第10話 東の漣国のモデルなど。

 このエッセイは鷲生の中華ファンタジー「後宮出入りの女商人 四神国の妃と消えた護符」の「あとがき」です。


 拙作のURLはコチラです→https://kakuyomu.jp/works/16817330658675837815


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 東の漣国については「董のある大陸から海で隔てられた島国だ」と書きました。

 もちろん日本がモデルです。


 今回のこの文章はあまり中国史の内容と関係のない、鷲生の日常雑感です。

 ……スミマセン、これというネタが無くてw


 また、下記の記事と同時期に書いたので内容が重なっております。ただ、こちらではフィクションを書く側からの視点も後半で述べております。

「ソグド人でソグド人でソグド人なんですっ……気宇壮大で意気軒高な『シルクロードと唐帝国』」

https://kakuyomu.jp/my/works/16817139556995512679/episodes/16817330659842003485


 史実の中国王朝と日本との間には朝鮮半島の王朝があったわけですが、拙作「後宮出入りの女商人 四神国の妃と消えた護符」では、董王朝の四方に四神国があるという設定なので、話を簡略化させるために朝鮮半島については割愛しております。


 私は日本史畑ですので、遣唐使を通じて唐の文化が入ってきたというところを参考にしています。


 日本の天平文化は唐の影響が大きく、唐には西域の風俗や品物が流入しているので、「シルクロードを通じた東西交易の東の果てに日本があった」というイメージを用いています。


 ただ、上記のイメージは歴史学としては必ずしも正確ではないようで。

 森安孝夫さんの『シルクロードと唐帝国』では冒頭部分にこうあります(14頁)。


「日本人の多くはシルクロードという言葉に惹かれ、唐帝国に憧れ、両者を重ねてロマンティックな幻想を抱きがちであるが、それはどうしてだろうか。(中略)。唐都・長安はユーラシア大陸を貫くシルクロードの東のターミナルとされてきたが、日本人はそれを勝手に博多・大阪・奈良・京都にまで伸ばして解釈してきた」


 ただ、それは全くの誤りではなく……。


「そしてそれは、あながちまちがっていないどころか、日本文化の源流の一つを、歴史に関心の薄い人々にさえ認識させる役割を果たしてきたのである」


 シルクロードという言葉の定義や概念、日本への伝播について学術的にはいろいろと論議されるところのようですが、鷲生としてはファンタジー小説書きとして、上記の「ロマンティックな幻想」「勝手に京都まで伸ばして解釈」「日本文化の源流」といったイメージに依拠して拙作「後宮出入りの女商人 四神国の妃と消えた護符」を書いております。


 少し話題が逸れますが……。

 森安孝夫さんはこの本の中で歴史学と歴史小説の違いについても述べています(42頁)。


「理科系的歴史学・文化系的歴史学・歴史小説」という項目があります。


 理科的というのは「原点史料に基づいて緻密に論理展開され、他人の検証に十分堪えうる」ものですが、歴史資料は「偶然残ったもの」で「必要な史料がないことが普通」なので、「推論」せざるを得ず「その推論に学問的両親を堅持するのが文化系的歴史学であり、責任をもたないのが歴史小説である」とのこと。


 森安孝夫さんはこう続けておられます。


「小説家が書く歴史ものがよく売れるのは、読みやすくて面白いからであろうが、あちこちに事実誤認や願望を含む曲解があっても、それに対して彼らは一切責任をとらない」


 森安孝夫さんは別の箇所でも歴史小説にお怒りです(186頁)。


「近年、巷にあふれる小説家によるいわゆる歴史物は、親切というかおせっかいというか、本当の歴史家なら余韻として残さざるを得ない部分に、まったくの想像でありもしないストーリーを『創造』し過ぎている。そうした現状を榎先生は『歴史の顔をした作り話の横行』であると批判しておられた」


 中華ファンタジーを書く鷲生はこの先生に怒られてしまう立場ということになるかもしれませんが、実は鷲生はこのご姿勢に共感するところが大きいです。


 アカデミックな歴史学と小説とは別物だと思っているからです。


 鷲生は全然勉強しない学生でしたが、一応大学は歴史学だったんですよ……。

 この分野をきちんと学びたければ、そりゃもう史資料を正確に読みこなすトレーニングを地道に積むことが求められます。

 歴史学の学者さん達ってホント偉いと思うんですよ。


 司馬遼太郎さんの愛読者だから日本の近現代史をやりたいとか、塩野七生さんに影響されて古代ローマ史をやりたいという学生さんがいつまでもその調子だと、教授方もお困りだろうなあと思います。


 で。

 歴史小説についても「歴史」を冠するからには、それでも史実にある程度制約されるかと思います。

 カクヨムでも「歴史・伝奇」 ジャンルでは 実在の人物 が登場することが必須のようです。

 実は鷲生は平安時代 をモチーフにした小説を書き、それを登録作品の少ない歴史・伝奇ジャンルに投稿しようとしたのですが(目立ちたいという下心でw)。この条件がネックで諦めました。

 で、数多の作品に埋もれる異世界ファンタジージャンルに(しぶしぶながら)登録したのです。


 しぶしぶだったとはいえ、異世界ファンタジーというものは必ずしも史実に縛られる必要はないと思っていますので、書き手としては肩の荷が軽くなった気がしたものです。

 そう、「ファンタジー」には「ファンタジー」の良さがあると思うんですよ。

 単純に自由度が高くて楽だという理由もありますし、その分、「面白い」物語を紡ぐことができるわけですし(森安孝夫さんの「小説家が書く歴史ものがよく売れるのは、読みやすくて面白いからであろうが」ですね)。


 ところで。

 ファンタジーならではの面白さを求め、歴史・伝奇ジャンルよりも史実からの自由度が高いと認識している鷲生がなぜ歴史の本を読んで史実を把握しようとしているのか(そしてその異同をいちいち書き記しているのか)。


 それは「面白さ」の基礎に「リアリティ」があり、その「リアル」を歴史学が明らかにして一般に供給しており、読み手様はそこから「リアル」なイメージを既にお持ちかこれからお持ちになるからです。他のフィクションだって史実をベースに作られますしね。


 いくら面白い小説でも、その世界が書き手の脳内にしかなければ、読み手様だって物語世界をリアリティをもってイメージできないです。


 ファンタジー小説でも、中華ものですという体裁をとった時点で、読み手様が中国史で得ていらっしゃるイメージがどのようなものか意識しなければなりません(「小説を面白くするために」です)。


 ですから、鷲生が不勉強なところを「こういうテーマならこんな本がありますよ」とご教示いただけたり、同じ本を読んでも鷲生の受け取り方に偏りがあれば「ここはこういう風に受け取るべきでは?」とご指摘下さるのは大変ありがたいんです。


 ところが。

 中には困惑するコメントを頂くこともあります。

 歴史警察というのはこういう感じの方を言うんでしょうか。

 態度が高圧的であったり、主語がやたら大きかったり、主観的だったり……。

(「中国の宗教は○○だ」「則天武后は悪女だ」とかですね)。

 何より困るのは、出典を示さずに「ソース俺」でこれらの主張を繰り広げられるところです。


 森安孝夫さんの文言を再度引用いたします。森安さんが最善だと思っておられる理科的歴史学では「原点史料に基づいて緻密に論理展開され、他人の検証に十分堪えうる」ことが大事です。


 鷲生という中国史に詳しくなささそうな字書きに「中国の歴史」を教えてやろうとされる方。そのお気持ちは有り難く受け取りますが、「歴史」について語るのならば、「原点史料」やそれに基づいて責任をもって世に出された歴史家の書籍を挙げることもお願いしたく……。


 カクヨムに集まっていらっしゃる方なので、歴史家というより「歴史小説家」なのだと思いますが、「責任を持たない」態度は歴史家からはこのように批判されるものだと思います。


 とはいえ、歴史学には歴史学の尊さがあるように、物語には物語の尊さがあると思っています。


 ファンタジー小説が史実を参考にするのは「リアリティ」を持たせて「面白くするためだ」と述べました。

 この目的に合致しなければ、史実として確認されたことでも採用しないことはあります。


 歴史的事実から離れてはいけないのなら、竹取物語や源氏物語はどうなるのか。


 中島敦『山月記』の有名過ぎるほど有名な「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」というフレーズが近代を生きる私たちの心にどうしてこうも刺さるのか。


 小野不由美さんの『十二国記』のキャラたちにハッと大事なことを気づかされたような気がしたり励まされたりするのは何故なのか。


 もっと軽い漫画ですがすが、疲れて眠る夜にボーっと『狼陛下の花嫁』を読み返したくなるのはどうしてかw


 紫式部の物語論として有名な言葉があります。

「『日本紀』などは、ただかたそばぞかし。これらにこそ道々しく詳しきことはあらめ」

 正しい歴史書では扱えないけれど、人間の精神活動にとって重要な主題を、物語は取り扱うことができるのでしょう。


 歴史学の恩恵を有難く受け取り、物語を面白くするために勉強をし、一方で責任も持てないのに「これが歴史だ」などと図々しい主張は厳に慎み、人様が読んで「面白い」ものを書く。

 そのなかに「道々しく詳しきこと」を盛り込めれば……歴史学とは違う物語ならではの尊さを持ちえるのではないでしょうか。


 Web小説を趣味で書いているだけの鷲生の手には余る大きな目標ですが、式部パイセンを見習って頑張りたいものだと願っています。

(鷲生は京都住まいで、ときどき地下鉄北大路駅に行ったときにはよくお墓参りに行くので、とても身近な大作家様なんですよw)。

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