記憶
森本 晃次
第1話 中二病
今年高校二年生になる釘谷あすなは、今までに恋愛経験がなかったわけではなかった。高校生になって女子高に進んでしまったのは自分の学力のせいで仕方がないのだが、中学時代までは共学だったので、好きになる対称の男の子は存在した。
自分がそんなにモテるわけではないということを分かっているあすなは、男子に告白するなどという大それたことを考えることはあっても、実行したことはなかった。すべてが妄想の元に行われていて、諦めもよさもそれなりにあった。
あすなが好きになる男の子というのは、どんな女子も好きになるような男の子であり、いわゆる「面食い」と言われても仕方がないのだろうが、あすなとすれば、自分が面食いだという意識はなかった。
「私が好きになった男の子を、皆もたまたま好きになったというだけのこと」
と友達に話したことがあったが、友達は苦笑いしながら、
「それを面食いっていうのよ」
と言われた。
あすなには、自分が面食いだという意識も、ミーハーだという意識もなかった。その証拠として、小学生の頃や中学生の頃に皆が夢中になっているアイドルやイケメン俳優に対して、
――大したことないじゃない――
という目でしか見ていなかったからだ。
この事実がある以上、あすなが自分を面食いやミーハーではないと思ったとしても無理もないことである。要するに、
「ミーハーではないが、面食いである」
ということなのだろう。
だが普通考えれば、アイドルやイケメン俳優にまったく興味がないのだから、それは面食いではないと思ったとしてもそれは当然のことであり、その二つが一種にならないということがあすなにとって信じられないことと言えるのではないだろうか。
そんなあすなだったが、中学時代に好きな男の子がいた。その子は別に女の子から人気があるわけでもなく、まわりに普段から誰かがいるというわけでもないタイプで、
「孤独が似合う」
男の子だった。
あすなはそう感じていたのだが、まわりの女の子は違ったようだ。
「いつも一人で、何を考えているのかしらね」
とどちらかというと気持ち悪がられていた。
あすなにも中学時代、同じ理由で気持ち悪いと思う男の子もいたが、好きになった男子とはまったく人種が違うと思っていたのに、他の女の子は一括りで見ていたようだ。あすなが気持ち悪いと思っている男の子のことは、他の女子も同じように気持ち悪いと思っている。同じ感覚を持ちながら、あすなが気になる男子に関しては、どうしてここまで違うのか、ひょっとするとあすなが気になった理由は、そのあたりにあるのかも知れない。
あすなは、親友だと思っていた女の子に、
「誰にも言わないでよ」
と釘を刺したうえで、自分が皆の気持ち悪いと言っている男の子を好きになったということを明かした。
「えっ、そうなの?」
と驚きの表情の裏に別の表情があったが、気持ちの奥を読むことはできなかったが、たぶん、距離を感じるような遠い目で見ていたのかも知れない。
「う、うん。親友のあなたにだから打ち明けたんだけどね」
と言って、本当は告白するのがいいのか、進言してほしかったのだが、見ているだけで、それは望めないことが分かった。
もし助言されたとしても、とてもその助言をまともに聞く気はしなかったからだ。それだけあすなにとって彼女の表情が意外であり、
――これが親友だと思っていた人の顔?
という気持ちになった。
案の定、誰にも言わないという約束はチリ紙のごとく簡単に破かれ、一気にクラスの中で拡散されていた。
「へえ、あの子、そんな趣味があったんだ」
と言わんばかりの視線を浴びて、あすなは自分の居場所を失ったことを知った。
幸いだったのは、ウワサは女子だけにとどまり、男子の耳には達していなかった。だから本人の耳には入っていないだろうということだった。
女子も、男子には言いにくかったのだろう。他の男子の悪口になるようなことは言わないようにするという最低限のルールは、クラスの中で形成されていたようだった。
それだけに自分に対してのこの仕打ちには、合点がいくわけはなかった。あすなは親友だと思っていた彼女はもちろん、クラスの女子全員を一気に敵に回してしまったことを自覚していた。
あすなはクラスの女子から、
「あの子は少し変わった人」
というレッテルを貼られてしまい、男子に詳しい理由を明かされないまま、そんなレッテルを貼られているということだけがウワサになってしまった。
何とも中途半端な話である。
――まあ、しょうがないか――
と諦めの境地にはなっていたが、さすがにまわりの視線のきつさには、辛いものがあった。
だが、慣れというのは恐ろしいもので、
――最初から、そうだったんだ――
と思うことで辛さは半減して、まわりからの視線を自分なりのバリアで防ぐことができるようになったという意識はあった。
もう一つは、
「自分を目立たない位置に置くこと」
というすべを身に着けることで、まわりからの余計な視線を避けることができるような気がしたのだ。
存在感をなるべく消すという意識である。
「石ころというのは、目の前にあって見えているのに、誰にも意識されることはない。自分さえ意識しなければ、その存在を消すことができるんだ。問題は自分であって、消せるか消せないかは自分に掛かっている」
と思っていた。
見えているものの存在を消すなどということは、人間であれば不可能だとあすなはずっと思っていた。この思いはあすなに限らず、たいていの人は思っていることだろう。
「自分の存在を本当に消したいと思っている人が消せないことで苦しむ。そのために悲劇が起こり、ドラマや映画にもなる」
という意識もあった。
そういえば、小学生の頃に見たマンガで、自分の存在を消したいと思っている男の子に、男の子を助けるために未来からやってきたロボットの友達が与えた「アイテム」に、石ころをモチーフにしたものがあった。
「これを身に着けていると、君は誰からも意識されないんだ」
とロボットがいうと、
「じゃあ、透明人間になるのかい?」
と主人公の質問に、
「いいや、透明人間になるわけではないんだ。あくまでも人からは君が見えるんだよ。でもこれを身に着けていると、見えていても存在を意識されることはない。君だって、道端に落ちている石ころを、いちいち意識したりするかい?」
と聞かれて、
「言われてみれば」
と主人公は納得したが、あすなも一緒になるほどと思った。
これはあすなだけが感じる感覚ではなく、このマンガを読んだ他の人も、皆一斉に同じことを思うに違いない。あすなはそう信じて疑わなかった。
マンガでは、主人公が石ころのアイテムを使って、まわりから気配を消しながら、目的のことを達成しようとするのだが、最後にはうかつにもそれを落としてしまい、現れてはいけない場所で、彼は姿を現した。現実の世界ではそんな状況になれば、警察沙汰にでもなるシチュエーションだった。
しかし、あくまでもマンガのワンシーン、子供向けのマンガにそんなリアルな話を描くことはできない。そこはボカシて、いかにも少年マンガらしく、コミカルに描いている。このマンガは、SFとしての骨格を持ったコミカルな物語なのだ。それだけに教育的観点にもそぐわれていて、それが長年連載が継続されている理由なのだろう。
それまではマンガなどあまり読んだことはなく、特に少年誌は読まなかったが、アニメ化されたことで気になるようになり、単行本も全巻揃えたほどだった。
そんな小学生時代だったが、中学時代も小学生の頃とあまり変わりなかった。しいて言えば思春期が訪れたという程度で、本当は「大人への階段」と言われるような時期なのだろうが、大人の片鱗すら見えずに過ぎてしまった時期だった。
好きになった男の子はその子だけではなかったのだが、小学生の頃の思いがあるため、自分でも好きだと思っている子が本当に好きなのか、疑問でしかなかった。だから好きになったという思いよりも、好きになったということを打ち消したいという気持ちの方が強く、その子にはもちろん、他の誰にもあすなの気持ちを知っている人はいなかっただろう。何しろ、本人にすらよく分かっていないのだから……。
小学生の頃に見た、石ころなどをキーワードに未来アイテムを題材にしたマンガを読んでいると、中学に入ってからは、異世界ファンタジー系のマンガをよく読むようになった。
クラスメイトも結構異世界ファンタジー系のマンガを読んでいるようだが、あすなが読む本は、他の人が読んでいるのとは少し違っていた。少数派が読むようなマンガで、マンガの世界というよりも小説になりそうな感じのお話だった。
どちらかというとダークな部分が多く、
「子供よりも大人が読むマンガ」
だと、よく言われていた。
しかし、あすなは大人よりも子供、しかも自分くらいの中学生が読むマンガだと思っている。いわゆる
「中二病」
と言われるような、想像が妄想に変わってしまいそうな内容で、逆に言えば、
「妄想しなければ、ダークすぎてついていけない」
と言われるほどのマンガだった。
読み始めたのは中学に入って半年ほど経った頃で、中学入学当時は友達がいなかったあすなに声を掛けてきた子が好きなマンガだったのだ。
あすなは小学生の頃の、気持ち悪い男の子を好きになったあの時から、まわりに友達らしい人はいなくなった。友達だと思っていた子も、
「言わないでね」
と言ったことをいとも簡単に破ってしまったことで仲たがいしたことから、唯一だった友達もいなくなってしまったのだ。
あすなはそれでもいいと思っていた。
――私は他の人と同じでは嫌な性格なんだ――
と思うことで自分を納得させていた。
それは小学生の頃からずっと変わっておらず、それ以上でもそれ以下でもなかった。
あすなは中学に入学しても、
「少なくとも中学三年間では友達はできない」
と思っていただけに、声を掛けてきた時、その女の子の顔を穴が開くほど見つめた気がした。
普通であれば、失礼に当たると思うであろうが、あすなとしては、それよりも相手に対して、
「どうして私なの?」
と聞きたい気持ちが一番だった。
相手もあすなの気持ちが分かったのか、あすなが驚愕の表情で見つめた時、ニッコリと微笑んでいたのが印象的だった。
だが、後から思えば、
――彼女が先に声を掛けてくれなければ、いずれ私の方から声を掛けていたかも知れない――
と思った。
つまりは時間の問題だったということなのだろうが、中学に入学した時最初に感じた思いが脆くも半年も建たないうちに崩れてしまったのは、実に皮肉なことだった。
嫌というわけではない。後から思えば、自分が声を掛けたかも知れないと思ったくらいだ。元々中学三年間で友達ができないと思い込んでいたのは、自虐的な性格がそうさせただけのことであって、いわゆる、
「意地を張っていただけ」
と言ってもいいかも知れない。
だが、あすなに声を掛けてくるくらいなので、あすな以上にまわりから疎まれている存在ではないかと思ったが、実際には彼女は友達もいるようだ。よく見てみると、友達の数も多いくらいで、特徴としては、
「どんなタイプの人も友達には含まれている」
ということだった。
そういう意味で、あすなのような性格の女の子は他にはいなかったので、あすなが選ばれたのは、必然だったと言ってもいいだろう。
あすなとしては、友達がほしいというわけではなかったが、友達になってくれるというのであれば歓迎であった。
「来るものは拒まず」
と言えば聞こえはいいが、それほど上から目線というわけではない。
あすなよりもまともと思えるような子は、友達になってくれるはずがないと思っているだけに、相手から歩み寄ってくれることは嬉しい思いがあった。逆に数少ないと思われるあすなよりも、
「ヤバい」
と思われる性格の子であれば、仲間意識が生まれることでこちらもありがたかった。
要するに拒否る理由がないのだ。
その友達は、オカルト的なことを趣味にしていた。タロット占いが趣味というだけで他の人は引いてしまったくらいだが、実際の彼女の趣向はそんな中途半端なものではなかった。
どうやら家族がクリスチャンのようで、そういう黒魔術的なことに興味を持っているようで、家族全員が黒魔術に嵌っていた。
「私はまだまだよ」
と彼女は言っていたが、あすなから見れば、
「そんなことはない」
と言いたいくらいだった。
黒魔術に誘われることはなかったが、彼女から魔術に関する本を見せられたりはした。あすなは、
――そんな気持ち悪いもの――
と思っていたが、実際に見てみると、気持ち悪さというよりも芸術的な側面が強く、パステルカラーも使われていて、ただ暗いという演出を施しているだけではなかった。
「考えてみれば、教会とかのステンドグラスもカラフルよね」
と話すと、
「ええ、そうなの。私も暗いばかりの部分だけを見ていると、いくら親に進められたからと言っても、こんなに嵌ることはないのよ」
と彼女は話した。
一度だけ彼女の部屋に遊びに行ったことがあった。
――どんなに奇抜な家なんだろう?
という、怖いもの見たさで行ってみたのだが、意外なことに普通の家だった。
部屋の中でも何か特殊な催しをしているというわけでもなく、どこから見ても普通の家だった。
彼女の部屋も何かを飾っているというわけではなく、彼女曰く、
「宗教的な活動は表でやることにしていて、家に持ち込まないようにしているの」
という話だった。
宗教を信仰している人としては、こちらの方が珍しいのかも知れないが、
「宗教にも数限りなく宗派があって、私たちの宗派は少数派なんだけど、意外と自由なのよ」
という。
だからこそ、黒魔術などに嵌っても問題ないのかも知れない。今まで思っていた宗教に対する考えが変わってきた気がしたが、考えてみれば、少数派の宗教ほどカルトに嵌りやすく、世の中に対して迷惑を掛ける団体として、世間を騒がす存在になってしまうのではないだろうか。
だが、あすなの場合は彼女が推奨している宗教に嵌る気はしなかったが、宗教に嵌っているからと言って、彼女を避けるようなことはしなかった。やはり、
「来るものは拒まず」
という思いがあるからだろう。
その友達に、小学生の頃に見たマンガに書かれた、
「石ころを題材にした未来アイテム」
の話をした時、興味深く聞いてくれた。
「世の中には消してしまいたいと思っていることって、結構たくさんあるものなのよ。私も自分の存在を消してしまいたいと思ったことも何度もあるわ。逆に消えてほしいと思っている人だって、誰にでも一人くらいはいるんじゃないかって思うの。大人になるにつれて、それが増えてくるか、一人だけでそれ以上増えないかによって、その人の性格も分かってくるのかも知れないわね」
「というと?」
「一人だけというと少ないと思うけど、一人だけを執着して思っているというわけだから、却って増えるよりも怖いことなんじゃないかって思うのよ
彼女の話にも一理あると、あすなは感じた。
彼女は実際に中二病的なところがあった。怪しい儀式などをするというわけではないが、妄想の激しさは他の人の比ではなく、あすなもついていけないほどであった。ただ、妄想は空想でもあり、彼女の話を無視することはできなかった。話を聞いていて、
「なるほど」
と思うところもあり、中二病的なところがあるというだけで無碍にもできないと思うのだった。
あすなにとって話を聞いていて感慨深く感じたのは、彼女が思い描いている世界は決して空想だけから来るものではなく、実際に古代の書物に書かれていることに基づく発想であるということだ。
要するに勉強さえしていれば、信憑性に関しては疑問が残るが、話としては十分に聞けるものである。それを思うと、
――この人は損な性格なんじゃないしら?
と感じるのだった。
確かに話し方も、最初はいきなり唐突に入る。話に入ってしまうと、脈絡のある実のある話をしてくれるのだが、最初が唐突なために、どうしてもまわりは警戒してしまって、すぐに話の腰を折って、彼女の前から立ち去ってしまう。さらにそれを彼女は別に失敗したと感じているわけではないだろう。まったく表情を変えることもなく、彼女もその場をすぐに立ち去るのだ。
そんな彼女が教えてくれた小説は、普段の話ほど奇抜なものではない。もっとも彼女の話を小説にしようとするならば、かなり偏った書き方になって、本当にカルトな人でなければ理解できないものになるだろう。もし彼女が読むのであれば問題はないのかも知れないが、まだ入門編も読んだことのないあすなにとっては、ハードルが高すぎるだろう。
彼女もそのことは分かっているのか、比較的普通の人でも興味を抱くような話だった。あすなにはありがたい内容で、小学生の頃に読んだマンガとも重なって、入りやすい内容だった。
教えてくれた小説は古代文明の話で、そこでは時間の流れを自由に操る呪術師がいて、占い師のような役目も負っていた。文明をつかさどる国王も、彼の力には一目置いていて、彼が国王に差し出す、いわゆる、
「未来アイテム」
は、それなりの効果があったようだ。
普通は国民のために使われることが多かったが、時には国王の私利私欲の元に使われるものもあった。彼の持っているアイテムは、未来ということであるが、未来である今もそんな効果を持ったものは発明されていないものがほとんどだった。
元々、最近書かれた架空小説なのだから、時代背景が古代というだけで、見ている未来は同じなのかも知れない。そのことを作者は意識していたのか、それを考えるとまた違った視線から小説を見ることができて、深みが感じられた。
読んでいると、未来アイテムの中に、
「これらのアイテムの中には、未来にならないと効果を示さないものもある。しかし、今の時代であっても、その効果を示すことができるというアイテムも存在する。それは究極のアイテムであり、禁断のアイテムでもある。だから決して使用することはできないのだ」
というものだった。
おとぎ話や昔話には「つきもの」とでもいうべきか、
「してはいけない。見てはいけない」
と言われるキーワードである。
呪術者の持っている未来アイテムの使用権原があるのは国王だけである。呪術者本人もその使用には国王の許可がいる。本来の呪術者の力を持ってすれば、国王の意志を思うように操ることくらいは朝飯前のはずだった。
だが、彼はそれをしようとしない。頑なに自分で拒否していたのだ。彼は自分には国王ほどのカリスマのないこと、統率性もなければ判断力もない。
確かに国王は独裁的なところがあり、本当にこの国がいい国かと言われると疑問ではあるが、呪術師には絶対にできないことだと思っていた。
「人にはそれぞれ役割というものがある」
と国王は言っていたが、その言葉を身に染みて感じているのか、この呪術師ではないだろうか。
――俺はそんなに偉い人間ではない――
という自覚があった。
彼は呪術師と言っても、普通の庶民と変わりはなかった。
不思議な未来アイテムを持っているだけの普通の市民である。
元々彼は未来からタイムスリップしてきただけで、未来アイテムも彼の時代には庶民が普通に持っていたものだ。古代だから不思議なアイテムとして重宝されるだけで、彼にとっては別に不思議でも何でもないことだった。
あすなは彼の未来アイテムが今のこの世にはまだ存在していないものであることに着目した。
――時代背景が古代なんだから、今の世に存在しているものであっても、古代であれば、不可思議な未来アイテムとして十分なはずなのに、今の世の中にもまだ存在していないものだということは、そこに何か意味があるのではないか――
と感じた。
あすなのその考えはどうやら的を得ているようだった。少なくとも本を貸してくれた彼女にも同じ発想があったようだ。
「そうなのよ。私もそこに着目したの」
珍しく、彼女は興奮していた。
自分と同じ発想であるということに、本を貸した相手が感じてくれるということで自分の考えが間違っていなかったということを感じたのか、それとも誰にも言えないと思っていた発想を抱いてくれたことで、話題ができたことを喜んでいるのか、どちらにしても思いはあすなも同じであり、あすなの中でもこの発想が間違っていないという思いに至ったことは嬉しかった。
この本を読んだ人が皆同じ発想を抱くとは考えにくいが、逆に少なくとも二人のうちの二人ともが同じ発想に至ったということは、似たような発想を持った限られた人にしか理解できない小説だということの証明ではないだろうか。
「このお話は、古代文明の時代だけがテーマではなく、未来に対しての発想もテーマではないかと思うのよ」
と彼女は言った。
「というと?」
「この小説を書いたのは、現代の人が古代文明を時代背景にして、未来アイテムについての一種の『おとぎ話』的発想で書かれたものではないかと思うの。おとぎ話や神話などというのは、大なり小なり、未来に対しての何かの警鐘を鳴らしているような気がするのよ。だから未来、つまり今現在も一緒に発想に入れてみると、見れてこなかったものが見えてくると思うの」
「なるほど、そうかも知れないわ」
あすなも彼女の話をつくづく、
――その通りだ――
と感じた。
「だとすると、現在のことを知っている作者が、未来アイテムをさらに未来に発明されるものとして発想しているのか、それとも、未来がどれだけ進んでも開発されることのないものとして描いているかということでも違ってくると思うのよ」
彼女は一拍置いて、続けた。
「それでね。私はこのアイテムは、今現在を起点として未来を見た時、開発はされないものだって思ったのよ」
「どういうこと?」
「実はこの小説家の人は、理論物理学者でもあって、工学博士でもあるの。特に彼の専攻はロボット工学なの」
「それがどういうことになるの?」
「ロボットというのは、一世紀くらい前から発想はされていて、半世紀前にはかなりの空想物語としていろいろなマンガや小説になってきた。二十一世紀にはすでに開発されているものとしてね」
「ええ」
「ロボットや、宙に浮く車なんかの未来予想の絵を見たこともあるでしょう? そのどれもが開発されていない。特にロボットはAIというものはあっても、人型の意志を持ったロボットは開発されていない」
「……」
「つまり、ロボット開発には、どうすることもできない壁のようなものがあるのよね。それが解決されない以上、開発されることはない」
「何となくだけど理屈的には分かる気がするわ」
「昔から言われていることで、『フレーム問題』というのが存在するんだけど、知らないでしょう?」
「うん」
あすなは初めて聞く言葉だった。
「世の中には、数々の堂々巡りというのが存在するのよ。それは矛盾があるからなのかも知れないんだけど、フレーム問題というのも、まさにその発想なのかも知れないわね」
と彼女はいう。
「フレームっていうと、何かの枠ということなのかしら?」
「ええ、その通り。それがロボットだけではなく、何かの判断には必ず付きまとってくるものであって、そこから逃げることはできないものだって私は思うの」
「うん」
「例えば、洞窟にロボットを動かす燃料と、その上に、動かすと時限スイッチの入る時限爆弾が仕掛けられていて、ロボットにその燃料を持ってくるように命令した場合を考えてほしいの。これはフレーム問題を説明する時の題材としてあげられるたとえなんだけどね」
あすなは、まだ彼女が何を言いたいのか、よく分からなかった。
答えられずにいると、彼女が続けた。
「最初のロボットは、時限爆弾を動かすと爆発するということは分かっていたので、時限爆弾ごと、振動を最小限に抑えて爆弾ごと燃料を表に持ってきたのよ」
「どうして?」
「爆発するとは分かっているけど、爆発するとその後どうなるかということがロボットの頭の中にはなかった」
「どうして?」
「何かをしてもしなくても、次の瞬間には無限の可能性があるわけでしょう? それがロボットには判断できない」
「でも、爆発するということだけに限ってしまえば、可能性は相当限られてくるはずよね。だったら、もっと他に考え方があったんじゃない?」
「それは人間の発想よね。でも、ロボットには分からない。今言ったように『限ってしまう』という発想だけど、それが『枠に当て嵌める』ということでしょう? つまりはフレーム問題よね。でも、そのフレームだって無限に存在するわけでしょう? それを限定させることは人間には不可能なの。そういう意味で発想が堂々巡りしていると言えるんじゃないかしら?」
「うーん、なるほど」
あすなは、思わず唸ってしまった。
確かに彼女の言う通り、無限の発想から、パターンを限定すればいいと考えるが、そのパターンだって無限にあるパターンをあらかじめ、インプットしておく必要があるわけだ。最初から無限のパターンを持っていないと、できない発想が出てきて、ロボットはまったく動くことができず、機能できなくなってしまうに違いないからだ。
それを「フレーム問題」だというのであれば、ロボット工学という発想が、これを解決できない限り達成できないということだけは容易に理解できる。動かなければロボットといえども、
「ただの箱」
に過ぎないからである。
堂々巡りは矛盾を孕んでいるということにいまさらながらに気が付いたあすなだった。堂々巡りを繰り返すことがすべて前に進まないという発想ではないと思うが、堂々巡りに矛盾が孕んでいると思うと、納得が行く気がした。
このことをあすなは彼女に話そうと思ったが、口にはしなかった。きっと分かっているはずだと感じたからだ。もし話すとしても、もっと彼女の話を聞いてからだと思った。今自分の意見を先に言ってしまうことは、早まったような気がするからだ。
あすなは彼女に気を遣ったりはしない。きっと気を遣われることを嫌うに違いないと思ったいからだ。あすなも人に気を遣うことが苦手なので、ちょうどいいと思った。
――ひょっとして、彼女は最初からそれが分かっていて、私に声を掛けてきたのかな?
と感じるほどだった。
その考えは、
「当たらずとも遠からじ」
ざっくばらんとまではいかない微妙な距離が、二人の間には存在していた。
あすなはそれが心地よい空気であったが、彼女はどうだっただろう? きっとあすなが感じている微妙な距離より近い感覚を抱いているような気がした。
彼女の話は興味を引いたが、あすなはあすななりの考えが浮かんできて、話を聞いているうちに、
――どこかから、少しずつ変わってきている――
と感じた。
その思いが、ひょっとすると、小説の中で未来に開発される発明がいまだに開発されていないことを彷彿させる発想になっているのではないかと思われた。
ロボットのフレーム問題は、それが解決できないと、自分の意志で動くロボットの開発などできるわけがない。ちょっと考えるとフレーム問題を解決などできるはずはないと思うが、実際に今となってもロボットが開発されないことを思うと、ロボット開発というのは、タイムマシンと同じで、一種の「パンドラの匣」と言えるのではないだろうか。
タイムマシンの場合も、不可能と思えるようなことがある。特に過去に向かう場合に不可能を感じさせる。
いわゆる、
「親殺しのパラドックス」
と呼ばれるものがそれであり、異次元研究の通説となっている。
タイムマシンが開発され、過去に行くことがあったとしよう。遠い過去でも近い過去でも同じことではあるが、分かりやすい説明として近い過去に戻るとしよう。
その過去とは数十年くらい前のことで、自分がまだこの世に生を受ける前で、父親と母親がいる世界であった。
二人が結婚しているしていないは別として、どちらかの親の近くに自分が現れたとしよう。
そこで、何らかの事件があり、自分の親が死ぬことになったらどうなるかという問題である。
分かりやすい説明として、
「親殺し」
と言われるが、自分が関わることで死ぬはずのなかった親が死んでしまうことになったとすれば、自分が実際に手を下したのではないとしても、それは親殺しとして成立するのではないかと思える。
要するに発想としては、
「親が死んでしまうと、自分が生まれない。自分が生まれないと、自分が過去に返って、親が死ぬという状況を作ることができない。親が死なないと、自分が生まれてしまう。生まれてしまうと、過去に行くことになる……」
という矛盾した連鎖が、永遠に続くことになる。
これがいわゆるパラドックスなのだ。
しかし、一つの考え方として、この不可能なことを説明するには、パラレルワールドという考え方があるだろう。
つまり、
「過去に戻って、過去を変えてしまうと、そこから続く未来はすべてが変わってしまう。どの瞬間であっても、存在している時を『現在』と考えるならば、その次の瞬間には無数の可能性があり、少しでも違ったできごとがあれば、別の可能性が開ける」
という考え方である。
この考え方は、ロボットの考え方の「フレーム問題」と共通しているものがある。
そういう意味では「フレーム問題」の原点も、ここでいうパラレルワールドの発想に由来していると言えるであろう。
あすなはそれを、
「パラレルワールドと矛盾の組み合わせ」
だと思うようになっていた。
異次元と言われるものも、三次元までは説明はつくが、四次元の発想となると、いろいろな説がある。パラレルワールドも一種の四次元の世界になるのだろうが、果たして、
「四次元の世界」
という一括りで表していいものなのだろうか。
無数にあるパラレルワールドを一つの次元と考えると、四次元と呼ばれる世界は、多重に存在していることになる。
しかもその多重というのは、理論上「無限」なのである。
パラレルワールドは、三段論法によって証明されるもので、きっと一つの論理だけでは説明できるものではないだろう。「親殺しのパラドックス」であったり、「フレーム問題」であったりと無限の可能性を次元と考えるのは無理があるであろうか。
パラレルワールドが存在している限り、「親殺しのパラドックス」にしても、「フレーム問題」にしても、無限の可能性はそれ自体だけには限らない。その解決法を考えた時、さらに無限が用意されることで、
「永遠に繋がっていく無限」
を創造してしまい、抜けることのできないループを形成することになる。
それこそ、「無限」ループであり、ここでいう「無限」という言葉はただ言葉のアヤというだけではなく、「親殺しのパラソックス」であったり、「フレーム問題」などに関わることで、奥の深いものに感じられてしまう。
矛盾というのも無限に続くことで、いずれ矛盾ではなくなるのではないかとも考えたこともあったが、果たしてそうであろうか?
あすなはそんな不思議な世界への発想を、中学時代に感じたことで、
――思春期にはそんな発想になるのかも知れない――
と感じた。
それが、そのまま大人になるうえでの発想だとすれば、大人になった時、どんな世界が広がっているのか、楽しみでもあった。
しかし、ことわざの中に、
「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎれば只の人」
というのがあるが、自分もある程度まで知識が発達してくれば、飽和状態を迎えてしまって、それ以上の成長が止まってしまうのではないかと思った。
しかし、実際には人間の脳は、数パーセントしか使われていないという。それを思うと飽和状態になることはなく、このままの成長を続けることさえ間違えなければ、成長が止まることはないと思っていた。
もちろん、まだ中学生の女の子なので、三十歳を超えてからの老化について考える必要などサラサラないだろう。
あすなは、その後、中二病的な世界に没頭している女生徒友達になった。
彼女は異世界を信じていて、その発想があすなと共鳴したのであるが、それ以上に彼女の持っている自己愛にさらなる共鳴があったのだ。
あすなは最初、彼女に自己愛があることに気付いていなかった。異世界に興味を持っている女の子で、その言動が同じく異世界、異次元に興味を持つあすなの神経を刺激したのだ。
決して二人には共通している意見があるわけではない。むしろ別の世界を見ているような言動で、時々話が噛み合っていないこともあったが、
「それも発想という意味で、自分にはないものを持っている相手に興味を持つのは自然なことである」
ということを気付かせてくれたという意味で、貴重である。
あすなは、最初に気付かなかった自己愛について、気が付けば気になって仕方がなくなっていた。仕方がなくなったと思った時には、
「これが彼女の自己愛だ」
ということに気付いていた。
「中二病」というのは、
「病」
という言葉が使われているが、実際に治療を必要とするものであったり、精神疾患というものとは無関係であり、一般的には「俗語」のようなものとして使われている。
「中学二年生のような思春期における、背伸びしたいような言動を自虐する言葉」
として言われているものである。
だから、決していい意味で使われるものではなく、一般的には、
「自虐」
なのである。
「自虐に発展するというのは、自己愛の裏返しなのではないか」
とあすなは考えるようになったが、それは彼女と知り合ったからである。
そもそも「中二病」という言葉も、彼女の口から最初に聞かされたもので、その言葉を知らなかったあすなは、知らなかった自分を普通に無知だからだと思っていたが、本当は一般的に知る必要はないものに分類されるのではないかと思えることだった。
その友達も、考え方はあすなに似ているところもあった。根本的には違うのだろうが、共鳴する部分が多いということでそう感じるのだが、彼女があすなに感じた、
「似ているところ」
という発想は、あすなが感じているものとは若干のずれがあったようだった。
お互いにそのことを口にして話をしたことはないので、ハッキリとは分からないが、彼女が異世界の話をし始めた時、自己愛の影を感じるようになると、そこで、
――どこか噛み合わないところがある――
と感じた。
それが彼女の自己愛であり、あすなにはあるはずなのに、自分で気付いていない部分であるということにその時はまだ気づいていなかった。自分に自己愛があるということに気付くのと、彼女の自己愛が自分とは違っているということに気付くのと、そんなに時間が変わらなかったような気がする。
それだけあすなは、彼女の自己愛についても、自分の自己愛についてのことも、自分で思っていたよりもアッサリと理解できたのではないかと思えた。
自己愛というものを単純に、
「ナルシスト」
という言葉で言い表していいものなのかどうか、あすなは考えさせられるところがあった。
あすなにも自己愛が存在した。それを最初は、自分のわがままだと思っていた。そう思うことが普通であり、誰もが同じことを思うものだと感じていたが、それを今のあすなとしては、
「当たらずとも遠からじ」
だと思っている。
確かに自己愛を持つ時期というのが思春期には存在しているものだとあすなは思っている。そして、自己愛を感じた人が三つのパターンに別れるのではないだろうか。
一つは、そのまま自己愛を持ち続け、ナルシストのようになっていくパターン、もちろん、その中でも自分も中だけで隠している人もいれば、ナルシストとして表に出している人もいる。
もう一つのパターンとしては、思春期に感じたことを完全に忘れてしまうパターンである。ナルシストを見ていて毛嫌いするような人なのか、自己愛を拒否ってしまう。それは意識してのことなのか、無意識のことなのか、人それぞれなのかも知れないと、あすなは感じた。
もう一つのパターンは、思春期に感じた自己愛を、一度は忘れてしまうのだが、また思い出し、忘れて思い出してということを定期的に繰り返すというものである。このパターンが一番稀なのだろうとあすなは思うが、一番分かりにくいタイプでもあることから、知らないだけで、もっとたくさんいるのかも知れない。
「ご自愛ください」
という言葉を、手紙などでよく見ることがあったが、挨拶としての言葉なのに、その言葉にその人の性格が現れているような気がする。
普通は、
「体調を崩さないようにしてください」
という意味に取れるのだろうが、あすなは自己愛との関係を考えてしまう。
さらに一歩進んで、その言葉が高貴な女性が使う言葉として考えたなら、その言葉には無意識に、相手に対しての愛情が含まれているように思えた。
特に女性が男性に対して使う言葉であれば、恋愛感情であり、女性が女性に使う言葉としても、恋愛感情が含まれていると思うのは奇抜な発想であろうか。
女性と女性の愛情をあすなは否定する気はない。
思春期の頃にレズビアンという言葉を聞いて、最初は何かドロドロしたものをイメージした。だが、友達が見ていた少女マンガを見せてもらったことがあったが、それは女性同士の恋愛を描いていて、濡れ場もそれなりにあった。エロいという感じを受けることがなかったのは、少女マンガ風に描かれていることで、百合や植物を背景に使っていることで、イメージとしてリアルさが薄れていたのかも知れない。
普通なら少女マンガだけの世界としてレズビアンを意識するだけなのだろうが、あすなはクラスに思いを寄せる女の子がいて、その子を対象に見てしまった。
どちらが男役というわけではなく、ただお互いを貪るようなイメージのレズビアンなので、絡み合う姿を自分で想像するのが好きだった。
――きっと私は、彼女とそういう関係になって、行為に溺れていても、もう一人の冷静な自分がいて、二人の行為を見つめている――
という意識があった。
さらには、
――それを見ているもう一人の自分も感じることがある――
と感じるほど、あすなは行為をしている自分と、それを見ている自分とを別のものとして考えてしまう。
それはまるでいわゆる、
「幽体離脱」
の感覚なのかも知れない。
自分の目だけが自分の身体を離れて、冷静に見ている。その時、抱き合っている自分は目を瞑って、相手の指の動きに集中し、見られていることを分かっているのかどうか分からない。
だが、想像が途切れてからは、思い出すのは、
「行為に溺れていた自分」
だけであった。
つまりは、見ているという感覚はもうすでにないが、もう一人の自分の存在は覚えている。要するに自分が見られていたという感覚が冷静になると感じられるようになるのだった。
そんなレズビアンに、あすなは不思議と恥ずかしいとは感じない。本当は羞恥心を感じたいという思いがある。
――羞恥心を感じることで、想像の余韻をもっと楽しむことができたはずなのに――
と感じるからだった。
羞恥心を感じるということと自己愛とは別のものだと思っていたが、実はそうではなかった。自己愛を感じる時、一緒にどこか羞恥心のようなものがあった。どこから来るのか考えてみたが、
「羞恥心とは、人には知られたくないと思うもの」
という意識から生まれたものだった。
羞恥心は、自分の中だけで恥ずかしいと感じる。もしそれを知られてもいい人がいるとすれば、愛する人だけである。
ただ、それは相手が男性であれば逆に一番知られたくない人ではないだろうか。知られてしまうと関係はそこで終わってしまうという思いが強く、それはきっと同性でないと分からない感覚ではないかと思うからだった。
だからといって、男性に羞恥心がないというわけではない。ただ、女性のそれとは違うものではないかと思うのだった。なぜなら、男性と女性とでは明らかに身体の作りは違っている。
「お互いの足りないところを補う関係」
それが男女だと思っている。
補うために身体が反応し、生殖器と呼ばれるものが力を発揮し、種の保存のための儀式を行うというのが、人間の生業ではないかという考えもあるだろう。
これが性教育を語るうえでの一番の正論ではないかと思う。思春期に聞くと顔が真っ赤になるが、それも一種の羞恥心。それを嫌だと捉えるか、人によっては、心地よいものとして受け入れる人もいるかも知れない。
それを気持ちのいい快感として捉えることで、その快感を正当化しようと頭の中で考える。それが自己愛というものだと考えるのではないだろうか。
そう感じた自己愛は、きっと消えることはないだろう。そのまま自己愛として自分の中で形成される。ただ羞恥心から生まれた自己愛の場合は、ナルシストと無関係の場合もあるだろう。そういう意味では、自己愛とナルシストを、
「切っても切り離せない関係」
だということはできないだろう。
自己愛を感じていたあすなは、中二病の友達が持っている自己愛と自分の自己愛とは種類の違うものだと思っていた。いや、そう思いたいという感情が強く、それは彼女に対してだけではなく、
「私は他の人と同じでは嫌なのだ」
という基本的な考え方はあるので、他の人に対しても似たような感覚を持つことは多かった。
彼女の自己愛は自虐の反対だという思いもあった。
彼女の自虐は結構強かった。そもそも妄想するのも、自虐が強く、自分が勇者として悪魔を倒すといういわゆる、
「中二病的な妄想」
を普通に抱いているのだが、その中で見え隠れしているのが、自虐だった。
それは自分がこの世界でノーマルに生きることができないというもので、本当は自分の正体を他の人に知られたくないという思いを抱くことが自虐に繋がるのだった。
「知られたくないと思うのに、悪が蔓延ることを他の人に知らせなくてもいいのだろうか?」
という思いがあり、それがジレンマとして心の奥にあることで、それを自虐だと感じるのだ。
ジレンマは、自分が二重人格であるということの証明でもあり、それを認めたくはないが、認めなければいけないという掟のようなものを自分で納得できているのかどうかを考え、結局正当性を示すことができず、正当化できなかったことに対して自虐的な考えになってしまうのだろう。
中二病の彼女の名前は、綾香と言った。
――中二病の割には普通の名前だわ――
と、決して口に出してはいけない思いを最初に抱いたことは、最後まで心の奥にしまい込んでおかなければいけないだろう。
綾香はあすなに対して、他の人に対しての目とは違う目をしていた。それは友達になる前から感じていたことだった。あすなは綾香を他の人とは違うという意識で見ていたことで、仲良くなるという意識はなくとも、彼女の視線が気になっていた。自分に対しての視線は、他の人に対してのものとは違っていた。これが別の女の子だったら、あすなの方が意識するのだろうが、相手は中二病だというのが分かっていたので、どちらかというと避けたい相手だったのだ。
それがどうして仲良くなったのかというと、彼女の自己愛に触れたからなのかも知れない。
自己愛が強いことで彼女は他の人と違って見えた。自分のことを他の人とは違ってほしいと思っているあすなにとって綾香のような女性は、最初に毛嫌いしてしまって、そのまま徹底的に嫌いでいられれば、もうそれ以上の接近はありえないのだが、きっと自分の中で綾香に対して「隙」を見せたのかも知れない。
ただ、その隙はあすながわざと開けた隙間だったのではないだろうか。もし相手がどうでもいい相手であれば、あすなが明けた隙間に気付くはずはない。気付いてこじ開けてくれたのであれば、それはその人の思いがこじ開けたもの。あすなにとっても悪いことではないと思えたのだ。
あすなの開けた隙間を、綾香はすかさず通り抜けた。それもこじ開けるような荒療治ではなく、隙間に触れることもなく、スルッとすり抜ける感覚である。
綾香にとってあすなは、きっと大切な存在なのだろう。ひょっとすると、彼女の中にある勇者の片割れのように思っているのかも知れない。
だが、綾香は仲良くなっても、あすなに対して自分の妄想を表そうとはしていなかった。仲良くなったにも関わらず、綾香が何に対して自分を勇者として君臨しようと思っているのか分からない。
――そもそも彼女に勇者という意識はないのかも知れない――
とも思ったが、中二病的な発想をしていることは間違いないと思う。
妄想というのは、あすなが勝手に思っていることであって、そもそもの発想から間違っていたのかも知れない。
これもパラレルワールドの発想と同じで、最初に間違っていれば、そこからどんなに正当性のある道を歩んだとしても、決して正解に辿り着けることはないだろう。
過去を変えてしまうと、そこから未来は必ず変わる。この発想は間違いないだろう。パラレルというのはパラソルのように広げてしまうと、放射状に広がっていくものなので、時間が経てば経つほど広がっていくのは当然のことである。
だとすると、広がっていった先に、本来の進むべき先が見えたとしても、それは錯覚なのかも知れない。
「まるで砂漠でオアシスを発見したような感覚」
つまりは、もがき苦しむ中で、助かろうとして手繰り寄せた綱のようなものなのかも知れない。
無限の可能性があるということは、似たような世界だっていくつもあり、それが錯覚させる原因になるのだとすると、人間が間違った道を進むというのも無理もないことではないだろうか。
間違った道を進んだとしても、錯覚だという意識があるわけではないので、そこから必死に正当性のある道を模索する。間違いの上に成立する正当性なので、本来目指すものとはかけ離れていることもあるだろう。
「そういえば、以前に同じようなものを見たような気がする」
いわゆる、「デジャブ」という現象だ。
これも、間違った道を進んでしまったことで、本来であれば進みたいと思っている世界と酷似していることで、実際に見たことはないのに、妄想の中で見たというリアルな印象が頭の中にあったとしても、それは当然のことなのかも知れない。間違った道と、本来進むべき道の先にあるものが酷似していればしているほど、デジャブに陥ると考えると、デジャブという現象をどう考えるかで、デジャブを理論的に説明することもできるのではないかとあすなは考えていた。
これは、綾香と知り合わなければ、行き着かなかった発想ではないだろうか。綾香と知り合ったことで、中二病という意識を持って相手を見ることがパラレルワールドに繋がり、そこから少し飛躍しすぎているとは思うが、デジャブへの発想に繋がるということを考えれば、綾香が自分に対して与えた影響は少なからず大きいものだったように思えた。
綾香はある日、スマホのアプリを教えてくれた。
――綾香のような子も、普通にアプリをするんだ――
と感じ、複雑な気持ちになった。
彼女のような妄想で固まっているような女の子には、そのまま妄想の世界でいてほしいという思いと、
――彼女もやっぱり普通の女の子だったんだ――
という思いとが入り混じって、複雑な気持ちにさせているのだった。
元々、スマホは持っていたが、アプリをやって使って何かゲームのようなものをするようなことはなく、ラインも人に教えてもらって、数人としている程度だった。それも他の人ほど頻繁ではなく、たまに連絡交換がある程度だった。
そのアプリはいわゆる
「育成アプリ」
と言われるもので、普段人と関わることをしない彼女にはピッタリのアプリなのかも知れない。
そのアプリにもいろいろ種類があって、動物や植物を育てるものから、子供、さらには彼氏彼女を育てるものまでいろいろあるという。
アプリは一つで、その中で何を育てるのかというのは、プレーヤーの選択によるものだそうだ。話だけは聞いていたが、まだ実際に開いてみたことがなかったあすなは、別にためらいがあったわけではなかった。
普通に考えると、育てるということは、まるでロボットや未来生物のような気がしてくることで、どうしても「フレーム問題」や「タイムマシン」のことが頭に入ってきて、
――パンドラの匣を開けてしまったら、どうしよう――
という考えに見舞われてしまうことだろう。
「たかがアプリ、されどアプリ」
ということで、なかなか踏み込みことができなかったが、あすなはそのことを綾香に正直に話してみた。
すると綾香は、
「何を言っているの。私がそれを考えるならまだしも、あなたにはそんなことを考える必要なんかないのよ。あなたが余計なことを考えてしまうと、私がやっているゲームも、やる意味がなくなってくる気がするの。ゲームをするしないは別にして、そんな考えを持つのはやめてほしいと思うのよ」
と言った。
あすなとすれば、
「綾香の気持ちは分かるけど、私もゲームをしないのであれば、しないだけの理由がほしいと思うの。今まではこんな気持ちになったことなんかなかったのに、どうしてこんな風になってしまったのかというと、あなたのせいなのかも知れないわ」
「どうして?」
「だって、なるべくならあまりまわりと接したくない私に声を掛けてきたのは綾香なのよ。私は綾香と一緒にいることに自分なりの正当性を考えないと先に進めない気がするの」
と、正直に答えた。
――こんなことを言えば嫌われるに違いない――
相手にとっては屈辱的な言われ方である。
「せっかく声を掛けてあげたのに、その言い方はなんだ」
と思われても仕方がない。
だが、あすなは嫌われてもいいと思った。自分と意見が合っていたり、正当性をお互いに理解できる相手でない限り、友達になったとしても、近い将来、どちらかが、いやどちらからもお互いに傷つけあって、最悪の別れを迎えるのではないかと思っていたからだった。
綾香に対して、最初は
――こんな私に声を掛けてくれるなんて、まるで天使のようだわ――
と思っていたはずの相手なのに、自分でもこの豹変ぶりには驚いている限りだ。
だが、たかがアプリで喧嘩別れするというのもおかしなことで、
――こんなことで喧嘩別れするくらいなら、最初から友達になんかならなければよかった――
と感じることだろう。
それは、お互いに同じように思っているのだろうが、その度合いには、かなりの差があるような気がした。
あすなが感じているのは、最初からそう思っていたわけではなく、アプリのことで生じた、ほんの小さな綻びが大きくなるのを目の当たりにしている気分になったことだ。
綾香の方とすれば、最初から、つまりは声を掛けた瞬間から、あすなとはどこかで行き違いになるかも知れないという予感を孕みながら、なるべく気持ちが通じ合っている時は、一緒にいるように心がけていたようだ。
覚悟という意味では最初から持っていたのは綾香の方だが、降って湧いた覚悟を強いられたあすなのその時の気持ちは、ずっと培ってきた綾香よりも強かったのかも知れない。
だが、そのおかげなのか、綾香の方は最初から覚悟していたつもりの別れを、この期に及んで、急に怖いと思うようになった。あすなが攻撃的であればあるほど、
――このまま別れたくない――
という思いに駆られたようだ。
怖さを感じることで、今まで歩み寄ることを知らなかった綾香があすなに歩み寄った形だが、それは恐怖好きの綾香だからこそできることだったに違いない。
綾香は覚悟は持っていたが、実際に怖いと思うことはないだろうと思っていた。そもそも今まで、
「君子危うきに近寄らず」
という思いを抱いていたこともあって、怖いと感じる以前に、相手から離れていた。
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