第3話 加筆作家
二重人格について意識し始めたことで、二重人格について調べてみた。二重人格という性格性が今の自分に影響を与えることができるとすれば、ひょっとすると、もう一人の自分には小説の才能があり、執筆をしていてもいいという証明になる。
山下隆正という小説家の担当でありながら、実際に面と向かったことのない人が多い中、彼と出会う機会を得たのは、中西が最初であった。
あれは、中西が出版社に入って二年が経った五月のことだった。出版社へファックスで、
「担当者の中西君になら、私は面会をしてもいい」
という趣旨のものが送られてきた。
送信先はコンビニだったので、その場所を特定することはできない。何しろ執筆にいろいろ飛び回っている先生だからだった。
隆正も川上紹運と同じで、出版社にその素性は知られていなかった。さすらいとまでは行かないが、身勝手な性格から、きっと、極度の人見知りなのだと思われていたのだろう。実際に彼は担当者に遭うことをせず、作品だけを送ってくるというやり方で、
「さすが川上紹運が推すだけのことはある。山下隆正という小説家も実に変わった小説家だ」
と言われていた。
中西は最近編集長との話の中で、
「このところの山下先生の作風が少し変わってきたと思わないか?」
と言われて、ドキッとしたのを覚えている。
忘れようと思っても忘れることのできないほどのショックを覚えたのだが、そのショックの正体が正直よく分からなかった。
「ええ、確かにおっしゃる通りですね」
と答えたが、何がどう変わったのか、説明が難しかったので、これ以上編集長の突っ込みはやめてほしいと思うばかりだった。
隆正のことは編集部では中西からしか聞いたことがない。一度編集部の人が中西に黙って中西の後をつけたことがあったが、尾行されているのを察知してか、途中で巻かれてしまったという。
編集長からの命令とはいえ、人を尾行するなど本当はしたくなったので、編集長には素直にまかれたことを話し、中西には何も言わなかった。
実は中西もその時自分が尾行されていることは分かっていた。分かっていて気付かないふりをしていたのだが、相手が尾行が下手だったおかげで、うまく巻いたのだが、相手に対して、
「故意に巻いた」
という意識をもたれなかった。
尾行していた方としては、
「自分の尾行が下手なだけだったんだ」
と思ったが。これは別に反省ではない。
元々、尾行などという姑息なことが嫌いだったことで、成功しなかったことに安心感を抱いていた。
中西としては、
「尾行するなら、もっとうまくやらければ」
と苦笑していた。
こんなに簡単にまくことができるなど、思ってもいなかったからである。
ただ、もし今度は他の人に中西を尾行させたら、成功する可能性は高かっただろう。なぜなら、
「一度尾行に失敗しているから、二度とやらないだろう」
という思いを中西の方で抱いていたからだ。
中西の思惑に沿ってというわけではないが、編集長の方も、部下を尾行するなどということに理不尽さを覚えたのか、それとも、隆正の正体に対して脅威を失ったのか、尾行はやめたのだ。
確かに、中西に任せておけば、隆正からの原稿は遅延することもなく、キチンと毎回の掲載に間に合っているのだ。
そんな中西が、結婚するという。相手はOLの女性だというが、誰もその人に遭ったことがなかった。
「そういえば、中西さんって、秘密めいたところが多いわね」
と、女性社員からも言われていた。
噂話などには聡い女性社員から、
「秘密めいた存在」
と言われる中西は、よほど普段から気にされていない存在だったのかも知れない。
営業は担当の作家のところに入り浸ることが多いので、事務所の女の子からはあまり知られていないことが多いのだろうが、それだけに噂話が少しでもあれば、その情報は自分たちで共有していることもあり、
「秘密めいた」
と誰か一人が言えば、それは全体の共有意識であることに相違なかった。
中西が結婚を決めた理由としては。
「そろそろ三十歳近くになるので」
ということであったが、中西に彼女がいるのを、事務所の誰も知らなかったようだ。
中西は容姿端麗で、出身大学も申し分のないところで、編集者という職業柄、少し忙しいこともあるが、それでも彼女がいてもおかしくはない状況であろう。
仲人は編集長に頼むことにした。
と言っても、大々的な結婚式を目論んでいるわけではない。結婚式としては一番小規模なものだという。その理由としては、彼女の方の招待客が極端に少ないからというのが理由のようだが、それでも結婚式を挙げたいと思ったのは、中西の優しさからではないだろうか。
「招待客はなるべく抑えたいと思いますので、申し訳ありませんが、そのおつもりでお願いします」
と言って、中西は編集長に仲人を頼んだのだった。
「よし分かった。小規模で行うことには何も言うことはない。それでいいのであれば、私が仲人を引き受けよう」
と言ってくれた。
この小規模な結婚式に対しても、事務所の女性たちから、
「秘密めいている」
と言われる要因にもなっていた。
ただ、中西も会社の中ではそれほど知り合いの多い方ではない。招待客を絞るのも、それほど難しいことではなかった。
ただ、人数合わせのために招待しなければいけない人がいないだけでもよかったと思っている。
「結婚式など、別に形だけでもいいんだ」
と中西は思っていた。
結婚する彼女も、別にこだわりがあるわけではない。
「私の方は家族だけのでも食事会でいいのよ」
と言っていたが、中西へ気を遣っているだけではなく、本心からそう思っているようにも思えた。
「僕もそれでいいと思うんだけど、僕は君を編集長や会社の人間に遭わせておきたいんだ」
と言った。
それを聞いて彼女の方は、一瞬何かを考えていたが、何かを思い立ったように顔を上げると、
「分かったわ。あなたの言うとおりにしましょう」
「ありがとう。助かったよ」
と中西は言ったが。この時のm
「助かったよ」
という言葉が何を意味しているのか、二人にしか分からないことであった。
そこには二人が結婚することでラブラブな人生が待っているという感じの会話があったわけではない。どこか形式的に会話が進んでいき、中西は二人の間で何がこれから待っているのか、この結婚が一つの節目だと思っている。
それは、一般的な儀式としての結婚という意味ではなく、もっと切実で、リアルなものである。
「結構は人生で最高の舞台」
という人もいるが、中西にとっては、
「舞台は出来上がっているわけではなく、自分たちで作るもの。そこにまわりを欺くという考えが挟まってしまうことは不本意な気がするけど、これで僕と君とがこれからも共同で事をなしていくことができるようにするための、そういう意味では儀式と言えるかも知れないね」
「ええ、中西さんが私を信頼してくれているのがよく分かるわ。それは信用という意識を超えた信頼であることが私には嬉しいの」
「そう言ってくれると僕も救われた気がするよ。僕は君に対して後ろめたい気持ちになっているのも事実なんだ。まるで君のこれから歩むであろう人生を僕のわがままで潰しているんじゃないかって思ってね」
「そんなことはないわ。あなたにはそれだけの才能があると思うの。私がその手助けをできるのであれば、こんなに嬉しいことはないわ」
と彼女は涙を流していた。
それを見た中西もホロっときて、自分も目頭が熱くなってくるのを感じていた。
「でも、中西さん。私が結婚式なんか挙げていいのかしら?」
と彼女はふと思い立ったようにそう言った。
「それを言われると、僕の方こそ恐縮してしまう。下手をすれば君を晒し者にするようなものだっていうことは分かっているんだ。そういう意味では、本当に君には申し訳ないと思っている」
と深々と頭を下げた中西だったが、
「何を言っているのよ、私はあなたのおかげでウエディングドレスが着れるのよ。本当に楽しいにしているんだから」
彼女はウエディングドレスにこだわっているようだ。
「そうだね、せっかく結婚式を挙げてもいいと君は言ってくれたんだ。できる限り、君には綺麗でいてほしいんだ。たっぷりと結婚式で、その綺麗な君を見せておくれ」
と中西が言う
「ええ、そうするわ。ありがとう、中西さんに出会わなければ、私、こんなに幸せな気分になんかなれなかったはずだから」
と言って、しおらしさを見せる彼女に対し、中西は少し現実に戻すように、真顔になった。
「ところで、君の方の親戚縁者なんだけど、そのことについてご家族の方は分かってくれているのかい?」
「ええ、両親は私がいいと言えばそれでいいと思ってくれているみたい。今まで散々心配させてきたのだから、私の方が気を遣わなければいけないのにね」
と彼女がいうと、
「それについても、申し訳ないと思っている。僕の方の都合があるからなんだが、君の親に対しての気を遣わなければいけない状況を分かっているのに、どうすることもできなくて、それが申し訳ないんだ」
と中西がいうと、
「何言っているのよ。それはお互い様というもの。私だってあなたの親に私のことでは欺かせるような形になったことを私も申し訳ないと思っているわ」
「これはお互いにこれから生きていくために必要なことなので、そういう意味で他の人たちの結婚式とは違っているのは、お互いに分かっていることだよね」
と中西がいうと、
「それはそうなんだけど」
と言って、少し頭を下げて考え込んでしまった彼女だった。
この二人が話をしているのは、結婚式を開催するホテルのレストランであった。この日は結婚式の打ち合わせのために、二人でブライダルサロンの方に赴いていたのだ。
結婚式を最小限の人数で行うには、会場は限られていた。ブライダルサロンのコンサルタントの人から、
「費用の面でのことですか?」
と聞かれ、二人はお互いの顔を見合わせて、それぞれ相手が納得しているのを理解したうえで、
「いいえ」
と中西が答えた。
もしそこで、
「じゃあ、どういう理由で?」
と聞かれたら、どう答えていいのかと思ったが、それ以上のことは聞かれなかったので、事なきを得たのだった。
――さすが、コンサルタントの人だ。よく分かっている――
と中西は感じた。
理由に関してはそれ以上何も聞かれず、最小限の披露宴を行うにはどうすればいいのか、話し合われた。
「食事会という手もありますが」
とコンサルタントから進言があったが、
「いえ、それでは困るんです。披露宴という形を取らなければいけないんです」
と彼女の方が口を開いた。
その日、コンサルタントの前で口を開いたのは、後にも先にもその時だけだった。その理由は中西にも分からなかったが、その時に彼女が口にしたのは、分かる気がした。
――これがこの日の本当に言いたかったことだからな――
と思ったからだ。
だが、披露宴を開かなければいけない本当の理由は中西にあった。それでも彼女が強調して言いたかったのは、披露宴を開くことが自分の一種の決意でのあるかのように感じたからではないだろうか。
披露宴には最低人数というものがあり、あまり少ないと会場がスカスカになってしまうというのもあるし、費用からすれば、いくら人数が見た亡くなったとしても、部屋を借りる値段やサービス料金は、ホテルで定めた最低人数分は頂くということになり、結婚する方とすれば、損をする計算になる。
コンサルタントの人が最初に、
「費用の問題ですか?」
と聞いたのは、この部分に引っかかってくるのだった。
それを二人は考えた末に、
「違う」
と答えたのだから、この問題は解決済みだと思ってもよかった。
コンサルタントの人は、もう人数にはこだわらなかったのは、そういうことだったからである。
コンサルタントの人との話し合いは、スムーズに行った。コンサルタントの人はなるべく相手の考えに沿うようにといろいろ案を考えてきたが、最初に提案した案で、ほぼほぼ承諾してくれたことが、コンサルタントとしても、冥利に尽きるとでもいうべきであったろうか。
話はとんとん拍子に決まり、コンサルタントが考えていた話し合いの時間の半分くらいである程度の形が見えてきたのは、さすがにビックリだった。
それは提案する側も提案される側も同じで、お互いに早く決まったことを、不安な気もしたが、それでも満足していることで、お互いに考えていた時間が余ってしまったわけだ。
「私はこれから仕事に戻りますので、お二人はゆっくりしていってください」
とこんサルタンとの人が伝票を持って、レジに向かった。
「ありがとうございます。ご馳走様です」
と、コーヒー代を持ってくれたことにお礼をした。
もっとも、これも営業として経費から落ちることなので、それほど律義に感謝しなくてもいいのだが、決めることも決まったので、その分安心だった。
二人がレストランでその後行った会話は前述の通りだが、お互いに考えていることの共通性を決まったことを元に一度話し合う機会を持つことは大切なことだった。時間が早く終わったことで、その場でできたのは、よかったというべきであろう。
それにしても、結婚式を質素にやりたいという人は少なくもないかも知れないが、普通であれば、金銭的な問題が一番大きいはずなのに、二人にとって金銭はどうでもいいようだ。
それよりも披露宴という形式的なことを行うために、列席する人の選別は、どうしても不可欠であり、それぞれの客人の数に差があっては、相手に失礼だということで、このあたりが一番気を遣うところである。
だったら、コンサルタントの人のいうように、
「親族だけで圧遭って、食事会というのもいいですよ」
という提案でもよかったのだが、どうやら新婦の方が反対のようだ。
どちらかというと新婦の方の客人の方が少ない割合になりそうだということは聞いていたので、もし反対するのであれば新郎の方だろうと思っていただけに、少し不思議な気がした。それでも何とかしようという思いが新婦にあるからなのか、彼女は頑なな様子に見えたのだ。
「あなたと知り合って、もう何年になるのかしらね?」
「そうだね。僕はまだあの頃は学生で、何も知らない若輩ものだったからね。君にいろいろ教えてもらったことが今の僕を作っているような気がするんだ。それに君にはもっと感謝しなければいけないところもあって……」
と、中西がそこまで言うと、今まで下を向いていた彼女が急に真顔になって、中西を見つめたのだ。
「それは言わない約束」
とでも言いたいのか、言葉に出すことはなかったが、その様子を診て、中西は何も言えなくなった」
「でも、知り合った時のあなたって、本当に可愛らしいと思ったのよ。あら、可愛らしいなんて失礼かしら?」
と、まるで貴族のお嬢様のような言葉を使う彼女を見て、それまでの彼女とは完全に違っていることに気が付いた。
――すでに、僕の奥さんになった気になってくれているんだな――
と感じ、そのことが中西にも至極の喜びであることを感じさせた。
「そんなことはないさ。何しろあの時の僕は、実際に天狗になっていた部分があったからね」
天狗というのは、シナリオを何とか書き終えて、実際に作品も出来上がり、それを学園祭で披露することができたことが、その時の自分に対しての一番の自信となった。評価についてまでは、知るのが怖くて誰にも聞かなかったが、
「完成させることに意義がある」
と思っていただけに、それはそれでよかったのだ。
少なくとも、部員からは何も文句も注文もなかった。それが逆に怖いという気もしたが、それは考えすぎだったようで、自分の作成したものに対して忠実に演技してくれたし、監督も最大限に気を遣ってくれていたようだった。
その後監督を引き受けた部員から、
「お前の脚本、結構よかったぞ。役者も演技に集中できたようで、監督をやっていて、彼らの個性を十分に引き出すことができたのは、この脚本のおかげだって思うんだ。ありがとうと言いたいよ」
と、自分の作品に最高のねぎらいの言葉をくれた。
それは大きな自信ともなったが、まだその頃は天狗になるというところまでは行っていなかったのだが、天狗になったとすれば、先輩から風俗に連れて行ってもらったあの時からだったに違いない。
風俗に行くとどうして天狗になるのかというと、少なからず自分の中に風俗嬢に対しての偏見のようなものがあったのだろう。
ちひろに対して対等であると感じていたにも関わらず、離し方はどこか傲慢に思えて、たまに見せる彼女の寂しそうな表情の原因が、自分にあるということをまったく理解しようとはしなかった。
ちひろは、決して中西を責めることはしなかった。もちろん、客として見ているからに違いないが、中西としてはすでにお気に入りとして頻繁に通う自分は、ただの客ではないと思っていた。
確かに他の客とは違っていただろうが、それを自分で意識してしまうと、どこか押し付けがましい態度に出てしまうこともあったのではないか。例えば相手が隠したいと思っているプライバシーにも入り込んでもいいというような錯覚であった。
最初の頃は、
「それだけはしてはいけない」
と当然のごとく、プライバシーに触れるような会話にもっていかないようにしていた。
それがいつの間にか変わってしまって、どうしてそんなになってしまったのか、自分でもよく分かっていない。
だが、ちひろという女の子は、そんな中西を嫌いになることはなく、中西も自分がちひろに対して傲慢で失礼なことをしているということにウスウス気付くようになったことで、彼女から少し距離を置こうと思っていた。
お互いにぎこちなくなってしまっては、せっかくの関係が冷めてしまうと思ったのだった。
それを、ちひろの方から中西が離れようとするのを、まるで紐で括ったかのように放そうとしない。中西はそんな彼女に、
――どうして?
と感じていた。
「私、中西さんといると、癒される気がするの。最初は自分がこの人を癒してあげたいって、思っていたんだけど、それって仕事の時の気持ちでしょう? でも、一緒にいて何か少しずつ気持ちが違ってきたのを感じると、そこに自分が癒されているということに気付いて、そうなると、この人と離れたくないという思いがどんどん強くなってきたのよ。だから、あなたが私から放れようなんて思う必要はないの。あなたが私をいらないって言わない限り、私はあなたと一緒にいたいと思っているのよ」
と、言ってくれた。
それから二人は付き合うようになった。お店を離れて会うことが多くなり、中西は少し冷静になった。
――風俗嬢の彼女って、どう考えればいいんだろう?
想像もしていなかったことだっただけに、この展開に嬉しい気持ちがある反面、自分の気持ちが本当に正直に前を向いているのか、よく分からなかった。
――確かにお店に行かなくても彼女を抱くことはできるのだが、彼女はその分、他の男に抱かれている。しかもお金が絡んできて……。
などと思っていると、冷めてくる自分を感じた。
だが、その冷めてくるというのは、風俗嬢を相手にしていた自分に気が付いたからであり、ちひろという女性に対して冷めた感覚を持ったわけではない。
したがって、ちひろと別れようなどという気持ちが起こるわけもなく、逆に他の男性をよく見ているちひろから嫌われたくないという気持ちが働いたのだ。
だが、不安がないわけでもない。自分が少なくとも、
「冷めた」
と感じていることをちひろが悟ったとすればどうだろう?
――この人、私に対して冷めた気持ちになっているのかも知れない――
とでも思われて、上から目線でも何でもないのに、
「上から見られている」
などと勘違いされるのではないかというのが怖かったのだ。
だが、ちひろに対してそんな心配はなかった。ちひろは付き合い始めてから、それまでまったく中西のことを何も聞いてこなかったのに、一緒にいるようになってから、結構根掘り葉掘り聞くようになってきた。
他の人だったら。
「少し鬱陶しいよな」
と感じるのだろうが、中西は嬉しかった。
嫌いになられていないという何よりの証拠であり、言えることはすべて言いたいと思っていた。
元々、お店での会話も、あまり隠すところはなく、正直に話していた。ただ、自分の気持ちに関わる部分から内側は、覗かせないようにしていたのは間違いないことだった。
お店では自分が文芸サークルに入っていること。脚本を書いて、そして発表するに至ったこと、そして、それに満足していることくらいは話した。
それを聞いてちひろも、
「それはすごいですね」
と言ってくれたが、それは客に対してのおべんちゃらだったのかも知れないが、それでも客としては嬉しかった。
「私ね。中学の頃から小説を書くのが好きで、よく書いていたんです。他の勉強にはまったく何も興味を持っていなかったんだけど、それなりの成績を取れたのは、小説を書くことで、そのネタを収拾するのにいろいろ勉強したからなのかも知れないって思うんです」
「それはそうかも知れないね」
「もちろん、小説のネタになるような情報って、テストに出るようなものばかりというわけではないわ。むしろ、学校で教えてくれないようなことに興味を持って調べるというのが本音のところなんだけど、勉強することが苦にならなくなったという意味では、情報収集というのはいいことなのかも知れないわ」
ちひろの表情は生き生きとしていた。
――これが彼女の本当の顔なのだろう――
と中西は思った。
「一度、その小説というのを見たいものだね」
「ええ、赤西さんになら見てもらいたいと思うわ」
これが、店外で会うきっかけになった。
本当は、こういう店では店外デートというのは禁止されているのだろうが、同じ首位を持った同士が趣味について語り合う、それだけのことではないか。さすがにお店の近くというわけにも行かず、ちひろが在籍している大学の近くにした。その方がいいと言い出したのはちひろの方だった。
「大学のお友達には、私のお兄ちゃんか何かに思われるでしょうし、もし万が一お店関係の人が見ていたとしても、大学の知り合いと思われるから、その方が絶対にいいと思うのよ」
さすがに頭のいい娘だ。
「なるほど、コウモリの発想だね」
というと、
「そうでしょう。私も名案だと思うのよ。獣に遭えば鳥だといい、鳥に遭えば獣だっていうあのコウモリよね」
「うん、でもそれは逃げ回っているわけではなく、まわりの目を欺くことで自分が成長することにもなるわけだから、一般的に言われているコウモリとは違うんじゃないかって思うよ」
「そう思ってくれると嬉しいわ」
そう言って、二人はちひろの大学の近くで待ち合わせをした。
その時になって、やっとちひろは本名を教えてくれた。
「私は沢村聖子っていうの。聖母マリア様の聖と、子供の子って書くのよ」
そう言って笑う聖子は、まさに女子大生の顔だった。
さっそく持ってきてもらった小説を拝見させてもらったが、中西は小説を読み進むにつれて、自分がどんどん彼女の世界に引き込まれていくのを感じた。彼女の小説は明らかにホラー、恐怖小説である。ドロドロした部分は、中西には描くことのできない部分であり、自分では毛嫌いしているところだと思っていたが、実際に読んでみると引き込まれてしまっている自分に戸惑いを感じている。
だが、根幹としては、中西の書こうとしている小説と似ていた。
「無理だと思うけど、僕と共作なんてことをすれば、面白いカモ知れないね」
と言った。
その時の聖子は、一瞬怪訝な表情を浮かべたが、その気持ちも分からなくはない。小説というのは、もちろん、フィクションに限定されるが、自分の発想がすべてだと思っている。その分自由は自由であり、逆にそこが難しいともいえる。何が正解なのか、分からないからだ。
――正解というのは、誰が何に対して決めることなんだろう?
中西は、たまにそのことを考えることがあった。
「何に対して」
というのは、ハッキリしているように思う。
つまり、それがハッキリと決まらないと答えが求まらないからで、もっとも最初から問題提起もされないのではないかと思えることだ。
だが、中西がそこまで考えるのは、自分の中で正解というものへの信憑性が疑念でしかないという思いに立っているからではないだろうか。
誰が決めるという発想も、そう考えると、ハッキリしてくるわけではない。そもそも決めることなどできるものではないとも思える。それでも導き出されなければいけない正解もある。それはプロセスでいうところの結果を求めなければいけないということからの発想ではないだろうか。
結果がもたらすもの。それは未来への警鐘である。結果を検証しなければ、今後また同じようなことが起こった時、
「また同じことを繰り返すのか?」
ということになるからだ。
結果がすべて正解か不正解なのかと割り切る必要はないだろうが、検証は必要である。もちろん、結果は人それぞれ、パターンによっても変わってくる。すべて検証通りにいくとは限らない。むしろいかない方が多いだろう。だが、何もないよりも絶対にいい。それは誰もが無意識に感じていることであろう。だから結果を求めることで、それが正解を求めることと同化してしまって、正解を欲しがるという風潮を皆が持っているのではないかと思うのだ、
中西は、今まで、
「自分の作品は自分だけのものだ」
と思っていた。
もし、世間に発表することができて、プロと呼ばれるような人になったとしても、そこに対して、読者は言いたいことをいうだろう。相手は素人だという意識もある。もちろん、他のプロの評論家にも作品を酷評されることもあるだろうが、よほどひどいものでなければ、酷評が話題になることもない。
――そんなものは半分聞き流しておけばいいんだ――
と、思っている。
だが、それは素人だから感じることであって、プロになってしまうと、酷評が致命傷にならないかという不安が募ってくるだろう。
素人であれば、自分の中にある小説というものの占める割合は、プロのそれに比べてかなり小さいものであり、そこにのしかかってくる責任やプレッシャーはその比ではないだろう。
中西は自分の小説を嫌いではない。ただ、何かモヤモヤしたものが残っていた。
「これを他人が書いた小説だと思って読めば、果たして面白いと思うだろうか?」
と考えた。
確かに自信を持って胸の張れる作品ではない。プロになろうなどと口にできるはずもない作品だということも分かっていた。
中西はプロになりたいわけではなかった。ただ書いていければいいだけだったのだが、この時、聖子の作品を見て、自分の作品との違いを思い知らされたと同時に、どこか自分と発想が似ているおとに気付いていた。
そこで思い切って、
「今度、僕の作品も読んでもらえないかな?」
と切り出すと、聖子はニッコリと笑って、
「ええ、そういってくださるのを待っていました。ぜひとも読んでみたいですね」
と言ってくれた。
その時中西はふと感じたことがあった。
――あれ? ひょっとして彼女が僕に快く作品を見せてくれた理由の中には、僕の作品を読ませてもらえるという思いも含まれていたのではないか?
という思いであった。
なるほど、そういうことであれば、恥ずかしがることもなく、二つ返事で小説を読ませてくれると言った彼女の言葉を理解することができる。
日を開けず、同じ週の週末、待ち合わせて小説を見てもらった。
最初は、難しい表情を浮かべながら読んでいるように見えたが、それはきっと、中西の作品が彼女の中の想像を許さない部分があったからなのかも知れない。
自分で小説を書く人は、人の小説を読む時、自分ならどう書くという思いをどこかに抱いているに違いない。それだけに、想像できないことがあると、表情を曇らせるのではないだろうか。
しかも、小説を書いている人は、書いていない人に比べて、想像の範囲が狭まるのではないかと思っている。なるほど自分で小説を書く時は、まず制限なく発想の幅を広げるであろうが、実際にそれを文章に起こす作業に入ってくると、ぐっと想像の視野を狭めてくる。その癖を持っていることで、他人の小説を読む時は、最初から狭まった想像力を持ち合わせてしまう。
だから逆に自分の想像とピッタリ合った小説であれば、引き込まれてしまうほどの内容にグッとくるものを感じるのではないだろうか。
そう思うと、小説評論家の先生たちの評論も分からなくもない。べた褒めするか、逆にコケおろすような酷評をするかの両極端である。それも想像という視野を狭めて見るという発想に立ってみれば分かることであった。
聖子の表情はまさにそれであり、彼女の中の想像の範囲外だったということだろうか。もしそうであったとしても、彼女に小説を書く素質があるということなので、プロの目だいうことになるのではないかと思えた、
そう思って彼女の様子を診ていると、今度は怪訝な表情から急に真剣な表情に変わった。それが引き込まれているからなのか、それとも、理解できないことを必死に理解しようとしていることなのか、微妙に分からなかった。後で聞いたところによると、
「そのどちらでもある」
ということであった。
「なかなか面白い作品だって思うわ。途中までは言葉の意味がよく分からずに、理解するのに困難を要したんだけど、途中から何か自分が引き込まれるのを感じたの。でもその中で、『私だったらこう書くのにな』と思うようなことがあったりして、勝手にストーリーを自分の中で着色して見ていたの。それって、結構無理のあることで、自分の気持ちを小説の中の登場人物に当て嵌めなければいけないのよ。私は本を読む時、そういう読み方をよくするんだけど、これってかなり疲れるものなのよね」
と言っていた。
中西の想像していた内容と、ほぼ同じことであったが、中西には、人の小説を読むのに、どうしてそこまでしなければならないのかということに対して、どうしても納得できなかった。
彼女は続けた。
「小説を書くことと読むこと。私は最初、読むことの方が簡単だって思っていたんだけど、最近になって、書く方が楽に感じられるようになったんだけど、これって、書くことに関しては自由だという発想からなのかしらね?」
と聞いてきたので、
「そうでもないと思うよ。確かに書き方は自由だと思うけど、それはあくまでも誰にも読んでもらわず自分だけの世界にとどめておく場合でしょう? 人に読まれるとそこで勝手な発想が生まれる。勝手に書いているとすれば、見る人が見れば分かるんじゃないかな? そうなった時、酷評される可能性は高いと思うんだ」
というと、
「確かに人に読まれるという場合を考えればそうなんだけど、自分だけにとどめておく場合だって、自分の作品に対して、自分なりに評価するでしょう? その時、自分は勝手に書いたということを分かっているんだから、作者から読者になった時点で、作者としての自分を許せなくなる部分もあると思うの。だから、誰か他人が読む読まないは関係ないんじゃないかしら?」
確かに彼女のいう通りだ。
「やっぱり、書く時に感じる『自由』という発想が、書くということに対して大いに発想を制限するだけの何かの力を持っているのかも知れないっていう気がするんだ」
中西はそういうと、少し考えてみた。
「中西さんの作品は、私嫌いじゃないんだけど、読んでいるうちに、本当に『私なら、こう書くんだけどな』という思いが強い気がするのよ。だからと言って、私が加筆できるほど優れているわけではないんだけどね」
と言って笑ったが、それを見た時、中西は自分の中で何か目からうろこが落ちた気がした。
――そうか、加筆という発想もあるんだ――
と感じた。
ただ、自分には絶対にできないことだ。中西は自分が発想した内容を好き勝手に書き上げることしかできないと思っているからだ。人の作品をプロを含めて、普段からあまり読むことはなかったが、それは、
「自分の筆が乱れるからだ」
と、まるでプロ作家のようなことを考えていた。
プロ作家の中には、売れっ子などになると、一時期に何社かの依頼を同時にこなさなければならない人もいて、
――よく頭がこんがらがらないな――
と思っていた。
確かに小説を書くということは、
「集中して書く」
というのが、一番のやり方だろう、
集中していると、たとえ同時に他の作品を抱えていても、こんがらがるようなことはないと思っていたが、実際にはそれが間違いだと分かった。二時間集中して書いている間はいいが、その後ふっと気を抜くと、放心状態になってしまい、たった今まで書いていた内容も完全にリセットされた気分にさせられる。
それだけ集中していたということで、集中することは悪いことではないが、その後の脱力感はハンパではなかった。
集中力という意味でも、他人の作品に加筆をするということがどれほど難しいことであるか、考えさせられる。
「いや、それは皆綺麗ごとだ」
と中西は感じた。
なぜなら、小説を書くということをやり始めた元々の発想は、
「何もないところから新たに何かを作る楽しみ」
だったはずだ。
だから、
「ノンフィクションは絶対に書かない」
と決めているのだし、創作意欲という言葉に造詣が深めるのだった。
人の作品を加筆するというのは、最初の、
「何もないところ」
という大前提が崩れていることになる。
中西はそう思っているが、聖子はどうだろうか?
ただ、もし自分の作品に手が加わったとして、作品を発表する場合、連名になるというのだろうか。いわゆる、
「ゴーストライター」
と呼ばれるものとは少し違っているかも知れないが、どんなに作品を作ったとしても、その人は影の存在であり、決して名前が表に出ることはない。
もし、その人の作品を単独で、デビューさせて発表させたとすれば、聡い評論家の中には、
「この作品は、誰々の作品に酷似している」
と言われかねない。
ただ、それは作品に対しての酷似ではなく、表現や細かいところでの言葉遣いなどであるので、盗作という発想は生まれてこないが、そのせいで、せっかくデビューできたとしても、結局は告示させたというイメージを植え付けたと思い込み、脱却する必要のない自分の文章作法から脱却できないことで、勝手に悩んでしまって、つぶれていくのがオチではないだろうか。
――これほど寂しいものはない――
土の表面に出た瞬間に、釜か何かでちょん切られたようなものである。
まるで新喜劇のようだと言えるのではないだろうか。
中西はこの思いを聖子に向けてみた。
「もちろん、僕の勝手な発想なので、君が僕の作品に加筆してくれるのであれば、それを今度賞に応募してみたい気もするんだ」
というと、少し悩んでいたようだが、
「条件があるわ」
「条件?」
「ええ、とりあえずは、この一作だけということで進めてください。基本的にはそれ以上しないと言っておいて、その後のことはその後で決めるということにしてくれれば、やってもいいわ」
「要するに段階を決めて、そしてそれを厳格に守っていくということだね」
「そういうことになるわ」
と彼女は言った。
その時の真剣な表情は、今まで何度も真剣な表情を彼女に感じてきたくせに、初めて感じるものだった。
――ひょっとして、これが彼女の本当の真剣な表情なのかも知れない――
と感じたほどだ。
実際に作品を製作し、応募する出版社は、今中西が所属しているM出版社の、
「M出版文学新人賞」
だった。
ジャンル不問で、作品のボリュームと締め切りから考えて一番適切だったことで選んだ賞で、受賞の傾向や、審査員の先生にどんなジャンルの人が多いかなど、あまり気にしているわけではなかった。
その理由は、
「受賞することが、本来の目的ではない」
という思いがあったからだ。
受賞に会しては二の次で、加筆された作品を、どのように見てくれるかというのが目的だった。
だが、出版社系の新人賞では、最終選考に残らなければ作品の批評はしてくれない。雑誌に載っている有名小説家が実際に審査をするのは、最終選考からだということを、その時の中西も聖子も知っているわけではなかったからだ。
それでも、最終選考に残った。まさか残るとは思っていなかっただけに、中西は有頂天だった。作品の出来上がりに関しては。中西が想像していた以上の加筆に、大いに満足はしていたが、さすがに初めての投稿で、最終選考に残るなど、願望という妄想以外ではありえないと思っていたからだ、
最終選考に残ったことは嬉しいと素直に言っていた聖子だったが、彼女の中でもどこか納得できないところがあったようだ。それがどんなところなのかハッキリしていないようで、それが彼女の戸惑いの表情に表れている気がした。
結局、賞を受賞するところまでは行かなかったが、それから二人はペンネームを変えた。元々のペンネームは、本田利彦と名乗っていた。それは新人賞に応募する時だけの限定ペンネームで、M出版社からは、
「うちの出版社で連載してみないか?」
と連絡を貰ったが、聖子の考えで、その話は丁重にお断りさせていただいた。
しかし、それから中西はM出版に入り、その頃になると、聖子も落ち着いてきて、小説の加筆に対してこだわりがなくなってきたようだ。
中西は編集部に、
「以前、最終選考に残った本田利彦氏ですが、彼がもう一度執筆をしてもいいと言ってくれているようなんです」
と話を持ち掛けた。
どうして中西が本田利彦と周知の仲なのか、編集長はこだわらなかったので、話は中西を仲介としてとんとん拍子に進んだ。そして、M出版からのデビューとなったのだ。
それが山下隆正だった。
そう、山下隆正は、中西であり、中西ではない。つまりは、聖子との共同制作によるもので、それだけに一人ではできあい発想が盛り込まれていることから、出版社にも読者にも受けがよかった。
だが、その後、中西と聖子は結婚したのだが、それを機会に、二人の立場が微妙に変わってきた。役回りをそれぞれで分担するのではなく、作品によって入れ替えようというものである。作品によっては、中西が原案を書き、聖子が加筆する。または、別の作品では聖子が原案を書いて、中西が加筆するというものだ。
「山下先生作風が変わったのか?」
という意見もあったが、たいていの人は、
「山下先生のもう一つの才能が覚醒したのでは?」
といういい意味での評価が多かった。
そこには、聖子の風俗における男性に対しての人間観察、それが加筆することで覚醒した才能。さらには原案を描くために培われた中西の才能。それぞれが相乗効果をもたらし、新たな分野ともいえるジャンルを覚醒させたという評価がもっぱらである。
「人間なんて、どこでどうなるか、真剣に生きていれば、他の人に見えないことが見えてくるのかも知れない」
という聖子に対し、
「いや、いいパートナーに恵まれるのも一つの才能であり、ただそれでも自分だけが新しいものを作り出すという矛盾した考えをいつまでも持ち続けるのが大切だということなのかも知れない」
と中西が、いわゆる加筆修正を行った。
「才能っていったい何なのだろうか?」
二人はそれぞれ声に出さずに、そう呟いていた……。
( 完 )
ふたりでひとり 森本 晃次 @kakku
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