普通の幸せ

かにわら

第1話

千咲ちさき

 

 今まで見たことないような、神妙な表情で私の名前を呼ぶ美雨みう。声のトーンも相まって、今から真剣で大切な話をするのだと分かる。同棲中である私たちの部屋にて、いつもと違った美雨に不信感を覚えていた。

 

「私たちが付き合い初めて、もう7、8年くらいになるのかな? ……結構長い間続いてるよね」

 

 どこか懐かしむような口調で、美雨はそう言葉を落とす。なぜ、今そんなことを言う必要があるのだろう……。

 

「どうしたの? 急に改まって」

「まぁ……ちょっと話したいことがあって」

 

 なぜか気まずそうな顔をしたまま、美雨は返事をする。

 

「千咲はさ、最近……楽しい?」

「へ?」

 

 一切の脈絡が無い質問だ。本当に言いたいことは別にあるのに、何かを濁すために行った質問……そのような印象を覚えてしまった。

 

「た、楽しいよ! 美雨との生活は、毎日楽しい!」

 

 ほぼ反射的に、私はそう答える。

 

「私たちが就職して同棲し始めてさ、ほんと新鮮なことばっかりっていうか……仕事で大変なことも多いけど、美雨も同じように頑張ってて、美雨と一緒の家に住んでるんだって思えたら、私も頑張る力が湧いてくるんだ! 毎日ご飯を一緒に食べて、一緒にくつろいで、一緒に寝て……本当に、幸せだよ。そういえば、最初の頃は私が料理とか全然できなくて美雨に迷惑かけちゃってたよね……でも、美雨が色々教えてくれたおかげで、今では……」

「千咲」

 

 言葉を遮るように、美雨は私の名前を呼ぶ。

 

「私たち、別れよっか」

 

 その言葉を理解するのに、おそらく結構な時間がかかってしまった。理解したとしても、どうすればいいかが分からない。

 心にとんでもなく重量がある石が乗っかってしまったかのように、倦怠感を感じる。思考にもやがかかり、頭がうまく回らない。

 

「別れるって……え? 私のこと、嫌いになっちゃった……?」

 

 しばらく間が空いてしまった後、私はやっとの思いで会話を再開する。

 

「いや、嫌いになった訳じゃないんだけど……」

「じゃあどうして!?」

 

 納得できる訳がなかった。振られてしまった恋人に縋るようで情けないような気もするが、私は美雨に追及する。

 

「私たち、もう25じゃん?」

 

 そうだ。つい先日、美雨が誕生日を迎えて25歳になった。

 私の方が少し誕生日が早いので、美雨よりもお姉さんである期間が少しだけある。ささやかな楽しみだ。

 

「25ってなったらさ、そろそろ結婚とか考える時期でしょ? だからさ……私たち、そろそろ潮時だと思うよ?」

「え? そんなの……」

 

 どうでもいいじゃん、と言いそうになってしまう。でも、美雨にだって自分の人生がある。これ以上踏み込んでしまうのは、美雨にとって邪魔にしかならないかもしれない。

 

「美雨はさ、子どもが欲しいの? だから男の人と結婚しようとしてるの?」

 

 私たちは女同士だ。どれだけお互いに愛し合っていても法律上では結婚できないし、子どもも産まれてくれない。だから、女の恋人と別れて男と結婚する……というのは、理解できる。私自身はとても悔しいし、やるせないけれど。

 

「いや……まぁ、それもあるけど」

「じゃあそれ以外ってなに? ちゃんと説明してよ」

「……自信がないの」

 

 自身がない──という言葉の通り、美雨の顔には覇気が宿っていなかった。まるで、何かを諦めたような表情がやけに印象に残る。

 

「千咲は……『彼氏いる?』って聞かれたらなんて答えてるの?」

「え……?」

「言えないよね? 『彼氏じゃなくて、彼女がいます』なんてさ。でも、それでこの先どうするの?」

 

 自身の顔に汗が滲んでいくのがわかる。言い返してやりたいのに、うまく言葉が出てこない。

 

「嘘をつき続けたら矛盾が重なっていく。矛盾が重なると、いつか絶対にボロが出るよ……私はさ、そんな誤魔化すような恋愛を続けていく自信がないの」

「だったら……!」

 

 精神が擦り切れそうな感覚を抑え込んで、なんとか自分の言葉を綴る。

 

「だったら! ちゃんと皆に言えばいいじゃん! 友達とか、職場の人とか、家族にだって!」

「いや、だめでしょ」

 

 美雨は私に嘲笑うような笑みを浮かべながら、またも言葉を吐き続ける。

 

「一度カミングアウトしたら、私たちは周りの目から耐え続けなきゃいけないんだよ? もしかしたら、直接危害が加えられることだってあるかもしれない。そんな中で、戦わなきゃいけないなんて……」

 

 美雨は後ろめたそうに目を伏せる。

 

「私には、そんな覚悟なんてない……」

 

 言っていることは理解した。話にはちゃんと筋が通っていて、何も矛盾していることなんてない。

 しかしそんな事実とは裏腹に、自分でも驚くほど美雨に対して怒りを覚えていた。

 

「じゃあ、最初から私と付き合おうなんて考えないでよ! 周囲の人たちと上手く関係を保ちながら、私たち今までやってきたじゃん! 急に、どうしてそんな……」

「だって、普通じゃないでしょ」

 

 その言葉に対してのあまりの嫌悪感に、吐き気すら覚える。自分の中の一番触れてほしくないところに土足で踏み入られ、動悸が治まらない。

 

「今まで、誰にどんなことを言われても我慢してたけど……」

 

 ほぼ泣いてしまっていて、真っ赤になっている顔を上げ、正面から美雨の顔を見据える。真っすぐ弓を射るように、私は言葉を放つ。

 

「美雨にだけは、そんなこと言ってほしくなかった」

 

 

 ────

 

 

 私と美雨は恋人ではなくなった。さっきの話し合い……というか、言い争いによって、そのような結論になった。何も考えず家を飛び出して来たので、当てもなくさまよっていて……現在に至る。

 休日の夜に一人で時間を過ごすのは久々だ。いつもこの時間は美雨とどこかに出かけているか、一緒に夕飯を食べていたからだ。

 人生のほぼ大半を美雨と過ごしていたのだ。どうしても、一緒にいた思い出が蘇ってきてしまう。しばらくは、どうにもできないだろうな……。

 

 半ば徘徊のような移動を続けていると、馴染み深い公園にたどり着く。

 お財布事情が厳しい学生時代に、何回もデートを重ねた場所でもあるのだが、何より……

 

「……私が美雨に、告白した公園だ」

 

 私が告白した時の事を思い出したのをきっかけに、美雨との思い出が溢れ出す。

 初めて出会った時。友達になった時。一緒に遊びに行った時。美羽のことを好きになった時。想いを伝えた時。美雨を抱きしめた時。体を重ねた時。

 今でも鮮明に思い出せる。美雨と過ごした時間、一緒に見た風景。美雨とハグをした時に香る、甘い匂い。

 嫌いだ。全部。美雨のことなんて……

 

「……大嫌いだ」

 

 堰を切ったように、涙が溢れ出す。声にもならない音を上げながら、みっともなく泣き続ける。

 この涙と共に、全部流して忘れてしまおう。辛いから、美雨のことが嫌いだったんだと思い込もう。そうする事でしか、私は自分を守ることができない。

 実際、私は美雨の周囲に迎合して生きていくというスタンスが大嫌いだ。

 皆と違う私は普通じゃない? 上等だよ。

 周りに合わせて普通に生きるよりも、私は私を大事にする。その上で、私は誰よりも幸せになってみせる。結局の所、自分よりも大切なものなんてある訳がない。

 

 ちょっとずつでもいいから、前を向こう。まだ次の恋愛とか、そういうのは考えられないけど……とりあえず、自分の人生をがんばってみよう。できるだけ早く、美雨のことで悩む自分とはおさらばしよう。

 まずは、住むところから探さないとな。とりあえずは……申し訳ないけれど、友達の家に泊めてもらおうかな。そのついでに、美雨のことをいっぱい愚痴ってやろう。

 私は強く一歩を踏み出す。思い出の公園から抜け出し、新しい場所へと向かう。

 

 さようなら、美雨。

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