水中の神様

cran

第1話 俺は、水中の神様だ

 俺は昔から、人と関わるのが苦手だった。一人の方が楽だった。それは、俺が運動音痴だからだ。子供の言葉は案外鋭いモノで、俺の心、いや、脳を鋭く、突き刺した。しかし、よく考えると遠慮、という日本人の掟たるものが世の中、特に日本人特有の浅く、そしておもてなしを重点に置き、常に相手のことを考え、行動せねばならないこの世の中を知らない子供に、身に付いている筈がないのである。

 子供に於いて最も重要なこと、それは運動神経であり、子供にとって遊ぶことといえば外で走り回ることくらいしか当時は無く、よって運動音痴な俺はいつのまにか疎外されていた。幼稚園や小学校に行ってもそのような生活を送っていると、必然に会話をするのは家族しかおらず、ますます無口に拍車が掛かっていった。

 しかしそんな俺にも転機が訪れた。それは今、俺がしている水泳である。

 水飛沫が飛ぶ。1秒にも満たない息継ぎで勢いよく息を吸う。それの繰り返し。水中特有の音。それだけに耳を澄ませる。水に包まれる安心感というべきか、幸福感というべきか。そして、静かな心。最後のひとかき。両手に感じる壁。水中から顔を出す。一瞬の沈黙。そして振り向く、観客が口を開いている。それを視認した途端に広がる音。そう、歓声。

 俺はインターハイで優勝した。

「しゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!!!!!!!!」

はじめての歓喜。はじめて出した、腹の奥底から出る、雄叫び。他に何も考えられない。頭が真っ白で、手足は震えて、口角は痙攣している。目の前にある勝利。勝利。勝利。俺が、勝った。他の三年を一年の俺が蹴散らした。強豪校を、蹴散らした。圧倒的な幸福感が身体を包み込んだ。

「おめでとうー!!!!!!!!」

「ありがとうございます…」

 とある民家で、勝利の宴が催された。

「いやぁ、まさか、こんな弱小校から一位が…はぁ…そしてあの二人もきちんと順位を叩き出すし、しかも部内から二人もメダル獲得者が…」

「監督、飲み過ぎですよー?」

「だって、だってぇ、ゆうちゃーん!!」

ご覧の通り、監督は完全に酔っぱらっている。開始1分も経たずにこれである。下戸がそんな俺でも知ってるような度数高いの飲んでどうすんだよ。そしてゆうちゃん、と呼ばれていたのがここのマネージャーさん。

「いやぁ、本当に君は凄いよ」

「ありがとうございます…」

いきなり斜め前から話しかけられ、礼を述べることしかできない。…然り、どのような時でも同じなのだが。この人は三年のキャプテンだ。

「聞けよ、新人クン。こいつ、四位だぜ??俺は三位だけどな」

「あー、はいはい、わかったから。机の上に足を置くのをやめなさい」

「ほんっとうに真面目クンですねぇ、キャプテンは」

このチャラそうな人は同じく三年で副キャプテン。学校では月と太陽と呼ばれている。中々に厨二病っぽいが。お二方とも実力は確かにあり、この三年間、弱小校から脱却するため、様々なことに取り組んでいた。プロを目指してないけど、できるとこまではやりたい。それがお二方の口癖だ。そして、俺の人生の恩人でもある。中学校に入っても未だ運動音痴で、それに加えて無口であったため、いじめられていた。そのせいで俺は不登校になった。しかし先生方が必死に内申点を良くしようと、色々な手を施してくださったり授業をオンラインで受けるなどして対策をしてくださったりしたお陰で、無事俺は高校に進学することができた。そして入学式の時に俺に声を掛けてくださった(正確には捕獲した)のがこのお二方で、俺は水泳部に入り、俺は違う意味でのぼっちになることができたのだ。

「はぁ、氷の貴公子がもう王様になっちゃうねぇ…もういい加減前髪あげたら?」

「無理です」

「うわぁ、自分の顔面を無駄にしようとしてるー。俺と同じくらい…いや、ちょい劣るけど顔は良いのにぃ」

「水中に引きこもって良いのなら」

「やめて俺が殺したみたいになっちゃう」

氷の貴公子…それは俺だ。全く話さないし笑わないし前髪長くてメガネだから顔もわからないけど水泳で活躍してるから、が原因らしい(マネージャーさんから聞いた)。勝手に俺を美化するな、と何回嘆いたことか。人間の慣れとは恐ろしい…。

 それから五時間くらいして、やっと部屋に帰らされた。

「なぁ、ちょっと良いか」

「何ですか、キャプテン。良いですけど…」

「ならついてきてくれ」

そう言われて連れてこられたのは近くの山の頂上。

「夜景、綺麗だろ」

「はい」

遠くの方に見える、ビル群、そしてその周りに広がる一軒家や入り組んだ高速道路の電気が夜の暗闇と融合している。

「なぁ」

「はい」

「俺、来週からアメリカに留学するんだよ」

「え?」

「黙っていてすまん」

キャプテンが俺に頭を下げた。いつもの俺なら焦りで一言も話せず、両手を一生懸命に振りながら頭を上げてください、と伝えていたのだろうが、そんなことは出来なかった。頭が真っ白だったからである。

「冗談ですよね。何かのサプライズですか、そうですよね」

「いや、本当だ」

頭を上げたキャプテンの視線が俺に刺さる。…キャプテン、いや、先輩はそんな大事の時に冗談は決して吐かない。

「そんなの、おかしいですよ」

来週??来週って何。アメリカ???留学???????それじゃあ再来週にある、部内試合は??は???

「すまん」

「そんなの、嫌です」

貴方は俺の人生の恩人であることの重大さに気づいていない。

「先輩にとって俺はどうでもいい後輩ですけど、俺にとって先輩は…」

「どうでも良くないぞ。…実はな、俺、プロを本当は目指してるんだ」

「へ」

「強豪国に行って、学びたいんだよ」

「でも、前、先輩…」

「正直…俺、お前にビビってたんだよ」

…俺に、ビビってた?

「どんどん他の一年を追い抜かすし、二年も追い抜かすし、遂には三年も追い抜かした。未経験者で、まだやりはじめて二ヶ月も経ってないど素人がだ。そんな天才の前でそんなこと言ってみろ。世間知らずにも程があるだろ」

「俺が天才だなんて…!」

「だからやめだ」

先輩が上を見た。

「プロになるために、留学するのはやめだ」

先輩は俺に近づき、俺の額を人差し指で軽く押した。

「お前に勝つために、留学する」

俺に…勝つ、ため…。

「そんなの、俺が負けるに決まって…」

「これは確定だ」

「俺、先輩がいないと…!!!」

「良いか」

先輩は俺に背を向けた。

「お前は、水泳の神様だ」

「へ?」

「そして、これは凡才と水泳の神様との決闘の始まりだ。だけど油断したら俺が一発で抜かす」

「は?」

「決戦は俺たちの最後のオリンピックだ」

先輩の、刺すような視線を感じる。…先輩は、本気なんだ。…それじゃあ、

「……わかりました。そこまで言うなら…俺が徹底的に潰します」

受けて立つしかない。

「やってみな」

先輩がニヤリと口角を上げた。

 その一週間後、本当に先輩はアメリカへ行った。

 ____十八年後

「本当によかったんですか。貴方もう三十七歳ですよ」

「それでも勝ってるからさ、若人に」

「潰しますよ。その自信」

「お前こそ本当に良かったのか。三十四で。」

「何言ってるんです?俺はまだ、続けますよ」

「流石」

 何故なら俺は、水泳、いや、水中の神様なのだから。

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