第2話 バーチャル・アプリ

 あすなを相手にしていると、どこか怖い部分も感じながら別れることをしなかったのは、綾香にとって自分から声を掛けた最初の人である。今までは人に声を掛けられることはあった。そんな時はすぐに相手に対して恐怖を感じた綾香の方で、すぐにブロックしていたことから、

――自分に声を掛けてくる相手というのは、何か打算的なところがあるか、恐怖を醸し出している人しかいないんだ――

 と思うようになっていた。

 だから、綾香は自分を利用しようとしている人には敏感になっていた。といってもそのほとんどは、暗くてまわりに友達もいない綾香と仲良くしているところをまわりに見せつけ、自分はどんな相手にも優しいというポーズを示し、さらに綾香に対しては、友達になってあげたという上から目線で見ることができるという考えからであった。

 そんな浅はかな考えは、綾香のようにすぐに自分をブロックしてしまうことで身を守ってきた相手には通用しない。誰よりも敏感な相手に対してのこの仕打ちは、綾香が見ても、いや綾香以外の人がまわりから見ても、いかにもわざとらしいという思いを抱かせるに違いなかった。

 だから綾香は自分に声を掛けてくる人をほとんど信用していない。それは学校の先生にしても同じだった。

――どうせ自分の保身のために、私のような生徒でもどうにかしないといけないという義務感でしか話をしてこないんだ――

 という思いが前提にある以上、綾香の心を開かせるのは先生では無理だった。

 ひいては、先生を見ていると、大人は皆同じにしか見えてこない。どんどん視野が狭くなってくるのだが、綾香はそれでもいいと思った。

「信用を寄せていた人に裏切られる」

 そんな思いをするくらいなら、最初から信用などしないに越したことはないからだ。

 あすなに声を掛けたのは綾香の方だった。あすなはいつも一人でいることが多く、他の人から見れば、あすなも綾香も一人でいるという意味では、同じ部類の人種に見えたことだろう。

 決して近い存在ではない。真ん中に大きな輪があるとすれば、二人は輪の反対側にいて、お互いの存在すら意識することはないのかも知れない。

「石ころのような存在」

 あすなが、以前に読んだマンガの未来アイテムがまた思い出される。

 あすなの方では確かに綾香が見えていたはずなのに、存在を意識することはなかった。

「眼中にない」

 という言葉があるが、それ以前の問題である。

 眼中にはあるのだが、存在を意識することはない。つまり、綾香の存在が自分に何ら影響を与えることのないということである。

――ひょっとして、自分に影響を与えるということだけは意識していたのかも知れないわ――

 と後になってであるが、あすなは考えた。

 誰かを石ころのような存在だという意識を持たないということは、見えているのに意識していない場合、その残像が自分に与えるものが何もないことになる。だが、何か残像に値するものがあるとすれば。自分に影響を与えることがないという事実を認識していると思えば、自分の中で納得できる気がした。

 綾香はそんなあすなの存在を、綾香が石ころのような存在だと思っていたとすれば、

「何か自分に影響を与えてくれる人」

 という意識があったようだ。

 これはあすなが思っている感覚とまったく正反対である。むしろ綾香の方が普通と言われることであり、あすなの感覚の方が、普通ではないと言えるのではないだろうか。そのことを綾香は分かっているつもりだった。

 綾香はあすなのことが徐々に気になるようになっていた。一気に気になったわけではない。元々あすなのことが見えていなかったからだ。

 これもあすなが綾香のことを見て、

「見えているのに意識しない」

 というのと正反対である。

 綾香は、あすなのことが気になりだしたのは、あすなの視線を感じたからだった。その視線は他の人とは明らかに違っていた。

――こっちを見ているはずなのに、気配を感じない――

 というものだった。

 あすなの視線には気づいているのに、あすなの方で見ているという意識を感じないということであり、この場合の意識を綾香は、「気配」という言葉で表した。

 綾香にとってこんな感覚は初めてだった。それまで意識していなかったあすなの存在が俄然意識の対象になってくる。それでも最初は、友達になるなどという感覚はなかった。興味はあるが、どこか近寄りがたい雰囲気があったからだ。

 綾香はあすなを見ながら、

「今までにも彼女のような人と会ったことがあるような気がする」

 と感じていた。

 それがいつだったのか思い出せない。綾香には過去を振り返った時、不思議な感覚に陥ることがあった。

――数年前のことは昨日のことのように思い出せるのに、一か月くらい前のことはまるでかなり前にあったことのように思うことがある――

 ということだった。

 記憶の中の時系列が狂っているとでも言えばいいのか、それとも過去の思い出の方が印象に深いことであり、記憶の引き出しとしては容易に引き出せるものだったのか、そう考えれば辻褄が合うのだが、この場合、単純に辻褄が合っただけでは納得できない何かが頭の中に存在していた。

 綾香が思い出したのは、どうやら数年前の記憶のようだ。今までに一度も引き出したことのない過去の記憶、あすなが引き出してくれたのかどうなのかも、綾香には定かではなかった。

 綾香が思い出したあすなとの共通点。それは、

「視線を感じるのに、気配を感じない」

 というものだった。

 数年前ということは、まだ小学生くらいの頃のことだったように思う。相手は同じクラスの子ではなかったということは分かっているが、そう思うと、どうやら同年代の人に感じたものではないような気がした。

 そう思うと次第に思い出せてきたような気がした。

――そう、あれは私が小学校五年生の頃だったような気がする。相手は中学生のお姉さんだった。お姉さんは私の方を見つめているのだけれど、その視線は明後日の方向を向いていた――

 綾香はそこまで思い出すと、その時のお姉さんの顔が思い出せそうで思い出せないという中途半端な状態になっているのに気付いた。

 まるで生殺しのような感覚で、気持ち悪い。

――こんなことなら思い出さなければよかった――

 と感じた。

 その時に感じた視線を数年経って、それがまるで昨日のことのように思い出されたのは不思議であったが、綾香にとっては、それほど不思議に思えることでもなかった。

 もっと不思議に感じたのは、綾香がその顔を思い出そうとした時、すぐには思い出せなかったが、思い出そうということをやめたその時、ふっと浮かんできた顔があった。

――あすな――

 そう、その顔は今自分が意識しているあすなの顔だった。

 そんなに何年も経っていて、それまでに思い出そうとして思い出せなかったことを、こんなにいとも簡単に思い出してしまう自分に驚いていた。

 そう思うと、自分があすなに声を掛けたのも理解できたような気がする。

 どういって話しかけたのか、すぐに忘れてしまった綾香は、まるで声を掛けた自分が夢の中にいるような気がしていた。緊張すら通り越した心境に入り込んでいた綾香は、まるで自分があすなという女性を孤独から救っている救世主のように感じていたようだ。この感覚は、

――あすなに声を掛ける人がいるとすれば、きっと皆同じ気持ちになるんじゃないかしら?

 と感じることであった。

 ただ、綾香には不思議なことがあった。

――あすなは、私と知り合った時のことを覚えていないようだ――

 というものであった。

 しかも、あすなの中で記憶は錯綜していた。なぜなら、綾香の方では、

「話しかけたのは自分」

 と思っているが、あすなの方ではそうは思っていない。

 ある時は、

「話しかけたのは私の方よね」

 と言ってみたり、別の時には、

「あの時は話しかけてくれてありがとう」

 という返事が返ってくることがあった。

 記憶が錯綜しているのか、他の人と間違えているのか、それとも、出会いをあすなが夢に再現として見て、その時の記憶と交錯しているのか、そのうちのどれかではないかと思った。

 信憑性があるとすれば、一番最後の、夢との交錯という発想が一番しっくりくる気がする。確かに夢の中で見たのだとすれば、意識が交錯してもそれは仕方のないことで、潜在意識が見せるものが夢だとして、そうなると、あすなはどのような潜在意識を持っているというのか、綾香には興味があった。

 元々、あすなにも綾香にも仲のいい友達など存在しているわけではない。他の人と間違えるということはありえない気がした。

 あすなが出会いのことを話題にした時、

「そういえば、小学生の頃、私をじっと見つめていたお姉さんがいたのよね」

 と、綾香は言うつもりはなかったのに、口から出てしまった。

 さすがに、

――しまった――

 とまでは思わなかったが、あすながどんな表情をするか見ものだったのでじっと見ていると、別に意に介したようなイメージはなく、

「綾香さんは、見られることに敏感なのかしらね」

 と言われた。

「見られることに敏感というよりも、見られているのに、相手が自分を意識していないのが怖い気がするの」

「それは相手の視線が別の方向を見ているというようなこと?」

「それに近いかも知れないわ」

 厳密には違っているが、あすなの言葉は的を得ていた。

 あまりにも的を得ていたので、それをそのまま認めることが怖く、

「かも知れない」

 という曖昧な表現で締めくくった。

 あすなは、知り合えば知り合うほど、綾香には分からない存在になっていた。行動パターンにしても、その言動にしても、綾香の想像を超えていることも多く、

――ついていけない――

 と感じさせることも往々にしてあったくらいだ。

 そんなあすなを綾香は、最初は怖いとは思っていなかった。怖いと思っていたとしても、それは恐怖とは違った意味での怖さで、どちらかというと、こちらを見透かしているかのような様子に怖さを感じていた。

 しかし、知り合ってくるうちに、その怖さも解消されるようになり、

――友達になってよかった――

 と、安堵で胸を撫で落とす気分になった。

 だが、それを超えると今度は今まで分かっていたはずのあすなが分からなくなってきていた。

――あすなは、分かっているような気がする――

 自分が変わっているということを意識していると綾香はあすなに感じたが、分かっていても自覚しているだけで、意識までしていないということに、綾香は分からなかった。

「自覚はしていても、意識はしていない」

 という感覚、あるいは、

「意識はしていても、自覚はしていない」

 という感覚、綾香はどちらもありなのだろうと思っている。

 なぜなら、この二つの考えの原点は同じところにあり、それぞれに派生したもので、その派生は放射状のものであり、

「逆も真なり」

 という言葉でいい表せるものではないかと思っていた。

 あすなにとって綾香という存在は、それほど自分の中で大きなものではないという思いを綾香は抱いていた。しかし、それが本当にそうなのか、綾香は自分を信じられない。あすなの態度を見ていると、それほどでもないと思うのだが、あすなの持つ曖昧な雰囲気は掴みどころのない彼女の本質を、叙実に表しているかのように思えるのだ。

「綾香があすなを怖がっている」

 この感覚は怖さの種類を知らなければ、きっとあすなには分からないことではないかと思えた。綾香にとってあすなは、

「想像を絶する相手」

 という意識があるが、本当のあすなは普通の女の子でしかないのだった。

 それを理解できるかできないかで、あすなと綾香の運命は決まっていくのではないだろうか。

 綾香はあすなに恐怖を感じているということを、最初の頃考えたこともなかった。よくよく考えてみると、あすなは結構綾香に対して意見を言ってくる女の子なのに、途中から曖昧になり、あすなの記憶が薄れているわけではなく、綾香の方であすなへの思いが一定していないことから、意識が曖昧になってきているのは自分だと思いたくなかったのだろう。

 だが、綾香があすなに対して怖いという感情を抱くことで、二人にとっての過去まで次第に曖昧になってきたのだった。

 ただ二人の気持ちがすれ違っているというわけではない。曖昧になっているのは、すれ違っているように見える自分たちを何とか正当化させようとする綾香なりの意識の表れだったのだ。

 あすなは、綾香にはアプリで遊ぶことを言わないで、試してみようと思った。

 楽しいと思えば正直に言えばいいのであって、もし楽しくなければ、遊んだことを隠しておけばいいだけのはずである。あすなは自分を隠すことが苦手だ。相手が何を考えているかなかなか分からないくせに、相手にはよく自分の考えを看破されることが多かった。

「あすなは正直者なのよ」

 と、昔から言われてきた。

 正直、そういわれて嫌な気はしなかった。

――そうなんだ。私は正直者なんだ――

 と思うことだけで自分を正当化できていた。

「正直者がバカを見る」

 という言葉があるが、まさにその通りだ。

「バカ」

 という言葉も実はあすなは嫌いではない。

 釣りバカだったり、野球バカだったり、バカという言葉がついても、悪いことではないことも多い。一生懸命にやっていることで、損をすることがある場合に「バカ」という言葉が使われるが、まさにバカを見るというのは、損をするという言葉に置き換えることもできるだろう。

 綾香が見て、あすなという女の子は、バカになることを嫌っているわけではない。むしろ正直者にしか見えてこない。だが、嫌われることが多いのは、バカだからではないように思えた。

 普通バカというだけでは人に何かの危害が加わることは少ないだろう。しかし、あすなの場合は、彼女が元で、人が被害を被るということがえてしてあったりした。もちろん本人にも意識はないし、意識させるだけの力もその出来事にはない。

 つまりは、あすなにとって別の世界で繰り広げられていることが、他人にはあすなからの被害に見えてしまうのだ。それこそ、あすなにとっては損な役回りだと言ってもいいだろう。

――これこそ、バーチャルとリアルの間の出来事なのかも知れない――

 綾香が進めてきたゲーム、それはあすなにとって綾香からの挑戦のように思えた。

――綾香は私のことをよく分かっていて、私をバーチャルの世界に引きづりこもうとしているのかも知れない――

 とも感じた。

 だが、綾香にはそんなつもりはなかった。実際にあすなのことを怖いと思っているのだから、挑戦など恐ろしくてできるはずもない。

――一体、綾香は何を考えているのだろう?

 とあすなが思えば思うほど、綾香にとって、あすなの視線は怖いものになってしまう。

 お互いに怖さと疑念を感じていると、そこに曖昧さが入り込んでくる。どちらが招いた曖昧さなのか分からないが、

「どちらも曖昧さというものをお互いに感じている」

 ということを分かっているし、

「どちらも先に自分が曖昧さを感じている」

 と思っていた。

 まるで曖昧さを感じた方が勝ちでもあるかのような感覚に、酔っていると言ってもいいかも知れない。

 あすなは綾香に教えてもらった育成アプリをやってみようと思い、ダウンロードしてみた。それほど難しいものではないようだ。幾種類もある育成ゲームの中の一つというだけであまりゲームをすることのないあすなにも、何とかできそうな気がしたのだった。

 そのアプリのダウンロードは難しいものではなかったが、いろいろ面倒くさそうな説明書きが書かれていた。気になって綾香に聞いてみたが、

「そんなのは気にしなくてもいいのよ。どこのサイトのゲームだって似たようなものだからね」

 と言っていた。

 あすなは確かにあまりゲームをダウンロードなどしたことはないので、彼女のいうように、

――こんなものか――

 と思ったが、他のアプリはダウンロードした時、これほどいろいろな説明はなかったような気がした。

 少し気にはなったが、綾香がそういうのであれば問題ないと思い、ダウンロードを続けた。

 遊び方は他の育成ソフトとさほど変わりないようだ。ただそのソフトの育てる対象はバーチャルな人間であり、赤ん坊の時から育てていくようだった。

 説明を読んでみると、どうやらこれは、

「友達育成ソフト」

 と呼ばれているもののようであり、赤ん坊の時から育てて、自分の年齢に達した頃から、プレイヤーと同じ年齢で推移するようになっているという。

――だから、年齢の入力があったんだ――

 ソフトをダウンロードしていくつかの設定がある中で、プレイヤーの名前(仮称)はもちろんのこと、性別、生年月日まで入力するようになっていた。

 ここまでは必須であり、後の項目は任意だという。プレイヤーの職業や趣味など、きっとこれから育てる相手が、その入力情報に左右されながら成長していくという設定になっているのだろう。

 そういう意味では最初の設定も大切であり、自分の年齢に達するまでも大切だと言えるのではないだろうか。ただ、この設定も別に真実を書く必要はない。すべて架空、つまりウソであっても問題があるわけではない。しょせんはゲームの世界で繰り広げられる狭い範囲の出来事なのだ。

 あすなは、それでも正直に書いていった。年齢も正直に書き、職業は中学生ということで虚偽のない登録だ。

 趣味はどうしようか迷った。別に何か趣味があるわけでもなく、何かに嵌っているわけでもない。しいて言えば最近は小説を読むのが好きなので、本当は読書とでも書けばいいのだろうが、それではせっかくのゲーム、面白くもないと思い、ここだけは少し誇張して書いた。

「私の趣味は、小説執筆にしておこう」

 と思った。

 作文は嫌いではなく、小学生の頃から作文では結構いい点をもらっていた。先生から褒められたこともあったが、どこがいいのか自分では分かっていなかった。先生も

「なかなかいい文章だ」

 というだけで、詳しくは言ってくれない。

 小説を書いてみたいと思ったことは今までに何度かあった。ただ、ジャンルが定まらない。

 一番書いてみたいと思った小説は恋愛小説だった。思春期の女の子らしい発想であるが、

――恋愛経験もないのに、書けるわけないわよね――

 と、すぐに思った。

 恋愛はおろか、男子と友達になったこともなければ、挨拶以外の話もほとんどしたことがない。自分から避けているわけでもない。自分のまわりに男の子がいないだけのことだった。

 中学生のあすなには、自分から近づいていかなければいけないのかどうか、その判断が分からなかった。好きな男の子というのも今までにいたことはない。

「少し気になる」

 という程度で、それも少しすれば、

――気のせいだったのかしら?

 と思ってしまうほど、明らかに冷めてしまうのだった。

 冷めてしまう自分を感じ、

――私は恋愛には向かないのかも知れない――

 と感じたのも事実だった。

 思春期になれば、確かにそれまでと比べて男子に対しての視線はまったく違うものになった。好きだという意識があるのかどうなのか、自分でも分からないが、身体が勝手に反応してしまう。それこそが思春期の思春期たるゆえんだと言われれば納得は行くが、それにしても身体と精神が一致しないことが、これほどムズムズした思いを抱かせるということに初めて気が付いた。

 やり切れない気持ちとは少し違う。もっとも中学生のあすなに、

「やり切れない気持ち」

 などという思いに至るような経験がそんなにあるとは思えないが、まったくなかったわけではない。

 解決できないほどの重たいものではないが、解決以前に勝手に消滅していることが多い。これも思春期ならではのことなのかと思ったが、思春期というのが男の子をオトコとして認識できる年齢になったとすると、自分も女の子からオンナになったような気分になってしかるべきなのだろうと思った。

 やり切れない気持ちのほとんどは、見えている先にいるのが男の子の場合がほとんどだからだ。やはりあすなも思春期を迎えたことで男子を意識しているのだろう。だが、いつも間にかその気持ちを忘れてしまっていたり、冷めてしまっていたりする。

――気のせいだったのかしら?

 とまで思うにも関わらず、また少ししてやり切れない気持ちを抱くようになる。

 それはいつの間にか定期的に感じることになっていた。

「忘れた頃にやってくる」

 とよくいうが、忘れたというよりも、冷めてしまった時の方が、結構早い時期に訪れたりする。

 定期的とは言ったが、何か月に一度とかいうような時期的な定期性ではない。だがそれでも定期的にと思うのは、自分が感じる精神的な転機にも法則性があり、その法則にしたがう形で繰り返されることがあすなの中で、

「定期的な繰り返し」

 を感じさせるのだった。

 あすなは、自分のそんな考え方に対して、

「自衛本能」

 を感じていた。

 何からの自衛なのかというと、ハッキリはしないが、少なくとも男子に対して、

「興味もあるが、危険な香りを感じる」

 というところから来ているのかも知れない。

 思春期になるまでは、男子に対してあまり興味を持ったことがなかった。

――いや、本当にそうだったのかな?

 とあすなは思ったが、今から思い返してみると、気になる男の子がいないわけではなかった。

 その子は名前を克之と言った。名字は確か新田だったと思う。だが、その子に対してあすなは、

「新田君」

 というよりも、

「克之君」

 という方が多かった。

 それは彼が望んだからだ。

「名前の方で呼んでほしいな」

 と言っていた。

 あすなは、その理由について別に言及することはなかったが、このことを後になって他の人に話すと、

「珍しいわね」

 と言われた。

「どうして?」

 と言うと、

「普通、名前の方で呼ばれると、親から呼ばれているような気がするから、嫌がるものだって思うんだけど、わざわざ名前で呼んでほしいなんてね。マザコンなのかしらね」

 という返事が返ってきた。

 小学生なのだから、マザコンというのも少しおかしいような気がしたが、いわれてみれば克之がマザコンだったという思いは確かにあった。克之と一緒にいたのは小学生の高学年になってからだったので、低学年の頃とはどこかが違って見えた。それは、自分が変わったからだというのもあるが、一緒に成長しているのだから、

――意識しなくてもいいことを意識するようになったからではないか――

 と思うのもまんざらおかしな考えでもないかも知れない。

 克之は男の子の中でも本当に大人しい方だった。どこかのグループに入るということもなく、いつも一人でいた。

――他の人からは、私が思っている「石ころのような」存在なのかも知れない――

 と感じた。

 つまりは目の中に被写体としては飛び込んできているのに、その存在を意識することはないというものである。

 だが、存在自体が意識の外なのか、存在は気付いているが、意識しないのか、どっちなのだろう。言葉にすれば、どちらも同じようにしか聞こえないが、前者は無意識のものであり、後者には意識的なものが働いている。後者は意識的と言っても、半分意識していると言ってもいいくらいのもので、気付いているという感覚が、半分意識に繋がっているのではないかという考えである。

 あすなは中学に入ると、その子のことは頭から消えていた。彼は成績がよかったことで、中高一貫教育の私立中学に合格し、あすなたちとは別の道を進むことになった。実際に中学に入ってから一度も会ったことはない。だが、あすなが彼のことをまったく意識しなくなったのは中学に入ってすぐからであり、まるで彼の存在が最初からなかったかのような思いがするくらいだった。

 中学二年生になって、いきなり思い出したのはどうしてだろう? 中学に入ってすぐに自分が思春期に入ったことに気付いたが、実際にはもっと前から、下手をすれば小学生の卒業の頃くらいから思春期だったのかも知れない。意識していなかっただけなのだが、それは思春期というものがどういうものなのかピンとこないというのもあったが、

――小学生で思春期に入ることはない――

 と自分で勝手に思っていたからではないだろうか。

 中学に入ると、明らかに変わったことがある。それは服装が私服から制服に変わったということだ。

 男子生徒の学生服姿は、小学生時代の服装から比べれば、同じ男の子でも、大人びて感じさせる。逆に男の子から見れば、女生徒の制服は、

「禁断の果実」

 に近い感覚なのではないだろうか。

 明らかに視線には隠微なものを感じ、目立ち始めてきた男子の顔に浮かぶニキビが気持ち悪く見えてしまう。背伸びしたがる男の子を見ていて、幼稚に感じる自分がいるのとは反対に、成長した男子を意識しようとしている自分もいることに気付き、戸惑ってしまっていた。

 男の子の視線を痛いほどに感じる。

――まるで裸にされているような気がする――

 と思うほどで、

――裸を本当に見られた方がまだマシかも知れない――

 というおかしな考えまで浮かんできた。

 後になってこの感情が、

「私はMなのかも知れない」

 と感じることになるのだが、この時はまだそこまで感じていたわけではなかった。

 ただその時感じた男子の視線があすなを変えたのは事実である。男子の視線を感じることで、さらに自分が今思春期に達しているということを再認識できたのだ。

 自分だけで感じているだけでは信憑性はない。人からの視線があって初めて感じる思春期、これはあすなだけではなく、今思春期の真っ只中にいる人、そして思春期を通り抜けて行った先輩たち、そしてこれから思春期を迎える人たちに共通して言えることではないかと思うのだった。

 その効果を与える最大の「武器」は、制服ではないだろうか。セーラー服であってもブレザーであっても、それまで小学生の頃の子供服とは違い、制服を纏っただけで感じさせるものがフェロモンとしての香りを発散させているとすれば、納得のいくものである。

 あすなは自分が浴びている視線を過剰に感じているのではないかとも思ったが、その視線を感じることで反応する身体は間違いなく大人への階段の入り口であり、身体が先に反応するというのは、思春期の特徴なのだと思うようになっていた。

 別に思春期について人に聞いたりしたこともなければ、資料で調べたこともないが、それはあすなだけではない。誰もが体験することでそれを思春期を感じるのだ。

 中二病という言葉だけは、よく分からずに自分で調べてみた。

「中学二年生が陥るような背伸びしたい感覚から、架空ファンタジーの主人公に自分を例えてみたりするそんな自分を感じ、さらに自己愛も絡むような感覚だ」

 と書いてあった。

 中二病という言葉はそれを卑下するような表現であり、実際にその感覚になっている人が自虐的に使う言葉でもあると書かれていた。

「綾香もそうなのかも知れないわ」

 と感じたが、これを調べたのは綾香と知り合って、彼女の口から一度だけであったが、中二病という言葉が聞かれたからだった。

 気持ち悪い人ばかりが気になるようになったあすなも、男女問わず気になる人が変わっていることで自虐的になっている。

 消したい存在と考えるようになったのは、本当は皆からという意味ではなく、自分を変な目で見そうな人たちからだけ消えたいという都合のいい考えの元だったのである。

 いろいろなことを考えながら、育成ソフトをやってみることにした。最初にいきなりやろうとした時の気持ちとどこかが変わっているのだろうが、何かを考えていたということはそれなりに考えはあったに違いない。

 最初は赤ん坊が生まれるところからである。旦那や産婦人科の先生から祝福され、新たな命が生を受けた。

「ありがとう」

 母親としての自覚を感じたあすなだったが、

――これが本当の母親の意識とは正直思えない――

 という思いもあった。

 もしゲームごときで母親になったような気分になれたのなら、実際に母親になった時、どんな気持ちになるのだろう。もちろん、これ以上であることは分かるが、今ここで母親になったという意識を持ってしまうと、実際に母親になった時、さらに感動が深まるのか、それとも、その時、

――思っていたよりも大したことないんじゃない――

 と思うかのどちらkであろう。

 あすなとしては、後者の方が強いような気がした。もちろん根拠があるわけではない。根拠がないから不安が募り、よからぬ方に想像が向いてしまうのだろう。

 あくまでも出産はゲーム上でのこと、母親が出産し、自分に弟か妹が生まれた時の喜びくらいに抑えておくのが一番だと思った。

 あすなには、幸いにも年の離れた弟がいた。まだ小学生の低学年で、弟が生まれた時の印象は、少しだけだが残っている。

――あの時は嬉しかったな――

 と回想できた。

 兄弟が特にほしかったわけではないが、実際に生まれてきて、家族の満面の笑みを見ると、あすなも嬉しい気分にさせられることも当然のことのように受け入れた。

 弟はあすなになついてくれた。物心ついた頃からいつもあすなのそばにいた。小学校に通うようになって四六時中というわけにもいかなくなったが、一緒にいれる時は、いつもそばに弟がいたのだ。

 あすなはそれを当たり前のことのように受け入れていた。

「学校で友達がいなくても家に帰れば弟がいる」

 この事実はあすなに安らぎと癒しを与えてくれた。

 どちらか一つでもかなり安心感があるのに、その両方を与えてくれる弟は、あすなにとってなくてはならない存在だった。

――このまま弟と離れられなくなったらどうしよう――

 という思いも宿るくらいであった。

 普通、小学生がそこまで考えることはないだろう。それだけあすなは心配性でもあったし、その時の自分の心理状態を把握していたということだろう。

 心配性というのは、

「好事魔多し」

 ということわざにもあるように、悪いことはあまり考えないようにして通り過ぎるのを待つしかないと思っていたが、いいことというのは、

「このままずっと続いてほしい」

 という思いとは裏腹に、

「裏に潜んでいるであろうたくさんの災いが怖い」

 という思いもあったのだ。

 それでも何かよからぬことが起こっている間、何も考えない方がいいと思いながらも、どうしても考えてしまう。それと同じで、いい時には悪いことが潜んでいるということを気にしながら、あまり気にしすぎるのはいけないという思いが交錯し、それが言い知れぬ不安になってしまうことが多かった。

 そんな心配性なところがあるあすなのことを、まわりは意外と分かっていた。あすなに誰も近寄ってこなかったのは、そんなあすなを見ているからだった。心配性の性格が災いしてまわりへの壁を作ってもいたが、その壁の存在をまわりは意外と知らないこともあって、見えている部分だけを見ると、あすなには心配性な部分しか映らなかった。

 そんな人を相手に、何をどうすればいいのか、一番扱いにくい相手という認識をまわりの人に与えてしまったのではないだろうか。

 それでも、皆が皆あすなを警戒しているというわけではない。あすなのことを嫌いな人もいるだろうが、あすなと同調してくれる人もいた。綾香もその一人で、綾香の存在があすなにどのような影響を与えたのか、綾香がいない場合の想像がつかないので、それを考えるのは難しいことだろう。

 新田という男性もその一人だった。お互いに意識した最初の異性だったのかも知れない。少なくともあすなにとってはそうだった。だが、恋愛感情にまで陥るかどうか、微妙な感じがした。

 その感覚は新田の方が大きかったのかも知れない。あすなは、

――男の子の方が、冷めているのかも知れないわ――

 と感じたことがあったのを覚えている。

 あすなはゲームの主人公の名前を綾香にした。本当は自分の名前をつけたかったのだが、「ゲームで本名を名乗る人はいないわよ」

 という話を聞いたので、敢えて友達の綾香の名前を遣うことにした。

 ただ、字だけは変えた。「綾香」ではなく、「彩香」にしたのだ。

――綾香が見れば分かるかも知れないわね――

 と思ったが、別にそれでもよかった。

 漢字まで同じ字を使うのであれば問題があっただろうが、漢字は変えているので、別に何かを言われたとしても、別に問題ではないだろう。

 そして生まれてきたのは男の子。いずれ恋愛関係に陥るのが前提になっているので、主人公が女性であれば、当然生まれてきたのは男の子となる。

「主人公が男の子だったら、どうなるの?」

 あすなはストーリー展開について訊ねた。

「男の子が主人公の時は、母親はこのストーリーには登場しないの。女の子が主人公の場合は、子供が生まれるところからのスタートなんだけど、男の子を主人公にすると、子供が生まれた時に、お母さんはその時に死んだことになるのよ。それを最初のエピソードとしては存在するんだけど、ゲームの進行としては、その話の後から始まることになるので、悲しいシーンは登場することはないのよ」

 と綾香は言った。

「そうなんだ」

 あすなは、

――よくできている――

 と思ったが、考えてみれば、ゲーム開始の時点でキャラクター設定をするのだから、主人公が男女のどちらかしかないパターンということで、プログラムは容易にできるのはないかと思った。

 あすなは生れてきた男の子に、

「克幸」

 という名前を与えた。

 もちろん、新田克之を意識してのことだが、バーチャルなゲームで自分が知っている、しかも初めて意識した異性を相手に選ぶといったシチュエーションに酔ってしまっている気がした。

 克幸は彩香という母親から生まれた子供である。しかし、綾香の話では、

「これは恋愛ストーリーなのよ」

 と言っていた。

 ということは、恋愛関係に陥るのは、自分の息子ということになる。

――いわゆる近親相姦ではないか?

 と思った。

 だが、これはあくまでもゲーム、ゲーム上であれば、近親相姦であろうが、不倫であろうが、何でも許されるのではないかと思う。だが、それもリアルすぎないことが前提であろう。人によってはゲームの七のバーチャルな世界と現実のリアルな世界とを混同してしまう輩もいて、それが犯罪に結びつかないとは言えないからだ。

 まだ中学生であるあすなにもそれくらいのことは分かる。実際にテレビのニュースなどでは、男女の歪な関係の縺れからの、猟奇的な事件が起こっているのも事実だからだ。

――また余計なことを考えちゃった――

 あすなは、一旦横道に逸れた発想をしてしまうと、ある程度までいかないとその思いを断ち切ることができないという悪い癖があった。

 だが、一度断ち切ってしまうと、余計な考えを思い出したとしても、最初に考えたほどの歪な考えに至らないこともあすなの特徴でもあった。そういう意味で、あすなの性格というのは、

「よくできている」

 と言えるのではないだろうか。

 このゲームは他の育成ソフトのように、日々成長させていくものなので、一気に成長するというものではない。だが、成長のすぴーーどはかなりのもので、主人公の年齢に達するまでに、プレイヤーの育て方にもよるが、結構早かったりする。

 実際に同じ年齢に達すると、今度は恋愛モードが始まるわけだが、その期間が長ければ長いほど、楽しいものになることは誰の目にも明らかなことであろう。あすなも当然そのことは分かっていて、

――早く大きくならないかな?

 と思っているのだ。

 だが、実際に育成してみると、子供として見るのが可愛くて仕方がない。

――これが母性本能というものなのかしら――

 と思ったが、あすなはまだ中学生である。

 やっと思春期に入り、男性を異性として意識し始めたくらいの時期である。母親としての母性本能などまだまだ先だと思っていただけに、複雑な心境だった。

――まさか、お乳なんか出てこないわよね――

 母親は妊娠すると母乳が出るようになるというのは、保健の授業で習った。

 あすなもそれくらいの知識は習うまでもなく知っていたのだが、人によっては妊娠もしていないのに母乳が出るということもあるらしい。

「それは想像妊娠というやつね」

 という話を聞いたことがあった。

 想像妊娠という言葉だけは聞いたことがあったが、実際に妊娠してからでないと出るはずのない母乳が出るというのだから、すごいものだとあすなは感じていた。

 あすなは思春期に入ってから、それまでの自分を子供だという意識を感じていたので、大人になっていく自分に複雑な心境を抱いていたが、このゲームをするにあたって、今度はさらに発展して、

「母親の気持ち」

 にまで思いが至ってしまうというのは、複雑な心境どころか、自分の母親がどうだったのかということまで考えてしまうほどであることに、戸惑いを覚えるようになった。

――たかがゲームなのに――

 と思ったが、

「たかがゲーム、されどゲーム」

 もう一人のあすなが自分の心の中から語り掛けてきた気がした。

 ゲームを始める前から、いろいろなことを思い浮かべてしまって、すでに半分くらいゲームが進んでいるような錯覚すらあった。今までにゲームと言うものをしたことがない人ならいざ知らず、他の人に比べれば圧倒的に少ないとはいえ、ゲーム初体験ではないのだから、ある意味新鮮な気持ちになっていると言えるのかも知れない。

 綾香からの話としては、基本的な仕様は聞かされていた。

「このゲームは、まず子供が生まれるところから始まるんだけど、最初にプレイヤー、つまり主人公の年齢などを設定しておくと、まずはその子を成長させるんだけど、自分の年齢になるまでの成長というのは、結構早いんだ。子育て育成アプリの特性よね」

「ええ」

「でもこのゲームの特徴は、自分と同じ年齢まで子供が育つと、その子が今度は恋人に変わるのよ。つまりは、子育てゲームから恋愛シミュレーションゲームに発展するので、一つで二つのゲームを楽しむことができる」

「そうなんだ」

 あすなはそれを聞いた時、若干の違和感があった。

 確かに近親相姦という意味での違和感はあったに違いないが、それとは違うものがあった。

――子供として育ててきた相手に、果たして恋愛感情を抱くことなどできるんだろうか?

 という発想である。

 恋愛経験のないあすながよくこのことに気が付いたと思われるかも知れないが、逆に恋愛経験がないことで単純に考えた疑問として浮かんできたことなので、それだけ新鮮なのかも知れない。

 あすなにそのことを聞いてみると、

「あすなは恋愛経験がないからそう思うのかも知れないわね。でもあなただって誰か好きになった人がいなかったわけではないでしょう? その人に対しての思いの中に、母性本能がないとは言えないんじゃないかしら? 私は『何とか愛』というものはそれぞれに特徴があって共通点は少ないと思うんだけど、切っても切り離せない境界線のようなものがあるような気がするの。それを思うと子育てゲームの発展形として恋愛シミュレーションがあってもいいんじゃないかって思うのよ」

 綾香の話には一理ある気がした。

 もっとも恋愛経験のないあすななのだから、丸ごと綾香の話を信じたとしても、それは無理もないことであろう。

 あすなが綾香の話を思い出している間、設定も終わり、いよいよ子育て育成ソフトとしてのゲームが開始された。

 これも綾香の話であるが、

「他の子育て育成ソフトと同じで、放置していると死んじゃうから、気を付けてね」

 と言われた。

「たかがゲーム」

 と思ったが、さすがに死んでしまうと言われると気になってしまった。

 自分が携わらない他人事であれば、

「死んでしまう」

 と聞くと、笑い事で済ましていたかも知れない。

「死なないようにしないといけないわよね」

 と念を押したが、その心配はゲームをやってみてよく分かった。

 出産はおろか、彼氏もいない状態で、母性本能が生まれるなど、最初は半信半疑だった。だが、育ててみれば成長が楽しくて、学校で授業が終わるのが待ち遠しく、帰り道も急いで家に帰ろうと意識して早く帰っていた。

 考えてみれば、先に出産があって、子育てをして、その後に恋愛する。これは普通に考えれば逆のことである。近親相姦という怪しげな設定になってしまうのも、この矛盾した順番がもたらした副作用のようなものである。

 綾香はここまでは説明してくれたが、

「ここから先は、やっていて気になることがあったら、聞いてくれていいからね。でも、私もまだそんなに先のことは分からないので、聞かれてもすべて答えられないかも知れないわ」

 と言われた。

 ただ、ここまでがこのゲームの根幹であり、これだけが分かっていれば、ある程度まではやりながら覚えていけるのだろう。逆に言えば、単純なゲームなのだが、派生的な発想はいくらでもあるので、基本的なことしか話ができないということではないだろうか。

 ゲームを始めて一か月が経った頃には、すでに赤ん坊から幼稚園、さらに小学校入学まで行っていた。最初はもっと早く成長するのではないかと思っていたが、それは一か月経ってから振り返って思ったことであって、育てている毎日はその日一日があっという間に過ぎてしまうという感覚から、却って早く育ったような気がしたくらいだった。

 一か月で十年育つくらいの感覚であろうか。だが、一か月の間で成長が一定だったという意識しかないが、実際には微妙に違っていた。後で綾香の聞いた話であるが、どうやら休日には成長が早いという。

 綾香からはその事実だけしか聞かされなかったが、冷静になって考えてみれば、それも当然のことだった。

「学校に行っている平日は、授業があったりして、ほとんど構ってあげられる時間はないけど、休日は一日中でも構ってあげられるので、成長が早いのも当たり前と言えば当たり前のこと」

 なのである。

 あすなは、一か月も経てば、このゲームの特性がある程度分かってきた。

 確かに他の子育て育成ゲームとほとんど変わらないのだろうが、このゲーム独特の発想もあった。平日と休日の違いで成長の速度が違うというのは理屈としては分かったが、同じ平日でも若干の違いがあることに後になってから気付いた。このゲームの特性として特筆すべきは、

「後になってから気が付くことが多い」

 ということであった。

 そのほとんどは、自分でも、

「よく気が付いた」

 と思うことであって、

――もし、このゲームをしていなければ、気付くことがなかったような気がする――

 と感じた。

 要するに、このゲームは自分が思っているよりも、プレイすることで、子育てだけではなく、自分も成長しているのだ。それは親としての成長というわけではなく、人間としての頭脳の成長であったりすることを続けているうちに気付かされ、嬉しく思う毎日であった。

 あすなは、育ってきた子供が小学三年生くらいになると、自分の小学生時代を思い出さないわけにはいかなかった。

 克幸は大人しい男の子で、友達もおらず、いつも一人でいるような子だった。だからと言って親にべったりというわけではなく、一人でいるのが当たり前のようなタイプだった。

 だが、友達のいない子は、その方が普通だった。あすなも自分が小学生の頃、似たようなタイプだったから分かるはずなのに、そう思えなかったのは、

「思えなかったのではなく、思い切れなかった」

 という感覚である。

 自分が今の克幸くらいの年には、男の子を意識することはなかった。だが、男の子としてではないが、気になる男子生徒がいたのは事実である。別に好きだったというわけではなく、気が付けばいつも目に入ってしまって、気にしないわけにはいかなかったのだ。

 彼はいつもあすなの視線の先にいた。大人しい子であったので、本当に存在感と言っても、誰にも気にされることのない、本当に「石ころ」のような存在だった。あすなが石ころを気にするようになったのは、確かにアニメの影響ではあったが、石ころという固定的な観念ではなく、気配もなければ存在感も皆無に近い人間がそばにいるということを意識するようになったのは、この子のことを気にしていたからなのかも知れない。

 他の誰からも気にされることもなかった彼は、仮に輪の中心にいたとしても、誰も気にすることはないだろう。気配を消していると言ってもいいくらいに人から気にされることはなかった。

 ただ大人しいというだけでは説明できない雰囲気を彼は持っていた。大人しいだけであれば、相手にされないというだけであすなも気に掛けることはなかっただろう。だが、彼はいつもあすなの視線の先にいた。あすなが顔を上げて最初に見るのは、なぜかこの子だったのだ。

 小学三年生の時に同じクラスだっただけで、後は同じクラスになったことはなかった。その一年間でずっとあすなの視線の先にその子はいた。小学三年生の時の一年間はあっという間だったと思っているが、この子のことを思い出すと、そのあっという間だった一年間への意識が本当だったのかと自分で疑問に感じるほどだった

 しかし不思議なことに四年生になってクラスが別になると、あれだけ目の前で視線を合わせていたということを、まったく忘れてしまったかのようであった。彼という男の子の存在は分かっているのだが、記憶という引き出しに彼のことは入っていなかった。

 確かに話をしたこともない。目が合ったとしても、それから先は何もなかった。だが、目を合わせたという意識は鮮明にあったはずだ。現在であるその時に意識したことは、過去になると記憶として引き出しに仕舞われるという思いでいたあすなには、納得のいかないことだった。

 存在は意識しているのに、記憶として残っていないというのはどういうことなのか、四年生になって少ししてから考えたりはしたが、結論が出るわけもない。そもそも小学四年生でそんな難しいことを意識するというのも不思議なことだと思ったが、してしまった意識に自分の感覚がついてこれなかったことで、次第にその問題を忘れてしまっていた。

「喉元過ぎれば熱さも忘れる」

 と言われるがまさにその通りだった。

 目を合わせている時は不可思議な現象として気になっていたが、目を合わせることもなくなり、記憶の中にすら残っていないのであれば、忘れ去ってしまうのも無理もないことだ。

 あすなはその子の表情が思い出せなかった。中学になった頃から、彼の視線を思い出すようになった。記憶に残っていなかったはずなのに、おかしなことである。

 これは、その子ではなかったが、中学に入って自分を見ている視線と目が合ったということで急に思い出したことだった。きっと思春期という時期には、そういう過去のことを思い出す機会というものがあるのかも知れないと思った。

 この頃のあすなは、

「デジャブ」

 という言葉を知らなかった、

――前にどこかで……

 という記憶になかったはずのことを急にかつて見たり聞いたりしたことがあったものだとして意識することである。

 あすなのこの時の感覚はきっとその「デジャブ」だったに違いない。

 デジャブはあすなが小学生の頃に感じて、残ったはずの記憶を呼び起こすものだった。あすなが記憶の引き出しにないと思ったことは、実は別の引き出しの中にあったのかも知れない。それはあすなが死ぬまで意識することのない「引き出し」であり、その引き出しの存在はおろか、デジャブという現象を知らずに一生を終える人もいるのではないかと思えることからその引き出しは仮説でしかない発想ではないだろうか。

 あすなは思春期で思い出した記憶の中で、その子が自分と目が合ったのは分かっている。しかしどんな表情をしているのかまでは分かるわけではない。なぜならその顔は逆光になっていて、真っ暗闇の中に隠れているからだ。

 それでも顔を思い出すことができれば、彼がどんな表情をしているかということは想像くらいはできるだろう。しかし、表情はおろか、顔の雰囲気もまったく想像することができない。それを思うと、

――ひょっとしてのっぺらぼうなんじゃないかしら?

 と感じたのだ。

 あすなはもしこの人に顔があるとすれば、その表情は歯を見せながら不気味に笑っているのではないかと想像した。だが、どんなに影があっても、真っ白い歯が浮かんでいれば、少しくらい真っ白な部分が見えてくるはずだと思ったのだ。それがないということは、元々表情というものがなく、顔のパーツが存在しないのではないかと感じたのだ。

 そして、この人が見ているあすなにも顔がない「のっぺらぼう」に見えているのではないかと感じた。

――お互いに顔が存在しないから、見えてくる表情があるのかも知れない――

 と感じたが、そう思うと、今度は彼の顔が分かってきたような気がした。

 やはりその表情じゃ不気味な笑みを浮かべた表情であり、あすなにとっては一番想像したくない顔だったはずである。

 あすなはそんな男の子の顔と自分を想像しながら、

――よくこんな発想ができるものだ――

 とある意味感心していた。

 この男の子との思い出はまったくないはずなのに、彼がのっぺらぼうであるということや、彼から見て自分がのっぺらぼうに見えているということが分かった気がすると、

――デジャブというのは、記憶の奥に間違いなく封印されているものである――

 と思うようになった。

 もちろん、根拠などない。デジャブ自体もその理屈が分かっていないのに、その先の発想ができるわけもない。あすなはあくまでも自分の発想を架空のものとして考えることで、柔軟な発想を抱こうと考えていたのだ。

 あすながゲームをやっていて、その少年の存在を次第に思い出すようになると、

――ひょっとしてこのゲームは、プレイヤーの過去を掘り起こすだけの何かの力が存在しているのかも知れない――

 と感じた。

 確かに自分の年齢を最初に設定し、育成する子供が自分の年齢になるまで育てているのだから、自分の過去を顧みて、ゲーム設定に反映させない手はないだろう。

――ひょっとして、このゲームの隠れている主旨は、そのあたりにあるのかも知れないわね――

 と思うようになっていた。

 だが、相手は自分とは異性であることから、ゲームの主人公が自分の分身であるということはありえない。いくら思春期前で異性を意識しないとはいえ、人間には男と女の二種類が存在するという意識は普通に持っているつもりである。

 そういう意味で、あすなのように、相手を異性として意識するわけではなく、何となく気になる存在として異性がいたのであれば、それはいわゆる「初恋」の類ではないだろうか。

 あすなは自分が誰かを好きになったという意識はない。ただ気になる男の子がいたという意識だけだった。それも顔すらまともに思い出せず、何に対して意識していたのかということすら忘れてしまったような相手である。気になった理由をいまさら知りたいとは思わなかったが、奇しくも記憶から引き出してしまった彼のこと、好きだったのかは別にして、

――初恋だったのかも知れない――

 と思っていた。

 そもそも小学生の頃の異性を意識しない初恋とはどういうものなのか、友達の話しているのを聞いていると、初恋をしたことがないという女の子はいなかったような気がする。男の子は自分から口にする人は少なかったので分からないが、女の子が意識しているのなら男の子もしているはずだとあすなは思った。

 その理由としては、

「子供の頃の成長は、女の子の方が男の子よりも早い」

 というのを聞いたことがあったからだ。

 小学校の六年生くらいになると、女の子には初潮を迎える人も増えてくる。学校でもそのことについて、保健の先生から話をされていた。女の子は明らかな自分の身体に起きたそれまでにない「異変」がハッキリとしているために、思春期をより一層確実に感じるが、男の子に初潮などはなく、肉体的に女性ほど大きな変化が訪れることはない。

 精神的に背伸びしたくなる年齢であることは間違いないが、身体に明らかな変化が訪れない男の子には、どうしても女性が眩しく見えるものなのかも知れない。

 男の子は確かに明らかな身体の変化はないが、精神的なことと密接したことでの変化は訪れるようである。女の子が羞恥の念を表に出すのと変わりなく、男の子にも羞恥の念は存在している。

 しかし、男の子はその感情を隠そうとする。女の子が隠そうとしないのは、羞恥があることで男子の目を引きたいという意識と、逆に男子の嫌らしい視線を避けたいという意識の両方を持っているからではないかとあすなは思った。女の子には許されるが男子には許されることではない。そう思うと、気持ちを表に素直に出すことのできない男の子は、成長という意味で、かなりマイナスに働いているのではないかとも感じた。

 あすなはそんなことを考えながらゲームを続けていた。

 小学校三年生になった克幸は、その時の男の子のことを思い出させてくれたことで、

――もう少し思い出したいので、小学校三年生をもう少し続けたいな――

 と思うようになった。

 するとどうだろう。今までは結構早く小学校三年生になったかと思うと、三年生の時期が今度は長く感じられた。

「思ったことを感じてくれるゲームなんだ」

 とあすなは思った。

 数日間、小学校三年生でいてくれたおかげで、忘れていたことまで思い出すことができたのは嬉しかった。しかしあすなには一抹の不安もあった。

――実際には四年生になって彼のことを忘れてしまったように、ゲームでも四年生になれば、ゲーム中での三年生の時の記憶がなくなってしまうのではないだろうか?

 という思いだった。

 この思いは的中した、想像していた通り、克幸が四年生になると、あすなは克幸の三年生の頃を思い出せなくなっていた。それは一種の健忘症のような感じで、思い出せそうなのだが、思い出せないという何とも言えない気持ちになっていたのである。

 しかも、せっかく育ててきた三年生より前の記憶まで失ってしまっていた。あすなは失望し、

――せっかくここまで育てたのに――

 とmゲームを放棄してしまおうとも考えたが、

「このゲームは放置すれば死んでしまうから気を付けて」

 と言った綾香の言葉を思い出した。

 たとえゲームと言えども、死んでしまうというシチュエーションは穏やかではない。自分の本意とはかけ離れたものに感じられた。せっかくここまで育てたのだから、死んでしまうようなことはしたくないと思った。そう思い、翌日になってゲームを始め、克幸が元気でいるのを見ると安心したのと同時に、それまで忘れてしまっていた克幸の育児の記憶がよみがえっていたのだ。

――忘れていたなんてまるで夢のようだ――

 と感じたほどで、どうして忘れてしまっていたのか、その理由は、

――きっと理解できるはずのないものなんだ――

 と思うようになった。

「たかがゲーム、されどゲーム」

 まさにそのことなのだろう。

 あすなは自分がゲームをしている時間は、

――ひょっとすると他の人には見えていないのではないか――

 と思うほどに集中していた。

 要するに、自分がゲームをしている姿を他人の目として自分で想像することすらできなかったからである。

 自分でも想像できない姿とはどういうものなのか、考えられなかった。想像してみようとは思わなかったが、のっぺらぼうになっているのではないかと思ったが、のっぺらぼうの自分をなるべくなら想像したくないあすなは、存在自体が誰にも見えないような気がした。

――いや、見えないんじゃなくて、見えているのに気づかれない存在なんじゃないかしら?

 つまりは、「石ころ」の存在である。

 あすなが小学校三年生を思い出していた時期を、克幸が五年生になった頃に思い出した。

――かなり昔だったような気がする――

 まるで自分が小学校五年生の頃に三年生の頃を思い出したような感覚だった。

 実際に小学校五年生の頃に三年生の頃を思い出したことはなかったが、思い出したとすればきっと同じくらいの長さだったのではないだろうか。

 自分のことだと思えば結構短い期間だが、ゲームであれば、相当長い感覚になっているのではないだろうか。

 あすなにとって過去を思い出すというのは、実はあっという間に過ぎたと思っていることだけに、そんなに遠い過去ではないという思いに違いはないはずだった。ただ、近い過去の方が遠く感じられ、遠くなればなるほど、過去の一年間がどんどん短く感じられるのは、肉眼で遠くを見つめる感覚に似ているような気がした。

 トンネルの中で、等間隔に線が引っ張っていたとして、最初の一年間の線はかなり遠くに感じられるが、例えば五本目から六本目くらいの間は、実に短いものに感じられることだろう。

 そもそもそんなに遠くが見えるだろうかというのも疑わしいものである。記憶に残っていることは、インパクトのある印象深いものであって、それはトンネルの中の線とは無関係のものであり、どれに値するのかというのも分からない、何番目の線なのか、詳細が書いていなければ分からないに違いない。

 トンネルの中という発想は、あすなには躁鬱症を思わせた。あすなが躁鬱症を感じるようになったのは、中学生になってからで、思春期とほぼ同じ時期に始まったことで、思春期の始まりがいつだったのかと聞かれると、ハッキリとした時期を答えられない理由の一つになっていた。

 躁鬱症などというと、自分には関係のない他人事のように思っていたこともあって、最初は躁鬱症を、

「思春期の意識の一つ」

 のように考えていた。

 思春期というものをおぼろげにしか分かっていないので、最初は躁鬱も思春期の一部だと思い、誰にでも訪れるものだと思っていた。

 しかし実際には他の人に見られることではなく、今のところ、あすなだけだった。

 ただ、単独で躁状態、鬱状態に陥る人はいるだろう。しかし、あすなのように定期的に陥ったり、躁鬱が繰り返されるということはないと思っていた。だが、もう少し大人になってから知ることになるのだが、躁鬱を繰り返すというのは、単独で訪れるよりも稀なものではなく、却って単独の方が稀であるらしいということであった。

 トンネルを感じたのは、トンネルの中の黄色い明かりをイメージしたからだった。

 躁鬱に陥った時、躁と鬱、どっちが最初だったのか覚えていないが、鬱状態の時というのは、見えている色に変化が訪れたということだけは意識していた。

 感覚としては、

「夕方のイメージ」

 である。

 昼間の眩しさを感じることはなかったので、色も漠然として感じてしまい、信号の青も赤も緑であったり、鮮やかさを感じなかったりしたのだ。それが夕方では、そのギャップからなのか、それとも一日の疲れからなのか、全体的に黄色く感じられる。ごく細か埃が舞っているかのようなイメージで、黄砂が飛んでいるような感覚だった。だから黄色い色がイメージされて、トンネルの黄色い明かりをイメージさせたのだろう。

 だが、逆に夜になると、真っ暗な中に浮かび上がる信号機の赤は真っ赤に、そして青は真っ青に見えるのだ。夕方に疲れを吸収することで、夜には目が冴えてくるという感覚である。

 もう一つ、躁鬱のパターンとして、繰り返しというものがある。躁状態を抜けると鬱状態がやってきて。鬱状態を抜けると躁状態がやってくる。ここには黄色信号は存在せず、鬱状態から躁状態に移行する時、逆に躁状態から鬱状態に移行する時には、その予感があるのだ。

 それはトンネルの中でトンネルを抜ける時に、表の明かりが差し込んでくることで、

――いよいよトンネルを抜ける――

 ということが分かるのと実によく似ている。

 鬱状態から躁状態に移行する時と、逆とではどっちがハッキリと分かるのかと聞かれると、

「鬱状態から躁状態に抜ける時の方がハッキリしている」

 と答えられるのは、このトンネルの感覚が自分の中にあるからなのかも知れない。

 もう一つは、

――躁状態よりも、鬱状態の自分の方を、本当の自分が理解できているのではないか――

 という思いがあるからだ。

 これはトンネルを抜ける時に感じる、トンネルの黄色に表の明かりが差し込んでくることでトンネルを抜けるというのが分かるという感覚に似ていると言えるのではないだろうか。

 思春期になる前に躁鬱症を感じた人が他にどれほどいるだろうか?

 あすなにしても、今思春期を感じていることで、あの頃が躁鬱症だったのだということを自覚したのだった。あの頃、確かに信号機を見ての感想や、気分の移り変わりへの予感めいたものがあったということは自覚していたが、それが躁鬱症だったのだということと結びつくことはなかった。

 思春期になって、自分でも思春期について本を読んだりネットで調べたりしていると、そこに躁鬱症というサイトが検索に引っかかって、気になって見てみると、それが過去の自分の経験とマッチしたのであった。

 思春期を感じながら昔のイメージを想像していくと、躁鬱症になっていた頃の自分を思い返してみて、思わずゲームの克幸に、自分の過去を重ねてしまっている自分に気付いた。

 するとどうだろう。自分が思い出している様子が、そのままゲームの中の克幸に影響を及ぼしていることに気付いてしまった。

――そんなバカな――

 ありえないことではあるが、あすなはそのありえないことよりも、自分が克幸に影響を与えてしまったという自責の念の方が強かったのだ。

 どうしてそんな心境になったのか、それほどあすなはゲームに入れ込んでいるということなのか。いや、そんなはずはない、このゲームでは、

――自分のことを忘れて、母親になったような気分で生まれてきた克幸のことを見守っていこう――

 と感じたはずだった。

 確かに最初はそのつもりで、途中までは最初の意志が忠実に進行されていたはずだった。それなのに、どこから間違えたのか、もし間違えたとすれば、それは自分の躁鬱症を思い出してしまったからだろう。

 だが、それも小学三年生の時点で、克幸を見ながら、無意識にであったが、過去の自分と重ね合わせてみてしまったという軽い気持ちが招いたことだと思うと、悪いのは自分だということになる。

 それならば、悪いのは自分だと思うことで、ある意味一件落着しそうな感じであるが、それだけでは気が済まないあすながいた。

――私は一体何を考えているのだろう?

 その先に何か自分の求めるものがあるような気がして、あすなは今の自分を見ればいいのか、過去に遡った自分が、その先を見ている感覚になるのがいいのか、少し思案していた。

 ゲームに入り込んでしまって、過去を顧みたことで何かの形が現れたのだとすれば、それを悪いことだとして言及するよりも、それを事実だと認め、その先を考えていく方がいいのではないかとあすなは考えた。

 あすながゲームをやっているのか、主人公の克幸が成長していて、それをあすなが見守っているだけなのかのどちらかではないかと思うようになっていた。本当はプレイヤーであるあすなが子供である克幸を育てるというのはゲームの主旨なのに、主人公である克幸があすなの精神状態を踏襲してしまったことで、プレイヤーとしてのあすなの「仕事」を取られてしまったような気がして、それが忌々しい気分になっていた。

「そもそも私が始めたゲームであり、主導権は私にあるはずなのに」

 という思いを口にして呟いてみたが、まるで負け犬の遠吠えにも聞こえてきて、

――私は一体何をやっているんだ――

 というぼやきに繋がってしまうのだった。

 育成ソフトのゲームというのは、こういうものなのだろうか。あすなは他の育成ソフトを知らない。普通のゲーム機でのゲームはしたことがあったが、スマホのアプリでのゲームは初めてだった。

 あまり変わりがあるわけではないが、普段使用している端末でゲームができるということはもちろん知っていたが、それをしようとは思ってもいなかった。そういう意味では人の影響を受けることが今まではなかったので、新鮮ではあるが、ここまで自分がのめりこむなど、想像もしていなかった。

 ゲームの中の克幸も、どんどん顔が変わってきているような気がした。ゲームなので、アニメ調のタッチになっているので、顔が誰かに似るということはないが、アニメ調の克幸の顔を見ていると、小学校の頃にクラスメイトだった克之君の顔が思い出されるから不思議だった。

 顔が変わってきているような気がしたというのは、実際には変わっているわけではないのだろうが、友達だった克之君の顔に似てきていると感じたことで、顔が変わってきていると思ったに違いない。

 あすなはゲームの中とはいえ、クラスメイトを自分で育てていると思うと複雑な心境になってきた。

 克幸の言葉はアニメ調だけに吹き出しの中に文字で表現される。その中で、

「ママ」

 という言葉を見つけると、ドキッとしてしまって、アニメの克幸を見つめた。

 自分の顔が赤くなってくるのを感じた。子供の頃の克之君の顔に対して、決して顔を赤くなるような雰囲気を感じるはずはなかった。ましてや、アニメの主人公で、設定は「息子」となっている男の子に顔を赤くする必然性はまったく感じられない。

 しかも、呼びかける言葉は、

「ママ」

 なのだ。

 あすなは、思春期の自分の中に母性本能が芽生え始めているのを感じた。考えてみれば、思春期は成長期であり、すでに初潮も迎えたあすなは身体としては、妊娠することができる身体になっているということだ。思春期というのは、そんな身体に精神が追いつくための時期であり、それを意識させる時期だと言えるのではないだろうか。

 ゲーム内の克幸はママに従順である。

 あすなの考えていることを忠実に克幸が演じている。だが、そんな時、登場人物の中に別の女の子が登場してきた。

――誰なの、これ――

 と、あすなは感じたが、そういえばこれを教えてくれた綾香から、

「このゲームはプレイヤーの予期していなかった登場人物も出てくるわよ」

 と言われていたのを思い出した。

 それを聞いた時は、別に新たな登場人物が現れたくらいなんでもないと思っていたので、軽く受け流していただけだったが、実際にやってみて、ゲームに嵌ってしまうと、新たな登場人物が今後の展開にどのような影響を与えるかを考えると、決して軽く受け流せるものではないだろう。

 いや、あすなとしては、そんな問題ではない。自分が嵌ってしまったゲームで、しかも自分が子供である主人公に対して不思議な心境を抱くようになると、すでに他人事ではないことに気付いてしまったのだ。

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