3:与川家
「壱樹がご迷惑をおかけしました」
小さく古い診療所前で、
姿を消した兄を追って、留める暇もなかったのか。強い陽光に洗われる艶やかな黒髪はばらりと垂れさがり、にじむ汗に湿って輝きを増している。
「葬儀と後片付けのあいだ、先生に預かってもらっていたのです」
なるほど、と路洋は合点する。
入院用の病室は窓から覗けたが、どう見ても心療科としての備えはない。果たして、気を違った者を繋ぎとめておくには粗末すぎると考えていたのだ。
一時的な預かりだからこそ、院内も騒然としていたのだろう。
四人が連れ立って訪ねた時には、主である内科医と看護事務らも捜索のために誰も不在であった。
待合室にて電話で連絡を取り合って、間もなく血相を変えた医者らも駆けつけて、騒動は一段落となった。
「先生、安心したのか座り込んでいましたねえ」
「木村さんも、本当にありがとうございました」
「いやあ私は一緒にいただけで、何も……ねえ」
人の良さそうな役人は、同意をこちらに求めてきた。
言うとおり、居合わせただけで何をしたわけでもない。途中でまたぞろ急に駆け出すかも、と心配して同行したが、当の壱樹は最後まで大人しく手を引かれており、杞憂であった。
だから
「こんな大変な時とは知らず祭りの案内をお願いしてしまって、こちらこそ申し訳ありません」
「そんな、お客さまに気を遣わせてしまって」
頭を上げた彼女は、疲れから少しやつれて見えるが、遠目で見た以上に美しい顔立ちであった。
夏の濃い日差しはなおさら目鼻立ちを際立たせるから、路洋は不躾ながら照れもあって目を泳がせてしまう。
「父の死が急だったもので、いろいろと手配も追いつきませんで」
意識してしまうと、申し訳なさそうに微笑む口元にも謝意を込める目元にも、なにやらむず痒さをおぼえてしまって、いやあ、と頭を掻いて誤魔化すばかり。
心持ちは良いが居心地の悪い。そんな空気を、甲高い携帯電話の着信が痛烈にノックしてきた。
「ああ、私です。すいません……あれ、事務所からだ」
汗を拭き、ディスプレイに目を落とすと小首をかしげながら輪を離れていく。
仕事を終えて案内の代役を任されたと聞いていたが、どうしたのか。路洋が目で追いかけていくと、向かい合っていた色良い唇が、あら、と小さくこぼす。
「役場のほうで、なにかあったようですね」
「なにか? どうしてわかるんです」
「木村さん、困った顔をしていますから」
なるほど、と目を直せば、確かに天を仰いで顎に手を当てている。
深刻ではないが急を要する、という雰囲気だ。
「大瀬さん。もしよろしければ、案内は私がいたしますけれど」
「具香さんが。けれど後片付けが済んでいないのでしょう」
「もとは私が引き受けたお話ですし、残る仕事もほんの少しですから。大瀬さんも歩き詰めでお疲れでしょう、屋敷で少しお休みください」
ほどなく木村が、役場に戻らざるを得ないため案内役を降りる旨を告げてきた。
目の前の女性と二人きりに取り残されることに心中を泡立たせながらも、路洋には否応がなくなってしまった。
※
与川の屋敷は、役場から離れた高台に門を構える。
由来正しい名家の古風な面影を想像していたが、見事に裏切られてしまった。
大きく立派な平屋ではあるが建築様式としては近現代のもので、築で数えれば二〇年ばかりだという。
「私が子供の頃、修繕も限界になりまして。父が村長を降りる際に建て替えてしまったのです」
座敷に案内する廊下をしずしずと歩みながら、具香は故人の思い出話を聞かせてくれた。
口振りから察せられる為人は、強権的ではあれど、父親としては厳しく優しい。彼女自身も畏敬を以て、最期の見送りをしたそうだ。
だからこそ、路洋は戸惑ってしまう。
「けれど、本当に良いのですか。その、葬儀の一環だと思うのですけれども」
与川家のしきたりとして、葬儀のあとに家系図へ故人の名を記す。
風変わりなルールに興味を惹かれたフリーライターが不躾に見学を願ったところ、喪主は簡単に許諾をくれた。
それどころか、逆に気遣う始末で、
「見られて困るものも減るものもありませんからお気になさらず。けれど、記者さんが見られて面白いかどうか……」
「いえ、何事も見てみないとわからないですから」
この心持ちであるから、とと様をこの目で確かめにきたのだ。
好奇心を隠すことはせず、通されるまま仏間に足を踏み入れた。
日中にも関わらず、明かり取りのない部屋は薄暗かった。漏れ入る日光が強いため、見ることに支障はないけれども、それでも神経に障る暗さだ。
やがてリモコンからLED灯が点けられ、煌々と座敷が照らし出される。
仏壇と床の間がある八畳間で、中央に座卓があるだけのシンプルな部屋。
入って気づいたのは澄んだ墨の香りで、元を探せば座卓上の硯だった。
並んで巻物が広げられており、直線と古い漢字で構成された文面が家系図であることが知れる。
「これが」
「ええ。途中で先生から電話があって、慌てて飛び出したものですから」
微笑む彼女は膝を折ると、尻から裏ももまでの生地を手で伸ばす。
腰を下ろし、投げ出されていた筆を取れば、巻物と向かい合った。
背後から、見え隠れするうなじ越しに覗き込めば、いくつもの名前と享年が墨で刻まれている。
線を新しい側からさかしまに追っていくと、違和感に行き当たった。
古く大きな家と言うと、不慮の事故や病から全体を守るため親族を増やす傾向が強い。
ところが与川家は、家系図がひどく寂しい。極端に一つ線しか引かれていないのだ。
「おかしな家系図ですよね。私も祖父が亡くなった時に初めて見たのですが、だいたい一人っ子なのです、家系図だけ見れば」
「含みがある言い方ですね。うかがっても?」
こぼすように笑った具香は、単純なことです、と肩をゆする。
「分家になった次男以下や嫁に出た娘は加えられない。理由までは知りませんが、きっとこうして葬儀ののちに書き込むことと関係があるのかと」
「変わった習慣ですね。それだと、血筋が不明瞭になるでしょう」
「そうですね。これは私の想像なのですけれど」
肩をまたいで見えた微笑む口元が、ねち、と水音をたてて推し量りを教えてきた。
「わざと不明瞭にしているのかも」
※
「ですから与川の家はたびたび断絶していて、よそから子を入れた。けれど正当性がない世継ぎでは苦しむ村人を御せなかった」
なので、現在の村長だけが与川であり、予断を持とうとも確信とはしない、曖昧な形としたのではないだろうか。
「見ての通り、夭逝した者は名前も残りません」
「つまり村を守るために、血統をあやふやにしていたわけか」
「見てください。家系図の最初の頃はちゃんと、兄弟まで書かれているのです」
けれど、ある時を境として途端に空白が大きくなる。
その年号を追えば、元禄の初期。
「元禄の大飢饉の頃ですね。つまり」
「拙い思い当てです。反証もありまして……これです」
ほっそりとした指が擦るように滑らせるのは、代々当主の享年だ。
おおよそ七〇から一〇〇の間に収まっており、五〇をくだる者はいない。
「時代から考えたら、ずいぶんと長生きだ」
「ええ。健康な血筋なのですよ。なのであったとしても、元禄の飢饉の折りに一度だけではないかしらと」
度々の断絶はまったくの想像であろうと、笑みで切って捨ててしまう。
「父も、祖父も、二人の兄弟も、みな長生きでした。分家となる親戚一同、葬儀では朝まで飲み明かすほどには健康なのです」
困った様子で小首をかしげると、
「飢饉を救ってくれた、とと様のご加護なのかもしれませんね」
まったく理も根拠もない、それこそ思いつきを、冗談めかしてくる。
来客への畏まった仮面ではなく、まるで年頃の彼女が見せる可愛らしさを垣間見たようだった。
路洋は思わず言葉を失って、しばし、ぼんやりと具香の口元に目を奪われる。
時間が止まりでもしたような数瞬は、けれど一間に切り破られた。
「誰だ! 誰かいるのか!」
若い男の怒声が、玄関口から投げ入れられたのだ。
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