EXSIT

ユーライ

EXSIT

「頭カチ割れて、脳漿飛び散って、腕とかヘンな方向にひん曲がっちゃって、目を剥いて、それで血溜まりの中で……死ねるのかな?」

「……死ねるだろうね」

 学校の屋上から飛び降りれば、死ぬ。物理の公式を使わなくても、本能で知っている。高所から見下ろす、放課後の橙色に染まった景色に吸い込まれそうになる。

 私が同意してから、隣にいる香菜は一言も喋らなくなった。落下防止用のフェンスを跨いだ先にある、ギリギリ二人分の足場しかないコンクリートの縁に立って、微動だにしていない。半歩だけ踏み出せば、真っ逆さま。繋いだ手の平が、汗で少しずつ湿ってきているのが分かる。ああ、今回も駄目だなと直感した。

「……怖い」

 そう言うが早いか私の手を振りほどいて、香菜はフェンスの内側にほうほうの体で引っ込んだ。肩を震わせながら、荒い息を吐いている。私は今更失望することもなく、生まれたての小鹿みたいに足をがくがくさせてへたりこむのを見て、同じように戻り腰を下ろす。その後は香菜がわんわんと泣きながら抱き着いてきて、それを受け止めながらよしよしと背中をさすってやるのだ。全くいつもと変わらない、予定調和だった。

「怖かった、怖かったよぉっ!」

「そうだね。怖かったよね。飛び降りが駄目なら、また別の方法を探せばいいんだから」

 吹きっさらしの屋上で冷えた身体をひとしきり温めてやると、香菜が眼を閉じておねだりしてきた。無防備な姿を一寸眺めていると、今この細い首に手を這わせて力を入れたらどうなるのだろうか、という考えが頭を過ぎる。多少抵抗はするだろうが、景ちゃんに殺されるならいいや、とか思って死をあっさり受け入れるのかも知れない。しかし、私は香菜の友達なのでそんな酷いことはしない。してやらない。キスをすると、香菜の唾液のにちゃっとした感触が口中に広がった。唾液が甘いことを知ったのはつい最近だった。

 朝倉香菜が死にたくなった理由を、今井景子は知らない。知ったことではなかった。おおよそ考えられるのはいじめか家庭不和といったところだが、ありきたり過ぎて笑えてくるほどだった。腕にぐるぐる巻いた包帯の下に、いくつものリストカットによる傷を隠した典型的メンヘラになったのはいつ頃からだったろうか。保育所以来の幼馴染ではあったが、中学に上がって別々のクラスになってからは付き合いが無くなったので、詳しい経緯は分からない。廊下ですれ違った時にたまたま目にした香菜は、小学校でクラスの中心にいた人気者ではなくなっていた。伸ばした髪で暗い目つきを隠した知らない女。関わりたくないので近寄らないようにしていたが、「景ちゃん……」と昔のあだ名のままで話しかけてきたのは向こうからだった。

 クラスでは誰も話し相手がいないのか、香菜は今自分がどれだけ辛いのかを一方的に喋り倒した。その延々と続く呪詛に対し、適当なタイミングで「うん」とか「はぁ」とか生返事を返しつつ私はなるほど、と納得していた。こんなにおどおどして挙動不審ならば、いじめられてもおかしくはない。昔は一緒になって誰々を個室トイレに閉じ込めた後、バケツで上から水をぶっかけたりしていたっけ。笑いながら「死ね!」と吐き捨てて、仲間とはしゃいでいる香菜はいかにも楽しそうだった。バチが当たった、などとは思わないが、今更どの口が言うのだろうか。私もだけど。ああ、話を聞いているだけで、嗜虐心というやつが煽られてくる。そんなことを思って聞き流していると、「……でしょ? 私は悪くないよね?」と訊いてきた。上目遣いで懇願するような顔をして。私がこの時連想したのは、捨てられた子猫だった。か細い声を立てながら、今ここで拾わなければ明日にでも消える命。私のちょっとした気紛れでどうとでもなる命。つまるところ、香菜が欲しいのは肯定してくれる言葉なのだ。たった一言で、落ちる。

 気付けば「うん、何にも悪くないよ」と言って、聖母のような微笑みを浮かべながら香菜を抱きしめていた。胸の中で赤ん坊のように泣きじゃくり始める香菜の声を聴きながら、あの時拾った子猫はどうなったのかを思い出そうとした。確か家では飼えないから、野良のまま餌だけやることにしたはずだった。その後は――。

「痛いよ……」

 香菜の背中に回した手指を絡めて、長ったらしい髪を引っ張る。キスをする時、必死に舌を絡めてくることには愛おしさを感じるが、裏返しのように鬱陶しくもなっていじめてやりたくなる。作って壊して、滅茶滅茶にしたくなる。熱いものと冷たいものが一緒に食べたくなるのと同じだ。力を込めると、ぶちぶちっと何本か抜けるのが分かった。はらはらと滑り落ちる毛が風で飛ばされていく。香菜はさっきまでの蕩けた顔とは打って変わって、頬を歪めて苦痛を訴えている。それでもやめない。だって、こうやっていじめている時の香菜が一番可愛いから。

「お願い、やめて……」

「駄目。こんな痛みで根を上げてたんじゃ、死ぬことなんて出来っこないよ」

 それからは簡単だった。次の日になると香菜は登下校の時にまで付き纏ってくるようになり、唯一の友達として必要以上に距離を詰めてくるようになった。依存と呼べるような近さにも「はいはい」と対応し、周りから「あんなのと付き合うのやめといた方がいいよ」と忠告されながらも受け入れたのは、何か予感があったからだ。具体的にどうということもないが、新しい自分が生まれる予感。本当の私がどこかにいて、それはもうすぐそこまでやって来ている。香菜に対する感情は、好奇心でも哀れみでもない。私の前でだけ見せる信頼しきった笑顔を手酷い裏切りで壊したら、どうなるだろう。この世の終わりのように絶望するのだろうか。もしそうなったらいいな、と思った。ぐちゃぐちゃのどろどろ。

 一緒に死んでくれる? と言われたのは、仲良くし始めてから一ヶ月を少し過ぎた頃だった。薬や首吊りや入水といった自殺の方法を香菜は提案してくるようになったが、一度も成功したことはない。毎回一歩手前で怖いだの無理だの理由を付けてやめてしまう。その優柔不断さは、そもそも成功させる気があるのか疑わしく私をイライラさせた。もちろん、私は死にたくはない。香菜にそんな大それたことは出来るはずがないと分かっているから、自殺ごっこに付き合っている。私の気を引くためにやっているのかとすら思う。

 ある日曜日の朝に、香菜から「血がいっぱい出てる」という短い電話があった。「どこから」「手首から」「何で」「カッターで切る時に深く切り過ぎたみたい」。確認した後急いで家に向かうと、香菜は自分の部屋でぼんやりと突っ立っていた。見たところ、血は一滴も出ていない。嘘を付いたのか問い質せば「こうすれば、景ちゃんがすぐ来てくれると思ったから」そう駆けつけた私に向かって、平然と言った。そんなくだらないことでわざわざ呼び出したのかと思うと無性に腹が立って、香菜を勢い押し倒した。衝動のまま握り拳を作って、思い切り振り下ろそうとする。その時の香菜の顔はよく覚えている。いきなり訳も分からず殴られる恐怖に、目をつぶって身を縮こまらせていた。それを見た途端に騙された怒りはどこかに吹き飛んで、気付いたら香菜の唇を塞いでいた。息が止まるくらい長くした後、香菜の下着に手を突っ込むと、濡れているのが分かった。香菜はまだ戸惑って上の空だったが、止める気は無い。ずっと前から、こうなることが分かっていたから。「景ちゃん、怖い……」うわごとのように呟く香菜に、私は「大丈夫だから」と応える。指を入れていく。

 そして今も、香菜は理由を求めて「私達、大丈夫だよね……?」と縋りながら確認してくる。私は毎回「大丈夫」と返すが、しかし何が大丈夫だと言うのだろう? 最近はずっと香菜に構いっ放しだからテストの点数はどんどん落ちていっているし、これまで所属していたグループからはとうとうハブられるようになって友達はいなくなったし、そもそも屋上は出入り禁止だ。それに、爪が長くなってきたので短くしなければならない。全く、何一つ、大丈夫なことはなかった。

 それでも昔からずっと味方でいてくれる景ちゃんの呪文は絶対で、香菜は落ち着きを取り戻す。そして思い出したようにポケットからスマホを取り出すと、ある動画を再生して私に突き付けた。「次はこれにしよ?」。

 画面に映っているのは、怪獣だった。学校の屋上なんかより遥かに大きい怪獣が、街を蹂躙している。爬虫類を二足歩行にしたようなありきたりな外見は、映画なんかに出てくる【怪獣】としか呼びようのない何かだった。

 今から数十時間前、太平洋にて姿を現した怪獣(ニュースでは「巨大生物」と呼ばれているけど、世間では怪獣の呼び名で定着し始めている)は、日本列島の南に上陸後、ゆっくりと北上し始めた。突如として起こった非常事態に、政府は何とか進行を食い止めるため自衛隊を出動させて攻撃を試みたが、効果は全く無かった。戦車による砲撃を食らっても傷一つ負うことなく、依然として列島を縦断し続けている。しかし反撃や威嚇をしてくる様子もなく、ただ歩き続けているだけ。さながら台風が実態を持ったかのような災害だった。私達がいるここ、東北の片田舎にはまださしたる影響は出ていないが、既に死者は大勢出ているし、交通網にも制限がかかっている。それでも怪獣の姿を一目見たいと駆けつけた野次馬の動画は、数えきれない程ネットにアップロードされていて、香菜が見せたのはその一つらしい。降って湧いた非日常に浮かれる気持ちは分からないでもない。いや、だからこそ香菜も怪獣に殺してもらおう、などと言い出したのだろう。

「Twitter見てたら回ってきたんだけど、もしかしたら神の使いかも知れないって」

「神様に殺されるなら完璧になれる?」

「うん。自殺よりずっと綺麗に消えていけると思う」

 完璧。香菜は醜くて汚い自分を浄化するために死にたいのだという。死んでこの世からいなくなることで、欠点だらけの自分も帳消しになる。世界から不純物が消えて、本来あるべき形を取り戻す。そんな都合のいいスピリチュアルな考えに感化されることはないし、興味がない。朝倉香菜がしたいと言ったら今井景子はいいよと応える。そういうことにいつの間にかなってしまっていた。首輪を付けられているのは、むしろ私の方なのかも知れない。

「なら、新幹線乗って東京行こう。今から出れば夜には着くはずだから」

 私はスマホで座席の空き状況を調べる。現在17:42。これまでのルートから予想して東京に進行するのは必至と考えた政府が、水際で食い止める防衛線を張って総攻撃を仕掛ける作戦はもうすぐ開始される。成功しようとしまいと、そんな状況でわざわざ東京に向かう奴など少ないらしく、ガラガラに空いていた。

「お金はどうするの?」

「親の金。香菜は払わなくていいから」

「……今度こそ」

「え?」

「今度こそ、本当に死んじゃうかも。私と景ちゃんだけじゃなくて、全部。怪獣に殺されて全部消えてなくなるんだ」

 自分から言い出した癖にぐずり始めるのはいつものことだったが、確かに今回は訳が違う。だけど、どっちみち終わるならどこにいようと大差はない。

「ずっと一緒だって言ったでしょ。ほら」

 そう言って半ば無理やり香菜の手を取って、迫りくる夕日に背を向けた。スマホの通知は全部切っておいてある。邪魔する者は誰もいない。

「でも、何で東京なんだろ」

「さぁ。私達みたいにここが嫌いなんでしょ」

 眼下いっぱいに広がる田園を一瞥する。どこまでも代わり映えしない、田舎の景色だった。ここではないなら、どこへでも。


  *


 新幹線に乗って、修学旅行以来の東京駅へ。迷路のような構内は、数えきれない程の人でひしめき合っていた。狭い空間の中で大勢の人間の吐息が混じり合って、異様な熱気を生んでいる。あちこちから聞こえる悲鳴、怒声、罵声。どうやら作戦は失敗したらしく、怪獣が東京に上陸するのは確実なようだった。我先に避難しようとする人々を警察や駅員が誘導しようとするも、数が多過ぎて全く対応出来ていない。無機質な避難命令のアナウンスが、ひっきりなしに鳴り響く。

 私達は人の流れに逆らいながら、何とか外に出ることが出来た。すっかり暗くなった街並みを電飾がぴかぴかと照らす中、ビルを縫った隙間の遠くに怪獣の大きく黒い影が見える。ロータリーで逃げそびれて途方に暮れている人達と一緒に、私達はそれを見上げる。

「凄い」

 香菜は私の手をしっかり掴みながら、一言だけ漏らした。いかにも香菜らしい間の抜けた科白だと思ったが、私も他にこの状況を表現する言葉がなく、「うん」と曖昧に応えるしかない。画面越しでは伝わらなかった、確実な死の気配だけがある。あんな途方もないものに踏み潰されれば、間違いなく終わりだ。だというのに、煌びやかな東京の夜景だけは、中途半端に日常を保っているのがおかしかった。

 そうしている内にどれくらい経っただろうか、突然これまで直立不動だった怪獣が、姿勢を僅かに変えた。少しずつ、ゆっくりと前かがみになったところで、また動きが止まる。それに合わせて、周りもにわかにざわざわと騒がしくなった。何かが来る、らしい。香菜が手をぎゅっと強く握ってくるのに、私は伝わって来る体温を無視して、怪獣を一点に凝視していた。怪獣の口がにわかに発光し始め、青白い色が放たれる。やがて光が一点に収束し、レーザーのような形状になったことを見届けた後、私の記憶はぷっつりと途切れた。



 痛い。身体中がずきずき痛くて、立ち上がることが出来ない。視界がぼんやりしてよく見えない。それに、熱い。燃えるように熱い。ここはどこだっけ? 何でこんなところで倒れているんだろう――無理やり頭を動かして辺りを確認しようとすると、赤いものが見えた。何故かすぐに血だと分かった。何度も見て味わいもした、朝倉香菜の血が地面を流れている。伝ってくる元を目で追うと、生き物が瓦礫の下で潰れていることが分かった。ああ、そうだ、ここは東京で、怪獣に殺されるために――と思い出す。香菜は死んでいた。落下した瓦礫に押し潰されて、肉塊になっていた。頭カチ割れて、脳漿飛び散って、腕とかヘンな方向にひん曲がって、目を剥いて、血溜まりの中で、死んでいた。あんなに沢山あった高い高いビルの群れも全部倒壊して、一面が焼け野原になっている。怪獣が何かやったんだ。ぼんやりとそう理解はしたが、理解したからといってどうすることも出来なかった。

 香菜が死んだことに対して、自分でも驚くほど何の感情も湧かない。ただ、もう振り回されて面倒な思いをせずに済むという安心と、そう言えば拾った子猫が車に轢かれて死んでしまった時も、同じように涙の一滴も出なかったことを思い出していた。てらてらと輝く内臓や真っ白な骨が飛び出た死体を見て、自分もいつかこうなるのかな、なんてことを考えていたのだった。もう香菜ではなくなってしまったモノを見て、ねぇ、完璧になれた? と訊いてみる。答えはない。怖がる間もなく、一瞬で死ねたのだろうか……。そうだ、死にたかったのは香菜ではなく、むしろ私だったのではないか。この何もかもが焼き尽くされて生命が絶えた光景を、心のどこかでずっと待ち望んでいた。しかし、自分の本性が分かったとしても、その先は無い。このまま香菜と同じように死んで、朽ちていくだけだろう。恐怖も後悔もない。ただ、どこから間違っていたのかとも思うけれど、強いて言うならこの世に生まれ落ちた瞬間から間違っていた、と思う。あちこちから既に死に、あるいはこれから死んでいく人々の断末魔が聞こえる。

 怪獣がどこかへ去っていく。後ろには、死屍累々の地獄がどこまでも広がっている。私はその光景を眺めて呟いた。

「綺麗」

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