1 雨の里

 うっそうとした木々に囲まれながら、俗世と離れひっそりと生きる一族がいた。その名も雨の一族。


彼らは神代の昔、竜神と交わした盟約により雨を降らす不思議な力を得た。


彼らが行く先々では必ず雨が降る。その雨は干からびた大地を癒し、枯れた草木を蘇らせ、人々の心にまで潤いをもたらした。

彼らは崇め奉られ、神のごとく崇拝された。


けれど、その栄光も長くは続かなかった。根源の光が強ければ強いほど、その光が生み出す影は色濃くなってゆくように、少しの小さな綻びから歯車が狂いはじめた。


今では遠い過去のこと、炉端で語られる昔語りである。


それから彼らは大河を挟んだ向こう側へと消えていった。その国境はいつ何時も雨のベールに包まれていて、誰も立ち入ることは許されなかった。




 雨の里の首都である水明には平安風な様式をした厳かで歴史ある御社が建っている。


その真ん中には黄昏を溶かしたような装束に身を包み、目元を白い布で覆っている一人の女が鎮座していた。


背筋をピンと伸ばし身じろぎ一つせず、深い藍色の髪を束ねたその姿には毅然とした美しさがある。色白で儚い風貌ながらもどこか芯の強さを感じさせる独特な雰囲気を醸し出していた。


女の周囲には同じような装束に身を包み、竜のお面をつけた者たちが楽器を奏でている。


縦笛を吹く者、琴を弾く者、琵琶を奏で鼓を打つ者、それぞれの音が溶け合い古風で雅やかな演奏になる。


よく見ると、一人一人微妙に竜の顔が異なる。喜怒哀楽その他にも形容できぬ複雑な表情をしていた。一つ共通していることといえば、それはどの面も雨の模様が描かれていることだった。


 社の前は、ほんの少しでも奇跡の技にあやかりたいという者でごった返していて、老若男女がまだかまだかと待ちわびる。

 

すると何の前触れもなく女がすく、と立ち上がった。その瞬間降っていた雨は止み、にぎやかに騒いでいた人々は一瞬で静まりかえる。時が止まったかのような静寂が訪れた。


いよいよか、とある者は無意識に手汗を握り、またある者は固唾を飲んで見守った。社一帯が言いようのない緊張感に包まれる中、社のわきから女の元に三方を持った黒子が軽やかな足取りで走る。その上には一尺ほどの横笛が置いてあった。


木目が雫のようであり、変わった柄をしているが重厚感あふれる笛である。


女は両手で横笛を受け取り、一度ゆっくりと頭上に掲げ、それから10本の指で穴を埋める。流れるような動作で口元に運び、一度深く吐いて、吸って、そして音を奏でだす。


 その瞬間人々は記憶の彼方へと誘われ、魂に刻まれし遠い過去を走馬灯のように駆け巡る。


その壮大な時を思い、莫大な感情を処理しきれず、知らずと涙を零す。


それは、とてもこの世のものとは思えぬほど至福に満ちた優しい音色だった。太古の昔からその身の内に存在していた、誰もが持っている帰りたかった心のふるさと。


体の奥底、誰も触れられぬ繊細で神聖な場所に慈悲のごとく降り注ぐ、慈しむような雨。


神をも奪えぬこの一瞬を、心臓が止めるその瞬間まで覚えていられるように、心の奥底に確かに刻んで抱きしめる。



ポツ、ポツ、ポツ……ザザザザァー



おぉ、とあたりから驚嘆の声が上がった。女の笛の音に答えるように、雨が降り出したのだ。


温かい雨に包まれた人々の視線は自然と一人の女に注がれる。視線の先にいる彼女は薄っすらと微笑み凛とした、透き通るような声でこう呟いた。


「皆様に、雨のご加護がありますように」


温かいそのまなざしは、人々に理想の母親像を思わせる。


それと同時に絶対不可侵の女神であり、超越した神のようなそんな感想を抱かせた。そして彼らは本能的に理解する。


これが雨姫様というものなのか、と―



     ▲ ▽ ▲ ▽ ▲



 雨の里の者は総じて皆雨を降らすことが出来る。雨を降らすことを人々は祈雨、雨乞いまたは雨の儀式と呼んだ。


一人一人一生涯に一本、自身の名前が彫られた雨笛と呼ばれる横笛を与えられそれを奏で雨を降らせる。


皆半年ほどの修行を積み、早い者は5歳ほどから雨を降らせるようになるという。


能力の大差はあれど、雨の里の者ならば誰でもできるとされていた。


ただ、たいていの者は降らせることはできても止ますことはできない。同じような雨を同じように降らすだけであった。


 けれど直系の一族だけは例外である。彼らは強い力を意のままに操れる。


その中で最も竜神に愛され、最高位の権力を誇り里を統治する女は「雨姫様」と呼ばれ、人々から崇拝と尊敬のまなざしを向けられていた。


雨姫は代々その一族の直系の女性がなる。そのため雨姫は祈雨をする以外にも、必ず女児を産まなければならないというお役目があった。



「ゴホッゴホッ…うっ…」


「じうさま?」


先ほどまで笛を吹き雨の儀式を行っていた女は、裏方に入ると突然せき込みすぐ床に座り込む。


「じうさま!」


慈雨と呼ばれた女と同じような服を身にまとった幼い少年は、すぐに異変に気付いた。


「母上!大丈夫ですか?」


その声を聞きつけて肌の色が驚くほど白い儚い印象を与える青年も急いで駆け寄る。他の者が駆け付ける間に母親に上着を着せながらその背中を摩っていた。


「ご無理をなさるからです。やはり新年の儀式はお止めになった方がよかったのでは?」


「じうさま…だいじょうぶですか?」


「ありがとう、白雨、雨虎(うこ)。もう大丈夫ですよ、治まりましたから」


それでもなお苦しそうな表情をしていたが、無理やり微笑んで息子と幼い少年を安心させようとする。彼女こそ、全ての生物を慈しむ雨「慈雨」の名を冠した、今代の雨姫その人である。


慈雨は息子の手を借りながら何とか立ち上がると、少し屈んで雨虎と言う少年と向き合いその薄い水色の頭を撫でながら、まるで本当の母のように微笑んだ。


「雨虎、先ほどの雨の儀式ではご苦労様でした。あなたのお陰で今年も無事雨の里は雨の恩恵を受けられます。―疲れたでしょう?お部屋で先に休んでいて」


雨虎は慈雨の聖獣であった。今は人間の姿をしているが、その名の通り虎になることもできる。


聖獣とは雨姫が誕生し神滝へ名を貰いに血を落とすと、滝の中から表れ出るとされていて、雨姫様であることの証のようなものであった。


その生態は全くの未知であり、人でありながらと人成らざるものである。


雨虎が先刻慈雨の傍らで喜びを表した竜の面を被り、横笛を吹いていたため慈雨は労いの言葉をかけたのだ。


慈雨が女官に雨虎を部屋まで連れて行くように指示すると、女官は優しく雨虎を先に促す。


幼い聖獣は何度もその背を振り返り、心配そうな表情をしていたが大人しく女官と共に去って行った。


その背が見えなくなるまで見送り、二人残されたのは慈雨と白雨だけとなった。


すると慈雨は唐突に白雨の右頬に手を添え灌漑深そうに目を細める。


「あなたも、もうずいぶんと大きくなりましたね。昔はあんなに幼かったのに」


「私も今年で22ですので、あの頃に比べたらそりゃあ成長しましたよ。いつまでも子供のままというわけにはいきませんから」


突然のことに驚きを隠せない白雨は少し照れた品のよい笑顔を見せる。その顔は母親によく似ていた。




それから二人はゆっくりと並んで歩き出した。


「そういえばもうすぐ小雨の誕生日ですね?」


慈雨は先ほど幼い聖獣の前では言い出せなかった話題について話を振った。


「はい。―小雨も今年で十五歳、立派な成人です」


雨の里では男女ともに十五歳で成人を迎える。平均寿命が60歳と短いからだ。

たくさんお祝いしてあげましょうと笑う慈雨の傍らで白雨は顔を曇らせる。


「…母上、代々次期雨姫様は十五歳の誕生日に皆の前で祈雨の儀式を行います。そこで雨を降らせられれば雨姫様と正式に里に認めてもらえるしきたりです」


「えぇ…」

「―小雨の調子はどうですか?」


そう問われ白雨は首を横に振る。

「ダメです。昨日も祈雨の練習をしておりましたが、まだ雨を降らせられません。…雨笛はちゃんと吹けていますし音も申し分ないのに、いつまでたっても雨だけが降らない…」


「……そう」


悔しそうに顔を歪める白雨の傍らで、慈雨は感情の抜け落ちたような表情をし、そう小さく呟いた。


「でも、そんなに焦ることはありませんよ。もし仮にそこでは雨を降らせられなくても私が引退する前にできるようになればいいんですから」


その不安を取り除くように敢えて明るい声でそう言うと、白雨はかえって不安を煽られる。


「母上、そんな悠長なこと言っていられません。小雨には一日も早く雨を降らせられるようになってもらわねば」


自然と握り拳に力が入る。


「いくら直系とはいえ雨姫様は里の合意無くしては成れないのです。このまま儀式の日を迎えれば小雨は雨姫様と認めてもらえないでしょう」


まるで慈雨に心配の気配が感じられないため、つい怒っているような言い方になってしまう。


「それではあの子に対する風当たりはますます強まるばかり。正直見ていられません」


悲痛そうな白雨を横目に、けれども慈雨は淡々と言い放つ。


「大丈夫よ。―あの子は、強い」

何かを確信しているようなその横顔に白雨は違和感を禁じ得なかった。




 






 

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