2:御とと神社

 ぽつねんと取り残された来訪者は、途方に暮れることになる。

 事前に約束していた、案内役の姿がなかったのだ。

 仕方なし、昼前の日差しから逃げるよう木陰に潜りこんで、村の様子に目を配る。

 四方に広がる狭い田畑を跨げばすぐに松の繁る山なので、囲まれ圧される風景に圧されようで眩暈を覚えてしまう。

 そこへ鼓膜を掻きむしるような蝉の声が、重なり響くからなおさらだ。

 気を紛らわせようと携帯電話を取り出し、指紋でセキュリティを抜けると、スケジュールを確認。記憶の通り、今の時刻に支所前の門で待ち合わせとある。

 人の気配がない寂しい空気もあって、胸の内の鬱々しさが首をもたげ始めれば、

「大瀬さんですか? すいません、お待たせしました」

 門から小走りの足音が近づいてきた。

 振り返れば、白ワイシャツの襟を汗で濡らす温和な中年が。

 待たせたと言うから、ならばこの人が案内人かと胸を撫で下ろすが、はて、と首を傾げてしまう。

「案内は与川・具香くみかわ・ともかさんと聞いていましたが」

 いわゆる『村長さん』の長女と聞いていたのだが、目の前にいるのはどれほど贔屓目を使っても男性である。

 彼は木村と名乗り、笑顔のまま困ったように「いやあ」と弁明をするところによれば、

「先日、いわおさん……具香さんのお父さんがお亡くなりになりまして」

 意外な、けれど他人事である訃報を持ち合わせていた。


      ※


「九〇才の大往生でしたから、お身内は先回りで準備をしていまして。慌てることもありませんでしたよ」

 御とと神社へ続く古く緩やかな石段を、男二人は談笑をしながら登っていた。

 並ぶ杉林が日影になれど、熱せられた空気が首筋を撫でるから滴る汗が止まらない。

「とはいえ、家長の葬儀だと各種手続きが山盛りでしょうに」

「ええ。ですので、具香さんは祭りの準備には顔を出さず、家のほうに」

「それでは、私の案内なんか無理でしたね」

「一段落したら向かうと言っていましたから、それまでは私が」

 指さす先は神社なのだろう。

 がやがやとにぎやかな声が風に乗って下ってくる。

「村人のほとんどが集まって、夜の準備をしているんですよ」

「なるほど。だから人の気配がなかったのですか」

「下に残るのは、私みたいな村外の人間だけです。地元のお祭りなんでできるかぎりは協力しますけど、無理強いはないので助かっていますよ」

 木村は、人の好い愛想笑いを見せると、額の汗を拭った。

 路洋も、合わせて肩にかけたタオルで顔を拭う。

 階段はちょうど中ほどであり、まだ半分も残るのかと好奇心が萎えそうになっていると、

「大瀬さん。あっちです」

 本道から逸れる道を、役人が案内してくれた。

 傾斜はやはり険しく、石段もなく粗末な脇道だ。

 組んだ木でどうにか足を掛ける段を作られるばかりで、雨に流された土らが溜まっている。頻繁に使われているわけではない証左だ。

 では、その先に何があるのかと見上げていけば、茂みに見え隠れする石碑がある。

 高さは人の腰ほどだろうか。

 いったい、何事かの足跡でも刻まれているのか、と首を捻れば、

「祭りの最後。捧げられた供物を納める献げ社ささげやしろです」

「あれが。いや、もっと厳めしい社かなにかを想像していたんですが」

「はは。見た目はただの記念碑ですからね。ですけど、実際は凄いですよ。下に石扉があって、ちょっとした地下になっているんです」

 木村が説明してくれることには、中には長々と棚がしつらえており、年々の供物が納められているという。

「ですから臭いが酷くて、近づくだけで頭が痛くなるほどですよ。魚を納めたあと、夜が明けるまで石扉を開いたままにするんですが、換気も兼ねているんでしょうねえ」

「開けたままに?」

「ええ。とと様が魚の命を引き取りにくるため、と伝えられえておりますが」

 なるほど、と頷き、けれど違和感があって顎に指をかける。

 思案が具体に指を掛けるが、その指を引きちぎるように、

「とととととととととととととと」

 奇声が、茂みの揺れかさつく音とともに飛び出してきたのだった。


      ※


 だしぬけの乱入者は、路洋と木村の間を勢いよく割るように、階段を駆け下りていく。

 後ろ姿は成人男性のそれであり、くすんだシャツにくたびれたジャージを着込んで、あろうことか足元は裸であった。

 汚れることも小石を踏む傷みも意に介さず、男は体を大きく振りながら階段を駆け下りていく。

 齢は四〇ほどに見受けられるが、顔つきは幼く体格と釣り合っていない。

 一見で正気のかけらも見受けられず、路洋は蠢く背を呆然と見送るだけ。

「ああ、壱樹いつきさんか」

 ほどなく開かれた木村の口は、苦く惑い、憐れみと怒りとが混じっていた。

与川・壱樹くみかわ・いつき。巌さんの長男なんです」

「巌さんというと、村長さんの?」

「ええ。本来なら年齢的にも跡取りなんですが、ご覧の通りでして」

「あれは、その……先天的なもので?」

「私が赴任する前なので詳しくはありませんが、どうも一〇年前ころに突然だったらしいです。なんでも、進学で県外に出た頃とか」

 なるほど、と意味合いの変わった汗を拭うと、

「ああ、お迎えが来ましたよ」

 突き飛ばされた精神を持ち直して、木村の目を追いかける。

 果たして、狂人の行く手に人影が立ちはだかっており、奇声も不快な足音も止んでいた。

 向かい合うのは遠目でも静々しい佇まいをした、和装の女性であった。

「あれが具香ともかさんです。喪服のままで……お兄さんを慌てて探しに来たんでしょうな」

 呆けた兄にかける声はここまで届かないけれども、優しく語り掛ける姿は柔和な美しさに満ちている。

 真夏の昼間とは思えない、その涼やかさのためであろうか。

 仮の案内役があれこれ、何かを教えてくれているが、鼓膜を揺らすばかりで意味を汲み上げられない。

 路洋は自身の目を、具香と紹介された彼女へ釘付けにされてしまったのだった。

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