尻拭い

三鹿ショート

尻拭い

 彼女は他者から嫌われるような言動を繰り返していたわけではないが、孤独だった。

 それは、常に睡眠していることが影響していたに違いない。

 休憩時間ならば理解することもできるが、それが授業中までにも及んでいるとなれば、彼女を睡眠不足にする何らかの理由があるのだと考えてしまう。

 ゆえに、その邪魔をしてはならないと気を遣ったために、彼女に接触しようとする人間が皆無なのだろう。

 それに加えて、全ての授業が終了したと同時に教室を飛び出していることも、孤独を手伝っていたのかもしれない。

 隣の席である私は、彼女の寝顔を何度も目にしていたため、何時の間にか彼女の虜となっていた。

 だが、彼女に声をかけようにもその時宜が無く、翌日こそと決意した夜を何度経験したことか、憶えていない。


***


 ある夜、私は飲食店で揉めている人間たちを目にした。

 従業員らしき人間の言葉から察するに、客である男性が金銭を支払おうとしていないらしい。

 男性は娘が来るまで待つようにと頭を下げているが、それが真実かどうかは不明である。

 待ちきれなくなった従業員が然るべき機関に通報しようとすると、男性は土下座を始めた。

 このような姿を目にすれば、娘も幻滅することだろう。

 他の客の目もあり、従業員もこのことに時間をかけたくはないのだろうと察したため、私は男性の代わりに支払うと口を出した。

 従業員と男性は目を丸くしたが、その態度に構わず、私は男性と自身の金額を丁度支払うと、男性を連れて店を出た。

 従業員が追ってこなかったことを考えると、特段の問題が無いということなのだろう。

 しばらく歩いたところで、男性は頭を下げてきた。

 情けない笑みを浮かべていたが、やがて男性は店に来なかった娘に対する愚痴を吐き出した。

 このような父親を持つ娘は苦労するだろうと考えていると、我々に声をかけてくる人間が現われた。

 それは、彼女だった。

 どうやら、眼前の男性の娘が、彼女であるらしかった。


***


 彼女に案内された自宅は、散らかっていた。

 至る所に酒の空き缶や空き瓶、そして塵などが放置され、部屋の中央を虫が堂々と這っていた。

 隣の部屋から聞こえてくる父親の鼾を気にすることもなく、彼女は私に茶を出してくれた。

 それを飲んでいると、彼女は事情を語り始めた。

 いわく、彼女の父親は、働くことができないらしい。

 自身が勤めていた会社の上司と彼女の母親が関係を持っていることを知ると、その衝撃から寝込んでしまい、やがて起き上がることができるようになったが、全ての人間が自分を裏切るのではないかという恐れから、働くことが出来なくなってしまったようだ。

 彼女の母親はその相手と逃げてしまったため、働き手が皆無となってしまった。

 ゆえに、彼女が代わりに汗水を流すことにしたらしい。

 授業が終わると即座に学校を飛び出していた理由は、少しでも多く金銭を稼ぐためだった。

 学校で眠り続けていたのは、その疲労によるものだったようだ。

 私は、のうのうと生きている自分が恥ずかしくなった。

 それと同時に、彼女に対する想いがさらに強まった。

 自分の大事な時間を犠牲にしてまで家族のために働くことなど、なかなか出来ることではない。

 ゆえに、私は少しでも彼女の力になりたいと考えた。

 私のことを認識してほしいという下心は確かに存在するが、忙しい彼女のために何らかの助力をしたいと考えたことも、嘘ではない。

 それを告げると、彼女は首を振り、遠慮するような言葉を発した。

 しかし、私が食い下がると、やがて呆れたように息を吐き、勉学の手伝いをしてほしいと頭を下げた。

 確かに、彼女の学業成績は良いものではなかった。

 授業中に寝ていれば、当然のことだろう。

 疲労を回復するためにも、授業中はこれまで通りに眠ってもらい、放課後に当日の授業の内容をまとめた筆記帳を貸し出した。

 どうやら彼女は元々の出来が良かったらしく、それらに目を通しただけで、学業成績がみるみる良いものと化していった。

 それを知った父親は、複雑な表情を浮かべていた。


***


 大学へ進まずに働き続けると思っていたが、彼女はそうしなかった。

 それどころか、彼女が姿を見せることがなくなってしまったのである。

 事情を訊ねるために自宅へと向かうと、暗い表情の彼女が出迎えた。

 いわく、彼女の父親は、自らの意志で生命活動を終えたらしい。

 遺書によれば、自分が存在していることで娘の明るい未来を奪いたくは無いということだった。

 確かに、出来の良い彼女ならば、進んだ先で素晴らしい功績を残すに違いない。

 それが分かっていたからこそ、彼女の父親はこの世を去ったのだろう。

 だが、彼女の気が晴れることはない。

「私はこれから、誰のために生きるべきなのでしょうか」

 俯きながら、彼女はそのような言葉を吐いた。

 面倒だが、父親の世話をするということが日常だった彼女にとって、それが無くなったということは、生きる意味を失ってしまったということになるのだろう。

 彼女の父親の選択は正しくもあり、間違ってもいた。

 抜け殻と化した彼女に私が出来ることといえば、一つしか無いだろう。

 私は彼女の手を握ると、

「これからは、私のために生きてほしい」

 彼女は虚ろな目で、私を見た。

 無言の彼女に代わって、私は口を動かし続ける。

「私はきみを愛している。きみにも私を愛してほしいと強制するつもりはないが、私の人生を支えてほしいと思っている。きみが隣に存在してくれていれば、私はこの心臓が止まるまで、動き続けようと思うことができるのだ」

 彼女は言葉を返すことなく、俯き続けている。

 やがて私が握っていた手から逃れると、

「しばらく、考えさせてください」

 私は首肯を返すと、彼女の自宅を後にした。

 帰り道に、私は頭を抱えてその場でしゃがんだ。


***


 数日後、私の自宅を訪問する人間が現われた。

 大きな鞄を持ちながら顔を赤らめる彼女を見て、私は思わず抱きしめた。

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