後編

 五年ほど前。私は合コンで知り合った人と身体だけの関係――つまりはセックスフレンドになったことがある。


 しかし友人たちには相手がセックスフレンドだとあえて伝えず、彼氏が出来たなどと嘘を言って回っていた。


 それは私もみんなと同じよ、普通に幸せなのよとアピールするためだった。


 嘘の恋愛。嘘の愛情。嘘の幸せ。


 私は心のグラスに、スレスレまで嘘を注いでいった。


 自分さえ黙せれば、たとえそれが嘘でも本物のように見える。


 周囲がそんな私の行動を見て白けていることは知っていた。けれど、それでも良かった。


 心のグラスを満たしさえしてくれればそれで。


 私に本物なんて似合わない。嘘くらいがちょうどいいのだと。


 そして、その人と身体を重ねるたびに私はいろんなことを忘れられた。


 弟を殺した過去も、当たり前に生きたいという気持ちも全部全部。


 私にとっての性行為は、自分を偽るものだ。

 そこに、愛なんてなかった。




 深夜のカフェ以来、友達とは会っていなかった。


 たまに会いたい旨のラインは来るものの、のらりくらりと躱している。


「泊まりで旅行なんて行ったら、絶対そういうことになるじゃん」


 友達へのラインを返し、ブラックアウトさせたスマートフォンの画面を睨みながら呟く。


 今の距離感がちょうどいいのに――


 身体を重ねれば、もう戻れなくなる。


 友達を嘘の対象と認識し、その先の関係がすべて嘘になると思った。


 本当はその身体に触れたいし、愛情を全身で受け止めたい。


 でも――それは駄目だ。


 そうなれば、私も彼も破滅しかなくなる。


 大切な存在を失うことが、こんなにも恐ろしいなんて。


「私だって会いたいよ。でも、ダメなの。彼だけは、嘘であってほしくない」


 小鳥の鳴き声が聞こえた。どうやら友達からラインが返ってきたらしい。


『遠出じゃなくてもいい。近くのカフェでもいいから、顔が見たい』


「なんで。どうしてそんなことを言ってくれるの」


 スマートフォンを持つ手が震える。


 私も会いたい――素直にそう言えたら良かったのに。


 でも、それはダメだ。


 なかなか言うことを聞かない震える指先で、私は彼に返信する。


『私があえて避けてるのを分かってるのに、どうして? 私となんて会う価値ないよ』


 こんなことを言えば、煩わしくて重たい女だと思われるかもしれない。バカだ。距離を保ちたいって思っているのに。


 また小鳥の鳴き声がした。彼からの返信だった。


『こんなに会いたいって思う相手に、価値がないなんて思わないよ』


 頬をするりと滑り落ちるものがあった。


 温かいそれが涙と気づいたのは、友達に返信した後だった。




 数日後の午後九時すぎ。私は近所にあるカフェの前に来ていた。


 ログハウスのような見た目をしているそのカフェは、地元民に愛されているチェーン店の一つだ。


 扉を開けると、カラカラとドアベルが音を立てる。店内には人気アニメの主題歌が、申し訳程度に流れていた。


 中へ進みキョロキョロと見渡すと、窓ガラス沿いの右奥に友人の姿を見つけた。


 白のロゴ入りTシャツ。左手には黒の腕時計。いつもと似たような服装だ。


 友人の元に歩み寄ると、友人は私の存在に気づいて顔を上げた。


「久しぶり」


 友人はそう言って柔らかく微笑む。


 その顔を見て、彼は本当に私と会いたいと思ってくれていたことを察した。


「うん……久しぶり」鼻の奥がツンとするのを堪えながら、私はそう答えた。


「来てくれないと思った」


「ごめん」


「謝んないで。ほら、座りなよ」


 友人は手のひらをスッと自分の正面のイスに向ける。


「うん」私はそう頷きながら、イスにかけた。


 その後互いにブレンドコーヒーを注文し、それが席に届いてからはいつもの時間だった。


 仕事であったことや、日々の他愛ない出来事。互いの趣味の話や他の友達と行った場所など。

 

 そんな当たり前の会話を、以前と変わらずにできていた。


 彼と過ごす時は、いつも時間があっという間だ。


 この時間がずっと続けばいいのに――。


 そんなことを思った時、胸の奥がチクリと傷んだ。


 あの時のガラスの破片が、私に警告する。

 お前に人並みの幸せなんて似合わないぞ、と。


「どうしたの?」


 急に黙った私のことを心配したのか、友人は覗き込むようにそう言った。


 素直に喜びたい。でも、それはダメなんだって――私は必死に自分の心へそう言い聞かせた。


 こんな私のことで、彼を悩ませたらダメだ。きっと彼にはもっと相応しい人がいて、これから出会えるかもしれないのに、私がその機会を奪っている。


 彼の幸せを願うなら、ここで終わりにしなくてはならない――。


「今日でもう、終わりに、しない?」


「えっ?」


「会うの、やめようよ」


「なんで?」


「なんでも」


 喉の渇きを潤そうと、コーヒーカップを手に取る。しかしすでにそれは空で、私はコーヒーカップを一度戻し、隣にあった水の入ったグラスを手に取った。


 グラスを覆う冷たい水滴が、私の心まで冷やしてしまうようだった。体の強張りを感じつつも、私はグラスを口につけ、傾ける。


 私がグラスをテーブルに戻すと同時に、友人は口を開いた。


「俺は嫌だ。また会いたい。何度だって会いたい」


「だから、それはダメなんだって」と私は少しだけ荒い口調で答える。


 しかし友人はそんなことはお構いなしにと続けた。


「なんで? 俺のこと、嫌いになったの?」


 そんなこと、ないじゃん。好きだよ。好きに決まってる。でも、それは言えないのっ。


 唇を噛み締めながら、私は無言で俯いた。


「そう、なのか」


 目の前にいる友人の落ち込んでいる姿が目に浮かぶ。


 これでいいんだ。そう言い聞かせながらも、若干の罪悪感が私の中で広がった。


 彼はいつもこんな私に――人殺しの私にだって親切にしてくれた。もちろんそれは、私が人殺しであることを知らないからだろうけど。


 それでも、親切にしてくれたことも、互いに笑い合ったことも事実で真実だ。


 だったら最後くらい、私も真実を伝えるべきなのかもしれない。


 私がどれだけ危ない人間か。

 普通の人とは違う生き物なのかを。


「……嫌いじゃない、よ」


「本当に?」


「うん。だから大切な友達のあなたに、伝えたいことがあるんだけど。いいかな?」


「もちろん。なんでも聞くよ」


 友達はそう言いながら大袈裟に頷く。


 どうせもうこれで終わりなんだ。

 大丈夫。ちゃんと話せるよ。


 すぅと小さく息を吐き、私は自分が弟を殺したことを彼に打ち明けた。


「――だからあなたとはもう終わりにしなきゃいけない……ってこんな話を聞いた今じゃ、そっちから願い下げか」


 私がそう言って小さく笑っている間も、友達は何かを考えるようにしたまま、一点を見つめていた。


「じゃあ、私はこれで。元気でね」


 コーヒー代をテーブルに置き、私は立ち上がる。彼が私の行動に気がついたのは私がもう彼に背を向けてからだった。


 掛けられた声に振り返らず、私はスタスタと店の外へ出る。そして、来た時と同じ道で家へと向かって歩き出した。


「これでよかった。これでよかったんだよ」


 歩きながらそう言い聞かせるたび、視界はぼやけ、頬が濡れていった。


「私に、人並みの幸せなんて……私なんか、幸せを求めちゃ、いけない。愛を欲しては、いけないんだ」


 周囲が暗くてよかった。誰にも、こんな顔を見られずに済む。


 拭っても拭っても溢れてくる目からの雫に、私はそんなことを思った。


 私は一人だ。これからは――いや。これからも。


 両親にも友達にも頼らず、一人でこの人生を歩いていかなければならない。私はそうでなければならないんだ。


 深い水の中に沈んでいくような感覚がした。

 息苦しく、視界は不良でまっすぐ立つこともままならない。


 助けを求めたって、誰も私のことなんて――。


 その時、視界いっぱいに光が広がった。

 ふと顔を上げたと同時に、すぐ隣に一台の車が停まる。


 トヨタの黒いランドクルーザー。友達の車だと、一目でわかった。


 助手席の窓がゆっくりと開き、友達は言った。「乗って」


「なんで」


「いいから。後ろ、車が来ちゃう」


 友達に急かされ、私は渋々その車に乗り込む。


 シートベルトを締めると、車はすぐに発進した。


 それから私たちは無言だった。


 どうして私を追いかけてきたのかも、車に乗せたのかも友達は話してくれない。


 彼はただ無言で車を走らせ、私の家を通り過ぎ、丘の上にある総合公園の駐車場で停車したのだった。


 それからふと、車の窓ガラスから外を見つめる。


 休日の昼間に親子連れで埋まっている駐車場には私たち以外の車はなく、一定間隔で配置されている街灯は誰に気づかれるでもなく輝いたままで、虚しさをより際立たせていた。


 その光景に、私たちだけが終わった世界に取り残されてしまったように感じる。


「さっきのこと、なんだけど」友達は徐に口を開いた。


「……うん」


「正直、すごく驚いた。君にそんな過去があったなんて」


 そりゃそうだ。人殺しをしたなんて聞いて、楽しい気持ちになるはずなんてない。


 彼は拒絶するだろうか。

 いや。当然、そうするだろう。

 だからもう、私の答えは決まっている。


「――じゃあ」私が口を開いた時、彼の言葉と重なった。


「俺は君が好きだ」


 友達からの思いがけない言葉に、私は目を見開いていた。


「えっ?」


「俺は君が好きなんだ。たしかに過去の話を聞いて驚いたけれど、それでも君を手放したくないと思った。そばにいたい、支えたいって。俺じゃ頼らないかもしれない。でも、少しだけでいい。君のその抱えているものを俺にも分けてくれないか?」


「でも。私は……」


 人殺しだ。犯罪者だ。

 両親は弟の死を事故として解決したけれど、それでも私が弟を殺したという事実は変わらない。


「犯してしまったその罪を君はちゃんと悔いている。そして今日までずっと、そのことで苦しんできたはずだ。だからこれ以上、自分を追い詰めなくてもいいんだよ。これからは俺も一緒に背負っていくから」


「そんなことをしたら、あなたが苦しくなる。きっと不幸になるよ」


「じゃあその不幸の中に、小さな幸せを君と見つける。俺はそうしたいと思ってる」


 ひび割れて中身の抜けてしまったグラスにまた、新たな水が注がれる。


 それはどこまでも透き通っていて、温かく優しいものだった。


 そして容量を超えたその水は、グラスから溢れ出る。


 すると、目からポロポロと温かいものがこぼれ落ちた。


「ありがとう……ありがとうね」


 窓ガラスについた水滴のように、涙は頬を伝い落ちていく。いくら拭っても拭っても、その涙は留まることを知らなかった。


 このままでは身体が干からびてしまうかもしれない。そう思うくらいに、私は頬を濡らしていた。


 しかし、今はそれでもいい。

 だって、心のグラスは満たされたのだから。


 いつの間にか彼は私の右手を取り、いつものようにアームレストの上で握っていた。私はそんな彼の左手を、しっかりと握り返す。


 ふと顔を上げ、窓ガラスを見つめた。

 そこに映ったのはあの日の弟ではなく、私とその隣にいる彼だった。


 今度、二人でお墓参りに行こう。そして、ちゃんとあの時のことを謝りたい。


 許してもらえないかもしれないけれど、それでも私は大丈夫だよ。だって、彼がここにいてくれるから。


 私は隣にいる彼に微笑んだ。

 すると彼も微笑み返してくれる。


「私も、あなたが好きです」



 ***



 目を開けると、いつの間にか私は無色透明な水の中にいた。


 そして、右の手には彼の温もりをたしかに感じている。


 彼からの想いで満たされたこのグラスの中は、とても居心地が良かった。


 あんなに恐れていた自分がバカらしく思うくらいに。


 この透明な水がいつ濁るかも分からないし、ヒビが入って抜け出てしまうかも分からない。けれど、しばらくはこの場所で生きたい。


 彼の言葉を、想いを――信じたいから。



(了)

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心のグラス しらす丼 @sirasuDON20201220

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