第4話 タマゴが先かニワトリが先か

 教授は彼の話を聞いていて、

――彼だけに話をさせていては、このまま迷走するだけになるかも知れない――

 と思った。

 そこで教授は彼が利きたと思っている今まで予習をするのに調べてきたもので、今の話に酷似した妖怪の話をしてみることにした。

 最初はしないつもりだったのだが、一度話をしようと思うと、それまでの気持ちを封印し、思い立ってことを話すことしか考えられなくなってしまう。これは普段冷静な教授の中にあって、結構強い意志になるのだが、これがいいことなのか悪いことなのか、教授にも分からない。

 もっとも、

「人のことはよく分かっても自分のことはなかなか分からないものだ」

 と言われることもあり、教授のような職業の人間にはえてしてこういう人は多いのかも知れない。

「医者の不養生」

 などという言葉もあり、さらには、

「鏡にでも写さないと、自分の姿を見ることはできない」

 というように、自分のこととなると分からないのが人間なのではないだろうか。

 教授は彼の様子を注意深く観察していたが、さっきまであれだけ酔っぱらっていた彼だったが、少し酔いが冷めてきたような気がした。

 さっきまでのペースがゆっくりになってきて、他の人であれば、このまま眠ってしまうのではないかと思えるような雰囲気になっているが、彼が眠りに就くということはなく、却って目が冴えてきているような気がしたのだ。

――眠気に打ち勝とうとして目をカッと見開いているだけなのかも知れない――

 という思いもあったが。どちらかは分からない。

 ただ、彼の目は充血していて、このまま黙っておくということは教授にはできなくなってしまったのだった。

「実はですね」

 教授はゆっくりと話始めた。

 彼は興味津々で教授の方を見て、まるで乗り出してくるかのような雰囲気に教授も圧倒されてしまったが、彼が無言で頷いたので、話を続けることにした。

「海に引きずりこむ妖怪の中で、『トモカヅキ』という妖怪がいるんです」

「『トモカヅキ』ですか?」

「ええ」

 彼の様子を見ると、初めて聞く妖怪のような気がした。

「それはどんな妖怪なんですか?」

「この妖怪は、主に海女さんに恐れられている妖怪なんです。自分にソックリな姿になったトモカヅキはその相手にアワビを与えようとするそうなんです。それを受け取ってしまうと、そのまま海に引きずりこまれるという言い伝えがあるようで、そのまま死んでしまうというお話ですね」

 というと、彼は身体が硬直してしまったようになっていた。

「そ、その話は、まるで……」

「そうです。先ほどあなたがしてくれた話そのものという感じの話です。ただ、この言い伝えは基本的に海女さんは皆ご存じのはずだとは思うんですが、どうだったんでしょうね?」

「私はその話を聞いたことはありません。トモカヅキなどという妖怪の名前も初めて聞きました。そうですか、私の大切な人の命を奪った憎き相手は、トモカヅキという妖怪なんですね」

 と、彼は教授に言いながら、自分に言い聞かせているかのようだった。

「ただ、この話は海女さんの間では公然の秘密だったのかも知れないと思うんです。今のあなたがその大切な方から話を聞いていないということですし、目撃した人も口外できないと言っているんですから、まさにその通りでしょうね」

「でもですね。このトモカヅキという妖怪を恐れているので、海女さんはお守りのようなものを皆持っていると書物には書いていましたね。それは五芒星のようなもので、トモカヅキに対して有効だということです。果たして彼女はそのお守りを持っていたんでしょうか?」

「私はそれを聞いていないんですよ。海女さんたちの間では分かっていることだったんでしょうが、私に最後に話をしてくれた海女さん仲間も、そのことにはまったく触れませんでしたね」

「そうでしたか、海女さん仲間でも、それぞれの人がいますからね。特に女性の関係と言うと結構微妙なところがあったりしますからね」

「気の合った人でないと、気持ちを明かさない?」

「そうですね。そういう意味では男の方が気持ちを明かさないものでしょう?」

「男としては自分の気持ちを相手に明かすと、弱い人間に思われてしまうという気持ちがあるからですね。女性は違うんだろうか?」

 彼は人間関係について言及したようだった。

「そうですね。でも女性の場合は弱い人間という意識ではなく、もっと強い意識を持っているかも知れません。自分の気持ちを明かしてしまうと、相手に付け込まれるという気持ちがあるのかも知れません」

「何かドロドロした嫌な気分になるお話ですが、それが女性というものなのでしょうか?」

「一敗にすべての女性がそうだとは言いません。そういう人も多いということにしておきましょう。言い切ってしまうと先入観を与えてしまうので、私にはそこまではできません」

 なかなか人間性を語るのは難しい。

 特に男女で性格的な違いはあるので何とも言えないものだ。

 教授はさらに続けた。

「一般的な女性というものの認識として、私は、女性の方が男性よりも我慢強いと思っています。それは肉体的なものが精神を凌駕しているからではないかと思うのであって、つまりは女性というのは子供を産むことができる。つまりそれだけ堕胎に耐えられるだけの身体が育まれていることから、肉体的には男性よりも強いと言えると思います」

「そんなものでしょうか?」

「ええ、そしてもう一つ考えられるのは、女性というのは、我慢をする時は一人で籠って我慢をするものです。男性も一人で我慢をする人が多いですが、人に相談することもあるでしょう? でも女性の場合、肝心なことを他人に相談することは決してありません。つまり女性が他人に相談する時というのは、すでに自分の中で答えができている時なのではないかと思うんです」

「なるほど、何となく分かる気がします。でも、男も同じことが言えるんじゃないですか?」

「いや、男性の場合は自分の気持ちを一度整理したつもりでも人に相談すると、一歩元に戻ってしまうんですよ。だからそこでまた迷走してしまうこともあるので、考えが堂々巡りを繰り返してしまうことがある。だから女性から見ると、そんな男性は優柔不断でハッキリとモノを決めることができない人に見えてしまうんですね」

 と教授は言った。

 彼はその話を聞きながら、頷いていたが、どこまで理解しているかどうか分かっていない。

「僕には先生のような男女の違いについて考えたことがあまりありませんでしたからね」

 というと、

「私は、今言ったような男女の性格の違いが、ひょっとすると今言い伝えられている妖怪というのを生んでいるのではないかと思っているんですよ。もちろん、すべてにおいてそうだとは言いませんが、私のあくまでも勝手な妄想として、そういう感覚に陥ってしまうことが往々にしてあります」

 教授の話は飛躍しすぎているように思えたが、話を聞いていると引き込まれてくるように思えてならなかった。

「男女の違いが別々の妖怪を生むというのは飛躍しすぎでは?」

 とりあえず聞いてみた。

「そうかも知れないけど、男女の違いが別々の妖怪を創造するのだとすればどうだい? 同じ妖怪だって、見方を変えれば違う妖怪になるかも知れない。見る角度が男と女では違うという観点だね」

「なるほど、そういう理解の仕方もありますね」

 彼は何となくであるが、納得した気がした。

「トモカヅキというのも、女性である海女さんが創造した妖怪だし、似たような妖怪を男性が創造しているかも知れないだろう?」

「そんな事例はあるんですか?」

「今のところ聞いたことはないが、それが本当に悪い妖怪なのかっていうのも考えてしまうよね」

「例えば?」

「海の中に引きずりこむと言ってしまうと物騒に聞こえるが、海の中に招待されるという発想だって成り立つんじゃないかい? 例えばおとぎ話の浦島太郎の話だってそうだよね。カメが浦島太郎を背中に乗せて、竜宮城へ行くという話だけど、考えてみれば、水の中で空気もないのに、どうやって行けたのかということだよ。カメが妖怪だったと考えれば説明もつきそうな気がしないかい?」

「そうですね。竜宮城に住んでいる妖怪の化身だったとして、浦島太郎を竜宮城に連れて行くために、わざと子供たちに苛められるという舞台を作ったということでしょうか?」

「あのお話は、説明のつきにくい部分が随所にあるんだよね。でもさっきも言ったように、一つ何かの歯車が噛み合えば、それらをすべて説明することができるのではないかと思うと、実に面白い気がしないかい?」

「どこまでが辻褄が合っていて、どこからが違っているのか、曖昧な気がして、よく分からないです」

「そもそも浦島太郎のお話というのも、違和感を抱くことはないかい?」

「どういう意味ですか?」

「おとぎ話というと、子供が読んで、それを教訓にするようなお話だよね。いいことをしても、悪いことをしても、それぞれに報いがある。いいことをしたのに悪い報いがあったり、悪いことをしたのに、いい報いがあるというのは、おとぎ話の主旨から外れると思わないかい?」

「確かにそうですね。そうやって考えると、浦島太郎のお話は、カメを助けたといういいことをしたのに、最後には、いくら開けてはいけないと言われていた玉手箱を開けたとして、お爺さんになってしまうというものですよね。教訓としては少しおかしい気がします」

「そうなんだよ。実は浦島太郎の話には続きがあるんだ。それは浦島太郎のことを好きになった乙姫様が竜宮城から丘に上がりカメになる。そしてお爺さんになった浦島太郎がツルになって、二人は未来永劫、幸せに暮らしたというお話なんだ」

「それがどうして途中で話が曲げられてしまったんですか?」

「詳しくは分からないが、どうやら、おとぎ話を教育の中で確立させようとした明治政府の意向らしいんだ。どうしてなのかまでは、私も詳しくは知らないが、本当は幸せになるという大団円だったんだよ」

 と、教授は説明してくれた。

「おとぎ話でも教育や政治のためなら、内容を歪めることもいとわないというのが、世の中なんですかね?」

 と彼は言った。

「政治や教育が関わっていて、そこにいい悪いの定義を設けようとすると、それなりの確証が必要になってきます。そういう意味では、ハッキリとした確証を得ていないことに対しては、何を言っても、余計なことになってしまうんでしょうね」

 教授は、自分の力のなさを嘆いたのか、それとも、世の中の疲弊を嘆いたのか、最後は溜息をついていた。

「妖怪などは、その土地に土着した話がいろいろ伝わっていますけど、まったく別の場所で似たような話が伝わっているというのは、似たような妖怪がいろいろな場所にいるということなんでしょうか?」

「私はそう思いますね。ただ、その妖怪が同じ妖怪なのか、それとも似た種類の妖怪なのかということでは意見が分かれてしまいます。同じ妖怪と言っても、種類が同じだけで、個々としては別の妖怪なんでしょうね」

「人間を一つと考えると、自分と他人とでは別の種類の動物から見れば、同じ人間ということになるからですよね。イヌだって種類に違いこそあれ、同じ種類の犬が二匹いたとしても、それは同じイヌではないので、人間でいうドッペルゲンガーのようなものではなく、ただ、似ている同じ種別のイヌというだけのことですよね」

「動物の種類が違えば、性別の区別もつきませんからね」

「そういう意味では妖怪は人間を種別で判断できるんですよね。トモカヅキのように海女さんばかり狙っているということは女性しか相手にしない妖怪ということで、女性を認識できているということになる。それは妖怪の人間にない能力なのか、それとも妖怪というのが人間に限りなく近いものだという発想からなのか、僕はそのどちらかのような気がして仕方がないんですよ」

 と彼は言った。

 彼は妖怪について、今までトモカヅキのことだけを意識していたはずなのに、今日教授と話をしていると、以前から妖怪について気になっていたのではないかと思えてならなかった。

「妖怪でも、人間に化けると言われている妖怪もいるんですが、その姿が人間そのものだからそう言われているだけで、その姿自体が本当の姿だという発想もありますね。最初は皆、人間ソックリのその姿が、妖怪の正体だと思うんでしょうが、研究をしていると、妖怪の正体は別にあって、人間の姿に変化しているのではないかと考えるようになったと思うのは私だけだろうか?」

 教授は彼と話をしていると、さっきまであれだけ自分の理論をうまく展開させていたのに、今回トモカヅキの話になると、次第に妖怪に対しての感覚が間違っていたのではないかという思いが頭をよぎるのだった。

 さらに教授は別の考えも持っているようだった。

「海女さんや女性を狙う妖怪がトモカヅキなら、似たような行動で男性を狙う妖怪だっていてもいいんじゃないかって思うんだよ」

「ひょっとして、似たような妖怪が他の土地の伝説として語り継がれているのではないかな?」

 と彼がいうと、

「確かに似たような話の中で、女性を中心にだったり、男性を中心にだったりと、それぞれの土地で違った言い伝えが残っているような妖怪も確かにいたような気がする」

「ひょっとして、先祖が同じなのかも知れませんね」

「それは何の先祖だい?」

「妖怪の先祖ですよ。人間に先祖がいるんだったら、妖怪にもいておかしくないですよね? 妖怪は歳を取らないとかいろいろ言われているけど、それはあくまでも一部の妖怪を総称して言っているだけで、妖怪というものをすべて一つと考えるのは、動物を考えるのと同じで乱暴な気がします」

「なるほど、それは言えるかも知れないな」

 と、教授は彼の話にどんどん引き込まれていく。

 話をしている今の様子では、どっちが教授なのか分からないほど、彼は饒舌だった。教授と一緒に話をしていることで、彼の中で覚醒しかかっていた発想が、この時とばかりに覚醒したのかも知れない。

「トモカヅキという名前の妖怪だって、場所によっては違う名前で残っている。ただ、私はこれだけ妖怪についていろいろ興味深く調べてきたのだけれど、心の中では、『人間の創造物』という発想が根強いんだ。人間を作ったのは神様だとすると、妖怪を作ったのは人間であってもいいわけで、ひょっとすると、妖怪の世界ではその説が通説として受け継がれてきたのかも知れないと思うんだ」

「ときにさっき話していた箱の話ですが、あの中のおまじないのようなものというのは、本当に利いているんでしょうかね?」

 と教授は思い立ったように聞いた。

「それは利いているんじゃないかと思います」

「でも、何を持って利いていると言えるんでしょうか? 何かの根拠だったり、確証がないとそう言い切れないでしょう?」

「今のお話ではないですが、昔、その妖怪に遭った海女さんが、そのおまじないと見せたとたん、妖怪が忽然と姿を消したという話を聞いたことがあります。だから利いていると私は信じています」

「なるほど、そういう実績があるのであれば、確かに利いているんでしょうね。それでその海女さんはどうなったんですか?」

「ハッキリと記録が残っているわけではないので分かりませんが、ただ聞いた話によると、それ以降、海に入ることはしなかったようです」

「引退したということでしょうか?」

「そうですね。そういう意味では海女さんとしての生命を奪われたと言ってもいいかも知れません。ただではすまなかったということでしょうね」

 と少しまた間が空いたが、今度は彼が思い出したように話した。

「そういえば、その時の妖怪は、自分の姿ではなかったという話になっているようです」

「どうして分かったんですか?」

「その人というのは男性で、見たこともない顔で、しかも服装もこの世のものとは思えないようなものだったそうです。絹や木綿の衣服でもなければ、鎧のような服でもなく、まるで話だけを総合すれば、西洋人のようないで立ちだったと言います」

「ひょっとすると、外国人だったのではないかと?」

「いえ、顔は日本人だったそうです。ただその人は男性で、それだけでも自分ではないのは明らかですよね」

「その頃は、妖怪が自分と同じ姿恰好で現れるという伝説になっていたんでしょうか?」

「なっていたようですよ。そもそも妖怪伝説の始まりは、自分と同じ姿恰好というところから始まっているようですから」

「そうなんですね。ところで箱についての意味を考えたことはありますか?」

「ええ、私はどうしてあんな箱におまじないのようなものが入っていたのかということに大いに興味を持ちました。箱の中に箱を入れる。それをどんどん繰り返すということで、得た結論は、『無限』という発想だったんです。タイムマシンという発想を先ほど教授はお話されましたよね? 私も似たような発想をこの箱からしてみたんです」

「それは面白い」

「時代を巡るのがタイムマシンであれば、実態を巡るのが鏡のような媒体だと考えました。自分の双方に鏡を置いた時、入れ子になってしまうという発想は、まさにこの箱と同じですよね。どんどん小さくなってはいくが、決して消えることはない。そこに『無限』といい発想が生まれる。私はもう一つおかしな発想をしてみたことがあるんです。これは学生の頃に人から聞いた話なんですが、『タマゴが先かニワトリが先か』という言葉からの発想なんです」

「ほう」

「ニワトリはタマゴを生み、タマゴはふ化してひよこになる。ひよこが成長しニワトリになり、またタマゴを生む。では最初はタマゴだったのか、ニワトリだったのかという発想ですね。タマゴが先だとすれば、タマゴは何から生まれたのか? ニワトリが先だとすれば、何から生まれたのか? という発想です。これはニワトリだけではなく、人間などのすべての動物に言えることですが、まるで禅問答のようですよね」

「そうやって考えると、堂々巡りを繰り返し、抜けられなくなる。自分と同じ人間が存在していなかったとしても、意識の中にいるというくらいの発想は、この疑問に比べれば大したことはないような気がしませんか?」

 教授は科学者らしからぬ話を始めた。

「ええ、同じ時間、同じ空間に存在しているのだとすれば、それは許されないことなのかも知れませんが、すぐに消えてしまうのであれば、それは問題ないのではないかと思えます。ただ、その一瞬であっても、大いにその人に対しての影響はあると思われるのですがね」

「ドッペルゲンガーで、同じ時間に同じ人間がいてはいけないから、本人を殺すという発想がありましたが、一瞬の幻であれば、この考えは違うものになるかも知れません。ただ一つ言えることは、ドッペルゲンガーが自分の姿になって現れるということには、何か大きな意味があるのは間違いないということでしょうね」

「この無限に続くタマゴとニワトリの関係を、どこかで切断してしまおうという何かの力が働いているのかも知れません」

「じゃあ、ドッペルゲンガーに出会う人や、トモカヅキのような妖怪に海に引きずりこまれた人は、『選ばれた人物』ということになるのでしょうか?」

「トモカヅキの場合も、ドッペルゲンガーの場合も、ハッキリと形になって伝説として残っている。それは複数の証言が残っていて、信憑性があるからなんでしょうね。それらを目撃したすべての人がそうだとは言いませんが、少なくとも目撃した人が伝承者として他の人に話すというところが特徴ですよ。例えば他のおとぎ話や伝説というのは、見たり聞いたりしたことを他の人に話してはいけないというのが多いですよね。でもこの場合はありません」

「そういえば、教授がさっきドッペルゲンガーの共通点を話してくれた中に、『ドッペルゲンガーは口を利かない』というのがありましたよね。そういう意味でも、他言無用という概念はドッペルゲンガーに対してはありえないということになりますよ」

「その通りなんです。トモカヅキのような妖怪も、きっと何も言わないんでしょうね」

「どうなんでしょう? アワビなどの海産物を与えようとするらしいですからね。これは無言のうちに行われることなんでしょうか?」

「そうかも知れませんね。ただ、ドッペルゲンガーとトモカヅキのお話は、自分と同じソックリな人間という共通点以外にはないわけなので、そもそも同じ発想と考えてはいけないのでは?」

 と、教授もドッペルゲンガーに関しては詳しいがトモカヅキに関しては今日初めて聞いた話なので、自信がない。

 そういう意味では彼もトモカヅキの伝説は知っているが、ドッペルゲンガーに関してはほとんど初めて聞くようなものなので、教授の意見をそのまま鵜呑みにしていた。

「でも、これは単純な疑問なんですが、トモカヅキのような妖怪を見た時というのは、そのまま海に引きずりこまれるんですよね?」

「ええ」

「ドッペルゲンガーの場合は、自分と同じ人を見たその時に死ぬわけではなく、それからしばらくして死ぬと言われているので、その間にソックリな人を見たなどということを証言できるわけです。でも、妖怪の場合は、自分と同じ相手を見たということを誰かに伝える暇もなく、そのまま殺されてしまうわけでしょう? それなのに、どうしてそんな伝説が残っているんでしょうか?」

「そうなんですよ。そこがさっき僕が感じた『選ばれた人』という発想だったんですよ。トモカヅキを見た人間はそのまま死んでしまうんですが、これはあくまでもこの村での伝説なんですが、死んだ人が自分の大切な人の夢枕に立つんです。そこで、自分がトモカヅキに出会ったこと、そしてそれが自分であったこと、そして海に引きずりこまれて死んでしまったことを話すんです」

 と、彼が言った。

 それは教授にとって衝撃的な話で、

「それは、あなたも体験されたということでしょうか? あなたも大切な人をトモカヅキに殺されたと言っていましたが」

「ええ、そうです」

「それをあなたは誰かに話しましたか?」

「ええ、この話はしました。でも、それから少しして例の妖怪の死骸を見つけたものですから怖くなって、妖怪の死骸の話は村人の誰にもしていません」

「ひょっとして、あなたは私に何か肝心なことをまだ隠していませんか?」

 教授はふと感じた。

 彼は少し口籠っていた。よほど話したくないことを隠しているのだろうか?

 そんな気持ちがあるのに、どうして彼は教授に妖怪の死骸の話をしたのだろう? ひょっとすると、この死骸を見つけたということが彼をひどく追い詰め、耐えられない状態になっているところへ教授が現れたことで、まるで救いの神のような存在に感じているのだろうか。

 彼は意を決したのかゆっくりと話し始めた。

「この村も何分田舎の村ですので、昔からの風習や法度のようなものが根強く残っているんですよ」

「分かります」

「私は妻になるはずだった女性を本気で愛していた。あの頃はまだ若く、血気盛んでもあり、心よりも身体の方が反応してしまい、我慢できない状態になることも結構ありました。今のように落ち着いてもいませんし、何よりも自分というものに自信もなかったので、私としては彼女と相思相愛で幸せだという思いの裏に、絶えず嫌われたらどうしようという気持ちが見え隠れしていたんです」

「それで?」

「何分若かったので、頭に浮かんできたことと言えば、彼女と既成事実さえ作ってしまえば、彼女も僕以外には他の男性などありえなくなると思ったんです。別に彼女が他の男性を好きになったという事実があるわけでもなく、私の被害妄想でしかなかったんですが、一度疑念を抱くと、その妄想は果てがありません。自分でもどうすることもできなくなった私は、彼女を断崖絶壁の下にある洞窟で、既成事実を作ったんです」

「合意ではなく?」

「最初は無理やりに近かったですが、次第に彼女も私の気持ちが分かってくれたのか、それとも観念したのか、大人しくなりました。私は何も言わずに事に当たり、それこそ形式的な時間が淡々と過ぎて行ったことでしょう。もちろん、私は必死だったし、寡黙に行われた儀式のようなものだったので、その場にはお互いの息遣いしか聞こえなかったことでしょう。すべてが終わった痕、私は言い知れぬ後悔に襲われました。自己嫌悪というんでしょうか。自分がこれほど醜い人間だったなど思いもしなかったんです。彼女は泣くわけでもなく、私を睨むわけでもなく、私に決して目を向けようとはしませんでした。そんな場所から一刻も早く立ち去りたくって、私は身支度をすると、さっさとその場から逃げるように立ち去ったのです」

 一気にそこまで言って、口に盃を運んだ彼はさらに続けた。

「それから数日間、彼女に会うことはなかったのですが、次に出会ったのは、偶然だったのです。歩いていてバッタリと出会ったのですが、彼女は何事もなかったかのように、私に笑顔を向けます。どんな顔をしていいのかとそれまで感じていた私でしたが、その顔を見るとなぜか安心して、そこから先は、本当にあの時のことはなかったのではないかと思えるほど、二人の仲は元に戻っていました。いや、さらに親密になったのかも知れません。彼女が許してくれたというよりも、私の身体を知ったことで、さらに親密になったのだと私は思いました」

「なるほど」

「それから二か月くらいしてから彼女の様子がおかしくなったんです。嘔吐のようなものがあったり、それがつわりであることは男の私には分かりませんでした。でも、彼女から少しして妊娠したという話を聞かされました。結婚さえしていれば、おめでたいことなんですが、まだ婚約もしていない状態で、孕ませてしまったということは、網元の息子としても重大な失態でした。彼女をひそかに一番近い街に連れていき、誰にも口外しないことを約束に金を与えて、堕胎させたのです。その時の彼女の憔悴はすごかったですが、そもそも彼女の性格が、熱しやすく冷めやすいものだったんでしょうね。しばらくすると、すぐに元に戻りました」

「生まれてくるはずの子供はどっちだったんでしょうね? 男か女か?」

「ええ、それも今は感じています。そこで私の考えが飛躍しすぎているのかも知れないんですが、この村の断崖絶壁の洞窟で妖怪の死骸を見つけたというのが私だったというのも、何かの運命を感じたんです。何しろ場所が、あの場所だったんですから……」

 彼はそういうと、完全に下を向いてしまった。涙を流しているかのように、方が小刻みに震えていた。

「あなたは、今でも後悔していますか?」

「いいえ、彼女を犯したということで既成事実を作ってしまったことに後悔は感じていません。後悔というよりも言い知れぬ悲しみを感じるようになったのですが、それが妖怪の死骸を見つけてからのことなんです」

「その悲しみというのがどういう種類の悲しみかによって、考え方も違ってくるような気がしますね」

「ええ、そうなんです。私はあの死骸を生まれてくるはずの子供だと思った。その瞬間から、何か逃げられない悲しみに引きずり込まれたような気がして仕方がないんです」

「それはトモカヅキに海に引きずり込まれる海女さんのような感じですか?」

「それとは違います。引きずり込まれてしまうと、そこから先に待っているものは、何かの堂々巡りのような気がするんです。いわゆる『無限』という発想ですね」

「あなたは村人の他の誰にも言えないと思っている話を私にしてくれた。私がここに来るまでは、この話は墓場まで持っていくつもりでいたんじゃありませんか?」

「ええ、その通りです。このことは口が裂けても言えません。特に既成事実を作ってしまったことが、村の秩序から考えても許されることではありませんからね」

「まあ、村の秩序だけではなく、人間的に許されるかどうかという問題でもありますが」

 と、初めて教授は彼に冷たい言葉を掛けた。

 それを聞いた彼は、背筋がゾッとしてしまった。初めて、

――この人にも話すんじゃなかった――

 と感じたほどだ。

 しかし話してしまった。それだけ自分の中で抱えているには限界があったということであろうか。

 今日、ここでこんな話になるとは思ってもいなかった。教授と研究のことや言い伝えや伝説について話をして、教授の意見を素直に聞きたいという思いだったのだ。

 そこには先入観、つまり自分の犯してしまった罪を語らずに、一般論としての研究者の意見を聞きたいというのが本音だった。

 もちろん、こんなことが分かってしまうと、軽蔑されてしまい、話がその場で終了してしまうのも分かっていたので、口が裂けても言えないと思っていたはずなのに、どうして口を滑らせてしまったのか、後悔ではないが、もう戻ってこない時間が口惜しい気持ちであった。

 もっとも、こんな話を嫌悪を感じることもなく黙って聞いていると思えない彼は、

――教授が嫌なら、きっと話を遮ってくれるかも知れない――

 という一縷の望みがあったのも事実だった。

 だが、教授はそんな彼の気持ちとは裏腹に、黙ってその話を聞いていた。目を瞑って聞いていたので、何を考えていたのかもよく分からない。

――自分の過去の何かと比べていたのだろうか?

 と彼は感じ、

――教授だって人間だ。人に言えない何かを一つや二つ、抱えているのではないだろうか――

 と思ったのだ。

「私は以前、ドッペルゲンガーを見たことがあるんだ」

 といきなり教授は衝撃的な話を持ち出した。

 あれだけ、

「ドッペルゲンガーを見ると死ぬ」

 と言い続けてきたのに、これはどういうことなのか?

「さっきまでの説をご自分で否定なさっているようにしか思えないんですが」

 というと、

「そうなんだ、私も死を意識してずっと来たんだが、実際にそのドッペルゲンガーを見たのは何年も前なので、言われている説でいえば、死んでいてもおかしくはないということになる。だから余計にこの状況に納得したいわけなんだが、実は私の妻も同じようにドッペルゲンガーを見ているんだ。妻も死んでいない」

「何かあるんですか?」

「実はドッペルゲンガーを見たと言っても、私が見たのは妻であり、妻が見たのはこの私だったわけだ。もちろん、二人とも出現した場所にいなかったことは証明済みなのだが、お互いに相手のドッペルゲンガーを見るということ自体、稀な気がしないかい?」

「そもそもドッペルゲンガーを見るということ自体稀ですからね。でも、これはどう説明すればいいんでしょうかね」

「さっき、男女で別々の同じような妖怪の話をしたけど、あれが頭に残っていてね」

 と教授は言った。

「お互いのドッペルゲンガーがお互いに否定しあったという考えもありではないですか?」

「それは、毒を持って毒を制するというような意味合いもあってのことかな?」

「そうですね。その言葉がこの場合はピッタリくるのかも知れませんね」

「僕たちが、今日ここで出会ったというのもただの偶然ではないような気がしますね」

「人はきっといつも誰かと出会う可能性をずっと持っているものであり、それを偶然という形で生まれてくるから、可能性なのかも知れない。可能性というのは、誰にでもあるから可能性なのではないでしょうか?」

「ひょっとすると、あなたの奥さんはトモカヅキに海に引きずり込まれて死んだということになっていますが、ひょっとすると、トモカヅキと一体になったのかも知れませんね。だから同じ姿を相手に見せるのではないかと考えるのは、無理があるかな?」

 教授はそう言って考え込んだ。

「いえいえ、その考えは謎を解く上での重要なカギになるのではないかと僕は思います。なるほど、入れ替わるという発想もあるかも知れませんね」

「そういえば、以前に研究した妖怪で、その妖怪は森の中にいるのだけれど、足に根っこが生えてしまっていて、身動きが取れない。身動きが取れないまま何千年もそこに立ち続けているというが、ある村人がその妖怪に遭うんだ。そこで妖怪は取り出した水晶の玉を彼に見せるのだが。それを見た村人は水晶に引き込まれて、二人は入れ替わってしまう。そして妖怪は彼に言うんだ。『これで自由になれる。お前も次何百年か何千年かしてやってくるやつに同じことをすれば自由になれる』と言ってその場を立ち去るんだ。ここでは歳を取ったりしないんだろうね。私は今まで話をしている中で、辿り着いた意識として、この話を思い出したんだよ」

 それを聞いて、彼はゾッとしたものを感じた。自分がかつて引き起こした妻に対しての罪を思い起こさずにはいられないと感じたのが、ゾッとした気分になった一番の理由であろう。

「じゃあ、この妖怪もこの場所でじっとしている限り死ぬこともなく安全ではあるが、かといって身動きができない生殺しの状態にされているということですね」

「そうなんだ。だからいいことの裏には悪いことが潜んでいたり、悪いことの裏にはいいことが潜んでいる場合もあるということだよ。だから、一概に物事をすべて善悪で片づけることはできないのかも知れないな」

 教授はそう言って、また盃を口に運んだ。

 二人はそんな会話をしながら、それぞれに何かの結論を得ていたようだ。お互いにそのことを口にすることはなかったが、口にすることは余計なことであり、もし相手が自分と同じくらいまでの結論を得ることがあったとしても、それは考えが近くないことを悟っていた。

 二人の宴はそこまでだった。どちらからともまくお開きを宣言し、相手に異論があるはずもないことを承知していたことで、せっかく深いところまで話をしたはずなのに、そのところどころで重要に感じていたことも、すっかり忘れてしまっていた。

 別に酔いに任せて忘れてしまったわけではない。まるで夢でも見ていたかのように思い出すことができないのであった。

 教授はその後、妖怪についての論文を発表し、それなりの評価を得たが、しょせんは学説でしかない。証拠としては限りなくないに等しいことで、人によっては、ほら吹き呼ばわりする人もいた。

 息子の方は、立派な網元になったのだが、その時には例の断崖絶壁に近づくことは許されず、祠を封印し、遠くからお祈りすることで、村人に神格化するように話していた。

 網元になった彼への村人からの信頼は絶大で、村はずっと災害にも遭わずに平穏無事な時間が過ぎて行った。

「妖怪のことを話す人もいなくなったな」

 そう言って、独り言ちた彼だったが、教授と話をしていた時の彼は若く見えたが、四十を過ぎていた。

 あれからかなり経っているのに、今でも若さは変わらない。彼が妖怪と入れ替わった証拠なのか、それとも、やっと彼が自分のドッペルゲンガーにおいついたのか、誰にも分からなかった……。


                  (  完  )

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妖怪の創造 森本 晃次 @kakku

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