいろな理由付けがあるのでないか。子供や自分のことで心配をかけて、それを晴らす間もなく死んでしまった元夫への義理立てであったり、娘に対しての愛情の注ぎ方が長男のこともあって、自分でもよく分かっていない中での子育てであることでの不安を与えているという自負もあり、今度の結婚に対してのそれなりに「保険」を持っていることは大切だと思っていたようだ。

「それなのに、どうして再婚なんかしたのか?」

 と言われるかも知れないが、恭一の父は、実は道子さんとその元夫との共通の知り合いだった。

 元々二人が結婚した原因を作ったのも父親で、二人にとってはキューピットのようなものだった。結婚後もいろいろ相談にも乗ってくれていて、他の誰にも話せないようなことでも父親には話せたようだ。

 本当は、恭一がまだ小さくて物心もついていない頃、何度か家にも遊びに来ていたことがあるという。だから実の母もまったく知らない仲ではないだけに、二人の再婚は誰も驚くことではなかったという。

 だが、二人とも再婚であることで、センセーショナルというわけにはいかず、地味な結婚でもあった。そもそも市子さんの元夫と道子さん、両親の四人は、ほとんど四人だけでつるんでいて、それ以外の仲間というとほとんどいなかったような関係でもあった。学生時代などはそれでよかったのだろうが、世間的に仲間が少ないのは、ちょっと気になるところでもあった。

 そんな関係だったので、道子さんとの再婚はある意味、

「腐れ縁」

 と言ってもいいかも知れない。

 それぞれ連れ子があっても、それでもよかった。二人とも、

「お互いに一緒になるのが一番自然な気がする」

 と思っていただけだった。

 それだけに、道子さんへの父の愛情はそれほどでもなく、道子さんとしてもそれが分かっているだけに、寂しくもあったのだろう。父が遅く帰ってきた仕事以外の時も、浮気しているかも知れないと思いながらも、何も言わないのはそんな関係を今壊したくないと思ったからだ。

 だが、実際には浮気をしていたわけではない。浮気するほど父親は根性が座っているわけでも、モテるわけでもなかった。お金があればそれなりにモテたであろうが、そういうわけでもない。だが、逆にお金を払えばモテるところがあるのも事実で、そんなところに通っていた。そんな時はあまり呑まないようにしていた。男の欲望のすべてを吐き出せるわけではないので、ある意味中途半端なストレス解消であった。風俗でも直接的な相手ができる場所に行く勇気もお金もない父親は、帰ってきてからというもの、一種の「ふて寝」に近かった。

 そんなところに忍んでいくのだから、危ない危ない。一歩間違えれば、本当に畜生に落ちてしまう可能性がないとはいえない。

 父親が、根性のない臆病者で助かったというべきであろうか。襲い掛かられた時はビックリしたが、最後は、

「お互いにこのことは黙っておこうね」

 と優しく言ってくれたことで、すでに酔いも興奮も覚めていた父親は、自分の臆病を呪いながら、それでも一切悪いことをしたわけではない自分にホッとしていた。

 咲江も自分の行動が浅はかすぎて、穴が合ったら入りたいと思うほどのことだけに、本当に誰にも知られたくなかった。その日は、これくらいのことしか書けないほどの、実際には大したことなく、事なきを得たということであった。

 そのことは誰も知らないはずだった。しかし、

「上手の手から水が漏れる」

 ということわざもあるくらい、どんなにうまく隠しても見つかる時は見つかるというののだ。

 今回の発覚は実にひょんなことからであったが、それはこういうことだった。

 なるべく息子は父親とは顔を合わさないようにしていたのだが、それは顔を見ればムカムカきて、何か言わずにはおれなくなるからで、父親の方も同じだと思うと、お互いに顔を合わさないのが一番だという暗黙の了解になっていた。

 それは道子さんにも分かっているようで、二人が顔を合わさないようにうまくことを運ぶことが多かった。そもそも、この結婚に踏み切った理由の最大ではないが多くなところとして、

「息子との間に和クッションがほしかった」

 という父親の思いがあったからだ。

 父親としてみれば、息子は引きこもっているのが自分の責任だとは感じていたが、それだけではなく、

――ひょっとすると、学校で苛めに遭っているのではないか――

 という思いもあったからだ。

 実際に苛めには逢っていなかったが、苛めに近いものはあった。だが、恭一自身が孤独を嫌としないこともあって、それほど本人は気にしていなかったのも事実だ。

 父親は今日意思hの中途半端なところが気になっていた。それは息子に対しての数少ない遺伝の一つとして、数少ないだけに分かっているのだが、そのことを息子が気付くはずもなかった。

 その思いが息子に対しての憤りとなり、何かを言わなければ気が済まなくなっていた。

 息子としては、余計なことを言われると、ただでさえ苛立っているところに抑えが利かなくなってくる。そう思うと、火に油だった。

 最近は、仕事もうまく行かず、いろいろなところで小さなトラブルを起こしては、その火消しに躍起になるため、心身ともにその衰弱は激しかった。

「何をするのも億劫だ」

 と言わんばかりで、毎日、酒を煽らないと我慢できなくなってきたくらいだった。

 いわゆるアルコール依存症なのだろうが、呑むと言ってもさほどの量ではない。たまに呑みすぎることもあり、その日もその、

「呑みすぎた日」

 の一日だった。

 帰ってくると、いきなり水道で水を汲み、何杯か呑んだ。一気の呑んだこともあり、ついつい溜息や声が大きくなったようで、部屋にいた恭一が最初に飛び出してきた。

 もう、部屋の中で布団に入ってウトウトしていた道子さんは、起きてくる分だけ出てくるのが遅れたのだ。

 もうそうなると、道子さんは完全に飛び出すタイミングを失った。

「何やってんだよ。親父。しっかりしろよ」

 と、まるで他人事のように酔いつぶれている父親を窘めた。

 息子とすれば、

「しょうがないな」

 という程度のことだったが、そんなことを息子から言われたことが癇に障ったのか、急に怒り出した。

「何言ってやがるんだ。誰のおかげで生活できていると思っているんだ」

 これは、酔っ払いにすればベタなセリフであるが、これほど恭一にカチンとこさせるセリフはなかった。

「酔っ払いが何をまともなこと言ってるんだ。顔洗って出直してこい」

 息子も負けていない。

 こうなると売り言葉に買い言葉、悪口の応酬だった。道子さんはどうしようもないと思い、布団に入り込んだ。自分が出て行ってもどうしようもない。却って火に油を注ぐと思った。

 その時の父親の吐いたセリフ、

「お前、咲江が好きなんだろう?」

 この言葉に恭一は半分キレていた。

「うるさいな。どうでもいいだろう」

 というと、

「フン、あの娘は俺とな……」

 と言いかけてやめた。

 その話は道子さんには聞こえていないはずだ。

 恭一は、それ以上言わせないように口をつぐんだが、父親はそれ以上は何も言えないほど一気に疲れが回ったのか、そのままぐったりとなってしまった。

――そういえば、咲江は様子がおかしかったな――

 確かに咲江を好きではあるが、結局何もできなかった自分を悔しく思っていた。

 それなのに、この愚男は何をしたというのだ。咲江の様子を見る限りでは最悪の結果にはなっていないはずだと思ってはいるが、

「こんな酔っ払いのいうことを本気で聞いていいものか」

 という思いと、

「酔っぱらっているだけに本心が出る」

 という思いが相まって、結局結論は想像がつかないままだった。

 小心者というのがどういうものであるか、一番分かっているのは、小心者であるその本人である。しかし、それは分かっているつもりでいるだけかも知れない。内容はその人によって違い、小心者ほど、

「他の小心者は、自分のことが分かっていない」

 と思い込んでいるものだ。

 これは矛盾していることであるが、その矛盾は意外と小心者の真理をついているのではないだろうか。

 そのため、ついつい去勢を張りたくなる。それが酒の酔いによって増幅されることになったとしても、それは仕方のないことなのかも知れない。だから、恭一が父親と同じ立場であれば、自分も口走っていたかも知れないと思うと、空恐ろしい気がした。

 恭一は父親のその告白を聞いた時は、

――しょせん、小心者の戯言だ――

 という気持ちであまり意識をしていなかった。

 しかし、それが同じ小心者として、分かる部分を感じると、だんだんとこの家にいるのが息苦しくなってきた。

――とにかくどこかに避難したい――

 という気持ちである。

 思い浮かんだその場所というのは、実の母親の場所しかなかった。一度、一日だけ世話になったが、今回行けば、いつまでいるか分からない。

 もちろん、母親の都合もあるから、そういつまでもというわけには行かないだろう。そんなことは分かってはいるが、それでもずっとこの家にいるよりもマシだと思った。その証拠に前一度一日いただけでかなり精神的に楽になったものだったからだ。

 恭一はさっそく母親の元を訪ねた。母親は相変わらず忙しくしていた。ただ、以前の時と違って、母には新たな恋人がいるということだった。

「よく来たわね」

 と久しぶりに姿を見せた息子に母親は歓待の言葉を向けてくれたが、その言葉のどこかにぎこちなさを感じた。あまり人の気持ちが分かる方ではない恭一であったが、これだけ義理の親子と気を遣いながら過ごしていると、嫌でも人のことが気になってしまうもので、それでも自分が感じているよりも、ここまで気になっているなど思ってもいなかった。

「またお父さんと喧嘩でもしたの?」

 と、楽天的に話すその話しぶりは、まるで他人事のようで、イラっときたが、助けを求めるつもりで来た以上、文句を言える立場ではない。

「もうちょっとややこしいんだけどね」

 というと、

「お父さんはああいう性格だから、許してあげてほしいとは思うけど、お前のその顔を見ていると、そうもいかないようね」

 と言って、

――なんでも分かっているわ――

 と言わんばかりの母親の表情に、またしても苛立ちを感じた。

 それはさっき感じた他人事に見えることに対しての苛立ちとは違っていた。今度の苛立ちは、まったく逆で、母親が自分以上に、恭一のことを分かっていることに苛立ったのだ。

 では、その苛立ちは誰に対してのものなのか? 母親に対してのものなのか、そうやすやすと見抜かれた自分自身に対してなのか分からなかった。ただ、

――お母さんには適わない――

 という気持ちにもさせられ、さっきの苛立ちが、次第に安心感に変わってくるのも分かった気がした。

 母親は何でも分かっているような言い方をしたが、その実、恭一には甘かった。その日の夕食は豪勢で、かなり無理をしているのではないかと思ったが、ひょっとするとこれも恋人のなせる業なのではないかと思うと、複雑な気分になってきた。

 母親に恋人がいるというのは、母親本人が話してくれた。ひょっとして、今ではもう何も関係ないはずの息子にこの結婚を許してほしいという、意味不明な理屈を母親は持っているのかも知れない。だからこそ、いの一番に恭一に話したのではないだろうか。

 しかし、そんなすぐに答えが出るわけではない。悪戯に息子の気持ちを刺激するだけで許しどころではないかも知れない。

 そんなことは母親ならきっと分かっているだろう。許しを得ようなどというおこがましいことを考えているわけではなく、ただ事実として知ってほしい内容を、自分の口から言いたかっただけのことなのかも知れない。それが息子を混乱させることになったとしても、それが息子の成長のために必要なことだと感じたのだとすれば、恭一は母親の気持ちを無碍にする気持ちがなかった。

 家には、

「しばらく帰らない」

 と書いてきた。

 父親は心配などしないだろうが、義母と咲江はきっと心配しているだろう。家での原因が自分たちにあるのではないかと、それぞれに思っているに違いない。恭一はもし義母が迎えにくれば帰ってもいいと思っていた。だが、あの人にそんなことができるはずはない。実の母親と実の息子、この関係を無理やり引き裂かれた経験を持っているからである。それを分かったうえで、恭一は母親のところにやってきた。これはある意味、

「絶対に侵すことのできない結界を超えてきている」

 と言ってもいいだろう。

 これはある意味、道子さんに対しての、

「挑戦状」

 のようなものだった。

「果たし状」

 と言ってもいいかも知れない。

 一対一という関係であれば、果たし状と言えるのだろうが、純粋な一対一ではないと思えるのでやはり挑戦状になるのであろう。この短い文章には義母や父親、ひいては咲江に対してと、全員にあてたものだったからだ。

――迎えに来るとすれば誰だろう?

 恭一はそんなことを考えていた。

 果たして迎えに来たのは一番ありえないと思っていた咲江だった。

「お兄ちゃん」

 そう言って、目には涙が浮かんでいた。

 最初に入ってきた時には、完全に何かの覚悟を持って、自分を逃げられない状況に追い込んだかのように、カッと見開いた目が、その気持ちを表していた。まるでこちらが出した果たし状に対して、相手は道場やぶりにやってきたかのような勢いだった。

 その勢いに負けたわけではないだろうが、母親は咲江を恭一に引き合わせた。あるいは子供同士ならばお互いの気持ちがよく分かるとでも思ったのかも知れない。

 だが、勢いは最初だけだった。二人きりになると、恭一を見る目が、完全に身を委ねるというそんな視線に変わっていた。目の焦点は合っておらず、恭一を凝視しようとしているのだが、自然と視線が横にずれている。それは咲江の決意が中途半端だからだろうか、それとも気落ちが中途半端なままやってきたからだろうか?

――中途半端?

 恭一はその時に自分のことを思った。

 恭一はいつもいろいろ考えていたが、いろいろ考えるがゆえに、その考えすべてが中途半端になってしまっていて、先が見えていないような気がした。

 自分と相対する人、皆が自分に対して中途半端になるのは、そんな恭一に中途半端なところを見出すことで、それ以上入り込まないのではないか。

 それは義母にしても咲江にしてもそうだ。決意を固めたはずなのに、最後の一線を越えるのを躊躇っている。それは自分が我に返って冷静に考えたからだと思っていたが、それだけではないのかも知れない。

 いや、逆に恭一が中途半端なおかげで我に返ることができているのではないかという考えは、あまりにも恭一にとって都合のいい考えではないだろうか。そう思うと、父親に対しての考え方も変わってくる。

 恭一が父親に対して考えているのは、あまりにも違っている性格や趣味趣向、これはまるで自分への当てつけではないかと思うほど違っている。ということは父親も同じことを考えているのであり、自分の方が先に生まれている(もちろん自分が父親なのだから)のから当たり前なのだろうが、そう思うとまったく遺伝は関係ないということにもなる。

 だが、急に途中から人を寄せ付けなくなったのは、恭一のことを考えてのことではないかと思うと、何となく理解することもできる。

 しかし、それを差し引いても、自分の性格や趣味趣向を押し付けようというのは、恭一から見れば、本末転倒に思う。結局解決策が見つからず、最終手段としての強硬に及んだとするならば、それが本末転倒だというのだ。

 強引に押し付けても反発するだけだということは父親には分かっているはずだ。だからこそ、恭一のことを考えてなのか、急に人を家に連れてこなくなったり、家族の調和を何よりも優先しようとしているのではないだろうか。

 ひょっとすると母親との離婚の原因もそういうところにあったのかも知れない。

「お父さんは、こうと思うと実行しないと我慢できない人だから」

 と母親が言っていたことがあったが、まさにそうなのかも知れない。

 確かに実行力は認めるところがある。実行力という意味では恭一にはないかも知れない。あるとすれば、家出をして母親のところにやってくるくらいか。それを実行力と言えるのかどうか、悩みどころでる。

 だが、そんな父親でも絶えず悩んでいる。行動力があって自分をある程度確立しているということでの父親は尊敬に値するところだと思うし、その尊敬を否定することはできない。

 それなのに恭一は母親ばかりを意識してしまっていた。道子さんや咲江に感じた思いも、結局は母親に対しての感情とどこが違うのか、すぐに答えを求めることはできない。優柔不断だと言ってしまえばそれまでだが、それだけではないような気がする。

 結局、恭一はどうしたいのか?

 今の母親を見て、そして涙目になりながらも自分を迎えに来てくれた咲江を見て、何かが分かった気がする。

「要するに俺は、父親という呪縛から逃れたいだけなんだ」

 ということであるが、この呪縛というのが何を意味しているのかということである。

 父親の普段の態度や言っていることに矛盾はない。そういう意味ではもっともなことを言っているので、反論などできるはずもない。それが恭一には苛立ちに感じさせるのだ。

 そして感じるのは、

「そんなことは分かっている」

 と、最初から分かっていたという感情である。

 考えてみれば、子供の頃から恭一の中での思いは、

「自分が何かをしようと考えていたのを人に指摘されると意地でもしたくない」

 という思いが頭をよぎることであった。

 つまり一番の解決策としては、

「もう、俺のことに構わないでくれ」

 という思いが通じることであろう。

 そのことに気付いた時、まわりの皆も大なり小なりこのことを感じているのではないかということであった。

 人との関わりを気にしている人であっても、引きこもっている人であっても、心のどこかで、

「もう関わらないでほしい」

 という思いが渦巻いているような気がした。

 自分以外の人がそう考えているということを分からないから、人間関係がギクシャクする。そう思うと、

「人と人との関わりなどというのは、矛盾や歯車が噛み合わないということの積み重ねのような気がする」

 と感じた。

 下手に人のためを思って助言したりするのは、却って相手を追い詰めることになる。相手が望めばその枠ではないのだろうが、逆に人というのは、

「相談しようとすると、相手は訝しがってしまう」

 と考えることで、人に相談もできないという風潮になる。

 しかも、それでも相談すれば、相談した人が他の人から、

「相手の都合も考えずに、図々しい」

 という輩も出てくるだろう。

 そうなると、人間関係などあってないようなものだ。

 恭一は今回のことで思い知った気がした。実際に血の繋がっていない相手と一緒に暮らすことで気を遣うことを覚えたが、実はこれが本当の意味での人間関係に近いと思うと、今の自分の立場もそう悪いものではないような気がした。そう思うと、義母や咲江とはうまくやっていけるような気がしたが、父親だけはどうしようもなかった。だが、これからは父親を無視すればいいだけだ。どんどん成長してくる恭一にはその機会は間もなく訪れる。それを待っていればいいだけで、それまでにきっと義母や咲江ともいい関係になれるであろう。一緒に暮らしていないという意味で実の母も同じであった。

 せっかく咲江が迎えに来てくれたのだから、恭一は一緒に帰ることにした。母親のところにやってきて、ちょうど一週間が経っていた。

 帰り道、咲江を制して児童公園のベンチに座り、空を見ていた。夕日が沈むその光景を、咲江を一緒に見ていたが、初めて一緒に見たような気がしない恭一だった。西日に光った咲江の頬にはさっき流された涙の痕がついていて、優しく拭ってあげたい衝動に駆られた恭一だった……。


                 (  完  )

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

家族と性格 森本 晃次 @kakku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ