第2話 ホラー小説
小学校時代を思い出すのは、本当は嫌だった。
小学生の頃はよく苛められていた経験しか残っておらず、その原因を作ったのが自分であるということを、知ったのは、小学六年生になってからだっただろうか。元々、いつも一人で何かを考えていることが多く、小学生の頃はその答えを求めることができず、すぐに途中でやめてしまっていた。
その思いが強かったせいか、まわりがまったく見えておらず、空気を読むなどと言うことはおろか、人のことを考える余裕すらなかったのだ、せっかく友達が気を利かさてくれたことも、それをまるで当然であるかのごとく振る舞ってしまっていれば、苛めの対象になるのも仕方のないことだった。
自覚がないのだから、なおさら悪い。ただ、苛めが自分に原因がないと思ってはいたが、その理由が分からないので、苛めている連中のせいにすることはできなかった。
――どうして俺ばっかり苛められるんだ――
という思いだけを抱いて、誰にも言えず、悶々とした日々が、音もなく過ぎ去っていくだけだった。
そんな毎日を過ごしていると、一人のクラスメイトが話しかけてくれるようになった。それが小学校六年生になってからだった。
彼は遠藤のことを苛めたりはしなかったが、庇ってくれることもなかった。ただ、話しかけてくれるだけで、普通の友達として接してくれていた。それだけで彼も苛めの対象になりそうなものだが、それはなかった。ただ、彼は他の連中から、
「あいつと一緒にいると、お前も苛められるぞ」
と言われていたらしいが、いつも笑顔で何も言わなかったらしい。
実際に、苛めには逢っていなかったが、クラスメイトと親しくしている人は誰もいなかった。それは遠藤と仲良くするようになったから友達がいなくなったわけではなく、元々友達がいなかっただけだった。
だが、同じ友達がいないとは言っても、遠藤のように、まわりを不快な思いにさせたりするようなことはなかった。そんな彼を見ていると、遠藤は自分の無責任な言動が、人を傷つけていたことにその時初めて気が付いた。要するに、一言多いのだった。
言わなくてもいいことを言ってしまって、それが相手の逆鱗に触れる。そんなことは子供の間ではありえることだが、遠藤の場合は結構そういうことが多かったのだ。
ある意味、悪気はないので、運が悪いともいえるが、それも性格から来るものであろうから、苛めを受けなくなるにはその性格を直す必要がある。
ただ、そこまで分かっていても、自分の性格がどのようなものか、いまいち分かっていない。しかも、分かったとしても、どこをどう直していいのか分かるはずもなかった。そもそもそれくらいのことが分かるくらいだったら、最初から苛められるような言動は慎んでいたはずだからだ。
友達ができたことが、苛めがなくなる第一歩だったわけだが、遠藤の性格が直るわけではなかった。
「俺って、こんな性格だから苛められていたんだよな」
と、友達に言ったことがあったが、
「俺は結構、お前の性格好きだぞ」
と言ってくれた。
彼が遠藤のどの部分の性格を刺してそう言ったのか分からないが、好きだと言われて嫌な気分になるはずもなかった。
遠藤にとって中学から高校にかけての六年間も、実は思い出したくない記憶でもあった。そもそも、その六年間は、本来であれば、青春時代と言える年齢なのだろうが、青春時代と言えるような経験は皆無だった。彼女ができるわけでもないし、友達とワイワイ、どこかに出かけるわけでもなかった。
苛めがなくなり、苛めていた連中からも、
「あの頃は悪かったな」
と言ってもらったことで、許された気がしていたが、なかなか今度は自分から彼らと仲良くしに行くということもできなかった。
まわりもそれを分かっているのか、遠藤を仲間に引き入れようとはしなかった。
「お前はお前でいいんだ」
と言ってくれる人はいたが、その言葉の本当の意味を分かってはいなかった。
結局、
「勉強していい高校、いい大学を目指す」
という、大人が見て、
「これこそ学生の本分」
と言われるような毎日しか送ってこなかった。
小学生時代が昨日のことのように思い出されるのに、中学高校時代となると、どこか暗い歴史しか記憶になく、思い出したとしても、思い出したくないというやるせない気分にさせられるのは、どうしてだったのだろうか。
苛められていた頃、毎日があっという間に過ぎた気がした。しかし、後から振り返ると、かなり昔だったような気がするのは気のせいだろうか。
中学時代や高校時代は逆で、一日一日がなかなか過ぎてくれないにも関わらず、後から思い返すとあっという間だったような気がする。そのくせ、卒業してから中学、高校時代という頃のことを全体として思い出そうとすると、かなり昔のことだったように思う。
要するに、思い出した時、瞬間で違うのだ。あっという間だったように思う時、あるいはかなり昔に感じる時、人の感覚というのは、錯誤に満ちていると言えるのではないだろうか。
大学に入って、まわりの明るさが眩しく、自分も彼らのように明るく振る舞いたいと思い、皆に話しかけたりしたが、どうも話が噛み合わない。高校時代、あれだけ皆まわりに敵対していたと思っていた人が、こんなに会話の話題に豊富だとは思わなかった。それだけ自分が知らない間の高校時代に皆話題を入手していたのか、それとも大学に入って、人に触れ合うために自分で勉強したのか分からないが、遠藤にとって知らない間のことなので、姑息にさえ思えたくらいだ。
乗り遅れたのは自分のくせに、よく人のことが言えるものではあったが、乗り遅れたことをそれだけ気にしているということだろう。大学というところは自分から行動しないといけないところだということは聞いていたが、身に染みたような気がした。
そういう意味で、文芸サークルに入ったのは、自分にとってよかったと思う。
サークルというと、まわりも気にはしてくれるが、人とさらに関わるには、自分から接しようとしないといけない。人が自分に関わってくれるのは、あくまでも相手がアクティブな気持ちになるからで、基本的には自分のためだ。人が自分のために何かをしてくれるなどという甘い考えはしない方がいいかも知れない。
文芸サークルで、いきなりシナリオに携わったのは、少し回り道のような気もしたが、シナリオで得た知識が小説執筆に役立つことにもなった。基本は違うものではあったが、その違いをしっかり理解さえすれば、シナリオを書いた時間も無駄ではない。
理解するというのも、ただ単に何も考えていないと理解することはできなかっただろう。自分から考えて、理解しようと思わないと先に進まない。この思いが人との関係とも結びついてくると思うと、一石二鳥の感覚にもなった。
だが、天性の人と関わるのがうまいと思える人もいて、自分には適わないと思う。自分にはそんな天性のものはないと分かっているので、何とか自分から関わっていくようにしなければいけなかった。
だが、むやみやたらに絡んでしまうと、本当の友達が誰なのか、見失ってしまう可能性もあった。同じ小説執筆を目指しているやつもいて、その連中と絡むことが多かったが、その連中ばかりだと、どうしても話が偏ってしまう気がした。
もっともマンガを目指してる連中ほどヲタクではないのはよかった気がしたが、ヲタクでありながら、いろいろ知識が豊富なところが尊敬できると思う人もいて、そんな人とは関わってみたいと思うようになっていた。
大学生活の中で、文芸サークルというと、やはり暗いイメージがあるようで、文芸サークル以外で友達になった連中から見れば、文芸サークルにいるというだけで、どこか敬遠されるところがあった。
しかし、その頃にはサークル活動が自分の大学生活の中で欠かすことのできない生活の一部のように感じていたので、今度はサークルとは関係のない連中を友達として自分の中で残していく意味がどこにあるのかとさえ思うようになっていた。
遠藤は、まだその頃、小説を書く上で、どんな話が自分に向いているのかなど分かっていなかった。
小説を読むのはミステリーが多かったが、ミステリーを書くのは自分には無理だと思うようになっていた。
ミステリーというと、一番最初に考えるトリックというところが引っかかったからだ。
「ミステリーにおけるトリックというのは、ほぼ出尽くしていて、これからのミステリーはそのバリエーションにすぎない」
と言われていることだった。
実際にトリックというものが出尽くしているのは分かっていた。
「密室トリック、アリバイトリック、顔のない死体のトリック、一人二役トリック、などなど……」
トリック関係の本を読んでいると、これらの話が出てくる。
小説家によっては、
「顔のない死体、密室、一人二役」
を三大トリックとして定義している人もいるが、
「密室と、顔のない死体のトリックは、最初から読者に示しているが、一人二役トリックは、トリックを見破られた瞬間、作者の負けである」
というものであった。
その話を見て、
「なるほど」
と思ったが、トリックについての話を読めば読むほど、自分たちがこれから新たなトリックを考えることはほぼ不可能であるということを思い知らされる。
その思いがあるから、ミステリーを書くのは抵抗があった。
恋愛ものも考えたことがあったが、
「基本的に恋愛小説というものは、自分の経験から書くものだ」
と思っているので、自分には小説にするほどの、という以前に、まったく恋愛経験がないことを思うと、恋愛小説を書くのも無理な気がした。
しかも、本屋などで見かける恋愛小説というジャンルの本は、そのほとんどが愛欲と呼ばれる不倫や浮気というものを題材にした、
「ドロドロ系」
が多い、もちろん、自分に経験があるはずもなく、想像することもできないので、自分に書けるジャンルではないことは明らかだった。
では、SFはどうだろう?
SF関係も少しは書けそうな気がした。それもタイムマシンだったり、近未来の話だったりを一般的にSF小説として考えるとすると、自分にはできないこともないと思えたのだ。
図書館などでSF小説についての話を読んだりもした。ただ、日本でSF小説というと、なかなか売れていない気がしたのは、遠藤の気のせいだろうか。映画化されたり、有名なSF小説というと、どうしても海外ものだったりする。
日本でどうしてSF小説が有名にならないのかと考えたが、なかなか思いつかない。そこで気になった小説に、
「奇妙な味」
と言われるジャンルがあることをその時知った。
正確にジャンルとして確立しているわけではないが、SF風であったり、ミステリー風であったり、ホラー風であったりと、それぞれの要素を取り入れた「奇妙なお話」、それが「奇妙な味」として一種のジャンルとなっているのだが、どうしてもジャンル分けをするとするならば、
「オカルト小説」
になるのではないかと思うのだった。
「オカルト小説」というと、都市伝説のようなイメージがあるので、一番近いような気がする。遠藤は自分が書く小説には「奇妙な味」を絡めるのが一番いいように思えたのだった。
同じ奇妙なお話でも、遠藤が書く話は、ホラーに近いような気がしていた。
大学に入って、なるべく明るい性格になりたいと考えていたのに、気分だけが能天気になったことで、まわりから取り残されたような気分になってしまったことで、能天気を封印するようになった。そのせいもあって、元々の性格である暗く籠った部分が表に出てきて、それがまわりを暗く包んでいる自分に気付いた。
SF小説を調べた時、
「天体というのは、自らが光を発するか、与えられた光を反射させることで自らも光っているように見せるものである。しかし、中にはみずからまったく光を発することもなく、光を反射することもない星がある」
という学説を提唱した人がいた。
その話を見た時、
――自分がまるでその星の存在のようではないか――
と遠藤は感じた。
そばにいても、誰もその存在に気付くことはない。ぶつかったとしても、ぶつかるまで誰にも気づかれない、そんな恐ろしい星だ。
また、遠藤はこの星とは違うイメージで、まわりにまったく存在を意識させないものがあることを感じていた。それは、
「石ころ」
んぼ存在である。
石ころというのは、目の前にあっても、誰からも意識されることはない。先ほどの天体の話は、そばにあっても、目に見えないことで存在が分からないというものであったが、石ころというのは、目の前にあって、実際には見えている。だが、その存在をいちいち意識されることはないというものだ。
遠藤は、自分が見えない星のような存在なのか、それとも石ころのような存在なのか、どっちなのかを考えた。
そんな自分を小説の題材にしようと思ったのだ。そのどちらかによって内容が違ってくるのだが、遠藤はどちらなのだろうか?
もし、主人公をどちらかにすれば、他の登場人物に、もう片方を据えることで、人に存在を意識されない、それぞれのパターンを持った人物を比較するような小説になるのではないかと思えた。
遠藤は、最初の小説を、主人公に石ころのような人物を据えて、登場人物として、光を発しない人物をあてがうようにした。
登場人物だけなら、かなりのホラーになりそうな予感はあったが、なかなかストーリーが思いつかなかった。
イメージするだけで、二人とも、誰かと会話をするのは想像できない。もっともまわりに意識されることのない人物だけに、会話は却って矛盾を孕むことになるだろう。
では、この二人の間で存在が分かるのだろうか? 遠藤は分かるものとしている。分からないとストーリーが展開しないし、その二人が敵対しているものなのか、それとも協調するものなのかで、ストーリー展開も変わってくる。途中で入り組んでくるというのも一つの発想だと思うし、考えれば考えるほど膨らんでくる発想に、内心ワクワクしてくる遠藤だった。
石ころのような少年は、自分が石ころであるということを意識している。光を発しない人は少年ではなく、大人である。彼は自分がまわりに存在を知られていないという意識は石ころのような少年に比べて浅い気がした。
だから、彼は大人になるまでの自分の人生を、実に不器用なものだと思っていた。そのすべては自分の性格にあるものだとして、決して人のせいにすることはなく、すべて自分に起因していると思っていた。
謙虚な姿勢は悪いことではないが、彼に限ってはそれは致命的だった。悪だと言ってもいいかも知れない。
同じように謙虚な人ばかりが今までまわりにいた。その人たちからだけ、彼の存在は認識されていたのだ。
そういう意味では彼の存在を誰も知らなかったわけではない。そうでなければ、自覚がないということもないだろう。悩みはあっただろうが、精神に異常をきたすほどのひどいことがなかったのは、自分の存在を分かってくれている人がいたからだった。
彼の存在を分かる人には、彼が考えていることも分かるようだった。
「類は友を呼ぶ」
という言葉が一番ピッタリな気がする。
友達というよりも親友と言ってもよかっただろう。つまり彼には友達はおらず、いるのは親友だけだったというべきで、それはある意味他の人が憧れるような環境と言ってもいいだろう。
だが、本人をまわりは意識していないので、そんな人がいるということも分かっていない。
「知らぬが仏」
とはこのことだろう。
そういう意味では、世の中というのは、うまくできていると言えるかも知れない。知らぬが仏という言葉も、そういう辻褄合わせだと思うと、それなりに理解できるというものだ。
その話に色を付ける形で小説を書き上げて行った。
その話を文学新人賞の公募に応募し、最終選考に残った時が、遠藤にとって一番興奮した時期であった。
正直、
――最終選考にまでは残らないだろう――
という意識があった。
自分の中で小説として悪い出来ではなかったと思っているので、二次選考くらいは突破できると思っていたので、最終選考に残った時は興奮のるつぼだったが、これがもし受賞などしたとすれば、まるで夢のような話であるが、遠藤とすれば、まだ早すぎるという意識があった。
まだ、学生だし、ここで賞を受賞などすると、せっかくの目標を見失ってしまうような気がした。
実際に新人賞を受賞することになるのだが、気持ちは複雑だった。
受賞ということで、本人よりもまわりの方が浮足立ったようになって、そこまで浮足立っていなかったはずの自分までもがまわりに影響されているのが分かってくる。そこまで盛り上がっていなかったはずの気持ちが浮かれてくるのが分かると、自分では抑えられなくなっていた。
さすがに受賞ともなると、自分は夢のようだと思いながらも嬉しさだけは隠せない。それをまわりが煽るのだから、余計に始末が悪いのだが、自分ではどうすることもできないこの状況は、生まれて初めてのことだった。
浮足立った状態だったが、一度受賞してしまうと、
「次回作を楽しみにしています」
という言葉を聞くたびに、自分が急に不安になり、我に返ってしまうのを感じるのだった。
――次回作を期待されるんだ――
当たり前のことだが、実際にはこの作品を書くまでにある程度のエネルギーを消耗しているつもりだった。
本当はそこまではなかったが、受賞ということは、そこまでの努力が報われたのだと思わないと、自分で納得できないところがあったからだ。
よく小説家などで、
「受賞作にすべてを込めたので、これ以上の作品を書くことはできない」
と言って、次回作が売れなかった作家を何人も知っている。
実際に、
「本当に大変なのは受賞してからだ」
という話を前から聞いていたが、本当にそうなのかと半信半疑だった自分がいる。
遠藤はその言葉をその時、身に染みて感じていた。
――少し休ませてくれればいいのに――
とも思ったが、やはりそれは甘えでしかないのだろう。
新人賞を獲得すれば、まわりの目もすべてがプロとしてしか見ていない。プロになるということがどういうことなのか、まだまだ学生の彼には分からなかった。これからやっていけるかどうかという不安だけではなく、プロとしての自覚をどのように持てばいいのかということの方が大切なのに、どうしても、不安が先に立ってしまう。
結局次回作はできるにはできたが、受賞作の足元にも及ばず、半分も売れなかったのではないだろうか。
そのうちに、他の新人賞作家と同じように、作家として看板は立てているが、鳴かず飛ばずの作家としてその後を歩むことになってしまった。
もちろん、大学を卒業しても、そんな中途半端な状態で生活していけるはずもなく、アルバイトをこなしながら、細々と執筆をしていた。貧乏生活も慣れてくればさほど苦になるわけでもなく、毎日をアルバイトと執筆に費やしていた。
執筆は家でするよりも、どこかお店でやった方が効率がよかった。パソコンを持っていき、テーブル席で一人、小説を執筆する。馴染みの店もいくつかできて、日替わりという感じで、曜日ごとにいく店を変えていると言ったところであろうか。
小説を書いているうちに、
――俺は天邪鬼なんじゃないか?
と思うようになった。
馴染みの店ではあるが、店員さんと最初の頃はあまり話をしようという気はしなかった。小説に集中したいという思いがあったからで、店員さんの方でも遠藤が何かパソコンで作業をしているのを見て、仕事だと思っていたようだったので、声を掛けるようなことはしなかった。
そのうちに、店の客を観察することも多くなった。執筆中はある程度集中して書いているが、息抜きにまわりを見ると、そこでカップルなどがいると、勝手に会話を想像してみたりするのが楽しかった。
それが小説のネタにそのまま結び付くこともあるが、ただ人を観察するというのも面白いことに気が付いた。
例えば、大学生風のカップルなどを見ていると、最初は仲良く話をしているのだが、途中で女の子にメールが届き、女の子がそのメールを確認すると、急に男性が怒り出すというシーンを見たことがあった。
メールの相手が悪かったのか、それともメールの相手は関係なく、自分と話をしている最中に彼女がメールを気にしたということ自体が気に食わなかったのか。どちらとも取れる微妙な雰囲気だったが。遠藤はどちらも想像してみることにした。
メールの相手が男性で、彼女の表情に笑顔が見えたのをオトコが感じたのだとすれば、彼は彼女のそんな性格を分かっているということになる。自分の性格を彼が分かっているということを彼女は看破できていなかったのだろう。何とかしらを切ろうとしている。その様子があからさまに見えるのは、彼にとって彼女の行動が、確信犯に感じたからだろう。こうなると、売り言葉に買い言葉、お互いに罵り合うようになると、もう収拾がつかない。いつ修羅場になっても無理のない状況である。
では、相手が誰だか分からないが、彼女の笑顔に彼は怒りを向けたのだとすれば、彼女の方はたまったものではない。実際には女の友達だったとして仮定すれば、彼女には十分な言い訳をする理由がある。しかし、彼女は自分が悪くもないのに、言い訳をするなどプライドが許さない。決して自分から何かを言おうとはせず、黙り込んでしまう。
相手の男はそんな彼女に対して罵声を浴びせることはできなかった。彼としても、自分なりのプライドがあり、相手が言い訳をしたり、逆らってくればいくらでも罵声を浴びせる準備があったが、相手が何も言わないのであれば、こちらから何かをいうことはできないと思っている。
いわゆる、我慢比べの世界であった。
同じシチュエーションでも、ちょっとした微妙な時間差で、ここまでまったく違うリアクションが待っているということになるだろう。
男女の会話など、普通であれば他愛もないことであるが、そこにトラブルを持ち込むと本性が出たり、思わぬ行動に入り込んで、しかも悪いと思っているかも知れないが、後には引けない状態になってしまったりと、バラバラな状況を作り出すことになるだろう。
遠藤はプロ作家としてデビューはしたが、その後はずっと鳴かず飛ばずの生活で、プロと言うには自分でも恥ずかしいと思っている。
小説家としての仕事はもっぱら自分の作品を発表することではなく、文学賞の選考における一次選考での、
「下読み」
だったり、カルチャースクールで文章作法などを教える講師であったりというアルバイトくらいのものである。
講師といえば聞こえはいいが、ただのアルバイト、聞いている人を見ていると、
――本当にプロになりたいと思っている人がこの中にいるのか?
と思うほど、授業態度もあまりよろしくない連中ばかりだった。
――まだ、俺の学生時代の方がよほど真剣だったよな――
と感じたが、
――どうせこの中からプロになれる人などいるはずもない――
と思うと、幾分か気が楽だった。
ただ、そんなことを考える自分が情けない。そこまで考えてしまう自分が恥ずかしかった。
アルバイトはアルバイト、自分の時間は自分の時間だと思わないとやり切れない気分にさせられた。
――どうしてプロになんかなったんだろう?
そう思うと、受賞した時に感じた複雑な思いが頭をよぎった。
あの時は、
――仕事にしてしまうと、制約が強くなって、自分の好きなように書くことができなくなるかも知れない――
と思っていたのだろう。
実際に、出版社からの注文は難しいものが多かった。
「とにかく売れるモノ」
というのが何においても最優先。
作家の意志など関係なかった。
「それができないようなら、プロなんてやめるべきです」
編集者は勝手なことをいう。
――自分では書けないくせに、えらそうに――
と心の中で思うが、彼も仕事だと思うと、またやり切れない気持ちになった。
かといって、いまさらアマチュアには戻れない。またプロを目指すということはできないのだ。
プロスポーツ選手は引退してしまうと、もうプロには戻れない。それと同じである。一度筆を置いてしまうと、
「元作家」
としてしか見てくれない。
かつての作品の再販はできるかも知れないが、プロの間に再販できないのだから、辞めてしまった人間の本が再販などできるはずもない。
プロという言葉にしがみついているという意識はないが、プロをやめてしまうことへの不安はこれ以上ないというほど強いものだ。
「何事も始めることは簡単だが、終わりを決めるのが、その何倍も難しい。それは戦争しかり、離婚しかりだ」
と言っていた人がいたが、まさにその通りである。
遠藤はそのことを身に染みて感じていた。
新人賞を取ってから五年が経った頃だっただろうか。すっかり小説のジャンルも変わっていた。本格化小説がまた少しもてはやされるようになっていた。かつての名作と呼ばれていた小説の復刻版が有名書店から発行され、それが静かなブームになっていた。それまではネット小S手うや、ケイタイ小説と呼ばれるものが主流で、ライトノベルズが多かったのだが、時代は巡るというべきか、活字の本がまたもてはやされる時代が来るとは思わなかった。
遠藤の小説もどちらかというと本格派の小説であり、ライトノベルのような軽い小説を毛嫌いしていた。だが、せっかく本格小説が脚光を浴びるようになったのに、遠藤にはなかなか執筆依頼が来なかった。
「やっぱり、有名小説家ではないと、ダメなのかな?」
と編集者に聞いてみたが、
「そんなことはありませんよ。遠藤先生の話も僕は面白いと思うんですが、今はちょっと有名作家の小説がもてはやされているので、もう少し様子を見てみましょう」
と言っていた。
遠藤も、最初は、
――そうかも知れない――
と、非常に薄い発想だと思ったが、一応彼の言うことを信じてみようと思った。
しかし、考えれば考えるほど、自分に脚光が浴びる日が来るとは思えなかった。ただ、自分の作品の基本は、
「今流行っている作品」
に近いと思っていた。
復刻版のほとんどは、明治の文豪や、昭和初期の作家のものが多く、今の時代からは想像もできない世界が本というフィクションの中で繰り広げられているのが魅力となっているのだろう。
昔の作品の方が、時代背景が明らかに暗いこともあって、ドロドロしたような作品が多かった。怪奇モノであったり、ミステリーに関しても、今の時代なら活字にはできない言葉をふんだんに使っているようで、知らない時代のはずなのに、読んでいると自分が小説の世界に入り込んでしまっているような気がして、気が付けばあっという間に読破できていたりする。この感覚は今まで流行っていたライトノベルを読破した感覚とはまったく違う。ライトノベルの場合は簡単に読めるという感覚からか、読み終えてからの感動はそれほどのものではなかった。
小説を読んで、読み終えたことに感動できるのは、本格派小説であり、ライトノベルに関しては、同調できるという気持ちだけしか感じないので、読み終えてからの感動にまでつながるようなことはなかった気がした。
これが、本格派小説を読む人の感想だったのだが、出版社の方としても、今のような活字離れした人たちを相手に、敢えて本格派小説で活字化するという挑戦的なことがどれほどの冒険になるかということは分かっていたが。さすがにここまでピタリと嵌るとは思わなかった。いわゆる想定外の喜びだったに違いない。
遠藤の小説は中途半端だった。本格派小説を書きたいと思い、今復刻されたような小説を何度も読み返した。それらの小説に思いを馳せながら、自分もその時代に生きていたかのような発想を抱きながら書いていたのだ。
――発想ではなく、妄想しなければいけなかったんだ――
と遠藤は思うようになった。
妄想になると、自分が小説世界の中に入り込むくらいの気持ちになれるだろう。
そう思い、再度復刻された小説を読み返してみた。読んだ小説は、戦前の探偵小説で、前に読んだのは、確か新人賞を受賞する前だった。
他の復刻版は、数年前に読み直したのだが、なぜかその小説を読み返すことはなかった。本屋に行って、ちょうどその本が品切れしていたのではなかったか。別に取り寄せてまで読もうという意識はなく、次第にその小説を読み返していなかったということを忘れてしまっていた。
なぜ、その小説を読み返そうと思ったのかというと、一番最初に読んだ時、
――この小説は何が言いたいんだ?
と、一度読んだだけでは、小説の主旨がよく分からなかったというのを覚えていたからだ。
――近い将来、もう一度読み直してみよう――
という思いを抱いていたのを、今回ふと思い出したのだ。
この本を見つけた時、少し興奮したのを覚えている。以前最初に読んだ時も、似たような感動を覚えたのを思い出したのだが、その感動がどこから来たのかよく分からない。感動という言葉の本当の意味を考えさせられることになるとは、その時には思ってもいなかった。
その小説が書かれた時代というのは、満州事変直後くらいのことだっただろうか。日本は軍国主義が走り出すくらいの時代なので、探偵小説は国の検閲がかかるようになっていた。
下手な小説を書くと発禁になってしまったりするのだが、この小説家は当時一番活躍していた探偵小説家だったので、検閲が緩かったようである。
しかも、彼の小説は、きわどいところで検閲を逃れるすべを知っているようで、そのあたりも、人気作家になるべくしてなったと言えるのかも知れない。
彼の話は、今でも誰もが知っているような名探偵が出てくるのだが、この探偵の謎解きは実に理論的で、犯人も恐れ入るしかないのだが、この理路整然とした謎解きに勝るとも劣らずのストーリー展開が、今の時代のサスペンス性とも融合しており、当時も人気があったというのも伺える。
実際に彼の小説は本格派探偵小説をずっと目指していたのだが、まだ無名の頃は、結構エログロの世界を描いていた。
エログロの小説も時代を反映していたのか、結構ウケたりした。
時代は大正時代で、世界的に大きな大戦があり、日本は対岸の火事として、特需に沸いた時代であった。民衆はデモクラシーと呼ばれる民主化を望んでいたが、大正時代の末期には帝都を襲う大地震があったりと、世界情勢とともに、日本の政治経済は大きな打撃を受け、暗い時代へと突入していった。
そんな激動を感じさせる時代に、彼のエログロ小説はウケた。ただ本人はそれほどエログロ小説を好きにはなれなかった。自分があまり気に入っていない小説が世間で受け入れられ、人気を博したことで、その小説家は自分の中でジレンマに陥ったのか、急に休筆を発表し、放浪の旅に出たようだ。
それから一年ほどして帰ってっ来てから発表した作品が、それまで書いていなかった本格探偵小説だったのだ。
トリックや意外な犯人、いろいろ考えられるテクニックを駆使して書き上げた傑作小説は、その後の彼の代表作になった。
「ミステリーにおけるトリックというのは、もうほぼほぼ出尽くしていて、後はそのバリエーションでしかない」
と言ったのは彼だった。
しかもさらに彼がいうには、
「そのことを自覚せずに探偵小説を目指すのは、これから先、難しくなるかも知れない」
と言った。
下手をすれば盗作になりかねないので、他の人の作品も目を通しておく必要はあるかも知れない。彼は、いろいろな作家、さらには海外の作家の小説もしっかり読み、そのうちに自分独自の、
「探偵小説理論」
を提唱し、理論本を発行までしていた。
そういう意味で、ミステリー作家でありながら、ミステリー評論家としての地位も獲得した彼は、晩年はミステリーというジャンルの協会を立ち上げ、初代会長に就任したりしていた。
「日本のミステリー界の父」
と言ってもいいくらいの作家で、昭和の頃までは彼の作品は本屋に所狭しと並んでいたが、平成になった頃から読まれなくなった。
その頃というのは、テレビドラマになりそうなジャンルが多く、トラベルミステリーや、探偵以外の職業の人が探偵の真似事をするような話がウケるようになり、映像化が可能な原作本として、本屋ではそんな小説が並ぶようになった。
「時代の変化と言えばそれまでだか」
と思われたのだ。
自分の中で一つのジャンルを確立することが、有名作家になる近道だと言われる時代になってきた。本格派小説というよりも、トリックを重視した話が多いような気がして、昔からの本格派小説が好きだった人は、ミステリーから離れて行ったのかも知れない。
遠藤は、それでも昔の小説家の話をよく読んでいた。一時期、トラベルミステリーなどを読んだ時代もあったが、それは読みやすいからだった。
自分が小説を書くようになってから読むようになったのだが、それは読みやすさというものを身に着けたいと思ったからだ。
昔の小説は本格的なだけに、文章的には文学的すぎて、読みやすさという点では少し厳しい気がする。
まだ小説を書き始めた頃は、
「読みやすい小説を書かなければ」
と思っていた。
実際に新人賞を取った作品は、ライトノベルとまではいかないが、読みやすさだけはミステリーの中ではライトノベルに近いくらいだと思うものだった。
本当であれば、本人としては納得のいく作品ではなかったが、少なくとも世間が認めてくれたということで、手放しに喜んでいいものだという意識から、
――俺は、こういう路線で行けばいいんだ――
と思ったほどだった。
しかし、次回作に望む時、
「これからが正念場」
と言われると、受賞作が一体なんだったのかと感じるようになった。
優秀な作品だから評価してもらったのであって、それ以上を求められると結構難しいと誰もが思うものだろう。確かに新人賞を取った作家が、次回作があまり売れずに、そのまま鳴かず飛ばずになってしまったというのはよく聞く話だった。受賞の報告を聞いた時、手放しで喜んだはずだったのに、なぜか、一抹の不安もあったような気がした。その不安がどこから来るものなのか分からなかったが、後から思えば、次回作以降、鳴かず飛ばすになってしまう自分を垣間見てしまったのではないかと思えたのだ。
実際にその時の想像通り、次回作は散々だった。小説評論家からは酷評を受け、
――もう作家としてやっていけないかも知れない――
と思ったほどだった。
毎月のようにいろいろな出版社から新人賞や文学賞が開催され、その都度新人作家が誕生する。生き残っていけるのはほんの一部であるのは分かっていたが、受賞するまでを最初のステップと思っていても、実際には、それをゴールだと感じてやらないと、新人賞などおぼつかないのかも知れないと思うと、小説家を目指すこと自体がジレンマのような気がするのだった。
遠藤は最近まで、新人賞を受賞してから、他の人の小説を読まないようにしていた。
「自分の作風がブレるから」
というのが理由であるが、もう一つ感じたのは、
「最近、物忘れが激しい気がする」
という思いからだった。
小説を書いていても、少し時間が経てば、何をどのように書いていたのか、まったく覚えていないことが多くなった。
だから、今は毎日書いているのだが、それでも昨日書いたことがどこまでだったのか、覚えていないことが多かったのだ。
だが、それは集中力の問題ではないだろうか。
小説を書いていると、二時間くらい集中して書いていても、一段落すると、数十分くらいしか経っていないような気になるからだった。
それだけ集中していて、小説世界に自分が入り込んでいるからで、逆に小説世界に入るということは、自分が経験したことがある世界しか、創造できないという弊害も含んでいた。
これも、小説家としてのジレンマのようなものだと思っている。
執筆するには、小説世界に入り込まないと書けないという思いがあり、書けるようになったのも、自分で小説世界を創造することができるからだと思った。しかし、その小説世界にも限界があり、自分が経験したことしか創造できないと感じたのは、きっと小説世界というのが、
「夢の世界と同じようなものだ」
と感じたからだろう。
夢の世界でも同じである。
「夢というのは、潜在意識が見せるもの」
という話をよく聞くが、いくら夢であっても自分が創造できる世界でなければ見ることはできない。
ある夢で、空だって飛べるのではないかと考えたことがあり、
「どうせ夢の中だから」
と思って、断崖絶壁から飛び降りたことがあったが、その時は、一瞬にして目が覚めてしまい、
「やっぱり、夢だと空を飛ぶことはできないんだ」
という思いと、
「夢でよかった」
という思いが交錯した。
もし、夢でなければ、そのまま断崖から転落してしまい、即死だったに違いないからだった。
さらに夢の中で、空を飛ぼうと歩きながら飛ぼうとしたことがあったが、その時は宙に浮くことはできたが、思うように動くことはできなかった。まるで空中と言う海の中に飛び込んで、泳いでいるような不思議な感覚に陥ったのだ。
それは、
「人間は空を飛ぶことなどできない」
という当たり前のことを自分が信じているということであり、夢でもできるはずはないという思いがあるからだった。
それでも、夢と現実の違いとして、宙に浮くということで、何とか夢と現実の間に差別化を試みているのではないかと思ったからだった。
夢の世界と小説世界を結び付けて考えるようになったのは、文芸サークルに入ってからだった。
まだ一編の小説も書けなかった頃のことだったので、最後まで小説を書き終えることができるようになったきっかけというのが、
「夢の世界と小説世界の共有:
という意識があったからかも知れない。
夢というのは目が覚めてから覚えていないものが多い。特に楽しかった夢などほとんど覚えていない。怖い夢は覚えていることが多いので、最初の頃は、
「怖い夢しか見ることはできないんだ」
という意識だったくらいである。
だが、夢についての話は、文芸サークルに入ってから友達になった人とよくするようになった。
「俺にとって一番怖いと思った夢は、『もう一人の自分が出てきた時』だったような気がするんだ」
と、友達がいう。
「もう一人の自分?」
「ああ、さっきお前が言ったように、俺も覚えている夢というのは、そのほとんどが怖い夢ばかりなんだ、打方と言って、楽しかった夢をまったく覚えていないというわけではない、だから、楽しかった夢は見なかったのではなくて、覚えていないだけなんだって思うようになったんだ」
それを言われて、遠藤は少し考えて、
「俺は楽しかった夢を見たという記憶はあるような気がするんだけど、どんな夢なのかまったく記憶にないので、本当なら、楽しい夢なんか見ないと思ってもいいのかも知れないんだけど、実際には見ていなかったとはどうしても思えないんだ。今お前が言ったような結論に、結局は俺もなるのかも知れないな」
と答えた。
「夢って、目が覚める寸前の一瞬で見るっていう話を聞いたことがあるんだ」
と、彼は少し話を変えてきた。
「俺もどこかで聞いたことがあるような気がするな」
自分だけではなくこんな身近に同じ話を聞いたことがあるという人がいると思うと、信憑性はあるように思えるが、逆に身近過ぎて、偶然同じ人から聞いたというだけなのかも知れないと思えないこともないのではないだろうか。
話を変えようとする意志が分からないので、遠藤はまた話を戻した。
「もう一人の自分っていうのが、どうも引っかかるな」
「というと?」
「俺ももう一人の自分が出てくる夢を見たことがあるんだけど、同じようにリアルに近い恐怖を感じて、その時は一瞬にして目が覚めた気がしたんだ。さっき君が言ったように、夢が目の覚める一瞬で見るという発想は、この時に信憑性のある発想だって感じたんじゃなかったかな?」
要するに遠藤も、もう一人の自分を見るというのが一番怖い夢だったと思っている証拠だろう。
「ところで、もう一人の自分というのを何ていうか知ってるか?」
と聞かれて、最初は彼が何を言いたいのか分からなかった。
「どういう意味だい?」
というと、
「ドッペルゲンガーという言葉を聞いたことがあるかい?」
と言われて、確かに聞いたことがあったのを思い出した。
「それって、もう一人の自分を見てしまうというような話だよね?」
「ああ、そうだ。そしてドッペルゲンガーを見ると、近い将来に死ぬと言われてもいるんだ」
という彼の話を聞いて、うんうんと頷きながら聞いていた。
この話は、都市伝説の一種として聞いたことがあった。いずれは自分の小説にも題材として使ってみたいと思っていたことだったので、ネタ帳のどこかに書いていたような気がした。
「でも、それって迷信なんじゃないのかな?」
「確かに迷信と言ってしまえばそうなんだけど、ドッペルゲンガーを研究している人たちの意見を無視できないとも思うんだ」
「それは理論的だということ・」
「ああ、それに実際にドッペルゲンガーを目撃したという轢死上の人物がたくさんいることも事実で、実際にその人たちは皆若くして死んでいるんだ。自殺だったり、暗殺されたりだけどな」
「後から作った話なんじゃないか?」
本当はそうは思ってもいないくせに、認めることが怖いと感じた遠藤は、わざと否定的な意見を口にした。
「そうでもないんだ。結構信憑性もあるし、実際の理論を当て嵌めて考えると理解できない話でもない」
「そうなのかな?」
まだ不思議に思っていた遠藤に対し、
「お前も俺も、さっき夢の中で一番怖いのは、もう一人の自分を見た時だって話しだっただろう? つまりは無意識のうちにドッペルゲンガーというものが恐怖を凝縮しているように思っていると感じているからではないかな? だからこそ、目が覚めても覚えている夢がもう一人の自分を見たという夢であり、それが一番恐ろしいというのを無意識にかも知れないが感じているんじゃないだろうか?」
彼の話に次第に引き込まれていった遠藤は、その話を無視することはできなくなってしまった。
「逆に、もう一人の自分を夢に見た人が、一番怖いと思ったことで、ドッペルゲンガーという存在を作り上げたんじゃないかとも考えられるのでは?」
「それはあるかも知れないな。夢の中で一番怖いというのは、誰もがもしもう一人の自分を夢に見れば感じることなんじゃないかって思えるので、その発想は成り立つかも知れない」
「そうだね。ひょっとすると心理学的な現象や、都市伝説のようなことは、夢に見たことから来ているのかも知れないとも考えられるのではないだろうか?」
「そう考えると、夢と心理学というのは、切っても切り離せないような気がしてくるものだよね」
二人はまた少し考えていた。
彼は小説を書く人ではなかった。絵を描くことに造詣が深く、いつも不思議な世界観で絵を描いていた。
この話をする少し前に描いた絵を見て、
「これは何の絵だい?」
と聞くと、
「地獄絵図だよ」
と答えた。
確かに気持ち悪い絵ではあったが、自分が知っているようなオニが出てきたり、針の山や血の池のようなものは描かれておらず、ただ一人の男が沼のようなところに沈んでいく姿を、まわりに誰かがいるようだが、それもハッキリと分かる感じではなく、何となく視線だけを感じるような絵に仕上がっていた。
「説明されないと、よく分からない気がするんだけど」
というと、
「それでいいのさ。俺の絵は、相手に考えさせることで、俺の描いた世界に引き込む力を持っていると自分では思っているので、お前が今言ったようなことを言われると、描いた方は、作画冥利に尽きるというものだ」
と言っていた。
「俺は、小説を書いているので、絵のように見た目というものではない。いかに文章で相手の想像力を引き出すかというのが勝負だと思っているので、絵画とは違う感性ではないかと思うんだ」
というと、
「そんなことはないさ。俺も今お前が言ったようなイメージを持っている。だから一見して分かるような絵ではダメなんだとまで思っているんだ。相手に考えさせて、そこから感性を引き出せるようなそんな作品を描きたいと思っている」
「それって、ピカソやダリのような、抽象的な絵ということなのかな?」
「想像を掻き立てることが芸術なんだって俺は思っている。それは文芸にしても絵画にしても、音楽にしても同じなんじゃないかな?」
それまでなかなか芸術談議に話を咲かせることのできる相手がいなかったので、遠藤はその日は、
「この時とばかり」
に持論を隠すことなく表に出し、相手もそんな遠藤に対して盛らない話をけれんみなくしてくれたことで、お互いの気持ちが飛び交っていた。
「ところで君はどんなジャンルを書いているんだい?」
と言われて、
「さっきの持論にも関係あるかも知れないんだけど、奇妙な話を書いているんだ。最後の数行で相手に想像もしていなかったと思わせることができればいいなっていう思いからだね」
「僕も以前にそんな小説を読んだことがあった。テレビドラマで、今から数十年くらい前に流行った奇妙な話をテーマにしたショートドラマがあったんだけど、この間DVDを借りてきてちょうど見たところだったんだよ」
「そうなんですね」
「原作本はなかなか普通の本屋には置いていないので、古本屋だったり、図書館に行って読んでみたりしたけど、なかなか面白かったですよ。話としては短編が多くて、文庫本で言えば、三十ページから五十ページくらいの話が多いような気がしました」
「それだと、テレビドラマにすれば、銃後噴火に十分くらいのお話になるんでしょうね。僕も以前に見た記憶はあるんですが、ほとんど忘れてしまいました。だから僕が書いている作品というのは、その時の思い出が少しと、本当に僕の妄想のようなものだと思ってもらえばいいかも知れないですね」
「じゃあ、奇妙なお話をそんなに読んだという経験はないと?」
「あんまりないからインパクトに残ったのかも知れませんね。今お話をしているだけで、結構思い出してくるところもありました。確かにあなたのおっしゃる通り、私が読んだ作品も同じくらいの短編だったですよ」
「短編が合うんですかね?」
と彼がいうので、
「というよりも、そもそも短編というのは難しいと言われているんですよ。文字数が少ないということは、それだけ表現が制限されるからですね。私もそのことを自分で書けるようになってから痛感しました。今は長編も短編もどっちも書いていますが、短編を書いてからすぐに長編を書いたり、長編を書いてからすぐに短編は書けません。同じ小説と言っても、ジャンルの違いくらい、文字数の違いは大きなものだと私は感じています」
と遠藤は答えた。
「確かに俳句や短歌のように、文字数が最初から決まっているものに言葉を込めるというのは難しく、それだけでジャンルになっているわけですから、これは文字数に限らずですが、制限されているということは難しいということを示しているような気がしますね」
その言葉を聞いて、遠藤はハッとした気分になった。
「今、あなたがおっしゃった、『制限されている』という言葉ですが、僕が小説を完成させることができなかった頃、この言葉が頭の中に引っかかっていたような気がするんです。何に対しての制限だったのか、その時々でいろいろあったような気がするので、一つ一つを思う出すのは困難なのですが、制限があることが物事を難しくするという考え方は、確かにあったと思います」
と遠藤がいうと、
「それは絵に関しても同じなんですよ。遠藤さんは、絵画というものは、目の前にあるものを忠実に写し出すことだって思っていませんか?」
「ええ、そうじゃないんですか?」
「確かにその通りです。絵を描くという言葉に関してはそう受け取られることが多いと思います。でも、そうじゃなくて、絵を芸術の一環だと考えると、目の前のものを忠実に写し出すことだけが絵画だとは言えないと思うんですよ。時には新たなものを付け加えることもあれば、逆に大胆に省略することもある」
「あなたの場合はどうなんですか?」
「僕の場合は、まだまだ修行が足りないのか、新たなものを付け加えることはできませんが、大胆な省略くらいならできるような気がするんです。目の前のものと忠実に書くという意識さえなければ、できると思うんですよ。それが絵画におけるバランスであり、絵画の命ではないかとも思うんですよ」
彼の話はなかなか興味深いものだった。
もう少し、絵の話を聞いてみたい気がしていた。
「絵ってどうすれば描けるようになるんですか?7 小説をどうしたら書けるようになるかという質問はよく受けるんですが、絵画ではあまり聞かない気がするからですね」
「小説に比べて、絵画は感性の部分が強いのかも知れないですね。落書きのようなものでも、やっていれば、それなりに上手になることはできる。でも小説はそうではないでしょう?」
「ええ、小説は何かのきっかけがなければ、書き上げるまでにはいかないと思うんです。だから書きたいと思っている人のほとんどが、一作品も書くことができずに挫折してしまうんです」
「なるほど、子供の頃はよくマンガを自分でマネて描いてみたりしたことで、絵を描けるような気がしてきたものですが、小説の場合は、最初から自分にはできないという何かハードルを高くしてしまっているように思うんです。それが問題なのでしょうか?」
「そうだと思います。でも、僕も小説が書けるようになったんだから、絵を描くことだってできるような気がしたんですが、実際に描くことはできないでいるんですよ。自分では自己暗示のようなものではないかと思っているんですけどね」
「自己暗示というのは面白いですよね。できると思えばできたり、できないと思えば絶対にできないという感覚ですからね。そうでなければ、自己暗示とは呼ばない気がしますからね」
「その通りなんです。僕は絵を描けるようになったのも、理屈で説明できると思っています。描けなかった頃にはそんな理屈、想像もできませんでしたが、いくつかその理屈もあるんですよ」
「例えば?」
「一つは、遠近感ですね。そして次にはキャンバス上のバランス、そして、もう一つは一歩進んで、どこから描き始めるかということが大切なんじゃないかって、一番最初に感じました」
「なるほど」
「遠近感というのは大切なことで、よく絵描きの人が筆を立てて、自分の目の前に翳して、距離を測っているでしょう? それなんですが、立体感を表しているんですよね。そして、バランスというのは、例えば砂浜を描こうとした時、空と海のバランスをどれくらいにして描くかということが重要になってくる。この二つは僕の考えでは、『光と影』をいかに描くかということを示しているんじゃないかって思うんです。光があれば必ず影がある。影があるから立体感があるんですよね。それを思うと、遠近感とバランス、それが立体感を写し出し、『光と影』の世界を形成しているんだって思っています」
彼の話は、やはり想像していた以上に興味を引くものだった。
小説世界とは少し違っているようだが、明らかに違っているわけではなく、どこかに近い感覚があるのは分かった。
それにしても、彼の言った
「ないものを書き加える」
「大胆な省略」
という発想が、どこから来るのか、その時点ではよく分からなかった。
しかし、その二つを小説に置き換えてみると、自分が書いている小説にも生かせそうな気がするから不思議だった。
「なるほど、小説を書く上でも同じような発想があるのも事実なんだけど、小説の場合は、基本的には自分の思っていることをどう描いたとしても、それは自由だっていう発想があるので、ある意味却って難しいのかも知れないですね。前何かのテレビのインタビューで小説家の人が話しているのを聞いたんですが、インタビューの内容として、『以前、原稿依頼の中で、テーマを、『何を書いてもいい』って言われたんですよ。これって一番難しい話なんですよね。何を書いていいというのは、縛りがないから、逆に言い訳も利かない。後がないということでもあるんですよ』という内容だったんですが、その話を聞いて、なるほどと感心しましたね」
と遠藤がいうと、
「遠藤さんは、将棋や囲碁で、一番隙の無い手というのはどういう手だって思います?」
といきなり聞かれて、
「よく分からないですね」
と、本当は分かっていたが聞いてみた。
彼は、したり顔で話し始めた。
「一番隙の無い手というのは、最初に並べた手なんですよ。一手差すごとに隙が生まれるんです。面白いでしょう?」
「ええ、確かに」
「そこでさっきの三番目なんですが。絵画を描く時のポイントの話としてですね。どこから描き始めるかだって言いましたよね。ここに繋がってくるんです。僕の場合は左端から描いていくんですが、たぶんほとんどの人は同じだと思います。つまり、これも最初にどこに筆を落とすかで、ある程度作品に対しての思い入れは決まってしまっていると言っても過言ではない気がします。それは作品の良し悪しではなく、あくまでも作品への思い入れだと僕は思っているので、最初がすべてだとは言いませんけどね」
と言った。
――なるほど、ここに話が繋がっていくのか――
と考えた。
「話が前後しましたが、遠藤さんは、どんな奇妙なお話を書いているんですか? 少し興味がありますね」
「奇妙なお話って、それ自体はジャンルとして薄い気がするんですよ。あくまでもホラーであったりミステリーであったり、SFであったりというジャンルの中で出来上がっていくものだって思っていたんですが、描いているうちに少し違っている気がしたんですね」
「というと」
「僕が思う奇妙なお話は、他のジャンルに近づいていくのではなく、奇妙なお話の修飾として他のジャンルが存在しているように思うんです。ただ奇妙な話は曖昧な感じですから、どうしても他のジャンルに寄ってしまう。そのバランスが難しい気がしますね」
「それは、絵を描く時のさっき言った二つ目のバランスというのとどこか接点があるような気がしますね」
「ええ、そういう意味で、今まで考えたことのなかった遠近感という感覚と、『光と影』を思い浮かべることで、僕の小説も膨らみを持つのではないかと思いました。さっきの話ではないですが、確かに別の芸術ではありますが、芸術という括りがある以上、接点はどこかにあって、ひょっとすると、そこには今まで知ることのできなかった『交わることのある平行線』のようなものを見つけることができるんじゃないかって思うようになりました」
と遠藤がいうと、
「それができるようになるとすごいですよね。僕も今までに考えたことのない発想で、こうやってお話ができたのも、何かの運命を感じます」
「平行線というと、どんなに行っても交わらないということですけど、僕は似たようなもので少し違う発想を持っているんですよ」
「どういうことですか?」
「これもいくつか似たような発想があるんですが、例えば、マトリョーシカ人形というのがあるんでしょう? それともう一つは、自分を中心に、前後あるいは左右に鏡を置いた時に見える自分の感覚とでもいうんでしょうか?」
「マトリョーシカ人形というと、人形の中にまた小さな人形が入っていて、その中にまた小さな人形が入っているというような感覚のものですよね?」
「ええ、そうです。どんどん小さくなっていく感覚でしょう? そして自分の前後や左右に鏡を置くと、そこに自分が写っていて。さらに反対側の鏡には、鏡に写っている自分が写っているという感覚ですね。これもどんどん小さくなっていきますよね?」
「確かにそうですよね。そういう意味では似ていると言えますね」
「そしてどんどん小さくなってはいくけど、決してなくなってしまうわけではない。これも不思議ですよね?」
「ええ、ゼロ以外のものは何で割ってもゼロにはならないという数学の考え方に似ていますよね。これも平行線が交わらない感覚に似ていると僕は思っているんです」
遠藤は自分の考えを語った。
「遠藤さんは数学にも造詣が深いんですか?」
「僕は奇妙なお話を書いているせいか、自分のジャンルに関わるような他のジャンルに対しても興味を持つようになったんだです。最初は少し違ったところからの発想であっても、入り込んでしまうと、そこからまるでアリの穴が広がっていくような発想から、まったく関係のないと思えるところが見えてくるような気がしてくるんですよ」
「なるほど、奇妙なお話を書いていて、SFだったり、ホラーに結びついてくるようなそんな感覚ですか?」
「ええ、そうです。一つのジャンルとして確立していてもしていなくても、僕にとっては完全にジャンルなんですよ」
「まるで、こうもりのようだ」
と、彼がまた奇妙なことを口にした。
「こうもり?」
「こうもりというのは、獣にも鳥にも似ているというところから、鳥にあったら自分を獣だといい、獣に遭ったら自分と鳥だといい、うまく世の中を乗り越えていく様を『強者がいない場所でのみ幅を利かせる弱者』という意味で、使われることもあったらしいんだ。おれは、一つのジャンルをその雰囲気からどんなジャンルにでも利用することのできる奇妙なお話というジャンルを、このオオカミのようなお話としてなぞらえられるんじゃないかって思ったんだ」
と彼はいう。
遠藤は、
――少し違う気もするが――
と思ったが、こうもりのような動物に例えられることも奇妙なお話にであれば、ありなのではないかと思えた。
遠藤は最近書いた小説の中で、天国と地獄をイメージして書いたものがあった。基本的には怖いものや嫌いなものはあまり小説には書いてこなかった。夢に見たりするからだ。
だが、最近ではそんな夢に出てきそうな話も書けるようになった。その理由としては、
「夢に出てくるのは、怖い夢ばかりだ」
という意識があったからだ。
だが、夢というのは夢であることが分かっている。だから、逆に夢で見たことは、小説に書くために見る夢であるということを意識するようになると、今度は夢自体を見ないようになってきた。
だが、これは夢を見ていないというわけではなく、実際には夢を見ているのだが、見たということを覚えていないというだけのことだった。夢を見ないということは、負かい眠りに就けていない証拠だということで、最近疲れているのかと思っていたが、ひょっとすると、夢を見る見ないということを、自分でコントロールできるようになっているのかも知れない。
夢が小説をコントロールしているのか、小説が夢をコントロールしているのか、遠藤には分からなかったが、夢と執筆には大いに何かが関わっているような気がして仕方がなかった。
夢をコントロールするというのは、制限を書けるという感覚に似ているかも知れない。平行線は交わることのないものであるという発想や、ゼロでないものを何で割っても、ゼロになるということがないという発想は、一種の制限の掛かった発想なのでかも知れないと思った。
夢というのも、いろいろと言われている。
「夢というのは潜在意識がなせるものだ」
というのも、その一つである。
夢だからと言って、実際に自分でできることしかできないという発想から生まれたものであり、空を飛ぶという夢は実際に見ることができず、飛び降りたりしたとしても、その時点で夢から覚めるようなメカニズムになっているのだろう。
そういえば、この時話題に上ったドッペルゲンガーというのも、本人の行動範囲にしか出現することはないというではないか。これはやはりもう一人の自分というのが、本人の潜在意識のなせるわざだと考えることができれば、これも夢に見たのと同じような感覚だと言ってもいいのかも知れない。
また、夢の中にもう一人の自分が出てきたことがあったが、今まで見た夢の中で一番怖いと思った夢は、もう一人の自分が出てくる夢だった。ドッペルゲンガーは言葉を話さないというが、言われてみれば、夢に出てくるもう一人の自分が何かを話したのを感じたことはなかった。
それよりも、夢に出てくる登場人物は言葉を発しないような気がする。主人公である自分すら声になって話をしていたのかどうか、それすら意識がない。
新人賞を受賞した作品はホラーだったが、どこがよかったのか、自分でもよく分かっていなかった。後から書いた他の作品の方が気に入っているものもあったり、受賞までに書いた作品の中で会心の作だと思っていたものもあった。自分が書きたいものと、世間に受け入れられるものとでは歴然とした差があるのかも知れない。
ホラーと言っても、妖怪や悪霊が出てくるようなサイコホラーではない。都市伝説などのオカルトなので、怪奇とは少し違っているのだが、類似部分もある。
それは心霊現象的なものを科学的に解明しようとする説明であったり、学説を話の中に織り込むなど、心理学的な発想を持ち込んだホラーとして、奇妙な小説にエッセンスを与えていると思っている。
自分が書いてきた小説には、どこかに心理学的な要素が見え隠れしている、新人賞を取った作品は、それが新鮮な彩を与えていたのだろうが、二度三度と同じような手法を使ってしまうと、飽きられてしまうのか、編集者からの評判はよくなかった。
実際に本として出版してもらったものもあったが、パッとはしなかった。時代としては、トラベルミステリーに代表されるように、その作家の代表的な作風ということで一流作家の一ジャンルとして売れる要素になっているものもあるが、どうも心理学的な発想を小説に織り込むというのはなかなか難しいようで、二番煎じとまではいかないが、活字離れが進む中、ライトノベルやケイタイ小説などのような読みやすいものが主流となっていると、新作で本格派小説というのは、受け入れられないものなのだろう。
復刻版として再販されたものは、元々その時代の一世を風靡したものであり、復刻版であっても売れるという保証はないが、出版するに値すると思われるギリギリのものなのかも知れない。
だが、小説だけではないのだろうが、ブームというのはループするものだと聞いたことがあった。
いわゆる周期と呼ばれるもので、十年、二十年単位で訪れるものだという。小説の世界でもミステリー、ホラー、SFなど、周期を持ってブームになった。それぞれのジャンルに関わっている奇妙な話は、それぞれの時代に訪れるブームにうまく乗せれば売れ続けるものなのかも知れないが、トラベルミステリーや本格推理小説のように、同じミステリーブームであっても、ブームの年代で次回も同じミステリーのジャンルがウケるとは限らない。それを思うと奇妙な小説は、ジャンルとして、「もろ刃の剣」なのかも知れない。
遠藤は、新人賞を取ってから、次回作がうまく行かず、一応新人賞受賞作家として、プロとしてデビューするところまでは行っていた。そこから先は鳴かず飛ばずの生活なのは前述の通りで、その頃から、最初はモーニングを食べるために立ち寄った喫茶店を馴染みに、その店で執筆を続けるようになった。
なるべく毎日のように立ち寄るようにしているが、一週間のうちの一日は執筆しないようにしていた。
それは曜日で決まっているわけではなく、自分で勝手に書かない日というのを決めている。そのため、体調によっては書けない日が二日か三日になったりすることもあったが、二日以上空いてしまうと、前に何を書いていたのか分からなくなってしまうのだった。
高校生の頃までは暗記物の教科は得意だったはずなのだが、大学生の頃のどこかで、急に記憶力が悪くなったような気がした。最近ではその時期というのが、新人賞を取ったその前後だったような気がしている。新人賞を取った時のことを思い出そうとすると思い出せるのだが、そのすぐ後のことを思い出そうとすると、なかなか思い出せないなどの時系列で記憶力が左右されているような気がしていた。
小説を書き始めた時は、記憶力はまだあったと思う。
この記憶力というのは、小説におけるストーリーの記憶と、それ以外の記憶とでまったく違った感覚であるという自覚があった。
ただ、実際に記憶力が明らかに落ちたと思うようになると、どちらの記憶力も比例して悪くなっていると思えてならなかった。
小説が書けるようになった時、記憶力というよりも意識の方がどこかに飛んでしまったと思った時があった。小説には想像力が必要だと分かっていたが、想像力よりも自分の場合は妄想力であるということに気付くと、小説をどうして書けなかったのか気が付いたような気がした。
「小説を書くための要素を想像力だと思っていたことで、想像できる範囲が少なかったような気がした。ここでいう妄想というのは、
「欲望が絡んだ想像力というのとは別に、想像と同じ発音である創造も一緒に兼ね備えることが妄想だ」
と考えるようになった。
実際にホラーやオカルトを考えていると、妄想が発想を支えていると思うようになってきた。
同じホラーでもサイコホラーを好きになれないのは、ここでいうところの「妄想」という言葉と当て嵌まらないもののように感じられた。妖怪などの魑魅魍魎を妄想するわけではなく、地獄や天国などの世界を自分の中で創造する方が奇妙な話にエッセンスを振りまくことができると思うのだった。
妖怪などの魑魅魍魎は、実際に伝わっている伝説などが元になっているので、妄想というには、中途半端な気がする。自分が書く小説で何が嫌だというと、最後まで書いたはいいが、何か中途半端感が残ってしまった時が、やるせなさが残ってしまうようで嫌なのだった。
以前はミステリーやSFを絡ませた奇妙なお話を書いていたが、最近ではほとんどがホラー関係の小説になってきた。
SF小説自体は、ほぼほぼ最近はあまり書く作家もいない状況であるし、ミステリーにしても、トラベルミステリーや、二時間サスペンスになりそうな小説の原作しか書かれていない。
怪奇小説に関しては、一時期出版社からブームに乗って、
「ホラー文庫」
などが独立して発刊されたりしたが、遠藤もその頃、何冊かホラーを読み、ラストの数行でのどんでん返しのようなストーリーは、ホラーが一番しっくり来るように思えた。
それから、ホラーを中心に書くようになったのだ。
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