第2話

 私こと美雨は1年ほど前、28歳になったと共に結婚した。相手は大手企業勤めの男性だ。友達の紹介で彼と出会い、意気投合してゴールイン。いわゆる、『普通』の幸せを掴むことができた。

 

 私は普通ではない人が嫌いだ。そういう人を見るだけでも苛立つし、まるで自分を見ているかのようで嫌悪感も感じる。

 だからこそ、誰よりも普通になりたい。親や友達に祝福されて、世間から認められて、どこにでもいるような一般的な人間になりたい。

 ……ただそれだけだったのに。

 

 結婚生活が始まってから判明したことだったのだが、どうやら私は男性と性交渉ができないらしい。いや、できないというのは少し違うかもしれないが……単純に、したくないというだけなのだ。腐った卵と新鮮なフルーツのどちらを食べたいか……私にとっては、そのような選択に等しい。

 

 だが、好き嫌いをしている場合ではない。夫と性交渉ができないと、子どもができない。これも最近判明したことなのだが……子どもができないと、親戚周りからとんでもないくらい圧力がかけられるし、夫婦仲もどんどん悪くなっていく。せっかく幸せになれると思って夫と結婚したのに、これでは本末転倒だ。普通に生きたいだけなのに……ここ最近はずっと、何か重いものを引きずるように生きている。

 

 もう一つ……未練というか、私の人生の中でずっと引っかかっているものがある。元恋人の、千咲のことだ。千咲の存在は、小さいながらも私の中にあり続けている。無意識の中に存在するといった方が正しいかもしれない。

 例えば、友達とチャットアプリでたわいもない雑談をしている時だ。私は無意識に、千咲がよく使っていた絵文字を使ってしまっている。そのことに気が付く度、何とも言えない罪悪感に苛まれてしまうのだ。

 今頃、千咲はどうしているだろうか。千咲も結婚して、私と同じ悩みを抱えていたりするのだろうか。もしそうだったとしたら……久しぶりに話してみたりしたいな。そこらの喫茶店で積もる話でもできたら、楽しいだろうな。

 まぁ、ほぼ喧嘩別れのようになってしまったから、それは叶わないだろうけど。そんな実現するわけのないことを考えながら、見慣れた帰り道を辿る。

 

 すると、手をつなぎながら歩いている女性二人組がふと目に入った。仲が良くて微笑ましいな……なんて思いながらすれ違うと、おそらく一方の女性がつけているであろう香水の匂いが香ってくる。なんだか嗅いだことがあるような匂いだ……そういえば、千咲もこんな香水を使っていたような気がする。

 何かが引っかかるような気がして、反射的に振り返る。よく見てみたら、片方の女性は千咲と同じ、明るい茶髪をたなびかせていた。

 確信があるわけでもない。だが、勘が働いたとでもいうのだろうか。猛烈に声をかけなければならないような、根拠のない衝動に襲われた。考えるより先に、口が動く。

 

「千咲!」

 

 茶髪の女性は勢いよく振り返り、驚愕した顔でこちらを見る。

 

「美雨……!? なんで……」

 

 やっぱり千咲だった。顔つきはあまり変わっていなかったが、あの時と比べると大分髪が伸びていた。

 

「久しぶりだね、千咲……もう会えないと思ってた」

 

 長年会うことのできなかった元恋人を見つけた事に心が踊り、私は千咲の元へ近づいていく。

 

「……なかった」

「え?」

 

 千咲は目を伏せながら、小さな声で何かを呟いた。声を聞くために、千咲の方に耳を傾ける。

 

「今! 美雨に会いたくなかった」

「……は?」

 

 元恋人からの突然な拒絶に、思わず思考が止まってしまう。

 会いたくなかった? 今? 意味が分からない。別に今会ったところで困ることなんてないだろう。そんな、彼氏といる時に鉢合わせてしまった訳でもないのに……

 ふと、ある異質的な考えが頭をよぎる。そんな訳はない。可能性は低い。

 しかし、千咲とは十数年一緒にいたのだ。千咲の表情や口調から、何が言いたいのかがなんとなく分かってしまう。

 千咲の横にいる女性に目を向ける。綺麗な黒髪が似合う、お淑やかな美人だ。その女性は私と千咲を見ながら、気まずそうに視線を泳がせている。

 

「……そちらの方は、千咲の友達?」

「違うよ」

 

 千咲は隣の女性の手を握ってから、私に見せつけるように結びあっている手を上げる。

 

「彼女は私の恋人。友達じゃないよ」

「な……」

 

 やはり、勘は当たっていた。千咲は今、彼女がいたのだ。

 千咲はまるで敵対するような目つきで、私に言葉を吐く。

 

「私は……この子と出会えて幸せ。好きな人が私のことを受け入れてくれて、ずっと一緒にいてくれるって言ってくれて。私は、この子と一緒に幸せになるから。だから、私にもう関わらないで欲しい」

 

 思考が凍りつく。頭が上手く回らなくなる。そんなことを言われても、私はどうすればいいんだ? 声帯が固まったかのように動かず、何も言い返せずに沈黙が流れる。

 

「……な、なんで?」

 

 やっと出てきたのはそんな気の抜けた言葉だった。だが一言言葉が出てくると、堰を切ったように感情が溢れ出す。

 

「おかしいでしょ……なんでまだ女の子と付き合ってんの!?」

 

 違う

 

「そんなのありえないでしょ!? この歳になったら結婚を考えるのが常識じゃん!」

 

 そうじゃない。そういう事を言いたかった訳じゃない。

 

「気持ち悪いよ……そんなの、普通じゃない!」

 

 私の攻撃的な言葉によって、千咲たちの表情が歪んでいく。

 

「ねぇ、美雨」

 

 しかし……それでも私に反抗するように、千咲の目は真っ直ぐこちらを捉えていた。

 

「普通ってなんなの?」

「え?」

「美雨にとっての普通っていうのは……男の人と恋愛して、結婚して、子どもを産む。多分そういうのだよね」

「……いや、そりゃそうでしょ」

「私にとっての普通は! 普通の幸せは……好きな人と結ばれて、ずっと一緒に生きていくことだよ」

 

 千咲の諭すような言葉は、釘のように私の精神をえぐってくる。口汚く罵倒されるより、なぜか刺さるものがあった。

 

「多分私たち、考え方が合わなかったんだね」

「ちょ……ちょっと待って……」

 

 千咲はそう言って、隣にいた恋人と共に去っていく。

 

「さようなら、美雨。もう会わない」

「あ……」

 

 あれだけ罵ってしまった私に、追いかける資格も無かった。

 違うんだよ千咲。本当はそんなことを言いたかった訳じゃないんだ。

 余裕の欠片も無い毎日を送っているせいで、口を開けば悲観的な言葉しか出てこない。

 

 今更こんな事を言っても信じてもらえないかもしれないが……幸せそうにしてる千咲を見て、本当に安心した。ずっと……ずっと、気にかかっていたから。

 千咲が良い人を見つけて、ちゃんと幸せになれて、おめでとうって言ってあげたかった。また……前みたいな関係に戻りたかった。今更何を思っても手遅れだ。

 自分の中で消化しきれない程の後悔が、数多の涙となってこぼれ落ちる。

 泣いても、どうにもならない。千咲が帰ってくる訳でも、自分の人生が好転する訳でもない。

 

 せめてもの償いとして、今私にできるのは……あの子達の幸せを願うことくらいだろう。

 もし……私の願いが叶うのなら。信念を曲げない千咲が、これからも幸福に包まれますように。

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普通の幸せ かにわら @nana1207

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