第73話 ダラダラしている時間はない! ①

 夜通し中データを読み込んでいたコンピューターが、朝にはレポートを仕上げていた。


 グレースがゾアンとの更新の際に受信した、電磁場と思われる波の分析結果である。


 確かにこの電磁場はグレースの言うように、言語である可能性が高い。電磁場パターンが、現在人類が知りえる言語に共通する大きな枠組みにはおさまっている。


 しかし、解析して翻訳することは不可能であった。


 それもそうであろう。


 感受性から一般常識、物事を捉える視点、なにもかもが違う生物が発する言語が同じ常識の枠組みに入ると思うべきではない。


(それにしても、グレースが聞こえていた声ってやつの主が、まさかゾアンだったなんて。)


 政府のトップシークレットと言っても過言ではないだろう。


 この事実が明るみになることでもたらす混乱のことを考えると、グレースやサンティティは慎重にならざるを得なかった。


 だが、ダニーからすればこれは既に一大スクープだ。


 ジャーナリストの仕事は真実を伝えることであり、思想を広めたり大衆操作を行うことではない。


 だから、本来はダニーが真実の起こす結末に責任を持つ必要はないのである。


 しかし、グレースたちとは協力関係にあり、反対を押し切り記事にするのもどうかと考えた。


 そもそも、証拠もないのに記事を書くわけにはいかない。彼のジャーナリストとしての矜持はそれを許さなかった。


 グレースの方はというと、相変わらず夜な夜なサンティティに第一入船ホール近くまで連れて行ってもらい、ゾアンとの交流を深めようとしている。


 彼女はもう慣れたもので、以前のように気持ち悪くなったりはしなくなっていたようだ。


 後で分かったことだったが、グレースの脳は一部のシナプス構造が変化し、脳神経細胞が新しい回路を構築したとのことだ。


(筋トレじゃあるまいし、成人の脳の神経構造なんて、鍛えたからってそう簡単に変わるもんじゃないっての!)


 サンティティはグレースの脳の適応力に大いに感心した。


(でも…)


 グレースの病気が治る見込みはない。


 サンティティは、グレースの知らないところで昼夜仕事もそっちのけでグレースの脳の病気を治すための研究を進めていた。


 幸い、今回の件でいくらでもグレースの脳を覗く言い訳ができる。しかし、一向に目処がつかない、暗い暗礁に乗り上げている状態だ。


 脳改造で施された特殊な脳ナノ細胞が、原因不明に突然脳内で広まる腫瘍のようなものを破壊するのでなんとか生きていられる感じだ。


 しかし、この脳ナノ細胞の作り方をサンティティは知らない。


 そして、このナノ細胞は、時を追うごとに徐々に数が減っていっているようだった。要するに、時間の問題、ということである。


 グレースは、「生きている今を楽しみたい」と言った。それから病気の話は一切しなくなった。


 だからサンティティも彼女の前では明るく優しいボーイフレンドを演じ、それを知らないダニーは、いつもウザそうに二人がイチャイチャしているのを眺めていた。


 サンティティが二人のために朝のコーヒーを淹れていると、グレースが起き出してきた。


「おはよう…」


 グレースがそう言うと、二人はお互いに近づいて寝起きのキスをする。


「おはよう、今日の調子はどうかな?」


 グレースを抱きながら、優しく声をかける。


 グレースは少しニコッとしてサンティティの胸に顔を埋める。


「んん〜、絶好調かも!」


 と言って、ギュッと抱きしめる力を強める。


「ぐわぁ〜、強いし!」


 サンティティが大袈裟に苦しんでいるような声を出してふざけると、「もう!」と言って、顔を膨らませてグレースが思いっきり鯖折りを仕掛けたので、本当に少し痛かった。


「あ、コーヒーできたかな。今出すね。」


 サンティティはグレースから優しく離れて、コーヒーをコップに注ぐ。


 グレースは、サンティティが読んでいたレポートがテーブルの上に置いてあったのを見つけた。


「…何か分かったの?」


「…いや、一応、分析結果によると、言語のパターンの大きな枠組みには当てはまるらしんだけど、いかんせん、これだけじゃ何もできないかな。せめて、目の前で身振り手振りで簡単な言葉だけでも意味がわかれば、大分進むはずだけど…」


「…そう。」


「う〜ん、これから同じことを何度やっても堂々巡りになるかな〜。もういっそのこと、放っておく?もしかしたら政府がすでに意思疎通可能にしているかもよ。」


 サンティティがそう提案すると、グレースは顔を上げた。


「いやよ!だって…ゾアンたち、もの凄く悲しんで、怒ってる。それは分かるの。私が来たら、すごく一生懸命に話しかけてくるの…」


「でも、もう僕たちの手に負えることじゃないんじゃないかな。」


「ねえ、サンティティ…」


 グレースは俯いて語りかける。


「私、あなたと一緒になれて、本当に良かったと思ってる。嘘じゃないわ。正直、少し自暴自棄なところもあって、もの凄く大胆なことしちゃったけど、今は本当にああして良かったって思ってる。」


「グレース…」


 そう言ってもらえて嬉しい反面、この幸せが儚いものだという虚しさが同時にサンティティを襲った。


「あなたとの甘い生活は、私にとっては夢のような日々…だけどね、もう一つ、私は自分が逝ってしまう時、ああすれば良かった、こうしておけば、もしかしたら、とか後悔したくはないの。」


 二人は互いに見つめ合っている。


「私は、あのゾアンたちを悲しみから救いたい。宗教も持ってないし、いつも合理的でいようとする私が言うと、凄く変に聞こえちゃうかもしれないけど、そういうミッションが、私に与えられたんだって、そう感じているの。」


「…行くんだね、グレース。」


 サンティティが問うと、グレースは頷く。


「…じゃあ、僕も一緒に行くよ。」


 グレースはハッとしたようにサンティティを見上げる。


「ダメよ、私はどうせそのうち…」


 サンティティが指を立ててグレースの言葉を遮った。


「そんなこと関係ない。僕はどうなってもいい。君にとって、最高の男で終われるのなら。」


 グレースは、フラフラとサンティティに近づき、おでこを胸につけると肩を震わせ顔を皺くちゃにして涙を流した。


 サンティティはグレースを優しく引き寄せて、片手を背中に回し、もう片方の手で頭を撫でた。


 コーヒーはすっかり冷めてしまった。


 __________________


 その日の午後、サンティティとグレースはダニーに事情を説明した。


「そんなことしたら、グレース、お前、実験材料にされちまうぞ!」


 ダニーがグレースを脅す。


「サンティティ、お前もどうなるか分かんねえんだぞ!何考えてんだ。」


 しかし、二人の意思が硬いとわかると、最後には折れた。


「もし良いネタがあったら、ダニーに送るね。」


「じゃあ、ダニーさん、お元気で。私たちはどうなるか分かりませんが、もし行方不明にでもなったら、記事にでもしてください。」


 サンティティのシャレにならないジョークにダニーは頭を抱えながら、二人が車に乗り込み第一入船ホールを目指して走り出したところを見ていた。


(まったくよ〜、あのバカップルが。)


 ダニーが頭を掻き毟る。


 _________________


 グレースたちが第一入船ホールのある建物に到着すると、入り口では先回りしていたダニーが待っていた。


「ダニー、どうして…?」


「ダニーさん、なんで?」


 グレースとサンティティが交互に質問すると、ダニーは二人の目の前まで来る。


「俺もヤキが回った…じゃねえや、出たとこ勝負だ!俺のジャーナリストの勘がそうしろと言っている。だから、俺も行く!」


 グレースとサンティティはお互いを見合わせ、そして少し笑って涙ぐんだ。


「さあさあ、ダラダラしている時間はないぞ!」


 ダニーが元気よく声かけして、三人はダニーを先頭に第一入船ホールへと向かった。






 第74話『ダラダラしている時間はない ②』に続く。

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