第3話 ドッペルゲンガー

「ところで君は、ドッペルゲンガーと言う言葉を聞いたことがあるかい?」

 と、教授は難しい言葉を口にした。

 もちろん、いくら博識とはいえ、専門的に勉強しているわけではない学問で、そんな難しい言葉がスッと出てくるはずもない。

「聞いたことがあるような……」

 と彼は言ってはみたが、その信憑性は限りなくゼロに近かった。

「これはね。昔から言われてきた一種の伝説の類なんだけど、でも心理学では結構研究されていて、ドッペルゲンガーという言葉で通常は呼ばれているんだ。ドッペルゲンガーというのは、自分にそっくりな人を見たという発想の話なんだけど、この言葉がドイツ語であるということもあり、ドイツあたりでよく言われるようになった話なのではないだろうか」

「そんなに昔からあるんですか?」

「古代から話としては伝わっているようだよ」

「どういうお話なんですか?」

「一種の都市伝説のようなもので、一口で言えば、『自分にそっくりな人を見る』というものなんだ」

「似ている人を見るということですか?」

 と聞いてきた彼に対し、教授は、

――この人は無意識なのかも知れないが、鋭いところをついてくるじゃないか――

 と感じた。

「似ている人というわけではなく、その人本人を見たということなんだ。厳密にいうと、見た本人を見るという狭い意味での話でもあるが、知人が自分を自分が行っていたはずのない時にその場所にいたというのを証言するのも、ドッペルゲンガーと言われるものになるんだ」

 と聞くと、彼は驚いたように、

「そんなことってありえるんですか?」

 本当はそうではないかと思っていたくせに、この驚きは茶番ではないかと感じた教授は、少し彼の様子に付き合ってみようと思った。

「ああ、そう伝わっている。もちろん科学的に証明できるものではない。私個人としても信じられないと思っている。しかし、実際に話としては結構な数の証言が残っているのも事実なんだ。それを思うと、頭ごなしに信じられないというのは、逆に科学に対しての冒涜ではないかとも感じるんだ」

 と教授は言った。

「でも、さっき教授は自分で自分を意識するのは一番難しいと言っていましたよね? 鏡で見返しでもしない限り、自分の姿を確認できないので、ハッキリと自分だと言い切れないんじゃないかって。それにですね。もし、同じ人間が近くにいたら、まわりにいる人たちの誰一人として気付かないというのもおかしな話ではないですか? 本人が見た錯覚だと言い切ってもいいんじゃないかって僕は思うくらいですよ」

 彼は少し興奮していた。

 この興奮が却って彼がこの話を信じられないまでも、完全に打ち消すことができないジレンマに陥っていることを示していた。どう説明していいか分からず、必死で考えながら話をしていると、次にいうべき最適な言葉を彼は無意識に見つけることができる才能を持った男ではないかとも教授は感じた。

「ただね。ドッペルゲンガーというのは、これだけで話は終わらないんだ。本当に恐ろしいのは、ドッペルゲンガーを目撃してから起こることなんだ」

 教授がいうと、

「どういうことなんですか?」

「ドッペルゲンガーを見た人というのは、しばらくすると死んでしまうと言われているんだ」

 一瞬、空気が凍り付いたようだった。

 目の前の色はすべてが消えてしまい、モノクロにしか見えなくなっている。風だけが吹いているようで、動くものはいない。だが、この部屋でさっきから教授が吸っているタバコの煙だけが、ゆっくりと昇っていくのが感じられた。完全に時が止まっているわけではなく、凍り付いてしまった中で、微妙に進んでいるのだ。なぜ風だけが普通に吹いているのか分からない。だが、モノクロな世界は確かに彼の頭の中にあり、身動きできない自分に苛立ちを感じていたのだ。

 そんな感覚が何分くらい続いたのか、急に色が戻ってきて、凍り付いた世界が一気に氷解した。

――何だったんだろう?

 と思うと同時に、今自分が感じている時間は数分であるが、この凍り付いてしまった時間の中での数分なので、本当は一瞬だったのかも知れないとも感じた。

「死んでしまうというのは、それこそ伝説なんじゃないですか?」

「そうだよ、それが伝説なんだけど、私は限りなく真実に近い事実だと認識しているんだ」

「真実に近い事実?」

「ああ、そうだよ。君は真実と事実を同じものだと思っているかね?」

「そんなことはありませんが、本来の意味から考えると、『事実に近い真実』なんじゃないですか?」

「どうしてだい?」

「だって、真実というのは、必ずしも事実でなくてもいいわけですよね。その人にとっての真のことであれば、事実である必要はない。でも、事実は真実によって作られるものであり、真実なくして事実のないのではないかと思います」

「なるほど、きっとそれは君が苦労してきたから感じることなんだろうね。確かにそうかも知れないが、真実ではない事実というのもあるんだよ。故意ではなく偶然によって作り上げられたものもそうではないのかな?」

「でも、それもひっくりめて真実というものだと僕は思っていましたが」

「私が勧めている学問では、その場合の事実は、必ず誰かの真実によって引き起こされたものだって考えるんだ。真実なくして事実はないってね」

「なるほどですね。僕も今その話を聞いて、少しそのことについては考えてみようと思います。きっと僕のような考えが、本当は真実なのに、否定してしまう意識を植え付けてしまうのかも知れませんね」

「その通りです。科学で証明できないことを否定するのは私のような研究者には科学への冒涜だと思うんですよ。真実をしっかり見ようとしないという意味でね」

「まさにその通りかも知れません。ところでさっきのドッペルゲンガーを見ると死ぬと言われていることですが、具体的にはどういう話があるんですか?」

「科学の世界でもドッペルゲンガーに対してはいろいろ説明が行われている。どうしてそんな現象になるのか、そしてどうして死に至るということになるのかということをですね」

「それで?」

「まず、ドッペルゲンガーという現象についてですが、最初の説としてはですね。人間には肉体と魂があるという話は分かりますか?」

「ええ、分かります」

「まず肉体があって、魂がある。その魂の中に心理であったり、考えであったり、感情があったりしますよね。肉体の中に魂があるというわけです」

「ええ、だから人は死んだら肉体から魂が離れて、魂が永遠に生き続けるんだなんて話を聞いたことはあります」

「それが事実かどうかは別にして、ドッペルゲンガーの発想として、身体から魂が抜けてしまって、魂が表に出た。そしてそれを目撃するという発想なんですよ」

「一理あるような気もしますが、ちょっと考えると、魂の抜けてしまった抜け殻のような状態で、自分を見たという認識ができるものなんですかね?」

「そうですよね。でも、普段は見えない魂を、肉体だけの抜け殻だから映像として見たというものが残っていて、魂が身体に戻った時に、まるで今見たというような認識になったという発想もありではないかと思うんです。だけど、今のような発想を私は聞いたことがなかったですね。これは新しい発想かも知れません」

「僕のような素人に話す方が意外と新しい説が生まれてくるのかも知れませんね。新鮮とでもいうんでしょうか?」

 と言って彼は笑って見せた。

 しかし、教授もその話を聞いて、もっともだと思ったのも事実、やはり彼と二人きりで話をするのもいいのではないかと思った。

「ちなみに、さっきから曖昧な感じがしていた『似ている人』というのは、ただのソックリさんなんですか? それとも本人なんですか?」

「ドッペルゲンガーと言われているものは、あくまでも本人です。世の中に三人はいると言われているソックリさんとは違います」

「分かりました。それが大前提ですので、最初にハッキリさせておきたいと思ってですね」

「それは当然のことです。ドッペルゲンガーは、自分自身の生き写しという表現がピッタリだと思います」

「他にもドッペルゲンガーへの説明があるんでしょう?」

「ええ、次に言われているのは、本当に錯覚であり、脳に何かの疾患があって、幻を見るというものに当たります」

「その説は一番ありがちな気がしますね」

「これは本当に稀な意見ですが、さっき話したパラレルワールドを見てしまったのではないかという発想ですね。つまり、別の可能性を覗いてしまったという考えでしょうか?」

「なるほど、僕は今それを聞いて。さっき話に出た『左右か前後に鏡を置いた時に見える無限の自分』という発想を思い出しました。思い出しておいて、ゾッとしましたけどね」

 と、彼はそういうと、今度はさっきこの部屋が凍り付いてしまった感覚を思い出した。

 それをわざわざ教授に言おうという気にはなれなかったが、何かあの時の感覚がドッペルゲンガーという現象を解き明かすカギになっているのではないかとさえ思えたのだ。

「ところで、ドッペルゲンガーにはいくつか特徴的なことがあるんです。それはドッペルゲンガーを目撃した時の共通点とでも言いますか、何か興味深いところがあるかも知れませんよ」

 と教授は言った。

「ぜひお聞きしたいものですね」

「まず、一つはドッペルゲンガーは周囲の人と話をしないということなんです。見かけることはあっても、ただ歩いているところであったり、まるで空気のように佇んでいる姿だったりするんです」

 それを聞いて、彼はまたしても、先ほどの凍り付いた世界を思い出した。思い出したシチュエーションは、

「世界がモノクロに見えた」

 ということであり、それを思うと、ドッペルゲンガーを目撃すると、まわりはモノクロになり、まるで時間が止まってしまったような感覚に陥るが、ドッペルゲンガー本人のみが普通に動いている。つまりさっき感じた風のようなものに思えたのだった。

 これも教授に話す気はしなかった。もし話すとしても、話を全部聞いてからだと思ったからだ。

 教授は彼の顔を覗いていた。彼が何かを感じているのは分かっていたが、何も言おうとしないのであれば、それを敢えて聞こうとも思わなかった。それよりも、話を先に進めたかったというのも事実である。

「次は?」

 そっけないように訊ねたが教授に気持ちを看破されていたので、おかしな雰囲気になることはなかった。

「次に言われているのは、その本人が出没する以外のところには出現しないということですね」

 それを聞いて彼は思った。

「何かさっき聞いたデジャブ現象に通じるところがあるのかも知れないと感じましたが、いかがなんでしょうね?」

 という彼に、今度は教授も少し興奮したかのように、

「ええ、その通りなんです。私もそれは前から思っていました。一度も行ったことがないのに知っているという発想は、限られた世界の中で、繰り広げられる不可思議なことという意味では共通しているように思うからですね」

 教授は、彼の意見がある程度自分と似たところがあることを確信し、素直に嬉しかった。

 そういう意味では彼の話を本当はもっと聞いてみたい気がしたが、彼が敢えて言おうとしないことを聞きだすのは却っておかしな雰囲気を作りそうでその必要を感じなかった。

「ただ、このことが、ドッペルゲンガーは似た人を見たわけではなく、その人本人を見たという言い伝えの根拠にもなるんでしょうね」

「その通りだと思います。そしてその裏付けとしてなのか、もう一つ言われているのが、忽然と消えるということなんです。超常現象めいた話が、あくまでも似た人間だというわけではなく、本人なのだと強調しているような感じですよね」

「そうですね」

「そして最後に言われているのが、これが一番重要なのですが、ドッペルゲンガーを見ると死ぬということなんですね」

「それは見た本人が死ぬということですか?」

「ええ、そう言われています」

「じゃあ、ある程度死に関しても限られているというわけですね」

「ええ、その通りです。ところでどうして死ぬかということも研究されていて、どうして起こるかというところから死についての説明が行われています」

「なるほど」

「最初に言われるのが、魂と肉体が離脱することでドッペルゲンガーを説明しましたが、魂と肉体が離脱してしまったことで、魂が二度と肉体に戻れなくなるということで、そのまま死に至るという話ですね。この話が私は一番説得力を感じます」

「確かにこの話であれば、ドッペルゲンガーの正体も、そして死に至るという理屈もどっちも納得させられるだけの説明がつきそうな気がしますよね」

 と彼がいうと、教授も満足そうな顔をした。

「そして次に言われているのが、一人の人間が同じ時間、別々で存在できないのではないかという発想です。これは科学的に不可能と考えられるもので、この理屈には少し説明が必要になってきます」

「というと?」

「さっき話したパラレルワールドのお話で、今この瞬間の次には無限の可能性があると言いましたよね? それを踏まえて、タイムマシンというものを考えてみましょう?」

「タイムマシン?」

「ええ、科学者の中で考えられている架空の装置のお話で、いわゆる近未来の発明品だと思っていただければいいのですが、その乗り物に乗ると、過去にも未来にも行けるという夢のような機械のお話です」

 田舎村の一網元の息子ではあったが、一応都会の大学を出ていることもあって、タイムマシンという話は聞いたことがあった。

「そのタイムマシンがさっき言われたパラレルワールドと何か関係があるんですか?」

「例えば、あなたがそのマシンに乗って、過去に行ったとしましょう。自分が生まれる前の時代ですね」

「ええ」

「そこであなたが自分の親の若い頃に遭ったとします。相手も自分もまさか親子だとは思わない。そこでもし、あなたが自分の母親に会って、母親が自分に恋したとします。本当であれば結婚するはずだったあなたのお父さんとの結婚をけってあなたと駆け落ちでもしたら?」

 そこまで言われて、想像した自分にゾッとしてしまった。

「僕は生れてこなくなる」

「そう、歴史が変わってしまうことになる。それはあなたたちだけではなく、その後あなたのお母さんが関わるすべての人の運命が変わってしまう。まったく別の世界が未来には待っているわけですね。でも、そうなると、あなたは生れてこないから、あなたはマシンを使って過去にはいけない。いけないから歴史は変わらない。これってすごい矛盾だとは思いませんか?」

 彼は、今自分がゾッとした思いが妄想であってほしいと感じていたが、自分が感じた妄想よりも何十倍も激しい事実ともいえる話に驚愕していた。

 説得力という意味では十分で、それ以上何も言えなくなってしまった。教授はこの時とばかりに話を続ける。

「つまり、このような矛盾を起こさないために、歴史が変わってしまうような時間旅行はできないという考えがあるんです。逆に言えばこの問題さえ何とかなれば、タイムマシンの開発は可能なのかも知れませんが、この問題があるので、開発は難しいと私は感じています。そしてこの問題がドッペルゲンガーを見ると死ぬという伝説を生むと思ったんです」

「つまりは同じ人間が同じ時代に二人いるから一人が死ぬという意味ですか?」

「ええ、そうです。この説明も私は一応の説得力を感じるんです」

「ただ、これは原因に対しての死ぬという発想ではないですよね。そういう意味では最初の発想よりは弱い気がします」

「その通りですね。でも、説としてはあり得ますよね」

 と言われて、彼はハッと思った。

「そういえば、僕たちの時代は、結婚などは親が決めた相手と必ず結婚するということになっているんですが、ひょっとすると、歴史が変わらないようにという意味がこの掟の中に含まれているとすれば、これは恐ろしいことですよね」

 今度は教授がハッとした。

――この男は何という発想をするんだろう?

「確かにあなたの言う通りですね。掟として決まっていれば、未来から来た人間に歴史を引っ掻き回されるということはない。この掟というものは、長い年月守られてきたわけですが、それなりに理由があるというわけですね」

「ええ、その通りだと思えば、掟というものを軽視できないような気もしてきました」

 近年では、

「自由だ、平等だ」

 と言われてきているが、拘束には拘束の理由があるということも忘れてはいけないと思うのだった。

 教授は、自分が彼からいろいろな話を聞いて、それを材料にして自分の考えを固めようと思っていたが、彼の独特な考えに啓発されている自分がいることに気付いていた。

――やはり、この人は只者ではないのかも知れないな――

 と、教授は感じたのだった。

 そもそも教授がドッペルゲンガーの話を聞いたのが、どんな意図があってのことだったのかを思い出せなかった。

――この男とは今日が初対面なのに、まるで以前から知っていたような気がする――

 と感じたが、これは一般的に言われているデジャブというものとは違っているような気がした。

 それよりももっと深い意味のあるもので、説明はすぐにはできないが、もし説明ができるとすれば、その理屈は誰をも説得できるくらいに強いものであるような気がして仕方がない。

 教授は今まで漁師や農民というものに対して。

――自分は偏見など持っていない――

 と感じていたが、それが間違いであったことに気付いた。

 それを気付かせてくれたのが彼であり、彼という人間と出会ったことで、何か自分の研究が今回、一つの結論を得られそうに思えた。

 教授は言あ迄研究を行った地元で、都市伝説や言い伝えの類を訊ねることはあったが、科学的な理論お話や、根拠などと言った話をしたことはない。しても分からないだろうし、もしできる人がいたとしてもそれは中途半端な理論で自分の邪魔になるとしか考えられなかった。それは作家がアマチュアの時代にはいろいろな人の本を読んで、自分の文章力を突けようと思っていても、ある程度までまわりに認められる作家になってからは、他人の小説を読まないという発想に似ている。筆が迷走してしまうというべきであろうか。

 だから、教授も他人の意見をあまりまともには聞かない。それはまだ自分が学者としてまだまだだと思っているからに違いない。

 若干の謙遜も入っているだろうが、教授くらいになると、自分の考えを信じて疑わないことが必要になってくる。まだまだ上を見続ける必要はあるが、他人を見るだけの余裕というのもないと思っていたからだ。

 だが、足立村でこの男と会って、ここまで話をするというのは、彼が教授に何か言いたいという目をした時、他の人の好奇の目とはどこかが違っているのを感じたからだった。

 教授の方としても、

――初めて話をする相手とは思えない――

 という思いがあり、少し頭をよぎったのが、

「彼くらいの年齢の時の自分」

 だったのだ。

 ドッペルゲンガーの話をしたのも、自分が最初にドッペルゲンガーという言葉に出会ったのが、ちょうど彼くらいの年齢だったと思っているからだ。

――確かあれは大学院に進んでからのことだったので、二十代前半だっただろうか――

 彼がそれまでドッペルゲンガーという言葉を知らなかったというのは彼にしてはうかつだった。

 心理学お勉強を始めてから三年以上経ってからのことだったので、

――こんな興味深い話を、心理学に出会ってから三年もしらなかったなんて――

 と思ったくらいだ

 だが、ドッペルゲンガーという言葉と出会う前の三年間と、出会ってからの三年間にはかなりの開きがあった。別に何がどうあったというわけではないが、出会う前の三年間というのは、パッと思った時、あっという間だったような気がするが、ゆっくり考えると、長かったような気がする。

 しかし、出会ってからの三年間、実は今も続いていることであるが、パッと考えるとかなり長く感じられるのに、ゆっくり考えるとあっという間にしか思えなかった。要するにドッペルゲンガーとの出会いの間で、真逆の発想を、いや妄想に近いのかも知れないが、抱くようになったのだった。

 彼がいくつなのか思わず聞いてみたくなった。教授は今年で五十五歳になる。きっと息子がいれば、これくらいの年齢ではないかと思った。

 教授は一度三十歳の時に結婚したのだが、奥さんとは三年後に死別した。子供がいなかったのでは幸か不幸か、その後は完全に研究に没頭していった。教授としての地位は地方都市レベルでは十分な著名人となっていた。気が付けばもうこの歳になっていて、今までは結婚の前と後で自分が変わったと思っていたが、今から思えば、結婚前もゆっくり考えればあっという間の人生だったと思えていた。

――そういう意味では結婚ってただの通過点だったんだろうか?

 亡くなった妻には悪いが、そう思うようにしていた。

 妻にベタ惚れだっただけに、あのまま死別のショックの尾を引いてしまっていると、今自分がどうなっていたか分からない。妻のことを忘れることはないが、その思いがあるのと、研究が最優先という思いとで、再婚を考えることもなく、この歳になってしまったのだ。

 教授はその日、かなり酔っていた。タバコもかなり進んでいたが、普段であれば、酒を飲んでいる時に、そんなにタバコを吸うことはない。別に吸わなくても大丈夫なくらいなので、ヘビースモーカーというわけでもなかった。それなのに、その日はまだ二時間くらいしか経っていなかったのに、十本近く吸ってしまっている。こんなことは初めてだった気がする。

 今までで一番タバコの量が多かったのは、妻が死んでから四十九日くらいまでの間と、自分の研究論文が学会で最初に評価された時、ノミネートされてから発表があるまでの間ったと思っている。その時もタバコはたくさん吸ったが、アルコールを口にすることはなかった。

 妻の四十九日の前の日までと、論文に関しては、発表があってからと決めていたのだ。論文に関しては、おめでとうになるか、残念になるかの違いだけで、呑むことに変わりはなかったからだ。

 教授の論文は、その時認められはしなかった。妻も亡くして、論文も成果が出ない、そんな状態で教授は人生初ともいえる挫折を味わった。それでも教授は自分の理論に自信を持っていたので、今までの理論をさらに深く掘り下げた内容の論文を提出し、今度は大いなる称賛を浴びることになった。

「諦めなくてよかったです」

 授賞式でのこの一言がすべてだった。

 それだけ理論に対して大いなる自信を持っていたということなのであろうが、きっと前の論文が、

「後少しの状態」

 だったのだろう。

 一つの壁を超えるとそこには称賛が待っていた。

「踏み出すか踏み出さないか、これが難しい」

 という言葉を残しているが、そもそも、足元にあるのが踏み出すべき境界なのかどうか分かっているわけではない。雲をつかむようなそんな状態にしっかり自分を失うこともなくやり通せたのが、称賛に値するものだったに違いない。

 教授としては、

「理論的には前に認められなかった論文である程度網羅されている」

 といい、再度過去の論文を見直した他の専門家から、

「本当だ。どうしてあの頃は認められなかったんだろう?」

 と思わせた。

「要するにタイミングと運なのかも知れないな」

 という人もいたが、教授はそうは思っていなかった。

「タイミングはあると思います。他の理論に誘発されて称賛を受ける内容もあるでしょうから、それは素直に認めますが、運に関しては、称賛という意味では関係ないと思います」

 と、教授は答えた。

 ただ、本当に運は関係ないと思っていたわけではなく、心の中では、

「運を認めてしまうと、過去の論文を否定してしまいそうで、それを私がするわけにはいかない」

 と思っていたのだ。

 教授は、それから四十代後半くらいまでに、歴史的発見をいくつか行っている。だが、表舞台に出ることはあまりなく、四十代後半からは、ほとんど後輩にその道を譲ろうとしていた。

 最近では発掘というよりも、田舎の村に出かけて、そこに伝わっている伝記や言い伝えを編纂することが主になっていた。

「趣味の世界ですよ」

 と言っているが、学生の中には、そんな教授に共感し、一緒に研究に勤しむ人が増えてきた。

 そのおかげで教授のゼミは、言い伝えを編纂するためのチームのようになり、図書館や博物館などから、それらの伝説を発見するチーム、そして先生と同行し、田舎の村を転々としながら、実際に聞いた話を構成するチームと大きく二つに分かれていた。

 研究に明け暮れていた時期が懐かしいと、最近までは思っていたが、この頃では、その時期を思い出すこともなくなってきた。それを自分では、

「気持ちに余裕のようなものが出てきたからかな?」

 と感じていた。

 少なくとも研究ち呼ばれるものをしていた時は、地位と名誉を求めるのが最優先だったはずだ。しかし、今ではそんなものはどうでもよくなり、上を見るのはやめた。

――先が見えてきたのかな?

 と考えるようになったが、

「百里の道は九十九里を半ばとす」

 という言葉があるが、教授は研究をやめた時、その逆の気分になっていた。

「まだまだ半ばだと思っているが、実際にはある程度、気持ち的に飽和状態になっているのかも知れない」

 百里の道というのを自分では、

「名声を手に入れるための道だ」

 と思っていたが、今ではそうではないと思っている。

 自分の中で飽和状態になり、

「もう、ここらでいいだろう」

 と感じた時が、自分にとってのゴールであると思うようになった。

 まだまだ先があると思って、五里霧中の中、

「百里の道は九十九里を半ばとす」

 と感じて、ずっと歩んできたが、きっとその感情に疲れを感じてきたのかも知れない。

 後進に道を譲るという思いだといえば恰好はいいが、要するに

「自己満足による引退」

 でしかなかった。

 ただ、それ以降何もすることが頭の中になければ本当に「半ば」だったのかも知れないが、教授には、

「田舎の村での伝説を研究して編纂する」

 という夢が新たにできたのだ。

 この思いは、

「もうここらでよかろう」

 と思った時にふいに思いついたわけではない。

 ずっと前から思っていたことで、正直にいうと、続けている研究と今後やりたいと思っていることの天秤であった。

 その天秤のバランスが崩れたのが、その時である四十代後半だったのだが、そのおかげでうまく人生をシフトできた気がした。

「第二の人生を楽しめばいいんだ」

 と教授が思うようになって、自分なりに若返った気がした。

 すでに四十代後半になっていたが、精神的にはまだ二十代後半くらいの思いだったのだ。ある程度の名声はあったので、教授が後進にその道を譲ろうと言った時、まわりの人の驚愕は想像つくであろう。

「どうしたんですか? どんな心境の変化なんですか?」

 と言われてみたり、恩師である人からは、

「血迷ったのか?」

 とまで言われたが、ニッコリ笑って、

「そんなことはありません。私はもうこの研究には満足したんです」

 と言い、さらに、

「ここまで培ってきた心理学などの研究を元に、今度は日本全国に伝わる伝説を本という形にまとめてみたいと思うんです。どうぞ、私のわがままをご容赦ください」

 と言われてしまうと、覚悟などという心境とは違った様子に、教授も息巻いている自分が何となくバカバカしく感じられた。それを見た教授はさらに満面の笑みを浮かべたが、それを見た教授は、

「しょうがないな」

 と言わんばかりにため息を吐いたのが、暗黙の了解となり、晴れて教授は、

「自由の身:

 になれたのだった。

 そのおかげで、教授は今では、

「俺は三十代後半くらいなのかも知れないな」

 と思っていた。

「心理学の研究をやめて、伝説をまとめだして十年が経った。この十年をこの間までは結構長かったと思うようになったことで、それ以降、少し感覚が変わってきたような気がした。

――やはり、私は年相応なのかも知れない――

 と感じた。

 その感覚の違いを他の研究員も何となく分かっているようで、

「教授、最近少し変わったよな」

 と言われるようになった。

 どのように変わったのかということは、まわりの人それぞれで微妙に違っているので、その話をしても、結論は出ない。むやみに長い間話をしていると、袋小路に入り込んでしまうし、普通は絡み合わない話になってしまったことを皆分かった時点で、話が打ち切られる。打ち切ってしまうと、皆が、

「あっという間だった」

 という気分になる。

 そのことを、

――何か変な気分――

 と皆が感じているが、そう感じているのは、自分だけだという錯覚があった。

 しかも、それが教授の術中にはまっていると分かっている人は誰もいないのは、もちろんのことであった。

 教授もそんな心理的トリックを皆に与えているという感覚はない。ただ、心理学の権威とまで言われるようにいなった自分が、働き盛りという年齢で、いきなりまったく違った道を目指すようになったのだから、それはビックリしたことだろう。

「教授はどうして、田舎の村の伝説なんか研究しているんです?」

 と、聞いた研究員がいたが、

「どうしてなんだろうね? 私も何か気になる伝説があったというわけではないんだけど、最近は考古学にも興味が出てきたので、そっちも研究しているんだ」

 と言った。

 だが、実際に考古学に興味があったのは、実は学生の頃からだった。

 大学では考古学を専攻していた。それなのに大学院で心理学を目指すようになったわけだが、心の中では考古学を忘れたわけではない。

 実際に今まで発表した心理学の発見も、考古学に造詣が深くなければできるはずのない発想も含まれていた。それを公表するようなことはしなかったが、心理学と考古学は、キットも切り離せないものだということを信じて疑わなかったのだ。

 きっと、今度の伝説を編纂するという発想も、考古学が心理学よりも自分にとって大きくなったことから、目指すものが変化したからなのかも知れない。

――目指すものが少し変化しただけで、よく今までの地位や名誉を捨ててまで、新たなことに挑戦しようと思うなんて、私もどうかしていたんだろうか?

 と感じた。

 今の研究員は、教授が心理学の第一人者であったということは知っているが、心理学自体にそれほど興味があったわけではないので、教授の権威がどれほどのものが分かっていない。

 だから教授とは、まるで友達のように接しているが、それも教授が精神的にまだ自分が二十代後半だと思っていたことが起因している。教授のことを、

「優しい先輩」

 という程度に思っている研究員は教授のことを慕ってはいるが、教授としてというよりも本当に先輩としてという程度のものだったに違いない。

 だが、ここ数年は違ってきていた。

 教授の貫禄は以前にもまして増大していた。貫禄は権威に似たもので、研究員ももはや教授のことを、

「優しい先輩」

 とはなかなか思えなくなった。

 しかし、さすがに心理学の第一人者としての権威には足元にも及ばないだろうが、それまでの教授とは明らかに違うのだった。

 そのせいもあってか、最近の教授は、自分を年相応に思えてきたのだ。

 だが、今回、足立村に来てからは、以前の教授のように、威厳というよりも、まだこの研究を始めて間がない頃の初々しさが醸し出されていた。

「あんな教授、見たことがない」

 最近、研究員として従事するようになった人は、皆そう思っているが、ちょっとベテランの研究員は、

「何言ってるんだ。以前の教授はあんな感じだったんだぜ。どっちが本当の教授なのか、俺も今は少し戸惑っているくらいさ」

 と、その研究員は言ったが、本音に違いない。

「教授、だいぶ研究も進んできましたね」

 というと、

「研究というのは探求することが使命なんだ。結果がすべてだというよりも、探求心がなくなるまで研究が続くものだと私は思っているんだよ」

 と教授が言った。

 研究員はそれを聞いて、その真意がどこにあるのかまでは理解できなかったが、正直、理解できないでもいいと思った。理解できれば、自分が教授に限りなく近づいたと思ってしまうだろう。そう思ってしまうと生まれてくるのは、驕りの気持ちなのか、それとも近づいたことでの満足感から、飽和状態の精神状態になってしまうのではないかと思うことで、そうなると、急にやる気をなくすのではないかと思った。

 若い研究員は、教授の本当の年齢を聞くとビックリする。

「まだ四十代かと思っていました」

 という答えが返ってくる。

 それも最近のことであった。最近は教授に威厳があるような雰囲気なのだが、昔から教授と一緒にいる人は、以前の雰囲気を比較して威厳を感じていたが、最近加入した研究員は、見た目の年齢から、

「働き盛り」

 をイメージして、威厳を感じているのだった。

 教授は、

――自分の中にもう一人誰かがいるような気がする――

 と思っていた。

 二重人格なのだろうが、それは決して、

「ジキル博士とハイド氏」

 のような両極端な二重人格性ではないと感じている。

 それまで教授は自分の中に別人格がある場合は、

「両極端な性格でしかありえない」

 と思っているようだったが、そうではないと気付いた時、

――これも一つの発見だ――

 と感じた。

 いまさら心理学に関して未練があるわけではないが、今研究している伝説の解明に役立つかも知れないと思って、自分の考えを肯定するようにしている。そしてその証明が自分に返ってくることで、心理学から転身した今の研究の意味を分かる日が来ると思うのだった。

 昔から伝わっていることというのは、基本的にタブーであることが多い、つまり知られていることすべてが理論であるというわけではなく、知られていない部分に、核心が隠されているというのがお決まりのことであろう。

――隠された部分――

 それともう一つの自分の性格を比較して研究をさらに続けることが、これからの自分のやり方だと教授は考えるようになっていた。

 教授は自分が五十五歳になったという自覚は持っている。特に最近では、老化について気になることもあった。膝や腰に来てみたり、ちょっとしたことでだるさを感じてみたり、何より気になるのは、視力の低下だった。

 ただ、それも気にしなければ、そこまで深刻に感じることはないので、年相応を意識するようになったと言っても、四六時中というわけではない。それが却って四十代後半を意識している自分が、

「もう一人の自分なのではないか?」

 という意識にさせる部分であった。

 そんなことをいろいろと思い浮かべながら呑んでいると、自分でもこんなに呑めるのかと思うほど、酒の量が入っているようだった。

 台の上を見ると、すでにお銚子がいくつも転がっていて、自分でも結構呑んでいるのを意識した。普段ならお銚子一本も呑めばある程度の限界なのに、その日は二人で五、六本は開けていた。さすがに彼は漁師だと言っても、一人で五本も呑めるとは思えない。実際に意識はしっかりしているようなので、呑んだ量とすれば、二人で同じくらいのものだろう。

 さすがに泥酔している状態だったが、ふと教授は気になっていたことを口にした。

「ところで君はおいくつなのかな?」

 と言われて彼は別に驚くこともなく、

「四十二歳です」

 と答えた。

 それを聞いてビックリしたのは教授の方だった。

「えっ? そんな年だったのかい? 私には三十歳前に見えたのだが」

 というと、

「そんなこと言われたのは初めてです。今まではずっと年相応に見られてきて、若く見られたことも年に見られたこともありませんでした」

 それを聞いた教授は、

「そうなのかい? 普通だったら、少しは年相応に見えない人もいるものだけどね」

 と言って、ふらついた。

「大丈夫ですか? かなり泥酔されておられるようですね」

 話を変えるまでは、意識はしっかりしていたはずだった。

 自分の意識がハッキリとしない感覚になってきたので、話を逸らしたのか、それとも話を逸らしたから、急に酔いが回ってきたのか、よく分からなかった。

「四十歳ということは、もう奥方もおられるのかな?」

 と聞くと、彼はそれまでの酔いからの上機嫌な表情は消え去り、急に冷めた表情になった。

 いくら強いとはいえ、話をしていて楽しい話であれば、酒の酔い以外にも酔える要素が多分にあるというものだ。

 それなのに、急に冷静になったのはなぜだろう?

 しかも昼間の素面の時間帯を含めても、ここまで冷静な、いや、冷淡とも思える表情になったのはなぜなのか、教授はあっけに取られていた。

――私は何か気に障ることを言ったのだろうか?

 と反省したが、ここまで表情が変わるということは、自分の言葉が発端ではあるが、すべての責任ではないように思えた。

 彼は目の前の盃を飲み干すと、ゆっくりと語り始めた。

「私もさすがにこの歳まで独身であると最初から考えていたわけではありません。別に相手がいなかったというわけではなく、実際に結婚の約束をした人がいたんです。その人は近くの漁師の娘で、海女さんをしていました。最初は父から、身分が違うなどと言われて反対されていたんですが、時代が自由を求めるようになってきたことで、網元としても、あまり格式ばかり言ってはいられないという意見もあり、彼女との結婚を認められたんですが、結婚の約束をしてしばらくして、海の事故で亡くなったんです。漁に出てから、身体に藻が巻き付いて、そのまま窒息してしまったという話でした。でも彼女は泳ぎも達者で、しかも、達者なだけに無理なことは決してしない人だったので、事故で死んだということは海女さん仲間の人も不思議に感じていました。中には祟りを口にする人もいて、しばらくは海女さんの活動ができなかったのですが、彼女の四十九日を過ぎて少ししてから、海女さんの活動は再開されました。そんなことがあり、私はそれ以降、好きになる女性も現れることはなかったので、ずっと独身でおります」

「きっと忘れられないでしょうね」

 と教授がいうと、それまで我慢していたのか、それとも酔いが泣き上戸にしてしまったのか、彼の目から涙がしばらく止まらないような状態になってしまった。

「ええ、でもこれでもだいぶ立ち直ったんです。私が実は今日教授をここで二人でお話したいと思ったのは、さっきも申しました通り、まるで妖怪ではないかと思える干からびた死骸を私が見つけたからで、ひょっとして私の嫁になるはずだった女性は、その妖怪にやられたのではないかと思うようになったんです」

「なるほど」

「私が見つけたというのも、何かの縁なのではないかと思ったものですからね。本当は私は祟りだとか、迷信の類は、ほとんど信用していないというのは、この村の人も周知のことなんです。だから、今日ここで教授の研究に従事している私のことを、どうした気の回しようかと思ったことだと感じます」

 彼はそう言って、神妙にしながら、今回は酒をすするように飲み干した。

 おいしそうに呑んでいるが、この男の呑み方には、どこか特徴的なところがあるように思えたが、自分も訳が分からないほどに泥酔しているので、そこまでの分別はできないでいた。

「あなたは、その妖怪に復讐がしたいのですか?」

 と教授が聞くと、

「それができるのであれば、したいです。でも、できるはずはないと思っているから、せめて自分のすべてだと思っていた人を奪ったモノの正体を知りたいんです。今後も僕のように不幸な人が現れないようにですね……」

 と言って少し神妙になった。

 だが、すぐに今まで俯いていた顔を挙げて、急に笑いながら、

「なんてね、そんなきれいごとで済まされるわけはないじゃないですか。確かに復讐なんて無理かも知れない。自分一人でどうなるものでもないし、返り討ちに遭うのがオチなんでしょうね。でも、やっぱり正体は知りたい。いずれ僕の敵を未来の人が討ってくれると信じていますからね。でも、復讐する相手って、本当にその相手なんでしょうかね? 人違いならぬ、妖怪違いなんてこともあるんじゃないでしょうか?」

「それはあるかも知れませんね、相手が一匹だけしかいないのであれば、相手はそいつになるんでしょうが、相手の正体も分からないので、動物なのか、それとも本当に妖怪の類なのか、それとも幽霊の類なのかで変わってきますよね」

「ええ、動物なら、寿命はそんなに長くないだろうから、相手ということは将来においては考えにくい。そして幽霊の類であれば、そもそも我々の意識している『存在』自体が怪しいので、相手を殺すという概念とは違うのかも知れないですよね。さらに妖怪ともなると、もっと訳が分からない」

「その通りです。ただ私の研究はあくまでもその土地の伝説であって、妖怪の研究ではないので、そのあたりをお間違えのないようにしてください。だから、もしこれが復讐というのであれば、私たちとは主旨がまったく異なっているので、協力はできません。それでもよろしいかな?」

 と教授がいうと、何やら歯ぎしりをしていたようだが、渋々ではあるが頷いた。

 言葉ではああ言っていても、やはり復讐したいという気持ちに変わりはないのだろう。彼は一縷の望みを掛けて、今日、ここに赴いたのかも知れない。

「他に何か、興味深い話はありませんか?」

 教授は、彼の苦み走った表情が弱まるのを待って、そう話しかけた。

 たった今まであれだけの苦み走った表情をしていたのに、さっきまでとは少し違って、また目の色が少し気色ばっているのを感じた。

「それがですね。私の嫁になるはずだった女性の姿を見たという人が現れたんです」

「それは興味深いですね。でも、それは幻のようなものだったんじゃないですか?」

「私も最初はそう思いました。何しろ四十九日もだいぶ前に過ぎて私としては、そろそろしっかりしなければいけないと思っていた矢先のことだったので、まるで出鼻をくじかれたようなおかしな気分になりました。でも、心の中では思っていたんです。『幽霊でもいいから会いに来てほしい』とですね」

 と、彼はまた頭をうな垂れた。

 気持ちは分かるが、ここまで気持ちを素直に表現するというのは、やはり酔いが結構回っているせいであろうか。

「そんな時に、似た人を見たと言ってきたんですね?」

「ええ、でも、それがあまりにも現実味を帯びた話だったので、私も次第にウソではないのではないかと思うようになったんです。それは嫁を見たという男があまりにも強烈な視線で私を見たせいもあるでしょう。。実際に手足が痺れて動けなくなってしまっていたのも事実だったですからね。その目から、視線を逸らすことができなくなったというのが、本音でしょうか」

「まるで催眠術にでもかかったかのような感じですね。ところであなたは暗示に掛かりやすいとか、霊感が働くとかそういう自覚はありますか?」

「いいえ、まったくそういうことを感じたことはありません。実際に嫁になるはずの人が亡くなるまで、妖怪変化や超常現象なんてありえないと思っていましたからね」

「それを信じるようになったのは?」

「そうですね。やはり彼が嫁を見たと言ってきた時でしょうか? 嫁が海に引きずりこまれて死んだと聞いた時も、妖怪や超常現象が頭をよぎりましたが、決定的に信じることはできませんでした」

「なるほど、信じてしまうと、あなたの中で『仮想敵』が生まれるかも知れないという思いもあったんでしょうね」

 と教授は言った。

「そうかも知れません。とにかく私にとって妖怪の類はそれまでまったく別世界のものとしてしか考えられませんでしかたからね」

「ひょっとして、あなたは、自分が殺した相手に妖怪がなりすましているかのように思ったんじゃないですか?」

「ええ、そうなんです。私にその姿を予見させることで私を精神的に追い詰める何かそんな思惑があるんじゃないかって思ってですね。そう解釈しないと嫁とそっくりの姿をした人が現れたなどという理屈はありえないと思ったんです。そのあたりに何か曰くが隠されているような気がするんです」

 と彼は言った。

 彼の言葉はその後の教授の発想に大きな影響を与えることになるのだが、今は感情に任せた言い方だったので、彼も教授もそこまでは気付かなかった。

「実は……」

 彼はこの話をしていいものかどうか、少し迷っているようだった。

 その証拠に、彼は教授の顔を凝視しようとはしない。明らかに目を逸らしているのは明白だった。

「どうしたんです?」

 さすがに教授もこの時は聞いていいものかどうか、考え込んでしまった。

 しかし、喉元まで言おうとしているのを言わせないということは、

「このまま窒息させてしまうのではないか?」

 と感じ、何とか押し出させようと、冷静ではあるが、視線を熱くして彼を見つめた。

「あのですね。この妖怪については、実は謂れがあります。実際にこのあたりの民家には昔から伝わっていて、先祖代々受け継がれているものです。ただし、公然の秘密になっていて、同じ村の中でも、この妖怪の話は他の家の誰にもしてはいけないという言い伝えになっています。ただこれはこの周辺の村にだけ言われていることで、実は似たような伝説は他の地域にもあるらしいのですが、そこでは口留めはありません。したがって同じ種類の言い伝えなのかも真意ではありませんが、私は言い伝えを破る勇気を持ち合わせてはいません。何しろ自分の身内になるはずの人が受けた被害ですからね」

 と彼が言った。

「だから、今日二人きりになりたいと言ったわけですね?」

「ええ」

「私に話してもいいんですか?」

「ええ、あくまでも村の中だけで言われていることですので」

 と彼は言ったが、ただ、それも迷信でしかない。実際にこの村の関係者以外に話をしたという記録もないので、実際のことは分からない。彼が戸惑ったという理由はここにあったのだ。

 彼は続ける。

「私は彼女が亡くなってから忘れようと心がけていました。実際に忘れてしまうのではないかと思える時期もあって、彼女のことを忘れるのは彼女に対して悪いことだという板挟みを感じながら、結局忘れる方に自分の意志は向かったんです」

「それで、忘れることができたんですか?」

「それが、結果としてはできませんでした。私が忘れようとすると、夢を見るんです」

 と彼が言って、少し声が籠ってしまった。

「どんな夢なんですか?」

「実際にそれが夢であるということは、最初から分かっていたのですが、その夢の中には妖怪が出てくるんです。『お前の大切な人の命を奪ったのは、この俺だ』と言ってですね。普通、そういう夢を見ると、目を覚ました時に、初めてそれが夢だと気付くものじゃないですか。でもその夢に関しては最初から夢を見ていると感じる不思議な夢だったんです」

「その妖怪は何か言うんですか?」

「ええ、『お前は忘れようとしているだろう? そんなことはこの俺が許さない』と言って脅しをかけるんです。夢だと分かっているので脅しだけなら別にそこまではないのでしょうが、その妖怪は、現れてからずっとその表情が見えなかったんです。完全に向こうから光が差している形ですからね。でも、このセリフまで言い切ってその妖怪がこちらを見ると、そこにいるのは、誰あろう、私が結婚しようと思っていた彼女の顔だったんです」

 と言った。

「それは、村で彼女に似た人が目撃されたと聞いたのとでは、どっちが先だったんですか?」

「私の夢の方が最初でした。だから、夢に出てきた妖怪が、私に対してこれでもかと言わんばかりに脅してきているんだって思い、あの夢も、ただの夢として片づけられなくなり、忘れたはずの彼女が、もう二度と忘れることのできない相手になってしまったというわけです」

「それはお辛い思いをしましたね」

「ええ、そのまま忘れることができれば、どんなによかったか。ひょっとしてこれも僕が彼女のことを忘れようなどとしたために起きてしまった災いではないかと思い、自分では大きな後悔だと思いました。しかし、その思いをどうすることもできず、今は悶々とした日々を過ごしています。何しろ、村の誰にも話をしてはいけないわけですからね」

 教授はふと疑問に思い、

「それを信じているわけですか?」

 と言われてしまうと、彼は急に冷静さを失い、怒涛の如く興奮した。

「もちろんですよ。あの場面、つまりあんな夢を見てしまった私の身にもなってください。妖怪から、まるでお前に取りついてやるなどというようなことを言われると、委縮してしまうのも当たり前じゃないですか。しかも最初から夢だと分かっているのに、その夢から逃れることができないと言わんばかりでしたから、後で目が覚めた時、夢だったんだと分かるのとは正反対の恐怖です」

 彼は相当に怖がっているようだった。

「これは申し訳ないことをした。許してくれたまえ」

 と言って彼を宥めると、彼も少し落ち着きを取り戻し、

「あ、いえ、これは失礼しました」

 と恐縮した。

――それにしても……

 と、教授は少し考え込んだ。

 夢に妖怪が出てくるという話はいろいろ聞くことがあるが、最初から夢だということを匂わせるような夢が存在しているなどというのは完全に想定外だった。

――そんなことがあるのか?

 と、パターンを考えてみたが。教授の今まで知り得た知識では考えられることではなかった。

――何か私の知らない力が働いているんだ――

 と思うと、彼には悪いと思ったが、

――これは大きな検証材料として使えるぞ――

 と感じた。

 彼の憔悴は目に見えてくるようで、元々そんなに強くはない酒を飲んだかのようだった。酒というのは人間を酔わせる目的で作られたのか、その効果は正反対の様相を呈するもののようであった。

「その妖怪なんですが……」

 と、彼は呟いた。

「ええ」

「僕の大切な人にどうしてあんなことをしたのか、もちろん、見つければ殺してやりたいという気持ちにもなるんですが、何か相手を憎むことができない自分もいるんです」

「それはどういうことですか?」

「もちろん憎んではいるんですが、その妖怪を憎んではいけない何かが自分にあるような気がするんです。憎んでしまうと自分が自分ではなくなってしまうようなそんな感覚だと言えばいいんでしょうか」

「普通に考えれば、あなた自身が常軌を逸した行動に出ることで、抑えが利かなくなるのが怖いというのであれば、それはよく分かります。でも、今のあなたを見ているとそういう感じには見受けられません。目的を果たせばそこまでで、それ以降は脱力感しか思い浮かばないですよ」

「僕もそうだと思うんです。だとすると、この不安定な気持ちはどこから来るんでしょうか? 僕が気になっているのは、彼女が海に引き込まれた時、引き込んだ妖怪が彼女と同じ顔をしていたということなんです。ちょうど引き込まれるところ、その瞬間だけを他の海女さんが見ていましたので、それは間違いないと思います。でも、その海女さんも同じ人間の存在など信じられないと言って、その後もう海女さんからは引退したんですけどね」

「そうだったんですね。その海女さんは今どうしています?」

「確か亡くなったと聞いています。詳細は分かっていないんですが、病気だったとは聞いています」

「そうなんですね。じゃあ、話を聞くことはできないんですね」

「ええ、ただ彼女は僕にその話をしてから、この話はこれで最後にすると言っていました。口外をしないと自分で言いきったんです」

「どうしてそう言い切ったんでしょうね?」

「これも私にだけ話してくれたことであって、彼女が言うには、この間夢の中で死んだ僕の大切な人が出てきたそうなんです。そこで、自分が死んだいきさつを私にだけ話してほしいと言われたというんですね。そして私に話した後は、もう他でこのことを口外してはいけないと諭したそうです」

「夢に出てきた?」

「ええ、話を聞いた彼女がいうには、自分が見た夢の内容を目が覚めてからも忘れないでいることというのは実に珍しいことだというんです。それだけその夢が現実味を帯びていたということなのか、それとも、夢に出てきた彼女の表情に鬼気迫るものがあったのかのどちらかではないかと思うんです。そのどちらもということもあるのでしょうが、ただ夢を見ている彼女は、自分は最後の一瞬だけしか見ていないので、詳しいことは分からないというと、それだけでもいいから伝えてほしいというんです。つまりは夢に出てきた彼女は自分が殺された時の目撃者が、どのあたりから見ていたかということを承知していたということになるんでしょうね」

「なるほど、ただ、こう言ってはなんですが、夢というのは潜在意識が見せるものなので、夢の内容というのは、夢を見ている人の意識でどうにでもなるものなのかも知れませんよ」

 と教授がいうと、

「いえ、それは私も考えました。だから話を半信半疑で聞いてみようと思ったんです。とにかく聞いてみないと何も判断ができませんからね」

「ええ、その通りです。ところで彼女の話はあなたを満足させるものでしたか? 最後の一瞬だけしか見ていないのであれば、満足には程遠い気がするんですが」

「確かに謎のすべてはその話で解けたわけではありませんが、彼女とソックリの相手に海の中に引きずりこまれたという話を聞いた時、私の中で何か目からウロコが落ちたような気がしたんです」

「すべての話がピントのずれた話であれば、逆にいうと、一つの歯車が噛み合えば、一本の線で繋がるということは往々にしてあるものです。きっと彼女の話は、そんな歯車を?合わせるに十分なお話だったのかも知れませんね」

「ええ、この話を彼女が口外をしないと言った気持ちも分かる気がするんです。だから私も決して今まで誰にも言わなかった。実際にこの村に帰ってきてからは、私は村人以外の人と関わることはほとんどありませんでしたので、口外する機会もなかったからですね」

「でも、あなたが口外をしないのと同じで、村人の中にはあなたと同じような経験をした人もいるかも知れませんよ。その人も決して口外しないという信念のもとに、誰にも言えず悩んでいるかも知れないし、忘れようとしても消すことのできない記憶とどうすれば共存できるかを考えているかも知れませんしね」

 教授の意見ももっともだった。

「ところで教授は今までここ以外にも言い伝えや伝説の研究をするために訪れた村はあるんですか?」

「ここが初めてです。しかし、言い伝えや伝説の類は予備知識として本を読んだりはして予習をしてきたつもりではいます」

 さすが、そのあたりは学者の先生であった。

「今私が語ったような妖怪も言い伝えとしてはいたりするんでしょうね」

「ええ、海にまつわる妖怪は結構いますからね。もちろん、それぞれに共通点もあったりします。例えば夜行性であったり、人間を海に引きずりこむ妖怪というのも結構いるようですよ」

「そうなんですね」

 そう言って彼はまた考え込んだ。

 教授は研究してきた中で、今彼から聞いた内容と酷似した妖怪を知ってはいた。ただ、今ここですぐにその妖怪のことを口にするのを憚ったのは、彼が何を考えているのか、得体が知れない気がしたからだ。

――ひょっとして、この人は私を試しているのかも知れない――

 という思いが次第に募ってきていた。

 話もちょっとずつの小出しになっていて、一つの山の話が終われば、ちょっとしてから別の山の話になる。その間に間髪が入れずというわけでもなく、徐々にである。

 しかもその話というのも、重要な話から少しずつ柔らかい話になっているというわけでも、逆に柔らかい話から、徐々に核心を突く話になってきているというわけでもない、話の順番に脈絡を感じないのだ。

 要するに、彼は思い付きから話しているのだろう。

――自分から話をしたいと言っておきながら、話の内容をまとめることができない彼でもあるまいに――

 そう思うと、教授は彼が話したいと思っている内容を、いまいち理解できていないのではないかと思った。

 彼のような曖昧な話し方では、本意が分からないからである。

 だが、それだけ話の内容が大きすぎるともいえるかも知れない。話を小刻みにしなければ相手に伝わらないというのも無理もないことで、その思いが彼にある限り、教授は結局、最後まで彼が何を言いたいのか分からずじまいで終わってしまうような気がしていた。

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