潜在するもの
森本 晃次
第1話 文芸サークル
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。ご了承願います。
【警告】
ラストの方で、かなりの私見が入りますが、不快な思いをされたら、速攻で読むのをやめてください。あくまでも作者の時代のことであり、作者の経験からのお話なので、よろしくです。(昭和四十年代前半くらいの話です)
私鉄とJRが平行して走 っているような中途半端な都会は、全国にいくつくらいあるのだろうか? それぞれを意識するように駅が存在し、駅と駅の間には、アーケードを要する商店街があった。今では郊外に大きなショッピングセンターができてしまったことで、すっかり商店街としての賑わいは崩れてしまったが、昔からの店もいくつか経営していて、何とか踏みとどまっているというところであろうか。
しばらく行かずに、久しぶりに足を踏み入れると、かなり店が入れ替わっていて、
「まるで違う商店街に来てしまったのではないか」
と思うような佇まいになっていて、拍子抜けしてしまうことであろう。
しかし、今ではそんな光景も日常茶飯事となっているので、特に若い人は意識はしないだろうが、昔ながらの商店街の賑わいを知っている人には、一抹の寂しさが忍び寄っていることだろう。
昼間であっても、いくつかの商店が店を閉めていて、中には新装開店の準備をしているところもあるのだろうが、空き店舗の貼り紙が張られたまま、テナントがつかずにずっとこのままというところもあるようだ。
「すべての店が開店していて活気に溢れていた時代は、今からどれくらい前だったことだろう」
と思わずにはいれらない。
時代は遡り、年号が昭和にまで行かないと、過去を振り返ることは無理なのかも知れない。
ざっと考えても三十年にはなるだろうか。時代はとにかく賑やかで、
「眠らない街」
と言われる街が結構あったくらいだ。
会社でも、従業員が残業残業で終電に遅れれば、タクシー帰宅や、ビジネスホテルでの宿泊も会社からお金が出て、残業手当もある程度支給されていた時代だった。やればやっただけ報酬がもらえるのだから、社員も仕事に従事した。そんな時代だった。
夜の街も賑やかで、同じ街でも、表通りが夕方まで賑やかであれば、夜になると、裏通りが、ネオンで賑やかになる。客層は全く違うが、賑わいは相当なものだった。ただ、働きすぎという意味や、治安という意味では問題がなかったわけではないが、それでも活性化した世の中だったので、それ以上に活気に溢れた世の中は、その後の時代から見れば、やはり羨ましいくらいの賑やかさだったのだ。
その後は文字通り、
「バブルは泡となって消えた」
と言われる通り、弾けてしまうと、襲ってくるのは、大不況だった。
企業の方向性はもちろんのこと、個々の社員の働き方も、それまでとまったく違ったものになってきたのだ。
バブルの頃は、少々の消費があっても、生産がそれ以上にあったので、生産を伸ばすということが最優先だった。しかし、バブルが弾けてしまうと、それまでは、
「聖域」
とまで言われて大手金融機関ですら、破綻してしまうという、信じられない光景を目の当たりにすることになった。
給与は軒並みダウン、賞与さえ支給されればいいというくらいになっていった。企業は生産よりも経費削減に活路を見出し、従業員カットという「リストラ」という言葉が囁かれ出したのもこの時代からであった。
企業は生き残るための手段として、
「大手企業同士の合併」
などが進んだ。
中小企業は、大手企業の傘下に入らなければ生き残ってはいけない。それまで競合他社とされてきた。その業界のベストスリーに入っている会社が合併するなど、それまでであれば考えられないような状況が続くことになる。
働いている人たちの生活も大きく様変わりした。
リストラの名のもとに解雇された人も多かっただろうが、解雇されなかった従業員には、残業してはいけないなどというお達しが出る。しかし、企業は採算の取れない業務を手放すなどの企業努力があって、会社での仕事も縮小されたが、それと同時に従業員は減り、さらに残業をさせてもらえないのであれば、当然、仕事量は増えてしまう。電気代の経費をなるべく掛けないように、残業申請もできずに、サービス残業と呼ばれるものも横行していたことだろう。
だが、それでも大半の社員は、定時に帰ることになる。そのおかげで、一種のサブカルチャーというのが流行った時代でもあった。
今までは、
「お金のために残業に勤しみ、それだけの報酬がもらえたことで、仕事が生きがいとなっていた」
という人が多かったのだが、今度は残業しても、手当は支給されず、会社や仕事に楽しみを求めることなどできるはずもなくなった。
そうなると、定時に家に帰ってもすることがなく、お金ももらえないので、呑みに行くとしても、すぐに資金が底をつくだろう。
その頃から、いろいろな趣味を生かすための産業が流行り出した。
絵画教室であったり、料理教室のような、趣味で人とのコミュニケーションを取るようなアフターファイブにおける産業である。
そもそも、アフターファイブなどの言葉が生まれたのも、この頃からではなかっただろうか。
「五時から男」
などという言葉も生まれた。
そういえば、バブル全盛期の昭和の末期といえば、
「二十四時間戦えますか?」
などという言葉で代表されるビジネスマン向けに、スタミナドリンクが販売されていたっけ、そんな時代を懐かしいと思う人はいたのかどうか、聞いてみたいものだった。
やはり趣味と仕事には一線を画すものであるということを教えるきっかけになったのもこの時代だっただろうか。サラリーマンだけではなく、今までの専業主婦の生活も結構変わってきた。その一つが、企業が生き残りをかけて考えた、
「非雇用者」
を雇い入れることであった。
いわゆるバイトやパート、のちに主流となってくる派遣社員という存在である。
パソコンなどの普及により、それまで手書きなどで行っていた正社員の作業と言われる部分を、パートや派遣社員にさせることで、経費を抑えようという考えだった。そういう意味で正社員のレベル向上という意識には繋がっていくことになるが、パートや派遣の就業時間帯で賄えなかった作業は、結局社員に戻ってくるので、社員としては、パートや派遣社員の能力を把握しておかなければ、自分が苦しむことになり、自分のペースで仕事ができないという大きな弊害を招くことにもなった。
一気に社会構造が変わってしまったので、なかなかついていけない人たちの中には脱落していく人も少なくなかっただろう。
リストラに遭う人もいれば、自分から辞めていく人もいる。四十歳代あたりの中間管理職の人が結構やめていくのもこの時代の特徴ではなかったが。
しかし、二十代中盤くらいの人間も悲惨だった。バブルが弾ける数年前に入社した連中は、いわゆる就職活動において、
「売り手市場」
と呼ばれた時代だった。
企業側が優秀だと思った社員の抱え込みに入った頃もあって、優秀と思える人は、大手企業を数社受けて、すべて内定をもらうなどということも少なくはなかった。
企業はそんな優秀な社員を、ライバル会社に取られたくないという目論見から、新入社員の抱え込みに入る。
内定してから入社するまでに、いろいろなサービスを試みる。入社前の研修という名目で、海外旅行をさせてみたり、あの手この手での抱え込みに走っていた。
そのうえ、入社承諾書にサインをさせて、抱え込むのだが、そんな彼らが数年後には、その時の企業のトップもまったく想像もしていなかったバブルの崩壊という未曽有の不況に見舞われて、社会構造が変わってしまったことを自覚すると、その時に大量に入社させた社員が、邪魔になってきたりする。
もちろん、幹部候補のような本当に優秀な社員は別だが、中途半端な社員は、そこでリストラの対象にされてしまう。
「入社する時は、ちやほやしといて、首を切る時はこんなに簡単だったとは」
と感じた若手社員も少なくはないだろう。
それだけ社会構造の変化は、高速だったということであろうが、今の人はそんな時代を知っている人も少なくなってきていることだろう。
それでも、その頃に生まれた社会現象が今も残っているというのは、あれから、あの時ほどの大きな社会変化が訪れていないということではないだろうか。バブルが弾ける前の三十年前というと、ちょうど高度成長時代。その後にも不況が襲ってきたが、日本人は知恵で乗り越えた、バブル崩壊も時代の流れに逆らうことなく乗り越えてきたと言えるかどうか、歴史がどう証明しているのか、誰が分かるというのだろうか?
趣味を商売にした商法は、結構当たっていたようで、アフターファイブには、資格を取りたい人や、趣味を通じて、今まで知り合ったこともなかったような人と知り合えることなどが受けたのだろう。サラリーマン以外の主婦層にも普及していたようだ。
実際に、今まで仕事で遅かった旦那が、早く家に帰ってきて、家族団らんの食事を摂ることができるのが嬉しいという正統派な家庭ばかりではなく、せっかく、旦那がいない毎日に慣れてきたのに、いまさら旦那が早く帰ってくるなど、鬱陶しいと思っている家庭も多かったに違いない。せっかく自分のペースで毎日を過ごせていたのに、旦那が帰ってきてから、いまさら大黒柱面されても迷惑だと思ったことだろう。
社会だけではなく、学校でも苛めの問題などが深刻になり始め、家庭崩壊が切実な問題となってきたのも、この時代だっただろう。趣味という名目で、旦那も奥さんも表に出ることができれば、家庭崩壊であったとしても、変なストレスはたまらずに済むというものだ。
そんなカルチャーの中には、今までは高根の花であり、プロになるのは至難の業だと言われていた趣味であったが、いろいろな教室ができる中、社会から、
「受け入れられるかも知れない」
と思わせる事業も出てきた。
その一つに、
「小説家への道」
というものがある。
小説家になるためには、それまでであれば、手段は限られていた。
一つは、これは今でも一番の主流として残ってはいるが、出版社系の新人賞や文学賞を受賞することである。もちろん、それ以外にも新聞での募集や、歴史上でも有名な作家を輩出した市町村などが主催する、有名作家の名を拝した文学賞などの募集もあったりする。
そのような文学賞や新人賞に入選すれば、賞によっては、次回作を保証される場合もあったりする。そういう意味では受賞が登竜門となり、小説家への道が開けたりするものだ。
もう一つのパターンとしては、いわゆる、
「持ち込み原稿」
というものである。
出版社の編集長にアポイントを取り、原稿を持参するというやり方であるが、これはほぼ無理というものだ。いくら小説家志望が少ないとはいえ、一日に数人くらいは持ち込む原稿を持ってくる人がいる。編集者は自分の仕事でも手一杯なのに、そんな持ち込みの時間を割くことなどできるはずもない。下手をすると、持ち込みの際の時間さえ、実にもったいないと思っている編集者も少なくはないはずだ。
ほとんどの場合が、開封することもなく、そのままゴミ箱である。現代のように個人情報にうるさくないので、簡単にゴミ箱に捨てられていただろう。中にはそれを垣間見た、ネタ作りに窮しているセミプロ作家が、ゴミ箱から取り出し、自分の作品として売り出すということもなかったとは言えないだろう。
もちろん、そんなことを知らない持ち込み者は、似たような作品があるとしても、まさかそれが元は自分の作品だとは思っていないはずだ。編集者がちゃんと見てくれて、処分にもシュレッダーを使用してくれるものだと信じ込んでいることだろう。
つまりは、昔であれば、少々の努力では、プロへの道は本当いいばらの道であり、ほとんどの人は、すぐに挫折していたことだろう。
だが、バブルが弾けてからの趣味への趣向の激しさが、各業界の体勢を変えた。つまりは、小説家への道だけに限ったことではなく、他の道にも似たようなことが増えてきたと言ってもいいだろう。
趣味を模索する人たちが、ある程度落ち着いた頃くらいだっただろうか、新手の商法が現れた。小説家を目指す人に、光を当てるという意味で、結構話題にもなったりした。
小説家になるのにネックなのは、
「いくら小説をしっかり書いたとしても、読んでもらえない」
ということであった。
確かに有名出版社系の新人賞では、応募原稿を読まずにゴミ箱にポイ捨てなどということはないだろう。しかし、受賞までにはいくつもの審査があり、その都度、審査する人が違っている。
一次審査、二次審査、三次審査、最終選考くらいが一般的であろうか。雑誌に載っている応募要項には、審査員の写真や氏名が記されていることが多いが、それら有名作家が初めて応募作品に目を通すのは、最終選考だけの場合はほとんどである。
一次審査などは、いわゆる、
「下読みのプロ」
と呼ばれる人が読んでいる。
彼らは売れない作家だったり、アルバイトだったりで、一日にいくつもの応募作品を読まされる。選考基準としては、
「小説として体裁をなしているか?」
ということがほとんどで、読んでいて違和感がないか、あるいは誤字脱字がないか。あるいは同じ言葉を何度も使っていないかなどの基本的なところしか審査しない。
だから、いくら優秀な作品であっても、ちょっとした誤字があっただけで、その時点で落とされる。確かに小説家たるもの、誤字脱字はダメなのだろうが、審査の段階で、まずはそれだけしか見ないというのはいかがなものだろうか。そういう意味では、有名編集者の応募と言っても、あてになるものではないと言えるのではないだろうか。
小説家になりたいという人はその時、実際にかなり増えていた。文章を書いたこともない主婦や、学校で文章校正など勉強したこともない連中が書くのだから、それこそ、文章の体裁をなしていないものも多かっただろう。それを教えるのが文章教室、どこまで教えてくれるか分からないが、入門編は、本当に体裁を整える程度のことしか教えてはくれなかったに違いない。
ちょうどその頃だっただろうか。テレビドラマで、ある作家志望の女の子が、出版社に原稿を持ち込んで、彼女が帰ってからすぐに、
「こう毎日じゃあ、相手するだけでやってられないよ」
という相手をした編集者の愚痴とともに、せっかくの原稿が、ボミ箱行きになるというシーンを写したドラマがあった。
その後は、見るのも嫌で見ていなかったが、そんなシーンを見せられると、さぞや当時であれば、小説家になろうなど、夢のまた夢だったということを証明したようなものだった。
――ひょっとすると、その後のこんな時代を予見して、わざとあんなドラマを作ったのかも知れない――
と思ったほど、バブルが弾けてからの新手の商法は、注目を浴びることになる。
作家になりたいと思っている人も、今までは、あまりにも敷居が高すぎて、文章を書くということだけで挫折して、実際に目指す人は一握りしかいなかっただろう。
しかし、それでも教室に通ったり、通信講座で添削を受けたりして、少しはまともな文章力を身に着けた人が作家になるには、もってこいと思われる時代だった。
時間はたっぷりあるサラリーマンやOLであれば、五時から帰って、食事と風呂さえ済ませれば就寝までの時間は自由に使える。執筆にはちょうどいい時間であった。
最初は、一日三十分くらいから始めれば、次第に時間を延ばしていって、二時間、三時間と書けるようになれば、書くことへの抵抗はなくなってくる。根気よく続けていれば、どんなに困難だと思っていることであっても、できないことはないという自信にもなってくるのである。
小説を書くというのは、根気のいることであるが、趣味として気楽にたろうと思えば、いくらでも書き続けることはそう苦難なことではない。自分で苦痛だと思いさえしなければいくらでも書けると言ってもいいかも知れない。
文章が書けるようになりさえすれば、後は見てもらえる人がいれば、さらに上達もするというものだ。
それまでであれば、作品ができれば、その評価は応募しかなかった。しかし、応募して万が一にも入選でもしない限り、選考に関してはまったく非公開である。
賞によっては、二次審査通過、三次審査通過と通過者の名前を公表してくれるところもあるが、小さなところではまずそんなことはない。入賞、入選者の名前と、入賞者の作品の評価が書かれている程度で、自分がどこまでいけたのか、まったく分からない。
二次選考、三次選考に残ったと公表された人も、作品の評価はまったくされない。合否という結果だけで一喜一憂するだけであるので、当然自分の実力がどれほどのものだったのかなど、分かるはずもない。
そういう意味でも、小説家を目指す人が少なかったのも分かる気がする。
まず、文章が書けるようになるまでのハードル、そして選考に残るというハードル。それらを超えないと入選などおぼつかないのだ。
しかし、落選してしまうと、何のどこが悪いのかなどまったく分からない。そうなってくると、選考自体も怪しいと思われても仕方がないだろう。
「選考に関してもご質問は一切承りません」
という但し書きを書いている応募がほとんどで、これほどブラックなものもないと言えなくもないだろう。
そんな状況で、新手の商法が出現した。それは、
「自費出版系の出版社」
というもので、普通にいわれている自費出版というのは昔からあった。
趣味で書いた小説を、出版社と印刷会社が、見積もって本にするというもので、あくまでも、趣味の世界でしかなかった。
自分史だったり、散文だったりするものを、老後の趣味として、知り合いなどに配るというもので、ある種の自慢と自己満足というだけのものだった。退職金をそれに充てる人もいたことだろう。それでも自分で本を出すのだから、気分はそれなりによかったに違いない。
ただこれはあくまでも趣味の世界だ。実際にプロとしてデビューしたいと思っている人には物足りないものだ。そこで登場したのが、新たな発想を供えた「自費出版系」と言われるものである。
いくつかの会社が一時期はあったのだが、新聞や雑誌の広告として、
「あなたの作品を本にします。原稿をお送りください」
と書かれている。
そして、その後に書かれている言葉に興味を持つ人も多いのではないだろうか。
「結果を批評とともにお返しいたします」
と書かれているのだ。
今までであれば、持ち込みした場合など、作品の評価はおろか、見もせずにゴミ箱行きだったことを思えば、少なくとも見てくれて、しかも評価を添えて返してくれるというのだから、それだけでも、今までにない画期的な発想であることは伺える。
さらに、この商法の目玉と言われるのは、出版方式を三段階にランク分けしていることだった。
まずは、作品を読んで、出版社が費用を全額出してもいいというほどの優れた作品には、まるでプロ作家のような待遇で、全額出版社が負担し、さらには既定の印税も支払うというものである。それを「企画出版」と言ったりしていた。
そして二段階目は、優秀な作品ではあるが、さすがに全額を出版社が負担するほどのリスクは負えないので、本を出す場合には、筆者と出版社が共同出資という形で本を出すというものだ。その場合、著作権は筆者にあり、売れれば印税は筆者に入る。そして発生する費用としては、製本に掛かる費用、さらに宣伝に使う費用、その他もろもろだという。したがって。本を出した場合の宣伝も出版社が担うということになっているので、少々高額でも、本を出したいという人もいるだろう。これを出版社では「協力出版」だったり、「共同出版」という形で評している。
三段階目は、いわゆる今までに言われている自費出版で、趣味で出したい人の応援をするというものであった。
原稿をさっそく送ってみると、しばらくして、出版社から返事が返ってくる。作品に対しての批評、そしてどの出版で行くかの出版社側の判断、そして、それに掛かる費用の見積もりなどである。
批評に関しては、結構細かいところまで論じてくれている。表面だけを斜め読みしていただけでは決して書けないようなレビューを書いてくれているのだが、そこで一つ気になったのは、いいことだけではなく、ちゃんと直すべきところも書き加えてくれているということだった。いいことばかりしか書いていないものは、どうも信用できないという人もいるだろう。悪いところをどのようにすればよくなるかということまで書かれていると、胡散臭いと最初は思っていても、信頼できると思い返すことに繋がるというものだった。
そして、三つの選考の結果であるが、まず限りなく百パーセントに近い確率で、「協力出版」を言ってくるはずだ。
いきなり企画出版などありえるはずもなく、そこはさすがに出版社、シビアに協力出版を申し出て、しっかり見積もりまでも綺麗に完成させて送ってくる。一つだけではなく二つ以上の見積もりがあるのも、出版社が真剣に考えている証拠だと作者に思わせる手段なのかも知れない。
そういう意味では、作家の心理をうまく掴んだやり方だと言えるだろう。
今まであれば、見もせずにゴミ箱行きのところを、しっかり批評してくれて、しかも、悪いところを隠すことなくアドバイスしてくる。これは十分作家に対して敬意を表していると感じさせるものであって、ここでコロッと騙される人も数多くいたに違いない。
しかし、これは実は結構胡散臭い商売であった。
作家の心理をうまく掴んではいるが、よくよく考えてみて、全体を見渡すと、実に怪しく、
「突っ込みどころ満載」
というべきであろうか。
何しろ、お金の流れと、商売を全体的に見れば、見えてくるものはたくさんあるからである。
全体を見渡すと、これが一種の自転車操業であることは火を見るよりも明らかなことである。
まずこの商売で一番大切なことが何であるかを考えれば分かると思うが、何が大切かというと、
「本を出したいと思っている人をいかに獲得するか」
ということである。
会員制の会社で一番大切なことが会員募集であるのと同じ感覚である。
つまり、すべての始まりは「募集」であり、その募集のためには、広告を打って、いかに宣伝するかということである。小説を書きたいという人が急増し、それまですぐに諦めていた、
「本を出したい」
という夢に少しでも近づけるのであれば、作家になりたいと思っている人だけではなく、ただ、一冊でもいいから自分の本を出したいと思っている人がいれば、このやり方さえ表に出していけば、自然と興味を持つ人が増えるというものだ。
そういう意味での宣伝費は、一番の支出である。新聞、雑誌などにどんどん広告を出して、興味を持ってもらう。そして、書いた原稿を埋もせることなく世に出すことができるかも知れないと思えば、趣味の段階で終わらせたくないと思っている人が多ければ多いほど、飛びつきやすくなってくる。
そのためには、現行投稿者を安心させなければいけない。今までの持ち込み原稿とはまったく違うということを示すため、送ってくれた作品を批評して返すということで、原稿を送付してくれた人に信頼感を与える。
それには、原稿を読んで、批評できるだけの人材をたくさん抱え込んでおく必要がある。その人たちはひょっとすると、大手出版社が新人賞選考のための一次審査で使っていた、いわゆる、
「下読みのプロ」
という人たちなのかも知れない。
彼らも、売れない作家のアルバイトとして臨時で雇われていたとすれば、いくら新興とはいえ、これからの出版業界を担うかも知れない会社の社員になれれば、自分の安定も目論める。
そうなると、出版社としては、彼らに対しての人件費も莫大な費用となるのではないだろうか。
そして、実際に出版するための製作費用である。これは安価な業者を雇えばいくらでもなんとかなるものである。さらに忘れてはいけないのが、在庫を抱えるための倉庫の賃貸料なども、実際には問題になってくるのだ。
これらの費用を捻出するのは、作者が供出してくれる「共同出版」における費用収入である。
実際には、千部からなる本を製作するのだから、百万はくだらないだろう。それを作家の人から募るのだから、人が増えなければ意味もない。
だが、実際の会社の支出はハンパな経費ではない。応募者全員が本を出すわけではなく、本当に出そうと思うのは、それでも一部の人だろう。
一般市民に趣味に毛が生えたほどのことに、ポンといきなり百万以上のお金を用意できるはずもなく、人に借りたり、老後の趣味と考えていた人にとっては、退職金からの捻出だったりすることだろう。
出版社側もただ募っているだけでは、増えるにも限界を感じたのか、いろいろな施策を打ってきたりしている。そのいい例としては。出版社オリジナルでのコンテストを催して、たくさんの原稿を募ることで、分母の数字を上げることで、絶対的な出版を目論む人の数を増やそうと考えた。
実際にコンテストというのは結構うまい考えだったようで、一般の有名出版社への応募が数百程度なのに、こちらの応募となると、数千から、一万にも届こうというほどの盛況ぶりだった。
そんな応募者の中から、
「あなたの作品は優秀です。しかし、企画出版に踏み切るには、今一つ足りていません。もう一息なのですが……」
などと言われれば、気持ちもぐらつくというものだ。
「今、ここで出資して本を作っておけば、それを見た人の目に留まって、本が売れるかも知れません。何もしなければ、何も生まれません。今が決断の時です」
と、さらにとどめを刺されると、その気になる人も多いことだろう。
作家からすれば、小説を書いて、応募するまでが本当の闘いなのだが、出版社からすれば、応募の中から、いかにカモを掴むかということが重要なことなのだ。出版社を擁護するわけではないが、彼らも必死なのである。
ただ、こんなやり方でまともな商売ができるはずもない。きっよ会社内でもノルマなどの束縛が激しく、パワハラめいたものが渦巻いているのかも知れない。さらに人件費削減の観点か、作品を読破し評価する人間が、営業も兼ねているなどの多重業務があるとすれば、それは結構なストレスになるだろう。
実際に、原稿を送り、評価してくれた人が自分の担当ということになり、製本までをサポートすることになるという。一人を担当するだけで大変なのに、複数の人間を相手にしているはずなので、それだけでも大変なことであろう。
これはウワサではあるが、ある程度信憑性のある筋からの話なので、信用してもいいのではないかと思っている。その内容というのは、作品を応募した人と、その担当になった人との会話であるが、要約すれば次のようなものだった。
そのアマチュア作家は、今までにも何度かその出版社に原稿を送り、その都度、「協力出版」を言われてきた。今回はコンテストの応募作品になるが、同じようにまた「協力出版」を申し込まれたという。
最初に協力出版を言われた時から自分についたその担当者が、ずっと自分の作品を評価してくれ、担当として対応してくれている。アマチュア作家のその人も、
――出版社も大変なんだ――
という思いを抱いていたので、少々気になることでも、なるべく目を瞑るつもりでいたという。
しかし、実は最初から見積もりに関しては存分に疑問を抱いていた。
それというのも、協力出版だという前提で、定価千円で販売するという本を、ロット千部の印刷だという。この場合、定価としては全額で百万円が発生するわけだが、見積もりの中で、著者に割り当てられる金額は、何と百五十万円だという。
「定価よりも高い出資費用というのはどういうことですか? 協力出版なんですよね?」
と訊ねると、
「ええ、でも、それ以外にも国会図書館や、大手書店に一定期間置いてもらうために掛かる費用なんです」
と、明らかな言い訳にもならない言い訳に、心の中で、
――それも含めての定価なんじゃないの?
と言いたかったが、とりあえず、納得したが、当然のことながら、協力出版などする気にもならず、その時はスルーした。
元々、そんな大金あるはずもなく、もし本を出すことができたとしても、絶対に売れるという保証などあるわけもない。それを思うと、不信感だけが先行する形にはなったが、
「せっかく、批評してくれているんだから、それを利用しない手はない。さらに万が一にも企画出版などになれば、儲けものだ」
というくらいに考えていた。
実際、何度応募しても、回答は同じ、まるでデジャブを見ているようだったが、相手も同じことしか言わない。
コンテストに応募し、
「数千の中から一部の人しかいない協力出版に当選しました」
と言われたが、それまでの不信感から、言葉の薄さしか見えてこなかった。
――きっと、初めて応募した人には、この言葉がすごく魅力的に見えるんだろうな――
と感じた。
確かに。バブルが弾けて、小説を書きたいと思う人は爆発的に増えた。しかし、そのうちのほとんどは文章作法という最低限のことすら守れていない人が多いのではないかと思えた。
――そんな人にまで、協力出版を要請しているんだろうな――
と思っていた。
コンテストの作品に対して、担当から連絡が入った。
「いかがでしょう? そろそろ協力出版をされてみては」
といつもの口調で言ってくる。
――またか――
と、半分ウンザリしながら聞いていたが、相手もその時は引き下がらなかった。
「今、出版して大手書店に並べば、人の目に触れることができます。しかし、何もしなければ、それで終わりなんですよ。それはもったいない」
と言ってくる。
「いいえ、お金がないので、私は企画出版ができるようになるまで、書き続けるつもりです」
というと、相手の語調は、明らかに変わった。
少しハスキーな低温になり、恫喝すら感じられる言い方で、
「今までは、私が編集会議であなたの作品をずっと押し続けてきたから、協力出版という道が開けていたんです。ですが、それも限界で、次の編集会議からあなたの作品を推すことはできなくなるんですよ。これが最後のチャンスなんです」
と言ってきた。
――それ来た――
と思い、こちらも、
「いえ、それでも背に腹は代えられませんから、企画出版を目指します」
というと、
「他の人は、親や知人から借りてでも、本を出していますよ」
と言われたので、さすがにその人もキレたようだ。
「私に借金しろと?」
というと、
「そこまでは言いませんが、これが最後のチャンスだと言っているんです」
「だから私はいい作品を書くことを目指して、企画出版を目標にすると言ってるじゃないですか」
というと、完全に相手は本性を表した。
「それは正直に言って無理です」
と言い切った。
「どういうことですか?」
と聞くと、
「企画出版というのは、出版社が全額を負担しなければいけないので、確実に売れるという作品でないと、企画出版はありません。例えば筆者が芸能人のような著名人であったり、筆者が犯罪者だったりという話題性がないと、百パーセントありません」
完全に言い切ったのだ。
さすがに、筆者の方もこれを聞いてキレたようだ。
「それが、お前らの本音なんだな」
「ええ、そうです」
「じゃあ、もうお前のところに原稿は送らない。それでいいだろう」
と言って電話を切ったらしい。
この会話を聞いて、この業界が完全に見えた気がした。
今までの小説家志望の人が狭き門だと思っていた門を広げることでうまい商売を思いついたということなのだろうが、やっていることは完全な自転車操業、さらに社内でもブラックな部分が多く、いわゆるブラック企業でもある。
さらに、協力出版と言いながら、あたかも綺麗に作成された見積もりを見せることで、精密に計算された費用だと相手に思わせる。いわゆる詐欺商法と言ってもいいだろう。
一時期、狭き門をこじ開けたことで、作家志望の人がたくさん協力出版に応じ、有名出版社よりも多い出版数を誇った時期もあったが、出版社の広告が目につくようになってから数年という実に短い期間で、この業界はすたれていった。その過程は次のようなものであった。
出版社の言い分としては、
「一定期間、有名書店に陳列されます」
という触れ込みだったが、協力出版に及んだ人が実際に有名書店に自分の本が並んでいるのを調査したようだ。
それはそうだろう。大半の人が借金をしたり、前借などで工面したなけなしの大金で、出した本である。有名書店に並んでいるということで、少しでも作家気分を味わいたいと思うのも当然のことであろう。
しかし、どの書店を見ても、自分の本はおろか、この出版社から発行された本を見つけることはできなかった。さすがに単独のコーナーまでは難しいかも知れないと思ったが、少なくともどこかにはあるだろうと、ずっと探し回ったが、やはりない。
似たような気持ちの作家はたくさんいた。彼らは本屋で出会ったのか、どこかで情報交換をして、分担で見回ったが、どこにも置いていない。他の地域の知り合いにも大手本屋を見てもらったが、
「どこにもない」
ということしか聞かれなかった。
こんな状態が一人や二人であれば、そこまで問題にならなかったが、数人が集まると、問題は大きくなった。弁護士事務所の門を叩き、相談してみたりする。きっと弁護士の先生からは、
「これは詐欺の疑いがある」
とでも入れ知恵されたのだろう。
まあ、実際にそうなのだが、そうなると、誰かが発起人となり、連名で出版社を契約不履行で訴える。
それが地域単位であってもニュースになると、他の疑問に思っている人も他の地域で同じような訴訟を起こす。
そうなると社会問題となった。
考えてみれば、大手書店に一定期間置くなどありえないことだと、冷静な判断力があればできたはずであった。
有名書店からでも、一日に何冊の本が出るというのか。
全国にはどれだけのプロ作家と呼ばれる人たちがいて、その人たちですら、自分の本を出すのが難しい時代である。本当に有名な作家が本を書いて出版するとして、一日に何冊も発売されるのだ。そうなると、協力出版などで一日に何十、いや多い時には何百冊という本が発行されたとしても、無名の作家の本を置くなどありえないだろう。
しかも、出版社も大手ではなく、一部の作家志望の人しか知らないような無名の出版社である。そこまで考えれば、有名書店に自分の本が並ぶなどありえるはずはないだろう。
裁判でどう判決が出るか以前に、裁判沙汰になったというだけで、大きな企業のイメージダウンである。
自転車操業のすべての始まりは、
「広告を元にした本を出したいという人の獲得」
である。
これは作家にもリスクがあるので、こんな信用のできないところから本を出そうなどと思う人はどんどん少なくなってくる。そうなると、自転車操業は回らなくなり、すぐに破綻してしまうのは明らかだった。
本を出したいと思い、製本に掛かってから実際に本ができるまで、かなりの時間が掛かるだろう。破綻をきたした時には、まだ契約をしていない人はいいのだが、本を出すという契約をして本を出していない人は中途半端な状態だった。
さらに本を作った人、彼らも千部単位で作っている。実際に本屋に並ぶことはないのだから、そのすべてが出版社の「在庫」となる。万が一本屋に並んだとしても、一日か二日で返品されてくるのが関の山。そうなると、発刊したすべての本は大量の在庫になっていた。
宣伝費を絞ったとしても、社員に対しての人件費、さらに事務所の家賃など、そして在庫の山の保管費用。それらすべては毎月発生しているのだ。
経営不振は一気にそのまま破産へとまっしぐらであった。
その際に割を食ったのは、債権者である。
製本製作を請け負った印刷会社への支払い、家賃や在庫の保管費用などが、割を食う。
さらに問題になったのは、本を出した人と、これから本を出す人だった。これから本を出す人はもうこの会社からの出版は叶わない。しかも、払った費用が戻ってくることはない。本当に踏んだり蹴ったりだった。
また本を出した人も、山になっている在庫をただでもらえるというわけではない。
「定価の二割引きにて、引き取ってもらうことは可能」
だというのだ。
「こっちはお金を払って出した本なんですよ」
と文句をつけても、弁護士からは、
「引き取ってもらえないと、廃棄するだけです
という事務的な返事しか返ってこない。
要するに相手の弁護士側は、出版社の利益しか考えておらず、一作家がどうなろうと関係ないのだ。相手の心理を逆なでするだけで結局はどうにもなるものではなかった。
これがいわゆる、
「自費出版詐欺問題」
として、一時期社会問題となったことであった。
だが、これは一部の作家志望の人にしか知られていないことであり、数年が経ってしまうと、世間も忘れてしまうだろう。これがバブルが弾けた後に、うまい商法を見つけたことで飛びついた数社による詐欺事件だったのだ。
実際に、この手の出版社は数社あり、そのほとんどはほぼ同時期に破産している。もちろん生き残った出版社もいるにはいたが、もう今までのようなやり方は通用しない。その後どのように生き残ったのかなどは興味もないので、気にもしていないが、人間の心理を巧みについたこの事件は、センセーショナルな事件であったと言っても過言ではないだろう。
それが今からどれくらい前になるだろうか? 十年近く前のことだったように思う。そして時代は本を出版するという時代から、ネットにアップするという時代に流れていった。ネットであれば、製本のような手間もかからないし、数年前から普及してきたスマホなどのタブレット端末からも簡単に投稿できることから、自費出版社系にウンザリした人が流れていったのだ。
だが、さすがにバブルが弾けてすぐくらいの頃ほど、
「作家になりたい」
という人は減ってきただろう。
そこへもってきての詐欺商法だ。本を出すことのリスクを目の当たりにして、諦めた人も相当いたに違いない。しかし、もちろん全員とは言わないが、そのほとんどは、文章作法すらまともに書けない、
「にわか作家志望」
だったと思えば、爆発的に減ったとしても、それは自然なことでしかないと納得できる気がした。
いわゆるSNS形式のサイトは、無料で投稿できるところもたくさんできて、作品をネットに公開することで、たくさんの人に読んでもらい、感想やレビューなどを書いてもらえば、
「ひょっとすると、出版社の担当の人に見てもらえるかも?」
という淡い期待もできるというものだ。
もちろん、ほぼないことは想像はつくが、それでも、協力出版で日の目を見ることもなかったのに、大金をはたいていたことに比べれば、幾分も気が楽である。
ただ、サイト運営にも出版社関係が関わってくると、作家への道も少し開けるのかも知れない。
活字にするのではなく、ネット小説として売り出すやり方だ。
かつては。小説というと、純文学であったり、エンターテイメント系と、くっきりとジャンルが別れていた。その中でもエンターテイメント系では、ホラー、SF、青春、恋愛、ミステリーなどと細分化されてはいるが、かっちりとしたジャンルが昔から確率されていた。
しかし、最近では、特に携帯などで小説を書けるようになると、ライトノベルズなどのように、簡単に読める小説が巷に増えてくるようになった。
ゲームの原作がヒットしたり、ファンタジー系の小説が広く読まれるようになると、本格小説よりも、ライトノベルの方が売れたり、読まれたりしているようだった。
実際に小説投稿サイトによっては、どのジャンルが強いというような、
「カラー」
も生まれてきて、その影響からか、ライトノベルが主流になっているサイトも多く見られる。
これをただのブームと見るか、これからの時代を象徴していると見るかは難しいところではあるが、明らかにライト系に走っているのは間違いないようだ。
だが、有名作家の本格派小説は相変わらずの人気で、まだまだライトノベルの入り込む隙はないと思っているのは、少数派なのであろうか。
そんな中で、昭和の末期、つまりはバブルの時代に新人賞を取った作家がいたが、彼はその後、次回作を期待されながらも、鳴かず飛ばずで、アルバイトをしながら執筆活動を地道に行っていたが、その間に出した本は数冊しかなかった。
それでも独自の路線を貫いている作家というのは、思ったよりも多いようで、時代に埋もれそうになっているのを、何とか生存しているという事実だけを残しながら、踏みとどまっている人もいるのだった。
今では、もう五十歳も過ぎて、そろそろ六十歳が見えてきたこの頃、結婚することもなく、人とのかかわりと言えば、たまに出かけるスナックでの会話か、執筆に毎日使っている喫茶店での挨拶程度の会話というものであった。
彼の名前は遠藤健介。ペンネームである。本名は酒井健介というが、まわりには遠藤健介という名前で通っているので、自分でもそれが本名であるかのような錯覚すらあったほどだ。
遠藤は、下町にあるアパートに一人暮らしであるが、ほとんどは外食をしている。最初はお金がないということで自炊をしていたが、よく考えてみると、一人での自炊は却ってお金がかかることに気付き、ここ十年くらいは馴染みの喫茶店を見つけて、そこで食事を摂るようにしている。
朝食と夕飯はほとんどがそのお店なので、普段でも一日に二回は立ち寄ることになる。店に通うようになって一週間もすれば、
「もう常連さんですね」
と言われるようになり、最初の一週間とそれからの約十年という区切りだけで、あとの約十年は、これと言って変化のない日々だった。
昼食は、食べたり食べなかったりで、たまに都会に出かけた時に、どこかで昼食を摂ることもあったが、ほぼここ最近ではまず昼食を摂ることはなかった。
元々朝食を摂ることがなかった。
起きてからすぐに食事を摂るということが億劫で、すぐに出かけて出かけた先で昼食を摂るというのが、若い頃のパターンだったが、ある日、馴染みになった喫茶店でモーニングセットを食べたことで病みつきになったのだ。
元々、モーニングセットには興味があった。ただ、子供の頃から朝食は和食がほとんどで、みそ汁に目玉焼きなどばかりだったので、実際にはそれに飽きたことが朝食を抜くようになった一番の原因だった。
一度抜いてから、それが日課になってしまうと、もう朝食は入らなくなった。和食は、もう嫌なので、洋食でと考えると、トーストにバター、さらに卵料理やベーコンなどというモーニングセットは、いかにも胃にもたれそうで、想像しただけでも胸やけがしてきたのだ。
ただ、その日は、ブラっと散歩がてらに近くを散歩した時のことだった。
「あれ? こんなところに喫茶店なんかあったかな?」
今までにもその道は何度も歩いたことがあったはずなのに、初めて気づいたことにビックリした。
店構えは昔からある昭和の喫茶店で、懐かしさを誘った。どうして懐かしさを誘うのかと考えていたが、
「なるほど、この赤レンガなのかな?」
と、喫茶店の下の方が赤レンガ造りになっていることで気が付いたのだ。
上部の方は普通のコンクリートに、扉は木造という、いかにもレトロな雰囲気を醸し出している。赤レンガが下の方だけだということで、あまり目立つという雰囲気でもない。何度か歩いた時に気付かなかったのも無理のないことだ。しかもこんな店がつい最近できたなどありえない。コンクリートの壁には、雨水が伝ったような跡がくっきりと残っていることからも、言えることであった。
遠藤は、今まで喫茶店に興味がなかったわけではない。新人賞を取った時に書いていた作品も、自室で机に向かって書いているわけではなく、あの時も馴染みの喫茶店でペンを走らせていた。
あの頃はまだパソコンはおろか、ワープロというものも、作家活動に使われるということはなく、原稿は皆原稿用紙に書かれたものだった。
今から思えば、
――よく手が痺れることもなく書き続けられたものだ――
と感じた。
今でもあの時のペンタコの痕は残っていて、指でこすると、硬くなっているのを感じ、あの頃を唯一思い出せるアイテムとなっていた。
新人賞を取ったのは、大学を卒業してからすぐくらいのことだった。
大学では文学部に所属していて、まさか作家になろうなどと思って入学したわけではなかった。本当であれば、文学部というと、就職にそんなに有利というわけではないので、まわりは敬遠していたが、中学の頃から歴史が好きだったので、日本史の研究をしたいと思っての文学部入学だった。
ただ、大学入試も当然一つではなかった。他の大学もいくつか受けたが、そこは経済学部であったり法学部だった。
彼が卒業した大学が第一志望だったというわけではなく、かといってすべり止めだったというわけでもなかった。そういう意味でも大学入学時点から、中途半端な感じだったのである。
それでも入学して歴史の勉強に勤しんでいた時、最初に友達になったやつから、
「サークルは決まったかい?」
と言われ、サークルなどあまり考えていなかった彼は、
「いや」
と答えると、その友達がいうには、
「俺は文芸サークルに入ろうと思っているんだ。そこではいろいろな活動ができるからいいぞ」
「例えば?」
「読書を筆頭に、俳句や短歌などから、文学作品の執筆活動まで、文芸関係はなんでもなんだ。当然同人誌のようなものも発行しているから、自分の作品を発表ができるなんてすばらしいことではないか」
という。
元々、何もないところから新しいものを作るということに興味のあった遠藤は、友達の話に乗って。自分も入部することにした。
「サークルなんだから、行きたい時にいけばいいんだ」
という完全に能天気な友達の言葉だったが、実際にはその言葉と大差のない部活であった。
当時、テレビドラマで、昭和前半の時代に流行ったミステリーのテレビ化が行われていた。当時は推理小説というよりも、探偵小説という言葉の方が主流で、小説の中にも私立探偵が出てくる話も多かった。
戦前、戦後の混乱期を描いているので、小説もミステリー色よりも、ホラー、怪奇色の強い内容になっていて、その時代を知らない人が興味を持つ時代としてテレビドラマもそれなりにヒットしていた。
遠藤が小説を読むようになったのは、その頃からだった。元々国語が嫌いで、小学生の頃から国語の成績は悪かった。これは彼の性格に由来しているものであり、つい結論から先に見てしまうという悪いくせがあった。だから、国語のテストのように、最初に例文があり、その例文を元に設問が設けられているが、せっかちな彼は例文を全部読むことなく、設問から先に読んで、そのため、設問として指示している場所だけを見て、そこから問題を考えるという、点だけを見て答えるという、やってはいけないことをしていたようだ。
だが、この性格はいかんともしがたく、国語の成績はおろか、国語に関わる読書にしてもなかなかできるものではなかった。
それでも中学時代にSFが好きなやつがいて、SF小説を何冊か読んだことがあったが、やはりセリフを中心とした斜め読みしかしていなかったので、最終的にストーリーが繋がらなかったので、何が面白いのか分からなかった。友達と話をしても内容がまったくつかめなかったので、話も通じなかった。したがって面白いはずもなく、本についての会話は、最初から苦痛でしかなかった。
そんな遠藤のことを皆知っていたのだろうか? 遠藤は、まわりの人には分かっていたように思う。
「お前は分かりやすいからな」
と言われたことがあったので、たぶんまわりは自分のことをよく分かっていると自分でも思っていた。
そんな遠藤は友達が多かったわけではない。どちらかというと、カルトな連中が多く、彼らに言わせれば、
「俺たちはヲタクではない」
と言っていたが、
「ヲタクではないと言っている時点で、ヲタクなんじゃないのかな?」
と思ったくらいだ。
だが、遠藤も言わないだけで、きっとヲタクだったのだろう。ヲタクというと、アニメやホラー、エログロの世界を思い浮かべるが、そんな世界とは程遠かったが、話だけを聞いていると、自分は染まりたくはないと思うが、ヲタクを否定するような気にはならなかった。
今まで思っていたのは狭義の意味でのヲタクであり、広義の意味に解釈すれば、遠藤も入っていたのだ。
「他の人と同じでは嫌だ」
という感覚が遠藤の中にあった。
今はまだ見つかっていないが、他の人から見れば、
「普通なら、そんなものを趣味にはしない」
というものであったり、興味はあるが、やってみるにはハードルが高かったりするものに興味を持ったりした。
ハードルの高さは、抵抗があるのと同じ感覚であった。抵抗があるというと、最初から敬遠しているのであって、ハードルが高い場合は、ダメかと思いながら、一応はやってみる。違うものであるのは歴然であるが、遠藤の中では同じものに感じられた。
遠藤はその頃から、本当は本を読めるようになりたいという意識はあった。実際に本を買ってきたりして読もうと思ったのだが、実際に読んでみると、やはりかなり端折って読むくせは直っていなかった。
だが、大学に入ると、急に本が読めるようになった。大学受験まではせわしい性格が表に出ていたが、大学入学を果たすと、今度は急に落ち着いてきた自分を感じた。
まわりの人間に乗り遅れないように、友達を増やしたいという思いはあったが、その勢いに乗って、友達をたくさん作った。
たくさん作りすぎて、実際の話についていけない自分がいるのを感じ、それが後ろめたい気分にもなってきたが、ついていけないのは自分が悪いわけではないと思うと、今度は話についていけるように勉強しようと思うようになった。本が読めるようになったのは、この時の心境があったからではないかと思う。それだけが原因というわけではないが、これが重要な要因だったということに変わりはないだろう。
だが、逆に彼らの偏った話についていけなかった自分としては、
――この連中とあまり長くはいたくないな――
という思いもあり、友達としての位置は保ってはいるが、それ以上関わりたくないという思いが強くなってきた。
増やし続けた友達だったが、次第に吟味するようになり、中には友達としても排除するような相手も出てきて、本当の友達というと、結局は数人しか残らないことになった。
その中の一人に文芸サークルに誘ってくれたやつもいて、彼などは中学高校と文芸部で自ら小説を書いていたという。
「小説を自分で書くなど、そんな簡単にできるものなのかい?」
本と読むのでさえ抵抗を感じている遠藤にとっては、小説を書くことを趣味にできるなど、高根の花に見えていた。
尊敬もしていたし、身近にそんな人がいると、
――俺にでもできるかも知れない――
と思ったとしても、それは無理もないかも知れない。
最初は、そんなことできるはずはないと思っていたが、文芸サークルに入って同人誌を見ていると、皆惚れ惚れするような文章作法を用いているのを見ると、
――ごく近くに、こんなに上手に書ける連中が密集しているなんて――
と思ったが、考えてみれば、
――ここだけが特別でないと思えば、文章を書くということくらいは、普通の人であれば、苦もなくできることなのかも知れない――
とも思った。
こう思ってしまうと、頭の中が少し冷めてくるような気がして、この考えは参考程度にしか考えないようにしていた。誰もができると思ってしまうと、自分ができるようになったとしても、それは人並みになったというだけで、自分の特技でもなんでもないからだ。
遠藤は、他の人にできないことをできるようにならないと、いくら小説を書けるようになったとしても、それは時間の無駄とまで思ったほどだ。
そう思って、友人に思い切って聞いてみたが、
「文章を書けるようになるのって、簡単なことなのかな?」
「人に伝える文章を書くくらいは難しいことではないかも知れないけど、自分の気持ちを相手に理解させる文章を書くのは本当に難しいんじゃないかな?」
と言われた。
この返答は、遠藤にとって願ってもない返事だった。
そのセリフが頭の中で結構の間、残っていた。この言葉が残ったおかげで、小説を書こうと思ったと言っても過言ではないだろう。
文芸サークルでは、誰かが何かを教えてくれるというわけではない。皆それぞれ自分のやりたいことをやっているというフリー感が満載で、マンガや絵画のようなビジュアル系や、詩歌や俳句、小説や随筆のような文芸と呼ばれるものなど、さらにビジュアル系としては、アニメのような動画も扱っている人もいて、大学祭などでは、映画を作成することもあった。
大学祭での作品制作には、部員がほとんど携わっている。スタッフはもちろん、キャストも部員で、シナリオを書いた人が主役だったり、監督が脇役で出演したりと、少数精鋭として製作した。
遠藤もシナリオの一部と、俳優として出演を担当し、やってみると、意外と楽しいことが分かると、
「文芸サークルに入ってよかった」
と思った。
小説を書くよりも先にシナリオを書いたので、シナリオを書くことに対して、さほど抵抗もなく、難しいという感覚もなかった。
学園祭での発表なので、さすがに期限があったので、最初はシナリオの「いろは」に関しては、先輩から教えてもらった。一人で勉強するにしても、どんな本を読めばいいかということも教えてくれて、本を読んで勉強したものだ。
この際にはさすがに端折って読むようなことはしなかった。何が必要なのか分からないので、一歩ずつ読み進むしかない。初めて普通に読めるようになった自分に感動するくらいで、確かに大学入学時に、小説をゆっくりと読める気がしていたのも、錯覚だったと思うほど、シナリオのハウツー本は本を読むということに対して、目からウロコが落ちる感覚だったのだ。
しかも、その時に読んだ本の中で、実際の小説との違いについて解説されていたので、ある意味分かりやすかった。
―ーきっとこの本は、小説を書いたことがある人に対して読んでもらうというのを基本にした本なのかも知れないな――
と感じた。
実際に小説を書いたことはおろか、小説を読むことすらまともにできないという感覚を持っていたので、最初からへりくだった気持ちが強かったことで、謙虚になれたのではないだろうか。そう思うと、小説を書けるようになってからこの時のことを思い出すと、最初は、
「まるで昨日のことのようだ」
とは思うのに、
「でも、ちょっと考えると、相当昔だったようにも思う」
と後から考えたりする。
最初に感じた直感が、実は勘違いだったのではないかと思うようなことも少なくはない。どのような時にそういう感覚になるのか分からないので、その思いが、
「似たようなことをこの間感じたような気がするな」
という発想になり、まるでデジャブを感じさせられる原因になったりする。
デジャブを感じた時、どこからそんな思いになるのか分からないというのが多いが、理屈として考えると、このようなことが結構多いのかも知れないと、遠藤は感じていた。
デジャブという現象は、科学的には証明されていないが、いろいろな説もある。その中に、
「記憶の辻褄を合わせる」
というのもあるようだが、
「辻褄を合わせる」
という言葉が、結構曖昧な言葉であることが分かる。
だが、元々、時系列の感覚が、一瞬にして昨日のことのように思っていたことが、まるで昔のことのように思えてくると変わってしまうことを証明することも難しい。それを、
「辻褄を合わせる」
という言葉を使うことで、できないこともできるような気がしてくるのも意識の錯覚の問題であろうか。
大学祭での映画は、一応成功だった気がする。遠藤はその時シナリオの一部を担ったが、実際にはシナリオを続けていこうとは思っていなかった。元々一つのことを一人で担うのが好きな自分とすれば、映像作品の中の、
「コマの一部」
と考えるのは嫌だったのだ。
そういう意味で小説はコマの一部ではない。描写もセリフもすべて自分で書くことになるのだが、シナリオの場合は、映像になるまでの一部でしかないので、まわりに気を遣う必要がある。
例えば、情景を描くのも、小説のように細かいことは書かない。場所は一行で書き、セリフにも必要以上のことは書かないようにしている。
実際にシナリオを見て演じる俳優さんの個性を生かすために、あまりシナリオで個性を出さないようにするのも必要なようで、そういう意味で、シナリオに個性はあまり関係ないということになる。
「シナリオって、プロットのような感じなのかも知れないな」
と言っている人がいた。
「プロット」というのは、小説を書く時に、最初に作成する「設計図」のようなものである。
例えば、大筋を最初に考えて、登場人物とキャラクターのイメージ、さらに起承転結で小説の詳細を考える。それを書き出したものを「プロット」というのだが、プロットを作成していないと、途中で辻褄が合わなくなったり、堂々巡りに入ってしまい、結論や大団円に辿り着けなかったりするだろう。
――プロットの起承転結くらいまで落としたところが、シナリオに近いのかも知れないな――
と遠藤は感じていた。
遠藤は中学時代に中途半端に読んだSF小説を読み直してみたが、やはり覚えていなかった。
今度はじっくりと読んだので、何が面白いのか分かった気がした。そのおかげで、
――今なら、他の小説も読めるだろうな――
と感じたのだ。
それで読んだのが、テレビドラマで見たミステリーだったが、現代版に書き換えて描かれるようなこともなく、時代背景も内容も、原作に忠実に描かれていた。
おかげで、昔の時代背景に入り込んで見ることができた。
元々歴史が好きで文学部に入学した遠藤だったが、昭和前半というのは、あまり興味を持つ時代ではなかった。テレビドラマのおかげでこの時代に興味を持ち、この時代の話を本で読んだりもした。
そういう意味で、読書というと、小説以外のものを見ることも多くなり、大学の講義での教材に、抵抗がなくなったというのは、ある意味よかったかも知れない。
だが、やはり小説を書いてみたいという衝動に駆られたのは、ドラマの影響かも知れない。
ドラマを見た後に原作を読むと、内容が分かっているだけに読みやすかった。
「原作を読んでから映像を見ると、どうしても、見栄えしないという感覚になるのはなぜなんだろうな」
という人がいたが、この意見には遠藤も賛成だった。
「それだけセリフ以外の描写で、想像させるところがうまいからそう思うんでしょうね」
と言いながら、
――これがシナリオと小説の違いという感覚を表現した形になるんだろうな――
と感じた。
小説を書くようになってから、最初の頃は苦痛しか感じなかった。
――なんで、俺はこんなことを嫌なのにしているんだろう?
無駄なことをしているという思いではなく、好きではあるが、やっていて苦痛を感じることを本当に好きだと言えるのかということが不思議だったのだ。
しかし、考えてみれば、嫌いなことでもしなければならないこともある。勉強が嫌いな子供でも、義務教育の間は勉強をさせられて、嫌でもまわりと比較される。これは苦痛以外の何物でもなく、本人からすれば、これほど理不尽なものはないだろう。
ひょっとすると、勉強以外にしたいこともあるかも知れない。しかし、まわりはそれを許してくれない。
「小学生、中学生は勉強が本分だ」
と言われているからだ。
それはきっと、学校を卒業すれば、必ず何かの職に就き、仕事をしなければならず、仕事をしないとお金がもらえないので、生活していけないという論法から来ているものではないだろうか。
子供の頃に楽せず苦労しておけば、後々自分が苦しまずに済むという考えから来ているのかも知れない。
だが、実際に小学生、中学生の頃に必死になって勉強し、その成果をトップクラスに立ったという結果で出すと言っても、それで将来楽ができるということになるだろうか。
むしろ、さらなる高みを目指して、もっともっと勉強しなければいけなくなる。小学生であれば、そこまではないが、中学生以降になると、その代償も少なくはないだろう。
その頃というと、思春期に当たり、大人へと変貌を遂げる時期でもある。その時にどのような土台ができているかが大切で、果たして勉強だけをしていて、その土台ができているかどうか疑問を持つ人も多いかも知れない。
「頭でっかち」
と言われることもあり、勉強以外でも身体の変調に対して影響される身につけなければいけないものだってあるはずだ。どちらが大切なのか分からないが、少なくとも勉強だけをしていて、立派な大人になれるかというと、疑問でしかないだろう。
少なくとも思春期というと、何にでも興味を持つ時代だ。その頃を多感な時期としていろいろ見ることがあるのに、勉強のためにそれを見ることをせず、いわゆる犠牲にすることで果たしてどんな大人になれるというのだろうか。
世の中にはたくさんの趣味があり、その趣味を職業にして、その道のプロとして活躍し、著名人の仲間入りしている人もいる。彼らの存在に、きっと人生のうちで一度は気付く時があるはずなのだが、どうせ気付くのであれば、なるべく早い時期に気付いておくものだと言えよう。
趣味の中には芸術的なこともあり、音楽、絵画、文学、陶芸、いろいろとある。さらには日本文化の中に、茶道、華道などと言った独自の流派を持ったものもあり、彼らの世の中における影響力は、政治家に負けず劣らずの場合もある。特に世襲で昔からある由緒ある家系には、日本文化独特の体勢があり、彼らのような人間は、普通の人間と一線を画していると言えるだろう。
世の中にはさまざまな人がいる。そういう意味で、ただ勉強だけをしていて、果たして本当に楽ができるかというのは甚だ疑問である。逆に勉強すればするほど、奥の深さを知り、どんどん嵌りこんでしまうともいえるだろう。
もっとも、それを好きでやっている人はいいのだが、好きでもないのに、足を踏み入れた人は抜けられなくなり、中途半端な自分に失望するしかなくなってしまうことだってあるだろう。
それを考えると遠藤は、
――勉強ばかりをしてこなくてよかった――
と感じるようになった。
遠藤にとって大学生活は、それまでの受験戦争と一線を画したものであることは分かっていた。
――大学に入ると、今まで知らなかった連中と友達になれるんだ――
という意識があったからで、実際に大学と言うところは、想定外の人間ばかりのような気がした。
「魑魅魍魎のような世界だ」
大げさではあるが、そんな言葉も飛び出してくるほどだった。
何にビックリしたのかというと、まったく知らない人であっても、挨拶をしてくれる。高校時代までは、知っている相手であっても、挨拶をしようとすると、相手に睨まれているような気がして、自分からできないでいた。そのうちに、友達であっても、お互いに遠慮からなのか、それとも警戒心を深めたことからなのか、挨拶もできなくなってしまった。それを遠藤は、
――皆、疑心暗鬼になっているんだ――
と感じた。
受験というのは、あくまでも自分との闘いではあるが、定員が決まっているので、定員が百人であれば、自分よりもいい成績の人が、九十九人までは許されるということになる。入学の成績は公表されないようなので、一番で入学しようが、百人目であろうが関係ない。卒業前には就職活動の目安として、
「学年の何人中の何番」
という形で教えられたりするらしいが、そこまでは別に順位など関係ない。
教えられた順位として目安になるのは、就活の際に、どのランクの企業を選べばいいかという基準となる程度でしかないだろう。
成績のことばかりを考えるのは大学受験までで、それ以降は、いかに将来のための勉強ができるかということであり、高校までの「詰め込み教育」とは違っている。
試験になれば分かることであるが、高校時代までのテストはというと、マークシートであったり、単純に、設問に回答を書くというだけなのだが、大学のテストというと、ほとんどは、テーマを一つ与えられ、
「何百字以内で要約しなさい」
というものがほとんどだ。
中には教材の持ち込み可という試験もあり、法律関係のテストでは、六法全書の持ち込みも可だったりする。考えさせられるテスト内容となっている。
遠藤は、どちらかというと融通の利かないタイプだったので、高校時代までとはまったく違った大学の試験に戸惑っていた。
成績は思ったよりもよくなくて、何とか留年せずに単位を取得できていたという程度だった。
大学入学当初は、大学の勉強というものに脅威を持っていたが、二年生になる頃には、すでに興味は失せていた。
そのせいもあってか、ほとんどをバイトと文芸サークルに費やす毎日になっていて、そんな毎日を楽しいと思うようにもなっていた。
それは、今までに感じたことのない、
「やりがい」
というものを感じるようになったからで、アルバイトに対しては、
「時間に応じて報酬がもらえる」
ということと、サークルに関しては。
「作成することへの喜びと、結果が結び付いてくること」
が、自分にやりがいをもたらしてくれているのだと思っている。
その思いに間違いはない。きっと他の人が彼の立場でも同じことを考えていたに違いない。
文芸というものを、高校時代までまったく興味のないものとして考えていたのが、もったいない気がした。
もったいないというのは時間的なもので、
「もう、あの頃には戻れない」
という思いがある一方、
「あの頃の自分がどんな顔をしていたのか見てみたい」
という思いがあったのも事実だ。
彼が小説を書くようになってから、高校生や中学生を描くことが多かったが。それは自分が味わえなかった、味わうことができたかも知れない芸術との戯れに、思いを馳せているからなのかも知れない。
探偵小説を読みながら、自分の高校時代を思い返すというのは、不思議な感覚だったが、意外と嵌ってるように思えて、逆にあの頃の自分が、今読んでいる探偵小説を読むと、今のように嵌ることができたかどうか、それこそ疑問だった。疑問ではあるが、本当はどうだったのか、知りたいという衝動にも駆られている。本当はどうだったのだろうか?
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