【金魚の糞】
空川陽樹
【金魚の糞】
雨上がりの陽が差す休日に、電車に1時間ほど揺られた私は鎌倉を旅している。
出発以前にもちろん天気予報は確認していたが、想像以上の暑さと湿気で蒸さ苦しい。また、明月院、建長寺、杉本寺、報国寺、浄妙寺を踏破した足は過労死の直前である。
有給休暇を取得するためにスマホで近くの喫茶店を調べる。時刻は15時を少し過ぎており、3時のおやつにもちょうどよい。
目に留まったのは、「“金魚の栖” 高評価」。クチコミを見た感じ、評判はいいようだ。土鍋プリンが美味しいらしい。プリンは大好物だ。ここからは徒歩5分。閉店時間まで1時間ほどであったため、直ちに向かうことにした。
少し歩いたところで、逆方向に進んでいることに気がついた。疲れ切った私を絶望させるには十分だったが、脳裏に残るプリンの輝きを頼りになんとか足を動かす。気温も少し落ち着き、微風が背中を押してくれるが、大した助けにはならない。ところが、それが新緑の中へ流れて行った時、微風から美風へと変わった。風に揺られた木の葉は私を回復せしめるのに充分な趣を有していた。気づけば、”金魚の栖”が見えてきた。再び風が吹いて、『葉擦れ』の音がした。
こぢんまりとした喫茶店のようだ。磁石式の帳を開けるとチリンと音が響き、店主が出迎えてくれた。1人であることを伝え、案内された部屋へ入る。なるほど、室内からは”金魚”という名の由来が伺える。壁の側に設けられた水槽では金魚が優雅に漂っているのだ。壁にはレトロな電話が掛けられている。そして、掃き出し窓から見える庭には緑が一面に広がっている。一昔前の緑豊かな時代が回顧された。他の客がいないこともあり、そこには静かで優美な時間が流れていた。
すぐに店主はメニュー表とお冷を持ってきてくれた。注文は頃合いを見て再度尋ねに来てくれるらしい。お冷は氷が入っていないのに、非常に冷たく、澄んでいる。私の1番好きな水だ。
メニュー表を見ると、土鍋プリンがある。正式な名前は、「金魚の栖の土鍋プリン」。この、「栖」という字の読みが気になり、スマホで調べる。「すみか」、と読むらしい。なるほど、「棲家」か。ここは金魚の拠り所らしい。
普段、私は他人の意見に流されている。よく言えば他人の意見も尊重しているということになるが、過度なそれは自己を蝕むだけである。そして、どこかへ行く時、なにかをする時、私は金魚の糞となる。私は何をしたいのか、何になりたいのか。人生の岐路に差しかかった現在でも、他者の情報に流されて漫然と彷徨い続けている。
ゆらゆらと流れる金魚を見つめていると、店主が注文を伺いに来てくれた。
「金魚の栖の土鍋プリンを一つお願いします。」
と、告げる。
しばらくして到着したそれは、片手にスッポリ収まる大きさである。蓋を開けるとプリンの上に、まぁるい生クリームが乗せられており、さらにその上には赤い金魚を型取ったゼラチン状のものが2匹飾られている。
まずは生クリーム無しで、カスタードとカラメルだけでいただく。ほろ苦いカラメルとさっぱりした甘さのカスタードがマッチして舌鼓を打つ。次に、生クリームも合わせて口に運ぶ。言わずもがな。思ったより土鍋は深く、ボリュームも満点である。プリンを運ぶ手が止まらない。
あっという間に完食してしまった私は、満足感に浸りながら、水槽の金魚と窓越しの新緑のコントラストに見惚れつつ心を休める。
気づけば20分ほど経ち、心身共にある程度回復したことを悟り、会計へ向かう。
「すいませーん。お会計お願いします。」
静かな雰囲気だったからか、内気な性格だからか、控えめな大きな声を出す。
店主が会計をしてくれている時に、プリンの後味が私に少しだけ勇気を与えてくれた。
「土鍋プリンとっても美味しかったです。雰囲気もめちゃくちゃ良くて、、、。あと、金魚お好きなんですか?」
緊張した私の口は息継ぎ無しでそれを唱えた。内心、ああ、とか素っ気ない返事が返ってくるかもと怯えていたが、店主は喜んでくれているようで、言ってよかったとしみじみ感じる。いっそうプリンが好きになった。この喫茶店は、人生で1番の『当たり』であった。
ごちそうさまでした、と告げて帳を開けて外に出る。少し涼しくなっており、風が心地よい。
糞が金魚に付随し、囚われているように、金魚も水槽に囚われている。一見自由に思える鳥も大気を飛び越えてはゆけない。それでも、その中で優雅に生きている。必死に生きているものもいれば、超然と生きているものもいる。しかし、そのどちらも美しい。私はそう思う。今後、今まで通り金魚の糞のままなのか、新しい在り方を見つけるのかは、まだ分からない。けれど、とりあえず美しいと信じる生き方を目指してみよう。
そう心に誓って、私は”金魚の栖”を後にする。
※『葉擦れ』の音=『ハズレ』⇔『当たり』
【金魚の糞】 空川陽樹 @haruki_sorakawa
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