エピソード Ⅱ 「村田英世」殺人事件

      1

 「今日の酒は、お馴染みの『司牡丹』ですよ。純米酒にしてみました。土佐の酒はやっぱり、辛口じゃあないといけません」

 S氏はいつものように、日本酒の栓を抜くと、カットグラスに酒を注いで、私に差し出した。

「司牡丹は、この前の『土佐鶴』と並んで、土佐の酒の中では全国区でしてね。高知市の西、佐川町に江戸時代からある、老舗の酒造メーカーですよ。

 そうそう、土佐鶴が『三田佳子』なら、司牡丹は『藤純子』でしたね。ご存じでしょう?東映で高倉健の任侠映画、『緋牡丹お竜』の役で一世を風靡したもんです。

 えっ、ご存じない?やっぱり、時代が違いますかな?『寺島しのぶ』って、女優さんはご存知ですか?そう、歌舞伎の『菊五郎(七代目)』の娘さんです。そのお母さんが『藤純子(=現、富司純子)』ですよ」

 私が、寺島しのぶを知っていたことが、余程嬉しかったのか、グラスの酒を一口飲んで、S氏は小鉢をテーブルにのせた。

「今日のあて(肴)は『チチコ』ですよ」

 小鉢には、小さな肉片のようなものが、数個入っている。

「これは何ですか?肉のような、鳥のモツのような……」

「高知の名物、といえば、何です?」

「坂本龍馬に『かつおのタタキ』でしょう?初めてお会いした時に、そう、おっしゃってましたよ」

「さすが、元雑誌の記者さんだ、よく憶えてらっしゃる。この『チチコ』ってのは、その、鰹の心臓ですよ。鳥のモツみたいだと、おっしゃったのは、なかなかお目が高いと感心しましたよ。

 鰹一匹に、一個しかない心臓ですから、結構、貴重な部位ですがね。土佐の漁師は何でも食べる、無駄が嫌いでね。本来、捨てる部位も何とか食べようとするんですよ。そこで、まず、塩焼きにする。何でも、刺身か、塩焼きで試す。食材、の味が判るからでしょう、塩、が基本です。それが美味い。漁師しか食べれない料理だったのが、評判になって、一般人も食べ始める。何で『チチコ』なのかは、私は知りませんが、辛口の酒には最高ですよ」

 毎度のことながら、S氏の差し出す『小鉢の一品』は酒の肴には『最高』のもの、らしい。恐る、恐る、箸で摘み、口に入れる。塩味と歯応えが良い。噛むと甘味が出てくる。

「美味しい。これはイケます。酒に合いますね」

「そうでしょう、そうでしょう」

 と、S氏は嬉しそうに、酒をまた口に運ぶ。

      *

「今日のお話は、本格的な事件です。しかも『殺人事件』と言われていたものです。一般人が滅多に遭遇するもんじゃあないですが……。

 そうだ、村田英雄って歌手をご存知ですか?ほう、名前は知ってる。何年か前に、清水アキラって、芸人が、ものまねしていたのを、憶えてらっしゃるんですか。

 村田英雄の代表曲といえば、『王将』、将棋の坂田三吉を唄ったやつですよ。今回の話は、村田英雄と将棋に纏わるお話です」


        2

 旅館「刻(とき)屋」の玄関を入った、少し脇に、二個の長テーブルがある。丸椅子がその周りに六個ずつ、計十二個並んでいる。そのテーブルの一つに薄汚れた、ベージュのコートを着た三十前後の男が座っている。彼の前、テーブルの上には味噌汁と大根と鰯の煮付け、お茶の入った湯呑。手にはどんぶり飯の茶碗と箸。

「そんなに、あわてんと、ゆっくり食べたらエエやんか」

 刻屋の女将、お寅ばあさんが笑いながら、お茶を入れ替えてやる。

「刑事って仕事は、そんなに、セワシイもんかえ?昼飯もゆっくり食べれんちゃあ、刑事何ぞ、なるもんやないぞね。体、壊すぞね」

「いやあ、別に慌てとらんですき、これが普通ですき。ただ、飯が美味(うもう)て、止らんがです」

 と、男は、一旦、どんぶりをテーブルに置き、淹れたての熱いお茶を口に運んだ。

「あぁ、お茶も美味い。ここで食べる昼飯は最高ですきに。お寅さんの料理は『日本一』ですらぁ」

「おべんちゃら、いうてもお代はまからんよ。大した料理じゃないろうに……」

「天下一品、おふくろの味、いや、おばあちゃんの味。高級料亭じゃあ、食べれん味です。お世辞ではありません」

「あんた、刑事の安月給じゃあ、高級料亭の味なんぞ、知りゃあせんろう?それとも、どっかで、接待でもされたがかね?罪を見逃す代わり、ゆうてヤクザの偉いてさんとかに……」

「め、めっそうもない。僕は、お寅さんと同じで、ヤクザと女衒は大嫌い、ですきに」

 刑事の青年は、めしと大根を口に詰まらせながら、言い訳をするように声をあげた。

 お寅さんも、青年をからかうのをやめ、彼の前のイスに腰をかけ、一息入れるように、自分用のお茶を湯呑に入れた。

 ラジオから歌謡曲が流れてきた。ちょうど、お昼のニュースが終わり、『お昼の歌謡曲』という番組が始まったのだ。

『ふーけば飛ぶような……』と渋い、浪曲風の男の声が聞こえてくる。

「おっ、村田英雄ですね。『王将』、良い歌ですね。今、凄く流行ってますよ」

「村田英雄ゆうたら、元は浪曲師やった人やろう?『無法松の一生』とか、『人生劇場』とか唄いよった……」

「そうです、そうです。男っぽい歌が多いですね」

「ほいたら、雲坊のことやろう?」

「何です、『雲坊』って?」

「酒井雲坊って、天才少年浪曲師のことよね。その、雲坊が名前を改めて、『村田英雄』ちゅう、歌手になったが。解ったかね?」

「へぇ、村田英雄さん、子供の時からプロの芸能人だったんですか?やっぱ、才能のある人は違いますねぇ」

「雲坊の一座やったら、うち――刻屋――にも泊ったよ」

「ええ!村田英雄がこのボロイ……、いや、田舎の小さな旅館、に泊ったがですか?それ、マッちゃんと同じ、ホラ話じゃないんですか?」

「あんた、今、『ボロイ』って言いかけたね。飯代、倍にしちゃろうか。それと、アテをマッちゃんと一緒にしなや。わたしゃあ、坊主の頭とホラ話は『ゆうた』ことがないきに。飯代、三倍にしちゃろ」

「か、勘弁してくださいよ。刑事は安月給なんですから。で、本当に、村田英雄がここに泊ったんですか?」

「ほんま、ほんまよ。子供の頃やけどね。そりゃ、可愛いし、声は良いし、旭の公民館は大入り、立ち見がでよったぞね」

「ほいたら、この旅館『村田英雄』御用達、ゆうて宣伝したら、客が増えますよ」

「あほらしい、そんなことで集まる客なんぞ、ろくなもんじゃない。御用達は『城西館』でエエのよ。

 そう、村田英雄で思い出した。あんた、あの事件、どうなったがぞね。あんたが駆け出しの頃、この近所で、人殺しがあったやいか。あの死んだ年寄り、確か、村田英世、言わんかったかえ?犯人、まだ捕まっちゃあせんろう?」

「厭なこと、思い出さんといてください。もう、十年も前の事件ですき。『お宮入り』ですわ」

「けんど、あの時、何か『将棋の駒』がどうとか、言いやあせんかったかえ?」

「何々、将棋の駒が殺人事件と関係があるの?新しい探偵小説の話?」

 突然、二人の会話に飛び込んできたのは、お寅さんの孫、S氏である。傍らには、大きな、一見、セントバーナードと、間違えそうな種類の大型犬が舌を出して、荒い息をしていた。

「何やの、黙って入って来て。『ただいま』位、言わんと。家は客商売やからね、礼儀作法はちゃんとしなさい」

 お寅さんは、人前では孫にキツイ。

「犬の散歩、行っとったんか?確か名前は……?」

 と、刑事は犬の名前を思い出せず、S氏に尋ねた。

「ほら、近所の先生とこの犬や、ジョンっていう名前。ジョン万次郎から取ったらしい。元は、うちのじいちゃんが、もろうて来た犬や。勇次さん、前に、何かの事件の時、おうちゅうはずやで、一回やのうて、二、三回。そんなに怖がらんでエイ。見かけによらず大人しい。めったに吠えん。ただ、悪もんには咬みつくらしいき、気をつけや」

「勇さんは、犬が、苦手ながぞね。聴き込みに行きよって、よう、吠えられたり、咬みつかれたりするき。けんど、ジョンは賢いき、勇さんのこと、憶えちゅうろう」

「別に、怖がっちゃあせん。毛が飛んだら厭やから、離れちゅうだけや」

 強がり、言う、刑事やなあ。と思いながら、話を元に戻した。

「それより、ふたぁりで何の話しちょったん?昔の殺人事件?刑事さん、詳しゅう話してみて、こう見えても、うちのばあちゃん、商売柄、人を見る目があるから、ひょっとしたら、事件の謎を解くカギを教えてもらえるかもしれんぜ。どうせ、暇ながやろう?こんなとこで、飯食いゆうがやき」

「ま、まあ、今日は非番やき、暇ちゅうたら、暇やけんど……。話、聴きたいがは、ボンの方やろう?江戸川乱歩とアルセーヌ・ルパンの大フアンらしいき……」

 刑事は笑いながら、冷めかけたお茶をがぶりと飲んで、十年ほど前の事件を話し始めた。

      3

「事件が起きたのは、今から十年くらい前の、ちょうど今頃やった。春の大風――春一番――が吹いた頃やった……」

刑事――名を「坂本勇次」という――は記憶をたどるように語り始めた。

        *

 昭和二十×年二月、夕暮れが街を包み始める頃である。刻屋の近所の路地裏に二、三軒、並んで長屋風の家が建っている。その一番奥の家は、江ノ口川の支流旭川と、井口川に挟まれた、小さい小川――水路と言うべきか――に面している。二月だと言うのに朝から妙に生温かい風が吹いていた。その家の住人――老人の男性――が、家の前の路地に縁台を出し、その上で、ひとり、将棋を指していた。詰将棋の本が側に落ちていたから、その駒を並べていたのだろう。その様子を隣の住人が昼頃、確認している。

 その住人――大工仕事をしている職人である――が、夕暮れ時、仕事から帰ってくると、縁台にうつ伏せになって、屈みこんだまま、動かない老人に気がついた。

 居眠りでもしているのか?風邪ひくぞ、と思い、年寄りに声を掛けたが、返事がない。

「おい、村田のじいさん、」

 と、側に寄り、肩を揺すろうとした。

 薄暗い路地であるが、まだ、西日が差している。その光の下で、老人の後頭部から、血が流れ、固まっているのが確認できた。

「ひ、人殺し。」と思わず大工は叫んだ。

 近所から、おばさん、おじさんが集まる。皆、取り巻くばかりで、近寄って老人の体を改めようとはしない。そこへ、噂を聴いたお寅ばあさんがやってきた。

「何ぞね、みんなぁ固まって、警察には、知らせたがかね?それと、顔役さんにも、知らせちょき。警察へは、うちの、電話、使こうてエイき。マッちゃん、あんた、電話してきィ」

 一番後から、様子を眺めにきた、散髪屋のマッちゃんこと、松岡勝次が「ほいきた。」と踵を返し、刻屋へ走る。

 「ほいたら、アテが顔役さんとこへ知らせるわ」

 と、朝日湯の女将が下駄を鳴らして駆けて行った。

 こういう、非常事態が起きた場合、頼りにされるのが、「ハチキン」で鳴らしている、お寅さんである。誰もが、彼女の指示に従う。

「ほらほら、みんなぁ、下がって、現場を荒らしたら行かんぞね。野次馬はやめて、一旦、うちへ、いんじょり(=帰っていなさい)。後で、警察から、色々、聴かれろうけんど、それまでは、大人しゅう、しときよ。

 大工の留さんは残っちょき、第一発見者じゃき、一番疑われるぜ」

「お、女将さん、ご冗談を。わしは何ちゃあ、しちょりませんきに。ちょこっと、肩に触れただけですきに……」

「わかっちょらあよ。あんたは殺されることがあっても、人は殺せん。人が良すぎて、カカアにも逃げられたがやろう?」

「女将さん、それは、言わんといてください……」

 留さんは、顔を真っ赤にして、お寅さんを拝むような仕草をした。

        *

 本丁筋(=今の上町)の交番から巡査が、その後、サイレンを響かせて、クラウンのパトカーに乗った刑事二名と巡査が到着した。

 本丁筋の巡査が、「さあ、離れて、離れて」と、野次馬連を狭い路地から退散させる。若い刑事――これが、坂本刑事である――が先に立ち、先輩刑事を現場に誘導しながら、白い手袋を装着した。

 年配の刑事は、老人の死体を確かめ、後頭部の傷を確認した後、周辺を見回し、

「凶器らしいもんはないなあ」

 と、誰に言うでもなく、関係者に語りかける。

「何か、鈍器のようなもので、後頭部、一撃ですかね?」

 坂本刑事が跪いて、傷口を確かめながら、年配の刑事に話しかけた。

「それと、将棋してたのか、駒が、散らばってますね?あっ、詰将棋の本も落ちてる。将棋に熱中してるところを、背中から、ガツンですね?」

「そんなところやろう、後は鑑識に任して、聴き込みや。第一発見者は、どこや?一番怪しい奴やでぇ」

 年配の刑事の声は、もちろん、留さんにも聞こえている。お寅さんにも「一番怪しい、第一発見者」と言われているから、生きた心地がしない。できれば、逃げ出したい位である。

 本丁筋の巡査、最近転勤したばかりの若い「山田巡査」が、留さんの背後から、

「この男であります。大工の、留吉と言います」

 と、刑事――名を『浜田内蔵助(くらのすけ)』、通称『浜さん』、上司からは「くらのすけ」と呼ばれている――に報告する。

「そうか、そいつか。悪そうな顔しとる。上田吉二郎か、吉田義男みたいな顔しとるやないか」

 上田も吉田も『東映時代劇』の有名な悪役である。留さんも可哀相だが、役者の、お二人さんも、留さんと比べられたら、迷惑だろう。と、お寅ばあさんは片隅で、ひとり苦笑していた。

「浜さん、留さんが怖がっているやないですか。もうちっと、優しゅうにしちゃらんと……」

 坂本刑事はまともである。留さんを労わるように、鑑識の警官達から離れて、路地の出口付近に移動する。

「立ち話も何ですき、うちの土間にイスと机がありますき、そこで話したらどうですろう、刑事さん?」

 お寅さんの申し出に、二人の刑事は目配せで意見を統一し、その言葉に無言で、甘えることにした。お寅さんにしてみれば、場所を提供する代わりに、興味深い、犯罪捜査の一端を聴けると踏んだのである。

 場所を刻屋の玄関脇に移動し、刑事は留さんの尋問?いや、目撃情報の聞き取りを行った。他の巡査には、近所の目撃情報を当たらせている。

 お寅さんは自ら、お茶を淹れ、テーブルに並べる。玄関先の畳の間に腰を降し、帳簿を見ている仕草をしながら、三人の会話を聴き逃さないよう、耳をそばだてている。

 留さんの話はこうである。

 留さんは、今、行福寺の修復の仕事をしている。近所の浄土真宗の有名な寺である。朝から現場に行き、昼は自宅に帰り、朝飯の残りで腹を満たす。今日も昼飯を掻き込んで、表へ出ると、隣の村田老人が縁台を出して、将棋の駒を並べているのが目に付いた。

「爺さん、詰将棋かい?」

 と、声を掛けたが、煩そうに後ろを向いたまま、片手をあげた。

「おっと、思案中かい?お邪魔さん。じゃあ、行ってくるか。寒いから、あんまり、外の風に当たらん方がエイぜよ」

 人の良い留さんは、お隣さんを気遣って、そう声を掛け、仕事場へ急いだ。

 そして、夕方、仕事を終えて帰ってみると、村田老人が縁台の上で、倒れていたのである。

「怪しい人物とかに、逢わなかったかい?」

 浜さんが念のために尋ねる。

「まったく……」

 と、留さんが答える。

「その、村田という老人とは親しかったのかえ?」

「まあ、隣に住んでますしね、お互いチョンガァですきに、話はしますけど、気難しい人やきに、親しいという程では……」

「何時頃から住んでるんだ?」

「そんなに昔じゃありませんでぇ。以前、ちょっと、小粋な姐さんが住んでましたがね。そこへ、あの村田さんが転がり込んだ、って、ところですかね。イロ、ってもんじゃあないでしょうが、あの年ですしね。伯父か、オジイか、親族じゃあないかって、噂してましたが、その姐さん戦後の食糧難で、身体壊して、ぽっくり逝っちまっちゃったんですよ。流行病だったかな?

 村田さんが、ささやかながらも、葬式を出してあげましてね。位牌も飾って、線香もあげてるみたいでね。そのまま、この長屋の住人になったってことですよ。

 姐さんが亡くなって、今年で五年かな?村田のじいさんがここへ来たのは、その一年ほど前、だから、六、七年になりますろう……」

「村田さんと、親しくしていた人っていますか?それと、誰かに恨まれるようなこととか?」

 と、坂本刑事が尋ねる。

「いや、死んだ姐さん以外に親しい人なんていないね。姐さんが死んで、葬式にも親戚らしい人は来なかったし、列席したのは近所の数人だけでしたよ。それから先は、だぁれも訪ねて来ないね。人付き合いも全くないし、酒も飲まん人やったき、恨まれることもないやろう。半分、世捨て人みたいなもんやったき」

「じゃあ、ここへ来る前は、何をしていた人ですか?仕事とか、生まれとか、何か聴いてませんか?」

「あんまり喋らん人やったき。あっ、そうや、いっぺん、姐さんが出かける時、村田のじいさんに声掛けたことがあって、その時、土佐弁じゃない、御国訛があった。東北訛りみたいな、ズゥズゥ弁やった。ほんで、聴いてみたがよ。生まれは北の方かって。そいたら、福島、会津の生まれ、猪苗代湖の近くやそうな。何でも、邦(くに)の有名人に『野口英世』ちゅう、医者がおって、その人の名をもろうたがじゃ、ゆうてましたわ」

「じゃあ、名前は英世、村田英世とおっしゃるんですね、故人は?」

「そうそう、そうゆうた。会津、ゆうたら、明治維新では土佐とケンカしたところじゃお?敵の邦へよう来たもんじゃ、って、笑ろうてました」

「そっちの方の、恨みかいな?」

「えっ、そっち、というと?」

「解らんか?土佐と会津のケンカよ。宿年の恨み晴らさいでか、ってやつよ」

 まさか、何年前の話や?村田老人――幾つか知らんけど――生まれてないやろう。

「あっ、おまえ、今、そんな昔に、害者は生まれてへんやろう、って、思うたな。すぐに顔に出るやっちゃな。明治維新ゆうたら、まだ、八十年ちょっとしか経ってぇへんでぇ。害者は生まれてへんでも、その父は、立派な成人やがな。親の因果が子にまで、よくある話や」

 得意そうな顔で、自己の推理――単なる空想だが――を語る浜田刑事。彼のもう一つのあだ名は「外しのハマ」である。名推理ならぬ、迷推理をぶちあげ、ことごとく、外す、という名物刑事である。だが、そのことは、ここにいる誰も知らない、坂本刑事もまだ、付き合いが浅いのである。

「刑事」と、山田巡査が敬礼をしながら、玄関口に現れた。

「何や?」と、浜さんはイスに座ったまま、顔だけを向ける。

「鑑識の者が、確認していただきたいことがあるので、刑事どのを呼んで来いと」

「何や?用があるなら、こっちへ来いよ。写真とっとったら、後で確認できるやろうに……」

 面倒臭いやっちゃや、と腰を上げ、留さんに、また後日、尋ねることがあるかもしれんから、旅行などせんように、と、ひとこと言い残して、山田巡査を促し、現場へ帰って行った。

        *

「あぁ、巡査部長、これを見とってください。写真では、よう解らんかも知れませんき」

 鑑識の警官が指し示したのは、被害者の右手の指に挟まれた――いや、抓まれた、と書くべきか――の小さな将棋の駒である。被害者はその駒を、縁台の上の折畳式の将棋盤の上に―ーあたかも、次の一手を打った後のように――置いているのである。

「歩やな」と浜さんが確かめる。彼も俄か将棋ファンである。大山康晴と升田耕三の竜虎対決、王将戦、名人戦などは当時、大評判であった。

「そうですね。遺体を動かしてないとすると、『3・三、歩』という手でしょうか?」

「何や、さかもっちゃんも将棋するんか?今度、手合わせしょう。角落ちで、エエでェ……」

「はいはい、でも、他の駒が飛び散ってて、どんな状況か解りませんね?」

 先ほど見た通り、縁台の上、下の路上に幾つかの駒が落ちている。盤の上には、その『歩』以外の駒はない。

「殺された時に、握っていたんやろう。別に、おかしゅうもないやろう。何を確認せにゃならんのや?」

 そうだな、浜さんの言うとおり、おかしいことはない。害者は詰将棋をしていたらしいから、駒を握っていても、状況として不思議ではない。

「えぇ、即死やったら、何の不思議もないんですけんど、害者は即死じゃないんです。一撃で、気を失うたかもしれませんが、数分は息があったと思います。殺されかけた――実際は殺されたんですけど――人間が、ずっと、将棋の駒を離さんで、しかも、次の一手なんぞ、打ちますかいね?」


       4

「それって、『ダイイング・メッセージ』ってこと?」

 坂本刑事の回想話の途中であったが、S氏は思わず、口を挟んでしまった。

「解らん」

 と、一言だけ。すると、

「『ダイイング・メッセージ』って、何ぞね?」

 横文字に弱い、お寅ばあさんが尋ねてくる。

「よう、探偵小説に出てくる、殺された人が最後の際(きわ)に、犯人につながる言葉を残すがよ。犯人の名前の一部だったり、犯人の特徴だったり。ただ、はっきり残すと、犯人に気づかれて、消されたりするき、すぐには解らんように残しておくがよ。一種の暗号かな。それを探偵が解き明かす。エラリー・クインの『Xの悲劇』が有名よ」

「ボン、はや、エラリー・クインを読んじゅうがかよ。こりゃ、まっこと、まいるよ」

「エラリー・クインでも、アガサ・クリスティでも面白い物は読んどく。それが『探偵小説フアン』というもんやお?」

「本の話は、エエきに、話の続き」

 お寅ばあさんは会話に溶け込めず、坂本刑事に事件の続きを促した。

        *

 将棋の駒、その謎に対して、警察の捜査会議では、

「害者は、相当な詰将棋のマニアで、正解を思いついて、そこへ『歩』を打つことに未練があったんだろう」

 という、本部長の意見が通ってしまった。

 その当時、「ダイイング・メッセージ」なんて言葉、誰も知らんかった。まして、将棋の駒が、犯人を指し示すなんて考えられなかった。

 そういうことで、将棋の駒は事件と無関係、として、「村田老人殺害事件」の捜査が始まった。

 近所の聴き込み、村田老人の人間関係、過去の経歴、おまけに、同居していた「姐さん」と大工の留さんが話していた、ご婦人についても、調査の範囲は広げられていった。

「結局、捜査は『お宮入り』ですわ。何から何まで、さっぱり解らん。まず、村田老人の過去が解らん。住民票の届けがない。福島県の警察に依頼して、年齢七十歳――六十五から七十五位――の男性で、『村田英世』という人物を捜してもろうたがですが、該当なし。まあ、戦争で戸籍も、だいぶ、焼失してしもうてるし、何時頃まで、福島にいたかも、不明ですきに。

 それと、人間関係。これも駄目です。全くと言ってよいほど、人付き合い、なし。解ったのは、戦後、何処からか流れてきて、『姐さん』――こっちはちゃんと身元が判っていますけんど――の働いてた飲み屋の客として現れたのが、唯一の情報ですわ。そこで、姐さんが気の毒がって――多分、宿なしだったんでしょう――自分の家で面倒見るようになった、ってことらしいですわ」

「その、姐さんと村田のじいさんは血縁関係じゃあ、なかったの?」

「そうなんだ、赤の他人。しかも、見も知らずの、初対面」

「じゃあ、何で、一緒に住もう、なんてことになったがぞね。色、恋の対象になる年じゃあなかろうに……」

 お寅さん、孫に聴かせてよい話か、微妙な言葉を使って刑事に尋ねた。

「まあ、色、恋じゃあ、ないですろう。姐さんの勤めてた、飲み屋の女将の言うことには、姐さん、その少し前に親父さんを亡くしてるんですって。年齢からすると『祖父』って感じですけど、家族が欲しかったんじゃないかって、言ってました」

「家族なら、結婚すりゃあ、子もできるろうに、何を好き好んで、年寄りの面倒を……」

「男はこりごり、ですよ。悪い男に騙されて、有り金全部、持ってかれたらしいから」

「そういやあ、あの娘(こ)、ヤクザっぽい男と住みよった時分があったぞね」

「そうでしょう、男嫌い――不審の方かな――になってたとこへ、現れたのが、村田老人だった。父親か、祖父の面影があったんでしょう、身寄りのない者同士、一緒に暮らそう、って、ことなんでしょうかね?」

「お金はどうなの?貯金とか、生命保険とか?」

「殺人の『動機』、一に恨み、二に色恋、三が金だよね。さすが、探偵マニア。

 残念ながら、金の線もなし。少しの蓄えは、あったようだけど、それも、残りわずか。残りの人生、収入もなしに、どうやって生きて行くつもりやったがやろう。そんな心配する程度の貯金」

「自殺、って、ことはないか。後頭部へ鈍器だもんね……。そうだ、その凶器は見つかったの?」

「それも駄目。どんなもので殴られたか、石なのか、鉄製――金属全般――の物なのか、その辺も曖昧なまま。当時はまだ、科学捜査が進んでなかったからね」

「完全にお手上げ状態か。と、なると、やっぱり、手掛かりは、将棋の『歩』になるね」

「そこに戻るんか?」

「『歩』って名前の人いなかった?『あゆむ』とも読めるよ。それと、『歩』の位置だけど、『3・三』って言ってたね?『3』は『み』、『さん』は『山(さん)』、と読み変えれる。としたら、『3・三、歩』で、『三山(みやま)歩(あゆむ)』になる。どう、そんな人物いない?」

「すごい、名探偵、明智小五郎も真っ青……。

 でも、残念ながら、そんな人物はおらん。だって、容疑者がひとりも浮かばん事件なんてある?そりゃ、全国捜しゃあ、『三山 歩』って、人はおるろう。けんど、事件との関係は証明できんぜ。通り魔の殺人じゃあないし、物取りの仕業でもない。村田英世という人間と、何かの接点がある人物、それが犯人や。

 まあ、土佐と会津の因縁はありえんけんど……」

「分ったよ、『三山 歩』は取り消す。

 じゃあ、名前でなくて、犯人の職業を示している、としたら、どう?『Xの悲劇』と、同じ……」

「『3・三、歩』で職業ね。将棋の盤か、駒作りの職人さんか?」

「僕はあまり、将棋に詳しくないんだけど、『3・三、歩』って、何か特別な打ち方なの?それと、『3・三、歩』と打ったの?それとも、突いたの?」

「何?打つと突く?どう違うのかな?」

「持ち駒の中から『歩』を打つ場合と、『3・四』にあった『歩』を突くのとちがうでしょう?ほら、『歩』が敵陣に入ったら、裏返しになる、って、じいちゃんに教わったことがあるけど……」

「成る、ってことか。『歩』が成ったら、『金』に成る」

「そう、それ、何て言うの?『金』になった『歩』のこと?」

「『と金』。『歩』の裏側にはひらがなで『と』と書かれてあるんだ、赤い文字でね。だから、裏返って『金』になった『歩』は『と金』と呼ばれている」

「じゃあ、『ときん』という、職業は?」

「ときん、鍍金(ときん)、メッキとも読む。メッキ工場がある。川向うに。そこの工員か、犯人は……。

 わかった。メッキ工場の工員が、将棋を指してる村田さんの、詰将棋を興味本位で覘いている。その工員には詰将棋の回答が解った。そして、ちょっかいを出した。解答を教えたんだ。村田じいさんは自分で解きたかった。そこで、口論となり、ケンカに発展。手にした大きめの石で後頭部を一撃。怖くなって、川沿いから逃げて行った……。

 こいつは、正解だぞ。ボン、ありがとう、お手柄や。さっそく、当時の工員を調べてみるわ」

 坂本刑事は、勇んで席を立ち、警察本部へ自転車を走らせた。

「あっ、昼飯代、忘れちゅう。まあ、給料日まで、付けといたるわ」

 お寅ばあさんは食器類を片づけ始めた。

「ねえ、ばあちゃん、事件当時、ばあちゃんも現場に行ったんやろう?今の、勇次さんの推理どう思う?辻褄、合ってるかな?そんな時間に工員さん、この辺、通るかな?通ったら、眼に付くやろう?それと、その事件の前から、村田のじいさん将棋してたんかな?二月やろう、その日は温かったけど、冬やで、外で将棋なんて、差したりせんよね。その日、たまたま、やろう?そやったら、工員さんやろうが、誰やろうが、わざわざ、路地の奥まで見に行かんろう。しかも、村田さん、川の方向いて差しよったんやろう?路地へ入る方から見たら、背中しか見えん。将棋指してるなんて解らんよ。よっぽど、興味を持って、中まで入って行かんと、何しゆうかも解らんと思うで……」

 なあ、ジョン、と足元で大人しく、お寅さんにもらった、焼き芋を食べている、大きな雑種犬に、S氏は話しかけた。

「ワン」とジョンが初めて吠えた。「その通り」とでも言うように……。


       5

坂本刑事は、それから三日間は刻屋に顔を出さなかった。巡査の山ちゃん、こと、山田巡査によると、事件の再調査を上司に提案し、お前ひとりでなら、と言われたらしい。

「まあ、当然やろうね。勇さんの仮説は何の根拠もない、想像じゃなくて、作る方の『創造』した説だもん」

「あんたがイカンぞね、探偵小説に出てくる、何とかメッセージ……」

「ダイイング・メッセージ」

「そうそう、それ。ありゃあ、小説の中のことやろう。実際の事件で、そんな馬鹿げた死に方する人はおらんぞね」

「まあ、それが普通だよね。でも、ばあちゃん、村田英世って、老人自体が、普通じゃないんだよ。正体不明、身寄りも知人もなし。不思議な人物の最後には、不思議な物語があってもおかしゅうない。そう思わんかえ?」

「思わん、思わん。戦争があって、世の中が狂うてしもうたがよ。村田英世、ちゅう、年寄りも、狂わされた一人ながよ。不思議なことあらへん」

「じゃあ、こういうのはどう?村田老人は会津の生まれ、名前の由来は『野口英世』博士。これって、おかしいよ……」

「何でね?野口英世ゆうたら、福島出身の有名なお医者さんやいか、その人にあやかって、親御さんがつけた名前やろうがね?」

「村田さん、年いくつ?十年前に、七十歳やろう。ほいたら、千八百八十年代の生れよね。野口英世が有名になったんは、千九百十年代、十一年に梅毒の研究で成果を上げたんが、最初のはずだよ。学校の図書館で、伝記を読んできたから……」

「ほいたら、村田さんが生まれた頃、野口英世は?」

「まだ、小学生くらいかな?だから、村田英世の英世は野口英世の英世じゃない、ってこと。わかった?ただし、これは、村田英世があの老人の本名であった場合」

「本名じゃなくて、何なん?偽名って、ことかね?」

「偽名?じゃなくて、芸名、ってのはどう?ばあちゃんが言ってた、天才少年浪曲師、酒井雲坊、改め、村田英雄、これ、全部、芸名でしょう?村田老人の本名は『英世』じゃない、か、といって、偽名でもない。何かの際に芸名、あるいはペンネームとして、生まれ故郷の『偉人』にあやかって、『英世』と名乗った」

「後から付けた名前、って、言うがかえ?」

「そう、だから、今度の事件のカギは、その『英世』に改名した経緯(いきさつ)、彼の過去の職業にあるかもしれんよ」

「それ、勇さんに教えちゃらんと。あの人には絶対、思いつかんことやきに……」

「そうそう、ばあちゃん、事件があった日の、前後、旅役者の一座が泊ったり、近くで公演したりしてなかった?」

「そう言えば、あの当時は、よう、どさ回りの一座が来よったね。うん、確か、旭の公民館で芝居があった気がする」

「その時の出し物は?時代劇?」

「そうよ、戦後、すぐはGHQのお達しで『まげもの――ちゃんばら――』はいかん、って、言われてたけど、あの当時はもう、時代劇もカマンなっちょった」

「義経か弁慶の出てくる芝居はなかった?歌舞伎でいうと、『勧進帳』の場面とか?」

「あんた、勧進帳まで知ちゅうがかね。えらい読書家やね」

「違うよ。ちょっと気になったことがあって、今日、学校の図書館で調べてきたが。ほんで、どう?そんな芝居あった?」

「あった、あった。旭の公民館の出し物、その『勧進帳』。けんど、役者が大根やき、『成田屋!』って声は掛けられん。床屋のマッちゃんが言いよったぞね」

「ああ、市川団十郎ね。マッちゃんも、映画に芝居、何でも見るがやね。商売、大丈夫?」

「エエのよ。それで、常連さんが来てくれるんやから。それより、何で『勧進帳』なん?事件と関係あるがかね?」

「もうひとつの『と金』……。謎解きは、勇さんが来てからにしょう。ほら、ばあちゃん、お客さんや、商売、商売……」

       *

 坂本刑事が刻屋の玄関のガラス戸を開けて、お寅ばあさんに昼飯を注文したのは、その翌日だった。

「何ぞね、しょぼくれた顔して、そんなことじゃあ、福も来んぞね」

 お寅さんは、お盆に熱い、淹れたての番茶のはいった湯呑を乗せてくると、まず、嫌口(いやくち)を言った。

「僕の福は事件解決ですわ。全然、あきません」

「この、三日、何しよったぞね?」

「そりゃあ、決まっちゅうですろう、この前の仮説、メッキ工場の工員犯人説を追ってたんですよ」

「そりゃあ、ご苦労さん。駄目やったろう?」

「何で、わかるがです?」

「そりゃあ、わからいでか。それより、何にする?今日はクジラのエエ肉をニンニク葉と煮いちゅうぜよ。みそ汁もいるかえ?」

「ええ、じゃあ、それと、卵――生卵――をください」

「えらい、セイの付くもんを食べるがやねぇ。疲れちゃあせんかよ?」

「疲れてますよ、ひとりで、聞き込みに走り回ってましたから……。

 ところで、さっきの質問。何で、無駄足になったって、わかるがです。そんなにしょぼくれてますか?」

「違うき、うちの孫が予言しよったがよ。三日、か四日、遅くても五日したら、勇さんが『しょぼくれて』めし、食いに来る。栄養のあるもん用意し、ちょっちゃり、ゆうて、学校行ったぜ」

「な、何で、ボンがそんな予言なんかするがです?しかも、的中しとるやないですか」

「あんたの、あの仮説、『メッキ工場の工員犯人説』。ありゃあ、想像じゃのうて、作る方の『創造』じゃ、ゆうてから、最初から、ドダイ(=まったく)、無理があったがよ」

「えぇ、最初から、あかん、って、わかってたんか?そんなら、あん時、ゆうてくれたらエエのに……」

「あんた、何も聞かんと、勝手に飛び出して行ったがやいか。あの時、飯代、もろうてへんで。ちゃんと、付けにしちゅうきね、忘れなや」

「あっ、すんません、忘れるとこやった。けんど、あの仮説、どこがおかしかったのやろう?」

「全部、全部」

 と、お寅さんは、孫が語った仮説の駄目出しを、まるで、自分が考えたことのように勇さんに伝えた。

「そうか、全然駄目か。ばあちゃんの言うとおりや。さすが、『亀の甲より年の功』や……」

 すっかり、お寅さんの見解と、誤解している。

「まあ、少しは、孫の意見も入っているけどな」

 そこへ、噂をすればで、当人が、玄関から入って来た。

「ただいま。あっ、やっぱり、勇さん、来てた。そろそろ、『しょぼくれ顔』を見せに来るころやと、思ちょった」

 思わぬ、登場に、大人の二人は顔を見合わせ、どちらからともなく、どっ、と吹き出し笑いをした。

「何やの?ふたりして、気色、悪。あぁ、わかった、僕の悪口、言いよったがやろう?」

「違うがな。名探偵の推理を噂しよったが。今日は、学校、半ドンか?そうか、土曜日やった。忙しゅうて、曜日も解らんなっちゅう」

 勇さんはしばらく洗っていないような、髪の毛を掻きまわす。「金田一耕助」の真似か、と、S氏は思った。

「はよう、鞄置いて、き。あんたにも話さないかんことがあるろう?」

 ばあちゃんの言葉に従って、S氏は鞄を奥の部屋に置くと、玄関脇の土間に降りてきた。そして、二人の大人、両方を眺められるように、長テーブルの、短い方の辺へイスを運び、腰をおろした。S氏の右手に勇さんが、どんぶり飯を抱えている。左手にばあちゃんがエプロン姿で座っている。

「はい、お茶のおかわり」

 と、S氏の母、千代が湯呑を三個、運んで来て、三人の前へ配ってくれた。

「千代さん、あんたも聴くかえ、名探偵の名推理?」

「いえ、いえ、私は用事がありますき、遠慮します」

 千代は、勇さんの前の、空いた湯呑をお盆に乗せ、台所へ消えて行った。

        *

「ボン、何か思いついたがかえ?犯人につながる仮説とか……」

「あんた、昨日『もうひとつの、と金』とか、言いよったろう。それと、『勧進帳』……」

「なんです、そりゃあ?歌舞伎の『勧進帳』ですか?弁慶の立ち往生……」

「弁慶やけど、立ち往生じゃあないきに。安宅の関で、義経一行が、関所を抜けるのに『勧進帳』――実は白紙――を弁慶が『つらつら』と、読むのよ。それで、うまく、奥州へ落延びれる、って話」

「ああ、聴いたことがあります、そうでした。

 で、その『勧進帳』と『と金』がどういう繋がりがあるんです?」

「アテにも、わからんがよね」

「まあ、その前に、勇さん、工員さんの方はどうだったの?無駄足、とは解っていたけど、結果は?何か情報が入った?」

「三日間、掛けたけんど……。当時、メッキ工場には、五人の工員がいたんよ。事件当日は五人とも、出勤。事件のあった昼から夕方までは、全員工場内から出ていない。朝鮮戦争の最中で景気はうなぎのぼり。注文が多かったそうで、残業は日常茶飯事。事件のことも、翌日の新聞で知ったそうや。口裏合わせやない、雇い主にも、その女将さんにも裏を取った。しかも、五人とも、将棋は全然、素人。並べ方も、動かし方も知らんもん、ばっかし……。

 そこで、他のメッキをしてる工場がないか、当たってみた。旭の向うにあるが、そっちも事件当日、休んだもんも、昼間から夕方、抜けだしたもんはおらん。どっこも、当時は忙しゅうて、休んでる暇なんぞ、なかった、ちゅうていたわ。

 それと、十年経ってるから、記憶もあいまい、辞めたもんもおる。三日間、無駄足やった。

 あっ、けんど、ひとつだけ、収穫があったぜ。詰将棋の本や。現場に落ちとった本は『証拠物件』で仕舞われとるき、同じ本を、古本屋で捜したんよ。井上書店で見つけてページをめくったら、『十一手詰め』の問題の所に、『3・三、歩、成り』ちゅう、指し手がのっちょった。だから、あの『歩』は、やっぱり、『と金』やったんよ」

「えっ、詰将棋にその手があったの?」

「あったら、おかしいんか?」

「いや、あっても、なくても、いいんやけど……状況からすると、関係なさそうなんやけど?まあいいか。それで?村田じいさんの過去は相変わらず、わからんまま?」

「そっちは、いや、そっちもか、進展なし。もう一回、福島や近辺の警察に紹介、だしたし、警視庁にも調べてもろうた。十年前とは、警察の機構も大幅に変わったきに、何か手掛かりがないかと、期待しちょったけんど……」

 十年前といえば、警察はまだ、『国家警察』、『国家地方警察』という組織があったのだ。今の警察庁、今の警視庁制度が確立したのは、その後のことである。

「勇さん、僕は『村田英世』という名前は、本名ではない、と思うんだ。偽名というんじゃない、『芸名』あるいはペンネームじゃないかと……」

 S氏は昨日、お寅さんに語った、『英世』の由来、などの推測を坂本刑事に語った。そして、『もうひとつのと金』へと、話が展開して行った。

「もう一つのと金というのは……」

 と、S氏は一度、そこで話を止め、お茶を飲む。後の二人も、思い出したように、千代の淹れてくれた番茶を飲んだ。

「山伏、修験道の行者とかが、頭に付ける、ちいさな頭巾のことを「兜巾」と書いて、『ときん』と読む。学校の『国語辞典』――金田一京助監修――にも出てるよ。その、辞書の説明文の横に『勧進帳』の弁慶の絵があったんだ。弁慶の頭に乗っかっているのが『兜巾・頭巾』。これが、もう一つの『ときん』ってわけさ」

「ほんで、旅芸人の一行が、どうの、こうの、ゆうてたんかね?」

「旅芸人?何の話です?」

「昨日、あんたの仮説とちごうとる、犯人捜しを、しよったがよ。

 事件当日か、その前に、旅役者の一座が泊りやせんかったか、って、聞くきに、ちょうど、旭の公民館で、『勧進帳』やりよった、一座があった、そう話しよったが。けんど、『と金』が『兜巾』で、弁慶で、旅役者……どう、繋がっちゅうか、さっぱりわからん」

「だから、『と金』のメッセージが『兜巾』を示しているなら、犯人の特徴か職業を表している。『兜巾』をかぶるのは、山伏か修験者。で、なければ、歌舞伎のような、山伏を演じる人。村田老人の名前が、芸名としたら、その仲間、役者稼業の人が、事件に係わっている可能性がある。二つの可能性の、接点が、『旅役者』ということ……」

「つまり、犯人は、その旅役者一座の誰か、その人物は、過去に『村田英世』という、芸人と係わりがあった、そういうことやね?」

「そう、でも、これも『可能性がある』程度の仮説だからね。勇さんの『メッキ工場の工員』と大して変わらん、後は、裏付けが取れるかどうか……」

「いや、僕の仮説より、遥かに真相に近いかも。実際、その日、『兜巾』に係わる弁慶を演じた役者が、現場付近にいた、これは事実だからね」

「けど、その役者と、村田さんとの関係は不明。だから、殺人まで発展する『動機』も不明。それを、十年経った、今から探せるか、これも不明だよ。

 それと、この仮説には、ちょっと、引っ掛かることがあるんだ」

「何や、その、引っ掛かることって?」

「さっき、言ってた『詰将棋の本』のことさ」

 そこまで、S氏が話した時、玄関先で「ワン、ワン」と犬の声がした。

「あっ、ジョンやないかえ。どうしたんやろう、いつもは、あんなに、吠えたりせんに……」

 お寅さんは立ち上がり、玄関の硝子戸を開けに行った。

 そこには、ジョンの首輪に縄をつけて、近所に住む『先生』が立っていた。

「あら、先生、ジョンの散歩かね?いっつも、ジョンは放し飼いやろう?今日は、どういた、縄なんぞつけて……」

「お寅さん、ここへ、刑事の勇さん、きちゅうろう?ここに停めちゅう、自転車、勇さんのやろう?」

 先生は、お寅さんの質問には答えず、コートの上にはみ出している、マフラーを巻き直した。

 勇さんなら、中に居るでぇ、と先生を玄関から、中へ導き、

「勇さんに何の用、ジョンまで連れて?」

 と、ジョンをしきりに気にしている。

 先生は、そんな、お寅さんを無視し、ジョンの首輪に繋がっている、縄をポイと、玄関脇に投げ捨て、

「おった、おった。やっぱり、ここやったか。勇さん、あんた、さっき、行福寺へ寄っちょったろ?なんでも、村田じいさんの事件のことで。おまけに、じいさんと、お辰さんの位牌を拝ませてもろうたそうやいか」

「はぁ、捜査が行き詰ったもんで、それに村田さんの命日も近いことですし……」

「あんた、神頼みやのうて、仏さん頼み、してきたんかね?」

「まあ、それは、エイわ。それより、住職から預かりもんや。あんたが帰って、位牌を片づけようとしたら、位牌が割れてしもうたと」

「位牌が割れた?ぼ、僕は、位牌には触ってませんぜ。壊れたとしたら、住職さんの所為でしょう?」

「違うがな、割れたんで、壊れたんやない。しかも、あんたの所為なんて、誰もゆうとらん。割れたんは『お辰』さんの位牌」

「お辰さん、って誰?」

 と、S氏が尋ねる。

「死んだ、村田のじいさんと同居していた、姐さんのことよね。辰年生まれで、辰子、通称、お辰さん」

「あぁ、解った。けど、位牌がどうして割れたん?落としたの?」

「違う、違う。壊れたように、割れたんと違う。最初から、位牌に切れ目とゆうか、二枚の板を張り合わせて位牌にしてたのよ。その、張り合わせが、のいた(=はずれた)がよ」

「板を二枚張り合わせて、位牌にしてたがかえ?そんな位牌見たことないちや」

「わしも、初めてじゃ。けんど、意味があったがよ。二枚の板に隙間があって、空洞が出来ちゅう。つまり、モナカの薄いみたいなもんよ。餡子の代わりに、半紙が折りたたんで入っちょった、と。それを読んだ住職が、こりゃあ、勇さんに知らせちゃらんと、仏さんのご利益(りやく)じゃ、先生、はよう届けちゃっとおせ、と、こうきた」

「話が長いぞね。何を預かって来たがぞね、はよう出し」

「おお、すまんこっちゃ、これこれ……」

 と、先生はコートのポケットから、細かく折りたたんだ、白い半紙を取出し、勇さんに手渡した。

「そりゃ、村田さんの『遺書』というか、書置きのようなもんぜ。村田じいさんの告白文やきに……」


        6

「この物語も、そろそろ、終わりです」

 と、S氏は一息ついて、司牡丹を、ぐぃっと飲みほして、新しく酒を注ぎ足した。

「遺書とおっしゃいましたが、自殺だったんですか?」

「いやいや、それはない。自殺でないことは、現場の状況から確かです。それに、その文書は姐さん――お辰さん――の位牌に挟みこんでいた。つまり、村田さんが、手作りの位牌に、自分の文書を隠していたことになります。ですから、遺書というより、告白文、の方が正しいですね」

「では、何を、告白していたんです?自分を殺す犯人のことを、事前に解って、書き残して、いたりしたのですか?」

「それならば、事件も解決したんでしょうが、結局、この事件は『迷宮入り』で終わりました。

 あと少し、その後のことを――村田さんの告白も含め――お話しましょう……」

        *

 お辰さんの位牌からでてきた、半紙には、おおよそ、次のような告白が綴られていた。

 まず、村田英世、こと、本名、田村一郎、福島県猪苗代町××にて、明治二十×年一月一日生まれる。と、本名と出生地が書かれてある。

 次に、『村田英世』と名乗った経緯。若い頃、農村芝居をしていたこと、昭和の初め、村で、久しぶりに芝居をすることになり、当時黄熱病の研究で世界的に有名であった『野口英世』の半生記を演目にし、主役の英世を田村一郎が演じた。その役が余りにはまり役だったので、芸名として、本名の「田村」を引っ繰り返し、「村田」とし、名前を「英世」としたのである。

 そして、後半。彼は「人を殺した」と告白している。が、内容は「殺人」ではなく、火災発生時に、同室に寝ていた、妻を置き去りにして、逃げ出した、妻を見殺しにした、ことを綴っていた。

 昭和の初め、彼は住込みで、ある、繊維工場で働いていた。妻を実家に置いての、単身赴任であった。冬の木枯らしが吹くその日、妻が、実家から、差し入れを持って、訪ねてきた。水入らずで、話が弾み、帰宅時間を逸してしまった。

「まあ、いい。狭いところじゃが、夫婦、一つの布団で、寝ても、何の不都合もない」

 と、その晩は妻を狭い一間の部屋に泊めることにした。

 その夜の、夜半過ぎである。二人の寝ていた、宿舎の隣の工場から火が出た。折からの北風にあおられ、工場からの火は、辺りの家屋を巻き沿いにした。

 煙と匂いに気づいた時は、ほとんど、手遅れだった。無我夢中で、飛び起き、表へ飛び出した。隣にいたはずの、妻のことは、消防車のサイレンの音を聞くまで、思い出さなかった。宿舎には、他に四、五人の男がいたはずである。誰もが、晩酌の酒に酔って、助かった者は、いそうになかった。

 彼は、呆然自失。かなりの火傷を負っていたため、そのまま、病院に運ばれた。彼はその後、しばらく、記憶喪失状態であったらしい。

 いくらかの、見舞金をもらったが、職は失った。実家は貧しい農家である。帰るに帰れず、彼は都会を目指した、当てなどないが、都会なら、喰い物だけはあるだろうと、思ったのである。

 都会の中で、なんとか生き抜いた。乞食同然のこともあった。旅芸人の一座に紛れ込んで、裏方の仕事もした。だが、戦争で世の中は重く、暗い、時代へ移って行った。

 都会を離れたのは、例の大空襲の所為である。どうせ、行くなら、北より、温かい南にしようと、汽車に乗る。あるいは、一日中、歩くこともあった。そして、関西から四国へ上陸した頃、戦争が終わっていた。

 四国を歩くうちに、遍路に出会った。急に妻を思い出し、八十八か所の遍路旅を始めることになる。そして、土佐にたどり着く。

 その日は、妻の命日――火事の起きた日――であった。焼き鳥の匂いに誘われ、縄暖簾を潜った。そこで、辰子と出会うのである。

 英世――本名は一郎――は辰子に亡き、妻の若い頃の面影を見た。辰子が後に語ったところによると、辰子の父は仕事の関係で、各地を転々としていたらしい、ちょうど、辰子が物心ついた頃、家族は、福島にいた。そして、村田英世の一世一代の、『野口英世』の舞台を見たのである。

 それから、二十数年、英世は妻を亡くし、辰子は両親を失っていた。天外孤独の老人と娘は、四国の小さな町で、運命の出会いをするのである。

 英世は、辰子に感謝の言葉を綴っていた。わずか、二年足らずの、同居生活であったが、遍路供養では得られなかったであろう、心の癒しを与えてもらった。

 辰子が急な流行病で、息を引取った時、自分の人生も終わった、と思った。そして、この文書を書き、手作りの位牌を作って、その中に封じ込めたのである。

       *

「しかし、その告白文では、殺人事件の犯人に関することは、何も解りませんでした」

 と、S氏は一旦、物語を止め、一口、酒を口に運ぶ。

「ただ、村田老人の本名、出身地は解りましたので、坂本刑事は、福島県警に紹介を掛けたようです。

 その結果なのですが、田村一郎という、該当者はいました。但し、行方不明者として、死亡認定を受けていました。それから、もうひとつ、驚きの事実が解りました。火事で死んだと、告白されていた、村田さんの奥さんですが、ご存命でした。消防団の方が、救出して、大火傷を負っていましたが、奇跡的に命は取り留めたようです。ただ、当初は口が聴けない状態で、その宿舎に女性はいないはずでしたので、身元が判明するのが、非常に遅くなったようです。また、村田さんも一時、記憶喪失に罹っており、妻の生存を知り得なかったのでしょう。

 その奥さんに連絡が取れ、親戚の方が、わざわざ、この土佐までお出でて、村田さんの遺骨―――行福寺に埋葬されていました――とご位牌、そして、辰子さんの遺骨と、ご位牌――もちろん、告白文を挟んだまま――邦へお持ち帰られました。ふたりの魂は北の自然豊かな、丘に眠っているとのことです」

 S氏は、もう一口、酒を含む。私も、しんみりとした気持ちを払うように、グラスを傾けた。

「それで、事件の方は、進展なしですか?」

 と、私はグラスを置いて、『チチコ』をひとつ、口に入れて、尋ねた。

「結局、再調査をしたんですが、当時の『旅役者の一座』は、既に解散していましたし、座長で、弁慶を演じていた役者も、亡くなっていました。村田さんとその一座が、何か繋がりがあった、可能性はあります。一時にせよ、村田さんは『旅芸人一座の裏方』をしていたらしいですから。

 しかし、殺人となると、動機がありません。村田さんを今更、殺さなければならない深い動機は考えられません。妻を火事で見殺しにした――本人には、罪はないのですが――それを後悔しているひとが、それ以上に、人に恨まれる状況であったとは、思えないのです。もし、殺人とすれば、それは、突発的な、一時の興奮から起こったものとしか、考えられなくなったのです。そう、例の、『詰将棋』の口論説のような……」

       *

 S氏の話は、そこで、元の場面にもどった。村田老人の告白文を、坂本刑事が読み終えた、ところである。

 一同が、しんみりとして、沈黙に覆われたその時、玄関の硝子戸が「ドン」という音とともに揺れた。ジョンが驚いたように、首を持ち上げ、「ワン」と一声、啼いた。

「女将さん、凄い風ですよ。洗濯物、飛ばされそうです」

 と、女中のみっちゃんが、注進に来た。台所の方から、千代が慌てて、物干しに駆けあがって行く。

「春一番やね」

 と、おっとり刀で、お寅さんがイスから立ち上がり、みっちゃんの後に続いた。

「春一番か、そうかもしれないなぁ。勇さん、僕の仮説、取消。犯人がわかった気がする」

「えっ、犯人がわかった?」

        *

「そうなんです」

 と、S氏は話を区切る。

「私のー当時のですがー最終的な仮説は、『犯人は、春一番』だったのです」

「春一番?突風が犯人だったと?」

「ええ、つまり、殺人事件じゃなくて、事故死だった、そう、考えたのですよ。説明します、私が、事故死と推測した理由を……。

 まず、その日――事件当日――突風が吹いたことは、当初お話し、しましたね?まちがいなく、調べた結果、高知県地方に『春一番』が吹いていました。死因は鈍器のようなものによる、後頭部打撲、即死でなく、数分は息があった、と思われる。この間に、例の、将棋の駒による、『ダイイング・メッセージ』が作られた、と想像していたんです。

 しかし、ここで、『詰将棋の本』が問題になる。私は当初、詰将棋とは関係なく、村田老人が、犯人の情報を残したものだと、考えたのです。が、詰将棋に、該当する問題があった、それなら、メッセージではなく、その問題を解いている状態で、息を引取った、その可能性が高いのではないか?そう、考えるようになったんです」

「ああ、それが、あなたのおっしゃっていた、『引っ掛かること』だったんですね?」

「そうです。ダイイング・メッセージと詰将棋の回答。どちらが、現実的、可能性が高いか、そりゃ、後者でしょう。ダイイング・メッセージなど、推理小説家が思いついた『お伽噺』に過ぎません。実際の事件で、そんな案件、聞いたことがありませんよ……。

 ですから、私は、仮説を撤回した。将棋の駒は『詰将棋』の一手だった、と訂正したのです。とすると、またまた、疑問が湧いてくる。殺されかけた人間が、その数分間、詰将棋などしますか?声を上げるか、必死に逃げようとするか、あるいは、犯人と格闘するか、ですよね。いずれもなかった。つまり、犯人はいなかった、ことになります。

 しかし、村田さんの頭には、傷がある。犯人がいなくて、傷だけがつけられた。しかも、致命傷となる程の傷。そこで、当日の気象状況、と、なる訳です。

 結論から申しますと、『春一番』による、突風で、看板か、屋根瓦か、それらに類するものが飛ばされた。そのひとつが、不幸にも、縁台で、将棋に集中していた、村田さんの後頭部に直撃した。その凶器は、風で、なお、遠くまで、運ばれて行った。

 村田さんは何かが、当たった、気はしたでしょう。痛みもあったと思います。けれど、将棋の回答を思いついて、それに集中していた。そして、数分後、息を引取ったのです。

 これが、私の、この事件の『最終回答』です。詰将棋の回答と違って、正解は提示されませんがね。

 私の仮説は、坂本刑事に話しましたよ。そして、村田さんの過去――奥さんの生存を含めて――いろんなことが判明しましたが、結局、事件性を証明できず、かと言って、今更、『事故死』とも認定できず、結局『お宮入り』になった、ってことですよ」

 S氏は、にっこりと笑って、小鉢に残った『チチコ』を口に運び、司牡丹という酒を、一気に飲み干した。

  エピソードⅡ「了」

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