第19話 「坊正」「華夷意識」について
このエッセイは鷲生の中華ファンタジー「後宮出入りの女商人 四神国の妃と消えた護符」の「あとがき」です。
拙作のURLはコチラです→https://kakuyomu.jp/works/16817330658675837815
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今回「坊正」という立場が出てきます。
第三回にも引用しましたが、氣賀澤保規さんの『中国の歴史6 絢爛たる世界帝国 隋唐時代』に長安の碁盤の目をした街の様子が紹介されています(223頁)。
「碁盤の目状にできた街路間を埋めたのが、人々の居住する坊(里)であった。坊は周りを高さ三メートルほどの土塀で囲まれ、大きな坊で四つの門、小さな坊では二門がつけられ、この門から坊内の街路や路地を経て、それおれの家へと行き着く。坊門は、鍵を管理する坊の責任者である坊正によって、日出前の四時頃開けられ、夕方日没とともに閉ざされる」
ここに登場するように、各坊には「坊正」という役職がありました。
門の開け閉め以外に何をどの程度職務としていたのか、これという資料がありませんが、拙作ではトラブルがあれば、まずは坊正のもとに持ち込まれるという設定にしております。
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崔家の春賢はは貴族の子弟として、女性蔑視、華夷思想がこびりついているヤな奴ですw。
檀上寛さんの『天下と天朝の中国史』「第三章 北の天下、南の天下――漢・魏晋南北朝」では「華夷の別の三類型」が述べられています。
「古代の中国人の中に生まれた中華(中夏・華)という観念は、常に夷狄(夷)と対比されることで発展してきた」(42頁)。
その華夷の区別は一般的に「①民族の違い(漢族か否か)」「②地域の違い(中心か外縁か)でなされてきました。
著者の檀上さんは「ここで新たに第三の観点を加えたい」として「③文化の違い(礼・義の有無)」を挙げておられます。
「③の文化の違いは、民族的には漢ではなくても、中華文化、いわゆる『礼・義』を体得すれば華となる見方である」
「華の立場からいえば、中華の天子の徳化で夷を華に変えることであり」「夷狄の側からすれば(中略)民族的には夷狄であっても華に入れば、自ら華になって天下を統治できるということでもある」
拙作は唐をイメージしていますが、よく知られているとおり唐は北方異民族系の王朝です。
拙作の「董」は北方とは限定していませんが、前王朝とその血を引く蘇、前王朝から華都に残っている貴族的は漢民族をモデルとしており、董王朝は外来だと設定しております。
外来でも「礼・義」を身につければ正統な王朝になれるはずなのですが……。
檀上寛さんの『天下と天朝の中国史』の話は以下のように続きます。
上述の「①と②は民族・地域などの実態に即して形成された実体概念であり、③は礼・義の有無で華夷が定まる機能概念と言い換えてもよい」
「とはいえ、いくら礼・義の有無で正当化を図ったとしても、漢族の夷に対する民族的な蔑視観を、完全に払しょくすることはなかなかむつかしい。なぜなら、機能概念はしょせん為政者による意味づけの概念であり、実体概念を超えるものではないからだ。」
「けっきょく、支配民族である夷は漢族の賤視を浴びながら、華での独自の地歩を築かねばならなかった」
引用した檀上さんの文章は五胡十六国時代の最初期について書かれた箇所にありますが、鷲生の拙作では董王朝が何代も平和裏に皇帝としての統治を続けていても、漢民族をモデルとした貴族や蘇王からはどことなく見下されているということになっております。
大貴族の崔家の嫡男の春賢も、だから鼻持ちならない嫌な奴であり、皇帝から冬籟、白蘭、璋伶にまんべんなく悪口を言っているのです。
このムカつくキャラの春賢は、もちろん後々ろくでもないことをしでかします。
それに対して白蘭たちがどう立ち向かうかが後半の物語です。
どうか最後までご愛読くださいますよう。
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