第2話 記憶喪失
記憶を失った矢久保は、空襲警報が鳴り響いたその日、典子と別れてしまった。せっかく典子と身体を交わし、お互いの性癖を知ることで二人の間には今後の見通しがついたと思った矢先のことだった。
典子と矢久保は自分の性癖をずっと分かっていて、
「そんな性癖を分かってくれる人など、いるはずもない」
とお互いに思っていた。
二人ともいつも自分の中にもう一人誰かがいるような気がしていて、そのもう一人の自分に話しかけていた。返ってくる返事が自分のすべてだと思っていて、自分のすべてこそが、この性癖のすべてでもあるかのように思っていたのだ。
他人には相談できないことなので、他人は他人だと思う。だから他人事のように自分が感じていることには敏感だっただろうが、それを他の人がいう「他人事」という表現と一緒にされることを憤慨だと思っていた。
典子は看護婦になったのは、自分の性癖を理解していたからなのかも知れない。もっとも自分の中にSのような性癖があるなど思ってもいなかった。サディズムなどという言葉ももちろん知らず、人を苛めて悦ぶなどという感情の存在を認めることができるような女の子でもなかった。
幼女の頃はいじめられっ子だった。
子供の頃は女の子と遊ぶよりも男の子と一緒にいる方が多く、男の子数人と女の子は典子一人という紅一点の状態に、男の子たちよりも典子の方が興奮していたようだ。
男の子の方は、違和感があったにはあったが、それは相手を女の子として意識するというよりも、
「別の生物」
でもあるかのようなイメージだったのだ。
思春期前の少年少女時代というと、男の子よりも女の子の方が成長が早いと一般的に言われているが、それは肉体的な部分だけではなく、精神的な部分でも大きいのではないだろうか。
典子にも幼少時代、人に言えない過去があった。
矢久保の場合は、母親にいいようにされていたという過去があったが、典子の相手は、
「お兄ちゃん」
であった。
このお兄ちゃんというのは、義兄であった。典子の父親が徴兵を受けて、外地で勤務している時、疫病に掛かって亡くなった。それで未亡人になった典子の母親と結婚したのが、当時父親の上官をしていた大尉に当たる人であった。
彼は父親とは親友であり、中学時代から親交があったという。母親とも仲が良く、よく一緒に出掛けていたという。そんな義父には元々奥さんがいたらしいのだが、奥さんも理由はハッキリとは分からないが亡くなってしまったということで、妻を亡くした義父と、未亡人である母親とがそのまま結婚したということだった。
時代が時代なので、障害もそれなりにあっただろうが、何とか結婚にこぎつけることができたことで、典子には義父の連れ子となる義兄ができたというわけだ。
義兄は典子よりも三つくらい年上だった。典子がまだ十歳にも満たなかった頃、中学に進学した義兄だったが、身体が弱く、病弱であった。それを義父は、
「母親の遺伝なのかも知れないな」
と言っていたのを聞いたことがあったので、義父の奥さんは、生まれつき身体が弱かったのかも知れないと感じた。
身体が弱かった義兄は、いつも一人でいた。家にいては本を読んだり、何かを書いていた李と、文学青年なのではないかと思えるような雰囲気だった。
典子は義兄に対して、どこか近寄りがたい雰囲気を感じていたが、そのひ弱さと文学青年的なインテリなイメージに、どこか惹かれるものを感じていたようだ。
決して自分から近づいてはいけないという思いを抱いていたにも関わらず、一人でいる義兄をいつも目で追っていた。襖の影から見つめている様子も伺えたが、その雰囲気を隠すのは典子は下手だったのだ。義兄にはすぐにバレてしまい、義兄の方では、わざと自分が見られていることを分かっているという素振りを見せていた。
典子はそんな様子に興奮を覚えていた。
「自分が相手を見つめる。見つめられている相手がそれを感じて、果たしてどう感じているのか?」
それを知りたいという思いが、典子を興奮させていたのかも知れない。
次第に見られていること、そして垣間見ていることがお互いの間での「公然の秘密」のようになり、見られている方よりも、見ている方がその気持ちを強くしていった。
なぜなら見られている方に主導権があるからである。見られている方が行動する自由があり、見ている方には、それをコントロールする力はないからだ、だが、二人の間にその関係が微妙に狂ってきているような気がした。
――俺は彼女に見られることで、やらされているような気がする――
という思いに義兄は駆られていた。
典子の視線が相手を操るだけの力があるわけではない。相手にすぐに看破できるような素直な視線であるが、あくまでも素直であって、必要以上の圧力を感じさせるものではない。
だが、男の方は自分がまるで操り人形にでもなったかのように、身体の自由を奪われているような気がしていた。しかも見ている相手に、そんな鋭い視線を感じるわけでもない。義兄は、
――俺がおかしいんじゃないか?
と思うしかなかった。
なぜなら、このことを典子に確かめてみる勇気がなかったからだ。そもそも、典子と義理の兄妹になってからというもの、まともに話をしたことはなかった。食事の時にも寡黙で、これは元々食事の時間は静粛にするものだという義父の基本的な考えによるものだが、義父でなくともこの時代では、食事の最中に余計なことを話さないというのは当たり前のことでもあった。
しかも本当の兄妹ではなく、つい最近、
「二人は兄妹だ」
と言って、いきなり連れてこられて対面した相手なので、何かのきっかけでもなければ話をするなど、お互いに考えられなかった。
それならまだ相手に対していろいろ想像、いや妄想する方がいくらか簡単だった。典子の方はまだまだ幼女の域を出ていないのでそこまではないが、義兄の方は、そろそろ思春期に達する年齢であった。典子からすれば、思春期に差し掛かり、日に日に大人の雰囲気が感じられるようになってきた義兄が、どんどん遠ざかっていくように思えて仕方がなかった。
思春期というのは、羞恥を覚え、その羞恥心が自分の中のオトコを目覚めさせるのだが、羞恥を覚えるのは女性というものに対してなのか、それとも自分自身に対してなのか、その区別をしっかり分かるようになってこそ、いよいよ大人への入り口に差し掛かったと言っても過言ではないだろう。
典子は義兄を見ていると、
「何かしがらみようなものがあって、そこから抜けられずにもがいている」
というような雰囲気に感じられた。
もちろん、そのしがらみがどんなものなのか分かるはずもなく、必死にもがいているその姿が、急に可愛らしく感じられた。
――私にはないものだわ――
と感じたが、それが男女の違いというものなのか、それとも、まだ思春期に差し掛かっていない自分と、思春期真っ只中にいる兄との年齢を超越した違いなのではないかと感じた。
確かに義兄は何かに縛られているという感覚を持っていたが、それは典子が思っているようなしがらみではなかった。どちらかというと、もっと自由なもので、本人の解釈のしようによっては、どうとでもなる感覚だったのだ。
だが、この感覚が大切である。
いくら自由だと言ってもその感覚を誤認してしまうと、あらぬ方向に歩みを進めることになってしまう。そちらの方向に歩みを進めると、まわりからも一目瞭然と言えるような当時としては、
「堕落した人生」
を歩む最初のきっかけになってしまうという危惧があった。
まだ思春期に差し掛かっただけの人生なので、まだまだやり直しは利くのだろうが、最初が肝心だという考えも当然のことであり、最初を間違えると修正するのは困難であるだろう。
そんな漠然としたものが典子には中途半端に見えて、まるでしがらみのように感じられたのだとすれば、それも無理もないことであろう。
しかも、その頃の義兄は、まわりの同級生の間からも無視されるようになっていて、いわゆる、
「村八分」
として、まわりが結束して義兄に関わらないようにしていたようだ。
その理由も差だからではない。
もしこれを、
「苛め」
の一種だとすれば、苛めに理由などありえるのだろうか。
気に食わない人がいれば、それが苛めの対象になるというのは、古今東西変わりがないことのように思える。
つまりは、都会であっても田舎であっても、時代は明治であっても大正であっても昭和であっても変わりない。もちろん、微妙な違いはあり、それが時代の流れとともに変革しているのも分かっている。だが、そんな微妙な違いに対しては、時間の経過とともに、その時々を点として捉えれば、きっと大変な違いと思えるのも仕方のないことのように思えるのだ。
都会で過ごしたことのない人間には都会の人間の雰囲気が、田舎で過ごしたことのない人には田舎の人間の雰囲気が分からない。そのためお互いを恐れるためか、精神的にはどうしても相手に対して敵意を最初に抱いてしまい、その敵意が元々は警戒心からが出発点だったということを理解させないのだろう。
義兄はずっと東京で育ったらしい。この事実も典子が義兄に対して、どこか敵対心を抱いていた理由でもあっただろう。
近づいてはいけないと思いながらも、その一挙手一同が気になってしまう。義兄としても、相手が自分を警戒しているのは分かっていて、しかも自分が都会からやってきたという自負があるため、決して弱みを見せてはいけないという意識があった。
それは自分の中にある、
「都会人の意地」
のようなものかも知れない。
だが、実際には都会の生活に慣れることができず、田舎に引きこもったというのも田舎にやってきた一つの理由だった。
母親と結婚したのも、母親を好きになったということだけではなく、都会と隔絶した世界で生きていきたいという切実な思いからだったのかも知れない。都会から逃げてきたという思いは義父から力強く感じるが、義兄に対しては反対だった。都会にいたという自負がだいぶ残っているようで、「都落ち」した父親に対して軽蔑の念を抱いているのも事実である。
――こんな田舎――
と、心の奥では田舎町というもの自体、あるいは、それ以上に田舎の人間を疎ましく思っているに違いなかった。
田舎町で暮らしてみると、心のどこかでそれまで感じていた田舎に対しての偏見が溶解しているのが分かっているようだが、根本の部分では納得できなかった。それは田舎を容認している自分がいることへのジレンマだと言ってもいいだろう。その感覚が思春期という微妙な精神状態に達した青年の意識と相まみえて、その状況を難しくしているのかも知れない。
義兄は、思春期に差し掛かるまで、女の子を意識したことはなかった。それは普通の男の子である証拠だともいえるのだが、思春期に差し掛かったことになって、急に女性を意識するようになった。
クラスメイトで気になる女の子がいるのだが、義兄はそれを、
――思春期になった証拠なんだ――
と思っていた。
なるほど、思春期になったからクラスの女の子を意識するようになったのも無理もないことだったが、実際には違っていたのだ。その違いに最初に気付いたのは典子が学校の帰りにクラスメイトの男の子たちから苛められているのを見てからだった。
「何しているんだ」
と言って、飛び出した義兄を見て、苛めていた男の子たちは、まるでクモの巣を散らすかのように一瞬にして四方八方に飛び散った。
苛めていた子供は全部で四人だっただろうか、苛められていた本人である典子はまわりを見る余裕もなく、ただ俯いていたので、人数の感覚は分からない。義兄としても、一気に飛び出したので、飛び散った相手しか見ておらず、正確な人数までは分からない。
その時の義兄の行動は、反射的だったと言ってもいいだろう。もし少しでも躊躇していれば、飛び出すようなことはしなかっただろう。それだけ義兄の気が弱いということを示しているのだが、もし、本当に少しでお躊躇していれば、飛び出すことはなく、苛められている典子を見ながら、また別の感情に抱かれてしまっていたのかも知れない。
その感情とは、口にするにもおぞましいものだが、典子が苛められているのを見て、自分も興奮するという、一種の「自慰行為」のようなものに似ているかも知れない。もしそうであれば、そんな性癖を誰にも知られてはいけないだろうし、そうならなかったことで、義兄はそんな自分がいたことも分かっていないに違いない。
だが、
「あの時にもし飛び出してこなかったら?」
という思いが義兄の中にはあり、その時の感情として、実に気色の悪い感情が残ってしまうであろうことは想像できたのだ。
その感情がどのようなものであるかまでは分からない。自分で認めたくない何かであるとは思ったが、実際に思春期になって初めて「自慰行為」なるものをしたくらいの義兄には、その感情の正体が分かるはずもなかった。
それでも心のどこかに、
「もったいなかった」
という感覚も残っていた。
それは、自慰行為で果てた後に残る憔悴感に近いものだったのかも知れない。最後の快楽を求めるために行うのが自慰行為というものなのだが、果ててしまうとそこに残るのは憔悴感というやるせなさだということも分かっている。それと似た思いが、義兄の中にはあったのだ。
それからの義兄は、
――あの時と同じような思いを、もう二度としたくない――
という衝動に駆られていた。
その思いから、
――思い立ったことは躊躇せずに行動した方がいい――
という感情を強く持つようになった。
思春期というのは、衝動からの行動を起こすことが多いということを大人になって感じるようになったが、それがこの時の思いなのだということを大人になれば忘れてしまっていることが多く、想像もつかなかったりするものである。
苛められている典子を救った義兄は、実に不思議な感覚があった。
衝動での行動であったが、反射的に動いてしまったことを反省した。それは自分の中に残ったもったいないという気持ちがどこから来るのか分からなかったからだ。
「お義兄ちゃん、ありがとう」
というまだあどけなさの残る顔でいう典子を見ていると、
――どうして、妹なんだ――
という思いに苛まれた。
確かに血は繋がっていないが、体裁上の妹であるということは、貞操以前の問題であって、好きになってはいけない相手だということを瞬時にして悟らなければいけないに違いない。
義兄は少しでも躊躇すると、その躊躇は放射線状に巨大化していく妄想にとりつかれてしまうことがある。
クラスメイトの女の子が気になるようになったのは、
――妹を好きになってはいけない――
という気持ちの反動からだった。
躊躇からどれくらいの時間が経ったのか、想像以上に早く自分の妄想の正体を知ることができた。
――知らない方がよかった――
と感じることは、世の中にたくさんあるだろう。
だが、これほど自分の身がよじれるほどの歯がゆさが感じられるものを今までに感じたことはなかった。まだ十数年しか生きてこなかったが、いつも下ばかりを見て生きている義兄にとって、この十数年でも、結構長く生きてきたつもりだったのだ。
苛めっ子を退散させた義兄は、
「大丈夫か?」
と典子を助け起こし、その瞬間、自分が正義のヒーローにでもなったかのような英雄感を抱いていた。
しかし、それだけではなく、それ以上に典子からの崇めるという表情を期待した。それは誇大妄想に違いなかったが、
「もったいない」
という訳の分からない感覚が残っているせいもあってか、必要以上の妄想は致し方のないことに思えたのだ。
実際の典子の表情は、義兄が妄想したものとは違った。
いや、妄想という意味ではピッタリだったのかも知れない。それは期待ではなく、自分の欲望を満たしてくれるものだったということなのだった
典子の顔には、妖艶さが醸し出されていた。
「いや、見ないで」
そんな表情を感じた。
図らずもその時典子も同じことを妄想していた。
――こんなところを見られて恥ずかしい――
という思いとは少し違った。
「見ないで」
という感覚は、実は見てほしいという感情の表れであり、相手に自分を見せつけたいという感覚に近かった。
それは、SMの世界ではM寄りになるのだろうが、我慢できなくなるまでのことはないように思えたのに、その時の典子は、我慢できない気持ちになっていた。
見られることを望むというのは、自分を見てほしいという自己顕示欲であり、その強さがM性と言ってもいいのだろうが、典子の中には、
「その先」
があったのだ。
見られるだけでは我慢できず、自分の欲望を果たしてくれるような行動を相手に求める。それは性的な行動ではなく、ただ、
「見てほしい」
という感情である。
相手に見せつけることで、相手は何もできず、悶々とした気分になり、その素振りが自分を興奮させるものになるという感情だった。
だから典子は必要以上に相手を興奮させるようなことはしなかった。相手の理性の内でしか行動させてはいけないからだ。
相手が自分の殻を破って襲い掛かってくれば、それは自分が蹂躙されてしまう。そこまでは許せない。
クラスメイトとの関係でも、典子と苛めていた連中の間で暗黙の了解ができていた。
彼らは決して典子を蹂躙しようとは思っていない。典子の身もだえる姿を見せつけられて、性欲を掻き立てられるという彼らこそMであったのだ。
少年少女に、
「SMの関係」
などという大人の世界が分かるはずもない。
だが、お互いの線引きが分かっていた。それはどちらが指示するというわけではなく、お互いに了解しあっているということだった。
典子の方で、そんな相手にしか自分の性癖を見せていない。もし、他に自分に近寄ってくるちょっと違った性癖を持っているやつがいるとすれば、
――私の中には毒があるのよ――
と言わんばかりの雰囲気をまわりに見せつけることで、入ってこれなくしていた。
それが典子の、
「持って生まれた自己防衛能力」
であり、この力の先にあるものが、典子のS性だったのではないだろうか。
典子には天性の能力が備わっていた。
一つがこの、
「持って生まれた自己防衛能力」
であり、もう一つは、
「自分が寄せ付ける人間が自分に危害を加えない相手」
というものであった。
もちろん、幼児の頃にそんな能力が分かるわけもなく、矢久保と知り合った頃にやっと気づき始めたというくらいであった。
もっとも典子がその能力に最初に気付くきっかけをくれた相手が矢久保であったということに間違いはなく、それだけ二人の出会いは少なくとも典子にとっては自分の運命の分岐点となるはずだった。
典子は義兄に悪戯されたことをここで記してもいいのだが、その内容となると、普通のSMのようなものではなかった。確かに異常性癖によってもたらされた関係ではあったが、義兄妹としての絆を深めたのも事実であった。
典子はこの時の経験を、ずっと忘れることはなかった。いつも思い出す時は、
――まるで昨日のことのよう――
という感覚で思い出すのであったが、矢久保と知り合ってからは、それまでの感覚とまったく違い、急にかなり昔のように感じられると思わせた。
一気に時代が進んでしまい、自分の感覚を追い越したのではないかと思えるほどで、その感情の犠牲になったのが、
「矢久保の記憶喪失」
なのではないかと思うようになっていた。
典子は義兄とのしばらくの間の、変態とも思える関係を「黒歴史」だとは思っていない。ただ思い出すタイミングがあり、思い出すのは大切なことだという意識を持っていることだった。
矢久保がどこへ行ったのか、典子には分からなかった。典子は義兄の愛情を黒歴史だとは思っていなかったが、悪いことだという意識はあった。しょうがないという意識の中で、悪いことも許されるという感覚はその頃の社会風紀から考えるとありえないことであり、その思いを人に知られようものなら、もう誰も相手にしてくれないことだろう。
平和な時と違った動乱の時期は、まわりにすがらなければ生きてはいけない時代だった。自分一人がいくら息巻いたとしても、大きな波に飲み込まれるか、吐き出されてしまって、這い上がることができなくなってしまうかもどちらかだ。そのためにも社会道徳の存在は絶対であり、社会通俗に逆らうことは生きていけないことを意味していた。
だが、当時の日本は自由志向も叫ばれていて、自由な文化が花開きかけた時代でもあった。だが、そんな悠長なことを言っていることができないほど、世界は急速に動いていた。社会風俗でも出る杭は打たれ、表に出すことのできない風習が蔓延っていた。義兄と典子の関係もそんな中での一つの出来事に過ぎなかったに違いない。
義兄は頭がよかった。当時、田舎から帝国大学に入学するなど、普通ならあり得ないことを、義兄は達成した。理系では地元でも天才ともてはやされ、
「いずれは博士だな」
と言われていたが、その第一歩として、帝国大学に進学することになった。
物理学を学んでいたが、一年生の頃から天才の片鱗は見えていて、学会でも論文が高い評価を受けたようだ。
世の中が戦争へとまっしぐらな中で、義兄の研究は、兵器開発に十分な役割を果たしていた。
義兄は自分の研究が兵器開発に利用されることを嫌っているわけではなかった。かといって、戦争に使われてその成果を軍から評価されても、別に嬉しいという気持ちではなかったようだ。
――義兄はまったく別の何かを見ているんだ――
と典子は感じていたが、それが何なのか分からない。
ただ、兵器のためであろうが、自分の研究に耐えず没頭している義兄は、軍や政府の利権に絡むことは一切なかったようだ。
「俺の研究が兵器に使われているのをどう思う?」
と、義兄は典子に聞いたことがあった。
その頃の典子は、まだ中学校に通っていて、兄に対しては足元にも及ばないが、頭がよかったのは間違いない。中学を卒業してからの進路を決めかねていたが、学校からは、
「君だったら、女学校への進学も十分に狙える」
と言ってもらえた。
典子の中学校から女学校へ進学する女生徒はそれほど多くなく、実際に合格できるだけの成績を取れる女生徒があまりいなかったというのも事実で、やはり女性が上位の学校に行くなど、この頃はあまり考えられることではなかった。
しかも、典子には何の目標もなかった。義兄のように、何かを研究しているわけでもなければ、それどころか、自分が得意な科目も認識しておらず、好きな科目もよく分からないというほどだった。要するに、勉強に対して興味がなかったのだ。
別に勉強が嫌いというわけではない。むしろ好きと言ってもいいほどだった。
だが、何か目標がなければ、成績も平均して人よりもいいというだけで、何かに特化しているわけではないので、先生の方も強く進学を推すことができない。
つまりは、どの学部を受験すればいいかということすら決められないのだ。だからと言って典子は優柔不断だというわけではない。好きな科目も自分では分かっているつもりだった。
だが、必ずしも、
「得意な科目が好きな科目だとは限らず、好きな科目が得意というわけでもない」
と言えた。
勉強を一生懸命にやっても、その成果が別のところで出てしまい、本来であれば成績がよくて褒められたい科目が中途半端な成績では、全体がいくらよく褒められたとしても、嬉しくもなんともないのであった。
そんな典子がそれから数年もしないうちに看護婦として働いているというのを想像できた人がどれほどいただろう。
「典子さんなら、平凡な生活で平凡な結婚をしているんじゃないかしら?」
と思っている人や、
「変な男に引っかかって、それまでの生活を棒に振っているかも知れないわね」
という人、それぞれのようだ。
別に二重人格というわけではなかったが、偏見の目で見られることが多かったのも事実で、それが典子には黒歴史だったと言ってもいいかも知れない。
研究者として一定の成果を上げ、社会的にもその名誉や尊厳が保証された義兄に比べれば、典子は普通の看護婦として、その人生でかなりの開きがついてしまった。それでも、
「義兄は義兄、私は私」
と言って、家族による兄妹差別を一蹴した典子は、中学を卒業とともに、家を出たのだった。
看護婦を通いながらなんとか生活していたが、病院で知り合った医者とねんごろになり、一時期、
「結婚するんじゃないか?」
とも言われていたが、典子の過去を調査した相手の家庭に反対され、結婚は叶わなかった。
医者と別れてから病院にもいられなくなり、、また放浪するようになったが、今度の病院では少し長くいられるようだった。
病院としては、それほど大きな方ではなかったが、近くに軍の施設があったり、そのわりに病院関係の施設が行き届いている環境ではなかったので、軍関係からの患者が多かったようだ。
中には外地から怪我をして戻されたけが人も多くいて、矢久保もその一人だったわけだが、入院施設も一応整っていたこともあって、入院患者はひっきりなしであった。それだけ人手がたくさん必要で、軍関係ということもあって、あまり秩序もよくないというウワサが立っていたこともあり、看護婦として定着する人は少なかった。
軍相手ということになると、軍人さんを慰めるのも勘繰負の仕事の一つとなり、公然ではないが、秘密裏に慰安婦としての仕事も彼女たちには与えられていた。
もちろん、それだけの手当ては保証されたが、どうしても外地から帰ってきた人の中には、病気を持っている人も少なくない。外地は日本本土と違って、水質もよくなく、水から感染する病気もあり、看護婦の中には、そんな病気に罹り、ひそかに隔離治療を余儀なくされた人もいた。
そんな看護婦は一度病気に罹ってしまうと、それ以降はここで看護婦は続けられない。民間に引き取ってもらうことになるのだが、
「あの看護婦さん、昨日までいたのにな」
と言って、いきなり消える看護婦があるのは、そのせいだった。
看護婦に病気を移した患者も、もちろん伝染病専門病院に移され、看護婦と同様に隔離治療を受ける。軍部出身者が病気を患った場合は、伝染病専門病院を出た後、怪我が治るまで今度は陸軍病院に移される。元々は陸軍病院だけでは賄えない患者が増えてきたので民間に委託していた経緯はあったが、慰安という意味での民間病院は貴重で、そういう意味で典子の勤務する病院は、軍にとってはなくてはならない病院の一つだったのだ。
ただ、外地からの帰還兵が患っている病気にはさまざまなものがある。誰かに移されてからしばらくは無症状だったが、中には女性とセックスをすることで発病するというものもあるらしい。
軍の研究部としては極秘にされていたことであるが、さすがに病人を出した病院には知られてしまう。軍に対して従順で、軍に頼らなければやっていけない規模の病院は、軍にとって本当に必要だった。
当時としては、まだ軍の権力が民間には及んでいなかったので、守秘義務を順守してくれる病院でなければならない。つまりは病院と軍とがズブズブの関係になっていることも漏らすことのできない極秘である。
世の中が軍国主義に傾いていく中で、まだ戦争が始まる前というと、軍部が絶対的な権力を持って、街を動かす時代でもあった。そんな軍の直営ともいえるこの病院は、地元ではかなりの権力を持っていて、その恩恵に預かってか、病院は金銭的な面ではかなり潤っていた。
ただ、それは病院の経営者など一部の人たちに言えることで、軍の影響力がほとんど及んでいない最前線の医者であったり看護婦には、病院幹部に恩恵が流れているなどというキナ臭いウワサを知ることもなく、絶えず軍人に対して、慎ましく接するように心がけさせられていた。
だから、外地から帰ってきた軍人である矢久保に対して、典子は逆らうことができなかった。典子は矢久保のことを嫌いではなかったが、別に好きというわけでもなかった。ただの患者さんとして接するうちに情が移ってきたのは確かで、話をするうちに、矢久保の中にある寂しさが感じられるようになった。
典子の中にも一抹の寂しさがあったが、その正体が何であるか自分でも分かっていなかったのに、矢久保の寂しさに触れた時、
――忘れていた何かを思い出したような気がする――
と感じたのだ。
それは、
「矢久保に対して、兄と同じ臭いを感じた」
ということであった。
それがどんな臭いなのか分からない。義兄に対して普通の知り合い方であるなら、一番知り合いたくないと思える相手であった。今だ恋愛感情などというものを抱いたことのない典子は、自分が変態であることは自覚はしているものの、恋愛などという甘っちょろいものにうつつを抜かしている他の人たちを嫌悪もしていた。
「恋愛なんてまどろっこしいだけじゃない。相手を求めるなら、即決な方が素直でしかも、感情が素早く相手に伝わるので、勘違いなどもありえない」
と思っていた。
実際に人に勧められて恋愛小説などというものを読んでみたが、途中の半分にも満たない部分で挫折してしまった。
「本当にじれったい。相手を求めるなら、自分から抱き着くくらいの行動がなければいけないわ」
と思っている。
しかも、その小説は、「あざとさ」が前面に出ているような小説だった。言いたいことをオブラートに包み、気持ちを直接伝えないところが読者の共感を引くのだと言われているようだが、皆が皆同じ考えであるわけはないという思いから、読んでいて次第に惨めになる自分を感じた。
それは、まともに正面から見ていない自分が情けなく惨めだということは分かっていることであった。だが、読む人皆同じだと思わせているようで、どうしても容認できない部分がある。本来であれば、
「そんなに嫌なら、読まなければいい」
ということなのだろうが、その気はなくとも人に言われたからと言って読み始めた以上、すぐにやめてしまうことは自分にも納得のいくことではなかった。
変なところがまっすぐな典子は、さすがに読んでいて嘔吐を催してきたことで、これ以上の読破は無理だと思ったことで、途中で読むのをやめた。どうしても納得のいかない部分がある反面、納得のいく部分があったのも事実だった。
しばらくはその本のことを忘れていたが、矢久保と話をしていると、その本で納得した部分が矢久保との会話で繰り返されているような気がした。
彼との会話は別に何の変哲もない会話であったが、ところどころ出てくる母親という言葉に、典子は違和感を覚えながら、自分も義兄を思い浮かべてしまっているのを感じた。
――私がこの人の立場だったら、私はお義兄さんの話をするのかしら?
と思った。
彼が会話をしながら緊張しているのは分かっていた。緊張してしまうと、普段なら絶対に話さないような話題でも口にしてしまいそうになるのを感じることがある。むしろ普段しない話をしたくなると言ってもいいようなシチュエーションを、緊張しているという感覚は与えてくれるのかも知れない。
「お義兄ちゃん」
思わず口から出てしまったことを、最後の語を発生する前に気付いてハッとしてしまった。
矢久保は気付かぬふりをしているが、絶対に気付いているに違いない。その証拠にそれまで世間話しかしていなかった状況で、いきなり微笑みをかけてくれたのだから、何か感じるものがあったからに違いない。
矢久保の微笑みは、包み込むような微笑みだった。だが、その微笑みには、
「委ねたい」
という気持ちが含まれていたわけではない。
どちらかというと、
「癒されたい」
という気持ちが強かったような気がしてならない。
癒されたいという気持ちは委ねたいという気持ちとは正反対の感覚であり、相手に身を任せるわけではなく、相手が与えてくれるものに自分が乗っかるという意味に近かった。
典子は、
――与えられるものだけで満足できない性格なのかも知れないわ――
と感じ、そこに欲求不満が渦巻いているように思えてならなかった。
その感覚は、
「癒されたい」
という思いがS性であり、
「委ねたい」
と感じることがM性だと思った。
S性に関しての癒しは、Mの人であっても感じることであり、癒しだけではSMのどちらかに傾倒していても、どちらの性癖なのか分からないという特徴があるのかも知れない。
――昭和二十年のあの日、確か空襲警報が二回鳴ったような気がしたわ――
典子は、急にそう感じた。
あれは、まだ自分が矢久保氏の部屋に入ってからすぐのことで、気持ちが高ぶりかけていた時だったので、確かに警報にはビックリしたが、急いで逃げようとした時、表に様子を見に行った矢久保が、
「表は平然としているみたいだ。どうやら勘違いだったんじゃないか?」
と言って部屋に戻ってきた時、矢久保の顔に浮かんだ安心の表情が印象的だった。
それまで引きつっているかのように見える顔は血色も悪く、何かを思いつめたような様子だったのが怖かったが、安心している顔を見ると、自分も急にホッとしてきて、思わず笑い出してしまいそうな気がしたくらいだ。
それを分かったのか、先に矢久保が笑った。それまで見たことのないような表情で、声を立てて笑ったのだ。
「ははは、一体何にビックリしたんだろうな」
と言って笑っている。
「そうよね。でも、二人ともほとんど同時くらいに警報に気付いたのよね。偶然だったというだけのことなのかしら?」
と典子は言ったが、それには答えずに、
「俺たちって似ているようで、実は似ていないのかも知れないな」
と話を逸らした感があったが、典子はそれを聞いても違和感があったわけではなかった。
「似ていないと私は思うわよ。ひょっとすると正反対なのかも知れないって思うくらいだわ」
というと、
「いや、正反対ということは、逆に似ているという部分が多いような気がするんだ。それよりもお互いのことを分かっていると思っている人がいるとするでしょう? あなたはそれをどう思いますか? 本当に分かっているんだって思います?」
矢久保の質問は何が言いたいのか、聞きたいのか分かりにくい内容だった。
「いいえ、分かっているとは思えない気がします。分かっているつもりになっているということを、少しでも感じなければ、勘違いであってもそれを認める気持ちになれないからですね。つまりは思い込みがそのままその人の性格になってしまうということですね」
「そんなに簡単に人の影響を受けるものでしょうか?」
「人それぞれだとは思いますが、私のまわりにいた人のほとんどは思い込みの激しい人が多かったので、そんな人たちに自分の人生を左右されてきた人の気持ちは分かるつもりでいます」
と典子は冷淡に言った。
その時、義兄のことを想い出していたが、義兄の性癖を思い出すと、彼はきっと典子の性格に思い込みがあり、その思い込みと典子の一挙手一同が合致したことで、思い込みがさらに確信に変わり、自分が蹂躙できる相手だと思ったのだろう。
義兄は、別にSMの趣向を持っていたわけではない。悪友からSMについての話を聞かされて、
――俺にそんなことができるはずはない――
と思っていたのだが、それは自信がなかったからだ。
自分に自信がなければ、相手など見つかるはずもない。特にSMという特殊な正hr機の人を相手にすれば、自分が狂わされてしまうと思ったからだ。
学問に関しては貪欲で、勉強を重ねれば重ねるほど自分に自信をつけていき、結果を出せるようになったことで、自分の将来が約束されたのだが、他のこととなるとまったくであった。
えてして学者や博士なる人種というのは、そういうものではないだろうか。
何か一つのことに特化して、無類の才能を発揮できる人というのは、他のことをすべて犠牲にしてでも、特化させることに長けている。だからこそ、他の人と違うものを引き出すことができたのだ。
「人間というのは、脳のほんの一部しか使っていない」
と言われているが、まさしくその通りだろう。
自分の研究が進めば進むほど、義兄の頭の中では。
「まだまだいくらでも発想が思い浮かぶに違いない」
と信じて疑わなかった。
それは、進めば進むほど先が見えてくるはずなのに、どんどん深く入り込んでくることで、今まで見えなかった膨らみも感じるようになってくる。
実はここまで来るまでに、かなりの時間と労力を浪費するのだろうが、そこまでくれば、正直、博士と呼ばれるくらいまではあと少しであった。ただ、労力も時間も、結局は、
「紙一重の世界」
なのである。
世の中には「パラレルワールド」という考え方がある。奇しくも義兄の研究はこの「パラレルワールド」の発想から始まったのだが、それは、
「過去、現在。未来とあるが、過去が現在になって未来になる。過去はどんどん増えていくが、現在は一瞬でしかない。では未来はどうなのだろう? 過去が増えていくのであれば、未来は減っていくのであろうか? もしそうでないとすれば、過去、現在、未来というものをつなげて考えると、そこに無限という発想が生まれる。では今まで現在だった次の未来には何が待っているのかを可能性ということで考えてみよう。そこにはやはり無限の可能性が潜んでいるのだ。つまり、可能性というのは誰にも、そしていくらでもあるから可能性というと言い切ってのいいのではないか」
という発想することではないかと、義兄は感じるようになった。
それが、深入りしてから感じる膨らみのようなものであり、無限という発想なのだ。
だが、彼はこの無限という発想を、逆に、
「限りあるものとしての定義」
として考えるようになった。
無限というものを創造してしまうと、人間が作り上げるものでは適わないということにもなる。人間には絶えず限界がある。その証拠が、
「人は必ず死ぬ」
という発想である。
しかも、
「人間は生れてくる時に自由はないが、死ぬ時は自由である」
ともいえる。
宗教的には、それを認めない宗派もあるが、自分で自分の命を断つことができる以上、死ぬことも自由だと言えるのではないだろうか。
ただ、自殺や寿命による大往生でもない限り、死が無限のものではない。病気であったり不慮の事故、あるいは誰かに殺されるなど、人は一歩間違えると死というものと背中合わせに暮らしていることになるだろう。
義兄はそのたぐいまれなき頭脳で、実は人工知能の研究をしていた。
いわゆるロボット開発というものだが、それはあくまでも、
「戦時に利用できるもの」
という意味での研究であった。
人間のような消耗品ではなく、機関銃で撃たれても、爆弾が爆発しても、焼夷弾でまわりが焼け野原になったとしても生き残る強靭な肉体と、感情が死滅し、冷徹な感情で、相手を殺傷することだけを目的とする、
「人造人間」
である。
もちろん、この研究は日本だけで行われていたわけではなく、アメリカなどの先進国や、化学兵器には最先端を行っているナチスなども当然開発していたに違いない。
研究チームは超がつくほどの極秘任務を帯びている。義兄はまだ若かったので、国家機密に抵触するほどの秘密にまでは関与していなかっただろう。戦争が終わる頃までにどこまで関与していたのか分からなかったが、典子は終戦間際まで義兄の消息がつかめたことで、そこまでの関与はなかったに違いない。
義兄の研究は、ロボットの頭脳開発についての研究だったが、一進一退だっただろう。研究すればするほど、また元の場所に戻ってきてしまう。
それがどうしてなのか、義兄のグループには分かっていなかったようだ。
「ひょっとすると、研究者以外の平凡な頭で考えれば、この謎は案外簡単に解けるのかも知れない」
と思ってみたこともあったが、すぐに打ち消した。
それは科学者としてのプライドから、考えてはいけないことであったが、この考えこそが真理をついていて、この考えを掘り下げることができなかったことが、ロボット研究を難航させた一番の原因だった。
人間であれば、いくら研究しても研究の行き着く先はある程度予想がつくというものだ。それがまったく予想もつかないのは、考えが間違っているという証拠になるのだが、それを認めてしまっては、学者としての尊厳にかかわり、それ以上研究が続けられない精神状態に陥ることを意味していた。実に大きなジレンマであった。
「ロボットというものは、次の世界の可能性を絶えず考えなければいけない」
という理屈は分かっている。
しかし、その可能性というのは、どう考えても無限の可能性なのだ。
その中には自分たちにまったく関係のない可能性も含まれている。人間であれば瞬時に理解できることも、ロボットは必至に計算してしまう。可能性が無限なのだから、計算方法も無限にある。つまり、無限を少しでも凝縮して、狭い範囲での可能性を作り上げなければ、知能を作ることなど不可能だ。
「それでは、それぞれのパターンを組み込めばいいんjないか?」
という発想に至ったとしよう。
この発想だって簡単に思いつくことではない。後から話を聞いた分には、いとも簡単に思いついたように感じるが、そこに至るまでにも紆余曲折があった。
この紆余曲折が可能性なのである。
可能性というものはいくらパターン化して考えたとしても、可能性自体が無限にあるのだから、パターンも無限にあるはずである。結局、この発想も無理があった。
これもすぐに思いつきそうな発想であるが、やはりここに至るまでにもいろいろな弊害を乗り越えてきて、最終的に行き場をなくしてしまい、和了となった。まるで将棋のようではないだろうか。
この問題は、
「フレーム問題」
として、未来までずっと、
「解き明かされない定理」
として、ロボット工学の弊害となっていた。
逆に言えば、この問題さえ解決できれば、人型の人工知能を持った人造人間の開発は一気に進むことだろう。それが進められないということは、それだけロボット開発は人類のさらに高みへ上がるための試練だということなのかも知れない。
永遠に辿り着けない無限ループだとすれば、それはそれで理屈に適っているともいえるだろう。
義兄は戦争中、完全に軍部によって身柄を拘束され、一種の監禁、いや隔離状態に置かれていた。研究という目標があったからまだよかったのであろうが、普通の精神状態であれば、気が狂っていたとしても、仕方のないことだったのかも知れない。
他の国の学者の同じようなものだったことだろう。ロボット研究が進まないまま、同時期にいろいろな兵器研究が進められていた。
毒ガスなどの化学兵器、ナパームや核兵器などの大量殺戮兵器などがそうであろう。
結局、戦争は大量殺戮兵器や、都市への無差別爆撃によって終末を迎えることになったが、
「もしロボット工学の研究が最先端で開発に成功していたら?」
と考えると恐ろしいものがある。
ロボットや人造人間の登場する話で最初に浮かんでくるのが、
「フランケンシュタイン」
の話である。
このお話は、
「完璧な人間を作ろうとして、怪物を作ってしまった博士の物語」
と一言で言えばそういうことなのだが、要するに人間に対しての「保険」を掛けておかなければ、開発したロボットが暴発するかも知れないという発想である。
これは、科学者であれば、誰でも感じることであり、特に医学や薬学の世界では、一番最初に考えなければいけない発想であろう。それというのは、
「副作用」
の問題である。
疫病が流行って、そのためのワクチンを作り出すのだが、実施に至っては、たくさんの臨床試験が重要になってくる。まず、その薬の対象の病気に対しての効果が一番大切であるが、それ以上に、
「他の病気を誘発させないか?」
という問題が大きくのしかかってくる。
それhがいわゆる、
「副作用」
という問題なのだ。
どんなに対象の病気に適格に効いたとしても、他の病気を誘発するようであれば、当然使えない。それはロボット開発についても言えることだ。
ロボット開発は元々人間が行っていたことをロボットにさせることで、分業化という発想から生まれたものなので、そんなロボットが人間を襲ったりするというのは、本末転倒な話である。それをフランケンシュタインの話は警告しているのだ。
当時の軍部は、そこまで考えていたのかどうか不明だったが、ロボット工学が他の兵器に比べて進んでいないことへの苛立ちを覚えていたのは事実だった。
実際に戦局が悪化していった時、
「ロボット工学のような研究に、今の状況で費用を掛けるというのは、どんなものでしょうか?」
と軍部内で問題になっていた。
しかし、上官の中には、
「こんな時だからこそ、他の国でも開発されていないロボット工学をわが国でいち早く開発できれば、起死回生を生むんじゃないのか?」
という意見もあった。
すでに悪化してきた戦局で、尋常な判断を下せる人もおらず、何が正しいのかも、行き着く先が見えていなかった。そんな状態なので、議論が分かれているものを無理に結論付けることもできず、結局そのままロボット研究は進められた。
戦後になって米軍に押収されたロボット工学の資料としては、
「これは結構なところまで進んでいたんだな」
と思わせるほどの研究がなされていたようだった。
戦後彼らの一部はアメリカに連れていかれて、ロボット工学に従事させられる人もいたようだが、義兄はアメリカに徴収されることもなく、日本国に残っていた。
義兄は日本でそれまでの研究を忘れるように言われ、一時期はアメリカ兵の監視下に置かれていたが、日本が民主国家になってからは、帝国大学で工学部で助教授として赴任したとのことであった。
年齢的には無類の若さでの助教授に彼を天才として見る目もあったようだが、戦後の混乱の中で、次第に埋もれる存在になっていたのも仕方のないことだろう。
そんな義兄と典子が再会したのは、戦後二年目のことだった。
典子は兄の変わり果てた姿に、そして義兄も典子の変わり果てた姿にビックリしていたが、これも戦争があったかめだと思うと、無理もないことに思えた。それよりも再会できたことが奇跡に近いと思えるくらいで、素直にお互い嬉しかったに違いない。
典子はこれまでに起こったことを義兄にほぼ飾ることなく話したが、義兄の方はそうもいかず、話せる範囲内で話をした。そして、
「俺は戦争中、政府機関での研究もあったので、あまり動きまわらない方がいいかも知れないので、ひょっとすると、どこかで姿を消すかも知れないが、その時は俺は死んだと思ってくれ」
と言った。
戦争中、お互いに身寄りもなく、今こうして出会えたのが奇跡だと思えるような相手であるから、いくら義理であっても兄妹には変わりない。それを想うと、二人とも態度に出す気持ちに差はあるが、本当の気持ちは同じところにあるのだった。
「お前は、その矢久保という男を今でも慕っているのか?」
と義兄に聞かれた。
「ええ、お義兄さんよりも本当はあの人に会いたいと思っているくらいなのよ」
と臆面もなく言ったが、義兄もそれくらいのことでショックを受けるようなことはなかった。
「そうか、お前にも好きな人ができたんだな」
と言われたが、
「好きなのかどうか、実は分からないの。ただ……」
「ただ、何だ?」
「ただ、あの人とは離れられない気がするの。一緒にいることが自然であって、離れていることが不思議な気がするの」
「じゃあ、今は不思議な気がしているんだね?」
「そんなことはないのよ」
「じゃあ、離れていることと、一緒にいないことが実は違っているということなのかい?」
「ええ、私にはそう思えるの。離れているのは不思議な感じがするんだけど、一緒にいないとしても、それは不思議ではない気がするというのかな?」
「二人が離れていないとしても、四六時中一緒にいるわけではない。別々の時間帯があるわけだから、それも当然のことなのかも知れないな」
義兄は何となくだが、典子の言いたいことが分かったような気がしていた。
「矢久保という男は、お前の話を聞いていると、どこかおかしな性癖を持っているようだな?」
「彼が言っていたのは、女性は大丈夫なんだけど、オンナはどうも苦手だって言っていたのよ。でも、私を抱いている時、私に対してオンナの色香を求めているような気がしていたんだけど、これって私の思い過ごしなのかしら?」
「女性とオンナの違いは、男性に対して自分を飾るか飾らないかではないかと思ったことがあるんだ。女性はどうしても自分を誇示しようとするんだけど、オンナは自分自身を曝け出して、曝け出した自分を好きになってもらおうとする。だから、逆に言えば、そんな自分を好きにならない男性を、ずっと追いかけるようなことはしないんじゃないかって思うんだ」
「お義兄さんは、そんな経験をしたことがあって?」
「俺にはないんだけど、俺の研究テーマの中には恋愛というのも含まれていてね。感情や衝動、それから本能なども研究対象にしていたものだよ」
と言った。
それが、人工知能のことだというのを典子は知らなかったので、義兄がどんな研究をしていて、その研究が他言してはいけない秘密事項であるということすら知らなかった。
義兄は、人工知能で、女性の感情や本能を研究していた時、いつも思い浮かべていたのが典子だった。
典子は従順なところがあったが、決して相手に心を許そうとはしない強い意志を持っていた。その意志がどこから来るものなのか分からなかったが、S性にあるということに気付いたのは、自分が女性とオンナの違いについて研究していた時だった。
表面上は女性であり、身体を交わす時にオンナに変貌する人工知能を持ったアンドロイドを考えていた。相手を盲目にし、自分の手中に収めるにはどのようにすればいいかという研究である。
だが、研究を続けているうちに、実は反対ではないかと思うようになっていた。
表面上がオンナであり、内面は女性であればどうなるか?
オトコとしての本性を、表面上のオンナが、相手を丸裸にする。そんな中で気持ちに入り込んだ部分で、相手に対し、自分を誇示するような態度を取れば、相手が逃げ道を塞いでしまう効果があるのではないかと思った。
さらに、女性とオンナの違いとして、オンナの発するフェロモン、つまりは身体の反応を促すような香りをオトコに植え付けることができれば、男を虜にできるだろうと思うのだった。
研究は、暗礁に乗り上げていた。どんな香りが男を虜にするのか、実際のデータではあまりにも不足していた。食料品や弾薬などの必要不可欠な物資ですら、この時代では調達が困難なのに、極秘任務に使う物資が手に入るはずもない。時代が悪いと言えばそうなのだが、こんな時代だからこそ必要な研究であるということは実に皮肉なことであった。
「お前、ひょっとしてどこかの部分の記憶がないんじゃないか?」
と、急に義兄は言った。
自分の記憶が欠落しているなどというのを意識したことはなかった典子は、言われるまでまったく気づいていなかったが、言われてみると、記憶の時系列がまったく機能していないことに気が付いた。
しかし、記憶というものが曖昧で、古い記憶になればなるほど、時系列などあってないようなものだということも分かっていた。
それは、義兄にもよく分かっていることだった。
「ずっと前のことを昨日のことのように思ったり、昨日のことなのに、ずっと前だったと思ったりすることもあるけど、それには共通点があると思うんだ」
「それは?」
「夢で見るということなんだ」
「夢なんて、ほとんど覚えていないけど?」
「そうなんだよ、覚えていないから、一度夢に出てくると、記憶の時系列は本当に曖昧になるんだ。そのことを俺は結構早い段階で研究していたような気がするな」
義兄の研究のほとんどは他言してはいけないことであったが、夢の世界の話だったり、元々話をしても曖昧なものとして、あまり信憑性の深くないことであれば、いくらでもごまかしが利くということで、口にしてもいい内容だった。
義兄は続けた。
「夢を覚えていないというのは、きっといい夢だったりするんじゃないかな? 逆に覚えている夢は怖い夢が多い。だから俺は最初の頃に見ていた夢を思い出して、夢というのは、怖い夢しか見ないものだって思っていたんだ。でも、そのおかげで、夢というものは、どんなに長いものでも、目が覚める数秒間で見るモノだって思うようになったんだけど、実はそのことを学会で発表した人がいたんだ。俺なんかまだ学者としては初心者だったので、他の学者が同じ発想で発表したということを聞いて、嬉しかったものだよ。だから俺の発想の原点は、夢というものなんだ」
と言っていた。
「じゃあ、記憶と夢、そして意識というのは、切っても切り離せない関係にあるということなのかしら?」
と典子がいうと、
「俺は少なくともそうだと思っているよ」
と義兄は答えた。
「時にその矢久保という男、どのような男なんだい?」
と、今度は義兄が聞いてきた。
「何といえばいいのかしら? 変な粘着を感じるオトコだったわね。爬虫類のようで気持ち悪さもあるんだけど、どこか哀愁のようなものが感じられて、放っておくということができなかったのかしらね」
と典子がいうと、
「ヒモのような感じなのかな?」
「ヒモっていうと、女性のお金を当てにして、自分は何もしない。いえ、オンナを縛り付けておくというイメージがあるんだけど、彼にはそんな雰囲気はなかったわ。彼の身体や性的なテクニックで女性を引き付けておけるほどのものはなかったし、確かに彼はお金もなかったけど、女性にすがって生きることに対して、きっとプライドが許さなかったはずだと思うから」
「一概にそうだとは言えないけど、今のお前の話を聞いている限りでは、単純にヒモという言葉だけで片づけられるやつだとは思えないな」
「ええ、でも彼には男らしさというのはあまり感じられなかったの。それなのに、私にすがっているというわけでもない。私にもあの人との関係がどういうものだったのか、ハッキリとは分からないわ」
「こんな時代だから、似たような境遇だったりすると、寂しさから情が湧いてくるというのもあると思うんだけど、そこはどうなんだい?」
「彼は、あまり自分の過去を話す人ではなかったわ。そもそもほとんど会話が成立する人でもなかったので、余計なことを言わないどころか、余計ではないこともほとんど口にしないので、何を考えているのか分からない。だけど、私が彼を恋しく感じる時に限って、彼が私を求めてくるの。まるで私の気持ちを察したかのようにね」
「お前はそれでよかったのかい? 今の話だと、そいつは自分の意志というよりも、お前が欲しているから相手をしているだけだという風にも聞こえる。それを本当の愛情というのだろうか?」
「そうね。私が彼を欲しない時は、彼が私に迫ってくることはなかったわ。だから、彼が私を求めていたという意識は低いカモ知れない」
「でも、それだけ以心伝心していたともいえないかい? 彼がお前を欲した時、お前も彼を欲したという、いわゆる相性のようなものだけどね」
「歯車がずっと噛み合っていたということなのかも知れないわね。でもちょっとでも狂うと、その歯車は二度と噛み合うことはない。平行線が決して交わらないようにね」
典子は、彼が迫ってきた時のことを想い出していた。
同棲とまではいかないが、一時期、通い妻のように矢久保の部屋に行き、食事を作って食べさせたり、彼の欲求不満のはけ口のようになってしまっていた時期があった。もっとも典子が彼の部屋に赴く時は、自分の中に彼を求めるという血が騒ぐものがあったからに他ならないので、一連の流れは、すべてが想定内のことだった。
それだけに、感動のようなものはなかった。淡々として時間が過ぎて行くだけだったが、典子はそれでもよかった。
「明日をも知れぬ命」
まさに時はそんな時代だったおだ。
本土空襲は毎日のように続いていて、この街にも週に二、三度空襲警報が鳴り響くほどであった。
建物疎開はまだまだだったが、避難に使う防空壕はできていて、灯火管制も訓練されていたこともあって、夜間爆撃では、そこまで被害がひどいわけでもなかった。
典子は職業柄、家が病院の近くだったので、比較的爆撃が緩やかだったような気がする。もちろん気のせいなのだろうが、軍需工場の近くは被害はひどいが、病院や学校などの施設の近くは、比較的被害が緩やかだったと思うのは、人道として当然のことなのかも知れない。
矢久保の部屋も、典子の家の近くにあった。そういう意味では、被害はさほどでもなかったが、実は近くでは建物疎開が続いていて、身体が完全ではない彼だったが、昼間は建物疎開の作業に駆り出されていた。
さすがに空襲が始まってからは看護婦としての仕事が増えたこともあって、仕事中はよけいなことを考える暇もなく、気が付けば一日があっという間に終わっている。
「明日にも空襲があるかも知れない」
と思うと、なるべくなら一日一日がゆっくり過ぎてほしいと思うのが人情であろう。
それなのに、無情にも一日があっという間に過ぎてしまい、夕方頃には、憔悴してしまった身体を癒して元に戻すまでには結構時間が掛かったりしていた。
矢久保の部屋には週に二回ほど来ていたが、それも典子にとっては大いなる癒しになっていた。本当はもっと頻繁に来たかったのだが、毎日のように来ると、生活にメリハリがなくなり、せっかくの感動が味わえなくなると思ったからだ。
その感情はお互いに持っていて、
「週に二回というのは少ないんじゃないか?」
という意見はどちらからも出ることはなかった。
――こんな気持ち、戦時中でなければ感じることはないわよね――
と思っていた典子だったが、矢久保もきっと同じ考えだと感じていた。
彼が口数の少ないのは、相手が同じ考えだと思うからではないかと思うようになった。考えが違っていれば、ハッキリとそのことぉ口にする人だということは、最初に出会った入院中に感じたことだったので、その思いは今も変わっていなかった。ただ、その中で人に知られたくない過去のようなものがあって、それを悟られたくないという思いから、余計なことを喋らないのだと思った。
それは典子も同じだった。
オトコと言うと、実は義兄しか知らない。義兄は一度だけ典子を抱いたことがあったが、その時のことを、
「あれは事故だったんだ」
という言い訳をしたことで、典子も事故だったと思うようになった。
事故だったと最初に義兄の口から聞いた時、典子の中で、
――これは恋愛感情ではない――
という思いから、異常性欲、つまりはSMの世界の出来事のように思ってしまったのだ。
もし義兄が、「言い訳」などしなければ、この関係を恋愛感情と思ったかも知れない。ただ、義兄はその時、最後の一線を越えることはなかった。あくまでも典子の身体に「悪戯」をしたにすぎないのだ。そういう意味で、
「男を知っている」
とは言えないかも知れない。
典子は処女だったのだ。
しかし、典子の中には異常性癖が見え隠れしているようで、見る人が見れば、
「このオンナ、自分と同じ性癖を持っているんだ」
と思うようだった。
典子に近寄ってきたのは、看護学校に入学した時の先輩であった。当時の看護学校なので、もちろん相手は女性である。その人は身長が男性に負けないくらい高く、男性からも随分と言い寄られていたようだったが、その「男気」のせいでm言い寄った男性は簡単に玉砕してしまい、ほとんどの男性が言い寄ったことを想い出したくないような屈辱感に見舞われるのであった。
そのオンナから罵声を浴びせられるのであったが、罵声を浴びた瞬間、彼らは得体の知れない羞恥に見舞われた。中には羞恥を快感のように思う人もいたようだが、そんな連中は自分が羞恥を感じたことで、自分の理想の相手が彼女ではないということに気付くという実に皮肉な様相を呈していた。
その先輩看護婦は、女性一本だったわけではなく、基本は女性が相手だが、男性が嫌いだったというわけでもない。いわゆる「両刀」だったのだ。
それまで典子の感覚として、レズビアンというと、女性ばかりを相手にする人だという思い込みがあったので、彼女が両刀であったということを知った時、ショックを受けた。だが、彼女と別れようという思いがあったわけではない。むしろ、もっと深く結びつきたいと思ったのだ。最初は相手からの無理やりであったが、気が付いてみると、自分の方が夢中になっていた。実はこれは先輩のフェロモンによるものであって、今まで先輩が「手を出した」女性のほとんどは、すぐに彼女に夢中になった。ただ一つの違いというと、典子が処女だったということだ。今までの彼女の相手に処女はおらず男性を知っていた。それゆえに操りやすいところがあったのだが、処女だった典子に対しては、それまで知らなかった処女が相手ということで、少なからずの興味をそそられた。気付かぬうちに彼女も典子の魅力に嵌っているようだったが、こんな関係は典子が学校を卒業するまで続いた。つまりは、先輩は自分が看護婦になってからでも典子の相手をしていたのである。さすがに二人とも就職して現場に出てしまうと、なかなか会う機会もなくなり、自然消滅のような形になったが、二人とも、
――変な別れをするくらいなら、自然消滅というのが一番よかったのかも知れない――
と思ったようだった。
典子は最初に先輩から言い寄られた時は、当然ビックリした。まだ処女なのに、最初の相手がオンナというのは、状況を考えただけで、想像できるようなことではなかったからだ。
――どうすればいいのかしら?
という戸惑いの中、基本的に相手は先輩、無碍に抵抗することは許されない。
彼女の愛撫を受けながら、身体が震えていた。
「可愛いわよ」
と耳元で囁かれると、典子は身体が宙に浮いているかのようだった。
典子は耳が性感帯であった。まるで魚がまな板の上で弾くように、彼女はビクッと反応した。それをまるで想定内といった表情で覗き込む先輩を見て、
――何て嫌らしいんだ――
と感じた。
しかし、それは嫌ではなかった。見つめられて身動きできない自分は、頭の中では義兄の愛撫を思い出しているという罪悪感で、顔が真っ赤になった。それを先輩がただの羞恥心だと思ってくれているのであればありがたいと思っていたが、愛撫が進むにつれて、それでは満足できない自分がいることに気が付いた。
――この場面で、私は何に満足したいというの?
そう思うと、何をもって満足というのか典子は分からなかった。
先輩の指は一番敏感な部分をまさぐり、爪でひっかくようにしてきた。
「あっ」
思わず反応してしまった自分に恥じらいを感じ、
――これがオンナなんだわ――
と感じた。
初めて感じたのではないことは、義兄の指を思い出せば分かることだが、明らかに義兄の指とは違っていた。義兄の指はがさつではあったが、決して刺激を高めるような行為をしなかった。それなのに、先輩は女性らしいソフトタッチな進行なのだが、ところどころでひっかいたり、つねったりと、刺激を最高潮に持っていこうとしている。どちらが男性的かと言われると、先輩の方だと思えてしまうくらいであった。
責めてくる強弱だけでその愛情を図り知ることはできないが、さすが女生徒いうべきか、典子の敏感な部分を的確に責めてくる。典子がしばらく先輩に溺れてしまったをいうのは、肉体に溺れたのはもちろんのこと、寂しいと思っている気持ちに巧みに入り込んできて、敏感にくすぐってきたからではないだろうか。
先輩は、典子の考えていることをよく看破する。
「そうだと思ったわ」
というのが口癖で、典子が言ったことを肯定するのではなく、自分から典子を見ての気持ちをいうと、それが当たっているという疑う余地のないものだった。
典子も先輩に、
「やられっぱなし」
というわけではない。
先輩の敏感な部分は、相手が分かるのと同じで自分にも分かる。そこを責めると、先輩はハスキーな声で鳴いた。
「あああんっ」
糸を引くような声を出すこともあれば、絶頂を隠すこともなく、隣近所に聞こえても構わないとばかりに遠慮の欠片のないことを出すこともある。
そのたびに典子も頭のてっぺんを快感が走り抜けるような気がした。
お互いに相手の身体を貪り始めると、最初は声を出すことはない。すすり泣くような声とシーツのこすれる音が混じってしまって、打ち消されるほどの小さなうめき声であったが、空気は完全に湿っていて、空気の湿りを感じるだけで、典子の身体からは快感が溢れてくるのだった。
敏感な部分に先に触れられると、思わず声が出る。それが声を立てていいのだという暗黙の了解になった。
一度声を上げてしまうと、そこから先は二匹のメスイヌの世界であり、文字にできないほどの淫靡な様子が、時間を感じさせずに繰り広げられる。すべてが終わったその後に訪れる憔悴感は、男性との行為では感じられるものではないだろう。
男性との一番の違いは、お互いに果ててしまっても、すぐに復活できることだ。しかも快感が残っている限り、半永久的に相手を求められる。しかも、どちらかが最初に疲れ切ってしまい、身体に触れられることすら嫌になるようなことはなかった。お互いを待たせることもなく、最高潮に至るまでの過程は、実に味わったことのあるものでなければ分からないとはまさにその通りであろう。
二人が自然消滅したというのも、そういう経緯から、お互いに分かっていたことなのかも知れない。今はまったく会っていないが、先輩が今もレズビアンの道の真っ只中にいるのか、それとも男性に身体を委ねているのか分からない。しかし一つ言えることとして、
――先輩には私以上の女性が現れることはない――
という思いを抱いているということだった。
だが、これは時間の経過とともに訪れる身体の変化には勝てない場合もあるので、典子が矢久保に感じた思うのように、彼女も男性に気持ちを移していたとしても、そこに何ら典子としての感情があるわけではなかった。
いったん関係が切れてしまえば、まったくの他人だと思えるのは、女同士という関係だったからなのか、それともこれが二人の性別という概念を超えた関係だといえるのか、考えれば考えるほど答えなどでないような気がした。
典子は看護婦になってから、いつも一人だった。看護婦仲間からは、どこかよそよそしい雰囲気で見られているようで、
「あの人、近寄りがたいわよね」
と言われていた。
「ただの暗さというわけではなく、人を寄せ付けない何かがあるんじゃないかしら? 過去に何かあったとか、そういうことなんじゃない?」
女性の噂話は、人が聞いていないと思うと、その限度を知らない。
もし聞かれては困ると思っているくせに、聞こえても無理のないところでウワサをするから厄介だ。典子も同僚看護婦がそんなウワサをしているのは知っていたし、それは別に意識もしなかった。
――別に彼女たちと一緒にいないから寂しいわけじゃない――
と考えると、どうしても頭をよぎるのは、レズの相手だった先輩看護婦の何とも言えない恍惚の表情だった。
明らかに自分が女役で、先輩が男役であった。
しかし、快感に身を委ねている時の様子は、オンナ以外の何物でもない。そんなことはもちろん典子には分かっているが、それまでの男性としているという感覚をいかに、女性の反応をしている彼女を見て、興奮を切らさないかというのは難しいことだったはずだ。
それなのに、典子は興奮を切らさなかったことが難しかったとは思わない。快感に身を委ねているだけで、それだけで精一杯であり、余計なことを考えないで済んだはずであった。
――そうなんだ、余計なことを考えたりはしなかったんだ――
と思うことが典子の中での一つの答えだったと思えた。
これは一つの答えであって、すべてではないのだが、一つの糸口から、えてしてすべてが見えてくるということもあるもので、典子と先輩との関係は、そんな感情から成り立っていたのではないかと思えた。
典子は矢久保に一番最初に襲われた時、まず最初に頭に浮かんだのが、昔、義兄に悪戯された時の快感だった。
だが、すぐに、
――何かが違う――
と感じた。
そして思い出したのが、レズの先輩だったのだが、その時に典子は急に後悔が押し寄せてきた。
――どうして、すぐに先輩のことを想い出さなかったんだ?
という思いである。
時期的にもごく最近のことなのに、身体に残っているのは、彼女との快感であるはずなのに、どうして義兄を思い出したのかということである。
それはきっと、彼女をオンナではあるが、オトコとして見ていた自分がいて、その反応が女性であったということのギャップの大きさが、襲われているという精神状態で、思い出させないかったのではないかと思ったのだ。
典子は、次第に矢久保に惹かれていき、通い妻のような関係にまでなっていたが、先輩との関係を忘れられずにいたことを分かっていた。そればかりか、矢久保と関係が深まっていくうちに、先輩のことが頭によみがえる頻度が深まっていった。矢久保が侵入してきた時など、手放しで感じる快感を与えてくれているのは、先輩の指のような気がしていたのだ。
ソフトタッチな中に急に激しい快感が襲ってくる。これこそ、男女の間でのセックスに繋がるものではないだろうか。
それを想うと、矢久保に対して、
――悪いことをしているのかも知れない――
という後ろめたさがあるのも否定できなかった。
だからこそ、矢久保に看破された時には典子は驚きと羞恥で、頭が混乱してしまったのだ。
それがちょうど、あの空襲警報があったあの日のことだった。
矢久保は典子に十分な愛撫を施し、いつものように侵入してきた。それを典子は、
――いつもの儀式――
のような気持ちで受け入れていた。
正直、最初の頃のような興奮からの快感が襲ってきているわけではなく、言い方は悪いが、惰性となっていなのは否定できないでいた。
身体が前後に揺さぶられ、矢久保が快感を貪っているのが分かった。
いつもであれば、どれくらいで彼が果てるのかほぼ分かっている。それは時間という意味ではなく、彼の身体から醸し出される反応という快感が教えてくれるのだった。
その日は、若干違っていたが、それがいつから違っていたのか分からなかった。最初はいつもと同じだったのは分かっている。侵入してきて果てるまでの快感の中で、彼は急に身体を離したのだった。
「どうしたの?」
こんなことは今までに一度もなかっただけに、典子は驚いた。
――男の人って、快感の途中で、こんなに簡単にやめることができる生き物だったなんて――
とびっくりさせられた。
矢久保は俯いたまま、何も言おうとしなかったが、典子は、
――彼は体調が悪いので、途中で萎えてしまったんじゃないかしら?
と感じたようだ。
「大丈夫よ。心配しないで」
と彼を慰めたつもりだったが、それを聞いた矢久保は顔を挙げて、典子が想像もしていないような表情になった。
その表情は何かを思いつめているように見えたが、果たして彼の気持ちはどこにあるというのだろう。典子は次第に慌てている自分に気付いた。
――これは尋常ではない――
と感じたのだ。
「典子」
彼は今までにないような低い声で呟いた。
――この人がこんなに低い声が出せるなんて――
と思うほどの低い声だった。
「お前は、誰か俺の他に好きな人でもいるのかい?」
と言われた。
咄嗟に思い浮かんだのは先輩の顔だったが、典子は即座に、
「いないわよ。そんなの」
と、笑いながら否定した。
すると彼は、
「そうなんだよな、今のように否定する姿は実に自然なんだ。それを見ていると、俺以外に好きな人がいるようには思えないんだよな」
と、自分に言い聞かせるような言い方をした。
だが、彼は続ける。
「だけど、お前を抱きしめている時、どうしても、お前には誰かがいるような気がして仕方がないんだ。これは今日初めて感じたことではないんだが、確信めいた気持ちになったのは今日が初めてなんだ」
と言われ、
「今日の私、普段とどこかが違っているのかしら?」
と聞いてみると、
「そうも思えない。逆に違っているとすれば、この確信は生れていないような気がするんだ。なぜなら、最初に抱いた疑問が一直線に繋がっていって、最後に辿り着いた確信なので、急に道が変わってしまえば、もし辿り着いた先が本当に確信だとしても、それを確信だと思えていないと感じるんだよ」
と彼は頭をかしげながらそう言った。
典子は、
――なるほど――
と感じた。
しかし、この「なるほど」はあくまでも他人事のように考えたなるほどであり、理解したわけではなかった。
――一体この人は何を言いたいんだ?
典子は自分のどこから彼がそう感じたのかということよりも、
――なぜ、今日なのか?
ということの方が不思議に感じられた。
「典子は男性が好きなのか、女性が好きなのか? どっちなんだ?」
と聞かれて、ハッと思ったが、
――やっぱり、先輩のことを言っているんだわ――
とこれに関しては納得したのであった。
「私はどっちも好きよ。両刀なのかしらね」
と本当であれば、否定するべきところであろうが、否定することが億劫に思い、最初から思いをぶちまけた。
元々矢久保とはなりゆきでの交際だった。何かのきっかけがなければ成立しない交際であり、
「好きだから、別れたくない」
などという感覚とは無縁だった。
ただ、彼にストレートに聞かれたことで、もし下手に抵抗などして言い訳しようものなら、泥仕合になるのは分かっていた。泥仕合に対しての言い訳は、さらに苦しい言い訳しか生まない。そう思うと、最初から認めて、お互いに興奮して話すかも知れないが、そんな会話の中にこそ、何かの活路があるのではないかと思ったのだ。
だが、矢久保は典子が女性を好きだと言ったことに対して、何ら抵抗は示さなかった。
―ひょっとして最初から分かっていたことなのかしら?
と思ったのは、矢久保が典子を最初に襲った時の雰囲気で、
――何かが違う――
と感じたのかも知れない。
もしそうだとすれば、何という洞察力なのだろう? 典子は矢久保に対して敬意を表したいくらいだった。
しかし、あの時の典子から、どうして女性が好きだという発想になったのだろうか? それを看破したのが女性であれば分からなくもないが、男性に看破されたというのは、実に不思議な感覚だった。
「でも、どうして分かったの?」
と、典子は思い切って聞いてみた。
「君と最初に病院で身体を重ねた時から本当は分かっていたんだ」
と、典子が想像した通りだった。
「あの時の俺は、自分が女性になったんじゃないかと思うほど、典子さん、君をまるで腫れ物に触るかのように接していたんだけど、そんな俺の腕を君は必死になって抱きしめようとしただろう? 君が処女だということはすぐに分かったけど、あんな態度を処女の女性がするとは思っていなかったので、僕も少し戸惑ったのさ。そんな時、君が俺に向けたその目は、優しくしてほしいというよりも、自分のすべてを見てほしいという風に見えたことで、オンナにだけ心を開いたことがあるんじゃないかって思ったんだ。もちろん、確証があったわけではない。あの時の感情は今思い出しても一種異様な感じがするんだよ」
と答えた。
「私はあの時、あなたの指を正直、痛いと感じたんだけど、その痛さが次第に心地よくなっていったの。それで身を任せる決意ができて、委ねているうちに、意識が朦朧としてきた。まるで水の中に浮かんでいるような感覚だったんだけど、それは、赤ん坊が羊水に浸かっている時というのが、そんな時ではないかと思っていたの。でもね、その時に感じた臭いは、間違いなくあなたの臭いで、男性特有の臭いだったわ。若干のタバコ臭も感じたし、荒々しさもあった気がする。でも、本当にあなたに対してオトコというもののすべてを感じていたとすれば、私はきっと拒否していたと思うわ」
典子はそう言って、虚空を見つめていた。
「俺はオンナというものが実際には分からない。今までに相手にしたオンナは何人かいたんだけど、それぞれまったく違った女性ばかりで、ただ快感に達する時だけは皆同じなんだ。俺が女を欲するというのは、最後には皆同じレベルになって俺を求めてくるからなんだ。もし違った反応をする女性がいるとすれば、俺は絶対に相手にしないと思うんだ」
「もし、そんな女性がいるとすれば、あなたには最初から分かると思う・」
「俺は分かると思っている。もちろん、オンナである以上、絶頂に達する時の行動は同じものだと思うんだ。男だって同じだと思う。でも、俺は男を相手にしたことがないので、その感覚が分からないんだ。でも君は女性を知っているんだろう? ということは、他の女性がどのような反応をするかということも分かる気がするんだ」
「言われてみればそうかも知れないわね。でも、私は彼女に対して。自分と同じところがあると正直感じたことがないの。実は、同じところがないかということを身体を求めあいながら感じていたんだけども、結局同じところは分からなかったのよ」
「それはきっと、君が同じになるその時に、自分も一緒に上り詰めているからなんじゃないかな? 男はオンナの快感を知ることで果てるんだけど、女性同士の場合はどうなんだろうね?」
「言われてみれば、私は彼女の快感で身もだえしている姿を見て、それが自分の快感に結びつくという感覚になったことはなかったわ。相手の快感が自分に結び付くというのは、相手が異性の時だけのことなんじゃないかって、今は思っている」
典子が失った記憶というのは、断片的なところであって、本人に意識がないということで、ある意味、最初に気付いた矢久保は、典子と話をしていて、違和感を感じたところもあったに違いない。
典子は最初はレズの相手と矢久保を比較するつもりがなかったが、矢久保の腕に抱かれている時、自分が何を意識しているのか定かではなかった。
――ひょっとするとこの時から、記憶の一部をなくしていたのかも知れない――
と後になって典子は感じたが、典子はそれまで別のことを考えていた。
――私がレズだということを、矢久保さんに看破されたことで、それがショックで記憶を失ったのかも知れない――
と思うようになっていた。
典子の記憶の中でレズの先輩への意識は、記憶が繋がっていないという感覚はない。しかし矢久保との間のどこかに記憶が途切れているところを感じるのだ。典子にとって矢久保との再会がどういう意味を持つのか、実際に再会してみなければ分からないことだった。
それ以上に、
「ただ、会いたい」
という気持ちも強く、過去の記憶をわざわざ思い出す必要もないような気がした。
戦争は終わり、もう防空壕に隠れる必要もない。ただ混乱の世の中で、いかにして生きていくかということが重要だった。
看護婦という職業は、意外と潰しが聞いた。戦後の当初は病院もまともに運営できず、野戦病院のような感じだったが、復興が進んでくれば、慰労器具や医薬品も充実してくるというもので、そんな中、少しずつだが、記憶が戻ってくるような気がしたのは、気のせいだっただろうか。
典子は、あの日のことを再度思い出していた。空襲警報の音が、右から左に高速で走り抜けている感覚があり、最後に消えていったあの感覚が、よみがえってくるのであった……。
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