第2話 箱の正体

 教授は見た目は冷静さを装っていたが、精神的にはかなり興奮しているようだった。その日は、まず断崖絶壁での研究を行い、そして夜になって、

「村人には知られたくない」

 という意味深な言葉を残して、自分の宿までわざわざ訪ねてきてくれた網元の息子の話を聞くと、

―ー妖怪の死体を発見した人が、一種の精神疾患のような状況に襲われている――

 という事実を聞いたことで、教授の中でまだ一本に繋がってはいないが、いくつかの材料をジグソーパズルのピースのように一つ一つ積み重ねていくことが、今の自分で責務であり、それができれば、一つの大きな発見に繋がると思った。

 だが、実際に一つ一つを考えてみると、信憑性の高いものと低いものとでかなりの差があるようだった。

 すると、少しして話にさらなる展開があった。網元の息子はこの期に及んでも少し躊躇いがちに話し始めた。

「実は、この妖怪伝説は私の先祖だけではないんです。これは村人も皆分かっていることだとは思うので、別に口外していただいても構わないと思うのですが、私の先祖が見た妖怪と同じ種類ではないかと思うような妖怪を、同じ頃に海女が見たという話なんです」

「その海女さんが証言したんですか?」

「ええ、何か子供のような姿の生き物が海を縦横無尽に泳ぎ回っていたというんです。しかも息継ぎすることもなくですね。そして不思議なのことにその子供は裸だったんですが、身体はまるでカエルのように、緑一色だったというんですね」

「なるほど、じゃあ、ご先祖様が発見した妖怪の死骸というのも、緑一色だったんですか?」

「ええ、そうなんです。でも、海女が見たという妖怪が本当に緑一色だったかということは、話を聞いた人たちによっていろいろ言われたものだから、信憑性がどんどん薄くなってしまいました。だから、幻でも見たんじゃないかということになって、その話は伝わっているかも知れないけど、信憑性のない話として伝わっていると思います」

「そうですね。海の中ということになると、光が反射して、ハッキリとその色だったように見えても、錯覚で片づけられてしまうかも知れませんね」

 教授にも彼の言いたいことが伝わったようだ。

「ええ、その通りなんです。でも怖い話はまだ続くんですが」

「というと?」

「その海女さんは、それから少しして死んでしまったんです。しかも彼女が発見された場所というのは、彼女が妖怪を見たと言っていたちょうど、その場所だったんです」

「流されもせずに?」

「ええ、藻が絡まったかのようになっていたようなんですが、彼女には外傷がまったくなかったことで、どうやら、藻に身体が引っかかってしまったことで窒息したのではないかという事故死のような形で処理されました」

「じゃあ、妖怪と彼女の死に何も因果関係はないとされたんですね?」

「もちろんです。昔のことですから、お役人に妖怪の話などできるはずもなく、状況からしても事故死の可能性がかなり高かったので、当然そうなったんでしょうね。でも私の先祖はその前に妖怪の死骸を見つけている。その人だけは少なくとも妖怪の存在を信じていたと思うんですよ」

「そんなことがあったんですね」

「ええ、江戸時代のことですけどね」

 と網元の息子はいうと、お互いに黙り込んでしまった。

――考えれば考えるほど、妖怪の存在を認めないわけにはいかない気がするんだよな――

 と、教授は考えた。

 元々教授は妖怪というものを完全に信じてはいない。それだけに材料をたくさん集めようと思うのだが、材料というものは、数が多ければ多いほどいいというものではない。似たような話でもまったく違う道筋を立ててしまう可能性のある話だってある。集めた情報をいかに取捨選択して洗練させるかというのは、第一段階での作業ではないかと教授は考えた。

 妖怪については、最近研究を続けている知り合いの教授といろいろ話す機会もあったので、それなりの知識は持っているつもりだった。

 妖怪の死骸を発見したという話は、知り合いの教授から聞いていた。その例としては、見つけた妖怪の死骸は、やはり干からびていて、身体の中の水分はすべて抜かれているというものだった。

 そもそも、妖怪に人間のような血液が存在しているのかどうかも疑問であったが、少なく十血液のような身体を形成するうえで必要不可欠な体液は存在しているはずだというのである。

 この意見には、教授も賛成だった。

「体液が全部抜かれているから、死んだということだけど、その場で放置されて、簡単に人間に発見されるというのは、少しおかしい気がするんだよな」

 と教授は知り合いに話した。

「その意見はよく分かる。俺も同じことを感じているからな。だが、妖怪というのが集団で行動していて、何かのっぴきならない緊急事態に陥ったとして、その時、逃げ遅れた一匹の妖怪が、何かの原因で、いや、それが緊急事態の元凶なんだろうが、そのせいで体液をすっかり抜かれてしまったとすれば、妖怪と言えども皆自分が大切なので、必死で逃げてしまったことで、死んでしまった仲間を放置するしかなかったとすれば、それなりに信憑性のある話ではないだろうか?」

 というのだった。

「確かにそれは言えるよな」

 教授も賛成したが、人間の想像を絶する緊急事態というのがどういうものなのかを想像してみたが、できるわけもないと思い、すぐに断念した。

 そういう意味でも教授は妖怪に興味を持ったというのも、過言ではないだろう。

「ところで妖怪というと、いい妖怪と悪い生妖怪がいると思うんだが、君はこの妖怪をどう思う?」

 と、いまさらのようなことを教授が聞いたので、彼は少しムッとした気分になった。

「そりゃあ、海女さんを海に引きずりこんで窒息死させるのだから、悪い妖怪に決まっているじゃないですか」

 と、語気を強めて言った。

 彼の言い分としては、

――さっきの話をちゃんと聞いていなかったのか?

 とでも言いたかったに違いない。

 しかし、教授は落ち着いて、

「いやいや、確かにそうなんだけどね、いい妖怪と悪い妖怪の定義って何なのかって思ってね」

 と聞かれて、今度は彼の気持ちが急に萎えてきたかのように、

「というと?」

 と聞いてみた。

 教授の意見を聞いてみたいという気持ちになったのであろう。

「いい悪いの判断は、僕が考えるに、『人間に対して何か危害を加えるのが、悪い妖怪で、それ以外、つまりは、何もしない、あるいは、何かいいことをしてくれるというのがいい妖怪だ』という定義になると思うんだけど、君の意見はどうだい?」

「その意見には僕も賛成です。でも、この妖怪は明らかに人間を海に引きずりこんで殺してしまったんですよ」

 というと、

「でも、確証があるわけではないだろう? 似たような妖怪を見た。そして数日後に死体が上がった。その死体は海に引きずりこまれて窒息させられたのが死因だ。だから、犯人はその妖怪で、その妖怪は悪い妖怪なんだという論法になるんじゃないかって思うんだ」

「まさにその通りです」

「でも、その時に見た妖怪が本当に彼を海に引きずりこんだ妖怪だとどうして断言できるのかな? きっと皆、『妖怪というのは、そんなに頻繁に見るわけではない』という思いでしょう? それはあくまでも別の種類の妖怪の話であって、同じ妖怪であれば、疑いもしない。それが心理的なあやなんじゃないかって思うんだ。例えば苛めっ子はたくさんいたとしても、苛めている種類に関してはそんなにたくさんはないというようなね」

 という教授の説明を聞いていると、彼の中でも、

――そうなのかも知れないな――

 と感じるようになっていた。

「じゃあ、教授はその妖怪は一種類ではないとおっしゃりたいんですか?」

「一種類かどうかというのは難しいところだと思うよ。例えば人間だってそうじゃないか。人間が他の動物を見ると、同じ種類の動物であれば、すぐにはオスかメスの区別すらつかないだろう? 年齢もまったく想像がつかない。しかし、同じ人間であれば、性別や年齢どころか、個人一人一人見分けがつく。動物に言えることは妖怪にでも言えるんじゃないかな? まったく同じに見えたとしても、性別は違うかも知れないし、年も分からないだろう。ましてや個別には絶対に分からない。そうなると、最初に見たという妖怪と、まったく姿は一緒でも、同じ妖怪だと一括りにできるものなのだろうか?」

「うーん」

 教授の話にはいちいち説得力がある。

 それが恨めしいこともあるのだが、それは自分が何を言っても、理路整然とした理屈で説明されてしまうという悔しさがあったからだ。

――言い負かしてやりたいな――

 という思いが頭をよぎったが。それはあくまでも

「悪戯心」

 ともいえるもので、なかなか自分に反抗できるものではなかった。

 さすがに大学教授であるが、そのことを感じてしまったら最後、永久に自分が教授の理論に勝てない気がして、何とか最後の一線で思いとどまるくらいの気持ちを持っていることに決めた。

 教授はさらに続けた。

「妖怪の寿命というのが分かっていないだけに、君が見たという妖怪の死体だけどね。ひょっとすると百年前に海女さんと出会った妖怪だったり、あるいは、海女さんを海に引きずりこんだとされている妖怪を見ている可能性だってあるんだよね。あくまでも空想の世界なんだけどね」

 という教授の意見を聞いて、

――それも確かにあるかも知れないな――

 と感じた息子だった。

 すると、息子はふと思った。

「あれ? ということは、妖怪から見ても、我々人間は同じものにしか見えていないということなのか?」

「そういうことになるのかも知れないね。同族にしか判断できないものがあるのかも知れない。人間だって性別や年齢以外に、肌の色が違っただけで、年齢、性別までは分かっても、よく似た人だったら、同じ人間なのかどうかなんて、なかなか判別できないものなんじゃないかな?」

「そうかも知れません」

「妖怪から見て、人間をまったく別の種類の生き物だと思っていると、個別に判断はできないでしょうね。ということになると、さっきの話ではないが、海女さんが妖怪に海の底に引きずりこまれたのが真実だとすると、引きずりこんだ妖怪は、その人に自分が見られたと思って引きずりこんだのだとする説は怪しくなってくる。だから、私は思い込みは怖いことだと思うんだよ」

 と、教授は言った。

――教授は最初からこの意見を導き出そうとして、こんな話を持ち出したのだろうか?

 いい妖怪と悪い妖怪、その定義から、人間が別の生物を認識しようとした時には、巣h別すべてが同じに見えて。個別には判断できないという発想をである。

「でも、僕が妖怪の干から伸びた死体を見つけた時に感じたあの感覚は何だったのだろう?」

 と、息子は思い耽っていた。

「ひょっとすると、自分の中にある恐怖心が、妖怪の死体に乗り移り、その死体のまわりにいるかも知れない魂に考えていることが触れたのかも知れない。妖怪は防衛本能から、相手に幻覚を見せたり、妄想を抱かせるすべを持っているのかも知れないね」

「すでに死んでいるのにですか?」

「西洋の神話に、メデューサの首という伝説があるんだけど、その人は女性で、頭髪は無数のヘビであり、勇者ペルセウスによって退治されたことになっているんだ。見るモノを石に変えてしまうと言われる力を持っていて、その力は『死んだ後でも効力がある』と言われたんだよ。だから首を切り落とされても、首を持っているペルセウスが海の怪物を退治する際にでも、石に変える力があったとされるんだ」

 と説明してくれた。

 息子には少し難しい話ではあったが、

「死んでも効力を発揮する魔力がある」

 という部分だけは理解できた。

 ただ、これは外国の神話だから言えることで、日本ではどうなのか少し気になるところではあったが、神話の世界にもいくつもの国ごとに種類はあるのだろうが、しょせん人間の発想なので、もし、どこかで突飛な発想が生まれているとすれば、それは日本であっても同じ発想が生まれないとは限らないと思えるのではないだろうか。

「その幻覚なんだけどね。本当にまわりの人が別のソックリな人と入れ替わっていると思い込んでいたの?」

「ええ、心の中では『そんなバカな』と打ち消してはいるんですが、次の瞬間には、また考えが幻覚を見てしまっていて、堂々巡りを繰り返してしまっていたんです。このままだったら、永遠に抜けることのできない底なし沼にでも落ち込んでしまったのではないかと思えて不安で仕方がなかったんです」

「不安に感じることが、その幻想だったり妄想にとっては好物だったんだろうね。相手がそう感じてくれなければ、妄想も幻覚もまったく効力がないんだ」

「そんなものなんですか?」

「ええ、人間というのは、一旦悪い方に考えてしまうと、なかなか悪い考えの堂々巡りから抜け出すことはできないものなんです。でも、逆に人はいいことばかりを考えていると、何事もいい方にしか進まないと思い込むことだってあるんです。しかも同じ人がですよ。さらにその二つの両極端な状態が、交互に繰り返されることがある。私は今、そういう精神状態も実は研究しているんです」

「教授は、何を主に研究しているんですか?」

「私は考古学といって、昔の歴史などを出土されるものを元に研究する学問が専門なんだけど、最近では心理学という人が何を考えているかだとか、人の考えが、その人の人生にどのような影響を与えるかと言った学問も一緒に研究しているんだ」

「その二つを一緒に研究していて、混乱しませんか?」

「私の考えでは。この二つは表裏一体なんじゃないかって思うんです。それぞれにどこかに通ったところを見つけて。そこを突破口にして考えていくと、これまで考えられてきたことを覆すこともできるんじゃないかって思ってね」

「ところでですね」

 と、息子の方から少し話題を変えようとする雰囲気があった。

 ただそれは、今話している内容が都合が悪くて変えたいというわけではなく、忘れてしまう前に言ってしまいたいという考えもあったかも知れない。話の内容が今までと少し違っていて、その話を持ち出すタイミングが難しいという考えもあったのではないだろうか。

 息子は続けた。

「実はあの祠の中には一つの箱が奉納されているんですよ」

 と言い出すと、

「ほう、それは興味深いですな」

 と、教授の方も少し乗り気な気分になってきた。

「その箱というのは、その祠の守り神と言われるようなものなんですが、あの祠の中に箱が収められているというのを知っているのも一部の人間だけなんです」

「というのは?」

「あそこに祠が建っている理由として、ほとんどの人が理解しているのは『自殺者の霊を供養するため』として言われています。でも、私たち網元の家系と、一部の人たちの間では、妖怪などの悪霊退散という意味もあるんです」

「なるほど、一部の人というのは、海に引きずりこまれた海女さんの親族縁者の人たちですかね?」

「ええ、そういうことになります。だから、我々網元家系と海女さんの親族縁者は、ある意味固い結束が保たれているんですが、逆に強い拘束でもあります。他の人に知られないようにしないといけないという意味での強い結びつきですね」

「どうしてそんなに秘密にしたいんですか?」

「海女さんの事件が起きてから、ここでの自殺者が増えてきたのは事実なんです。幸い海女さんの事件は我々網元と、海女さんの親族しか知らなかったので、網元の考えで、『誰にも知らせるな』ということになりました。網元というのは、狭い村では領主のようなものです。領主の決めたことに逆らったら、そこでは生きていけません。言いたいことはあったかも知れませんが、海女さんの家族としては何も言えなかったというのが、実情なんじゃないでしょうか」

 確かに狭い村では、ちょっとしたことでもすぐに皆に知れ渡ってしまう。一つのことを秘密にしようものなら、かなりの難しさがある。網元は金の力にものを言わせて強硬にかん口令を敷いたに違いない。

「でも、本当にそれだけなんでしょうか?」

「というと?」

「村人を混乱させないためというだけで、こんなに神経質になるでしょうか? 他にも何かあるのかも知れませんね」

「例えば?」

「例えば、網元のところに妖怪が直接現れて、このことを秘密にするように促したとすれば?」

「だったら、私たち子孫もそのことを知っているはずですよね?」

「いや、実際に現れたわけではなく、夢枕に現れたとして、夢枕という信憑性のないことで強制したなどというと、その大の網元は、臆病な人間として後世に名を遺すことになる。それだけは絶対に嫌だと思ったので、かん口令を敷くことにしたんじゃないでしょうか?」

「そういう考えもありますね」

「ところでその箱には何か秘密があるんですか?」

「何かの箱というと、有名な話としては浦島太郎に出てきた玉手箱が有名ですよね。玉手箱の場合は、『決して開けてはいけない』と言われていたものを開けてしまったために、お爺さんになってしまったというお話でしたよね。でも、この箱に対してはそんな言い伝えは何もなかったんですよ。だから、言い伝えられてから間もなく、誰かによって開けられてしまったんです」

「当時としては、言われてはいなかったとはいえ、おとぎ話などのいくつかの話を考えると、安易に開けてしまうのは躊躇するのでhないですか?」

「本当はそうなんでしょうが、開けたのは子供だったんです。子供にはあそこに箱があることは説明していましたし、別に開けてはいけないと言っていたわけではないので、開けてみようと思った子供がいたのも事実です。でも、これは開けてはいけないという言葉がなかったから、少し遅れたともいえます。もし開けてはいけないと言われていれば、好奇心旺盛な子供であれば、冒険心から開ける子供が出てきたとしても、それは当然の流れだと思います」

「開けてどうだったんですか?」

「開けると、その中には何とまた箱が入っていたんです。少しだけ小さな箱がですね」

「そういえば、箱の重さって、どんな感じだったんですか?」

「そんなに重たいというものではなかったですよ」

「なるほど、箱の中に箱が入っていて、さらに箱が……。いわゆる入れ子になっていたわけですね」

「ええ、だから重さもそんなになかったんだって思います」

「その箱は何重だったんですか?」

「五重だったか、六重だったかと聞いています」

「じゃあ、たぶん、五重だったんでしょうね」

「どうしてそう思われたんですか?」

「それはですね。昔から何かの伝説や宗教などが残っている話に数字が絡めば、ほとんどの場合は奇数であることが多いんです。例えば五重の塔ってあるでしょう? あれは五つというのが代表的なものなだけで、他にも三重塔などもあるんです。場所によっては十三重の塔というところもあるくらいなんです。つまりは偶数という概念はないんですよ。他にもですね、お正月にする初詣ですが、あれもよく『三社参り』などと言われたりしていますが、お参りする時は必ず奇数にするという暗黙の了解があるんです。これは一種の都市伝説のようなものだと思うんですがね」

「それで奇数を推されたわけですね」

「ええ、そうです。私は結構伝説の類も結構聞いていますので、すぐにピンときたというわけですよ」

「分かりました」

「ところでですね。その箱を開けると、何か入っていたんですか?」

「ええ、そこには何やら不思議な図形というか文字というか、おまじないの一種ではないかと思えるようなものが入っていたんです。それで私の父がまだ若い頃、それを調べてもらおうと専門家、そうですね、先生のような大学の教授だったのかも知れませんが調べてもらうと、どうやらそれは、『五芒星』と呼ばれるものの一種だったと言います。そしてその場所にあったという経緯と、今私が話したようなことを話すと、教授がいうには、それは一種の魔除けではないかというんですよ。海に引きずりこむ妖怪に引きずりこまれないようにするための、呪文のようなものが、この図形として描かれているというものだったんですね」

「じゃあ、今はどうされているんですか?」

「本物はそのままご神体としてこの祠に奉納されています。そして同じ形の絵を描いて、それを皆がお守り、いや、魔除けとして持つようになったんです」

「じゃあ、箱に入れて収めてあるんですね_」

「ええ、そのはずです。私も実際に箱は見たことがありますが、中を開けてはいけないということで、決して開けたことはありません」

「封印されているというわけですか?」

「ええ、父親は教授に相談した後、今度は祈祷師にも相談したようです。もちろん教授の意見を聞いたからなんですが。そこで魔除けを皆で持つことを勧められたんですが、元本は元にあった場所に、元々あったようにしてちゃんと奉納しておかなければいけないと言われたそうです。そしてその時、絶対に誰も開かないように、封印することを忘れないようにと言われて、封印のお札を貰い、それを張り付けて、誰も決して開けてはならないということで、祠の奥に大切に奉納されています」

「うん、よくあるお話だと思います。特にこの村には、いや、この地域と言った方がいいのかも知れませんが、妖怪伝説があるから、祈祷師の話はもっともだと思いますよ」

「でも、何か不思議な気がします」

 と息子は訝しがった。

「どうしてですか?」

 その様子に教授も興味を持って聞いてみた。

 どうやら、この息子は自分でいろいろと話をしながら、その都度納得のいかないことを抱えているように見えたのは、その言動にどこか自信がないように見えたからだった。核心をついていると思われる話の際でも、どこか冷静で、自分から話をしたいと言ったわりに、そこまでの興奮はなかったからだ。

 教授は心理学に関しても造詣が深いので、人と話をしていると、その人の話し方で性格やその人の抱えている悩み、あるいは、矛盾、ジレンマを読み取ることができた。もちろん、詳細まで分かるわけではないが、うまくその話を引き出すだけの自信もあった。彼が研究員から絶大に支持されている一番の理由なのかも知れない。

「どうして箱がこんなにも厳重だったんでしょうか?」

 息子の疑問はもっともだった。いや、誰もが抱く疑問なのだろうが、中に入っていた不思議な文字に対するインパクトが強すぎるため、もはや箱に入っている理由など、どうでもいいと思ってしまうのだろう。だが、この男はそれだけでは満足できないようで、それだけ落ち着いているのかも知れない。

「このような箱は、日本にもいくつか民芸品としてあるようですが、一番一般的なのは、ソ連、いや旧ロシアで伝わっている、『マトリョーシカ』というのがあるんですが、それに酷似しているようですね」

「他にもあるんですね」

「ええ、ほとんどは民芸品のようなものとして扱われているようです。ここでの魔除けの札を奉納するために使われているというような話は私が知っている限り、聞いたことがありません」

「そうなんでしょうね。それだけ珍しいものということなんでしょうね」

「ええ、実際にロシアのマトリョーシカも、ここ数十年で表舞台に出てきたものですから、ひょっとすると、この箱は、世界最古のマトリョーシカと言える存在かも知れませんよ」

「でもですね。魔除けとして使うんだったら、どうしてそんなに厳重に保管する必要があったんですか? 箱を何重にもすればするほど、その効力は小さくなるんじゃないでしょうか?」

「確かにそうかも知れない。でも、さっきも話したようなメデューサの首の話のように、死んでも効力が残るという話もあります。それを思うと、この魔除けの効力はかなりのものと言えるかも知れませんね」

「でも、実際に効力があるのは、文字というか、あの図形なんですよね。同じように模写して作ったものがお守りとして皆が持っているわけだから、効力は奉納されている紙というわけではないんですよね」

「一概にはそうとは言えないですよ。もちろん、絵を描いただけでは、本当に効力があるとは限らない。当然絵に描かれたものを祈祷師が祈祷しているはずですからね」

「それはそうだと思うんですが、複写に効力があるというのは、何か箱にも関係があるんじゃないかと思うのは僕の考えすぎなんでしょうか?」

 息子は少し自分の考えを不安に感じているようだった。

 確かに息子の言っていることにも一理あると教授は考えていた。しかし、今それをネガティブに考えてしまい。それを彼に言ったところでどうなるものでもない。この村で研究させてもらっている恩はあるが、余計なことを言って混乱させることはなかった。

 実は教授なりにそれなりの不安もないではなかった。もう少しそのことについて彼に話を聞いてみたいという思いもあったが、ここに及んで彼が不安に感じ始めたということは、彼が今日訪ねてきた本当の理由がここにあると思うと、深入りするわけにはいかないと感じた教授だった。

「あまり余計なことを考える必要はないと思いますよ」

 と教授がいうと、少し訝しげに頭を傾げたが、

――教授がいうんだから――

 ということで納得したのか、彼はそれ以上何も言えなくなった。

「この話はここで一旦向こうに置いて、少し呑みましょう」

 と言って、彼は教授に酌をした。

「ありがとうございます」

「このお酒は、昔からこのあたりの城主に献上するためのお酒だったので、おいしいと思いますよ」

 というと、

「ほう、きっといい水源があるんでしょうな」

 と教授が答えた。

「ええ、この地域はどこも海に面しているので、漁村のイメージですが、この裏から一山超えると、そこには農村があって、その向こうにある高原では、放牧も行われているんです。つまりここを治めておられた城主にとっては、海の幸、山の幸とが豊富だったんですよ。当然高原ではいい水が摂れる。それで酒造りも活発だったというわけです」

「そういえば、このあたりの特産品はお酒もあると聞いたことがありましたね。私の大学に詳しい同僚がいるので、お酒の話は事前に聞いていました」

「そうだったんですね。でもそのお酒というのも、なかなか手に入るものではない。我々のような貧乏の漁村では、うちのような網元くらいでしか、普通の時には呑めません。だからうちも何かがないと、そんなにこの地酒を呑むことはないんですよ」

「じゃあ、皆さんはどんなお酒を?」

「農家からのお米を普通に醸造している酒蔵があるので、そこのいわゆる貧相なお酒を他の漁民と一緒に呑んでいる次第ですね」

 この村が安定して生活ができているのも、網元が網元という力を使って、庶民を見下げているわけではないということなのだろう。彼を見ていると、網元である父親という人間も見えてくるような気がした。

 酒が入ってくると、彼も饒舌になってくる。

 さもありなん、自分の不安に思っていることをやっと口にできたという思いがあるからで、別に教授に何かをお願いしたわけではない。ただ、教授に前もってこの村のことを事前に知識として植え付けておくと、これからの研究で見つかったことも、彼が知りたいことへの足掛かりになるかも知れないと考え、教授と仲良くなっておくことで、その情報を得られるのではないかという下心もなくはなかった。だが、話を聞いてもらい、一緒に酒を酌み交わしてみると、そんな下心をよそに、教授という人の人間性が彼は好きになっていたのだった。

「ところで、教授は妖怪には詳しいんですか?」

「詳しいというわけではないですが、こういう研究をしていると、いろいろなところで都市伝説のようなお話を聞くことが多いです。まったく別の場所で、酷似したような話が残っていたりもするので面白いですよ」

「それは興味深いですね」

「妖怪や伝説が他の場所で同じように言い伝えられているというのも面白いんですが、世界的に考えると、まったく別の地域であったり、大陸なのに、古代から似たようなものが建築物や伝説として残っているというのも、おかしなものだと思いますよ」

「例えば?」

「そうですね。世界には古代の四大文明というのが存在するんですが、それは今から何千年も前の時代のことです。五千年前だったり三千年前だったりするんですが、巨大建築などがそのいい例でしょうね」

「というと?」

「一番有名なのは、エジプトのピラミッドでしょうか? ピラミッドはエジプトにだけ存在するものではないんですよ。エジプトというと、アフリカ大陸ですよね。でも、中南米にも形は違っているんですが、ピラミッドと似たようなものが存在します。まったく違う文明で、似たような巨大建造物が存在していると初めて知った時、私は背筋に寒気が走ったのを覚えています」

 網元の息子とはいえ、一漁村のことであるので、学校も最高学府迄行ったわけではない。したがって教授ほどの知識があるわけではないが、それなりの話は聞いていた。ピラミッドの話も聞いたことがあったが、彼は教授ほどの感動を覚えたという意識はなかった。

 しかしなぜだろう? 今までは学校でそんな話が出てもそこまで感動することはなかったのに、こうやって教授と話をしていると、初めて聞いたわけではないと分かっているのに、まるで初めて聞いたかのような感動があった。

――ん? 待てよ?

 そういえば、先ほど表で教授と話をしていた時、初めて聞いたはずだったのに、以前にも聞いたことがあったような気がしたのを思い出した。

 しかし、その話がどんな話だったのか、思い出そうとすると思い出せない。今まで覚えていたように思うが、ふと思い立った今、思い出すべき内容を忘れてしまったのだ。実に皮肉な話ではないだろうか。

――こんなことを考えるのも、教授を一緒にいるからなのかも知れない――

 と、彼は感じた。

――もし、僕が大学に進んでいて、しかも教授のような人に出会っていたら、網元である自分の家を捨ててでも研究に没頭するようになっただろうか?

 今まではそんなことを考える余地もないほど、自分の運命は変えられないものだという意識を強く持っていた。だから、大学に進んでいたとしても、大学在籍期間が無駄な時間になるかどうかというだけで、それ以上の危惧はないように思っていたが、今から思えば大学に進んだ自分を想像するのが怖かったのかも知れない。

 それにしても、

――初めて聞いたはずなのに、初めてではないという気がする――

 というのは、今までに何度か経験があるが、

――聞いていたと確信できる話を、まるで今初めて聞いたかのような錯覚に陥ってしまう――

 ということは初めてだったような気がする。

 それを教授に聞いてみた。

「初めて聞いたはずのことを、まるで前に聞いたことがあったような気がすることが時々あるんですよ」

 と聞くと、

「それはデジャブという現象ですね。理屈は解明されていませんが、そういうことを感じたことがある人は誰にも言わないだけで、ほとんどの人がそうなんじゃないですか?」

 と教授は言った。

「デジャブというんですね?」

「ええ、一度も行ったことがない、あるいは聞いたことがないはずの話を、以前に聞いていた李見ていたというものですね。昔から人は土着していて、めったに他の土地に行くことはないので、そんな発想もあまりないんでしょうが、この症例はそれほど珍しいものではなく、たくさん報告されています」

「じゃあ、逆はどうですか?」

「というと?」

「聞いたり見たことがあるはずのところなのに、まるで初めてだと思うという感覚ですね」

「それはあまり聞いたことがありませんね。ひょっとすると、そう感じた時に、すぐにそれを錯覚だと思い込んでしまうからなのかも知れません」

 と教授は言ったが、

「何となくですが、理解できかねるところではありますね」

 と、彼はどこか釈然としない様子を、なるべくヤンワリと話したのだった。

「あとですね。さっきのピラミッドの話の続きになるかも知れないんですが、神話というのも、世界各国に残っていた李します。例えば、ギリシャ神話だったり、ローマ神話だったりですね。日本でも古事記や日本書紀のように、神話と言ってもいいようなお話が残っているでしょう? 特にギリシャ神話とローマ神話では結構似たようなお話もあって、神々の種類であっても、名前が違うだけで、同じような種類の神は、どちらにもいたりします。これも不思議な感じがしますよね」

「なかなか面白いですね」

「先ほどの箱という意味で、これはギリシャ神話に面白い話が残っているんですよ」

「ほう、それはどんなお話なんですか?」

「『パンドラの匣』と言われるものなのですが、日本では一般的に知られているお話ではないので、初めて聞かれたのではないかと思います」

「はい、初めてお聞きするお話ですね。ところでどんなお話なんですか?」

「最初に断っておきますが、神話や迷信の類というのは、いろいろ言い伝えがあって、一つではありません。いわゆる諸説と呼ばれるものなのですが、これはあくまでも一般的に言われているお話として、この『パンドラの匣』というのは、『開けてはいけない匣』という風に通説では言われています」

「はい」

「でも、実際のギリシャ神話で言われているお話をしますが、まず前提として、神様が人間を作ったというお話なのですが、これはどの神話でも共通していると思います。ここからが少しずつ変わっていくのですが、ギリシャ神話では、神様に似た創造物を作るという意味で、最初の人間は、男ばかりだったんだそうです」

「それで?」

「天地万能の神として『ゼウス』という人がいるのですが。その神様が人間を作った時に、こう言ったんです。『人間の世界に、火という文化を与えてはいけない』ということをですね」

「じゃあ、最初の人間が火を知らなかったということですか?」

「ええ、だから夜になると暗闇だったんでしょうね。でも、火がないことで人間社会は貧困にあえいでいた。それを見かねたピウロメテウスという者が、人間に火を与えてしまった。ゼウスはそれに怒りを覚えたんですね」

「どうして火を与えてはいけないということだったんですか?」

「火を与えると、人々が火を使って争いを起こすという懸念からだったと言われています。先ほども断っておきましたが、あくまでも諸説ですけどね。それでゼウスはプロメテウスに対して拷問を与えると同時に、人間社会にもバツを与えようと画策したんです」

「何かそれって、筋違いのような気がしますけど」

 と彼がいうと、

「そうかも知れませんが、神話としては、そのバツの役割として創造されたのが、『女性』だったわけです」

「じゃあ、女性というのは、神様がこの世に与えた邪悪なものだったわけですか?」

「ギリシャ神話ではそうなっていますね。そこでゼウスは女性を創造させ、それを人間世界に送り込んだ。その女性の名前が『パンドーラ』というんです」

「じゃあ、パンドラの匣のパンドラというのは、女性の名前だったんですね?」

「そういうことです。そして、彼女は神々からいろいろな贈り物を与えられた。それは男性を色に堕とすような魅力や作法であったり、女のすべき仕事の能力を与えられました。そしてその時に一緒に与えられたのが一つの箱だったんです。ゼウスは、その箱は決して開けてはいけないとパンドラに言って、人間界に送り込みますが、彼女はその誘惑に負けて、箱を開けてしまいます。すると疫病だったり犯罪だったりというありとあらゆる災難が世の中に飛び出しました。ただ、箱の中に残ったものもあるそうです。それは『希望』と訳されるものだったようですが定かではありません。これがザックリですが、『パンドラの匣』の説話になります」

「神様って、人間よりも欲深く、人間臭いのかも知れないんですね」

「その通りだと思います。でも面白いのは、これに似たお話が日本にもあるじゃないですか」

「浦島太郎の玉手箱のお話ですね。あれも開けてはいけないという箱を開けてお爺さんになってしまった。確かに似ていますね」

「それ以外にも、見てはいけないものを見てしまったために不幸になったというような神話やおとぎ話は結構たくさんありそうな気がします。一般的に残っていなくても、その地域にだけ残っている話の中も考えれば、結構あると思いますよ」

「なかなか難しいですよね」

「ところで、最初の人間という説では、ギリシャ神話は最初は全部男だったという説になっていますが、それを聞いて、不思議に思う人も多いと思うんです。特に日本の神話を知っている人にはピンとこない。また、世界の神話を中途半端に知っている人にも違和感があるはずなんです」

「どういうことですか?」

「世界的な人類創造として信じられているのは、『アダムとイブ』という話なんです。この二人が人類最初の人間と言われ、アダムが男性で、イブは女性ということです」

「そのお話は聞いたことがあります」

「だから、ギリシャ神話のお話は何か違うと思うのでしょうが、このアダムとイブのお話というのは、聖書の世界のお話なんです。つまりはキリスト教ですね。日本は中世にキリスト教が伝わり、西洋の知識と言えば、キリスト教から入ってくるものがほとんどでした。時代によっては、鎖国を強いられていたり、バテレン禁止令が敷かれていた李と、キリスト教が迫害されていましたが。やはり西洋というとキリスト教だったんでしょうね。だからその時々の政権はキリスト教を怖がって、禁止にしたりした。特に中世ではキリスト教布教を先に行って、その際に相手国を偵察し、その後、侵略するというやり方を取っている国がありましたので、政府も注意していたんでしょう。私はキリスト教を禁止したことを、頭ごなしに間違いだったとは言えないと思います」

「そうやって考えると、世界の事情も面白い気がします」

「私はここの祠に奉納されていたという箱の話を聞いた時、最初に感じたのは、このパンドラの匣だったんです。開けてはいけないという暗示のようなものがあったのではないかと思いましたが、私の思い過ごしのようですね」

 と教授が言うと、

「あくまでも今までのお話はすべて諸説あることの中の一般的に言われていることということですよね。そういう意味では、まだパンドラの匣と別物だとは言い切れないかも知れませんね」

 と彼はいう。

――この人は、実際に材料があって研究させると、この私よりももっと画期的で奇抜な発見ができる人なのかも知れない――

 と感じた。

 発見というのは好奇心から生まれるもので、さらに人と同じ意見に合わせていては決して発展性はない。そう思えば、彼のようにいろいろ聞いてきたり、相手の意見を聞いて、ハッキリと自分の意見を言えるような人が本当の研究者なのではないかと教授は考えたのだ。

 彼は続けた。

「今のお話を聞いて、すぐにというわけではなかったのですが、徐々に初めて聞いたはずのお話なのに、以前にも感じたことのある思いがこみ上げてきたような気がするんですが、これも先ほどおっしゃっていた『デジャブ現象』なのでしょうか?」

「そのようですね。でも厳密にいう『デジャブ現象』というのは、これも一般的な意見ですが、普通であれば、話を聞いているその時に気付くものなんです。私も経験がありますが、話を聞き終わった後で、思い返したように感じるというのは、少し違った現象なんじゃないかって思うんです」

「でも、理屈としては同じものなのでは?」

「そうかも知れませんが、一つ大きく違うのは、一般的なデジャブは無意識に感じることであって、今のあなたの場合は、一度聞き終わって改めて考えた時に感じたことですよね? そうなると、そこにはあなたの意志のようなものが働いていると思わざるおえないんですよ」

 と、彼は答えた。

「そういえば、妖怪の話ですが、私は海によく出る妖怪というのも、研究してきたんですが……」

 と教授が言いかけた。

「はい」

「海の妖怪というのは、非常に怖いものが多いようですね。特に言われているのは、まず第一に、決まった時間に出るものが多いということのようです。特に夜に見かけるものが多いということですね。そして見ると死んでしまうという話もよくあるようです。ただ、死なないためのおまじないや研究も昔からあるようですよ」

「それがあの祠のおまじないなんですね」

「ええ、そういうことになるんでしょう。でも、私は一つ不思議なんですが、どうしてあれを見て昔の人はすぐにその図形が、海の妖怪から守るためのおまじないに繋がると考えたんでしょうね。確かに海が近いというのもありますが、昔から伝わっているものなので、事情も変わってきている可能性もありますし、もし事情が変わっていないとしても、ちょうど目の前に人がよく亡くなると言われている場所があるんですから、そちらの供養だとは思われなかったんでしょうか?」

 と聞いてきた。

「確かにそれはそうでしょうね。でもそこには何か『お告げのようなもの』があったと聞いています。誰かの夢に出てきたので、それが真実のように受け入れられたということのようです」

「ただ夢に出てきただけで、そこまでの信憑性があるんでしょうか?」

 教授の考えはもっともだが、その次に言った彼の話を聞くと、それももっともだと感じるようになった。

「実は似た夢をほぼ同時に三人の人間が見たらしいんです。しかも、それを話したのは、それぞれ自分の一番近しい相手にしか話していないので、三人が示し合わせたというわけではないとのこと、それがしばらくして村の漁師の間でウワサになり、祠の中にあるものが守り神だとして信じられるようになったという次第のようです。ただこれもハッキリとした話で残っているわけではないのですが、説得力という意味では十分にあるように思うので、僕はこの話を信じているんです」

「なるほど、分かりました。あなたがそこまで言われるのであれば、私もこれ以上の疑問はありませんが、ところで、目に見えた効果はあったんですか?」

「これも言い伝えなので何とも言えないんですが、実際に海に引きずりこまれそうになったという漁師がいて、必死にもがいた時、そのお守りが身体から見えたそうです。それを見て妖怪はそれ以上のことをしなかったと言われていますが、私が知っているのは、その一件くらいでしょうか」

「この村で一番知っているだろうあなたがそういうんだから、きっとそうなんでしょうね」

 教授は、本当はもっとあるのではないかと思ったが、それ以上の詮索はしようとは思わなかった。

 少しまた沈黙があり、彼が続けた。

「実はもう一つ教授になら興味深いと思えるようなお話があって」

「というと?」

「実は、この村には、もう一つおかしな言い伝えがあるんです」

「それはどんなものなんですか?」

「自分とソックリな人が急に海の向こうに見えることがあるというんです。海の向こうに人が立っているわけはありませんから、それは妖怪が化けているんじゃないかっていうウワサですね。でも、このウワサを知っている人はこの村では本当に私たちの家系しかありません」

「どうしてなんですか?」

「私たち家系以外の人にこのことを話すと、実際に自分にソックリな姿を海面に見たという人と、それを聞いた人は皆死んでしまうんです」

「それはどんな死に方なんですか?」

「それが、皆自殺のようで、見つかるのは、あの断崖絶壁の下なんです」

「でも、あそこに落ちれば死体は上がらないのでは?」

「そうなんですが、なぜか自分にソックリなものを見たということに関わった人の死体だけは、近くに流れ着くんです。それで、妖怪が見せしめに彼らを殺し、まるで身投げしたかのように見せかけるため、わざと見つかる場所に死体を浮かび上がらせるという話が出来上がってしまったんです。だから、村人はそれを分かっていても他言せず、子孫にも語り継ぐことはしませんでした」

「でも、網元の家では語り継いでいる?」

「これもご先祖から言われていることで、誰もこれを語り継ぐ人がいなければ、妖怪の存在を忘れ去ってしまうので、網元の家にだけは伝承するように家訓として残っているんです。実際にうちの蔵にはその証拠になる巻物が安置されていると聞きます」

「それを見たことは?」

「その箱は開けてはいけないことになっているので……」

「祠のおまじないとは違ってですね」

「はい、その通りです」

「それにしても、ソックリな人を見ると死んでしまう……。うーん」

 教授はそう言って、また黙り込んでしまった。

「何か気になることでもあるんですか?」

「この話は、少し今回のこととは的を得ていない話になるかも知れないが、ソックリという言葉で思い出した現象があるんですが、これも実は古代から言われていることになります」

「それはどういうものなのですか?」

「人間というのは、そっくりな人間が世の中に三人はいると言われているのはご存じですか?」

「いいえ、知りません」

「これがいつ言われ始めたかまでは知りませんが、私はあまり信憑性はないと思います。でも、今のお話を聞いたうえで、ソックリと言っている人は、ただのソックリさんではないと思います」

「というと?」

「まず、そんなにそっくりな人が、そんなに都合よく、こんな近くに存在しているというのもおかしなものだという思いと、もう一つあるのは、そっくりな人を見たというのは、その本人でよね? 昔から受け疲れてきたことだとは思いますが、普通、昔の人が自分とそっくりな人を見たとして、それを本当にソックリだと認識できるかということなんです。人間というのは、一番認識できにくい人間というのは、自分ではないかと思うんです、なぜかというと、鏡のような何かの媒体がないと、人は自分の姿を見ることができないからです。今の人でもなかなか鏡を見る機会は、特に男の人にはないと思いますが、昔ならなおさらではないでしょうか?」

「なるほど、教授の意見ももっともだと思います。最初の意見ですが、確かに同じ範囲で都合よく似た人がいるというのは、ちと都合がよすぎる気はしますが、でも、この場合は昔からという年月を経ています。時代が重なれば、似た人がいるという可能性は格段に上がるんじゃないでしょうか?」

「それは言えるかも知れませんが、こんなに閉鎖的な場所で言い伝えられているということを考えると、ありえるのだと仮定した場合、それは都合がいいというよりも、その人の思い込みというのが影響しているのではないでしょうか? 『過去にも似た人を見たという話がある』という思い込みが、『そんなバカな』という思い込みを凌駕しているとすれば、理屈としては通るのかも知れませんね」

「じゃあ、二つ目の説はどうですか? 確かに鏡という考えは確かにそうだと思います。人間は自分の顔を一番認識しずらいのも分かります。ただそれだけで、この話に信憑性を持たせるのは難しいのではないでしょうか?」

「そうですか? 私はこれだけでも十分だと思います。少なくとも半信半疑の人を思い込ませるくらいの効果はあると思いますよ。一種の都市伝説なのだから、思い込みが一番大きく影響してくると思うんです。そういう意味で鏡でしか自分を見ることができないという説から導き出された『自分に似た人』の否定は、十分説得力があるかと思います」

「確かに、一つ目の説と二つ目の説を組み合わせれば、相当な説得力になると思います。一足す一は二ではなく、三だったり四だったりするんじゃないかという理論に近いのではないでしょうか?」

 彼もそれなりに教授の説に異論はないようなのだが、何か逆の説を唱えないと気が済まないようだ、

 話を長く続けるには、すべてを納得して何も否定しなければ、すんなりと話は進むのであろうが、発展性もなければ、何よりも次回の話題として、それ以降の発展性などありえないだろう。

「死体が見つかったのが何体だったのかは分かりませんが、何人が自分にソックリな人を見て、そして上がった死体がどれだけあったという問題もありますよね」

「いわゆる確率という問題ですね。それは正直ハッキリとはしません。ただ、一件あるだけでも恐ろしい話なのに、二件、三件と続くと、これは都市伝説からさらに怪奇現象に繋がるものとして考えられますよね」

「二度というのが一番インパクトが強いんでしょうね。三度目から四度と続くと、二度目ほどのインパクトは薄れていって、どんどん、惰性のようなことになる。いわゆる『オオカミ少年』の類ですね」

「オオカミ少年というと?」

 どうやら彼はオオカミ少年の話を知らないようだ。

「西洋の童話にそういう話があるんですよ。日本で言えば、一種のおとぎ話のようなお話ですね」

「どういうお話なんですか?」

「これはある村に一人の羊飼いの少年がいたんですが、来る日も来る日も毎日羊の番をするだけのつまらない仕事ばかり。男の子はその状況に飽き飽きしてしまい、悪戯を思いつきました。それは、大声を出して村人に『大変だ。オオカミが来た』と言って騒ぎ立てるんです。村人は驚いて駆けつけてきましたが、村人のそんな様子に少年は大笑いしたんです。そして味をしめた少年は再度同じことをすると、また村人が大騒ぎする姿を、またもや大笑いしていたわけです。ところが、今度は本当にオオカミがやってくるわけです。少年は今度こそ大慌てで、叫びました。『オオカミが来た』とですね。でも、村人は無視します。少年の悪戯に嫌気がさしていたんでしょうね。それから、ウソをいう男の子のことを『オオカミ少年』というようになったというお話ですね」

「うーん」

 彼は少し訝しそうに首を捻った。

「先ほどのお話との絡みは後に置いておいて、今の『オオカミ少年』というお話だけを聞いているだけでは、何か釈然としない思いがあるんですが……」

 と切り出した。

 実は教授も中学生くらいの頃に最初にこの話を聞いたのだが、教授も彼と同じように釈然としない気持ちを抱いたのを思い出した。いくつかあったのだが、彼が似たような発想かどうかを考えた。

 そもそもこの話をする時、教授の方で彼が自分の抱いた違和感と同じものを抱くように、ミスリードしたというのが本音でもあった。

「かなりのこじつけになるかも知れないですが、そこはご容赦ください」

 と前置きを打ったうえで、

「いくつかあるんですが、まず第一にですね。少年が最初二回悪戯で、『オオカミが来た』と言ったわけですよね。親やまわりの大人は何も注意しなかったんでしょうか? 最初に注意していれば、少年もさすがに悪いことなんだと思って二度目はなかったかも知れませんよね」

 これは教授も考えたことだった。

 少年はさらに続ける。

「その次ですが、一番目から続いていると思っていただいてもいいと思いますが、このお話を全体から見た感想のようなものになります。結局村人はどうなってしまったのか? ということが何も出てきていませんよね? まずはこのあたりが私には気になったところですね」

 これも教授の考えたことであり、こっちの方が問題は大きいと思っていた。

「まず第一の違和感ですが、確かにその通りです。ただ、おとぎ話に限ったことではありませんが、全体的な流れを優先すると、途中の細かい矛盾は無視されてしまうことは、小説や説話などではよくあることです。その証拠に普通に聞いただけの人はそこまで考える人、なかなかいないと思いますよ」

 と教授がいうと、

「そうなんでしょうか? 皆似たような疑問を持ってはいるが、自分から言い出して話の腰を折るのを嫌だと思っていると考えたらどうでしょう?」

「あなたは、結構話を冷静に聞かれていたんですね。きっとそれは客観的に全体を見渡すように話を聞こうとしているからなんじゃないでしょうか? 普通だったら、初めて聞く話にそこまで考える人はいないんじゃないかって思います。だって最後まで聞かないと、話の大筋や、今話している内容が全体のどこあたりなのかなんてわかるはずもないからですね」

「そうなんですよね、でもなぜか初めて聞いた話なのに、何となくですが、話を聞きながら疑問点を頭に留めることができているような気がしたんです」

「それはさっき私が言った『デジャブ』という現象に近い発想なのではないですか?」

「いえ、そこまでハッキリとしているわけではないんです。別に以前に聞いたことがあるようなというような感覚ではないんですが、話の展開から、大体の流れが分かるというような感じでしょうか?」

 教授はこれまで、この網元の息子を少し上から目線で見ていた。

 それも仕方のないことで自分は大学教授、相手は網元とはいえ、しょせん一漁村の漁師出身だという歴然とした上下の壁を感じていたからだ。学歴がそれを物語っていて、最初から、彼に話の信憑性など求めていなかった。

 つまりは、研究材料になるきっかけを話として聞かせてくれればよかっただけだった。彼の意見など別に大きな影響があるわけでもない。意見を言いたいのであれば言えばいいし、そんなに参考になることはないだけのことだと思っていた。

 しかし、実際に話をしてみると、教授も感じたことをこの男は感じているようである。

――ひょっとして、この人は私のような研究者の道を歩んでいれば、私よりも素晴らしい研究を成し遂げるかも知れない――

 と感じた。

 何と言っても、

「冷静にまわりから全体を見ながら、細かいところぼ矛盾を見逃さない観点はすばらしいことだ」

 と感じた。

 しかも、それを感じたとしても、口にできる人はさらに少ないに違いない。そういう意味では教授が考えているよりも冷静にまわりを見ながら細かい矛盾を見逃さない人は想像以上にいるのかも知れないとも思った。

 ただ、それを口にするには、相手が納得してくれるという自信がなければなかなか口にできるものではない。

 教授のような研究者であればなおさらで、相手に納得させられるだけの根拠はなければ、それこそ、「オオカミ少年」と同じになってしまう。それが分かっているから、なかなか口にできないのだ。

 だが、彼の場合はそこまで考えているかどうか分からないが、少なくとも教授と違って失うものがないことを考えると、そこまで自信がなくともいいのかも知れないが、ただ、網元の息子で将来は自分が網元を継ぐことになるという意識を持っていれば、教授としての立場と、遜色ないほどの自信が必要になる。一種の、

「覚悟」

 と言ってもいいだろう。

「さて、もう一つの説ですが、これも最初と同じような発想になるかも知れないですね。物語として成立させようとすれば、村人がどうなったのかを説明すると、くどくなる思ったのかも知れませんね」

「それだけでしょうか? 僕は最初の違和感とこの違和感では似ているようで、どこか明らかな違いを感じるんです」

 これは教授も感じたことだった。

 だが、その時の教授はその疑問を最後まで解決させることができず、自分の中で抱え込んでいた。そして今でもその答えは見つかっていない。

 いまさら彼がこの話題を引き出してくることで、止まっていた時が動き出したような気がした。

 その時というのは、すべてが同じタイミングで動いているわけではないと感じる「時間」であり、いわゆる「パラレルワールド」に繋がるものだった。

 教授は自分と取り巻く時間が、すべて同じ間隔で動いているとは思っていない。ある時のある状態では長く感じたり、過ぎ去ってしまうと、長く感じた内容が短く思えたり、逆に短く感じた内容が長く感じられたりするものだと思っていた。

 その証拠として感じているのが、

「昨日のことのはずなのに、数年前だったような気がする時があったり、逆に数年前の出来事が昨日のことのようだったりする感覚」

 であった。

 だが、頭の中では、

「そんなバカなことはありえない」

 と思っている、

 教授として、研究者として、その証明ができて初めて仮説として口にできることなので、仮説として口にできるまでにもかなりの時間が掛かると思っていた。下手をすると、

――私には無理かも?

 と感じることもあるくらいで、

――ひょっとすると、彼なら?

 と少し感じたのだが、やはりそれはあまりにも荷が重いような気がして、すぐに打ち消したのだ。

「研究者の間での発想として、パラレルワールドというものを創造した人がいるんだが、君ならどう思うか聞いてみたいな」

「パラレルワールドとは何ですか?」

「今こうやって話をしている次の瞬間には、無限の可能性が広がっているというのが基本的な考え方なんだ。少し何かが違うと違う世界に入り込んでしまうというもので、今こうやっている間も本当は別の世界に入っているかも知れないんだが、誰にもそれを証明することができないので、この発想は研究者では有名な拙論なんだけど、一般の人にはあまり知られていないんだ」

「何か難しいですね」

「ひょっとしてオオカミ少年の話も、村人がどうなったのかを言わないのは、敢えて言わないようにしているだけで、本当はパラレルワールドに入り込んでしまったのかも知れませんね」

 彼の発想は奇抜だった。

「確かにオオカミ少年の話はあくまでも創作物語なので、本当の話ではない。だから、そこにパラレルワールドが存在しても別に問題はないのかも知れない。この話を伝えた人は他意はないのかも知れないが、無意識に話をパラレルワールドに誘っているのかも知れませんね」

 これは教授の頭としては、理解はできるが、自分が発想できるかと言えば無理ではないかと考えられる。

 どうしても研究者として凝り固まった考えを持っているので、融通の利かないところは随所にある。そういう意味で、育った環境が発想という意味では割と自由な環境にいる柔軟な頭を持った彼が、冷静にまわりから判断できる目を持っているとすれば、これくらいの発想を導き出したとしても、無理のないことのように思えた。

 この時代は世界でも、タイムマシンの発想やロボットの発想なども作り上げられていて、教授もその研究も一緒にやっていた。だからパラレルワールドや、デジャブという言葉も知っていて、敢えて、話が細かいところに進んでいこうとするタイミングを見計らって、話をしているのだろう。

「さて、自分に似た人の説として、二つ目の鏡の話に戻るんだけど、鏡というのは実に不思議なものだって思うんですよ」

 と、教授は話を元の路線に戻した。

 そのうえで、鏡という媒体を、

「不思議なものだ」

 という。

 その発想がどこから来ているのか、彼はよく分からなかったが、彼の中でも、

――僕の発想は、ひょっとして教授が過去に辿り着いた発想と酷似しているんじゃないだろうか?

 という思いを持っていた。

「鏡という発想で、ある突飛な発想を思いついた人がいるんだが、その人の発想は、ひょっとすると他の誰もが思いつきそうな発想なんだけど、言われて初めて『あっ』という言葉を思わず発してしまうのではないかというようなものなんだけど、実際にそれがどうしてそういう現象になるのかということは、いまだに謎なんだよ」

 と教授が言った。

 実際にこの発想は、令和という現在までもハッキリとした証明はなされていないが、この時代であれば、発想がいくつか生まれる程度で十分だったのだろう。

「それはどういうものなのですか?」

「一つは、ある仮説が有力な証明になっているものなんだけど、もう一つというのが、その発展形になるもので、こっちが正真正銘、解決されていないものなんだよ。まず一つ目なんだけど、鏡を見ると左右対称になるだろう? これはどうしてかという発想と、二つ目はその発想として、左右は反対になるが、上下は反対にならない。この理屈が説明がつかないんだ」

「面白いですね」

「実はもう一つあるんだが、それはこの話の後の方がいいだろう」

「ええ」

「まず、最初の疑問なんだけど、左右対称、つまり君が左手で何かを持っているとすれば、鏡の向こうには右手で持っている君がいることになるだろう? これが左右対称という発想なんだよ。これを解き明かすヒントとして、文字にすると分かりやすいかも知れない。何かに文字を書いて鏡の前に置くと、完全に反対の文字になるだろう? これを自分を写す鏡と、文字を写す鏡とでは別物だって仮定するんだ」

「どういうことですか?」

「自分を写す鏡というのは、主役である自分が主観的に見るものだから、視線が何かを持っている鏡に写った絵を見た時、主観である自分が見るから、右手に持っているように見えるという発想なんだ。文字は客観的に見るので、視線は全体を捉えている。だから、読み取る時には完全に違う文字になっているということさ」

「なるほどですね」

「だけど、この発想では左右対称は説明できても、上下が逆さまにならない証明にはならない。これが鏡の難しいところなんだろうね」

「本当に難しいですね」

「ところでもう一つの発想なんだけどね。本当はもっと鏡にはいろいろな魔力のようなものが備わっていると思うんだけど、僕が今思いついただけでもこれだけあるんだから、考えてみればすごいよね。そのもう一つというのは、前後でも左右でもいいので、鏡を向かい合わせで置いたとして、その真ん中に自分がいる場合を想像してごらん」

 と教授は言った。

 彼は少し時間をかけて想像した。それは自分の中ではある程度の答えが出ていたが、それが教授の期待する答えかどうか、考えていたからだ。彼はきっと今日教授との話の中で、自分でも知らぬ間に急速に成長しているに違いない。

 彼は精神を落ち着かせて言った。

「どちらかの鏡を見ると、そこには自分が写っていて、その後ろに鏡が写っている。そしてその鏡には後ろ向きに写っている自分がいて、その向こうには正面から写っている自分がいる……」

 と彼が途中まで言って、そこで言葉を切った。

「そう、その通りなんだよ。これを難しい言葉でいうと、無限ループというんだけど、要するにずっと半永久的に鏡に自分が写し出されるということなんだよね」

 と教授が言ったが、その時、彼はもう一つ頭に浮かんでくるものがあった。

 それが何なのか、何となく分かってはいたが、実は彼よりも先に教授の方がピンと来ていた。

「何か、頭をよぎるものがあるんじゃないかい?」

 とニヤリと笑って教授は彼を見た。

「はい、でもここまで出かかっているんですけどね」

 と言って、喉元を掌を横にしてまるで切るように左右に滑らせた。

「私が言ってあげようか?」

「ええ」

「それはね、君が祠で見つけたというあの箱なんだよ。箱の中に箱が入っているという、あのマトリョーシカ人形のようなものと同じじゃないかな?」

「あっ、確かにそうですよね。あれも開ければ開けるほど、どんどん小さくはなるけど、中から同じものが出てくるという発想ですよね。ところで、どんどん小さくなっていくのは分かるんですが、最後には消えてなくなってしまうんじゃないですか?」

「いいえ、どんなに小さくなってもゼロにはなりません。形があるものが、描写される段階で消えてなくなるということはありませんからね」

「学校で習った割り算で、確かどんなに大きなもので割ってもゼロにはならないというのを習った気がします」

「そうですね。まさしくその通り。ゼロにするには、ゼロで割るしかないという結論なんですね」

「つまりね。あの祠にあったあの箱。ゼロにはならないという発想が、無限という発想に繋がって、魔除けとしての効果を表していたんじゃないかって私は思っているんだよ」

 と教授がいうと、

「あの箱の正体は、無限という発想が魔除けとして通用するということでしたら、あの描かれていた絵も、無限という言葉が重要になるんじゃないでしょうか?」

 彼が二人で話したいと言ったのは、ひょっとして箱の正体を無限だという理屈に結び付けるためではなかったか。彼は別の目的で教授と二人きりでの話を望んだが、無意識の行動が、これまで解き明かすことのできなかった謎に迫るきっかけを作ったのではないだろうか。

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