第2話 新しい家族
父が道子さんと再婚をまわりに正式に表明したのは、それから数か月のことだった。
「子供同士が大丈夫だ」
ということが分かれば、後は早かった。
会社にも、親戚にも公表し、結婚を暗黙でも認めさせたことで、二人は安心しているようだった。
結婚式と言っても二人とも二度目ということもあり、そんなに会社でも知り合いが多いわけでもないという二人なので、披露宴なしの結婚式となった。ほぼ家族だけの食事会のようなものを催し、後は二人で数日間の新婚旅行に行くという程度のものだったのだ。
したがって、まわりに公表してから結婚式までもそれほど時間が掛かったわけでもなく、結婚して、新婚旅行までは二人とも仕事の関係から、少し間が空いてしまった。それも別に急ぐことでもないという二人の意見が一致したことで、事なきを得たということであろうか。
新居の方も、父親の方が一人である程度決めてきて、候補が固まったところで道子さんに相談したという。道子さんの方とすれば、よほど気に入らない場所でない限り、反対する意思もなかったようなので、即決だったようだ。そのことも父親の計算には入っており、もっともそんな道子さんだからこそ、父は自分の嫁さんにしようと思ったのかも知れない。
子供たち二人には、それぞれの親から言われた。父から聞かされた時、
――何、勝手に決めてやがるんだ――
と感じたが、それも一瞬で、せっかくここまで順風満帆に運んできた結婚を壊そうなどという気持ちは微塵もなかったのである。
恭一が少し感じた不満は、父親がそんな恭一の考えも何もかも分かったうえでの確信犯であるということが分かっていることでの癪に障ったということであった。
咲江の方も、道子さんから概ねの話を聞いて、
「別にいいんじゃない」
と答えたようだ。
咲江の母親に対する態度は、彼女が恭一に対してのものとはかなり違っているようだ。母親に対しての咲江は、いつも話をすること自体が億劫だとでも言いたげに、不愛想なもののようだった。
その気持ちは思春期に入っている恭一にも分からなくもない。どこか反抗心を抱いてしまうのは、思春期よりも先に反抗期を迎えただけのことだった。
これは人によって違いがあるのだろうが、反抗期と思春期とは似た時期に入るというが、どちらが先に入るかで、その人の今後が左右されるともいえるのではないか。どっちがどっちとハッキリは言えないが、咲江の場合は、先に反抗期を迎えたようだ。
母親に対しての反抗心は、他の日とは決して知らないものだった。
「咲江ちゃんは母親思いの優しい娘」
というのが、道子、咲江親子を知っている人の共通しての意見だった。
だが、それも間違いではない。表面だけが優しいわけではない咲江は、母親を前にしてだけは怪訝な表情をしてしまうが、母親を影で支えるという気持ちはずっと不変のものであって、一人でいる時の家事なども自分がするものだと考え、嫌がることもなくこなしている。
母親に対して反発だけであれば、そこまではできないだろうと思える。やはり女の子は母親の苦労が分かるのではないだろうか。
そんな母親が、これまでずっと一人で自分の面倒を見てくれたのは分かっていた。自分と二人だけで、自分に対しての責任を一人で背負っているというのは、あまりにも気の毒であり、咲江自身でも気後れしてしまいそうになり、そんな関係をいつ嫌になるか自分でも分からないところが無性に嫌であった。
「私ばっかりを気にしていないで、自分のことも考えなよ」
とおざなりに言っているが、これは決して母親を責めているわけではなく、咲江としては母親への本心であり、感謝の気持ちでもあった。
それを母親がどこまで分かっているか、咲江には理解できていなかったが、少なくとも今は新たな相手を見つけて、自分以外と幸せになろうとしているのだから、祝福すべきことだと思うようにしていた。
ただ、一人になるのは、想像ができず、寂しさがこみあげてくる。幸い、相手の家庭にも子供がいるようで、自分よりも年上の、
「お兄ちゃん」
である。
ずっと一人っ子で育ってきただけに、ほしかったお兄ちゃんである。
自分が生まれてきた時に上に兄弟がいなかったのだから、こうでもしなければ、できるはずのないお兄ちゃんなのだった。
「願ったり叶ったり」
とこのことである。
恭一も妹がほしかったので、お互いに大願成就と言ってもいいだろう。どちらの方が希望としては大きかったのかというと、恭一の方が強かったかも知れない。それは咲江も感じていることで、
「きっとお兄ちゃんよりは私なんかよりも、よっぽど寂しかったのかも知れないわね」
と言われたことがあって、その時の言葉が今も生々しく頭の中に残っているのだ。
その言葉を言われたのがいつのことだったのか、恭一にはハッキリとはしない。言われたという事実は頭の中にあり、間違いのない事実なのだが、記憶として薄れていくこともなく、かといってそれほど確定的な言葉なのに、それがいつだったのかなどの具体的な記憶はハッキリとしていないのだ。
つまり形式的には覚えているが。具体的には曖昧であるということである。そんな言葉をずっと覚えているというのもどこか頭の中に矛盾しているものを抱かせて、その思いから脱却ができないでいるのもおかしなことであった。
恭一にとって、咲江との関係は、そのことに代表されるような関係であった。形式的に兄妹であるということを頭の中で言い聞かせているのだが、兄妹としての意識は具体的なこととして何も分かっていないような気がしていたのだ。
「ねえ、一人っ子って私はずっと寂しいものだって思っていたんだけど、お兄ちゃんはどうだった?」
と聞かれて、
「それは俺だって、寂しかったという意識は強いよ。ただ……」
と言いかけて少し戸惑っていると、
「ただ?」
と促すように咲江は反復して聞いてきた。
「寂しいんだけど、一人というのが気が楽だということを教えてくれたのも、一人っ子だったからなのかも知れない。だけどそれって、ただの楽天家だったということなのかも知れないとも思ったんだけど、気が楽だというだけで、安心感に繋がらなかったのも事実でね。やっぱり最後は寂しかったんだろうね」
というと、
「お兄ちゃんは理論的な言い方なのね」
と言われた。
「そんなことはないよ。曖昧になるところを自分でどう納得していいかを考えると、そういう言い方になるだけで、結局は曖昧な部分が多く残っているだけで、自分を納得させることなんか結局できずに、どこかを彷徨っている気分になるだけさ」
と答えた。
「私は難しいことは分からないんだけど、お兄ちゃんは頭がいい人なんだって思うの。何か結論と求めるのに、一つ一つ厳選しているような気がして、それでいて完璧を求めているわけではなくて、頭の中でふるい分けをしているんじゃないかって思うのよ」
と咲江は言った。
「なるほど、俺は確かに完璧を求めてなんかいないけど、納得させようと思うと、削れる部分を削っているように思うことがある。きっと減算方式で考えているのかも知れないな」
というと、
「うん、でも、私はどちらかというと、何もないところから少しずつ組み立てていくのが好きなの。それは自分のことだけではなく、まわりのことも含めてね。だからお兄ちゃんのことも、何もないところから少しずつ知りたいと思っているから、今は結構楽しいと思っているのよ」
と咲江は言っていた。
「僕とは少し考え方が違っているようだね」
と言ったが、咲江が言っているのは、
「私は加算法で、お兄ちゃんは減算法なんじゃないかしら」
ということであろう。
分かってはいたが、まったくの正反対だと思いたくないのは、まったくの正反対だということを認めてしまうと、あの父親と同じだということを認めてしまうことが怖かったのだ。
咲江を認めるということはあの父親を認めることであり、それは自分の中で認めたくないことだった。
結婚式が行われ、食事会も済んで、それ以前から新居には両家族とも引っ越してきていたので、結婚式も食事会も、
「形式的」
なものでしかなかったが、終わってみると小規模ではあったが、それなりの儀式としてそれぞれの中で精神的に片が付いたという感じであった。
一番心労で疲れていたのは、やはり父親であろう。ここ数日があっという間に過ぎたとでも言いたいかのように、形式的な儀式が終わってから、数日ほど熱が出て、会社を休むという状態になった。本人は、
「情けない」
と言っていたが、傍で見ていると今まであまり他人に気を遣ったことがない人が、急に気を遣ったことで起きた心労ではないかと思えた。
そんな父親に恭一は、
「鬼の霍乱だな」
と皮肉を言ったが、一応敬意を表する気持ちはあった。
いくら性格的に許せない部分があるとはいえ、そのあたりの気遣いができなければ、相手に皮肉を言ったり、反発するという権利はないと思えたからである。
数日間、大人しく寝ていた父親を義母は献身的に介護していた。咲江も時々見まっていたようだが、恭一だけは父親に近づこうとはしなかった。
見かねたのか道子さんが、
「恭一さん、よかったら、お父さんのところに顔を出してあげてください」
と言われたが、
「時間があれば」
というだけで、実際に行くつもりはなかった。
義母はそんな恭一の気持ちが分かっているのか、何も言わずに、ただ鋭い目を向けていた。
それは戒める目ではなく、哀れみに似た目であったのだが、まだ思春期の恭一にはその気持ちは分からなかった。
ただ、実の母親とは違って、今まで受けたことのないその視線に、他人というイメージが植えついてしまったのも事実のようだ。
――やっぱり、義理なんだな――
と思わせた。
だが、それでも気を遣ってくれているのは確かなので、その視線をどこかで勘違いしている自分がいた。
道子さんは、今まで知らなかった、
「他人の大人のオンナ」
だった、
いくら義理とは言え、母親だという意識はあったのに、道子さんの戒めにも似た哀れみのあの視線を見た時、道子さんに対してオンナを感じてしまったのだ。
そうなると、同じ家にいるというだけで、何かぎこちなさを感じた。
それを他の誰にも悟られたくないという思いもあり、わざとまわりに素知らぬ表情をしてしまった。
せっかく家族ができ、四人で暮らし始めたというのに、最初に違和感を生み出したのは、他ならぬ恭一が最初だった。
最初だったという言い方は少し語弊があるだろう。恭一の態度はまわりに影響を与えたというべきだろうが、その時は誰も予想もつかなかっただろう。
当の本人である恭一にも分からなかったのだから、当たり前のことである。
恭一が一緒に暮らし始めて最初に意識したのが、道子さんだった。
父親に対しては意識したというのも、道子さんに対しての自分の意識を悟られたくないという思いで父親を見ていただけである。父親に対して自分がどう思われていようかなどというのは、まったく考えていなかった。つまりはもう相手は父親ではなく、自分が意識している人の旦那だということである。
「間男と旦那」
という露骨な言葉を知ったのはそれから少ししてであるが、それは中学での悪友から課してもらった本に書いてあったことだった。
「これは不倫や情婦などを書いたドロドロの愛欲ものの恋愛小説なんだけど、お前もこれくらいの話を読んでみるといい」
と言われ、読んでみた。
面白いというよりも、あまりにもドロドロとしていて、直視できないというような話で、読み終わってからの感想としては、
――こんな小説、どこが面白いんだ――
というものであった。
つまりは、経験してみなければその面白さは分からないということが分かったという小説であった。
それを悪友に話すと、
「タバコみたいなものさ」
という信じられない答えが返ってきた。
いや、昨夕というくらいのやつなので、タバコくらいのことで驚くようなことではないのだろうが、思わず、
「お前、タバコなんか吸ってるのか?」
と訊ねたものだ。
「何言ってるんだ。タバコなんて当たり前のことだろう。それよりも一度吸ってみるといい。最初は誰だって、『こんなもののどこがうまいんだ』って思うから」
と言われた。
突っ込みどころは本当は違うところにあったはずなのに、またしても思わず、
「お前もおいしくないと思ったのか?」
と返していた。
「ああ、息苦しいだけで、何がうまいのか理解できないんだ。だけど、吸っているうちにやめられなくなる。実に不思議なものでな、まるでコルクを舐めているような感覚なんだけど、それが病みつきになるのさ」
タバコについては少し勉強したことがある。
タバコに含まれているニコチンというのが、癖にする成分のようで、アルカロイドという種類のものらしい。
アルカロイドとしては他にはコーヒーに含まれているカフェインであったり、麻薬に含まれている成分であったりするという。
「なるほど、コーヒーなど飲み始めたら、やめられないからな」
というと、
「そうだろう? コーヒーなど、眠気覚ましに飲んだりするので、試験勉強の時などには飲みながらだと効率よく勉強ができたりする。もっともそんなのはその人のやる気次第なんだろうが、暗示に掛かってしまうと、人間というのは厄介なもので、勉強もできるような気がしてくるんだよな。だからやめられなくなる。そういう意味では麻薬だってタバコだって同じことなんだよ」
と、そいつが教えてくれた。
悪友として認識しているので、結構いろいろとヤバいこともあるようだが、結構いろいろと博学なところもある、そういう意味で彼と離れられないという感覚も、一種のアルカロイドの効果に似ているのではないだろうか。
そんな風に感じた恭一は、タバコの話を思い出していた。
確かにタバコは最初、
「どうしてこんなものを」
と思うのだが、彼にしてみれば、
「タバコをやめると、情緒不安定になるんだ。急にまわりに対して不安になったり、何かに対して恐怖を感じているような。そしてその恐怖がどこから来るのか分からないという感覚もある。まるで麻薬のような感じなんだろうな」
と言っていたが、少し大げさに感じた。
だが、その話には信憑性はあった。愛欲の小説を読んだ時、読みながら、
「何だ、これは。気持ち悪いだけではないか」
と嘔吐を催してきそうで、気持ち悪いだけしか感じなかった。
しかし、読み終わってから少し考えると、もう一度読み直してみたいという感覚に陥ったのも不思議な感覚だった。
それまで女の人の身体に興味を持ちながら、見たこともないものを想像することはできないと感じ、
「想像できないものなのだ」
という意識が強かった。
しかし、その小説は、女体に関してはかなり詳しく書かれていた。見たこともないのに、嘔吐を催してきそうな発想を思い浮かばせるというのは、それだけ表現がリアルで、しかも想像させるに十分な文才があるということだ。
これは一見矛盾しているように感じる。だが、その矛盾が気持ち悪さを呼んだのと同時に、
「再度読み直してみたい」
という衝動に駆られたのも事実なのだ。
「今までにこんなことを感じたことなかったな」
それは思春期だから感じることなのか、それとも小説のリアルさに感じたことなのか分からないが、思春期だから小説をリアルに感じることができたと言えるのではないだろうか。
その小説では、ピンポイントなシーンもリアルであったが、ストーリー性も恭一の脅威を引いた。登場人物のほとんどは親族なのだが、恭一の住む世界とは違う、いわゆる大富豪の家庭であった。
戦前のいわゆる華族制度の中の豪邸に住む家族の話であった。住人の中には家族以外もたくさん含まれていて、いわゆるお手伝いさんや書生、メイドや執事のような今では考えられない人たちが住んでいたのだ。
そんな中で伯爵と言われるご主人様とその美しい奥さん、そして十八歳になる長男と、十五歳になる長女が住んでいた。
長男と長女は、どちらかというと性格的には正反対だった。品行方正でお手伝いさんや書生たちにもいつも声を掛けるような気づかいのできる少女だった。だが、長男は人と関わることがどうも苦手で、誰と会っても挨拶すらできないような暗い少年だった。
子供の頃は家庭教師の先生に勉強を習っていたので、普通に会話もできたはずなのに、急にまわりを避けるようになったのは、十六歳になったくらいのことだった。いつも部屋に籠っていて、部屋の窓から表の庭を望遠鏡で眺めることが多くなり、それ以外はほとんど部屋に閉じこもって何をしているのか分からない毎日だったようだ。
食事の時だけ食卓には顔を出すが、誰とも会話をしない。そんな長男を気にかけて母親は声を掛けていたが、返事はない。父親は最初から訝しがって話しかけることすらしなかった。
父親の伯爵も、実はまわりとあまり会話をするタイプではなかったので、まわりの人からは、
「旦那様の遺伝ではないかしら」
と言われるようになっていた。
そんな長男には秘密があった。急にまわりと話さなくなったのは、その頃になるとそれまで少女だと思っていた妹が急に綺麗になり、
「大人のオンナ」
を感じるようになった。
元々母親に対して、その色香を感じていた。ただ、母親という意識があったので、大人のオンナというのが、母親のような人のことであり、いずれ自分が成長するとそんな女性に出会えることを予期していたのだ。
外界とは遮断されたこの世界では、年ごろになると、親が子供の相手を連れてくることになっていた。いわゆる許嫁という形である。つまりは最初から決まっていた相手と交際し、そのまま結婚するというのが、その時代の常であり、両親もそうだったのだろう。特に華族という伝統的な家系ではそれを当然のごとく行われてきたのだ。
二人の兄妹も、家庭教師から受けてきた教育で、そのことはさりげなく教えられていたはずだった。
長男もずっとそのつもりでいて、その許嫁が母親のような色香を醸し出す人であればいいという程度に考えていたのだろう。
だが、実際に成長してみると、オトコとしての感情は、かなり強いものだったようだ。感受性の強い青年だと言ってもいいだろう。恭一はその長男に自分を重ねて読んでいた。無意識にであったが、そう思って本を読むと、その世界に入り込むことができるからだ。
主人公と思しき相手になり切って小説を読んでいると、自分もその長女の女の子がいとおしく感じられるようになり、次第に理性が利かなくなってくるのを感じた。
――自分は伯爵の長男なんだ――
という思いは、当然のごとく持っている。
しかし、その思いは余計に自分をジレンマに陥らせた。そのジレンマがまわりに対して避けてしまう思いを抱くに十分な効果があった。誰か話でもしたものなら、自分のこの思いをフラッと話してしまうのではないかという危惧を抱いたのだ。それは、自分が怖がりで自分に対して自信がないことが招く臆病さから来るものだということは分かっているのだ。
もし、そんな精神状態でまわりの人を欺くことなどできない。真正面から純粋に見るという育ち方をしてしまったことで、少々の困難に陥ると、自分からまわりを避けるという方法しか自己防衛を思いつかないのだ。
妹は相変わらずの品行方正である。それが長男には、あざとく感じられるようになる。
――俺に対しての当てつけなんじゃないか――
という思いを抱き、妹が美しくなればなるほど、苛立ちを覚えるのだ。
相手は妹だという意識が一番にあるだけに、目の前の結界をどうすることもできない自分がいる。それは人間としての理性を持っていれば、誰にでも抑止できるはずのことであるが、そこも個人差があり、どんなに冷静になれる人であっても、この感情に立ち向かうにはただではおられるわけはなかった。自分との葛藤は少なからず持っていて、いかに自分に打ち勝つか、それは思春期における誰もが通る道なのではないだろうか。
実際に恭一も今思春期の真っ只中にいる。小説を読んでいて、感情としては、
「そんな理性などかなぐり捨てて、本能のままに行動してほしい」
というものであった。
小説の中の架空の話なのだから、いくらでも感情を剥き出しにした行動を取っても、誰お咎めるものはいない。咎めることができる人は小説の登場人物だけで、その登場人物を操ることができるのは作者しかいないのだ。
つまり、作者の思い一つでいくらでも物語は感情的に作り上げることもできるというものだ。
読者の中にはそんな小説を望んでいる人も多いのではないか。ただ、一般的には本能のままの小説はきっと受け入れられないだろう。モラルのない小説は果てしのない欲望を抱えている。
基本的に小説は教育的なものでなければいけないという思いが恭一にもあった。だが、それでも、
「フィクションなのだから」
という思いから、感情的な小説の存在を否定できない自分がいる。
そんな時、この小説を読んで、自分が主人公になっているような錯覚を感じながら読んでいると、妹に対しての感情が抑えられなくなるのを感じてきた。小説の展開が、妹を見る長男の目という構造が出来上がってきていたからだ。
妹も実は兄を慕っていた。その慕い方が、
「妹として」
であっただろうと想像はできるのだが、兄を見ていて、
「兄のために」
という献身的な気持ちをいつも持っているような少女だったのだ。
それは文章の中に明らかな感情として表されていた。実際には妹が持っている感情をここまであからさまに知ることは現実世界でできるはずはない。小説世界でだけのことだった。
「小説というのは、そんな力も持っているのだ」
と恭一は考え、このまま長男による妹の力による蹂躙が行われるのではないかというよからぬ想像をしてしまったが、果たしてその想像は間違っていなかった。
いきなり強硬に及ぶわけではなく、そこに至るまでの長男の感情の推移については、かなり詳細に書かれていた。ここでそれを逐一書くことはよすが、強硬に及んだとしても、それは仕方のないことに思えるような小説の進め方だった。
長男に言い寄られる妹は、
「お兄ちゃん、どうしたの?」
と、怯えのある目をして、兄から何とか避けようという思いはあったようだ。
兄の血走った眼は完全に常軌を逸していて、妹が今までに見たことのない目だったのである。
だが、妹も感じた。
――初めて見る目ではないわ――
それが夢に見たことだったのか、それともいつか見たかも知れないと思っていることだったのか、定かではない。
定かではないということは、自分がそれだけ兄に対して漠然と見ている時があったということになるのだろうが、それは、
――違うような気がする――
と、妹は感じていた。
絶えず自分は兄を意識していたはずだ。兄の性格をどこまで理解できていたのかは分かっていないが、少なくとも自分も兄に対して慕う気持ちが強く、その思いにいつも兄は目で答えてくれていたと思っていた。
会話がなくともそれくらいの思いを感じることは容易にできると思っていて、そのことに関しては、妹なりに自信を持っていた。
妹が感じている兄への感情は、
――私が困った時には、いつもお兄ちゃんが現れて助けてくれる。正義のヒーローなんだわ――
というイメージだっただろう。
だが、それが最近少しずつ変わってきている。それは彼女が年齢的にも十四歳という思春期を迎えていたからだ。女性は男性に比べて成長が早いという。十四歳といえば、すでに大人になっていても不思議のない年齢だ。
普通であれば、好きになる人が現れてもいいくらいだ、もちろん妹にも許嫁のような相手はいて、いずれ親から紹介されるであろうことも分かっていた。
しかし、それよりも実際の男性が目の前にいるということが妹には分かっていた。それが兄であり、初めて感じることになる男性であった。
子供の頃はよく一緒に遊んだが、それは兄妹としての絆からであり、頼りになる兄のイメージは確立していた。
「大きくなったら、お兄ちゃんのお米さんになるね」
などと、実にベタなセリフを吐いていた自分を思い出すだけで恥ずかしくなってくるくらいだ。
この年齢になると、兄とは結婚できないことなどハッキリしている。もちろん、そのつもりでいたはずだったのに、兄のあの目を見てしまうと妹は、
「どうして?」
と思うのだ。
兄が突然男になって妹に強硬なことをしようとしている。妹は衝動的に拒否しているのだが、その感情が本心からなのかどうか分からない。
ただ、今衝動的な態度を取る兄を見ていると、自分がその生贄になることは、お互いのためにはならないと思った。生贄になることが嫌なのではない。兄も自分も衝動的な感情から、もう元に戻ることのできないところに行ってしまうということが大きな後悔に繋がることを恐れたのだ。
「ちょっと待って、お兄ちゃん」
妹はまず、兄の留飲を下げる必要があると思った。
――兄は何かの不満を私にぶつけようとしているのかも知れない――
とも感じていた。
そう感じたのは、半分は正解であるが、半分は間違っていた。
不満を持っているのが、妹は他に原因があると思っていたが、実際の不満というのは、兄が自分自身に対して抱いたものだった。
つまりは、ジレンマに陥ってどうすることもできず、結局衝動に駆られて、その思いを妹にぶつけようとしていることである。つまり不満の原因は自分が抱いたジレンマであり、元々は自分が抱いたものである。
妹はなるべく感情的にならず、できれば兄の感情を自分が吸収してあげられるようになればいいと思っている。
それだけ妹は冷静だった。
そんな妹を見て兄は次第に留飲が下がってくるのを感じた。いつもの兄に戻ってきたのだ。
「ごめんな。俺、どうかしていたんだ」
と言って、一気に心細さを表に出す兄に対して、今度は妹の感情が次第に高ぶってきた。
その思いがハッキリと自分の中で分かってくるまで少し時間が掛かったが、その間にも妹の成長は続いていた。
――お兄ちゃん、私のことをずっと好きでいてくれたんだわ――
という思いが強くなり、自分が思っていたお兄ちゃん像は、今までとは違ってきていることに気が付いた。
品行方正な性格は、行動的でもあった。兄のように衝動的な行動ではなく、自分の中で納得することを考えての行動なので、まだ兄よりもハッキリとした感情だと言ってもいいだろう。
だが、衝動的な行動であれば、目が覚めると、そこで抑止することができる。あの時の長男のような行動である。
しかし、自分を納得させての行動であれば、それは衝動的な行動とは違って抑止は難しいだろう。何しろ自分が納得しているのだから。
それが理性に外れたことであっても、自分で納得したことであれば、行動に移すことになるかも知れない。それをまだその時の妹は分かっていなかったのだ。
この小説の怖いところはここであった。
最初は長男の衝動的な行動から、兄妹が禁断の仲に突入してしまうのではないかと思わせておいて、実は一度の兄の衝動的な行動がトリガーとなって、事態を一変させる。そのためにいったん入り込むと抜けられないスパイラルを繰り返すことになるのだが、それを当事者の二人は、無意識の中で行われた。
「私、どうしちゃったのかしら?」
と、口では言っているが、自分を納得させての行動なので、本心ではない。
だが、この言葉を聞いた相手は、まさか本心ではないなど想像もつくわけはない。それだけ妹の行動はあざといものだったからだ。
いきなりあざとくなったわけではないだろうが、火をつけたのは兄だったはずだ。
兄の方も妹から何らかのアクションを感じるようになると、お互いが惹かれあっているのは一目瞭然だ。華族という特殊な家系に育ったことで、若干のモラルが欠けているのも仕方がなく、社会道徳は家庭教師によって習いはするが、平民との接触が皆無のため、実際にどのようなものなのかということが分からない。
大人の世界がどういうものなのか、当時の世の中は動乱の時代。その世相を知ることもなく育った二人の世界は独特だった。
英才教育が行われていたが、モラルに関しては形式的にしか教えられていない。つまり、当たり前のことは当たり前に吸収し、疑うことを知らない。アブノーマルなことも当たり喘のこととして受け止めたとしても、それは仕方のないことだ。
だが、二人の間には何ら壁もなく、お互いに受け止めることができたのであろうか?
いや、お互いに気持ちはかなり高ぶっていた。足を踏み入れてはいけない領域であるということを分かってでもいるかのようで、その権利を自分たちは有していて、最初から定められた運命の元に歩んでいると思っていた。
この高ぶりは、平民であれば許されないことでも自分たちであれば許されるという思いへの自信が、本当に許されることなのか不安を抱いていた。その不安が禁断を犯すに十分な根拠となるわけではないことを二人は分かっているにも関わらず、お互いを求めてしまう。
それは運命という言葉で言い訳をしているだけで、本能のままに動いている自分たちは家族だから許されるわけではない。華族であるからこそ許されないと思うと、これまでの自分たちの人生を完全否定してしまう自分がいる。
妹と禁断の仲になったことが次第に宮廷内でまわりの人に周知になってくると、伯爵はそれを隠蔽しようと企むようになる。
妹を下野させて、一般の男性と結婚させようという考えだった。兄の方には最初から決まっていた許嫁があてがわれ、何事もなかったかのような暮らしをさせる。
最初は抗っていた兄だったが、
「お前の妹は、一般の男と結婚した」
と言われると観念したのか、それからは大人しくなり、親の言うとおりに血痕したのだった。
それからしばらくして、妹は屋敷に舞い戻ってきて、庭にある井戸に身を投げた。それを発見した召使に屋敷主は他言無用を伝え、金の力で口留めをした。
そんなことは知らずに毎日を悶々とした暮らしをしていた兄の方は、ついフラフラと庭を彷徨うように歩くことが多くなり、足を踏み外して、妹の身を投げた井戸の中に飛び込んでしまったようだ。
お互いに知らぬこととはいえ、同じ運命を辿った兄妹は、その後、父親の手で丁重に供養されたが、二人があの世でどうなったのか、分かるものは一人もいない。幸福であってほしいという思いは皆が持っていただろうが、幸福であるはずはないという思いも皆が持っていた。
いくら血がつながっていないとはいえ、兄妹の愛は、最後には悲惨な結末を迎えることになるという戒めを込めた本だった。
この本を読んでからというもの、咲江に対しての印象はこの小説の中の妹を感じさせるものになった。だからと言って兄は自分に当て嵌めることはない。当て嵌めてしまうと、お互いに二度と結ばれることはないと思うからだった。
結ばれることはなくとも、結ばれる可能性だけは残しておきたいと思うのは、虫がいいというべきか、それとも往生際が悪いというべきか。どちらにしても可能性だけを考えるようになれば、叶うものも叶わないと言えるのではないだろうか。
この小説の中の二人と、恭一と咲江との一番の違いは、
「生まれた時から一緒にいるわけではない」
ということだった。
最初から兄妹だと言われて育ち、途中で血がつながっていないことを知った物語の中の二人と違い、知り合った時が思春期になっていた兄にとって、妹が自分が知らないこれまでの人生の大半の時期をどのように過ごしてきたのか知りたいという思いがあり、妹の方も、きっと同じ思いでいるという感情を抱いたことで、
――余計に相手をもっと知りたい――
と感じるようになったに違いない。
恭一は小説を思い出してみたが、
――血がつながっていないと思っているのは近親相姦が悪いことだという理屈から、後で感じたことであって、実際には血がつながっていたのかも知れない――
と、感じたことが曖昧だったように思えてきた。
――小説を思い込みで読んでしまうのは、きっと自分の環境に置き換えてしまうことで、話が変わってしまうからではないだろうか――
と思うようになっていた。
咲江への淫らな気持ちを打ち消そうとしているのを、誰かに知られるのは嫌だった。顔から火が出るほどの屈辱であり、それは以前父親から受けた屈辱を思い起こさせる。
――なんだって、皆は賛成しているのに俺だけ一人帰らなければいけないんだ。子供には子供の付き合いがあるっつうの――
と思っていた。
あれだけそれまで連れてきていた会社の人を、急に家に連れてこなくなったのはなぜだったのか、それを考えると、
「家族に悪い」
とでも思ったのだろうか。
確かに友達の家で皆が泊まるので、自分も泊まると言った時、
「正月で家族水入らずのところにお前たちがお邪魔したら、せっかくの家族の時間がなくなるだろう」
と言われたような気がした。
こっちは、何とか説得したいという気持ちが強かったので、その時の会話はほとんど覚えていないが、後で冷静になると、そんな風に言われた気がした。
だが、実際にはそれだけだったのだろうか。恭一は何度も、
「皆は泊まるって言っているんだよ」
と言って説得に掛かったような気がした。
もし、自分が親の立場だったらどうだろう?
話の持っていきようによっては、別に反対はしなかったかも知れない。だが、その時の言い訳として、
「皆が泊まると言っている」
ということで、自分の意志というよりもまわりの意見を優先していると思うと、自主性のない相手に苛立ちを感じるかも知れない。
確かに、
「他人と同じでは嫌だ」
という性格を根本に持った恭一としては、皆がするということを前面に出して説得に掛かるのは矛盾していることのように思える。
自分が相手の立場に立てば、分かることではあるが、あの時の屈辱感は何だったのだろう?
一人取り残された気がして、心細かったということであろうか。
父親のいう、
「相手の家庭の水入らずを崩してはいけない」
という理屈は確かにもっともだ。
だが、子供の世界の理屈はそれでは通らない。大人が子供だと思って遠慮してくれているのだから、素直にしたがってもいいのではないか。
もし、あの時友達が遊びに来ていたのがうちだったとして、恭一が、
「今日は皆家に泊まって遊びたいんだけど」
と言い出せばどうなるだろう?
きっと父親のことだから、友達皆に、
「お正月なので、ご家族と過ごしなさい」
と言って、皆を返すかも知れない。
そして、その時に仕切っていた恭一の立場は完全にないも等しいだろう。これも屈辱感である。まさか父親が子供の顔をつぶすことになるなど、考えもしないからだった。
ただ、恭一はそれからというもの、自分の領域を大切にするようになっていた。
そのおかげで友達がどんどん減っていき、今では少しの人と学校で挨拶する程度となり、それから友達が圧あるところには呼んでもらえなくなり、またうちにも誰も呼ぶことはなかった。
そういえば、恭一の家で友達が集まるということは一度もなかった。一人単独で遊びにくることはあったが、数人が一緒になってくることはなかった。それは恭一の家だけではなく、集まるところが決まっていたので、その子の家以外には誰も集まったことがなかったのだ。
それを思うと、恭一だけが一人蚊帳の外だったわけではなく、一人中心がいて。その他の人は皆、その他大勢だったと言えるだろう。
だから、その他大勢の中で、さらに孤立するのが嫌だったのだ。それは完全な屈辱をもたらし、屈辱は皆との決別を意味していた。
決別が嫌だったのか、それとも屈辱感を味わうのが嫌だったのか、その頃の恭一の心境は後から思い出そうとしても、なかなか思い出せない。つい最近のことであったはずなのに、まるで数年くらい前のことのように感じられるからだ。
それから数加越が経ったある日のこと、恭一は学校が創立記念日ということで休みであった。
咲江はその日も普通に学校に出かけ、父親は三日前から北海道に出張中で、あと数日は帰ってこないということだった。したがってその日昼間家にいるのは恭一と道子さんだけだった。
前の日は、翌日が休みだということで夜更かしをしたので、なかなか目が覚めない恭一だったが、道子はすでに咲江を送り出して、すでに洗濯物も終わっていた。掃除に関しては恭一が寝ているということで気を遣い、半分くらいでなるべく音を立てないようにやっていた。すでに日は高く昇っていて、道子は朝の仕事が一段落し、落ち着いていた。
それでもなかなか恭一は起きてくる気配がなかった。昨日、恭一が夜更かしをしていたことを知っていた道子は、恭一を無理に起こそうという気にはならなかった。それでもせっかくだからと思い、寝顔を見ようと恭一の部屋を覗いてみた。
今まで恭一が嫌がるだろうと思い、彼の部屋をノックすることも必要な時以外はなかった。その日は考えてみれば、結婚して同じ家に住み始めてから数か月経っているにも関わらず、恭一と二人きりの家というのは初めてだった。
恭一の父親は結婚してからずっと忙しいようで、なかなか家に帰ってくることもなかった。
「営業職というのはそういうものだ」
と言っていたが、自分が小学生の頃はそんなに家を空けることはなかったので、きっと途中で部署替えでもあったのかも知れない。
朝の喧騒とした時間が過ぎてしまうと、歩っとした気分になり、コーヒーなどが飲みたくなる。喉が渇いたという感覚で喉を鳴らすと、何かムズムズしたものを感じた道子だった。
結婚する前は、謙虚な気持ちを持っていた道子だったが、恭一という義理ではあるが息子ができたことで、少し神経を図太く持たなければいけないと思うようになった。父親を見ていると、
「曲がったことが嫌いな実直な性格」
に見えて仕方がなかったが、その日、道子はそのことを確かめたいと思い、意を決していたのを、誰が気付いたであろうか。
朝の用事をすべて済ませて、それでもまだ恭一が起きてこなければ、恭一の部屋に偲んでいこうという計画を、道子は前のひから立てていた。
夜更かしをしている恭一を見ると、
――まるで私に計画を実行してくださいと言っているみたいだわ――
と感じたほどだった。
そっと忍んで行って、寝顔を見るだけでよかった。実はこれは咲江にも、話したことはなかったが、咲江が生まれる前、男の子を授かったことがあった。咲江に話していないのは別に隠していたわけではないのだが、ただいう機会がなかったというだけのことだった。
その子は、一度生まれてはきたが、病気で死んでしまった。まだ一歳にも満たない年齢だったので、咲江が生まれる前のことだった。
この話は咲江が中学生になった頃に話そうと思っていたが、再婚の機会に話をしようかとも思っていた。そういう意味で、その子のことを思い出していると、恭一がまるでその時の子供の生まれ変わりに思えてきたのだ。
年齢的にも恭一と同い年。それを考えるとと、何かの運命を感じないわけには行かなかった。
名前は、
「正人」
名付け親は亡くなった父親だった。
結婚してから三年目で、時期的にも子供がほしいと思い始めたころだったのでちょうどよかった。それだけに夫婦二人ともに幸せの絶頂だっただろう。
出産までは順風だった。産後の肥立ちもそれほどなく、子供も平均的な大きさで生まれてくれたことで、それほど心配もないだろうという医者の話だった。
それなのに……。
急変したのは、そろそろ一歳の誕生日を考えようと思っていた頃だった。どうやら、子供が罹る病気の中でも脂肪率の高い伝染病だったようで、予防接種も定期健診もちゃんと受けていて、心配ないと言われていたにも関わらず、
「なぜ、この子だけが……」
と思わないわけにはいかなかった。
「好事魔多し」
と言われるが、そんなことわざで片づけられることではない。
数日ICUで治療を受けたが、その甲斐もなく、死ぬ時はアッサリとしたものだった。
しばらく放心状態になっていた両親だったが、先に商機を取り戻したのは旦那の方だった。さすがに数日会社から休みを貰ったが、そうも何日も会社を休んではいられない。そう思うと、気が付けば隣で妻は気が抜けたようになっていた。
――俺もこんな感じだったのか――
とビックリしてしまった旦那は、何とか妻を商機に戻そうと考えた。
「いつまでもふさぎ込んでいても仕方がない。俺たちの方が病気になってしまうぞ」
と元気づけるつもりで言った。
しかし、妻は一向に血色がよくなるわけではなかった。それでも何とか食事だけはさせて、少しでも顔色をまともにさせなければいけないと思った。自分がいくら正常に戻って仕事にでかけようと思っても、こんな妻をおいて仕事になど出られるわけもない。
――このまま妻が病気にでもなって、息子の後を追うようなことになれば、それこそ本末転倒な話だ――
と旦那は思ったのだろう。
少しでも力づけなければいけないと思い、
「おい、しっかりしろよ。お前がしっかりしてくれないと、前に進めないんだ」
と言ってはみたが、やはり精神的なショックは計り知れないほどだった。
さすがに困った旦那は、彼女を神経科の医者に診せることにした。彼女は訝しがることもなくついてきたが、診療中もほとんど何を考えているのか分からない状態で、とりあえず入院させることにした。
「一過性のものだとは思いますが、今はこのまま放っておくわけには行きませんからね」
というのが、入院の理由だったが、まさにその通りだった。
だが、先生の言う通りの一過性の問題だったのか、それとも入院することによって先生の治療が集中できたことがよかったのか、次第に彼女は立ち直ってきた。そして、そのうちに自分に子供がいたという意識が薄れているようだというのを、先生から聞かされた。
「どうやら、彼女の中での子供を死なせてしまったという罪悪感と、子供との楽しかった時間が急に断ち切られてしまったことへのショックから、自己防衛本能が働いてしまっていることが原因のようです。無理に思い出すことでもないですし、彼女が意識を薄れさせたいと思うのであれば、それが一番の正解ではないかと思うので、このまま様子を見ることにしましょう」
と医者は診断した。
実際に彼女は子供がいたことを意識はしていたのだろうが、敢えて表に出さないのか、何も言わなくなった。
「このまま子供がいらないということになったりしないでしょうか?」
と医者に言ったが、
「それも考えられますが、今のように順調な回復を見ていると、それは考えすぎではないかと思いますよ」
と言った医者の言葉にホッとしていたが、やはり子供を亡くして一年とちょっとくらいは、旦那を拒否するようになっていた。
「彼女が肉体的に私を受け入れられないのか、それとも子供を作るということに対して身体が拒否するのか、私には分からないんです」
旦那も男なので、さすがに一年近くも奥さんに拒否されると気が滅入ってしまうようだった。
だからと言って、浮気ができるような人ではないし、逆に浮気ができるくらいの人であれば、ここまで神経質になることもないだろう。浮気を奨励するわけではないが、浮気もできないというのは、実に不器用で気の毒だと思うこともあるようだ。
だが、ある日を境に急に奥さんが旦那を求めた。
「私寂しかったの」
と言って抱きついてくる妻を見て。
「待っていたんだよ」
とガッチリと抱き寄せながらのその言葉は、まさに本心そのものだったに違いない。
二人はそれまでのぎこちなさがウソのように、激しく愛し合った。二人が愛をほとばしらせた後の倦怠感の中で、夫が訊ねた。
「どうしたんだい? 今日は。俺は嬉しいけど、何か心境の変化でもあったのかい?」
と聞くと、
「ええ、神様がね。私に子供を授けてくださるって言ってくださったのよ。夢だとは思ったんだけど、その気持ちに正直になったら、急に寂しくなっちゃって、あなたを求めちゃった……」
というではないか。
彼女はその「お告げ」通り、しばらくして懐妊した。まさしくその夜の営みでの、
「一発必中」
だったのだ。
その時に生まれたのが咲江だったのだ。咲江は玉のような女の子として生まれた。弾けそうなその白い肌に笑顔が可愛らしく、そのクシャクシャな表情に、まわりの人は、
「男の子だったらよかったのに」
という人もいたくらいだ。
だが、それを口にするのは咲江を知らない人で、道子が以前男の子を亡くしていることを知っている人は、決してそんなことは言わないだろう。
さすがに道子は、男の子と言われて、ハッとしてしまったのは仕方のないことで、寂しそうな表情を浮かべ、声を掛けた罪のないその人は、道子に対してい自分が知らないこととはいえ、何をしたのか、まったく見当もつかなったことだろう。
そのおかげか、咲江の公園デビューは少し遅れた。それでも道子のことを前から知っていて、道子と親しい女性がいたことが彼女には幸いした。しかも、その人には咲江と同じ時に生まれた子供がいたのはもっとありがたいことだった。その子は男の子であったが、その子に対しては道子は別に気にすることはなかった。
だが、その子には上の子がいた。上の子は女の子だったのだが、道子にはその子の方が気になっていた。
――あの子が生きていれば……
と思わざる負えなくなっていた。
「道子さん、公園デビューまだなんでしょう? 私が一緒に行くから行ってみませんか?」
と言ってくれたのが最初だった。
もし、声を掛けてくれなければ、公園デビューできたかどうか分からない。子供を育てた経験のない人には、
「公園デビューくらい、なんてことないじゃない」
という人もいるかも知れないが、母親にとっての公園デビューは、その時だけの問題ではなく、そののち、子供が成長していくうえで、いろいろな相談に乗ってくれる最初の仲間作りであった。
しかも、ここで自分が勇気を持たなければ、ずっとママ友たちとわだかまりを持ったまま過ごさなければならない。それは母親だけの問題ではなく。子供にも影響することである。
それを思うと道子は是が非でも公園デビューしなければいけないと思っていたのだ。
公園デビューの機会はそう何度もあるものではない。それでもお互いに初めてだった時があるわけだから、相手もこちらの身になって考えてくれる人がいれば、その人が最初の自分の友達になってくれる人である。
実際に公園デビューしてみると、それほどのことはなかった。
「考えすぎなのよ」
と、皆から鳥越苦労を笑われたくらいだったが、咲江の方は、まわりの友達に自然に親しんでいた。
それが咲江という女の子の持って生まれた性格だったのかも知れない。
だとすれば、母親からの遺伝ということも十分に考えられる。そういう意味で、
「あんなに咲江ちゃんは皆に溶け込んでいるんだから、母親であるあなただって、その素質は十分にあるんじゃない?」
と言われた。
本当であれば、遺伝しているのは自分の方から娘に対してなので、逆のことのはずなのだが、まわりからそう言われると、変に自信が持ててくるから不思議だった。
別に長男のことを忘れてしまったわけではないが、この時の公園デビューが一つの契機となって、まわりの人へのわだかまりがなくなっていった。
そういう意味でが、娘の咲江に感謝するべきなのだろう。
「生まれてきてくれてありがとう」
と声に出して何度呟いたことだろう。
その時の思い出があるから、夫を事故で亡くした時も、最初はショックで何も手につかなかったが、ある時期を過ぎると、吹っ切れたように我を取り戻した道子だった。
夫を失った時、本当に目の前が真っ暗になった。何をどうしていいのか分からず、葬儀の時も、手伝ってくれている人から、
「あなたは、奥で休んでいて、私たちがやるから」
と、公園デビューの時から仲良くしてもらっているママ友連中が、仕切ってくれた。
何とも心強い人たちであろう。やはりあの時の公園デビューは正解だったということを証明しているようなものだった。
夫が死んだことで、しっかりしなければいけないと思っていたところで知り合ったのが恭一の父親だったのだが、これもグッドタイミングだったようだ。
恭一にはそんな大人の事情はよく分からないが、父が結婚したいと思っている相手に不満はない。むしろ、
「いい人たちだ」
という思いは強かった。
義母は優しいし、義妹も可愛い。
ただ、それだけのことだった。
実際に家族になってみると、それまで分からなかったことも分かってきた。別に知りたいと思っているわけではないが、相手はどうやら恭一のことをいろいろ知りたいようだった。
特に道子さんは義理とはいえ母親なのだ。何が好きで、何が嫌いで、性格的なものはどんなところで云々、これからずっと一緒に暮らしていくつもりだったら当然のことだろう。
しかし、そこで恭一は考えてしまった。
自分の中にある父親との確執であったり、性格的なことだった。
――性格的にも趣味趣向的にもまったく違っていると思っている自分を、道子さんは果たして息子として受け入れてくれるだろうか?
という思いである。
何よりも誰よりも息子の自分が、父親とまったく違っていると思っているのだから、他人が見れば、当然分かることであろう。
父親のことが好きで慕っているから結婚する気になった道子さんだから、趣味趣向や性格のまったく違う息子をどう思うだろう? 簡単に受け入れてくれるとは思えない。父親とは仕事に行っている関係で、ほぼ夜遅くしか一緒にいない。出張もあれば残業や付き合いもある。何日も遭わないなどということもあるだろう。
だが、息子である恭一とはどうだろうか? ほぼ毎日、朝、夕方以降寝るまで、ずっと一つ屋根の下にいるではないか。しかも、娘までいる。そんな環境の中で、もし恭一の性格を受け入れられなかったらどうなるだろう? それを思うと、恭一はさらなる不安に駆られるのだった。
恭一は自分が父親と性格がまったく似ていないということを感じるのは主観的に見てのことである。もし、これを客観的に見ればどうだろう? 自分では気づかない部分に気付くのではないだろうか。そこには妥協がなく、想像が働くからだ。主観的であれば、どうしても自己防衛の観点から、贔屓目に見てしまったりするだろうか、他人であれば、その目に容赦はないに違いない。
だが、道子さんは性格的にそこまで他人事として見ることができるだろうか。少なくとも息子として見ようと思ってくれているのだから、
「容赦なく」
ということはないだろう。
若干の贔屓目はあるだろうが、それでも父親と比較するのではないだろうか。
しかも、最初に知り合ったのは父親の方である。
「その息子なんだから」
という目で見ることだろう。
そうなれば、まずは同じ性格だと思って見るに違いない。そうすると、
「あれ? 何かが違う」
とすぐに気付くに違いない。
そんな思いがどこから来るのか、すぐに気付けば先に進めるのだろうが、ふと立ち止まって見た時に、
――ひょっとすると自分の目が違ってしまったのではないか?
と感じるかも知れない。
それは恭一に対しての遠慮になるのは、父親に対しての遠慮になるのか、まずは自分を疑ってみるかも知れない。
そこで一度立ち止まって見たとしても、実際に性格、趣味趣向が違うのだから、いくら立ち止まろうが変わりはない。そうなると、その時の道子さんはきっと戸惑ってしまうに違いない。
その戸惑いは、不安につながるだろう。
――私で大丈夫なのかしら?
いったん親子になってしまうと、道子さんはそんな恭一の性格を受け入れようと努力するだろう。
元々、恭一のような性格の男の子が嫌いではないかも知れないが、もし嫌いだったとすれば、その時に考えるのは、
――私に受け入れられるかしら?
という思いであろう。
途中から親になったわけなので、これまで育ってきた環境など分かるはずもない。聞いたとしても教えてくれるはずはないのだが、もしそのことで悩むとすれば、それは少し考え違いをしているのかも知れない。
たとえ生まれた時からずっと一緒にいる親であったとしても、子供のことをすべて分かっている親などいるだろうか? いや、いるはずはない。もし分かっていたとしても、そこで考えるのが、自分本人との違いについてだ。
それは息子として父親を見た時の恭一に似ているかも知れない。恭一は確かに一緒にいることで、
「あれ? どこか父親とは違っている」
と思い始め、次第に親子間で生まれる葛藤に悩みながらも、自分と父親では考え方も性格も、趣味趣向もまったく違うと気付いたのだ。
それがどれほどの期間によるものなのか、最初に疑問を感じたのがいつだったのか、あるいは、ここまで来るまで、ずっと同じスピードだったのか、など、ハッキリと分かっているわけではない。漠然とした気持ちを抱いたまま、考えることがどんどん増えていって、お互いその場その場で感じたことが蓄積していったのであろう。
道子さんが、恭一のそんな気持ちを分かってくれるかどうか分からない。きっと分からないだろうと感じていた。
だが、道子さんは恭一と違って父親を慕う気持ちがある。まずは父親を見て。そして恭一を見るという順番になるだろう。
その時、恭一は父親を見ている道子さんをどのように感じるだろう。
「どこか嫉妬のようなものを感じてしまうのではないか?」
という気持ちは、最近芽生えてきた。
――嫉妬?
父親に嫉妬など考えられるわけはなかった。
ここでいう嫉妬というのは、道子さんという人から慕われている父親に対して感じるものであり、年齢の近い相手と同じ人を好きになり、ライバル視することで生まれる男女間の嫉妬心とは違うおのだった。
同性として、相手に敬意を表しながら、それでも適わない相手に対して感じる悔しい思い、それを嫉妬という感情で父に持つかどうかということである。
性格的に一致を見ない相手にそんな嫉妬が生まれるはずなどないと恭一は思っていた。だが、恭一は自分の中で母親の道子さんにも自分に対して父に感じているような慕情を感じてほしいと思っていた。
年齢は自分よりもかなり上で、しかも立場としては、義理ではあれ絶対的に優位なはずの母親ではないか。母親に慕われたいなどという感情を抱いてしまった自分がおかしいのではないかと感じたのは、やはり自分が思春期の中にいるからだろう。
もし慕われたいと思うのであれば、それは道子さんに対してではなく、娘の咲江に対してではないだろうか。
「お兄ちゃん」
そう言って慕ってくる咲江の姿を何度想像したことだろう。
この想像に関しては正常な感情であり、道子さんに感じたものと比べれば、相当に当然と言える感情である。
それを親子ともどもに感じるのである。しかも、相手は実の親子、自分とはどちらも血がつながっていない、言い方は悪いが、
「架空の家族」
である。
形式的に考えれば、父親と道子さんが結婚することで、その付帯として存在している自分と咲江も一緒に華族として生活することになるというだけのことである。
――そういえば、親父は咲江に対してどう感じているんだろう?
道子さんが自分に対して、いろいろ知りたいと思うように、家族になる相手である咲江に対しても父親になれるようにいろいろ知りたいと思っているのだろうか。
そう思った時、ハッと気になるものがあった。それが何であるかすぐには分からなかったが、胸騒ぎのようなものがあった。だが、それは、
「これ以上深く考えてはいけない」
と思わせることであり、考えること自体がタブーな気がした。
そのせいなのか、恭一は自分が咲江に対しても妹として以外の感情も抱いているのではないかと思うようになっていた。
恭一はいろいろ考えていたが、現実としてその日、家の中にいるのが自分と道子さんの義理の母子であるという事実を思い出した時、ふと我に返ったような気がした。
「何か夢を見ていたような気がする」
それはきっと前からこの日が道子さんと二人きりになる日だということを分かっていて、胸の高鳴りを感じていたからではないだろうか。
もし夢を見たとすれば、曽越いかがわしい夢だったかも知れない。その証拠に夢の内容をまったく覚えていないではないか。
元々夢というのは、目が覚めるにしたがって忘れていくものだという意識があった。
それは楽しい夢であったり、
「夢なら覚めないでくれ」
という夢である。
怖い夢など、早く覚めてほしいと思っている夢に関してはなぜか記憶にあるというのは、実に皮肉なことだと思っている。
この夢の内容がいかがわしいものだったのではないかと思ったのは、その後に起こった出来事が関係していた。
目を覚ました恭一を待っていたかのように、
「恭一さん、お目覚めですか?」
と部屋の外から道子さんの声が聞こえた。
部屋は恭一個人の部屋であるが、別にカギをかけているわけではない。入ってこようと思えば入れるのだが、さすがに義理の母親としてはそこまでできないと思っていたのだろう。
それでもいくら偶然とはいえ、よく恭一が目覚めたのが分かったものだ。ひょっとすると時々恭一が目が覚めるまで声を掛けてきたのかも知れない。たまたま今回目が覚めた時に掛けた声が今だったとすれば、理屈としては成り立つ気がした。
「あ、はい。目が覚めてますよ」
というと、道子さんは一瞬押し黙ったが、
「失礼していいかしら?」
と言って、扉の向こうからそう声を掛けた。
恭一としても断る理由などないので、
「いいですよ」
と返事をすると、
「失礼します」
と、ずっと本当に他人事だった。
若干の苛立ちを感じていた恭一だったが、まだ完全に目が覚めていないこともあって、ベッドから身体を起こすことはできなかった。
道子さんは、紙を後ろで結び、いつもの長い髪とは違ったいで立ちに、エプロン姿のいかにも主婦といった姿だった。一瞬実の母親を思い出したが、もう何年も経っているので、顔は思い出せなかった。それだけ成長のわりに、時間が経つのが遅いということなのかも知れない。
化粧をしていないのか、それとも限りなく薄化粧なのか、今まで知っている道子さんとは少し違っていた。だが、恭一には新鮮に見えて、それが嬉しかった。
「ちょっと遅いですが、朝御飯にいたしますか?」
と聞いてきた。
「今何時なのかな?」
何となくは分かっていたが、わざと聞いてみた。
「十時半を過ぎたくらいです」
「じゃあ、まだ朝ご飯だな」
本当は昼も兼用だったが、せっかく朝御飯と言ってくれているのだから、朝御飯にしておいた。
「そんなにジロジロ見ないでください」
と言って、顔を赤らめて微笑んだ道子さんだったが、その姿にドキッとしたのは、彼女のあざとさに気付いたからだろうか。
「あ、いや」
と言って、目のやりどころに困ってしまった恭一だったが、別にジロジロ見たとしても相手もそんなに大げさに恥ずかしがることなどないのだ。生娘でもあるまいし、しかも義理とは言え、親子の関係だからである。
そのことは恭一も分かっているので、そんな言われ方をしなければ、別に意識することなどなかったはずだ。それを意識させるように仕向けたのはあくまでも道子さんの方で、恭一からではないということを、自らに言い聞かせていたのは、後になってこの時のことを思い出した時に感じたことだったのかも知れない。
―ー薄化粧だと、ここまで顔の色が真っ白になるものだろうか――
と感じた。
まるで白粉でも塗った花魁でも見ているかのようだった。実際に花魁など見たことはないが、テレビドラマなどで見た記憶でしかないが、それを思い出すと、ラフな格好の道子さんのイメージと矛盾していて、またそこが悩ましかった。
布団の上にいわゆる、
「女の子座り」
をして座ると、曲げた膝から外側の太ももに掛けて、一本の線のくぼみができている。
筋肉の緊張によるものなのだろうが、それが艶めかしく恭一の目に写った。
しかもその姿勢はテレビなどでよく見るシーンと重なった。誘拐された女性が、どこか誘拐犯のアジトで、誰も助けてくれる人もおらず、目の前に誘拐犯が迫ってくるのを恐怖におののきながら、何とか逃れようとでもしているような姿であった。
――こんな姿を見せられたら――
と、思わずカッと見開いた目はスカートの裾あたりにあり、今にも襲い掛からんとする変質者の目をした男に見とがめられ、逃れることのできない恐怖に見も震えんばかりになっている姿である。
その光景は、思春期の男の子には刺激的すぎた。身体が勝手に反応し、下半身と上半身が分離しているかのようで、別の人間の持ち物のようにさえ思えた。しかし、それでも下半身にある敏感な部分は紛れもなく自分のものであり、反応した部分を否定することはできなかった。
今にも襲い掛かろうとする恭一だったが、いざとなったら今度は身体が動かない。罪悪感などすでになく、本能の赴くままのはずなのに、肝心の身体が動いてくれない。やはり上半身と下半身は別人になってしまったということなのか、恭一はそんな自分が分からなかった。
しばし恐怖におののいていた義母だったが、恭一が何もできない状態にあることが分かると、こわばった表情が次第に落ち着いてくるのを感じた。血色も先ほどよりもだいぶよくなっているはずなので、自分では分からなかったが、意識は次第に正常に戻りつぃつあった。
そのせいもあってか、落ち着きを取り戻すことができ、正常な判断力が戻ってきたのは自分でも自覚できているようだ。
ただ、目の前の恭一が、どうして本能の赴くままに行動しないのか分からなかった。
――どうしたのかしら?
思わず、恭一を睨みつけたが、その目に驚いたのか、それまで固まってしまっていた恭一の表情に恐怖がよぎったようだ。
たった今まで恐怖におののいていたのは道子だったはずなのに、完全に形勢逆転していることを道子は悟った。
――こうなれば、もうこっちのものだ――
と道子が感じたかどうか分からないが、道子は身体を起こして、艶めかしい姿勢を元に戻した。
「ごめんなさいね。私があなたを余計な気持ちに煽ってしまったのね」
と言いながら、硬直している恭一の頭を撫でた。
恭一は身体すべてが硬直してしまっていたのだが、唯一目だけは動かせるようだった。頭を撫でてくれた道子の手を横目に見ながら、見張っていた目が次第にトロンとしてきて、心地よさを感じてくるのが分かった。
その思いは道子にも伝わっていた。
「大丈夫よ」
と言いながら頭を撫でていると、道子も何か恍惚の気分になっていき、それを恭一も感じてくれているのだと思うと、嬉しくなっていた。
恭一は実の母親からもそんなことをしてもらったことはなかった。恭一は咲江に兄がいたという事実を知らないので、どうして自分が襲い掛かろうとまで下道子が、こんなにも優しくしてくれるのか、理解に苦しんでいた。
「親子だと思ってくれているという証拠なのかしら?」
と恭一は思ったが、それにしては優しさにねちっこさを感じる。
ねちっこいのは別に悪いことではないと思っているが、思春期の男の子を相手に義理の母親がする行動ではないと思えて、何が起こっているのか、元は自分が原因だったはずなのに、その状況が分からなくなっていた。途中から自分の手を離れ、道子の腕の中に委ねられた快感だったのだ。
道子は今度は、恭一の頭を両手で持った。まるで目の前にあるバスケットボールを両手で持ったような感じである。そして自分の胸の近くに手繰り寄せると、一瞬胸の中に抱きしめたが、すぐに膝の上に載せて、いわゆる膝枕をしてくれた。
もちろん、恭一には初体験だった。実の母親からされたこともない。
――これが膝枕というやつか――
と思うと、また目がトロンとしてきて、心地よい時間に誘われているのを感じた。
道子さんは恭一の耳の後ろを指でゆっくりと撫でている。ここが気持ちいいということを知っている素振りであった。
――今までに何人の男性にされたのだろう?
と思うと、嫉妬心が生まれてくることを自覚した。
道子さんはそれ以上のことをしようと思っていたのかどうか、後になって考えても分からなかったが、それ以上のことを結局はしてこなかった。するつもりではいたが、いざとなったらおじけづいてしまったのか、もしそうであれば、その気持ちは恭一が一番分かる気がした。
恭一には、思春期を迎えたことで抑えきれない欲望が自分の中にあることを自覚し始めている。しかし、実際にそれを行う勇気も、行ったことで相手が自分に対してどう感じるかということ、恭一の考えられる範囲ではなかった。形式的に考えると、そのどちらも自分にはできないと思うのだが、しなかったことでの自分に対して感じる後悔と、やってしまったことで取り返しがつかなくなり、それが自己嫌悪を増長させてしまうことを恐れていた。
「どうしようもない騒動に駆られるのは思春期なので仕方がない」
そんな思いが自己防衛として存在していることも分かっているのだが、本当に自己防衛なのだろうか。本当に自己防衛なら、ムラムラ来る前に何とかしようとするのではないだろうか。そう思うと、恭一はムラムラしてきた心境を抑えるためには、どこかで必ず冷静になれる瞬間がなければいけないと思うのだった。
だが、実際に冷静になれた時間が存在したのだろうか?
おじけづいたことで、急に我に返るという感情はあるが、もし冷静になれたのだとすれば、そんな感情を抱いている時でなければいけないような気がする。
おじけづくというのは、どうどの方向から考えたとしても、あまりいい表現ではないだろう。何しろ怯えてしかもたじろいでしまうわけだからである。後ろに下がるという意味でもマイナスイメージが強いに違いない。
しかしゆっくりと考えてみると、前に進むだけがいいことだと言えるだろうか。
「猪突猛進」
という言葉があるが、これは決していい表現だと言えないのではないか。
確かに前に進むことはいいことだが、一歩立ち止まってまわりを見たり、状況によっては一歩下がってまわりを見るということも必要である。それくらいのことは中学生になるまでに分かってきていることだと恭一は思っているが、
「では、それがいつ身に付いたことなのか?」
と聞かれれば、明確に答えられないのも事実であった。
恭一がおじけづいたことで、相手の道子もきっと我に返ることができたのかも知れない。そして自分が大人であり、目の前にいるのがまだ思春期の真っ最中である子供だと認識すると、今度は普段のような大人と子供の関係であった。
しかも、本能からの行動を垣間見た相手が、自己嫌悪に陥りそうになっている。自分が悪いわけではないが、自分に対して感情をあらわにしたことで、道子は道子なりに罪悪感を持ったのかも知れない。
――ごめんなさいね。私が悪いの――
と、言葉で呟いていたかも知れない。
道子は自分が親であることも思い出し、逆に最初に本能を見てしまっていた方が、今後のこの子に対してどのように接すればいいかということが、何も知らないよりもやりやすいとも感じた。
本能を剥き出しにしたというには、あまりにも情けない。おじけづいたのであるがら、道子としては味気無さすらあったかも知れない。
――私に魅力がないのかしら?
とさえ思えてきて、本当は恭一の中で、一瞬我に返ったことで、自分が本能、いや本性を剥き出しにする相手がいるとすれば、もっと違うタイプの女性であるということに気付いたのだろう。
とはいえ、立場は逆転した。いかに相手が何を言おうとも、立場は完全に道子の方が有利である。行動を咎めて、脅迫することもできるだろう。自分の思う存分の相手にしてもいいわけだ。
だが、道子はそんな気は毛頭なかった。目の前にいる怯えた男の子を正直に、
「可愛い」
と感じたのだ。
いくらおじけづいたとはいえ、自分に対して淫らな感情を持ってくれたことが、嬉しかった。
もちろん、父親から受けた愛情は嬉しいし、最高だと思っている。しかし、恭一に感じた思いはまったく次元が別の感情だった。
――きっとまだ死んでいった息子のことが頭の中から消えない――
ということ思い知らされた気がしていた。
母親とそんなことがあったなど、誰が知ることだろう。道子さんはすぐには起きられない様子で、きっと金縛りにでも遭っていたのかも知れない。恭一とすればそんな道子さんを放っておいて自分だけが身体を動かせるかのような状態を見せるのは嫌だった。
十分ちょっとくらいはそんな状態ではなかった。だが、身体が動かせるのに動かさないでいるとすれば、普通ならこれほど苦痛に思うことはないが、そばにいたのが道子さんだったことで、それほど苦痛でもなかったようだ。
道子さんから香ってくるかぐわしさは、今までに感じたどんな女性とも違っていた。母親とも違っているし、幼稚園の頃の女性の保育士さんに感じた思いとも違っていた。
しかし、この二人に感じた香りは今までの恭一にとって言い知れぬ影響を与えてきたのではないかと思える。
母親から感じたものは、包容力であった。小さい頃から抱っこされるのが嬉しくて、よく抱っこをせがんだものだった。
「男の子なんだから、そんなに抱っこなんていうもんじゃない」
とあの父親にはよく言われたが、母親は苦笑いをしながら抱っこに応じてくれた。
保育士さんに感じたのは、ほろ苦いイメージだった。いい匂いがしていたのには違いないが、あまり好きな匂いではなかった。明らかに母親のしている香水とは違い、きつめの臭いがした。
今から思えば、先生も分かったのである。その香水は決して子供たちのためにしていたわけではない。むしろ子供たちのためにするのであれば、香水などしない方がいい。きっと誰か他の男性を意識してのことだったのだろう。
子供にそんな理屈が分かるわけもなく、そのきつい匂いをずっと嗅いでいると、何となく病みつきになってくるのを感じた。それがほろ苦い感覚だったのだ。
その匂いのイメージをそれから五年ほど経って思い出すことになった。それは父親に感じた思いが、その時の臭いを思い起こさせたからだ。屈辱感に打ち震えたあの時、匂いなどどこからもしてこなかったはずなのに、鼻は覚えていた匂いを思い出させた。それが保育士の臭いだったのだ。
――思い出したくもない――
そう思うと、今度は母親の匂いを思い出した。
「やっぱり母さんの匂いが最高だったな」
今でも抱っこしてほしいくらいの思いを小学校の五年生で感じた。そんな思いをどうして感じたのか自分でも忘れてしまっていた。
母親に感じたほのかな思いは、やはり父親に対しての反発から思い出したのかも知れない。
ほろ苦い匂いを思い出させておいて、それを打ち消そうという思いから、母親を思い出させる感覚は恭一を、
「父親なんて」
という、憎しみに変えてくれる。
「憎しみからは何も生まれない」
というセリフをテレビのサスペンスドラマの解決編で見たのを思い出したが、
――そんなの欺瞞に過ぎない――
と思っていた。
憎しみからは確かに何も生まれないかも知れないが、元々あったものを思い出させることはできるだろう。だから、サスペンスドラマでのあのセリフは違っている。憎しみをいかに自分で取り入れるかが問題なのであって、そこから何かを生もうという感覚自体、おこがましいのではないだろうか。
こんなこと、それまでの恭一は考えたことなどなかった。匂いというキーワードで思い出した二人と、そして今目の前にいる道子さんを加えた三人をそれぞれ思い描いているうちにそんな発想を抱かせた。
要するに、
「匂いというものは、人間の鼻腔を突いて、脳に影響を多大に与えるものだ」
と言えるのではないだろうか。
それも、ソフトに与えるもので、そこからの想像や妄想、そして記憶の中に封印されていた感覚と思い出、それぞれを刺激し、目を瞑れば、瞼の裏に映し出される光景が、一つや二つはあることであろう。
恭一は、それを思春期という時期と比べることで、素直な自分をまっすぐに感じることができることで、余計に自分を見つめ直し、思春期を大人への階段としてならしめるだけの力を感じさせるものであった。
義母である道子さんは、自分にとって大人のオンナと、母親としての中間に位置している、ある意味中途半端な存在であり、それを思うと、どこかまたしても身体の一部にムズムズした感覚をもたらすのだった。
そんな思いを知ってか知らずか、娘の咲江は無邪気に恭一を慕ってくる。
「ねえ、お兄ちゃん。私算数で百点取ったんだよ」
と言って自慢げに見せてくれる。
実際にはこんなに無邪気ではないことは知っている。ある日、学校の友達何人かと下校しているところを垣間見たことがあったが、その時はテキパキと彼女が先導して何事も仕切っている姿が凛々しかったのを覚えている。そんな彼女が慕ってくるのは、学校では自分が中心になっていることで、甘える相手がもはやいないことで寂しい思いからなのかも知れない。
母親に対しても決して甘えたりすることのない咲江は、心のどこかに寂しさを蓄積していたのだろう。
恭一は、道子さんから、長男が亡くなっていることを聞いていた。咲江も少しは知っているようだが、それほど気にしていないと言っていた。もし知っていたとしても、親を独占したいと思うのは子供の常であろうから、死んだ兄のことを気にしている様子だったら、それは嫉妬に近い思いを抱くかも知れない。
咲江はそのことを恭一に話すことはなかった。
もっとも母親が恭一に話すなど思ってもいないからだろう。
道子さんが恭一に話したのは、寂しかったからというよりも、やはり恭一に対して息子を見ているような気がしていたのだろう。そして、
「そんなお義母さんを許してね」
と言いたかったのかも知れない。
その思いは恭一に対してもあるだろうし、亡くなった息子に対しても、
「あなた以外の義理の息子をあなたの代わりにしてしまってごめんなさい」
と言いたいのかも知れない。
道子さんのそんな気持ちを知ってか知らずか、咲江は今日も甘えてくる。
最近になって恭一は感じることがあった。
――お母さんが自分を見てくれなくなったのは、俺が現れたことで兄への慕情が深まったからではないだろうか――
と思っているとすれば、本当は恭一に対して嫉妬心を抱くべきであろう。
だが、そうしないのは、咲江の方でも本当は兄貴が欲しかったのかも知れない。母親が過去のことを気にするあまり、それに触れてはいけないという思いから、押し殺してきた気持ちがあるとすれば、何ともいじらしいことではないか。そう感じた恭一は甘えてくる咲江を拒否することはできなかった。
「おいおい、抱き着いてくるなよ」
と口では言うが、これも一種のご愛敬だ。
そう口では言っても、顔は笑っている。実に楽しそうなのが自分でも分かるのだ。他人事のように見れば、
「仲良くて羨ましい兄妹だな」
と思うに決まっている。
咲江の甘え方は日に日に増してきているような気がする。
「お兄ちゃん!」
と後ろから声が聞こえようものなら、顔が自然と緩んでいるのが分かる。
咲江の部屋は自分の隣の部屋になるが、コーポということもあり、中途半端な防音加工を施しているので、隣の声や音が聞こえてくることがある。
最初は、
――咲江にこっちの声が聞こえてこないだろうか?
という不安があったが、隣からさほど物音が聞こえないことでホッとしていた。
――咲江の方も同じことを思っていて、なるべく音を立てないようにしているのだろうか?
と感じたが、それはそれでいいことではないだろうか。
だが、そのうちにあまり隣から何も聞こえてこないこといたいして不満を感じるようになった。別に盗聴しようという腹積もりではないが、思春期前の女の子の部屋から何も聞こえてこないというのも少し不安に感じさせた。
ラジカセくらいは持っているだろうから、音楽くらい聞こえてきてもよさそうだ。何よりも物音ひとつしないというのは、生活感がなく、不安に陥るのも仕方のないことであろう。
ある日、
「俺の部屋、うるさくないかい?」
と聞いてみたことがあった。
「いいえ、そんなことはないわ。静かなものよ」
と言っていたが、彼女はそこに何の疑問も感じないのだろうか?
咲江の部屋の音を気にしながら暮らしていると、思わず盗聴してみたくなった。壁に耳を押し当てて少し聞いてみたが、そこからはやはり何も聞こえてこない。
――彼女は何をしているのだろう?
そう思うと気が気ではなかった。
衝動に駆られて隣の部屋の扉をノックした。何をしようというのではない。思わずノックしたのだった。
果たして出てきた彼女に何を言えばいいのか、考えあぐねている間に出てきた彼女は、
「何? お兄ちゃん」
と言って、いつものあどけない表情をこちらに向けているだけだった。
その時点になって情けないことにおじけづいてしまった恭一は、
「あっ、いや。何でもないんだけど」
と煮え切らない。
その様子を見た咲江は悪戯っ子のように、
「フフフ」
と微笑むと、恭一の手を取って、自室に招き入れた。
「あっ」
モノも言わせないという大胆な行動に、恭一は文字通り声も出ない。
「お兄ちゃんが来てくれるのを待っていたのよ」
と言って、ベッドの上に腰かけた。
初めて入る義妹の部屋、そこは想像していた女の子の部屋とは少し違っていた。女の子の部屋というと、薄いピンクを基調にした部屋に可愛らしいぬいぐるみなどがたくさん置いているというイメージだった。もちろん、かなりの偏見が含まれていたに違いないが、よく見ると何もない。ただ、匂いだけは甘いというよりも柑橘系の匂いがして、それが鼻腔を擽るのを感じた。部屋の奥には机とその横に本棚がある。勉強関係の本と一緒にミステリー小説が多く置かれているのには少しビックリした。彼女は妹としてはいとおしい存在だが、普段は勉強家で、ミステリーを好む女の子だと思うと、なるほど隣の部屋から何も聞こえてこなかったのは、勉強をしたり、読書をする時間が多かったからなのだと納得した。
「咲江は、ミステリーが好きなんだね?」
と聞いたのは、恭一もミステリーには造詣が深かったからだ。
本棚をよく見ると、自分の好きな小説家の本が結構並んでいる。趣味も合うのかも知れない。
中学に入ってミステリーが好きな友達の影響で読み始めたのだが、彼は、
「俺は将来は小説家になりたいんだ」
とうそぶくほどのミステリーファンだった。
彼との話にはミステリーに対して一種独特の発想、いや感性を持っており、話を聞いていてついていけないところも若干感じていた。彼の話はいきなり突飛な発想をしたり、急に何かを思いついたと言って、恭一を待たせておいて、ネタ帳に書き込んだりと、なかなか進展しない時もあれば、一気に持論をまくし立てる時もあった。話の中心はあくまでも彼で、会話において主導権を握った方が勝ちだという理論を実践していると言ってもよかった。
そのおかげで、恭一もミステリーを読むようになった。自分も小説家を目指そうなどという大それたことは考えたことはなかったが、小説を読みながら、犯人当てをしてみたり、トリック解明に躍起になってみたりと、これもミステリーファンとしての醍醐味を味わっていた。
「咲江はミステリーをどうして読むようになったんだい?」
と聞くと、
「前にドラマで見たミステリーが面白いと思って、それで原作を読んでみたの。そうしたら原作の方が面白いじゃないってなって、それで読み始めたのよ」
「なるほど、映像から原作を読むというのはいいことかも知れないね。逆に原作を読んでから映像作品を見ると、どうしても面白みが半減してしまうからね。どっちがいいかはその人の判断なのだろうけど、映像から入るというのは一つの入り方なのかも知れないね」
と答えた。
「ええ、そうなのよ。原作を読むと自分の想像力が豊かになって、いくらでもいろいろな発想ができると思うの。特に時代が古いものであれば、その時代背景も知りたいって思うでしょう? そうなると歴史を勉強してみたくなるの。私が勉強を始めたのは、それが一番の現認なのよ」
「じゃあ、別に中学受験ということで勉強をしているわけではないの?」
「ええ、。中学受験を志すには少し遅かったのかも知れないわね。でも、歴史以外の勉強もやってみれば結構楽しいものよ。だから続けているの」
と咲江は答えた。
「一生懸命に勉強しているんだね」
「ありがとう。でも、楽しいことをしているんだから、これでいいのよね」
と言って、ニンマリとした。
その表情には少し淫靡な雰囲気があったが、それを恭一は見逃していたのかも知れない。
――こんな一生懸命な妹が隣にいるのに、盗聴などしようと考えた俺は、何と愚かな兄なんだ――
と、いう罪悪感を抱き、自己嫌悪に陥りそうになった
しかし、それを止めたのも咲江だった。
「だからね。お兄ちゃん」
と言って、咲江は恭一にいきなり抱きついてきた。
「私、楽しいことをするのは悪いことじゃないと思っているの。自分の楽しいことで悪くないと思うことは何でもしたいと思うようになったの」
と言って、彼女の唇が恭一の唇を塞いだ。
「ムググ……」
何かを言おうとしているが、恭一は声が出せない。
咲江はともかく、恭一にとってはファーストキスだった。クラスに気になる女の子がいないといえばウソになるが、その女の子は皆から好感を持たれていて、いわゆる、
「高根の花」
だったのだ。
手が届きそうもない高根の花に、さらにまわりにはライバルだらけ、早々に競争から離脱した恭一は、人と争うことが嫌いな平和主義者ではなかった。どちらかというと、どんどん勝ち進んでいっても、最終的に負けてしまっては、そのショックが計り知れないということを考えると、最初から諦めた方がいいと思うのだった。
そのため、学校では恋愛対象になる人はいなかった。理想が高いというわけではなく、一度クラス内での恋愛感情を持ち、その競争を拒否するという気持ちを抱いたことで、もうクラス内での恋愛はしないと思ったからだ。
もし、競争を拒否することがなければ、ひょっとすると好きになる子もいたかも知れない。それは分からないが、恭一の中でそのことに対しての後悔はなかった。
――諦めがいいというのはちょっと違う気がするかな?
と自分で思っていたが、それを解消してくれたのが、咲江の存在だった。
咲江は義妹だが、血のつながりがあるわけではない。したがって彼女の方でも恭一を男性として見てくれているのであれば、それは自由恋愛の範疇だと思っている。
恭一は、そういう意味で自自由奔放な性格だった。そこがあの父親との一番の違いであり、
「自由であるからこそ、他人を縛ってはいけない」
と思うようになった。
だから逆に、
「縛るのではないから、相手が遠慮してこなければ、こっちも遠慮しない」
というのが基本的な考え方だ。
それがコミュニケーションを作るのであって、他人を縛ったり、そのために人に遠慮したりする姿勢は、苛立ちの対象となるのだった。
咲江は今、恭一に兄としてではなく、オトコとして興味を持っているようだ。大人の男性として見ているその目は、時々感じていた淫靡なイメージそのものだった。
そんな淫靡な雰囲気を感じた時、
―ーそんなバカな――
と自分の中で否定していたのだが、それは余計なことであった。
陰部な雰囲気を否定することで、本当はそれ以降も同じ雰囲気を保っていたかも知れない相手をわざと見ないようにしたことで、咲江への気持ちを打ち消し、彼女の意志を通さないようにしていたのかも知れない。
――それって、俺らしくないよな――
相手に対し忖度し、勝手な思い込みで相手を否定するなど、本当はあってはならないことだろう。
それをしてしまうのは、今まで自分が嫌だと思ってきた父親と同じではないか。そう思うと、自分が情けなくて、自己嫌悪というだけでは済まないのではないかと考えてしまうではないか。
咲江が唇を重ねてからどれくらいの時間が経っているだろう。その間に高速回転で頭の中で何かの考えが駆け巡ったようだ。あまりにも早くて解読できないほどだった。
まだ数秒しか経っていないと思ったが、それに間違いはないだろう。いくら鼻で呼吸ができるとはいえ、口を完全に塞いだままじっとしているのは、さすがにきついのは分かっている。
そう思うと、いつの間にか考えることをやめてしまった自分が、元の場所に戻ってきたという感覚になった。頭に集中していた感覚が、また唇に戻ってきた。咲江の柔らかい唇を感じていると、血が逆流するのではないかと思うほどの快感があったが、本当は唇が重なった瞬間に感じるはずのものではないかと思った。
――順番が違っているよな――
と思った。
そう思った瞬間だった。咲江の唇が微妙に震えているのを感じた。
――このじっとしている感覚に辛くなったのかな?
と思ったが、それでも唇を離そうとしない咲江は、何かを考えているように思えた。
彼女の中で何かの結論が出なければ、彼女の方から決して唇を離そうとはしないのではないかという思いが恭一の中にあり、
――それなら、俺の方から離してやって、咲江を楽にさせてやろう――
とも思ったが、それも彼女に悪い気がした。
せっかく我慢しているのに、他人にタオルを投げられてしまうのは、不本意だと考えるかも知れない。
しかし、恭一は咲江の義兄なのだ。恋人でもなければ友達でもない。
そう思うと、もう一つの考えが頭をよぎった。
――ひょっとすると、咲江の中でこの俺を義兄以外の何かであると考え、それを実証するかのように、いろいろ試そうとしているのではないだろうか?
というものだ。
友達として、恋人として、そして本当の兄として、それぞれいろいろな思いがあるだろう。
その中での口づけは言わずと知れた恋人という発想である。あまりにも奇抜と言えば奇抜だが、これが咲江の考えなのであろう。ミステリーなどを読んでいると、女の子でも快活な気分になるのかも知れない。それが咲江の気持ちを後押ししたのか、それとも元々の性格が快活で、ミステリーを読むことでその本性をあらわにしたのかは分からない。だが、自分の気持ちを表すための起爆剤のようなものとなったのは確かであろう。
震えた唇が、重なった時にはカサカサに乾いていたと思っていた彼女の唇に潤いをもたらしているように思えた。
――ということは、彼女のこの震えは耐えきれないという思いではなく、緊張がほぐれて、次の段階に突入しているという意味なのだろうか――
と感じた。
だとすれば、ここでやめる手はない。この状態をキープしながら、恭一は咲江のことをもっと考えていた。
咲江はそれからゆっくりと身体の力を抜いていき、そして少ししてから、唇を離した。一瞬、顔を下に下げて、はにかむような態度を取ったかと思うと、今度はいきなり顔を上げ、恭一を凝視した。
その顔は真剣そのものだったが、何かを訴えるという感じではなく、ただ見つめているだけだった。
人から凝視される時というのは、何かを訴えてくる表情だとずっと思ってきたので、その時の咲江の表情は、恭一には違和感があった。
――何を考えているんだろう?
という思いがよぎり、口づけをしたのは自分からではないのに、何かそのことで抗議を受けているような気がするくらいだった。
だが、次の瞬間、目がトロンとして、うっとりした様子で恭一を見上げる。それは恭一を慕っているように思えたが、今までに感じた慕われているという感情の最上級に値するものであった。
――この子のこの態度は一体何を意味しているんだ?
と、この数秒間(と思えるほどの短い時間)に、一体どれだけの感情が生まれて消えて行ったのかを思うと、これまた不可思議な感情が生まれてきた。
相手を小学生の女の子として意識できないものだと思うようになった。もしこれが道子さんであれば、まだ分かる気がするくらいであったが、道子さんは大人である。道子さんを想像した時点で、さっきまでの態度がやはり子供だったということを立証しているようで、今ここで道子さんを想像するのは、何かが違うと思わせた。
だが、やはり親子、想像するだけのこともあるようで、咲江を見ていると道子さんを思っている自分も一緒に出てくるような気がして、
――俺は何か少し気が変にでもなったのだろうか?
と感じていた。
決して気が変になどなっているわけではないが、いきなりのいろいろな攻撃に自分の気持ちが追いついてきていないだけではないだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます