第3話 生と死の狭間
戦後の混乱で、バラックが立ち並んでいる場所では、瓦礫の下に何が埋まっているか分からないという場所もある。ひょっとすると、戦争中に、崩れた瓦礫の下敷きになって、火災に巻き込まれた人の骨が埋まっていることもあるだろう。増えた野犬がそのあたりをほじくり返して、死体が見つかったという話を聞くことも珍しくはなかった。
矢久保と典子が最後に逢引きしていたその日の空襲は大規模なもので、数十機の爆撃機が上空に飛来し、爆弾や焼夷弾を雨あられと落としていった。
現場では逃げ惑う人々でごった返していた。典子と矢久保はちょうど行為の真っ最中で、逃げ遅れたという感があった。
「火が回ったぞ」
という声を遠くの方で聞いたような気がして、快感というだるさに身を任せる猶予などあるはずもなく、さっさと衣服を身にまとい、表に逃げ出した。
防空壕まではそんなに距離はなかったのだが、何しろ表はパニックになっていて、逃げ惑う人に手をつないでいた二人は引き裂かれる形になった。
防空壕に逃げてきたのは典子の方で、矢久保とははぐれてしまった。
「矢久保さーん」
大声で叫んでみたが、あのパニックのさなかでは声も掻き消されてしまう。
防空壕に向かうと、そこにはけが人も結構いて、看護婦という立場からも、防空壕に避難させていた医薬品を使って応急手当をした。
しかし、あくまでも応急手当なので、完全によくなったわけではない。中には手術が必要なくらいの重病人もいたが、できることは限られていた。
そんな状況に、典子は歯がゆい思いを感じていた。
――こんな状態でなかったら、助けられるのに――
と感じていた。
しかし、敵はこちらの全滅を狙っているかのように無差別な攻撃を仕掛けてくる。しょせん、一人がいくら頑張ったところでどうなるものでもない。早く攻撃を終えて、少なくとも爆弾が降ってこない状況になるのを待つしかなかった。
幸いにも防空壕の中までは爆弾も焼夷弾も効果はなかったようだ。もちろん、直撃を受ければひとたまりもないのだろうが、それこそ、入った穴倉で、騒ぎが収まるのを祈りながら待つしかなかったのだ。
典子は土で覆われた防空壕の天井を恨めしく眺めていた。遠くから爆弾の破裂する音や、爆弾が降ってくる空気を切るような音が聞こえている。
そんな時間がどれほどあったのか、結構な時間が経ったような気がしていたが、次第に爆撃の音が静まってくるのを感じた。しかし、表に出ることはできない。まだまだ火災は広がっていて、正直、すべてを燃えつくすまでは消えないだろうということは想像がついた。
皆、被っている防空頭巾の下はすすややけどで、顔が真っ黒になっている。子供の中には泣いている子がいて、それを母親が必死に宥めている。
誰もが身体を寄せ合って、じっと穴倉に潜んでいる様子は、本当にこの世のものとは思えない感覚だった。
実際に表は火の海になっていて、こちらもこの世のものとは思えない地獄絵図なのだろうが、じっと息をひそめて表に出ることもできず、不安な中やり過ごしているというのも、形としては表現できないが、精神的には十分に追い詰められる地獄の一種なのに違いないだろう。
典子はそれでも、けが人を治療しないといけなかったので、不安に震えている皆とは少し精神状態は違った。張りのようなものがあったからで、じっと傷口を見ていると自分が置かれている穴倉の中の環境とは違っている感覚だった。
野戦病院という感覚でもなく、普通に病院で看護しているような感覚にすらなった時間もあり、そこに自分なりの充実感すら感じられた。
その時、典子はふと矢久保のことを想い出した。病室に入院していた時の矢久保が自分に襲い掛かったあの時、抵抗しようと思えばできたはずなのに、抵抗しなかったのは、あら矢久保を求めていたからなのかも知れないと思ったのだ。
それ以前は、オトコというものを知らなかった典子だったが、知ってしまうとどうなるのか自分でも怖かった。最初に女性の身体に溺れてしまった自分も、まさかと思っていた感覚に似ていた。矢久保に惹かれたのか、男性というものに惹かれたのか、よくは分からなかったが、矢久保に蹂躙されたあの時、悪い気はしなかったのは事実である。
だが、言いなりになっていたわけではなかった。矢久保は理性をかなぐり捨てて襲い掛かってきたくせに、どこか控えめなところがあった。強引にできるべきところを、抑える気持ちがあったのだ。
「俺は癒しがほしかったんだ」
と彼は最後にそう言っていたが、その言葉があったから、典子は彼の行為を許し、自分の気持ちも許すことにしたのではないだろうか。
その時に、矢久保にM性があるということは分かっていた気がする。自分にSの気があるということは分かっていなかっただろう。なぜならレズビアンの相手に対して、自分がずっとMだったからである。
だが、矢久保に襲われた時、意識の中に絶えずレズの先輩のことが見えていた。
「見え隠れしていた」
というわけではなく、ずっと見えていたのだ。
つまり目の前に矢久保という男を感じながら、裏の目には先輩が写っていた。その時、自分が二重人格なのではないかと典子は感じていたことを、今でも覚えているような気がする。
それなのに、彼女に対してのM性は、矢久保の前では封印されていた。矢久保と一緒にいると、別も自分が出てくる。逆にいうと、別の自分が表に出てくる時というのは、Mである自分が後ろに隠れるというわけではない。
――ひょっとしていつも自分の性格を一つだということが当然だと思ってはいたが、表に出ているのは、いつも二人であって、その二人が微妙にところどころで入れ替わっているのではないか?
と感じた。
そう感じることで、自分の中の記憶を失った部分に対しての説明がつくのではないかと思えたのだ。
二重人格というのが、必ずしも正対するものでなければいけないとは典子は思っていない。中には背中合わせのものもあって、その実、すぐそばにある平行線のようなものと言えなくもないと思える。
――まるで石ころのような存在――
石ころというと、目の前にあるのに、誰も意識しないというものである。見えていることには違いない。それなのに、意識されることはない。そんな不可思議な存在なのに、石ころのようなものの存在を誰も意識はしないだろう。
そういう話をされても、ピンとくる人は少ないに違いない。別に自分に何ら関係のあることでもないと考えているからであろう。
しかし、典子は違った。
あの日、空襲警報が鳴ったあの日、彼と抱き合う前の布団の中で、石ころのような話をしたのを覚えている。
「俺は石ころのような存在になりたいって思うんだ」
「石ころ?」
「ああ、石ころというのは、道端にあっても誰も意識しないだろう? 見えているはずなのにさ。だから、石ころが別の場所にあったとしても、誰もおかしいとは思わない」
「それは、河原なんかにたくさんあるからなんじゃない?」
「確かに河原にはたくさんあるので、いちいちそのうちの一つを意識する人なんかいないと思うけど、別の場所、例えば倉庫なのに、ポツンと一つだけあっても、誰か意識する人はいるかい?」
「でも、普通ならその場所にあるはずのないものがあれば、おかしいと重いんじゃないかしら?」
「普通ならそうなんだけど、石ころの場合は違和感がないんだ。だから、見えているのに、意識されることのないものだって言いたいんだ」
「私、それに似たような話を聞いたことがあるわ」
と言って、典子はその時、研究者である義兄の話を思い出していた。
典子は続けた。
「確か、その人がいうには、『宇宙には私たちが知らない不思議なことがたくさんあって、例えばどんなに巨大なものであっても、吸い込んでしまうブラックホールのようなものや、宇宙の墓場と言われているサルガッソのようなものもある』って言っていたの」
「それで?」
「その中の星にね、星というのは自らが光を発するか、あるいは、光を受けて反射することで光っているものの二種類が存在するんだけど、実はまだ知られていない第三の天体として、『暗黒星』ち呼ばれるものがあるんじゃないかというのを提唱している人がいるというのよ。その星は自分から光を発することもなく、光を反射もしない。光を吸収し、あくまでも真っ黒で、まわりにはその存在が分からないという星があるというのよね」
「それって怖いよね」
「ええ、そんな星が近くにあっても、誰も気づかない。だから衝突して、初めてその時、そこに星があったと感じることができる。すでに手遅れなんだけどね」
「そんな星が存在しいるとすれば、本当に怖いよ。ブラックホールやサルガッソのような発想に似たものだね」
ええ、石ころの話を聞いて今私はこのお話を思い出したの。もし、これを人間にたとえるとすれば、どう解釈すればいいのかしらね。そばにいても気づかない人が、こちらを殺そうとしているとすれば、それは完全犯罪になってしまうわよね」
「確かにそれは言える」
「ところで、もう一つ怖い話ではあるんだけど、君はドッペルゲンガーという話を聞いたことがあるかい?」
「ドッペルゲンガー?」
「ああ、これはね。もう一人の自分を見るという話になるんだけど、結構昔から言われていることで、古くは古代の神話にも残っている話らしい」
「もう一人の自分って、それは似た人という意味ではなく?」
「ああ、違うんだ。まったく同じ人間が、同じ時間に存在しているという意味なんだ」
「世の中には似た人が三人はいるというけど、あれはあくまでも似ている人というだけの意味なのね」
「そういうことだね」
「でも、そのドッペルゲンガーというのは、どういうものなんですか?」
「もう一人の自分を自分で見る場合もあれば、他の人が見る場合もある。だけど、言われていることとすれば、そのドッペルゲンガーを見てしまうと、見た人は皆死んでしまうということなんだ」
「まあ、恐ろしい。でも、それって単なる伝説なだけなんじゃない?」
典子は本当に恐怖を感じているようで、話を都市伝説として終わらせたいとしているようだった。
「そうかも知れないけど、たくさんの有名人や著名人がドッペルゲンガーを目撃したと言って、実際にそのあとしばらくして亡くなっているんだ。当然表に出てきていない話もたくさんあるはずだって思うよ」
「他にはどんな特徴があるの?」
典子は怖がってはいるが、興味もあるようだ。
「共通点としては、ドッペルゲンガー―は人と話をしない、そして、ドッペルゲンガーの現れる場所は、その本人の行動範囲でしかないということ、そして、ドッペルゲンガーは自分で扉を開けることができるなどということかな?」
「なるほど、何となく分かるような気がします。特に元の人間と行動範囲が一緒だということは、次元が違う人を見ていると言えるんじゃないかって思います」
「どういうことだい?」
「今いる私たちは三次元の世界に住んでいるでしょう? 一次元は線の世界、二次元は平面。三次元は立体、そして四次元はそこに時間という軸が絡んでくると言われていると私は思っているのよね。私たち三次元の人間には、一次元、二次元の世界に入ることはできないけど、見ることはできる。でも、四次元はあくまでも概念の世界というだけで見ることはできない。そういう意味でいくと、四次元という世界が創造できたのだとすれば、私たちからは四次元を見ることができないけど、四次元の人たちからは私たち三次元の人間や、二次元。一次元も見ることができるということよね」
「ということは、四次元の人間は見ることはできるけど、三次元という世界の理屈を解釈はできていないかも知れないということよね。だったら、三次元の人間にも、四次元に通じる何かがあってもいいかも知れないと言って創造したのが、ドッペルゲンガーという発想なんじゃないかってことかな?」
という矢久保を見ながら典子は少し考えてから、
「若干、考えが違っているように思うんだけど、大筋としては同じなんじゃないかって思うわ」
「次元の違いで解釈するなら、ドッペルゲンガーだけでなく、石ころだって、暗黒星という創造物だって、同じ発想で解釈できるんじゃないのかな?」
「ええ、私はそう思う。その三つは共通点だけを見ていると、似た発想から生まれてきたように思うけど、実際にはまったく別物に思える。共通点というのは別次元というところに端を発していると思われるけど、四次元から三次元を見た時、まるで石ころだったり暗黒星のように見えているのに意識していないものだとすれば、ドッペルゲンガーも、同じように意識したことで、見たような気になっているというだけのことなのかも知れない。いや、逆に視界に入っているんだから意識していないことがおかしいという発想は成り立たないと思うと、見たということを自覚するには、特殊な能力が必要なのではないかと思う。その方がよほどドッペルゲンガーの存在を否定するよりも、信憑性が感じられるし、石ころや暗黒星の存在を肯定する材料にもあるんじゃないかって思うのよ」
典子の発想は面白かった。
その時の典子は自分の中に義兄の発想が埋め込まれているかのように思えた。確かに普段から義兄のようなSFチックな発想や、奇妙な話や、都市伝説に興味を持っていた。元々興味などなかったはずなのに、それはきっと義兄に遭わなくなってから気付いた自分の脅威本位な性格が影響しているに違いない。
義兄が科学的な研究をしているのであれば、典子はそこから心理学的な発想をするようになっていた。だが、同じように心理学に造詣の深い人がこんなに近くにいるとは思わなかった。誰であろうそれこそが、矢久保だったのだ。
彼の口からドッペルゲンガーという言葉を聞いた時は驚いた。典子はその言葉を知らなかったわけではない、知っていると言ってもよかったが、知らないということにして矢久保がドッペルゲンガーについて何を語るのか、聞いてみたかったのだ。
彼の言っていることは、典子が理解している内容とさほど変わりはなかった。典子は矢久保が話したくらいのことは知っていたし、もっと深く理解しているという自負もある。「典子さんは、結構いろいろ詳しいんだね」
と聞かれ、
「ええ、実は私の義兄が学者をしていて、その影響で私もいろいろお話を聞いたり、自分なりに本を読んだりとかはしたんですよ」
「なるほど、そうだったんだね? 僕の場合は自分の経験とそれによって気が付いた性癖について勉強しているうちに、心理学のような話に興味を持つようになってね」
と矢久保は言った。
さすがに自分の母親に無理やり犯されたなどという話はしなかったが、その経験から自分の性癖に気付いたとしても、それはありえることだった。典子も義兄がそばにいたことで自分の性癖に気付いた部分は多々あった。レズに走ったのも、そんな自分を先輩が見据えたからなのかも知れない。それを想うと、自分が矢久保と似ているところはたくさんあると思うのだった。
典子が義兄のことを他人に対して口にしたことは今までになかった。本当ならこれほど有名な学者を義兄に持っていれば、自慢したくなるのも無理のないことのように思えるが、典子の場合はそうではなかった。
むしり隠しておきたいと思った。
それは典子の中にある一種のプライドのようなもので、典子はあくまでも褒められたりおだてられたりして喜ぶのは自分のことだと思っていた。まわりのいくら自分に近い人間であっても、その人は他人であり、手柄があったとしても、それは自分のものではない。そのことを必死で訴えているつもりでいたが、それが伝わることはなかった。心の中で自分という人間がそういう性格であると思われたくなかったからだ。
二人の間で会話も途絶え、いよいよ相手の身体を貪る時間がやってきた。
これはいつものことであり、前戯の前戯とでもいうべきか、会話が最初にあるのが二人の営みのオアターンであった。
矢久保という男は果ててしまうと、他のオトコ同様に、憔悴感がハンパではなくなってしまう。
一緒に果てることができたとしても。まだまだ余韻が残っている女の典子にとっては、アッサリとしてしまう彼とずっと身体を重ねていたくなかった。
最初に会話をすることで、最後の感情を頭に持ってくる。それを典子は、前戯の前戯だと思っていたのだ。
ただ、矢久保はそうは思っていないようだった。果てた後の倦怠感を典子が嫌がっているなどということはまったく分かっていない。自分勝手な男に成り下がってしまっていることを理解できていないのだ。
この日の会話は、半分記憶喪失になった典子だったが、忘れているわけではなかった。むしろ、ハッキリと覚えている。
会話がなくなってお互いを貪るようになると、典子の身体はいつになく反応していた。
「ああ」
矢久保も興奮が次第に強くなってくる。
お互いに意識が薄れていく日艦隊がある。いつもそこで、
「このまま意識を失ってしまったりすれば、これ以上の快感はないのかも知れないわ」
と感じるが、気を失うことはなかった。
何と言っても時代がっこういう時代である。気を失ってしまったりして逃げ遅れるわけにはいかないと思ったからだった。
この頃になると夜間爆撃も頻繁で、深夜だからと言って、安心できない場合もあったりする。おかげで寝不足の時もお互いにあるくらいで、特に看護婦の典子には辛い頃であった。
典子と矢久保のどちらが快感を貪っていても冷静だったのかというと、典子の方だっただろう。
快感というのは、男性よりも女性の方が数倍強いと言われているが、そのことを分かっているだけに、余計に典子は快感にすべてを委ねることはできないでいた。
特に性癖が異常なお互いであるので、二人ともが深みに嵌ってしまうと、一歩街合えれば死に至ると言えなくもなかった。
典子の場合は、Sであった。彼女が自分で感じているように、相手によって、SにもなればMにもなる。同じ相手に両方だって十分にいけるだけの自負もあった。
そんな自分を顧みていると、目の前でM性を発揮している矢久保に対して、さらに苛めたくなってくる。自分が先輩にされて感じている感覚を自分が与えているのだと思うと、背筋がヒヤッとするほどの快感が襲ってくるのだ。
男と女の違いはあるが、相手がオトコだという異なるものであれば、余計に興奮は深まっている。
――これが最初に私に襲い掛かってきたあの男なのか?
と思うと、背筋に流れる一筋の汗が、まるでナメクジの這ったような気持ち悪さと快感のどちらを感じていいのか分からないという思いに至る。
「アメとムチ」
という言葉があるが、自分が与えているものと、相手に与えられるものが、普通であれば、自分が与えるものがムチであり、相手からはアメが返されると感じるのだが、彼に関していえば、
「お互いにその両方を求め、与えている」
と言える気がする。
典子は矢久保を襲っている時、ふとした瞬間、
「目の前にいるのが、自分のような気がする」
という思いに陥ることがあった。
その時も彼の顔に浮かんだ自分の顔を見て、さっきのドッペルゲンガーという話を思い出した。
――私はこのまま死ぬのかしら?
と思った瞬間、耳を右から左に抜けていくサイレンの音が響いているのを感じた。
「空襲警報だ」
と、どこかから声が聞こえた。
そしてすぐに爆発音とともに、耳が急に聞こえがよくなって、爆弾が落下する音さえ確認できるようになっていた。
だが、二人の野獣はここでやめるわけにはいかなかった。どっちも顔を見合わせて覚悟を決めているようで、なぜかその顔に安心感をお互いに感じていたのだ。
絶頂はすぐにやってきた。典子は脱力感から、遠くの方で逃げ惑う人の叫び声を聞きながら、自分が浮世離れしているような気持ちになった。自分が着ている服が長襦袢か羽織袴のような純日本風の衣装で、部屋の壁が真っ赤に見えるような気分さえしていた。
――まるで吉原か、玉ノ井のようだわ――
と、昔からある遊郭を想像しているだが、もちろんそんなところに入った頃があるはずもない。
まわりの壁が赤く見えたのは、きっと表が燃え盛っていることを無意識に想像していたからだろう。
――もうこのまま死んだっていいわ――
なんて思ったりもしたが、それは絶頂に達した後の感情が強すぎたからに他ならない。
我に返れば、
――どうしてあの時逃げなかったんだろう?
と後悔するのだろうが、後悔すれば、それは死んでしまった後ということになるだろうから、おかしなものだった。
それを想うと、なぜか噴き出したくなり、動かすのが億劫な身体をくねらせて、ただ笑いに興じていた。
「何がそんなにおかしいんだい?」
矢久保もまわりのことなど知った風ではないと言った感じで、逃げようとはしない。このまま死んでもいいとでも思っているのだろうか?
「どうして逃げようとしないの?」
と聞くと、
「どうせいつかは死ぬんだ。慌てて逃げたってしょうがない。今の世の中、死ぬのも地獄、生きていくのはもっと地獄なのかも知れないしな」
と言った。
「逃げ回って、結局生き残っても、こんな世の中、ロクなことがないのは分かる気がするわ。でも、それなのに、どうしてみんな生きようとするのかしらね?」
「本能なんじゃないか? 自殺を試みる人だって、躊躇い傷をいくつも作ったりするだろう? 意外と死を覚悟している人の方が品掛かったりするものだよ」
「じゃあ、私たちも死なないかも知れないわね」
「ああ、そうだな」
と言って、二人で笑みを浮かべた。
しかし、さすがに身体が動くようになると、
「じゃあ、そろそろ俺たちも逃げようか?」
と言って、矢久保はそそくさと衣服を着た。
典子も同じように服を着て、必要なものだけを取って、表に出る。表は悲惨な状況になっていて、火は相変わらず燃え広がっているが、不思議なことにこのあたりまで押し寄せてくることはなかった。
ただ、逃げる際中、典子の手を引いていたはずの矢久保の手が急に離れた。
「矢久保さん」
急に手を離された典子はビックリした。
お互いに手に汗を握っていたので、指が滑ったのかも知れないが、不思議なのは典子にとって、いつ彼の手が離れたのか、意識されていないということだった。
その時、典子は今まで一緒にいたのが、本当に矢久保だったのかということも曖昧な気がしてきた。誰かと一緒にいたという意識はあるが、一緒にいた相手を忘れてしまったことで、急に命が惜しくなってきた自分を感じた。
――急いで防空壕の中に――
という思いが強く、とにかく近くの防空壕に逃げ込んだ。
矢久保とはぐれてしまった時の意識を思い出したのは、いつになってからのことだったか、その日の空襲で記憶に残っているのは、防空壕の中からのことだけであった。あの日、何かウキウキすることがあったことだけは覚えていたのだが、相手が矢久保だったと思っても、その意識がピンとこなかったのは事実だった。
後から思い出したのは、終戦を迎えてのことだったのだが、あの時に矢久保とドッペルゲンガーの話をした記憶も一緒によみがえってきた。
――どうしてあの時、彼はそんな話をしたんだろう?
典子はドッペルゲンガーを見ると死んでしまうという話があることを想い出した。
あの時、一緒に逃げたと思った矢久保だったが、途中からまるで違う人のように感じたのを思い出したが、それはあの究極のパニック状態に陥ったことから、相手がいつも自分と一緒にいる人ではなく、違う人だと思ったとしても、それはおかしくない気がした。
まわりが火に包まれて、顔が汗でテカテカになっている状態で光って見えるその顔は、まるでこの世のものとは思えなかった。
特に目は光っていて、濡れていたに違いないと思うと、優しい笑みも不気味な笑みにしか見えず、恐ろしさを演出していた。
「矢久保さんは、本当にどこに行ったのかしら?」
と思うと、あの時に感じた、
「死ぬも地獄、生き残るも地獄」
という思いを思い出していた。
確かにS根層が終わり、空から爆弾や焼夷弾が降ってくることはなくなり、火の海に包まれるという恐怖はなくなった。しかし、敗戦により、進駐軍が侵攻してきて、今では街は完全な占領状態である。逆らうこともできず、逃げ惑う人々、彼らに身を委ねて必死に生き残ろうとする人、非難することはできないが、地獄絵図を見ているように思えてならなかった。
典子は義兄に引き取られる形で何とか不自由な思いをすることもなかったが、看護婦生活は続けていた。不自由のない平穏な生活を続けることもできたが、精神的に下手に余裕を持つと、ロクなことを考えないという思いから、敢えて看護婦の仕事をやめる気にはならなかった。
それは義兄も認めていた。
「お前がその気なら、病院を紹介してやろう」
とも言ってくれ、いい意味で充実した生活を営めているように思えたのだ。
病院に勤め始めると、そこにはレズに興じた先輩看護婦がいた。
「お久しぶりです」
と挨拶に行くと、彼女も再会を感激してくれ、
「よかった。生きていたのね?」
お互いに生きていたことに感動していた。
だが、彼女はそれまでの異常性癖を忘れたかのように、生活はノーマルになっているようだった。
「私、戦後になってから結婚したの」
というではないか。
あれほど男性を毛嫌いし、自分が男役であることから、男性の存在すら性の世界での存在を否定していたほどの彼女に何があったというのか。
「戦争がね、私を変えたのよ」
という。
「彼女も戦時中、大空襲に巻き込まれ、命からがら生き残ったというが、そのせいもあってか、
「死線を潜り抜けてく地獄を見るのよ」
と、彼女は言った。
「というと?」
「地獄って、皆同じものだって思っていたけど、人によって違うのよね。私が見た地獄はオンナだけでは生きていけない世界を見たことなのかも知れないわ。それは戦争中に感じたことではなく、戦後だったんだけどね」
という。
話を聞いてみると、彼女は戦後、一人で避難していたところを米軍の兵に蹂躙されたようだ。相手はただの遊びだったが、先輩は必死になって抵抗した。先輩の抵抗は貞操を守ろうとしたものではなく、生理的に受け付けないはずの、存在すら認めていない相手からの暴行なので、これほどのショックはなかったという。
自殺も試みたようだが、
「人間って、一度死に損ねると、何度も死ぬ勇気なんて持てるものではないわ」
と、きっと一度死にそびれたことで、死を断念するくらいにまでになったのだろう。
それを思うと、自分が生きているという理由も何となく分かる気がした。死の覚悟を何度したか、自分でも覚えていないが、次第に死に対して慣れてきた自分と、覚悟を何度もするうちに死を考えることに疲れ果ている自分に気が付いたからなのかも知れない。
「私はね。もうどうでもいいと思ったの。だから結婚という実に平凡な人生に逃げ込んだつもりだったんだけど、それもいいかなって今では思う。人間、なるようにしかならないからね」
と、彼女はあくまでも曖昧な発言しかしなかった。
それは、しなかったのではなく、できなかったのではないだろうか? もしどんな言葉を思い浮かべたとしても、それは口だけにしかすぎず、そんな言葉を発するくらいなら、曖昧にはぐらかすことで、煙に巻く方がいいと思ったのではないだろうか。
「私は自分が死ぬということを怖いと思ったことはないんだけど、そう思ってきた自分が今では信じられないのよ。襲われた時、死のうと思ったはずなのに死ねなかった。そんな自分を恥ずかしいと思ったのも事実だし、死ぬくらいのことをどうしてできないのかとまで思ったくらいないなの」
と言った。
「死ぬということって。そんなに難しいことなのかしら?」
と典子はボソッと言った。
「自分で死のうとするのは難しいかも知れないね。でも、戦争中のように、死にたくないと思って必死に逃げ回っていると簡単に死んでしまう」
「だけど、サイパンやグアムなどの人たちはどうなのかしら? 玉砕って、結局は自殺なんでしょう?」
「確かにそうだけど、あれば、一人じゃなく皆で行ったからできたのかも知れないわ」
「じゃあ、敵兵に囲まれて、手榴弾で自爆するというのは?」
「これも、やっぱり凌辱を味わうことを思えば、死を選ぶ方がいいと思ったからなんじゃないしら? 手榴弾や青酸カリのようなものがあれば、自分で手首をカミソリで切るよりも確実に死ねるからね」
彼女の言っていることは確かにそうだと感じた。
しかし、まさか戦後生き残った自分たちが、戦争中に死んでいった人たちのことをいろいろ想像して話をするとは思わなかった。
「死んだ人を冒涜するようで、あまりいい気分じゃないわね」
と典子がいうと、
「そうかしら?」
と彼女は言った。
それを聞いて、少しムッとして聞き返したが、
「どうして?」
「だって、死ぬも地獄、生きるも地獄なんでしょう?」
と言われ、典子はハッとした。
「どうして……」
と、戦争中に何度感じたか分からない思いを、今ここで先輩から聞かされることになるのかと思うと、不思議な気分になった。
「どうしてって、この思いは私だけでもなく、きっと生き残った人が皆少なからず抱いている感情なんじゃないかって私は思うのよ」
と彼女が言い、虚空を見つめているようだった。
確かに典子は自分だけではなく、矢久保もそういったのを確かに耳にした。だからといて、他の人も皆同じことを思っているなど思ってもいなかったからだったが、次の瞬間、急に何かが降りてきた気がして、
――そうだわ。皆自決することができたその心境は。今彼女が言った「死ぬも地獄、生きるも地獄」ということなのかも知れない――
と感じた。
典子だって、病院から、
「生きて凌辱の辱めを受けず」
と言って渡された青酸カリを持っていた。
――こんなものを使う時が来るのかしら?
と思ったが。結局は使うこともなく、今は家の引き出しの奥深くに眠っている。
「ねえ、死ぬも地獄生きるも地獄ということは、別の意味もあるって私は思うのよ」
と先輩は言った。
「それはどういうことなの?」
と聞くと、
「死ぬも凌辱、生きるも凌辱」
と言った。
「えっ、生き残ったことで凌辱というのなら分かるけど、死んだ人が凌辱ってどういうことなの?」
それこそ、死者への冒涜に思えたことで、思わず声を荒げた典子だった。
「これはもちろん、究極の気持ちだから、他の誰にも言えないんだけどね。それだけ死ぬことと生きることとの間に境目は薄いものなんじゃないかって思うのよ。実際には生きている人間は死の世界を覗くことってできないでしょう? しかも一度死んだら、生き返ることはできないってね。だから、生死の間には、超えることのできない結界があるって思う。だから、自殺をしようとしても、なかなか叶わないし、自ら死を選ぶことは冒涜のように言われる文化があるのよ」
「でも、今の時代は、生と死の狭間には、そんな結界などないかのように思うでしょう? これって本当にそうなのかって、逆に私は思うの。『死んだら終わり』っていう発想は、本当に間違っていないのかって思うことが、死ぬことを冒涜だという発想と一緒に考えないといけないんじゃないかってね、そう感じたのよ」
「宗教では、輪廻という発想もあるようね」
「そうね、人間は死んでも生まれ変わることができるという発想よね。でも、そう思うからこそ、この世での行いにこだわるという宗教的な発想があるんでしょうね。逆にいうと、そういう発想がなければ生きてこれない時代があった。今のような最悪の時代とは別の意味での最悪さ、ひょっとして、本当に線で繋がっている過去なのかしらね?」
彼女はなかなかいろいろ考えているようだ。
典子は、人の死を嫌というほど見てきた。病院で死ぬ人も、戦争で死ぬ人も数えきれないほどだ。しかし、死をたくさん見れば見るほど分からなくなってしまう。
――病院で死ぬ人は、病気などで運悪く病気になって死ぬのだから、戦争で死ぬのとは違う――
とも考えたが、
――死にたいと思う人などいないだろう――
という発想では、戦争であれ、病気であれ同じものなのだ。
病気で死ぬ人と、戦争で死ぬ人の違いは、自分がどうにかできるかできないかの違いでもあるだろう。病気の人であれば、結果的に死んだとしても、しっかり看病して、助かるように助力するものだが、爆弾や焼夷弾で即死したり焼け死んだりする人は、看護婦の典子にはどうすることもできない。
それでも、助けられないということでの、やり切れない気持ちに違いはあるのだろうか?
典子は最初、
「違いなどない」
と思っていたが、次第に
「やっぱり違うんだ」
と思うようになった。
戦争で死ぬ人を見ることは、感覚がマヒしてしまうことに繋がると思うからだ。
では、自分に関係のある人が死んだとして、その人がどうやって死んだのかということを考えた場合、違いはあるだろうか?
典子にはないと思っている。自分に関係のある人が死んだ場合、大切であればあるほど、死というものを別世界のものだと思いたくなる。まるで他人事のように思うことで、典子は記憶を失ってしまったのにも、何か理由があると思っている。
失った記憶もあれば、覚えている記憶もある。部分的な記憶喪失なのだろうが、突発的な記憶喪失ほど、原因は突発的なことではないかと思う。何かショックなことがあり、そのショックなできごとは、自分にとっていいことなのか、悪いことなのかを考えていた。
――記憶喪失って、夢と似ているような気がする――
と典子は考えた。
夢というのも、目が覚めるにしたがって忘れていくものである。典子の意識として感じているのは、
「楽しかったり、嬉しい夢ほど忘れてしまっていて、怖かったり覚えていたくない記憶ほど、覚えているものだ」
というものであった。
ということは、記憶を失ったものには、楽しかった記憶も含まれているのかも知れないと思う。覚えているのは、おかしな記憶ばかりだということも、その思いを裏付けているような気がするからだ。
あの空襲警報の中で感じたのは、矢久保と話したドッペルゲンガーの話が印象的だったことである。
「もう一人の自分」
この発想は、怖いものであるが、意識の中に確かにあった。
矢久保の話を聞いたから、その感覚を持ったわけではなく以前からかんじていたことであった。
典子は矢久保と話をしていて、自分のドッペルゲンガーを想像したが、もし、矢久保はその時、思いついたから話をしたわけではなく、自分のドッペルゲンガーを見たことで口にしたのかも知れない。
ドッペルゲンガーは見ると死ぬと言われていて、、人に話そうがどうしようが関係はない。そういう意味で話をしたのだろうが、典子にはその話を聞いてしまったことで、矢久保は死ぬことになったと思っている。
まだ、彼の死体が見つかったという話を聞いたことはない。捜索願は出ているが、こんな時代なので、行方不明者を見つけ出すのは、実に難しいことであろう。
典子は、最近次第にあの日のことを思い出せそうな気がしていた。ただ、思い出すことは自分にとってよくないことのように思えてならないが、それが、
「私が矢久保さんを殺したのかも知れない」
と思ったからだ、
だが、それは最終的に矢久保自身が望んだことのように思えた。
「俺もそろそろ潮時なのかも知れないな」
と、そう言った。
何が潮時なのか分からないが、典子には彼の気持ちが分かった気がした。
――もし、私が潮時だと思ったとすれば、それは先輩との恋愛感情を抱いたことを、矢久保さんに看破された時かも知れないわ――
典子は、矢久保とドッペルゲンガーの話をした時に、一緒に何か話をしたような気がした。
――そうだ、彼の最初の相手が、自分の母親だった――
ということを聞かされた。
「禁断」
という言葉をそのまま使える内容で、典子が先輩とレズの関係になったということを彷彿させられ、まるで矢久保に自分の心の奥の奥まで見透かされているような気分になり、怖くなったのを感じた。
「穴があったら入りたい」
などという生易しいものでもなく、同じ穴でも、
「同じ穴のムジナ」
だと言っていいだろう。
典子はその時、急に恐ろしくなった。
自分が自分ではなくなったような感覚になり、その前に聞いたドッペルゲンガーの話と頭の中が交差して、
「いるはずのないもう一人の自分を創造してしまったのかも知れない」
と思ったのだ。
その自分が、矢久保を殺した。
殺された矢久保も、実はもう一人の矢久保であり、お互いに存在しないはずのものを葬ったという気持ちになったのだが、精神的には人を葬ったという意識を持ったため、そのショックで記憶を部分的に喪失したと考えてもいいだろう。
記憶を喪失することが、まるで病気の抗体を作っているかのようで、時間が経てば、失った記憶も思い出せそうな気がしてきた。
ただ、本当に思い出したいと思うかどうかは別であり、典子の中では、
「なるべくなら、思い出したくない」
と思った。
その理由は、思い出すことでそれまで自分の中で突き詰めたいと思うことが成就するような気がしたからだ。
――本当は成就させたいのに、成就することで失うことの方が多いような気がする。だから、記憶を失ったのではないか?
という思いにもなっていた。
典子の中では、記憶が戻ることで、永遠に抜けることのできないジレンマが、その後の自分に開けてしまうような気がしたのだ。
矢久保の死体が発見されたのは、それから二年が経っていた。バラックは相変わらず存在していて、混乱した時代にいつ終わりがくるのか分からないような迷走している時期であったが、矢久保の死体は、矢久保の家から防空壕までの間の道で見つかった。掘り起こしたことで分かったことだが、ほとんど骸骨かしていたが、来ている服の名前や所持品から、矢久保だと確定された。
それが、本当の矢久保なのかドッペルゲンガーなのか分からない。矢久保の身内は皆死んでいて、引き取りては、捜索願を出した典子に委ねられた。
典子は、矢久保の骨を引き取り、矢久保家の墓に入れてあげたが、それからというもの、典子の姿を見たものは誰もいなかった。典子は自分が生き残るために、緊急避難のような形で矢久保を葬ってしまったのだ。そもそも骨を引き取りに行った典子も、一言も口を開かなかったという。いわゆるドッペルゲンガーと同じであった。
矢久保を殺してしまった典子は、それ以降、生と死の狭間のジレンマを彷徨っていたのかも知れない……。
( 完 )
生と死のジレンマ 森本 晃次 @kakku
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