心のグラス

しらす丼

前編

 私はいま、透明な細いガラスの筒に閉じ込められている。


 両手を横に広げられるほどの幅があり、ジャンプしても届きそうにない高さのガラスの筒だ。


 たぶん小洒落たカフェで出される、水の入ったグラスのような形をしたものなのだろう。


 視線の先。透明なガラスの向こうには、幸せそうな顔をする一組の恋人たちの姿があった。


 彼らは身体を寄せて愛を囁き合い、互いの指を絡めるように握って背中を向け去っていく。


 その姿を見ながら、私は自分の両手を開閉し、この指には誰も触れてくれないことを知る。


 強く握った拳は震え出し、くい込んだ爪がなんだか痛かった。


 後ろから突として聞こえた、楽しそうな笑い声。私はその声に反射的に振り返る。


 そこには幸せを絵に描いたような親子の姿があった。


 繋がれた手がブランコのように前後に揺れ、夕食は何にしようかなどと話している。


 そしてその二人は私の姿なんて目に入っていないように、私のそばを横切っていった。


 目の前のガラスに両手をつき、去っていくその二組の背中たちを見つめる。


 すると、腹の奥で真っ黒な何かが蠢いた。


 ――なんだ。なんだこれは。


 ガラスを触れる手に自然と力が入る。

 やはりガラスが割れることはない。


 右手の拳でガラスを叩くと、何かのスイッチが入ったのか足元から水が湧き出てきた。


 それはほんのり温もりのある、赤黒くて鉄臭い水だった。


 ――誰かっ! 誰か助けてっ!!


 その叫びは誰の耳にも届いていないのか、去っていく背中は誰一人としてこちらを見向きもしない。


 ――みんな自分の幸せに必死なんだ。他人の不幸になんて、かまっている場合じゃないよね。


 無償の愛なんてないし、平等な幸せだってない。みんながみんな、それを欲するために努力して手に入れている。


 私は、その努力をしてきただろうか――?


 細い筒状になっているグラスの中は、あっという間に赤黒い水で満たされた。


 視界のすべてが赤黒くなる。口から出る水泡が、グラスの上へと向かっていった。


 息ができない。私はここで死ぬのかな。


 なんとか口元を押さえ、少しでも酸素の温存を試みる。


 私が死んだら誰か泣いてくれるかな。例えばお父さんやお母さん……いや、あの人たちは泣いてくれないよね。


 じゃあ、あの友達は?

 やっぱり彼はダメ。嘘の私に付き合わせたくはない。


 幸せ、愛情、当たり前の人生。

 それは私が得られなかったものたち。


 本当は手にしたかったはずなのに、自ら拒んで遠ざけたものたちだった。


 愛されるのが怖かった。

 幸せを想像することが怖かった。

 人並みの幸せを手にしようとすることは、ずっと罪だと感じていた。


 しかし、もうそんなことを考えなくていいのかもしれない。


 並々と赤黒い水が注がれたグラスの中で、私はそっと目を閉じる。


 そう。私にはこんな最期がお似合いだ。



 ***



 深夜のカフェ。私はいつもの友達と向き合っていた。


 窓ガラスから外を眺めると、煌々と照らされるアパート群が見える。


 あの一つ一つに笑顔の花が咲いているのだと思うと、なんだか微笑ましく感じられた。


「ぼんやりしてるね」


 友達は私の横顔にそんな言葉をかける。


「そうかな」


「うん。ずっと窓の外ばかり見てる。そろそろ俺のことも見てほしい。もちろん今だけじゃなく、これからもだけどね」


 そう言ってニコッと笑う友達を見て、胸に突き刺さる何かがあった。冷たく鋭いそれは、ガラスの破片か何かだろうか。


 友達が私に対して友達以上の好意を持っていることは、少し前から気づいていた。


 しかし、私はそれ以上の関係に進むことを、まだ認められずにいる。


「見てたよ。これまでも、ずっと」


 私は友達の双眸を見つめながら答えた。


「そういう事じゃなくて。俺のことを男としてっていうか」


 今日はやけに素直だなと思った。

 しかし、そんなことで私の想いは変わらない。


「男だとは思っているよ。男友達」


 友達は深いため息をつき、トイレと言って席を立った。


 私はまた、窓ガラスの外へ目を向ける。


 友達からの好意は正直うれしかった。

 けれど、その好意をまっすぐに受け止められるほど私の器は大きくない。


 きっと受け止めてしまったら、私は破滅する。彼も破滅する。そういう未来が易々と想像できた。


「普通でいることが、こんなにも難しいなんて」


 ため息が一つ溢れる。


「あ……また」


 ふと気がつくと窓ガラスの向こうに、小さな子供が見えた。三歳くらいの男の子だった。


 見覚えのある顔。

 私が殺したあの子と同じ顔。


 頭から血を流し、ニヤリと笑いながらこちらを見ている。


「ねえ。やっぱり私のこと、恨んでる?」


 しかし私の問いに、あの子が答えることはなかった。


 私は小さく息を漏らし、今もまだ窓ガラスの向こうで笑っているあの子を見つめる。


「なんで私、あんなことを……」


 それはもう二十年も前のことだ。

 私が六歳で弟が三歳。そのとき私は、その弟を殺した。


 あの日は確か……お父さんはいつものように仕事、お母さんは買い物で外出していて、家には私と弟の二人きりだった。


 私は眠っていた弟を無理やり起こし、階段の前に立たせてから、その背中を思い切り――突き飛ばした。


 壁や階段にゴツゴツとぶつかりながら落ちていく弟。私はそれを、黙って見つめていた。


 この時はまだ、この先にどんな未来が待っているかなんて考えもせず、ただ無言でじっと見つめていただけだったのだ。


 そして最後に角で頭を強く打った弟は、階段の下でピクリとも動かなかった。それがトドメになったのだろう。それから二度と弟が起き上がることはなかった。


 広がる血溜まりで横たわったままの弟を見ながら、思わず笑みがこぼれる。


 これで私も見てもらえる。

 お父さんもお母さんも、私をちゃんと見てくれるはずなんだ、と。


 しかし、なぜか心は満たされなかった。

 少量でも入っていたはずの中身が完全に抜け、干からびてしまっているようだった。


 その後に帰宅したお母さんは、弟の姿を見て自己嫌悪に陥ると、激しく取り乱し少しずつ壊れていった。


 そしてお父さんはそんなお母さんにつきっきりになり、以前よりもずっと私と両親との時間は減ってしまったのである。


 私はただ、愛が欲しかった。

 弟が小さくて手がかかることくらいわかっていたのに、それでも弟ばかり可愛がる両親に振り向いてほしかった。私のことも見てほしかっただけなのだ。


 しかし、もう過去は取り戻せない。


 壊れた家族。壊れた日常。

 私はそれをすべて、嘘で塗り固めることにした。


 ――そう。私は人殺し。


 だからこんな私が、人並みの幸せを、愛情を手にする資格なんてあるわけがない。




 口の中の枯れを潤そうと、テーブルに置かれているグラスに手を伸ばす。


 その全身にかいている汗に触れ、指先がヒヤリとした。


 軽い力で持ち上げた途端、グラスはするりと私の指を抜け、バランスを崩してテーブルに倒れ込む。


 あ、と声を出した時にはもう遅かった。グラスに注がれていた水は、グラスの口の中心から広がるように溜まりをつくる。


 ぐったりとして動かないあの日の弟と、そこから広がる赤黒い水溜まり。その光景と重なった。


 私は、何をやっているんだろう――。


 広がり続ける水溜まりを見つめながら、そんなことを思った。


「えっ? どうしたの?」


 戻ってきた友達は、テーブルに広がったままの水溜まりを見ながら驚嘆する。そして、


「すみませーん! 布巾か何かもらっていいですかー?」


 店の厨房に向かって声を上げた。


 それからすぐに店員がやってきて、布巾を何枚かと新しいグラスをテーブルに置く。


「ありがとうございます」


 友達は笑顔で店員に伝え、持ってきてもらった布巾でテーブルを拭いた。


 私はその一部始終を、ただ見ていることしかできなかった。


 自分がやらなければならないこととわかっていつつも、どうしても動くことができなかったのだ。


「本当に大丈夫? 体調、悪い?」


 友達はテーブルを拭きながら、心配そうに言う。もっと怒ってくれてもいいのに。


「大丈夫。本当に大丈夫だから」


「それなら、いいけどさ」


 そして友達がテーブルを拭いているあいだ、私は新しいグラスに入った水を舐めるように飲んでいた。




 カフェを出て、友達の車に乗った。


 トヨタの黒いランドクルーザー。二人で乗るには広すぎる車だった。


 私は無意識だけど、いつもの癖でアームレストに右手を置く。それを知っている友達は、運転前に私の手を必ず握った。


 しかし私がそれに応えることは無い。一方的に握られ、離されるまでの間中ずっと。


 車の中は訪れた沈黙が支配していた。

 こういう時、沈黙の束縛から先に逃れた方が大抵口を開くことになっている。


「帰ろっか」友達は言った。


「うん」


 私がそう答えると、友達は握っていた手を離し、無言で車を動かす。


 深夜の国道一号線はとても空いていた。

 時折スピード違反のバイクを見かけるが、それ以外の交通量は皆無に等しい。


 窓の外を見ると、その先に眠ってしまった街があった。


 幸せや愛への恐れを知らない人々が、あの一つ一つの屋根の下で綺麗に眠っている。そう思うたび、腹の奥で黒い何かが静かに蠢くのを感じた。


「今度はもっと遠出しようよ」


 それは結露したグラスの底から垂れる、水滴のような言い方だった。


「え?」


 振り向いて聞き返すと、

「遠出。県外とか、泊まりでさ」と友達は照れくさそうに言う。


「泊まり……」


「温泉行きたいっていつも言ってるだろ? だから、どうかなって」


 言葉で無理なら、身体で落とせとでも思っているのだろうか。そんなひねくれた考え方をしてしまう。


「うん。そのうち、ね」


「そのうちじゃなくて、今度な。今度、遊ぶ時に行こう」


 どこかでピシリと音がした。


 ああこれはグラスにヒビが入った音だ、と私はすぐに察した。


 入ったヒビの隙間から、注がれていたものが徐々に流れ出る。


「……考えとく」


「うん」


 友達は嬉しそうに笑っていた。


 そんな横顔を見ていたくなくて、私はまた窓の外に目を向ける。そして、流れていく外の景色を見ながら思った。


 どんなものもいつかは過ぎていく。この時間も、この人と笑った時も。


 そう。過ぎ去った時はもう取り戻せないのだと。

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