エピソード Ⅲ 顔役さんとばあちゃん自身の事件

     1

 「今日の酒は、土佐市にある、酒造メーカ、亀泉の純米吟醸原酒という酒ですよ。ラベルが面白いでしょう。ラベルに、酵母菌の名前や、アルコールの度数、使用の米の品種など、並べて描いております。清流『仁淀川』――近年、仁淀ブルーなんて言われていますが――水質の良さで評判の水を使っていますから、土佐の酒の中では『甘口』なんですが、フルーティ感が若い人に受けているようで、土佐鶴、司牡丹などの老舗の酒より、人気があるようですよ」

 S氏は、グリーンの瓶に、土佐和紙のラベルを張ってある、日本酒の栓を抜くと、カットグラスに酒を注いで、私に差し出した。

「今日のあて(肴)はカラ揚げなんですが、何のカラ揚げか解りますか?」

 いつものように、小鉢には、小さな肉片の揚げ物が、数個入っている。

「これは何ですか?鳥のような、魚のような……」

「高知の名物、といえば、『鰹』ですが、これは鰹ではありませんが、土佐では、これもタタキにして食べます」

「では、魚なのですね?」

「ええ、おそらく、他の県では食べない魚かもしれませんね」

「深海魚か、何かですか?」

「ははは、深海魚ではないですが、海のギャングと呼ばれている魚ですよ」

「じゃあ、『うつぼ』ですか?」

「そうです。土佐では『うつぼ』のタタキ、を初め、鍋にしたり、干物にしたり、こうして、から揚げにしたり、白身ですが、程良い脂も有り、コラーゲンも豊富だとか。まあ、土佐の人間は魚と名がつく物は、何でも食べてみるんですなぁ。見た目は、グロテスクでも、『美味けりゃ、いい』んでしょう。

 本当は、タタキがお勧めですがね。小鉢には、カラ揚げもお勧めですから。酒の肴としたら、ちょっとした贅沢品ですよ」

 勧められるままに、箸でひとつ切り身を口に運ぶ。歯応えがあり、甘味、脂の乗りも良い。カラ揚げの、塩味との調和が程良く、

「これも、なかなかいけますね。美味い。酒が進みそうだ」

「そうでしょう、そうでしょう。遠慮なく、飲んでください」

 S氏は嬉しそうに、酒瓶を傾け、グラスに注いでくれた。

        *

「前回の、お話は面白かったですね」と、私の方から、話を持ちかけた。

「あなたのお話の中に『顔役さん』とおっしゃる、年配の男性が度々、登場しますが、『顔役さん』とは、どういう方なのです?」

「そうですね。お若い方は地元の『顔役』と言っても、どんな方か、解らないでしょうね。時代劇なんかにはたまに、『土地の顔役』って感じで、地元のヤクザっぽいのが出てきたりしますがね。本来は、その土地の『名士』のことですよ。まあ、顔が広くて、頼りになる、面倒みがいい。そんな人ですかね。江戸時代の『町役』がなくなって、その代わりが『顔役』なのかもしれませんが……」

 ここで、S氏は「亀泉」を口に運び、うつぼの唐揚げをひとつ、抓んだ。

「ちょうど、良い話があります。『事件性』という意味じゃあ、前のお話ほどではないですが、『顔役さん』と、うちの『ハチキンばあさん』が絡んだ話がありますから、今回は、その話にしましょう。突然の思いつきなので、巧く纏(まとま)るかわかりませんが。そうだ、『亀泉』の亀に因んだ、『亀次郎』って、男も登場しますんで、まあ、聴いてください」


       2

「この話は、色と銭と人間関係が複雑に絡んでいましてね。子供――まあ、孫のことですが――に聴かせるもんじゃない、と、ばあさんから、直接、詳しい話を聞いたわけではありません。しかも、時代が昭和の二十五年から三十年位の間のことで、ちょうど、朝鮮戦争の頃ですね。景気も良くなったが、物価もウナギ登り。貨幣価値がよく解りません。話に出てくる『金額』はそれ故、正確じゃないかも知れません。例えば、二十五年の総理大臣、吉田茂の給料は四万円、三十年の鳩山さんは十一万円、五年間で二、三倍になってますから、当時の相場は、私には測りかねます。こんなものだったろう、ぐらいで聴いてください。」

 S氏は、金が絡む物語であることを強調しているようだ。そう言えば、以前の話には「お金」の話題は出てこなかった気がする。

「わかりました。そのつもりで、お聴きします」

 と、私は『亀泉』を一口、口に運んだ。

        *

 顔役さん、というひとは、と物語が語り始められた。

 名前を――もちろん仮名ですが――山本長吾郎といいます。高知には山本姓は、山崎と並んで、もっとも多い、姓なんですけどね。

 少し、字が違いますが、かの有名な『清水の次郎長』と同じ名前です。それもそのはず、顔役さんの、じいさん――祖父――はこの辺りでは有名な侠客――今ならヤクザと言われますが、今のヤクザとは大違い、男伊達と気風を売り物にした親分さん――でした。子分衆の躾(しつけ)も厳しく、悪さをする者は居りません。『世のため、人のため』がモットーでしたので、周りの住民にも慕われていました。

 しかし、ヤクザは、ヤクザです。本業は料亭などの水商売が中心です。当時――明治・大正時代――ですから、女郎さんも抱えています。ばくち場もあります。決して、綺麗事の商いではありません。

 三代目を継いだ、長吾郎――今の顔役さんです――はきっぱり、稼業をやめ、組は解散、堅気の商売を始めました。最初は山を丸ごと買って、材木――林業から、製材、建築資材まで――を扱っていました。昭和の初め、材木は飛ぶように売れたと言います。それから、建築、土木工事と手を広げて、一代で、立派な会社を作り上げました。

 元の組員は、そのまま会社員として働く者、独立した者、と別れますが、皆、立派な堅気になっています。まあ、もともと、躾が厳しく、社会人としての心得は、持ってましたから、一般人と何ら変わりません。変わらないのは、先代からの、『世のため、人のため』という精神でしょうか。それが、如実に表れたのが、例の、戦争中のことです。元組員は大半が戦場へ行きました。年齢のため、あるいは、身体のどこか、不自由があったため、兵士になれなかったものは、地元の自警団として、随分活躍したものです。ですから、長吾郎一家――本当は合資会社と言うべきでしょうが――は住民から愛され、頼りにされていました。

 その長吾郎には、一人の息子がいました。名を「鶴太郎」といいます。身体の、がっしりとした大男――六尺を超えていたといいますから、百八十センチ以上――で、柔道の有段者、相撲も強かったそうです。おまけに、愛国心が強い。二十歳になるかならないうちに、海軍へ志願兵として出兵して行きました。もちろん、親の許しなどありません。

 鶴太郎の母親は若くして亡くなっています。鶴太郎は乳母の手で育てられました。

 そして、長吾郎には、もう一人、息子がおりました。亀次郎――鶴と亀、長寿の名前です――と名付けられたその次男は、芸者が産んだ子でした。

 長吾郎の妾さん、とか、身受けをした芸妓ではありません。本当の芸妓さんで、三味線と小唄や常磐津の名手でした。器量も錦絵のモデルになるほどの美人で、春を売るなど、決してしないひとです。元は、土佐か伊予かの武家の出であったそうです。

 長吾郎は当時、妻を亡くしておりました。お互い、憎からず――いや、大いに好きであったことでしょう――思っていしたので、後妻になることに、誰も反対しません。ただ、どういう理由か、籍を入れることを彼女が承知しなかったのです。

 亀次郎と母親は、別宅を用意されましたが、贅沢はせず、親子二人で、慎ましく生きて行きました。金銭的な援助も断ったようです。芸者をやめ、三味線や長唄の師匠として、子供を育てました。

 戦争が終わって、例の地震―――南海大震災――の起こる頃、母親は、身体を壊し、そのまま、帰らぬ人となりました。亀次郎は母の妹夫婦が面倒みることになりましたが、そこで、長吾郎の方に、ある事件が起こります。

 出兵していた、長男の鶴太郎の消息が不明になったのです。戦争による「戦死」の通知もなく、帰還する便りもなく、所属艦隊――護衛艦に乗っていたそうです――は、フィリピンあたりで、壊滅状態とのことでした。つまり、跡取りの生死不明のまま、二、三年が過ぎようとしていたのです。

 長吾郎が、亀次郎を迎えるか否か、その相談を受けたのが、刻屋の女将、お寅ばあさんでした。ちょうど、「復員兵」の事件があった頃です。その日、猪口屋に現れた、もう一人の「本位田」が行方不明になる日、お寅さんを訪ねたものの、取込み中らしいので、相談を延期した、あの日のことです。

 結局、相談は、事件解決後、お寅さんが長吾郎の自宅へ出向き、じっくり話し合い、亀次郎を正式に認知し、山本亀次郎として、迎え入れることとなりました。亀次郎の叔母夫婦には、それなりの手当――養育費としての現金――を渡したようです。これが、後の事件に係わってしまいます。

 亀次郎は、微妙な立場です。薄々は知っていたでしょうが、初めて対面する、父親。そして、その一家――住込みの社員もいます――の男たち。跡取りとなれば、自分の部下になる大人たちです。それよりも、問題は「鶴太郎」です。ほとんど、口も聞いたことのない――顔は知っているのです、鶴太郎は近所では有名でした――腹違いの兄。生死が不明ですが、いつ、ひょっこり、帰ってくるかもしれません。そうなれば、自分の立場は、跡取りから、ただの、居候です。

 そのことは、長吾郎も充分承知です。そこのところを、お寅さんとよく相談していたのです。お寅さんは、

「亀ちゃんを迎えるなら、鶴ちゃんは死んだものと諦めな。もし、生きて帰ったら、めっけもの、と思って、鶴ちゃんは他所へ出すんだ。鶴ちゃんは立派だから、独立してやっていける。嫁さんをもらって、普通の会社員でも、何かの商売でもしたらエイ。跡取りは、亀ちゃん、そうはっきり決めんと、問題になる。あんた、その覚悟があるがかえ?」

 そう言われて、「ない、」とは言えない。

「解っちゅう。跡目は亀次郎に決めた。これから、みっちり鍛える……」

 そう、宣言したのでした。

 ここで、S氏は一息いれ、酒を口に運んだ。

        *

 こうして、亀次郎は実の父親のもとに引き取られた。当時は十四、五歳、山本姓になった彼は、高等教育を学ぶことになる。

 もともと、母親の躾は厳しく――武士の子として――行儀作法は教え込まれている。その上、土佐一番の美人と称せられた、母親譲りの美貌の持ち主である。中村錦之助か市川雷蔵ばりの男前である。加えて、長吾郎一家の跡取りとなれば、世間の見る目は百八十度変わってしまった。

 お寅さんは、何かにつけて、亀次郎に世話を焼く、半分、小言、半分、跡取りとしての心得を説くのである。亀次郎は素直に、その忠告に耳を傾ける。お寅さんと亀次郎は、実の祖母――それ程の歳ではないが――と孫のような関係であった。お寅さんは、亀次郎を心配するあまり、刻屋のベテラン女中であった、お多可さんを長吾郎一家の住込みとして、手放してしまった程である。

 そうして、三年ほどの年月、平凡ではあるが、穏やかな時間が過ぎて行った……。


        3

 「さて、事の発端は、幾つかありますが、一番大きい所から話を進めましょう」

 S氏の物語が、続く。

 その、発端の第一は、長男、鶴太郎の帰還である。フィリピン辺りで、行方不明となっていた、鶴太郎が帰って来たのは、亀次郎が高等学校を卒業した頃であった。

 ただの帰還なら、よかった、が、彼は右手を失っていた。顔にも酷い、火傷や手術の跡が残っている。足も負傷しているらしく、左足を引きずるように歩いていた。出兵前の美丈夫な面影はない。頬はこけ、筋肉はそげ落ち、電信柱というより、菜箸が立っているようであった

 生死を彷徨っていたのである。そのため、帰還が大きく遅れた。記憶も、いくらか飛んでしまっている。普通の生活ができるか?そういう状態で帰って来たのである。

 長男が帰ってきたら、嫁を貰い、独立させる。お寅さんとの約束であったが、それは不可能であった。半病人のように、鶴太郎は一家で面倒を見なくてはいけない状態である。

 長吾郎の決断は早かった。長男は死んだものと諦める、と、お寅さんに誓っていた。死んだと思っていた息子が帰って来たのである。どんな状態でも、生きて帰って来てくれた、それで充分である。病人として、面倒をみれば良い。一家にはそれだけの余裕は充分にある。ひとり、付き添いの女を雇って、面倒を診させたら良い。そう決めた。鶴太郎も異存はなかった。

 が、問題は、次男の亀次郎である。

 自分は、妾の子である。しかも、まだ、一家の主としての教育は受けていない。今なら、家を出て、元の暮らしに戻れる。跡取りの長男が帰って来た。体は不自由でも、頭は大丈夫のようだ。一家には、頼りになる男達もいる。番頭役の政さん――政五郎、通称「大政」――に補佐を頼めば、一家を支えられる。そう決めて、長吾郎に家を出ることを申し出たのである。

 そんなことを、長吾郎が許すはずもない。お寅さんとの堅い約束がある。いや、自分自身が、はっきりと決めたことであり、大政にも申し渡してある。跡取りは「亀次郎」だと。大政も承知している。後見人の役も引き受ける、とまで言ってくれているのである。一家の者も亀次郎の性格、勤勉さ――彼は高校を首席で卒業、W大に合格していたのである――に好感を持っていた。跡取りは「亀次郎」、誰もが、歓迎することはあっても、反対はしない。

 そんな矢先の、申し出である。温厚な、長吾郎が手を挙げた。平手打ちの寸前、思いとどまったが、それ程、怒ってしまったのである。

 よく考えれば、亀次郎の申し出も「理不尽」や「身勝手」ではない。いや、身勝手なのは、自分を含む、大人たちである。亀次郎の一生を周りの大人たちが決めてしまったのである。但し、それは、彼の為を思ってのこと、でもあったのだが……。

 こんな時は、神頼みでなく、「お寅さん頼み」である。長吾郎は、着替えもそこそこに、刻屋へと足を運んだ。

「難しい問題ぞね」

 と、お寅さんは首をかしげる。

「あんた、しかおらん。亀の奴を説得してくれ。頼む、長吾郎、一世一代の頼み事や」

「顔役さん、それゆうなら、『一生一度の』やないかね。あんたらしゅうない、ちったあ、落ち着きや。

 まあ、アテにまかしちょき、亀ちゃんは素直でエエ子やき、道理を説けば納得する。下手に、いらん義理じゃ、人情じゃ、を持ち出してもイカン」

「そうじゃ、わしがゆうたら、情の話になる。理屈の話なら、あんたか、先生か、千代さんじゃ。よろしゅう頼む」

 神棚を拝むように、両手を合わせ、お寅さんに念を押す。

(先生はともかく、何で、娘の「千代」を当てにするがぞね、アテひとりじゃ、頼りにならんと思うちゅうがやろうか?そりゃ、千代は、親のアテが言うがもなんやけんど、賢いし、美人やし、前にも「探偵の素質がある」なんどと、褒められちょったけんど、こういう、微妙な人間関係を巧う処理できるがは、長年の経験が一番大事ながよ。アテにまかしちょき)

「まあ、なんとか、するき、まかしちょいて」

 と、お寅さんは長吾郎に宣言した。

(千代さんの名前を出して、巧ういった。お寅さんは千代さんと張り合う気持が大きいき……)と、長吾郎は腹の中で、自分の思惑通りに、事が進んで行くことに、ホクソ笑んでいた。

「ほいたら、くれぐれも頼んだで」

 と、長吾郎は立ち去る。

 お寅さんは思案顔である。亀ちゃんを訪ねるか、ここへ呼ぶか、それを考えているのである。

(よっしゃ、ここで、昏々と、説教しちゃろう。誰か使いに出さんと、手のすいちゅう、みっちゃんに行かそう……)

        *

 みっちゃんに呼び出されて、亀次郎は、いそいそと刻屋を訪れた。薄々、用件は察している。親父が慌てて飛び出し、帰って来たら、すぐに「刻屋」からの使いである。察しない方がおかしい。まあ、こっちも、お寅さんに言いたいことがある。親父を逆に説得して欲しいのである。いごっそう――頑固者――の親父を説得できるのは、同じ、いごっそうを亭主に持つ、ハチキンのお寅さん以外ない。この役は、先生でも、千代姐さんでもあかん。亀次郎も人を見る目がある。

 そんな、ふたりの、会談は長きに亘った。千代が何度もお茶を入れ替えたか解らなくなるほどであった。

「また、帳簿付けが、私に廻ってくるわ」

 と、ため息をつきながら、女中たちに、お寅さんに代わって、食事の支度やその他の客あしらいの指示を出す。

 結局、談判?は物別れ、平行線を辿る。幾らかは「お寅さん優勢」ではあった。それは、千代が、

「亀ちゃんの気持ちも解るけど、これは、亀ちゃんひとりの事やない、大勢の従業員や、家族も係わる問題や。頭のエイ、亀ちゃんならわかるろう?鶴ちゃんがあの状態やったら、顔役さんや、大政さんが元気なうちはエイけんど、いつまでも、長生きはせんで。けんど、会社はずっと、続けないかん。その時どうする?あんたが居らんかったら、会社、潰れるでぇ。従業員、路頭に迷うよ。そんなん、嫌やろう?あんたは情の深いひとや、お母さん譲りの、お武家さん気質の持ち主やもん……」

 と、諭したからである。

 亀次郎の弱点は、亡き母親である。誰よりも母親を誇りに思っている。母親のことを出されると、反発できない。

 不承不承ではあるが、「うん」と肯いて、刻屋を後にした。

 お寅さんは娘の力を借りたが――少しは癪に障ったが――何とか、説得できた、顔役さんにメンツが立った、と、ほっと一安心をして、冷めかけたお茶で、喉を潤した。


        4

 亀次郎は、「跡を継ぐ」とは言わないままであった、が、家を出ることは思い留まった。

「まあ、跡目のことは、これからゆっくり」と、長吾郎は一安心であった。

 だが、亀次郎は、合格していた「W大学」への進学を断った。

「勉強なら、大学行かんでも、実地で学んだ方がエイ。ここで働きもって、仕事や経営学を覚える」

 と、言うのである。

 実際、長吾郎も、番頭格の大政も、長男の鶴太郎も大学には行っていない。一家で大学卒は、新しく雇い入れた、通称、小政――本名、政司――だけである。

「この小政兄ィ、も後で、物語に登場しますので、覚えておいてください」

 と、S氏は説明する。そして、話は続く。

 それが、家に残る「条件」だ、と言われれば、納得するしかなかった。長吾郎は、その辺りで、手打ちをしたわけである。

 亀次郎の思惑が、次第に判明するのは、季節が三つ程、過ぎた頃であった。

        *

「最近、亀ちゃんの様子がおかしいそうですよ」

 と、お寅さんに忠告したのは、千代である。

 旅館は、夏枯れの後、遍路旅の一行や、芸人一座、映画のロケ隊などを、他の旅館、ホテルが収容しきれず、裏方の者の宿泊を回してくるため、連日、大忙し、である。亀次郎のことなど、構っていられない、そんな日々が過ぎていた。

「何か、変わったことが起こったがかね?」

「アラカン先生から聴いたんですけど、女遊びが、ひどいらしいんです」

「あの先生が、女遊び?」

「なに、ゆうてますのン。先生やのうて、亀ちゃんですき」

「えっ、亀が?あの子は身持ちのエイ子で通っちょるろう。惚れられることは、あの容姿やき、たるばあ、あるけんど、一度も浮いた話は起こらんぜ。女嫌いか、母親のイメージが強すぎて、そこら辺のおなごには興味が持てんが、じゃろう、言うて、評判ぞね」

「確かに、亀ちゃんの亡くなったお母さんは評判以上の別嬪さんでしたから、亀ちゃんの眼にとまる娘なぞ、そんじょそこらには居りません。でも、遊びなら、容姿は関係ないですよ。まあ、亀ちゃんも年頃、十九になったかしら、ですから、女遊びを覚えてもおかしくはないんですが、『度が過ぎちゅう』と、先生が心配していましたから、相当ひどい状況なんじゃあないですか?」

「そら、心配やね。相手は誰なん?素人やないね、どっかの悪い女に引っ掛かったがかね?」

「それが、特定の人やない、芸妓、飲み屋の女給、年齢も年下から、大年増まで、何でも見境なし、だそうです。あの顔ですから、亀ちゃんが声をかけたら、ほい、ほい、と誘われるまま、らしいですよ。中には、立派な亭主持ちもいるそうですから、刃傷ざたになるかも、って、先生、言ってましたよ」

「そら、大ごとやいか。顔役さんが黙っちゅうわけないろう?」

「それが、顔役さん、ほったらかし、みたいですよ。知ってて、知らんふり、してるみたいだ。これも、先生からの情報ですがね」

「顔役さんも、亀ちゃんに甘いから、下手に小言ゆうて、出て行かれたら困るきに……」

「そうか、その手かもしれませんね?」

「なんぞね、その手っち……?」

「これは、亀ちゃんの陰謀ですよ」

「陰謀?またまた、流行りのスパイ小説かね?」

「テンゴウ言わんの。亀ちゃん『跡取り』になりとうないもんやから、親から『勘当』されるような手を考えたんですよ」

「と、いうことは?」

「若旦那の道楽、時代劇か、織田作之助の小説あたりから思いついたんと違いますか。道楽息子、勘当や、ってな、狂言ですよ。本気の女狂いじゃないですね。だから、相手の女連中も、気安く付き合っているんですよ」

「ほいたら、本気、やのうて、お芝居、見せかけちゅうだけ、というがかえ?けんど、亭主持ちにまで、手ぇだしたら、揉め事が起きるで」

「そうなったら、顔役さんの力がいるでしょう?そんなことになったら、本当に『勘当や』ってなりますよ。そこを狙ってるのかもしれませんね。今のうちに、やめといたらエエけんど、こんな、見え透いた手では、顔役さん騙せませんよ。お母さん、ちょっと、小言、ゆうて上げてください。この辺は、お母さんの領域ですよ。母親以上の女でないと、務まりません。私じゃあ、役が軽すぎます」

「まあ、あんたは、亀ちゃんの姐御、やからねぇ。格が足りんわネェ。ほいたら、アテの出番か、忙しゅうて、暇がないちや……」

        *

 亀次郎への説教ができないまま、三日経った午後、当の亀次郎が刻屋へ乗り込んできた。

「ばあちゃん、居るかえ?」

 と、大声を上げる。

「なんやの、亀、近所中に聞こえるような大声あげて、わたしゃあ、そんなに耳は遠おう、なっちゃあせんぞね」

「あっ、居った、居った。ばあちゃん『銭』貸しとおせ」

「なんぞね、急に来たと思うたら、借金の話かね。まあ、ちょっと、中へ入り。そこじゃ、人に聞こえるろう」

 お寅さんは、亀次郎を土間から、奥の座敷にあげ、座布団を差し出した。

「銭っち、幾らいるがぞね?」

 お寅さんは、亀次郎が親の長吾郎には、内緒の金がいると察している。例の、女遊びの代償であろう。千円か、二千円か、多くても、万とはいかんやろう、と算段している。

「十万!」

「えっ、十万てかね?何でそんな大金がいるがぞね、大きな買い物でもするがかね?まさか、芸妓を身受けするがじゃないろうね?」

「その反対じゃ、芸妓どころか、女郎に売られるかも知れんがじゃ。助けてやってくれ、亀次郎、一世一代のお願いじゃ」

 また、親子で、同じ間違いしゆう。「一世一代」じゃのうて、「一生一度」のじゃろう。と思ったが、そこは口にしなかった。

「誰が、女郎屋に売られるちゅうがぞね?あんたの身内にそんな年頃の娘が居ったかね?」

「琴絵やき……」

「琴絵さんゆうたら?」

「お母さん、琴絵さんゆうたら、亀ちゃんのお母さんの妹の子ですき。つまり、亀ちゃんの、従妹さん。亀ちゃん一時、一緒に住みよったでしょう、叔母さんところで……」

 二人の中に、お茶を入れて、千代が割込んでくる。まあ、頼りになる娘やき、エイけんど、と、お茶を受取る。

「でも何で、その琴絵ちゃんが、女郎屋へ売られないかんの?今、叔母さんらあはどうしてるの?」

 千代も、お寅さんも亀次郎の叔母夫婦のことはよく知らない。琴絵という、従妹はよく、亀次郎を訪ねて来たりしていて、話をしたこともある。亀次郎より、三つ程年下のはずだから、十五、六歳か、母親の家系か、これまた、相当な別嬪さんである。

「叔母は、半年ほど前に亡くなりまして、叔父と二人暮し、してました」

 亀次郎はお寅さんと千代に、琴絵の近況を語った。

 叔母――琴絵の母――が亡くなった後、残された父はひどい落ち込みようであった。それには理由があった。先にも、述べたように、亀次郎を長吾郎一家に引き取ってもらった時、謝礼――亀次郎の養育費として――を長吾郎から受取っている。この金が、夫婦の中で、亀裂を生んだ。

 琴絵の父は、腕の良い左官であった。仕事も充分依頼があった。親子三人、暮らしていける収入は確保できていたのである。

 そこへ、多額の謝礼金が手に入った。今でいうなら、宝くじの大当たりのようなものである。母親は、琴絵の嫁入りの支度金として、貯金しておこうと提案した。

「ばかをゆうな。琴絵の支度金なら、わしが何ぼでも稼いじゃらあ。あぶく銭じゃ、ぱっと使うたらエイ」

父はそう言って、金を持ち出し、毎日、酒は飲む、高いもんは買う、他人に振舞う、と散財する。それだけならまだいい。競輪・競馬、パチンコとギャンブルにはまり込んで、仕事には手をつけん。散財から借金を作ってしまった。

 母は見かねて、小言を言う。酔っている父は暴力を振るう。家計も火の車状態になり、着物や家具を質に入れ、母親は、夜の勤めを捜して、働くようになる。その心労の所為で、半年ほど前、心臓発作であっけなく、亡くなってしまった。

「そりゃ、えらいことやったね。ちっとも、知らんかった」

 と、お寅さんがしんみりと言う。

「僕も、葬式に行って、初めて琴絵に知らされたことですき、叔母さんも武家の娘ですき、辛抱しちょったがでしょう。親父に相談したら、なんちゃあなかったろうに……」

「ほんで?それから、琴絵ちゃんどうなったが?」

 と、千代が次を促す。

「琴絵の父は、それはえらい落ち込みようで、自分の所為で、女房を死なせたもんですき、まるで、抜け殻みたいになったそうです。仕事もできません。酒や博打はしなくなりましたが、収入は『0』。借金の利息だけが、増えて行きました。その父親が、女房の後を追うように、先日、亡くなったんです。同じような心臓の発作で、突然死だったようです。一昨日、葬式を出しました」

 一夜明けて、借金取りが、琴絵の元に来た。父の借金、十万円、今日、明日中に払えなければ、琴絵の身体で――身売りして――支払うという証文を持っていた。

「あほな、人身売買は法律で禁止されちょろうがね」

「人身売買じゃない、仕事の世話をして、借金返済に充てるがじゃ、ゆうとります」

「それを、人身売買ゆうがぞね。どこの借金取りぞね?」

「叔父が借りたのは、町の金融業者ですが、そこから、熊蔵とかいう、女衒(ぜげん)のような商売をしている男に証文が渉ったようです」

「女衒の熊かね?熊じゃのうて、狐みたいな面した、小男じゃろう?」

「お母さん、女衒に知り合いがあるんですか?」

「アテはヤクザと女衒は大嫌いじゃと、前から言いゆうろうがね。その大嫌いなもんが熊公よね。表向きは『立花屋』ゆうて、骨董屋をしゆう。裏じゃ、今度みたいな借金を形に娘を女郎に売り飛ばす商売をしゆう。町のダニ、か、ハゲタカみたいな男よ。そうか、あいつが絡んじゅうがか、これは、黙っちゃあ居れん話ぞね。アテがきっちり、話、つけちゃる」

「話し合い、なんて通じる相手ですか?悪人なんでしょう?警察に頼みましょう。勇次さんなら、気安いですよ」

「あかん、あかん。警察など、屁、とも思わん輩やき、犯罪やない、立派な金融取引や、言われて、勇さん、ギャフンでお終いやき」

「じゃあ、どうするんです?顔役さんに頼んで、力ずくですか?」

「だ、駄目です。親父にはこの件に係わらしたらいきません」

「そりゃ、そうや、顔役さんには黙っとこう。けど、あんた以外の男衆の手がいる。先生に頼めるけんど、若いもんが必要や。しかも、相手に面が割れてない男。あんたの身内で頭の切れる若い男、居らんかぇ。顔はどうでもエイきに……」

「顔はどうでも、とは、ひどい言い方ですが、頼りになる、兄ィ、が居りますよ。京大出のインテリ、名前は政司。通称、小政の兄ィと言います」

「何やの、お宅、本当に次郎長一家なんかね。大政、小政と揃うちゅう。後は、森の石松がおったら、完璧やね」

「石、って奴もおりますよ。片眼じゃないが……」

「そりゃあエイ、一回、長吾郎一家、揃い踏み、で、三度傘に道中合羽、着てもらおう。石立の八幡さんの夏祭りに、舞台立ったら、大受けやで」

「お母さん、話し、脱線しすぎですよ。人を集めて、どうするがです?」

「眼には眼を、毒は毒をもって制する、よ。アテに考えがある。先生と、小政さん呼んどいで……」

 訳が解らないまま、千代は先生を、亀次郎は小政を呼びに表へ出る。お寅ばあさんはにたりと笑って、台所の横の倉庫へ入って行く。そこから、古い木箱に入った、重そうな品物を運んできた。


         5

 翌日の夕方近くである。キツネ顔の小男が、案内を乞い、二階の客間に通された。高級な座敷である。床の間には、山水画の掛け軸、その前には赤絵の大皿――高知のさわち料理に使う――が見栄え良く飾られている。柿右衛門――伊万里焼――の一品である。

 小男、熊蔵は骨董屋である。長年の商いではない、俄か――戦後になってから――の商売である。眼利きなどない。どっかの蔵から、二足三文で大量に買い付けをして、それらしい物には、真贋などお構いなしに値をつける。悪徳業者である。それで、飯を食って行こうと思っていない。裏の商売で儲けているからである。裏の商売が女衒である。お寅さんの大嫌いな男が、お寅さんの家の敷居を跨ぎ、しかも、上等の客室に通されている。只事でないのは、火を見るより、明らかである。

 熊蔵は、出された座布団を離れ、床の間の、掛け軸と大皿に歩み寄り、二品の値踏みを始める。掛け軸の絵は「狩野派」の山水画のようである。

(探幽なら、すごい値打もんやな。こっちは、柿右衛門の古伊万里焼やな、奇麗な花鳥図や、これも値打もんや。やっぱり、刻屋の大将はエエとこのボンボン、言うのンは、ほんまやな)と、ひとり感心している。

 そこへ、襖が空いて、お寅さんが入って来る。いつもの仕事着ではない。上等の和服姿である。一流旅館の女将で、充分通用する格好である。

 熊蔵は、あわてて、元の座布団に戻る。

「いやあ、結構な、お軸と、お皿ですなぁ、見とれてましたわ」

 精一杯の愛想笑いで誤魔化す。続いて、千代が、お茶と茶菓子を持って現れる。二人の前に、それらを揃えると、無言で、襖をしめて、立ち去る。

「今のは、女中さんですか?えらい。別嬪さんやなぁ。刻屋さんは女将さんだけじゃなく、女中さんも一流ですなあ」

 と、お世辞を言う。

「女中やない、うちの娘です。まだ客あしらいもようせん、見習い中です」

「えっ、娘さん?お顔が似てないが、いやいや、そうでした、こちらさんは御養女さんをもろうて、婿養子さん迎えてはる、そうでした、そうでした」

 と、脂汗を拭くように、顔をつるりと撫でる。

(気色、悪、こいつの座った座布団、棄てないかんな、畳も張り替えや)心の中で、そう叫びながら、顔色一つ変えず、澄ましている、お寅さんであった。

「熊蔵さん、よう来てくれたなぁ」

「へえ、このご近所の学校の先生から、ご伝言で、女将さんが、あっしに急な御用があるとのことで、先生のおっしゃるには何か儲け話とか?いえ、こちらさんのお役にたてれば、あっしの方は、儲けなんぞ、二の次ですがね」

 儲け話と聴けば、飛び付くことは、思惑どおりである。媚を売るような口調に鳥肌が立つ。

「あんた、最近はまともな商売、してるんやってね?骨董屋開いたんやって?儲かってるか?」

「へぇ、あっしもいい年ですからね、ヤミで物を売ったり買ったりも辛くなりましたんで、昔から好きな、骨董でも眺めて、商売しようと。まあ、素人の商売ですきに、儲けは度外視、お客に喜んでもらえりゃあ、それが、励みって奴です」

 まあ、御託を並べるのが巧いもんや。嘘八百ばっかしやないか。けんど、ここは我慢や、遠大な計画の途中やから、

「そりゃ、えいこっちゃ。そんなら、安心して頼めらあよ。実は、ちょっと、入り用が出来てね。あんたに、これを預けるき、お金に換えとおせ」

 お寅さんは、背後の床の間の横から、古びた二尺足らずの木箱を運んでくると、それを、熊蔵の方に、滑らして行く。箱には、何やら、消えかけた文字が書かれてある。

「中を検めておくれ、割れもんだから、気イつけてよ」

 熊蔵は、おずおずと、箱に手を回し、木箱の蓋を開ける、中には、白地に赤の――牡丹の花か――鮮やかな色絵が描かれた、壺が納まっていた。ゆっくりと、箱から取り出す。

「こ、これは?」

 と、驚いたように声を出す。

「眼利き、のあんたには、一目で解るろう。古伊万里の壺よ。柿右衛門模様というやつよ。それも、江戸末期やない、元禄時代を下らん、初期の柿右衛門よ」

「へぇ、これが、有名な、古伊万里、柿右衛門ですかいな。こんな、美品は初めてですわ」

 そこは正直やな、とお寅さんはほくそ笑む。それを愛想笑いと熊蔵は勘違いしている。

「そこの、床の間の、大皿も柿右衛門ですね?やっぱり、本まもんは輝きちゅうか、品格が違いますわ」

「あんた、やっぱり、眼利きや、この大皿に気づいてたんか?まあ、これは、内輪の話しやから、余所で言わんといてや。うちの旦那、ちょっとした旧家の出なんよ。昔でゆうたら、大庄屋。殿さんから、名字、拝刀を許された家柄よ。訳あって、家飛び出して、こんな鄙びた旅館をしゆうけんど、元は、エエとこのボンボンよ。これらあのお道具も、実家から持って来たもんよ。皿は商売で使えるけんど、壺は飾るしかないろう?大き過ぎるし、割られても困るし、だから、しもうたまんま、ながよ。ほんなら、いっそ、売ろうかと思いよったけんど、家宝みたいなもんやき、なかなか、踏ん切りがつかん。今回、旅館の建て回しやら、内風呂や、便所あたりを直さにゃならん。金の掛ることばっかりで、やっと、踏ん切りがついた。けんど、めったなとこへは出せん。刻屋は売り食いせないかんなっちゅう、なんぞ噂が立ったら大ごとよ。解るろう?そこで、裏から、手を回せる、あんたに頼むんよ。どこぞ、こんな壺を飾って喜ぶ御大人か、商売人に売っとうせ。この近所はいかんでぇ。そうや、『城西館』の女将やったら、今度、偉い人が泊るらしいき、買うてくれるかもしれん。うちが直接は売れんき、あんたに仲介頼むがよ。引受けて貰えんろうか?礼は、売り上げの三割あんたに挙げるわ」

「で、これは、相場では如何ほどのもんで?」

「まあ、百両(百万円)は下らん。家一軒が建つ……」

「ひ、百両、こいつはたまげた」

「何、言いゆう。外国じゃあ、フランスのマイセンちゅう焼物より、人気が高こうて、その倍はするで。運賃がかかるき、よう売らんけんど、進駐軍の偉い手さんが、よだれ、たらしちょった。

 まあ、入用は三十両でエエんや。五十両で売れたら、二十はあんたが仲介料で取ってもエイよ」

(ええ?相場の半額で手放して、仲介料で四分六かいな。こりゃ右から左に物運んで、ぼろ儲けやないか……)と、熊蔵は、ごくりと唾を飲み込む。

 お寅さんは、(こいつ、もう二十万円懐へ入れた気で居る……)と、熊蔵の顔を覗き込む。

「どうや?面倒なこと頼むけど、やってくれるか?」

 断るわけがない、と解っているが、下手に出る振りをする。百戦錬磨の、ばあさんである。千代ではちょっと無理な芝居である。

「へえ、承知いたしました。この熊蔵にまかしておくんなはれ。首尾よう、金に換えて見せます。こんな上物やもん、『城西館』でのうても、心当たりは、たんとおます。大船に乗った気持ちで、吉報を待っててくだせぇ。二、三日で埒を開けて見せます」

「頼むで、あっ、そうや、そこの顔役さんとこはあかんよ。うちのもんと、知ちゅうきに……」

「へい、承知いたしました。ほな、さっそく、当たってみましょう。」

 熊蔵は、壺を箱に戻し、今一度箱書を検める。伊万里焼、柿右衛門作の文字が幽かに浮かんで読める。古いもんに間違いない。

(こいつは大儲けや、先生にもお礼せんといかんかな?)と、『取らぬ狸の皮算用』を始めていた。

 お寅さんの差し出す、無地の風呂敷に箱を丁寧に包み、預かり証文を作って、署名と拇印を押し、いそいそと、荷物を抱え、階段を下りて行く。

 お寅さんは、すくっと立ち上がり、通りに面した障子戸を開け、通りの方に眼を向ける。電信柱の陰に、鳥打帽を被った、若い男がこちらを向いている。お寅さんが片手を上げると、男は帽子を取って、その帽子を左右に振った。何かの合図である。

 二階から降りてきた熊蔵は、千代から履物を出してもらい、玄関から出て行く。左右を眺めて、車がいないことを確かめ、左手へ足を運ぶ。夕暮れの街は、薄暗くなっていた。小さな橋を渡り、ちとせ劇場の映画の看板が見える方へ進んで行く。荷物は、しっかり、両手で抱えている。百万円の品物である。命より大事なもんや、と思うようにしていた。

 電車通りに出ようとすると、横から急に自転車が飛び出してきた。鳥打帽を被った若い男である。避けようとしたが、両手が塞がっていて、とっさに動けない、肩のあたりに、衝撃を受けた。そのまま尻餅を突く。抱えていた荷物が、スローモーションのように映画の看板と重なり合いながら、手から離れて行った。

 ガシャと鈍い音、「気いつけろ!」という怒鳴り声が同時に熊蔵の耳に響いた。生きた心地がしなかった。

(ああ何で、自転車なんかに、いっそ、自動車に轢かれて、あの世へ行ったら良かった。保険金が手に入ちょったに……)

 死んだら、保険金も使えんことなど、頭にない。命より大事な品物を、見んでも解る、割ってしもうた……。

 自転車の男はもう見えない。弁償してくれる訳もない。どないしょう、と道路にへたり込んでいると、「骨董屋の熊さんやいか」と、声を掛ける者がいる。

「どないしたんや?こんな道の真ん中で、車が来たら轢かれるで、最近、双星製紙のトラックがここを、ガイな運転で通りゆうき、夕暮れ時は特に怖いでェ」

 今日、店に来た、先生が心配そうに声を掛けてくれたのだ。

「ほんま、どないした?顔色、めちゃ悪いで、幽霊にでもおうた、顔しちゅう」

 熊蔵は、やっとのことで、正気に戻り、先生に事の次第を語った。ほとんど、しどろ、もどろの口調であるが、先生は慌てもせず、ちゃんと聴いてくれた。

「そら、災難やったねぇ。けんど、起こったことはしょうがない。『覆水、盆に返らず』ゆう、中国の諺もある。知っちゅうかえ?かの有名な、太公望の言葉ぞね」

 魚釣りの名人?太公望とは、その程度しか知らない。『覆水、盆に返らず』やと、割れた壺を元に返してくれ。そう叫びたい、熊蔵であった。

「まあ、正直に、お寅さんに話すんやね。鬼やないき、取って喰おうとは、せんやろう。まあ、金で、解決するしかないわな、常識で考えると……」

 そうである。弁償すれば、よいのだ。元々、金に換えるつもりの品だから、物ではなく、金を持っていけば、解決する。だが、その金の額は、最低でも、三十万円である。サラリーマンの給料が、一万から二万円の時代、三十万円は一年半から二年半の金額である。今の、熊蔵にそんな金はない。店を売ったとしても――売る気もないが――三十万円にはなりそうにない。店の品物は、どれもガラクタばかりである。

「とりあえず、刻屋へ行って、話をしようやないか。ワシも付いて行っちゃるきに、さあさあ、割れた品物を持って、ついそこまでやいか」

 先生に促され、今来た、ほんの百メートル程の距離が、一里、いや、千里の道に思えていたが、割れた壺の包みを下げて、歩いて行く。

 刻屋について、お寅さんに取り次ぎを願うと、着物を着換えて、仕事着に戻っている、ハチキンばあさんが現れた。

「何や、熊さん、えらい、早いやないの、もう、売れたがかえ?」

 そんなはずはないだろう、まだあれから、十五分しか経っていない。それに、熊蔵のしょぼくれた様子と、先生、同伴、とくれば、薄々、察してくれてもよさそうである。

「それが、女将さん、申し訳ない、熊蔵、一世一代の不覚です」

 そこでは、「一世一代」は使わんやろう、「一生の不覚」なら、わかるけど、皆、使い方、間違うちゅう。ばあさんは、変な所に視点をもって行く。

「不覚、って、何があったんぞね?」

 熊蔵は、玄関の土間に、土下座して、頭を、コンクリートの床に擦りつけながら、壺を割ってしまった経緯を語った。いかにも、自分の過失でなく、自転車乗りの所為であることを強調して……。

「そりゃ、事故やから仕方ない……」

 やった、許される、と、コンクリートの床を見つめながら――つまり、土下座をしたまま――熊蔵は、ほくそ笑んだ。

「と、アテが許すと思うかね!」

 大逆転、のひとこま、九回裏ツーアウトから、満塁サヨナラホームランを打たれた投手のようである。お寅さんの怒声が刻屋の玄関に響いた。天下のハチキンばあさんの声に、熊蔵は思わず、尚も、頭を下げる、そこはコンクリートの床である。ゴツンと鈍い音がして、熊蔵のおでこに大きなタンコブができた。

「あんた、証文書いて、置いていっちゅうがぞね。壺の現物か、現金か、どっちかを持って来んかえ、二日後、が期限や。百両の壺やで、百とは言わんわ、欲しかった三十でエイ、耳を揃えて持って来んと、出るとこ出るで、あんた、商売どころか、生きてこの辺、歩けんなるで……」

「わ、解ってますがな、わしも商売人や、証文書いてるから、出すもんは出します。けど、二日後は無理ですわ、何とか、日延べしてくれんかと……」

「日延べしたら、金、入るんか?」

「十万なら、近い内に入ります。残りは、月賦で、払うということで……」

「月賦ち何で。冷蔵庫の買い物やないがぜよ。ほんで、その、十万の当てち、何ぜ?悪銭やないろうね?」

「いや、いや、ちゃんとした証文つきの、借金の返済金です」

「けんど、十万の金借りたもんが、一発で、耳揃えて返せるかえ?あんたと同じ轍で、今は一万、後は月賦、とかなるんやないかえ?当てにならんやいか」

「いや、これは大丈夫、金の形に、娘、取ってますさかい、身売り先から、ちゃんと代金貰えます。話、ついちゅうがです」

「あんた、まだ、女衒やりよったがかえ?見そこのうたぜよ!」

「いや、いや、女衒だなんて、就職先の斡旋ですがな……」

「まあ、えいわ。けど、十万じゃあ、足りん。どうしょうかいねェ」

 お寅さん、ここで一息入れ、松本幸四郎ばりに、一同――熊蔵と先生、遠くから、様子を見ている、千代とみっちゃん――に向けて、見えを切る。

「その、借金の形の娘は、どんな子ぞね?年は?器量は?」

「へえ、歳は十六、そりゃあ、眼を見張るほどの美人ですよ」

「まだ、十六じゃあ、小娘やいか、美人かどうか、これからやろうがね?」

「いえいえ、これが、血筋ってもんで、その娘――琴絵って言いますがね――母親も美人だが、伯母に当たる人が、当代一の美人で有名な芸妓だった人で、その人に、瓜二つ。もう、間違いなしの美人です」

「そんな美人かえ。ほんなら、こうしょう、三十万の代わりに、その娘をうちが貰おう。うちで働かして、穴埋めさせるわ」

「ええ、ここで、客、取るんですか?ここの女中さん、そんなことまで、してるんですか?」

「テンゴウ言いな!」

 と、また、さらに大きな怒声が響く。

「うちは、玉水町じゃないき、客なんぞ取らすか。尻に触ったら、江ノ口川のどぶに放り込んじゃらあ……」

 お寅ばあさん、鬼のような面を、熊蔵に向ける。歌舞伎の「山場(やまば)」を演じている、幸四郎のつもりである。

「その娘はうちで引き取って、行儀見習いさせて、物になるなら、伯母さんのように、堅気の芸妓にしちゃらあよ。ほんで、元が取れる。あんたの、月賦よりずっと確かぞね」

「そりゃあ、エイ。わしも、お座敷に呼ばれたいわ」

 と、先生が言葉を挟む。

「それで、エイね。その娘の証文、明日持って来。うちの証文と引き換えや。十万と三十万、うちが、二十万の損やが、アテも事故と思うて、そこは諦めるわ。エエな、約束、たがえたら、商売できんなる、わかっちゅうろうねェ?」

 うむ、を言わさぬ迫力に押され、熊蔵は固く約束して、ほうほうの体で刻屋をあとにした。

「巧う、行きましたね?」

 と、先生がにんまり笑う。

 全ては、仕組まれた狂言だったのである。琴絵を取り戻す作戦はこうして、成功の内に幕を閉じた。


        6

「これが、顔役さんとばあちゃんの事件の顛末なんですがね」

 S氏はうつぼのカラ揚げを箸で摘み、口に運ぶ。そして、亀泉を飲み干した。

「ちょっと、待ってください、事件性は少ない、とは、おっしゃってましたが、これじゃあ、事件なんてないですね?ただの、人助けですか?」

「あっ、この話を琴絵さんの救出話、と、そう取りましたか?これは、私の、話し方が悪いか、足りない部分がありますね」

「というと、何か、事件が絡むんですか?」

「いや、この救出作戦自体が、事件性があるのです」

「どんな事件性ですか?私にはさっぱり、ですが……」

「説明不足でした。この件は言わば、『詐欺』事件です。お寅ばあさんの売りに出した『柿右衛門の壺』。あれは、百万円もする品物ではありません」

「ははぁ、贋物、贋作だったわけですね?」

「贋作、でもありません。時代がもっと新しい、明治の終わりか、大正に焼かれた柿右衛門です。ですから、古伊万里ではないのです。けれど、柿右衛門の窯で焼かれた物には違いなく、骨董としての価値はまだ、なかったでしょう。ところが、その当時の柿右衛門さん――十二代と思いますが――は後に『人間国宝』になられる方で、その作品は代々の柿右衛門に劣らぬものです。芸術品としたら、価値は上かもしれません。ですから、当時は百万はしない、が。十万の価値は充分あったし、今なら、その何十倍になるでしょう」

「そんな、高価な物を、毀すことを前提に、作戦を練ったのですか?」

「お寅さん以外は、価値を知りません。いや、あとひとり、顔役さんは知っていました。お寅さんが熊蔵に『顔役さんには売るな』と口にしたのは、本当のことだったのです。

 ですから、亀次郎さんも、先生も、娘の千代も壺は安物、と思っていたはずです。ただ、琴絵さんは後に、顔役さんから事実を教えられたようです。

 もう少し、後日談をお話しましょう……」

        *

 琴絵の父の証文を取り返し、彼女は刻屋へ、見習いとして働くようになった。千代が仕事の先生である。行儀作法は母や伯母ゆずりで、きちんと躾けられている。働くことが、大好きな性格であったし、器量もよい。近辺の旅館組合の中で、評判になっていた。彼女を目当てに、ある会社が刻屋を借り切って、慰安会を開く程である。刻屋は唯の旅館である。如何わしい行為はご法度である。が、お寅さんも琴絵が宴席に出て、酌をすることは公認した。また、素人芸であることを断ったうえで、三味線や小唄を琴絵に披露させたりもした。師匠について、それらの習い事もさせたのである。

 まるで、我が子のように、琴絵に接している。ある人がそれを訝しがって、あんたの本当の孫やないんか?と尋ねた。

「あの娘は大事な預かりものですき、それなりの教養と芸を身につけさすのが、アテの役目ですき」

 と、答えた。

「これは、私の勘ですがね」

 と、S氏はそこで、一旦話を止め、酒を口に運ぶ。

「お寅ばあさんと、亀次郎さんの母親の芸妓さんの間に、何か深い関係――いきさつ――があったんじゃあないかと思います。客商売ですから、お座敷に呼ばれることもあったでしょうし、尚且つ、顔役さんとの関係からして、二人の仲を取り持ったのは、うちのお寅さんだったんじゃあないかと思います。堅物の顔役さんが芸妓に惚れる、いや、その前に、係わりを持つなんて、誰かの仲立ちがないと、ありえません。当時、顔役さんと深い関係にあった人物は、長吾郎一家を除けば、うちのお寅さんだけです。先生はまだ若すぎます。

 顔役さんとお寅ばあさんの仲、顔役さんと芸妓の仲。こう、三人を図式にすれば、お寅さんと芸妓の仲は充分ありえる、というか、ないはずがない、と思われます。この件に関しては、祖母は何も語ってくれませんでした。が、世話好きの『ハチキン』さんが、売り出し中の『次郎長』ならぬ、山本長吾郎の後妻の世話を焼く。あって当たり前、ないほうが不思議と思いますよ。

 そうなると、芸妓の息子の亀次郎、姪の琴絵、二人の将来のことも、芸妓さんから、お願いされてたんじゃあないか、ここまで行くと、推測というより、希望的観測になりますが、私には、そう思われます。

 そのことは、それから、数年後、亀次郎と琴絵の駆け落ち事件で、判明しますがね。これはまた、別の機会のお話です。

 それと、蛇足を三つほど。

 一つ目は、鶴太郎さんのことですが、不自由な身体を静養していたんですが、三年ほどで、お亡くなりになりました。盛大なお見送りが行われました。このことにより、亀次郎さんが、正式に『長吾郎一家』の跡目に決まりました。

 二つ目は『小政』さんですが、この話に登場してないみたいですが、例の『鳥打帽を被った、自転車乗りの男』――熊蔵にぶつかり、壺を割った役目――が小政さんです。このひとは、後に、亀次郎さんの片腕として、会社を盛り立てて行く、二代目の番頭さん――つまり、大政さんの跡を継ぐ――になります。

 三つ目は、熊蔵が案内された客間の掛け軸と大皿ですが、いずれも、本物が飾られていました。この二つが本物であったことが、もう一つの品――柿右衛門の壺――を『価値ある物』と思わせているのです。軸は狩野探幽の絵。これは、顔役さんちから、亀次郎が拝借してきた物です。すぐに、お返ししましたから、顔役さんは、こうして、お軸が使われたことをご存じないかもしれません。

 もう一つの花鳥画が鮮やかに描かれた絵皿は、うちの所有物ですが、本物の古伊万里、柿右衛門の大皿です。お寅さんが言っていたとおり、じいさん――お寅さんの亭主――の里から持って来たものです。我が家にも『お宝』があったんですよ。その後、この皿がどうなったか、私には記憶がないのですが、割ってしまったか、あるいは、熊蔵のような骨董屋が二束三文で引取っていったんじゃあないかと思いますね、祖母が亡くなった後のことでしょうけど……」

 S氏は、遠い昔の祖母を今一度、懐かしむように、話を終えた。

「やっぱり、『詐欺』事件じゃなくて、人情話でしたね。割れた柿右衛門の壺は、琴絵さんの借金、十万円より、ずっと、価値のあるものだったんですから……」

 私の見解にS氏は「ははは」と笑って、亀泉という酒を私のグラスに注ぎ足した。

 そして自らのグラスにも注ぎ込み、うつぼのカラ揚げとともに、口に運んだ。

       エピソード Ⅲ (了)


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