優しい共犯者

そうざ

The Gentle Accomplices

 俺の趣味は旅である。

 元来は出不精で、旅と言えば修学旅行の記憶くらいしかない。それが今や暇さえあれば旅の空に居る。

 旅行とは言いたくない。レンタカーで車中泊を繰り返す貧乏旅だからではない。その目的が観光でもグルメでもなく、家に居たくないだけだからだ。


 休日は決まって旅に出る俺に、妻は何も言わない。見送る事すらない。清々とした顔で一瞥するだけだ。

 俺達が二人で居る場面を記憶している人間が、この町内に何人居るだろう。とっくに離婚したと思い込んでいる人間を探す方が、よっぽど早いに違いない。


 当て所のない旅は、手持ち無沙汰でもある。

 ごった返した観光地には辟易とするし、遠出ばかりしていると燃料代に跳ね返って来る。

 田舎まで行かなくても、意外と自然は残っているものだ。人為的に残された緑地帯は古い地縁から切り離されているのと同時に街の喧騒からも遠い。日常に穿たれた空白地帯だ。

 何でもない郊外の、人気のない自然豊かな場所でぼんやりとキャンプ紛いの時間を過ごすのが、俺の定番になった。


 いつもの何もない短い旅の帰路に、細い峠道を通った事があった。

 片側は強固な擁壁で固められているが、もう片側は鬱蒼と木々が茂っていて、かなりの勾配で崖が切り立っていた。

 俺は路肩に車を止め、崖の深淵を覗き込みながらぼんやりと思ったのだ。

 こんな場所に何かを棄てても当分は誰にも気付かれはしないだろうな――と。


              ◇


 結婚三年目にしてローンを組んで購入した一軒家。

 まだ子供も居らず順番が逆のような気もしたが、妻に懇願された。理想の環境、理想の家庭、理想の日常――理想の応酬で押し切られた。強要されたと言った方が正確かも知れない。


 その後も子宝には恵まれなかった。

 そもそもが三十代後半同士の結婚だったが、検査の結果、俺の方に欠陥がある事がはっきりした。

 不妊治療を受けられる程の経済的余裕はない。袋小路の諦観は、妻に物欲を植え付ける方向に作用してしまった。

 俺のささやかな稼ぎは、ごみにしか見えない物へと変わり始め、住宅ローンの上に果てしなく積み上がって行った。

 時折り正気に戻るのか、妻は彼是あれこれとパート仕事を探し始める。が、決して長続きはしない。時給、勤務地、実働時間、その他諸々、れもれも理想に合わないと言い募り、後はもうビデオゲームの世界に引き戻されるのが落ちだ。


 足の踏み場もないという例えは大袈裟でなく、我が家に俺の居場所はなくなった。

 どんなに屋内が塵で埋もれようとも、近隣に悪臭やら物理的な迷惑やらを掛けていない限り、警察も行政も動いてはくれない。

 このままでは人生そのものが侵食される。

 当然、もう離婚しかないと思った。ところが、妻は頑なにそれを拒んだ。相場以上の慰謝料を提示しても妻は首を縦に振らなかった。両者の合意がなければ、離婚は成立しない。結婚行きはよいよい離婚帰りは怖い――たった一枚の書類がここまで人間から自由を奪うとは、理不尽極まりない事だ。

 想像するに、妻にとって離婚は敗北を意味するようだった。一度ひとたび占拠した我が城は何としても死守する――この考えがゲームの影響なのかどうか、ゲームに縁のない俺にはよく分からない。

 妻は俺の言葉を解さなくなっていた。コミュニケーションが取れなければ、もう妥協も譲歩も落とし所も探りようがない。

 何処かで隘路に入ってしまった。しかし、それがどの時点なのかがはっきりとしない。子供を諦めた時か、家を購入した時か、結婚した時か、恋をしたと錯覚した時か、出会ってしまった時か、あいつがこの世に生まれた時なのか。

 それがはっきりしたところで、どの道、時間は撒き戻らない。確かなのはそれだけだった。


             ◇


 実行には早朝を選んだ。

 車の往来はなく、こんな峠道を徒歩で行く者も居ないだろう、と事前に予想した通りだった。

 地形の所為なのか、好都合な事に朝靄が出ていた。フードを被り、サングラスをし、マスクを着けた。もし車が通りすがっても人相まではばれないだろう。

 ミニバンから手早く小包を出す。

 楽に抱えられる程度のダンボール箱に小分けにした。万が一、人の目に触れた場合も、この方が印象に残り難いと踏んだ。

 一つ目の小包をガードレールの向こうへと思い切り投じた。小包は木々を揺らしながら崖下へと消えて行った。

 一つ捨てると決心に拍車が掛かった。俺は同じ調子で次々に小包を放り投げた。

『可燃ごみ』や『不燃ごみ』として出せたらどんなに楽かと思う。しかし、万が一の事を考えれば、不用意に近所の集配場所に捨てるのは危険過ぎる。だからこそ、無縁のこの場所を選んだのだ。

 不図、という格好の言葉が浮かんだ。俺は、落とし所へ落ちて行け、と心で叫んだ。

 残りは一つ。俺は疲労の溜まった腕に怨みを込め、渾身の投擲をした。

 ところが、大振りの枝が小包を跳ね退け、目と鼻の先の草叢に落ちてしまった。既に汗だくの身体からより一層の汗が噴き出した。

 右を見る。左を見る。相変わらず人目はない。

 俺はガードレールを跨いで草叢に分け入った。が、夜露なのか朝露なのか、足場は意外に湿っていた。忽ちその場に転び、身体が斜面に囚われた。引っ掛かっていた小包に手を掛けたものの、俺は崖を滑り落ち始めた。


             ◇


 下生えに彼方此方を擦られながら漸く落ち着いたのは、ほとんど崖下の付近だった。

 繫茂した草木がクッションのようになり、大怪我には至らなかったが、細かな傷に露がぴりぴりと染みた。着衣は泥塗れで、破れた箇所もある。

 マスクやサングラスのお陰か、顔はほぼ無傷だったが、どちらも滑り落ちる最中に何処かへ行ってしまった。

 崖下の植生は広葉樹から竹林に変わっていた。朝靄も相俟って尚一層、薄暗い。

 軽症で済んだ事に安堵しながら立ち上がった時、近くの茂みが揺れた。

 瞬間、野生動物を連想した。

 寧ろそうであって欲しかった。

 現れたのは見知らぬ男だった。


             ◇


 互いの顔が、何故こんな所に、という疑問を湛えている。そして、どちらが先に何と発するのか、相手の出方を待っていた。ほんの数秒が長く感じられた。

「……落ちたんですか?」

 口火を切ったのは、見知らぬ男の方だった。キャップを被り、鍬を持ち、籠を背負っている。俺より何歳も年上に見える。

「……あの、良い眺めだなと思って、上の道から見ていて」

 一面に朝靄が立ち込めている。そもそも鬱蒼とした木々が視界を遮る立地で、眺めも何もあったものではない。自分の馬鹿さ加減に呆れた。

「ここを上るのは無理ですよ」

 男は崖の上を見上げたが、俺の目は茂みの中に転がっている小包の方を向いていた。他の小包もそう遠くない所に落ちている筈だ。男は気付いているだろうか。

「私が案内しましょう……こちらです、こちら」

 俺はそこでやっと慌ててフードを被ったが、もう後の祭りだ。顔を見られてしまった。

 男に続いて竹藪を進む。膝や腰の痛みを気にしている余裕はなかった。

 男の籠から何かが頭を出している。筍らしい。

 余計な会話はしたくない。俺の気持ちを察しているかのように、男は黙々と先を行く。どうやら小包には気付いていないようだった。それだけが俺をほっとさせた。


             ◇


 朝靄の中、俺はアクセルを吹かしていた。

 男への礼の言葉もそこそこに、峠道へ走って戻り、直ぐにその場から逃げ去った。

 男はあの辺りの地権者かも知れない。俺を筍泥棒か何かと思ったかも知れないが、だとしたら寧ろあり難い。

 俺と別れた後、男はまた竹藪へ引き返したのだろうか。まだ筍掘りの途中に見えたから、その可能性は濃厚だろう。

 竹藪を徘徊している内に、ガムテープで厳重に封をされた真新しい小包を発見する。よく見ればあそこにも向こうにも落ちていると気付く。そして、好奇心の強い人間ならば開封してしまう――。


             ◇


 ネットニュースを細かくチェックするのが日課になった。ローカルニュースまで一通りチェックし、その後に胸を撫で下ろすという日々の始まりだった。

 心の大部分を『大丈夫』で埋めようとしながら、片隅には常に『駄目』が巣食っていて、直ぐに『大丈夫』を押し消そうとする。懸命に『大丈夫』と自己暗示を掛けようとすればする程、『駄目』が舌を出してせせら笑う。

 やっぱり俺は何処かで隘路に入ってしまったのだ。


 最近、仕事に向かおうと玄関を出た所でウォーキング中の近隣住人と鉢合わせてしまった。普段、ろくに会話をした事のない小母さんだったが、行き掛かり上、愛想を振り撒く事になってしまった。

「おはようございます……奥さんはお元気ですか?」

「……はい?」

「最近、特にお見掛けしないようで」

「新しいゲームを買って、それに夢中で……」

「あぁ、そうですか……」

 俺はどんな表情をしていたのだろう。普通の顔がどんなだったかを思い出せない。どんな振る舞いが破綻のきっかけになるのか、まるで判らない。

 事件からようやく一週間が過ぎ、このまま逃げ切れるかも知れない、と漸く余裕が生まれ始めたのに、心がまた騒めき始めた。


             ◇


 何回目かの断片的な睡眠を破ったのは、インターフォンだった。この音には過敏にならざるを得ない今日この頃だ。

 インターフォンのカメラを確認すると、余所見をした人物が荒い映像で映し出された。

 二人組ではない。制服でもない。警察ではないように見える。

「……どちら様ですか?」

『あ、どうもどうも』

 知らない男が歯を見せて笑う。

「ご用件は?」

『忘れ物をお届けに参りました』

 肺も、心臓も、脳も、毛穴という毛穴からも放電しているような、ひりひりとした痺れが全身を走った。腰の砕けた俺を背後の塵の山が受け止めた。

「……違います……うちじゃありません」

宇加津うかつさんのお宅ですよね?』

 思考が纏まらない。カーテンを引いた薄暗い部屋全体に、俺の鼓動が木霊こだまし始めた。


 玄関ドアを開けると、また余所見をしていた男が振り返った。

「どうもどうも」

 その馴れ馴れしさに怪訝な顔を向けていると、男は何かを振り上げて振り下ろすような仕草を繰り返した。俺に何かヒントを与えたつもりらしい。

 はっとした瞬間、視界が現在と過去との二重写しになった。

「……筍の……!」

「そうですそうです」

 今になって、男の顔立ちを真面まともに憶えていなかった自分に気付いた。朝靄と、男が目深に被ったキャップと、そして自分の顔を見られたくない一心とで、相手の顔を見ないようにしていたのだ。

「取り敢えず一つお返しします。残りは車にありますから」

 二度と見たくもない小包が、男の胸元に抱えられている。

 どうして俺の名前を、どうやってこの家を突き止めたのか。逃げ出したい衝動に駆られたが、もう俺に逃げられる場所などなかった。

「無断で開封してしまって申し訳ない。しっかり封がされてると無性に開けたくなるもんで、つい」

 俺はもうその場に立っている事さえ難しくなっていた。

「小包の中に宅配伝票の切れ端が紛れてたんですよ、それで取り敢えずこの住所に行ってみようと」

 切れ端は辛うじて住所と苗字とが判別出来る状態でくしゃくしゃになっていた。

 迂闊だった。家に溜まっていたダンボールを適当に使ったのが仇になった。もう言い逃れは出来ない。

「……どうする……気ですか?」

「はい?」

 一見、人の良さそうな男の面構えが、却って冷淡さを秘めているように映る。

「……住宅ローンが、あるし……余分な稼ぎは、ないし」

 呼吸が覚束ない。いっそ心不全か何かで頓死出来ないものか。

「大丈夫ですか? 顔色が、汗も凄い」

 俺は崩れ落ちた。男が慌てて俺を支えた。と同時に、放り出された小包が玄関先に転がった。

 息絶え絶えの俺の耳元で、男が優しい声で言った。

「全部回収して来ましたから、もうあそこに証拠は残ってませんよ」

 男は、俺の小刻みに震える背をさすりながら続ける。

「あの朝、貴方に出くわした事がずっと気になってて、私もまんじりとも出来ませんでした」

「…………」

「最初は貴方筍泥棒かと思ったんですが、単なる不法投棄でしたか」

 男が笑った。俺にも笑うようけしかけているようだった。

 その時、背後で玄関ドアがゆっくり開いた。

 ドアの隙間から、寝落ちしていた様子の妻が顔を覗かせた。いつものように不機嫌そうだ。

「……誰が来てんの?」

 男にだけでなく、俺にも不審者を見る目を向ける。

「あぁ、奥さんですか? 突然、済みません」

「警察を呼びますよ」

 警察という単語に、俺はまた胸を押さえた。

「その必要はありません、私は警官ですから」

「……」 

「……」

「忘れ物は私の方で処分しておきましょう、お互い魔が差したという事で……それじゃ、本官はこれで」

 男は軽く敬礼の仕草をして微笑むと、小包を抱えてくるりときびすを返した。

 走り去る車を見詰めていると、妻が改めて語気を荒げた。

「ところでさぁ、私の私物が色々となくなってる気がするんだけど……ゲームソフトとか」

「家中を散らかすから……」

「何?」

「散らかすから、なくなっちゃうんだよ……」

「はぁっ?!」

 玄関ドアが勢い良く閉じられた。

 うして、俺の細やかな抵抗は辛うじて完遂したのだった。

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