第2話 抱える矛盾
大学に入ると、制服を絶えず見ることはなくなり、通学電車の中で見たり、道を歩いているのを見るくらいになった。高校時代までのように一人でいる女の子を見ることは珍しくなり、電車の中でも街中でも、ほとんどの女の子はタムロしているところしか見ることがなかったような気がする。
もちろん、一人で歩いている子もいたが、高校時代までのように、一人でいる女の子を気にすることはなくなった。
――気にしてはいけない――
と思うからであったが、それが直子を見ているように感じてしまう自分の感覚への反動のようであることを、竜馬には分からなかった。
高校時代までとは明らかに違う竜馬だったが、大学に入ったらまず、たくさん友達を作ろうと思っていたが、それは叶わなかった。
「友達を作ろう」
と思っていただけだったのが原因なのかも知れない。
「友達がほしい」
と思った方が友達はできたのではないかと思うのだが、それは、自分から気持ちを発信させた方が、まわりもその気持ちを察してくれて、相手から話しかけてくれたりするものではないかと思うからだった。
しかし、友達を作ろうという自分だけの意志であれば、まわりはそのことに対して気付いてくれるかどうか難しいところである。
竜馬も、友達になれそうな人がいるにはいたが、自分から声を掛けることができないでいた。
それはきっと、高校時代に直子に声を掛けられなかったことがトラウマとなってしまって、大学に入ってからであっても、誰に対しても声を掛ける勇気が出なかったからなのかも知れない。
そしてもう一つ、これがある意味致命的なことだと思っているのだが、
「人の顔を覚えられない」
ということが大きく影響していると思っている。
人の顔を覚えられないので、覚えるまでには、何度となく顔を合わせなければいけない。最低でも四、五回はその人と会って、会話をしなければ覚えられないに違いない。自分でそう思い込んでしまっている以上、なかなかそれを打破することは難しかった。
大学に入ってから、すぐの頃は相手から話しかけてくれる人もいて、友達になれるかも知れないと思った人がいたが、せっかく声を掛けてもらったのに、次回からは相手から話しかけてもらわなければ、こちらから話しかけることができないことで、一度くらいは二度目はあっても、それ以上はなかった。そのうちにこちらから話しかけることのできない竜馬と友達になろうという人は現れず、ずっと一人でいる生活ができてしまった。
大学の授業を受けても、まわりは楽しそうに話をしている連中が多く、一人で講義を受けていても、どうも味気ない。高校時代までであれば、これが普通だったのに、今では違ってしまったことを実感しながら、
――何のために大学に入ったんだ――
という思いに駆られている自分が惨めな気がした。
まるで高校時代の延長のようで、授業を受けていること自体が惨めに思えてくる。
高校時代に同じように暗かった人が同じ大学に入ったのだが、彼はまるで別人のように生き生きしていた。
――本当はあれが自分の目標とした大学生活だったのに――
と地団駄を踏んだが、仕方のないことであった。
大学に入って数か月、まわりを恨めしく思っている自分が、無為に時間を過ごしているという意識はなかった。ただ、羨ましいという気持ちが強く、時間の経過を無為だとは思えず、いや、そう思うことを自らで否定していたような気がする。
その証拠に、
「もし、無為に過ごしているという意識があったのであれば、もう少しこの状況を、どう打開すればいいかというのを考えようとするのではないか」
と思ったからだ。
つまりは、その場から一歩でも動くということが怖いという意識を持っていたのかも知れない。
少しでも動こうと思うのであれば、少しは無為であることに気付きそうなものだが、それはなかった。
そう思うことを怖いと思っていたとすれば、それが竜馬にとって前に進むことを自分から拒否していた証拠なのかも知れない。
竜馬は意気地がないという自分を分かっていたはずなのに、それを認めるのが怖かった。その思いが、高校時代に直子に話しかけることができなかった自分とまったく変わっていないことを示していた。
「大学に入れば、少しは変わるだろう」
などという他力本願のような考え方が、どこまで自分を閉塞していることになるのか分かっていなかったわけではなく、分かっているからこそ、罪は深かったのかも知れない。
――あの時、直子に話しかけていれば――
という思いは強かった。
ひょっとすると、嫌われるかも知れない。いや、元々好きも嫌いもなかったはずなのに、それを嫌われると思うのは、小学生の頃の気持ちを直子がまだ持ち続けているかも知れないという願望だったのだろうか。
もしそれが願望ではなく、思い込みであったとすれば、これも罪の深いことである。
この罪深さが竜馬にトラウマを与え、大学に入っても、悶々とした毎日を送らなければいけない原因になってしまっているのではないかと思うと、自業自得だとはいえ、
「時間を戻せるものなら」
とも思ったりした。
しかし、時間を戻すとしたらどこに戻すというのか。
高校時代のアルバイトで出会ったあの時に戻すのか、それともすべての元凶となってしまった小学校三年生の直子を見限ってしまったあの時に戻すというのか、それによって、まったく違った自分が、そこで作られるのではないかと思った。
それは、今の自分との違いというだけではない。
小学生の頃の自分と、高校生になってからお自分、その二つでも結構大きく違っているのだと思った。
思い返してみれば、大学生になってから考える小学生の頃の自分と、高校生の頃の自分とでは、そんなに違ってしまったように思えない。
どちらも同じ自分であるという意識があるからなのか、それとも遠くから見ると、結構近くに感じるからなのだろうか。
同じ距離であっても、角度によってだったり、同じ角度からでも距離によって、その二つを見ると、その距離に大きな違いが生まれることは何となく分かっている。普段から意識しているわけではなくとも意識の中にあることで、ふとしたことを考えた時、その思いがすぐによみがえってくることに繋がっている。
それは潜在意識という言葉で表させるのではないかと竜馬は思うのだった。
中学生を飛び越して、小学生からいきなり高校生になったような気がしたのは。直子の顔を見て最初は思い出せなかったのが、急に、
「まるで昨日のことのようだ」
と、直子の顔が瞼の裏に残っているのを感じたからだった。
最初気付かなかったものをどうして急に瞼の裏という確信的な感情として思ったのか、そこに中学時代を飛び越えた理屈が隠れているように思えた。
中学時代を思い出すと、実は何も出てこない。思春期で、いろいろなことを自ら望む望まないを別にして習得したはずだった。悪友からもたらされた女性への神秘。そして、それを見て反応した自分の身体の神秘。そんなものをすべて通り超えてきたはずなのに、それが意識として残っていないのは、
「意識というものに、いくつもの『箱』があるからではないか?」
と思うようになった。
どこかで関連しているかも知れないが、意識は格納される場所が違っているのかも知れない。
それを誰も意識することなく成長してきて、
「あれは思春期だったんだ」
という一言で片づけてしまおうというのではないだろうか。
思春期に衝撃を受けたのは竜馬だけではない。いや、竜馬のごときは衝撃というにはあまりにも幼稚で、他の人は自分の身をもって、いろいろな経験をし、成長をじかに感じていたのではないだろうか。
直子にしてもそうだ。竜馬が勝手に、
「まったく変わっていない」
という思い込みを持っただけで、ひょっとして最初に思い出せなかったのは、その思いが強く残っていたから、思い出せなかったのかも知れない。自分のイメージと実はまったく変わっていたことでのっぺらぼうに見えてしまったりしたのだが、それを見えるようになったのは、竜馬の方が一方的に歩み寄ったからではないだろうか。
つまりは直子の顔をまったく変わっていないと解釈したのは、自分の中で小学生時代の直子を、今の直子の表情に記憶を改ざんしたからなのかも知れない。勝手な思い込みをしてしまったのを認めたくなくて、余計に直子のことを変わっていないと自分に言い聞かせたことが、余計に自分を苦しめる結果になったのだろう。
そのため、話しかけることも躊躇し、最初に話しかける勇気を持てなかったことで、二度と話しかけられるきっかけを失ったのではないだろうか。
そう思うと、直子の制服姿に違和感がなかったのも頷ける。最初から自分の記憶を介在しているのであれば、理屈も適ってくる。大前提として自分の記憶を間違っていないと考えたことがさらに自分を苦しめ、やはり話しかけることへの躊躇に繋がったとも考えられる。
竜馬の制服に対しての意識は、確かにその頃からあったはずだ。しかしこと直子のことが頭にあるので、
「意識がなかったのではないか?」
という思いが自分の中で右往左往してしまっていた。
中学の頃に何もなかったと思ったが、制服に興味を持った自分のことすら忘れてしまっていたことが、中学時代の自分を打ち消してしまっていたのかも知れない。制服に興味を持ったということが思春期を通り越した自分の証であり、その証こそが、
「本当は認めたくはない性癖なのだ」
と思うものであった。
中学時代と高校時代。どちらがよかったのかというと本人は微妙な気がしていたが、大学に入ってから思い出すのは高校時代だった。ほとんどを受験に明け暮れていたはずだったのに、なぜか思い出すのは悪い思い出ではない。気持ちの中で心地よい何かがあったのを覚えてはいるのだが。それが何だったのか、思い出せない。きっと自分で理解できていないためであろう。
大学時代というのは前にも書いたが、彼女がいた時期もあったが、長続きはしなかった。
最初に彼女がいたのは大学一年生のことだったが、あれは今から思えばあざとかったというべきではないだろうか。
あれは、その日の講義が終わって、街まで本を買いに行った時のことだった。
もう夕方近くになっていたので、街で夕飯を食べて帰りの電車に乗った時は、まだ通勤ラッシュの時間帯で、立っている人も多かった。
竜馬も吊革につかまるようにして乗っていたが、隣に女の子が立っているのを少し気にしていた。
彼女はずっと下を向いていて、雰囲気はよく分からなかったが、下を向いているのをいいことに、チラチラ彼女の方を見ていたのだ。あまりあからさまに見ると、まわりから白い目で見られるのが分かっていたからだが、チラチラ見る方が却って目立ってしまって、余計に白い目で見られるということを分かっていなかった。何かまわりの視線があることに気付きながら、途中でやめるのも気が引けたので、そのまま彼女を気にしていた。
電車が動き出してしばらくすると、彼女が次第に頭が下がってきているように思えた。それは本当は頭が下がってきているわけではなく、身体全体が下がってきているのであって、膝が次第に曲がってきているようだった。ゆっくり持っていた手すりがすでに腕を目いっぱいに伸ばして持つくらいまで下がってきたのを見た時、さすがにこれではまずいと竜馬は思った。
「大丈夫ですか?」
思わず竜馬は声を掛けた。
そして、声を掛けた瞬間、自分でも驚いた。高校時代に声を掛けられなかったはずの自分が、声を掛けたことに対してだった。大学生になったことで自分が変わることができたのか、それとも相手が知らない人だったことで、話しかけやすかったのか、すぐには分からなかったが、少しして考えると、
「やっぱり、知らない相手だったからなんだろうな」
と思った。
そう思う方が実は気が楽で、そうでなければ、直子に対しての思いが、今も続いているのではないかと思い、目の前にいる女性に対して失礼千万だと思ったからだ。
彼女と直子の間に何のゆかりもないのだから、失礼千万もないものだが、その時竜馬が感じた失礼千万という思いが、却って竜馬をその時、大胆にしたのかも知れない。
「ええ、ありがとうございます。ちょっとした立ち眩みなのかも知れません」
と言って、彼女は竜馬に寄り掛かってきた。
一瞬ドキッとしたが、それはただ体調が悪いからだっただけのことで、見知らぬ相手に寄り掛かるなどあるわけはないという理屈くらい理解できるほど、その時の竜馬は冷静だった。
なるべく身体に触れないように、彼女を抱えるようにしていたが、他の乗客は何も言わなかった。二人に気を遣ってくれていたと思うのは竜馬の勝手な思い込みで、きっと変に関わりたくないという誰もが思う群集心理の一つだったのだろう。
竜馬にはそれがありがたかった。下手に別の人から声でも掛けられていたら、きっと遠慮してしまっていたことだろう。何も言われないことで彼女の関心を一手に引き受けられるという思いは下心見え見えだったのに、その時の竜馬にはそんなことはなかった。あくまでも、
「正義のナイト」
という思いが強かったのである。
彼女は三つ目の駅で降りようとしていた。実は竜馬が降りる駅は、さらにそこから二つあるのだが、このまま一人で帰してはいけないと思い、一緒に電車を降りた。駅のベンチに座って、
「少しゆっくりしていけばいい」
と言って、彼女を介抱がてら、水を買ってきて与えたりした。
これくらいのことは普通の親切心からでも問題のないことだったが、さてこれから彼女を送っていこうかどうか迷った。
――家を知られたくないだろうから、送っていくのも難しいよな――
と思った。
かといって、このまま連絡債も知らないと、この場で別れれば、もう知り合う機会はないだろうと思った。もし数日後に出会って声を掛けたとしても、そこからその時の話題をネタにしてしまうと、それこそ新設の押し売りになってしまうだろう。
そんなことは分かっていたはずなのに、思い切って、
「これが僕の連絡先です」
と言って。メールのアドレスを教えた。
交換と言わなかっただけでも、よかったのだろう。
これが言えたのも、やはり高校時代直子に話しかけることのできなかった自分への戒めがあったからなのかも知れない。
ただ、彼女から連絡がもらえたのは、自分が思っていたよりも早く、三日後だった。
最初は、
――なかなか連絡がないな――
と思っていたが、三日目で連絡をくれたということはきっと迷った末でのことなので、一応は考えてくれたんだと思うと、却って安心だった。
そう思うと三日というのは、想像していたよりも早いということでもあり、三日間があっという間だったという理屈を証明してくれているかのようだった。
彼女も今まで彼氏がいたことがなく、声を掛けてくれた竜馬に興味を持ったというのだ。一緒にどこかに遊びにいく約束を積極的にしていたのも彼女の方であり、竜馬はその勢いに、少しビックリしたくらいだった。
彼女が押してくれていることで、こっちが今度は押したいと思うようになった。お互いに気持ちをぶつけ合っていると思っていたが、後から考えれば気持ちをぶつけていたのは竜馬の方だったようだ。
相手が少しくらい押してくれたからと言って、いい気になってしまったようだ。実際には彼女の方は様子見だったようだ。彼女には恋愛経験の豊富な友達がいて、彼女がいろいろ指示をだしていたという。ずっとそんなことを知らないまま竜馬は、自分だけでいい気になっていたようだ。
遊びに行く計画を彼女は立てていたが、そのほとんどはまるで中学生のデートのような感じで、遊園地だったり、映画だったりと、大学生にしては少し健全すぎるところばかりであった。
竜馬とすれば、それでもよかった。自分が中学高校時代にしてみたかったことを今になってできるというのも新鮮な気がしたからだった。
だが、逆な思いもひそかに持っていた。
――中学時代にできていればなあ――
という思いである。
この思いは決して相手に悟られてはいけないものだった。
この思いを抱くことは相手に対して失礼なことであり、いくら相手が架空であるとはいえ、中学時代のデートを思い浮かべてしまっていては、相手に、
「この人、何上の空なのかしら?」
と思わせ、さらにその顔が恍惚の状態になっていれば、どれほど相手を気持ち悪くさせてしまうか、竜馬にそんなことが分かるはずもない。
きっと何度目かのデートで相手はしらけてしまっていたことだろう。逐一友達に相談していたというその友達からも、
「何、その人。自分のことしか考えていないって感じね」
と彼女が思っていることと同じことを言われていたに違いない。
実は、彼女としては、友達が自分の感じていることとまったく同じことさえ言わなければ、こんなに簡単に別れてしまうという思いにまでは至らなかっただろう。
「もう少し様子を見てみようかしら?」
と思ったかも知れない。
だが、友達がまったく想像していたそのままのことを言ったので、彼女も決心がついた。
「さて、どのように別れよう」
ということを考えた時、彼女たちは、そこで間違ってしまった。
「無視しましょう。彼から連絡があっても、返さない」
という友達の意見で結論がついたが、竜馬という男は、自分で納得できないことであれば、少々のことは突っ走るというややこしい男性であることを知らなかった。
要するに、舐めていたのである。
昔と違い、ストーカー規制法があるので、変な行動は警察に言われてしまうが、少々そばから見ている分には警察も手が出せない。竜馬は彼女の大学で待ち伏せをしていたが、決して自分から彼女に話しかけることはしなかった。竜馬がストーカー規制法を知っていて、その対策を施したというわけではなく、自分から話しかけるだけの勇気がなかったのだ。
それは直子の時と同じで、待ち伏せしながらもそれを感じていたので、迂闊に話しかけられなかっただけだった。
「警察は、何か起こらないと動いてくれない」
というのが分かっているので、警察はこれくらいでは動いてくれない。
二人は困惑してしまったが、もうこの場を何とかやり過ごすしかない。竜馬が諦めるまで待つしかないと考えるより他になかった。
竜馬は、ある日を境に彼女への接近を完全に断ってしまった。何が原因だったのか、竜馬本人にもよく分からなかったが、彼女の待ち伏せは完全にやめてしまった。
その感情がどこからきたものなのか分からない。ストーカーをしていたという意識はなかったのだが、彼女の表情を見て、最初の頃のような自分を慕ってくれている表情がなくなったからだ。
――そういえば、この感覚、いつか味わった気がする――
その記憶が結構遠いと思ったのだが、遠いと思うと、まるで昨日のことのように思えるほどだった。
この感覚が直子に対してのものだったことにすぐに気付いたのだが、そんなに昔だったという意識はすでになくなっていた。
彼女を見ることで、小学生の頃の自分が直子に対して抱いた感覚が分かってきたような気がする。
小学生時代の直子に対して覚えているのは、彼女が自分に対して従順で、いつも救いを求めるような表情をしていたということだった。慕ってくれているという表現がピッタリであろう。
いつも無表情だったことで、彼女の雰囲気が変わったわけではないはずなのに、あまりにも無表情が続くと、相手に対して猜疑的になってしまうのではないかと思うのだった。ただ、その思いが長くは続かない。長く続いた方が、却ってハッキリと分かったのではないかと思うほどで、無表情がこれほど怖いものだということに、その時は分からなかった。それを教えてくれたのが、大学に入って仲良くなったその子で、ひょっとすると自分と離れるようになってしまったのは、自分が彼女の後ろに直子を見ていたのかも知れない。
そう思うと、自分も彼女に対して冷めてくるのを感じた。
――やっぱり、僕は直子じゃないとダメだということなのか?
そう思うと、直子からの呪縛を逃れることはできないのではないかと思った。
「竜馬にとっての直子がどういう存在だったのか、それを思い起こすことができただけでも、彼女と知り合ったのは無駄ではなかった」
というのは、言い訳ではないが、その思いをずっと抱いていくことになった。
大学時代では、一年生のその時と、就活の時に知り合った女の子とも付き合ったことがあったが、結局mすぐに別れてしまった。きっと竜馬のあざとさに閉口したのかも知れない。
その彼女からは、何も学ぶことはなかったので、ほぼ記憶から消えてしまって今では思い出すこともなくなっていた。
気が付けば、三十代後半になって、まだ結婚はおろか、彼女もいない状態になっていた。コスプレ喫茶に嵌ってしまうなど、学生時代の竜馬から、果たして想像などできたであろうか。
二十代には、仕事が楽しく、仕事ばかりをしていた。
「仕事をするのが三度の飯よりも好きだ」
と言ってもいいくらいで、毎日の仕事に集中していると、あっという間に夕方になっている。
仕事場は都会の真ん中にあるというわけではなく、近くには大きな公園もあるような中途半端な都会と言ってもいいだろうか。彼の会社は少々大きな雑居ビルの中にあり、西日が入ってくるのが少し気になるところだったが、西日を感じると、
「もうすぐ夕方なんだな」
と思うことで、身体から急に脱力感を感じることがあるくらいだった。
そんな時、竜馬は結構表に出ることが多く、残業に備えての休憩となるのだが、近くの公園に繰り出すことが多かった。
表に出た時は、まだ少し風が吹いている。しかし、公園についた頃にはいつも風がなくなっていて、いわゆる
「夕凪の時間」
になっているのだった。
夕方表に出るのは恒例で、一年以上続いていたのだが、冬の時期であっても夏の時期であっても、風が吹く時間、夕凪の時間とそれぞれ、同じであったのは不思議で仕方がなかった。
公園につくと風がとたんにやんでしまうので、急に汗が噴き出してくるのだが、ゆっくり座って、汗を拭いていると、身体から灰汁が出てくるかのように、それまで身体に重たさを感じていたとしても、すぐに身体が軽くなる。思わず、
「宙に浮いてしまうのではないか」
と思うほどで、公園を散歩している人を眺める気分的な余裕があるほどだった。
夕凪の時間というと、何か臭いを感じる。決していい臭いではないのだが、最初は何の臭いなのか分からなかった。
「アルコールのような臭いかな?」
と思ったが、どうも違っていた。
よくよく考えると懐かしさがあり、脱力感もあった。あれは、小学生の頃に見た光景だったように思うのだが、確か小学校から帰宅途中に、中くらいの河川があり、その向こうに少々大きな町工場があった。煙突があり、たまに黒煙を噴き出しているのを見た記憶があるが、そんな時に感じた臭いを思い出した。
「タールの臭いなのかな?」
と思わせた。
小学生の頃の帰宅時間だったので、夕方に近かったはず。河川敷から工場を見ると、工場の向こうに太陽を見ることができる。当然西日なので、煙突の向こう側に沈んでいくのが見えていた。
小学生だったのに、それがよくタールの臭いだと分かったというのは、クラスメイトがあの臭いをタールだと言っていたのを聞いたからだ。それが本当のことなのかハッキリとは分からなかったが、それをまったく疑うことなく信じてしまったということは、竜馬は人のいうことを信じてしまうという性格だったことを示していた。
タールの臭いを思い出しながら佇んでいたが、公園の向こう側にある大きな木の先に沈んでいく西日を見ていると、その気が煙突を思い出させるのだった。
小学生の頃に感じた川面に写った太陽が、綺麗に写っていた。それだけ本当に風が吹いていなかったという証拠なのだろうが、公園で見る木は気分的に揺れていた。じっとしているのを感じたことがなかったので、本当に風が停止していたのかどうか、思い出してみたが自信がない。
「夕凪の時間というと、逢魔が時と言われる時間帯で、魔物が一番現れやすいと言われている時間でもある」
という話を聞いたのは、この頃だっただろうか。
ある日、一人の老人に話しかけられたことがあった。その人がいうのは、
「自分は占い師だったが、すでに引退して、最近はよくこの公園に来ている」
ということであった。
しかし、竜馬はそんな老人を見た記憶がない。いつもすれ違っていたのか、それとも眼中にないほど、普段のこの人は気配を消しているのだろうか。
老人は、竜馬に対して、
「あなたを見ていると、占ってみたくなるんですよ」
と言われた。
「別にいいですよ」
と言ったので、無理強いはしなかったが、占ってもらうことの気持ち悪さよりも、自分を占いたいと思うことの方が気持ち悪かったからだった。
だが、その時占ってもらわなかったことを後悔した。その人が公園から出ていく時の雰囲気が想像を絶していたからだ。
公園を出ていく時に後ろ姿を見ていると、どこか違和感があった。
――何に違和感を持ったのだろう?
と思ったが、その人が薄く見えてきたことからだった。
確かに太陽に向かって歩いているので目の錯覚として後光が刺していることから、実際の背景が薄くなってしまうのは仕方のないことのように思えたのだが、それ以上に何か薄く感じさせる気配が漂っている。
薄いと考えたのだから、すぐにその理由も分かりそうなものだったが、やはり、
「そんなことはない」
という潜在意識が頭の中にあったからだろう。
「影がない」
思わず声に出して言ってしまったのではないだろうか。
こちらに向かって日が刺しているので、こちらに影があってしかるべきである。その影がまったくないことで、地表とのバランスが崩れたことで、余計に薄いイメージに感じられた。
「影が薄い」
という言葉を聞くと、
「死相が出ている」
というイメージになるのだが、足の先から根っこが生えているように見えることで、
「人間というのは、身体と地表とが一体になって初めて存在感を見ることができるのではないか」
と思うのだった。
その占い師とは、結局その後出会うことはなかった。ひょっとするといたのかも知れないが、竜馬は覚えていない。
それは竜馬が人の顔を覚えるのが苦手だということだけではない。本当に会っていても、顔を覚えていたとしても、実際に会ったことがある人だという認識ができないのだ。
占ってほしいというよりも、もう一度会ってみたいと思ったのは、やはり最後に見た時の影の薄さを感じたからだ。
「すでにこの世の人でなかったらどうしよう」
という思いに駆られたからだ。
しかも、その人の生殺与奪を最後に握ったのが自分ではないかという大それたことすら考えた。人の運命を自分が握っているなど、誇大妄想も甚だしい。
「誰かが誰かの運命を握っている」
と考えるのも無理なことではないと思ったのは、その人が自分を占い師だと言ったからだった。
――本当に僕を占ってみたいと思ったのだろうか?
きっと断られることは最初から分かっていただろう。
そうでもなかったら、あんなにすぐに前言撤回はしないだろう。そう思うと竜馬にとって誰かと関わる必要はないようにも思えた。
あの人に竜馬がどのように写ったのか、想像してみたい。そもそも占い師というのが何をするものなのかよく分かっていない。易者であったり、トランプ占いであったり、砂占いや水晶占いなどいろいろあるが、彼はどの占いだったのだろう。
占いの種類によって、何を占うか、あるいは、占いごとに得手不得手があるのかも知れない。
基本的には易者をイメージしてしまうが、まず都会の路地裏に席を構えて、うす暗い灯篭のような明かりがあり、座っているのは老人である。まるで千利休を思わせる帽子を被っていてテーブルの上にはまるでおみくじを引く時に使うような竹ひごが、円筒形の入れ物に入っている。さらに定番の虫眼鏡を手にして、手相を見ることから始まるというイメージであった。
「当たるも八卦当たらぬも八卦」
とはよく言ったもので、占いがどれほどの魅力を感じさせるものなのか分からないが、少なくとも占い師がそんなに減っていないところを見ると、需要と供給はマッチしているのではないだろうか。
ただ、人に占ってもらうのが怖いという意識もあった。
――もし、ズバリ自分の性格を言い当てられたら、それはそれで嫌だ――
と感じた。
ということは、竜馬は自分のことをよく分かっているという証拠でもある。
ただ、そのことは認めたくない。そういう意味で、他の人も結構自分のことを分かっていて、それを認めるのが嫌だと思っている人も多いのではないか。占い師に占ってもらうことを拒否する人は、お金の問題というよりも、人にズバリ自分の性格を言い当てられることを怖がっているのだろう。
一つは自分のことを分かっていて言い当てられることに違和感を持っている場合、そしてもう一つは、自分で知らない部分を、言い当てられることへの恐怖である。後者の方がよほど占い師を信じているということであり、占い師が自分のことを本当に言い当てていると思い込んでしまうのだろう。
一種のマインドコントロールと言ってもいいだろう。心理学の言葉で、
「バーナム効果」
というものがある。
それは、
「誰にでも当て嵌まるようなことを暗示させて、相手に自分を信じさせることで、自分の言うことには逆らえないようにする」
というマインドコントロールである。
占い師と聞いて、違和感がある人の中には、このバーナム効果を意識しているからであろう。
悪徳商法に、マインドコントールされて、
「あなたの運勢にはこれがいいから、このパワーストーンを買えばいいですよ。今なら特別価格で提供します」
などとすでにマインドコントロールされている人は逆らうことができない。
いくら高額でも、何とかしようと思うだろう。人によっては借金をしてでもそれを購入しようとする。それが問題になる事件も後を絶たず、社会問題になっていると言ってもいいだろう。
何かのアイテムを指定されると、マインドコントロールされている人はまず信じ込んでしまうだろう。マインドコントロールは結局、相手の気持ちの奥深くに忍び込むのだが、誰にも当て嵌ることを言い当てるという簡単なことが本当に奥深く侵入できるのかどうか、それが占い師の占い師たるゆえんではないだろうか。
占い師とマインドコントロールが対であるかのように錯覚していたが、この時の占い師は無理強いはしなかった。何かを言いたかったのだろうが、それを言ってしまうと、よほど悪いことが起こる予兆でもあったのか、それが竜馬には怖かった。
それならまだ無理強いしてくれた方がよかったかも知れないと思ったが、それも後の祭りで、その人はすでに去ってしまった後だった。
「もう、会うこともないような気がするな」
と思ったが、それは当たっていた。
公園なんだから、そのうちに出会うかも知れないと思ったが、毎日来ている公園で初めて出会ったのだ。偶然というにはタイミングが良すぎる気がした。
しかし、竜馬は人の顔を覚えるのが苦手だ。今までに何度か見ていたかも知れないが、知っている人でもなかなか顔を覚えることができないのに、知らない人を覚えることなどできるはずもない。
逆に言えば、また会いたいと思っても、今度は自分がその占い師の顔を忘れてしまうだろうから、会えたとしても、相手に話しかけてもらわなければ分かるはずはないというのが竜馬の考えだった。
人の顔を覚えられないことがこんなに自分に損をさせるということを思い知らされたのもこの時だったかも知れない。それからしばらくして竜馬は災難続きだった。
仕事での失敗から始まって、自分が悪いわけでもないことを押し付けられてしまったり、逆らうこともできず、理不尽な思いをさせられたりもした。
「厄年なのかな?」
実際の男子は、数えの二十四歳なので、実際にはすでに通り過ぎていた。
今まで厄年を感じたことがなかったのは、それだけ今まで不幸が続いたことがなかったからかも知れない。ちょっとしたことが単発で不幸と思えるようなこともあったが、あくまでもすぐに解決されることであり、しいて言えば精神的なショックが尾を引く程度だった。
精神的なショックも大きいのだが、厄年とまで思うには少なくとも数回の連続した不幸が訪れなければ、厄年とまでは考えないだろう。今では言わなくなったが、昔は、
「天中殺」
という言葉が流行ったらしく、その謂れは、
「天が味方しない時期」
と言われているのだそうだ。
ただ、これは十二年に二回ずつだったり、十二か月に二か月ずつと言った周期で訪れるもののようで、周期的には厄年よりも頻繁であった。
天中殺は自分を生まれ変わらせる時期であったり、休養する時期だとも言われているようであり、ただやってはいけないこととして、
「自分自身から行動することだけはダメだ」
と言われているようです。
あまり悪い意味に使われない場合もあるようだが、基本的には自分から余計なことができないという意味でデメリットが多いと言えるだろう。
自分が果たしてこの天中殺だったのかどうか分からないが、もしそうだったとすれば、あの占い師はこのことを告げたかったのかも知れない。
――何か忠告のようなものがあったのかも知れないな――
余計なことをしてはいけないなどの話くらいだったら、してくれた方がよかったのだろうと思った。
だが、もしこの期間が天中殺だったのだとすれば、それを抜けてからはそれ以上落ちることはないと思い、結構自分でも怖いと思うような思い切ったことをしていたように思えた。
そこに自分の意志があったわけではない。意識として、
「思い切ったものだ」
という思いはあったが、本当にできるなんて思ってもみなかった。
そういう意味では下手に意識して物事に当たらない方がいいのかも知れない。
しかし、こと恋愛に関しては、なかなかうまく行かなかった。好きになった人もいたが、発展することすらなく、三十歳になるくらいまで、ほとんど仕事ばかりしていたと言ってもよかった。
「毎日が家と会社の往復だ」
だから、彼女ができないのだという理由にしていたが、仕事を理由にするというのは、結構気が楽なものだった。
生きがいに近いくらいの仕事をこなしていて、恋愛ができないことへの言い訳にもなって、二十代というのは、自分にとってある意味、
「都合のいい時期」
だったのである。
恋愛をしようと思ったのは、竜馬の兄がそれまで結婚など一言も口にしていなかったのに、田舎でいつの間にか結婚していたということを聞いた時、自分の中に焦りのようなものを感じたからだった。
それまで恋愛に関しては自分のペースでしか考えていないと思っていたのだが、肉親が結婚したと聞いた途端、いきなり何を焦り出すのか、自分でもよくその心境が分かっていなかった。
だが、ふとまわりを見ると、恋愛対象になりそうな相手はどこにもいない。自分の好きなタイプの女性を探そうと思い探してみたが、女性の顔を見るたびに心の中で、
「違う」
と呟いていた。
それもそのはず。竜馬は一対一で相手を観察していた。相手がどんな人かというよりも、まずは自分のタイプかどうかを探っていたからだ。
それはそれで間違いではないのだろうが。それ以前の基本が間違っていた。そもそも、竜馬には自分のタイプがどんな女性なのか、ハッキリしていなかったからだった。
全体的なイメージはあり。パーツのところどころに自分の好みとして焼き付いている部分はあったのだが、それを一つにまとめると、全体的なイメージの女性とはかなり食い違っているのだった。
つまりは、いくつかの数を足していって、全体の数字に合っていないのだ。それでは相手のある自分の女性のタイプなど、決まるわけもなかった。
――何となく分かっていたような気がする――
好きな女性に竜馬は矛盾があった。全体像とパーツパーツのイメージが違うことが一種の矛盾であるが、それ以外にも大きな矛盾を孕んでいた。
元々竜馬は、
「その人の顔立ちや雰囲気から相手の性格を判断し、自分に合う性格かどうかを判断する」
というのが、人を好きになる時のパターンであった。
どちらかというと自分が好きになるよりも、好かれたから好きになりたいと思っていることも、一種の矛盾だったのかも知れない。
数え上げれば無限に矛盾が広がっているのかも知れない。一つの矛盾が新たな矛盾を呼び、平行線のように交わることなくまっすぐに進んでいると、その先にあるのは無限である。
矛盾というものは、ピッタリ合わせれば会うはずのものが、同じものでも噛み合わない場合に使う言葉ではないだろうか。
「そんな強い盾に対しても負けることのない矛と、どんな矛の攻撃にも耐えうると言われる盾があったとすれば、決して勝負がつくことのないものの戦いになる」
つまりは、矛盾と言う言葉には、無限という言葉が表裏となって重なっているものなのだ。
竜馬は自分の考えを、
「絶えず矛盾に満ちているものなのかも知れない」
と思うことが多かった。
そのくせ、矛盾を否定している自分がいて、
「まわりの人は自分よりも優れている」
という劣等的な気持ちを抱きながら、さらに、
「自分は他人と同じでは嫌だ」
という意識の元、まわりに対して優越を絶えず考えている。
これこそが矛盾と言えるのではなだろうか。表に出ているのは、人と同じでは嫌だという優越感であるが、その裏に隠れていて、決して表には出さないが、出さずとも自覚するに十分な気持ちとして、まわりに対する劣等感があるのだ。
この劣等感が普段の自分の行動を抑制している。今度のように恋愛に対して積極的になることなどなかった自分が急に恋愛に対して積極的になったというのも、無意識の中に意識があったからなのではないだろうか。
他人と同じでは嫌だという意識はあくまでも優越感だけだと思っていたが、劣等感も持っていなければ、暴走に繋がってしまう。暴走を食い止めるために、それぞれ盾と矛があるのだとすれば、永遠に続くスパイラルは、竜馬の中で必要不可欠なものだと言えるだろう。
それは竜馬だけに言えることではなく、人間誰にでも言えることだ。誰がどれだけ意識できているかというのも重要だろうが、少なくとも自分のことくらいは自分で分かっていないといけない。
やっと三十歳代後半になってから、今までの自分を顧みることができるのではないかと思っていたが、それはきっと諦めの人生を感じるようになったからなのかも知れない。
物忘れが激しいというのが小学生の頃からあったことだが、物忘れは次第に解消していった。それはよかったのだが、三十歳の途中くらいから、物忘れが激しいというよりも、
「物覚えが悪くなった」
という意識に駆られるようになった。
「どこが違うんだ?」
と言われるかも知れないが、元々の忘れるということと、覚えるということが正反対であることから、まったく違うものだと言ってもいいだろう。
つまりは、
「物忘れが激しいということは、百のことを覚えていて、それがどんどん忘れていくことで、五十になり、三十になりと、どんどん減ってくるもので、減算法と言えるだろう。逆に物覚えが悪いというのは、最初はゼロで。普通の人であれば、すぐに百に達するのに、自分は五十にも満たないというくらいになっているという加算法の考え方である」
と言えるのではないか。
しかも物忘れの場合でも物覚えの場合でも、時間的に他の人と同じところで完結すると考えられ、他の人が百になったり、ある程度の時間に達した時に、物覚えや物忘れという意識はなくなり、記憶として格納されるのだ。つまりは、
「過去と言うことになる」
と言えるのではないだろうか。
竜馬は昔から物を捨てることができないタイプでもあった。いわゆる断捨離が苦手なのだ。
――捨ててしまって、後になって重要なものだったということで後悔したくない――
という思いが強く、重要なものでも、将来必ず必要になるものすら捨ててしまえば、後悔だけでは済まなくなる。
それが、竜馬には嫌だったのだ。結局整理整頓ができないということに繋がるのだが、そのことと物忘れの激しさ、物覚えの悪さに大きな影響を与えているのは間違いのないことだろう。
そんな竜馬が自分を顧みるようになったことと、人生を諦め境地になったのは、
――諦めてしまうと気が楽だ――
ということが一番だった。
「まだ若いのに、何を言っているんだ」
と言われるかも知れない。
だが、竜馬はこの歳になるまで、結局は自分の性格がまったく変わっていないと思っている。結構いろいろ考えて行動をするのだが、最後の一線をどうしても超えることができず、一歩手前で立ち止まり、キョロキョロとしてしまう。我に返ると言ってもいいだろう。我に返ってしまうと、自分がそれまでその件に関して感じていたことに対し、ハッとした気分になり、急に前と後ろが分からなくなる。
せっかく前を見て歩いてきたつもりのその場所は、実際には前を向いて歩いてきながら、見えているだけで、見ていなかったのだろう。我に返ってしまうと、自分がいるその場所がどこなのか分からず、次第に疑心暗鬼になってしまう。
――このまま進んでいっていいんだろうか?
という思いだったり、
――どっちが前だったんだろう?
ということすら信じられなくなっている。
そうなると、一歩も動けなくなってしまい、気が付けば真下を見ると、小さな吊り橋の上にいて、橋の付け根から下は、断崖絶壁になっている。吹いてくる風に煽られて、進に進めず戻るに戻れずと、完全にその場所に取り残されてしまうのだ。
それは夢で見たことだが、最近よく似たような夢を見ることがあった。
――似たようなというよりも、同じ夢だったのではないか?
と、夢の七でデジャブを感じたような気がするくらいであった。
だが、この夢は今に始まったことではなく、過去にも見ていたような記憶がある。それがいつ頃だったのかハッキリと覚えていないが、あの時は、この夢についてそこまで意識したという思いはない。ただ、記憶として残っているだけで、今同じ夢を見ることでその記憶がよみがえってきたのだろう。
その記憶は格納されていただけで封印されていたわけではない。もし封印されていたのであれば、いくら同じ夢を見たからと言って思い出すことはないだろう。
もっと言えば、まったく同じ夢であれば、記憶と意識が同化してしまい、却って思い出すことはなかったのかも知れない。覚えていること、忘れてないということには意識と記憶が存在する。何とか覚えているという気持ちがある間はそれは意識であって、覚えるという思いがなくなると、そこからは記憶になるのだ。
しかも、記憶には格納する場所と、封印する場所とで別々にあるので、ふとしたことで思い出すことができる記憶は、封印されていたわけではかく、格納されていた記憶ということになるのだろう。
ということは、記憶を操作する意識が存在しているということになるのではないだろうか。
封印するべき記憶なのか、それとも思い出すために格納だけしておく記憶なのかを瞬時に判断することができるのが人間であり、思い出すための格納というのも、必ず一度は思い出すと最初から分かっている記憶と、思い出すかも知れないという可能性が高いと思われる記憶との二種類あるのだろう。
夢の記憶というのはどういうものなのか、竜馬は考えていた。基本的に夢を見ている時に、
――この夢は前にも見たことがある――
という意識を何度か感じたことがあった。
考えてみれば、そんな時、夢を見たことは覚えているが、ハッキリと夢の内容を覚えていないことがほとんどで、ただ、
「前に見た夢をまた見てしまったんだ」
という意識を抱くだけだった。
だが、今回の夢はそうではなかった。
目が覚めてからも見た夢のことを覚えていて、さらに過去に見たような気がするという意識もあったのだ。これまでの夢とは夢の種類が明らかに変わっていた。
――じゃあ、どこが自分の中で変わったんだろう?
と思うようになった。
それまでの竜馬は、いつも前ばかりを見ていた。そして、
「今日よりも明日。明日よりも明後日」
という意識から、逆に、
「明日は今日よりも悪いということはないだろう」
という楽天的に考えていたのだ。
ただ考えているだけで、いわゆる受け身だったのだ。本当であれば、自分でその感覚を立証するべき自信を持つような行動であったり、毎日の日課で取り入れる必要があったのだが、無為とまではいかないだろうが、ほとんど考えもなく楽天的な考え方だけであれば、当然進歩はない。
進歩がないだけであれば、まだまだ希望が持てるのだが、次第に状況が悪くなってくると、徐々に悪くなっていったはずのものが、急にいきなりひどい状況に追い込まれたと思ってしまう。まるで普通に歩いていて、足元が急にポッカリと開いてしまって、気が付けば奈落の底に叩き落されたような気がしてくるのだった。
――その状況は、絞首刑に向かう死刑台に似ていないだろうか――
竜馬は夢をそんな風に考えていた。
ひょっとすると、断崖絶壁を両端に抱く吊り橋の上で、前にも後ろにも進めない自分の感覚が、この夢の発展形なのかも知れないと思うと、過去に見たような気がするという感覚も錯覚が伴っているのではないかと思った。だから、夢から覚めても忘れることなく覚えているのであって、それは違う夢を同じ夢だとして、前に見たという感覚に陥ったことへの錯覚を、自分の中で辻褄合わせとして考えているのではないだろうか。
三十代の前半くらいに一度仕事で自分に疑問を感じたことがあった。
それまで第一線で仕事をしてきて、自分のやったことがそのまま会社の成果として目に見えていることで大いなる満足を感じていたのだが、年功序列での昇進とともに、第一線での仕事というよりも、
「部下に仕事を任せる」
といういわゆる監視、教育というのが求められるようになった。
「モノを作ることが生きがい」
ということを考えていたので、自分が直接成果を出せないことに対して自分にも会社にも疑問を感じてきたのだ。
しかも、自分の成果がそのまま会社の実績になっているということは、自分が会社で表に出ているということでやりがいを持っていたのに、実際には会社の成果が自分の成果にはなっているかも知れないが、最後には会社の財産であるので、自分はただの製作のための「コマ」でしかないということであった。
これを感じた時、急に足元に穴が開いて、奈落の底に突き落とされた気がした。ひょっとするとこの感覚はこの時初めて感じたことだったのではないかと思う。今までに何度も感じたことのあるこの感覚だが、初めてがいつだったのかということは自分でも分からなかったのだ。
主任という立場は、第一線と教育の両方があったのでそれほど強く疑問に感じることはなかったが、課長になってしまうと、ほとんどは部下にさせて自分は監視であったり、責任であったりと、それまでの自分の望んでもいないことばかりを押し付けられるという大きなジレンマに陥っていた。
これが、仕事に対しての自分の立場が宙に浮いているような気がする一番の理由だった。他に何か趣味でもあればよかったのだが、趣味もなかった。ただ、一度三十歳になった頃、小説を書くことを趣味にした時期があった。
その頃になると、自分の成果がそのまま会社の成果にはなっていたが、会社の成果が自分の成果として認められているかどうかに疑問を持ち始めた時だった。
――このままでいけば、耐えられなくなる――
という思いがあったからで、せっかく、
「モノを作ることが好きだ」
という性格があるのだから、今までやったことがなかったことに挑戦してみたいと思ったのだった。
竜馬は、大学時代に一度ミステリー小説に凝り、毎日の日課として本を読む時期があった。
それまで本と読むのは嫌いで、だからと言ってマンガに嵌ったわけではなかった。活字も絵も避けていたところがあったが、数少ない友達はいたので、その友達がミステリーが好きだった。彼の影響で読んでみたのだが、
「結構面白いじゃないか」
と思った。
二時間ドラマなどを映像で最初に見て、その後に原作を読むということを続けていた。友達がいうには、
「原作を読んで映像を見るとガッカリすることが多いけど、映像を見て原作を見る分にはそうでもない」
と言ってくれた。
本を読むのが苦手だということを友達は知っていたので、まずストーリ性を知ったうえで活字を見る方がいいと考えたのだろう。
最初はそれでもよかったが、本を読むということに慣れてくると、映像に関係なく本を読むようになった。その時の感動は口でどう説明していいのか分からないほどのものだったというほどである。
三年ほど、嵌って毎日のように仕事が終わってから寝るまでの間、できるだけの時間で本を読んでいた。そのうちに、
――僕も書けるようになったらいいな――
という思いが頭をもたげてきて、実際に自分でも書いてみたが、これがなかなか難しい。
本屋で、
「小説の書き方」
なるハウツー本を買ってきて、いろいろと読んでみた。
考えてみれば、この時期が一番楽しかったような気がする。ハウツー本を見ている自分がいじらしく感じられ、素直に真面目な自分をすごいと思うくらいになっていた。自己満足であることに違いはないが、基本的に竜馬は、
「自己満足は決して悪いことではない」
と思っていた。
「自分が満足もできないことを、人が満足してくれるはずもない」
という考えもあった。
押し付けだと言われるかも知れないが、押し付けも相手が中途半端にしか考えていないのであれば、背中を押すという意味で悪いことではないように思う。かなりの楽天的な考えだが、前向きであれば、それはそれで悪いことではないと思えたのだ。
小説を書き始めることに、もう少し困難を極めるのではないかと思っていた。最初の段階で挫折する人がほとんどだと本にも書いてあったが、いろいろ見ていると、
「小説というのは、基本的に何を書いてもいい」
と書かれていた。
自由でいいということだが、これが書けるようになって、実際に執筆に入ると引っかかってくることでもあった。
「自由でいいというのは制約がないだけに、融通が利かない。つまり自由という言葉の裏には、言い訳が利かないという意味もあり、却って制約がある方がいい」
という考えもある。
ただ、描き始めるまでであれば、そこまで難しく考えることはない。楽天的な人間であればあるほど、小説を書き始める時には有利なのかも知れない。
しかし、人間には欲というものがある。
小説が書けるようになると、プロを目指してみたくなるというものだ。
小説を書き始める時のもう一つの基本として、
「まずは完成させること」
というのがある。
つまりは、
「途中でやめてしまっては、最初からやらなかったのと同じ。最後までやり切れば、どんな内容のものであっても、やり切ったということに対して自分に自信が持てる」
ということである。
プロになるという欲を持つと、いろいろな新人賞に投稿し、結果を待っていたが、ほとんどは一次審査にも合格しない。審査の基準もまったく分からず、次への課題も見つかるわけではない。
しかも一次審査というのは、
「下読みのプロ」
と呼ばれる、売れない小説家の人や、アルバイトだったりが行っていて、要するに、
「文章としての体裁」
だけが論点になる。
どんなにいい作品であっても、体裁だけで振り落とされる。確かに体裁も整えられない作家が、果たしてプロとしてやっていけるかという技量の問題になってくるのだろうが、ちゃんと一次審査からプロの作家が見てくれていると思っていた自分には、興ざめしてしまうレベルであった。
皆そんなこと分かっていて、作家を目指しているのだろう。こんなことは当然のこととして割り切って、プロを目指している。ただ、竜馬はそれでは我慢できなかったのだ。
「だったら、プロを真剣に目指すわけではなく、書きたいから書いているという気楽な気持ちで書いていけばいいだけではないか」
と思い、趣味としての執筆を今でも続けているのだ。
さっき、趣味はないと言ったが、それは最初から趣味としてずっと気楽にやってきたものを趣味という意味で言っただけのことで、執筆のように、一度プロを目指そうと思って、挫折したことでやめるわけではなく、気楽にできるように残したというのを、普通に趣味と言えるのかを考えたからだ。
「お前は、自分の姿勢に対して神経質になりすぎだ」
と、二十代の頃に上司から言われたことがあり。その言葉の意味が分からなかったが、今であれば分かる気がする。きっと部下のことをしっかり見ている上司だったのだろう。今は移動で他に行ってしまったので会うことはほとんどないが、今から考えても、残念だった気がする。
――物覚えが悪い癖に、よく小説なんか書けるな――
と思っている。
実際に小説を毎日書き続けているのは、日課にするためというよりも、
「物覚えが悪いのでそれまで書いていたことを忘れる前に書いてしまおう」
という思いが強いからなのかも知れない。
小説を書くようになってからの竜馬は、
「アフターだいぶはあっという間に過ぎるのに、仕事中はなかなか時間が経ってくれない」
というジレンマに陥っていた。
それでも一日の終わりが小説を書いたことによる満足感と充実感で終えることができることが幸いしていた。眠りも以前に比べれば格段に快適になり、気が楽になるということがどういうことなのか、初めて分かった気がした。
その頃はまだまだ人生を諦めていたわけではない。今でも、
「本当に人生を諦めたのか?」
と聞かれると、どう答えていいのか自信がなかった。
ある意味、小説を書きながら自分の世界に入ることで、自分に問いかけている時間が増えたという意識から、まだまだ人生を諦めていないと思うのだった。
小説を書いていると、まるで夢の中にいるような錯覚に陥る時がある。夢に入る時が曖昧で、夢から覚める瞬間を意識できるという意味では、小説を書いている時と変わりはなかった。
小説を書きながら、我に返った時、急に脱力感を感じるのだが、その脱力感が目が覚める時のだるさを思い出させるのだった。
小説を書くのは、最初自分の部屋で書いていたが、変に気が散ることに気が付いた。元々小説を書けるようになったのは、
「話ができるんだから、書けるはずだ」
ということを感じたからだった。
会話シーンは自分が話をしているのを思い浮かべればいいのだが、場面やシチュエーションは、実際に見たものをイメージするのが一番いい。家で書くのは静寂の中になるので、落ち着いて書けると思っていたが、ある意味、静かすぎるのも却って気になってしまい、気が散る原因になってしまった。
しかも、まわりがまったくの静止画なので、描写やシチュエーションのイメージができない。それならばと最初は図書館に行ったが、却って気が散る。図書館もある意味自宅よりも静かであるが、人が多いので、ガサガサゴソゴソという音に気が散ってしまうのだった。
ファミレスや喫茶店であれば、人が話をしていることで気が散るかも知れないと思ったが、人の流れなどは一番肌で感じることができると思うと、
「ひょっとすると一番いい環境なのかも知れない」
と思った。
もちろん、うるさい中で馴染めなければ無理なことであったが、それを乗り越えると書けるような気がしてきた。
小説を書くということが苦にならなくなったわけではない。確かに喫茶店で書いていて、うるさいことには慣れてきたし、実際にイメージを膨らませることはできるようにもなってきた。
しかし、一日書く量を自分なりに決めていても、実際に書けることは書けるのであるが、そのために使う労力は結構なものだった。
自分の世界に入っている間は気にせずにできるのだが、その日の分をやり切ると、満足感とともに襲ってくる脱力感がハンパではなかった。
だから、次の日、仕事が終わって一段落してから小説を書ける時間がやってきたとしても、
「やっとこれで自分だけの趣味の時間に入れる」
という思いと、
「今日は果たしてその日の目標を達成することができるだろうか?」
という思いが交差する。
後者の方が強いのではないかと思うくらいだが、この思いは、次第に無意識なジレンマとして蓄積されていった。
だが、この思いがあるからこそ、執筆が惰性にならない証拠でもあった。もし、その日の目標が簡単に達成できるのであれば、きっと惰性のようになっていたかも知れないとも思う。
惰性が悪いというわけではなく、せっかく会社の時間との差別化に成功し、自分の時間を大切にできると思っていることを惰性にはしたくないという思いの強さから感じたことだった。
最初の頃は、チェーン店のようなカフェを利用していたが、その理由としては、
「電源を借りることができる」
ということだ。
場所によっては、同じチェーン店であっても、電源使用不可のところもあるが、基本的にはスマホを充電しながら使用できるようになtっていりところも多い。本当は電源から供給される電気は固定資産なので、無断使用は窃盗になる。しかし、最初から、
「電源使用可」
という店が多くなったのも事実で、それらの席でパソコンを使用することに何の問題もないのだった。
しかも表を歩いている人や、店内の人の流れや会話などが聞こえてきて、それを題材にすることもあり、観察するにはちょうどよかった。ただ自分の世界に入り込むと、それら一切を遮断してしまうことで、せっかくの当初の目的を失ってしまうことにもなったが、それも致し方のないことだと思えた。題材などはこの店で一時間ほどいただけで、そう簡単に転がっているわけでもないので、それよりも、最初から自分が題材を求めているという気持ちの時の方が、歩いている時や通勤中などでも感じることは大いにあったであろう。
いろいろな店を回ってきた。
その中で馴染みになる店もあり、時間帯を考えて来店すれば、一人ゆっくり執筆を楽しめる時間があることに気が付いていた。
店の体質にもよるのだが、最初からモーニングをやっておらず、開店が九時から十時くらいのところであれば、昼のランチタイムの前の時間は、ほぼ客はいない。粘っていてもランチタイムで混んでくるまではゆっくりとしてることができる。スタッフの人と話をすることも可能で、もちろん、ランチタイムの用意に支障をきたさない程度であれば、話をすることもできる。世間話でもいいし、執筆についての話でもいい。それがまた次の作品のヒントに繋がることもあり、やはり馴染みの店を持っているということは、執筆においての財産だと思えるようになっていた。
常連さんとの話も次作のネタにはありがたい。小説を書いていると、ついつい人の会話に聞き耳をたててしまい、集中できない時もあったが、最初の頃は苛立ちを覚えてもいたが、途中からは気にならなくなった。
BGMも最初は気になっていたが、途中から気にならないようになり、却ってリズムに乗れるようで、その頃になると、自分が完全に店に馴染んでいることに気付いた。
「ここは僕にとって、隠れ家のようなところだから」
とよく言ったが、まさにその通りである。
だが、時代の流れには逆らえないというべきなのか、近くの商店街が次第に衰退していった。郊外にたくさんできた大型アミューズメントというべきショッピングセンターの出現で、車利用の人は、どんどんそっちに流れて行った。駅に近いという利便性で、地域住民のための商店街が、その役目を終えようとしている瞬間であった。
そのあおりは周辺の店にも影を落とす。馴染みの喫茶店も常連客が減っていき、マスターも閉店を真剣に考えるようになった。
客の減り方はシビアであった。さすがに店の継続を断念したマスターはそれから数か月で店じまいをしてしまい、また竜馬は新たな「隠れ家」を探さなければいけなくなった。
竜馬が目をつけたのは、その頃また流行り出した、
「コンセプトカフェ」
だった。
ヲタクが多く、テレビドラマなどで見るメイド喫茶に対しては、何となく違和感を抱いていたが、興味本位で覗いてみるくらうはいいかと思い、数軒点在するメイド喫茶のうちに一軒に行ってみることにした。
そのエリアは、都心部から少し離れてはいたが、昔から、
「サブカルチャーの街」
として、知る人ぞ知るエリアとなっていた。
元々サブカルチャーという言葉がどういうものか知っていたわけではなく、ただの興味本位だけだったのだが、行ってみると、結構馴染めそうだったので、少し通ってみることにした。
ドラマなどで見た
「萌え萌え系」
というわけではなく、店内にはコスプレメイドがいて、それ以外は普通のカフェという雰囲気だった。
壁も普通で、しいて言えば、椅子が少しピンク色っぽいくらいであった。
その店の売りは食事で、唐揚げやカレーライスなどは、結構人気があるということで、最初に唐揚げを食べてみたが、しばらく病みつきになったほどだった。
味は少し濃かったが、それが癖になり、病みつきになる人も多いという。
ただ客層はさすがにヲタクと思える人が多く、近くにある同人誌の店で買ってきたマンガなどを見ながら店内で過ごしている人も多かったりする。
店にはスケッチブックが置いていて、雑記帳のようになっているが、皆絵を描いたりしていて、それが結構上手なのには驚かされた。
――なるほど、これがサブカルチャーというものか――
と感心させられた。
最初のこの店だけではなく、別の日には他のメイド喫茶にも寄ってみたが、やはり最初の店が一番印象に残ったのか、常連となるべき隠れ家を見つけた気がした。
その店のメイドスタッフは、皆気さくで、小説執筆の合間でも声を掛けてくれた。メイド喫茶は女の子が声を掛けてくれて会話をするところだということはその頃にはすでに知っていたが、女の子もタイミングを見計らって話をしてくれて、その気の遣い方が微妙なので、それが嬉しかった。
他のメイド喫茶でも同じだったが、平日は定番のメイド服があるようだが、土日祝日というのは、その日のイベントでテーマに沿ったコスプレをするようだ。そういう意味で、コスプレに興味を持っていた竜馬にはありがたいと思えた。
竜馬の休日は不定期で、土日の時もあれば、平日の時もある。土曜日出勤が多いので、その分、平日のどこかで一日休みがあると言った方がいいだろう。
何人か気になる女の子はいたが、一番気になったのは、りえちゃんであった。りえは大人しい雰囲気であどけなさが引き立つ女の子だった。最初に会ったのは平日で、定番のメイド服であったが、次に会ったのが日曜日で、その日はイベントとして「制服デー」が営まれていた。
平日よりも比較的土日の方が訪問回数が多いので、いつも違った衣装を拝めるのも嬉しかった。メイド喫茶と言いながら、自分の中ではコスプレ喫茶の様相を呈していると思っている。
「りえちゃんからは癒しがもらえる」
と思っていた。
スリムでしかも小柄なので、抱きしめたりしたら、そのまま身体の骨が折れてしまうのではないかと思うほどの女の子で、イメージとしてはいつも無表情だった。
――無表情?
無表情といって思い出すのは直子だった。
今では直子の雰囲気だけしか覚えていない。顔が思い浮かばなくなっていた。これは、
「物忘れが激しい」
あるいは、
「物覚えが悪い」
という感覚と違い、忘れてしまったというのとも違う。
きっと記憶の奥に封印されているのだろう。もしこのまま想像を巡らせてしまうと、彼女の後ろに後光が刺したようになり、その表情には大きな影を差し、のっぺらぼうのように見えてしまうに違いない。
すでに直子は自分にとって、
「過去の人」
になってしまったのだろうが、女性の好みは直子を中心に形成されているのだろう。
ただ、りえちゃんに感じたイメージは直子とは明らかな違いがあった。
直子の場合は、小学生だったこともあってか、最初から竜馬を慕っているように感じられたが、りえちゃんの場合はどちらかというと竜馬を避けているようにさえ見え、最初はどのように接していいのか考えさせられた。
だが、それは自分に対してだけではなく、他の人にも同じだった。単純な人見知りというだけではないような気がしたが、時々見せる目を逸らした時に感じる横顔が、癒しを感じさせるのだった。
りえという女の子は、衣装によっても雰囲気は変わらなかった。確かに制服は似合っていて、自分には一番のお気に入りなのだが、コスプレによって基本的なイメージが変わることはなかったのだ。
そんなりえを不思議に感じていた。
――だから、最初から気になっていたのかな?
と感じた。
りえはなかなか竜馬に心を開いてくれるような雰囲気はなかった。
りえはどうも店の中でも浮いているように見えた。他の女の子が一緒に入っている時でも、女の子同士で会話になることはなかった。
――ひょっとすると、彼女と一緒に入ることを他の女の子は嫌っているのかも知れないな――
とも感じた。
店の中で苛めのようなものはないだろうが、りえ自身、苛めに近い意識を持っているのかも知れない。他の客もりえに話しかけていたが、なかなか会話にならないことから、客もりえをどう扱っていいのか困惑している人もいるようだ。
だが、りえを見ていると、決して人見知りするようには感じなかった。きっと相手によるのではないかと思うのだが、彼女が心を開く相手の雰囲気に共通性が見られないので、どうしても不思議なイメージは払拭されることはなかった。
だが、りえという女の子には確かに癒しのイメージはあった。最初に気になった、
「どんな衣装を着ても、イメージは変わらない」
思いがどこから来るのか、どうしても分からなかった。
ただ、この店に来るようになって、一番最初に気になったのはりえではなかった。かおりちゃんも気になっていた。彼女はりえとはイメージが違っていたが、もしりえの存在がなければ、そのままかおりをお気に入りとして考えていただろう。
かおりの場合は、衣装によってイメージが違った。結構明るさを見せてくれた女の子で、会話も楽しく、結構お気に入りも多かったようだ。
――お気に入りが多いんだ――
と感じてしまうと、自分がこれ以上熱を上げても、しょせん、その他大勢にしかならないと思った。
竜馬は性格的に、パイオニアというものを大切に考えるところがある。
「最初に発見したり、始めたりした人には、その後どんなに改良が加えられようとも、適いっこない」
というのが、竜馬の考え方だった。
先駆者に対しての敬意を表する気持ちが強いことから、どこか謙虚実見られることがあるが、竜馬本人としては、そんなに謙虚な性格だとは思っていない。メイド喫茶にきてから、
「謙虚な性格なんですね」
と言ってくれる人がいて、いつもであれば、
「そんなことはないよ」
と否定するのだろうが、この店では否定はしなかった。
自分が自覚していないことを褒められたとしても、誤解であることが確定している場合は必死になって否定する。勝手な思い込みをされて、次第に否定できなくなるのが怖いからだった。
だが、この店では敢えて否定しないのは、自分の今まで知らなかった世界を形成されていたからだった。
りえもその時にいたが、彼女はどう思っただろう。思わず視線をりえに向けた自分に気が付いたが、一瞬だったので、他の人が気付いたかどうか、微妙なところかも知れない。
ただ、
「謙虚ですよね」
といわれるようになって、自分から余計なことを言えなくなってしまったようだったが、そのうちに自分から話ができるようになった。
それはきっとかおりという女の子がいてくれたおかげだろう。
かおりは、結構竜馬に話しかけていた。他の客に対してよりも話しかけると思ったのは、竜馬が贔屓目に見てしまったからだろうか。
それでも自分に余計に話しかけてくれるかおりのおかげで、自分から話もできるようになった。
――かおりちゃんだけに話をさせてはいけない――
と思うようになり、かおりにだけは饒舌になっていた。
元々話題性に乏しいわけではない。結構難しい話ではあったが、興味深く話を聞いてくれた。
竜馬は大学時代には心理学を専攻していたので、心理学の話から、オカルト系の話になってしまうことが多かったが、かおりは怖がることもなく、楽しそうに聞いてくれた。
さすがにそんな話に他の客も入ってくることはできないだろう。二人だけの世界が広がった気がした。
実はそれも狙いでもあった。誰もしないような話をして、女の子の気を引くという姑息な手段ではあったが、それもこのようなお店ではありなのではないかと思っていた。
かおりはいつもニコニコしている。りえはそんなかおりを慕っているようだった。
りえを避けている他のメイドたちだったが、かおりだけは違った。そもそも、誰でも受け入れるタイプのかおりだったので、りえに対しての包容力も十分だったに違いない。
かおりは、副業で地下アイドルもしているようだった。メイド喫茶が逆に副業だったのかも知れないが、彼女のファンが結構この店に流れてきているのも事実だった。
かおりは結構いろいろとオープンにしていた。他にも活動の場所があるようで、彼女の場合、ずっと上を見ているようだった。
かおりのことを、時々、
「眩しく見える」
と感じていたのは。そういう向上心のある彼女に対して素直な感情だったのかも知れない。
ただ、りえにも、ごくまれにであるが、かおりに感じたのと同じような眩しさを感じることがあった。
「かおりと同じオーラ」
だと思っていたが、何度目かに感じたりえのオーラは、かおりのそれとは若干違っていた。
香りは確かに後光が刺しているのだが、当たる光は逆光ではない。だからのっぺらぼうになるわけではないが、明るいことで、顔の凹凸を感じてしまい、化粧にケバさが感じられてしまい、その想像はなるべくしたくはなかった。
りえのようなのっぺらぼうも感じたくはないのだが、かおりに感じるイメージの方が、恐怖という意味では大きい気がした。
そのうち、かおりとりえの二人に、SMの気を感じるようになった。かおりにはS性を、りえにはM性を感じた。
かおりがS性を醸し出している雰囲気を想像することはできたのだが、なぜかりえに対してのM性を想像することができなかったのはどうしてだろう?
いかにもMの雰囲気を醸し出しているりえなのに、彼女のMを自分が引き出すことができないような気がして不思議だった。
――僕がM性を持っているからなのかな?
とも感じ、その意識に間違いはないと思えたが、そう思えば思うほど、りえのM性とは関係がないように思えてならなかった。
りえにとって竜馬とはどんな存在なのだろう?
竜馬はりえの中に最初は直子を感じたが、、直子とは明らかな違いがあることも分かっていた。それがりえに対してM性を想像できないということと繋がっているような気がするが、果たしてどうなのだろう?
りえと一緒にいると、自分が何者だか分からなくなることがあったが、あくまでもそれは店の雰囲気によるものだと自分に言い聞かせていた。
だが、りえの方である時から、
――彼が私と距離を置こうとしているのを感じる気がする――
と、竜馬に対して感じていたのを、竜馬の方ではまったく気づいていなかった。
まだ、りえに対してどのように接していいのかを考えあぐねていた時に、りえの方では結構先まで意識は進んでいて、
――ずっと一緒にいた彼と、離れてしまっていくような気がする――
という妄想に駆られてしまうのだった。
りえは、そういう意味では、
「夢見る少女」
という言葉がピッタリではないだろうか。
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