エピソード Ⅰ 三人の復員者事件(後篇)
7、十年後の謎解き
「ほほう、金田一耕助が登場したってわけですね?」
S氏の物語が一区切りついて、土佐鶴の入ったグラスを傾けながら、私は不思議に思い言葉を発した。
「ええ、そうなんです。私も『あれっ?』って思いましたよ。架空の人物が登場してきましたからね……。そこで、後日談があるのです。私が祖母から話を訊いた、その後のことを、お話しいたしましょう。何人かの事件の当事者や、関係のある方々から、集めたお話なので、重複する場合がかなりありますけど、まあ、お聴きください……」
そう言って、S氏はグラスを傾け、物語の続きを語り始めた。
「この三人の『復員者』の話は、ここまで」
と、お寅さんはS氏に言った。
時は、昭和三十×年、マッちゃんがテンゴウ噺『私は貝になりたい』の放映後、物語のモデルは自分だ、と言いきっている頃、場所は、刻屋の玄関脇。テーブルと丸椅子が置かれている処である。
「ちょっと待って、その探偵が、横溝正史の書いていた、金田一耕助だったという結末なが?」
と、S氏は祖母に確認する。
「いや、金田一と名乗っちょったのは事実みたいやけどね……、下の名前が『耕助』やったか、結局解らんままよ、ねぇ先生」
隣に座っている、アラカン先生は無言で頷いている。
「どういて?『猪口屋』の宿帳を見たら解るはずでしょう?」
と、S氏が問い質す。
「ところが、宿帳に名前がないがよ。『猪口屋』が以前、連れ込み宿、しちょったと、ゆうたろう?金田一と名乗った探偵さんを受付けたがは、番頭さん。この人、古くからの人で、昔の習性が抜けてのうて、宿帳になんちゃあ記載せんと、泊めてしまったがやと……」
「おかしな話やねェ?」
お寅さんが孫に昔話を語った翌日、同じ刻屋の玄関先のテーブルに座っているのは、S氏と顔役さんの会社『山長商会』の従業員――会計係兼秘書のような役目をしている――の名前は政司、通称『小政』と呼ばれている男である。
「金田一耕助ゆうたら、横溝正史の考え出した、架空の人物じゃろう?その人物が、この田舎の高知に来て、事件を解決していた、なんて有り得んやろう?」
お寅さんからの昔話をS氏から又聞きした後、小政さんが感想を述べたのである。小政さんも、探偵小説のファンで、周りからは『山長の軍師』『ホームズの生まれ変わり』などと言われてる――言い出したのは、散髪屋のマッちゃんであるが――京大出のインテリである。
「ボン、わたしの推理を話しちゃろうか?仮説になるけんど、多分、真相に近いと思うよ」
ホームズの生まれ変わりの小政さんが、小学生のS氏に自分の推理を語り始める。
「昭和二十二年、ゆうたら、やっと、雑誌が出回り始めた頃やろう?」
と、当時の出版界の状況を思い浮かべるように言った。
「金田一耕助はこの事件の前年、千代さんが言っていた『宝石』という雑誌の『本陣殺人事件』という、同じ作者、横溝正史の小説に初めて登場したんや。この小説が大変評判になった。本格物の探偵小説の傑作や。評判も上々。これに気を良くした『宝石』の編集長『城昌幸』が本陣殺人事件完結後もすぐ、同様の本格推理小説を書いて欲しい、と依頼する。当時、岡山に疎開していた横溝は、東京の作家連が戦後の混乱で、書ける状況にないのだろう。それで、疎開している自分に依頼が来るのだろう、と思っとったらしい。第二作目の『獄門島』をそうゆうわけで書き始めた。けど、違うとったんや、横溝の本格派の探偵小説は作者の思うていたより遥かに、圧倒的な読者の支持を受けていたんやそうな。
そやから、この人気に便乗した『探偵屋』が主人公の名を拝借して、商売を始めた。これが真相やろう。但し、この後付けの探偵屋は、優秀だったのかもしれんな。ひょっとしたら、作者に名前を使用することを許可してもらった、のかもしれん。
ただ、ちょっと、不可解なこともある。それは、別れ際に探偵が、『鬼首村に行く』と言ったことや。今、その『宝石』ゆう雑誌に横溝正史の小説が連載されちょって、鬼首村が舞台となっているんや。題名は『悪魔の手毬唄』という作品。この中で、金田一探偵が初めて鬼首村を訪れたのは昭和三十×年になってる。十年の開きがある。ただ、獄門島の次に『新青年』に発表された名作『八つ墓村』の事件解決の場面に、金田一が、八つ墓村事件に係わったのは、その前の『夜歩く』事件で、近くの『鬼首村』に来ていて、その事件解決後、八つ墓村へ来たとも言っているから、鬼首村は二カ所あるのかもしれん。けんど、作品の発表順では、『夜歩く』の連載開始は昭和二十三年のことで、昭和二十二年当時には獄門島の連載中やろう?夜歩くや、八つ墓村の構想もまだできてない頃のはずや。何故、その時期に『鬼首村』という地名が出てきたのんやろう?その点だけは、わたしにも回答が出せん謎やな……」
流石に探偵小説マニアである。横溝正史の作品に詳しいうえに、現在連載中の「悪魔の手毬唄」のことまで知っていた。
小政さんは解けない謎が残っていることをうれしそうに語ったのである。
「千代さん居りますか?」
と、薄汚れたベージュのコートに身を包んだ、二十歳代後半と思われる青年が玄関の硝子戸を開けて入って来た。
「おお、勇さん、久しぶりやいか、忙しいそうやな?」
入って来たのは、顔見知りの県警の刑事で「坂本勇次」通称、勇さんと呼ばれている男である。暇な時――否、暇でない時もか――昼飯を食べにこの刻屋に顔を出す。実家が近所であるから、子供のころから、気易く往来があったのである。
「ええ、ヤーさん連中がキナクソウて、ドンパチ騒ぎになるかもしれんのですワ。それで、マル暴係の杉下さんに頼まれて、そっちの応援で……。ところで、千代さんとお寅さんは?」
「お買い物に出てるそうや、そろそろ、師走の準備やからね」
「そうか、いや、ちょっと時間があったから、飯、喰わしてもらおうと思ってきたんやけど……」
「あれ?昼飯まだなが?もう、二時まわってるよ」
と、S氏が壁の大きな振り子時計を眺めながら言った。玄関を入った座敷の壁、玄関からよく見える位置に、所謂、グランド・ファザーズ・クロックが重たそうな振り子を揺すっているのである。
「時間どおりに、飯が食えるなんて、最近ないんよ。刑事は辛いんよ……」
「お惣菜はあるけど、飯は冷めてるよ、多分。お櫃に残っているとは思うけど……」
「冷や飯でエイワ。ボン、お茶沸かせるか?お茶漬けでもエイがやき」
ほなら、待っちょいて、とS氏は台所へ入って行き、少しして、お盆にどんぶり飯と、沢庵や白菜の漬物を乗せた小鉢を持って来た。
「お湯を沸かしゆうき、惣菜は、好きなもん、その竹の皮の舟(=舟の形をした竹の皮で作った器)に取って食べよって。お茶を作ってくるき……」
S氏はそう言って、再び台所へ帰って行く。
「エライ、世話ができますねェ。今日はボンが留守を預かっちゅうがですか?そうや、みっちゃんも居らんがですか?」
みっちゃんというのは、刻屋の女中さんで、勇さんが惚れている若い娘である。
「うん、みっちゃん、体調が悪うて、医者に行ってるようや。風邪気味やゆうとったけど、熱が出たり出んかったりやと……」
「そうながですか?知らんかった、忙し過ぎて、顔も見れん状態やったから……。それより、小政さんは?何の用で?」
「いや、別に……、表歩いてたら、ボンに呼びとめられて、おかしな話があるから、訊いてくれって……」
「へえ、おかしな話……。どんな話です?また、事件やないですよね?」
勇さんが、舟に昆布のだし巻きと、ブリ大根の煮物を入れて、テーブルの上に置き、小政に遠慮しながらも、どんぶり飯を掻き込みながら尋ねる。
小政がお寅さんの昔話を簡単に語り始める。そこへ、熱いお茶を沸かしたS氏が、薬缶と三人分湯呑をお盆に乗せて持ってきた。
湯呑にお茶を注ぎ、小政と勇さんに勧める。熱いお茶を啜って、小政が一旦止まっていた事件の内容の続きを伝えた。
「ああ、その事件なら、知ってますよ」
と、ご飯を頬張ったまま、勇さんが言った。
「僕が学校出るくらいのことです。親父が退職して間もない頃やったと思いますよ」
「親父さん?そう言えば、勇さんのお父さんて……、ひょっとして、警察官?」
「ああ、ボン、そうですよ。僕と同じ、県警の、まあ当時は地方警察ですけど、の刑事してました。兄貴が、警官はイヤ、ゆうて、普通の公務員になったから、僕が刑事になったがですが……」
「そしたら、お父さん、孝兵衛さん、ゆわん?」
「へえ、ボン、流石ルパンの生まれ変わりやねェ、そこまで解るが?」
勇さんの冗談にも、ツッコミを入れられないくらい、S氏は驚いたのである。
「そ、そしたら、なんか、事件のこと訊いちゅう?僕らぁの知らんようなこと……」
「親父は、退職してたから、調査の内容は正式には残して居らん。けど、几帳面な人やったき、手帳に記録として書いちょった……」
と、勇さんは、箸を置き、お茶を一口飲んで、その記録について語りだした。
「お寅さんに頼まれて、怪しい男のことを調べたら、あっさり真相が解った。GHQからの指令で、『本位田強志』と名乗る男を探してることを、元の同僚から訊き出したんや」
だが、彼の捜査はそこで終わらなかった。男――本位田――の方は警察に任そう。自分は女の方、つまり、『火曜市の若い娘』を探してみようと思ったのである。警察は、GHQからの指令に従っているだけで、第二の本位田の失踪を事件としては扱っていなかった。猪口屋からも、捜査の依頼が上がってなかったからである。ましてや、その本位田が探していたという、娘については、GHQからも訊いていないし、それを探すようにとの指令も受けていなかったのである。警察の中には、GHQに反発する者が多かったのである。必要最低限以上の協力はしない、と暗黙の了解で行動をしていた。
コウさんは詳しいことは知らされていない。娘の名前も知らないし、その秘密も知らないまま、調査を始めたのである。
まず、火曜市で、よっちゃんに逢い、金物屋の老人に話を訊く。娘より、連れの中年の女性の容貌を確認した。
彼の捜査の始まりは、その女性が、
一、 漁師の女房、あるいは家族であること。
二、 火曜市の西から来ていたこと。
三、 その日以外は顔を見せていないことから、曜日市の組合員ではないこと。
と、そこまでは確定できていたのである。
高知から西の海岸、漁師町、範囲はそれほど広くない。汽車で来たとしても、須崎より遠くではないはずだ。魚は新鮮だったようである。
諸木(=現在の春野町)か宇佐か、遠くても、浦ノ内、と、地図を開いてみた。
唯その辺りの海岸線は、前年の地震による津波で、被害が出た地域でもある。死者もかなり出ているし、家屋の倒壊、流出もあったはずである。その女性が、元のような暮らしをしているかは、覚束(おぼつか)ないのであった。
進駐軍の、自転車好きの男から貰い受けた、自転車――壊れて、部品が手に入らないまま、放置されていたものを譲り受け、自ら修理したもので、変速機が装備されている――に跨り、仁淀川の河口近辺を捜査する。曜日市場に、干物を売りに行くという、漁師の家に訊き込みに行ったりもした。根気よく、朝も明けないうちから、漁師の家を一軒一軒訪ねて行った。
宇佐から浦ノ内に入った処で、その探している漁師の女将さんでなく、黒眼鏡をかけた若い娘の噂を訊きつけたのである。
そこに辿り着いたのは、金田一と名乗る探偵が現れる、少し前。そして、彼が事件の真相を解明できたのは、金田一が事件を解決したのと、ほぼ同時だったのである。
「じゃあ、お父さんは、その娘さん、野村百合子さんに逢っているんですね?」
と、話の途中で、小政が勇さんに尋ねる。
「そうですね。多分、目の手術に大阪へ行く前のことと思います。僕が毎日何処へ行ってる、って尋ねたら、やっと見つけた、ゆうて笑ってましたから……。その後、訊いた話をもとに、その裏付けやら、筆山の死体が出てきた事件やらで、お寅さんに報告しに行くのが遅れて、事件は一応、解決したみたいになってたから、お寅さんには報告しないままだったらしいです」
「何?アテに報告なしやて?何の話や、訊き捨てならんねえ」
惣菜売り場の方の扉から、買い物籠をさげたお寅さんと千代が入ってくるなり、男三人の会話に、ハチキンさんの声が響いた。
「あっ、祖母ちゃん、お帰り。今、昨日の復員兵の話をしよったがよ。勇次さんのお父さんが、事件の真相に近づいてたって話をしよったが」
「ああ、そういやぁ、コウさん、事件のこと言いよったけんど、探偵さんが話してくれたき、ゆうて、そのままやった。そのあと、コウさん身体壊して、ゆっくり話す間ものう、あっちへ逝ったきにねェ」
「えっ?勇さんのお父さん、そんなに若うに亡くなったが?」
「ああ、五十になる前やったか、癌でね」
「あんたが、刑事の試験、受かったって、訊いて、笑ってノウなったねェ。女将さんを早うに亡くして、男手ひとつで、あんたと兄さんを育てたがやったねェ」
「いえ、僕ら兄弟は、ほとんど家には居らず、ここで日中は遊んでいましたき、お寅さんやお多可さんが母親代わりでした」
「まあ、手間の掛からん兄弟で、ホッタラカシみたいなもんよ。そうよ、ウチの千代と三人兄弟みたいなもんやったねェ」
「いえ、千代さんは勉強してましたから、遊び相手にはなりませんでしたね。兄貴とチャンバラしたり、キャッチボールしたりでしたワ」
昔のことを懐かしんでいる、お寅さんと勇さんを尻目に、千代は買い物籠をさげ、台所へ入って行く。それに気づいて、お寅さんも自分の買い物を仕舞に奥へと入って行った。
「小政さんも交えて、いったい何の話?わたし、昨日の話も訊いてないんよ」
と、千代が荷物を置いて玄関脇に出てくると、一同に言った。
「アッシも訊いてませんよ。仲間に入れてくださいよ」
と、角刈りのひょうきん者が、総菜コーナーの扉から顔を覗かした。
「マッちゃんやないの、お店は?」
と、千代が驚いた口調で尋ねる。
「刑事の勇さんが来てるのが見えたから、お客をひとり終わらせたら、今日は店じまいしてきましたよ。何か、探偵団の事件の話やねぇんですか?」
「探偵団は解散しちゅうって、何回もゆうたろう」
「へえ、すんません。けど、探偵団の頭脳ゆううか、フルメンバーゆうかが、揃うちょりますき、こりゃぁ、聞き逃せんことやろうと……」
「そう言えばそうですね。こうして顔をそろえるのは、例の事件以来かな?」
と、小政がマッちゃんの言葉を肯定するように言った。
「そうそう、それに、今回の話のきっかけは、マッちゃんの例の『私は貝になりたい』のテンゴウ噺から始まったがやき、主役といえば、主役やねェ……」
と、S氏が混ぜ返すように笑顔で言った。
「えっ?アッシが主役?そら、尚更、聞き捨てならねぇじゃあねえですか……」
そこへ、お寅さんも帰ってくる。テーブルを囲み、勇さんの話が始まった。
「親父は野村百合子さんにお会いして、『本位田強志』という男を知っているか尋ねたそうです」
それは、あの年の夏の終わり頃、まだ、猪口屋の本位田の死体が見つかっていない時である。
百合子は里見家の離れに暮らしていた。少し眼の状態も良くなり、日中散歩をするくらいになったため、近所のひとにその存在が解ったのである。
サングラスをした若い娘という異質な存在であったので、却って人目を引く。それに加えて、日本人離れした形の良い鼻や、愛らしい口元はすぐに噂の的となった。おかげで、名前も住所も解らない女性のことが、比較的時間をかけず――それでも三月(みつき)近くかかったのだが――発見できたのである。
火曜市に一緒に来ていた遠縁――父方の方とのことである――の漁師の家は、地震の被害に逢い、一家は遠縁を頼って、地元を立ち去ったとのことである。百合子がサングラスをかけて、散歩していなければ、コウさんの地道な捜査が実を結んだか、怪しいくらいであったのだ。
百合子は正直に、知っていると答えた。コウさんは、二人の間の秘密については何も知らない。だが、彼女の行方(ゆくえ)を捜している者をGHQという組織が追っている、その事実から考えて、かなり、重要な――国家的な――秘密があるとは想像できていた。
「本位田強志という方が、あなたを探していらっしゃる。それも、秘密裏にです」
と、コウさんも、真実を伝えた。その時点では、本位田が亡くなっているとは思ってなかったのである。
百合子は無言である。サングラスの為、表情の変化が解り辛い。
「私は警察官ではありません、まあ、以前は勤めてはいましたが……。その男が、何故?と思われるかもしれませんので、正直にお話しします」
コウさんは、本位田が泊った宿の女将――お寅さん――から頼まれたことを正直に告げた。そして、刻屋に泊った方の本位田が、運悪く、情報を得ることができず、邦へ引き上げたことを話した。そして最後に、
「その、本位田という男は誠実そうで、とてもあなたのことを心配しておいでだったとか。何かあなたの身に危険が迫っているのではないかと、そんな感じだったそうです。女将さんが、大変気にかけて、わたしにあなたを探してくれと、依頼があった訳です」
「そうですか、本位田さんが私のことを……」
と、百合子は言って、サングラスの目尻を、ハンカチで押えた。涙ぐんでいるようであった。
「でも、よく、その野村百合子が私だと解りましたね?」
「ええ、何でも、火曜市に新鮮な魚を親子ほどの女性と二人で売っていたと、唯それだけの情報からなんですが……」
「まあ、それだけで?そう言えば、あの時の経験が楽しくて、東京で働いていた時の定食屋のおばさんに魚の干物を送った時の手紙に書いたことがありました。遠縁の漁師の奥さんで、魚の行商をしていた人がいたんです。たまには、表へ出てみたら、と誘われて、お城下まで行ってみようと。火曜市へ行けば、お城が見えるからと。それで、農耕用の馬に荷車を引かせて、仁淀川沿いを通って……。馬は鏡川の近く、雁切橋の辺りの知人に預けて、そこで、リヤカーを借りて、火曜市へ行ったのです。とても賑やかな場所で、魚も飛ぶように売れて、本当に楽しかったのです。それに、その所為か、眼が少し見えるようになってきて、今度、大阪で手術を受けることになりました。手術したら、殆ど正常になるそうです。あっ、余計なことを……。その手紙のことを本位田さんお訊きになったのですね?」
「そこまでして、あなたを探し出したかった、何か、大変なご事情が……、いや、誰にも言えないような秘密がお有りやと、ご推察いたしましたが……」
と、ここで、刑事の勘を生かした発言をしてみた。
「本位田さんから何処までお訊きか知りませんが、詳しくは話せません。ただ、私が、戦時中に東京に居りました時、然る高貴なお方のお嬢様の家庭教師をしておりました。そのお父さまから、ある手紙のような文書をお預かりいたしました。中身は私にも解りません。ただ、娘が成長して、誰かを好きになった時、渡してくれと頼まれました」
「ほう、あなたが家庭教師をしていた、その娘さんですね?おいくつですかな?」
「まだ、九つくらいです。私がお会いしたのは、小学校へ入ったばかりでしたから……」
「小学校から家庭教師?」
「家庭教師は名目です。ご家庭の事情が複雑で、お父さまもお母さまも、一緒に住めない時期がありました、ですから、母親、姉、替わりといった役割が私の仕事です。英国風に言えば、ナニー(=子供つきの乳母兼家庭教師)でしょうか……」
イギリスの児童文学にある『メアリー・ポピンズ(風にのって来たメアリー・ポピンズ)』の主人公のようだと言っているのだろう。後年、ディズニー映画『メリー・ポピンズ』で有名になる。が、コウさんには解らなかった。
百合子から訊き出せたのはそこまでであった。本位田には、ここに私がいることは内緒にして欲しい、彼に危害が加わってはいけないから、と念を押された。
「そこで、親父は警視庁の知人に手紙を書いて、『野村百合子』という女性が家庭教師をしていた高貴な家庭を捜査してくれるよう頼んだがです」
と、勇さんの話が続く。
高貴というからには、皇族か爵位を持った貴族であろう。どのくらいの数がいるかは解らないが、父母と離れて暮らしている、九つの娘がいる家庭。そんなには多くないはずである。
その返事が来る間に、行方不明の方の本位田の捜査に係わった。『猪口屋』に残されていた荷物を調べた。その中に一冊の手帳が出てきたのである。特徴のある手帳であったのだ。旧陸軍で使われていた手帳であった。中には文字が書かれてはいるが、全て暗号なのか、単語の意味が解らない。何かを別のもので言い現わしている、例えば、「猫」。「黒猫」とか、「三毛猫」という言葉があったり、鳥の名前が出てきたりする。そういう特殊なメモをするように訓練された人物であると解っただけでも収穫であった。そして、唯一の収穫は、その暗号のような記述の中に『中野学校』と読める部分があったことである。
「こりゃ、南方へ行っていたという『本位田』ではないな。贋者はこっちのほうか……」
と、コウさんは目星を付けた。
だとしたら、刻屋の方が本物、そう判断したコウさんは、刻屋の宿帳に記載されていた『本位田強志』の存在を調べることにした。帰省先は岡山県吉備郡××となっている。さっそく、旧知の岡山の警察にいる刑事に電報を打った。
その数日後、筆山の斜面から、復員服の男の死体が見つかり、それが、猪口屋に泊っていた『本位田強志』と名乗る男であることが確認され、コウさんの推測から、その男が陸軍中野学校の関係者と判明し、その同僚に、○○組の組員が居り、高知に滞在していることを突き止めたのである。
刑事時代の情報屋を使って、○○組の動きを調べさせると、三月前、何名かの組員が、怪しい行動をしていたことが解った。その組員の一人、一番の下っ端らしい男を別件で引っ張ってくる。その男は、コウさんが刑事を辞めたことを知らない。以前から、怖い刑事で、知られていたことが役に立った。元中野学校の男のことを追及すると、あっさり白状したのである。
「へぇ、金田一ゆう探偵さんの手柄やのうて、勇さんの父上の手柄やないですか」
と、そこまで物語が進行したところで、小政さんが言った。
「まあ、刑事を辞めて、まだ間がなかったし、GHQの鼻を明かしたかったこともあったがでしょうね。自分の手柄にしようとは思っていませんよ。同僚の手柄になったら良かったがでしょう。そうそう、その時の、若い刑事が、杉下さんやったそうですよ」
「じゃあ、金田一ゆう探偵さんは、何もしてへんかったがやねェ。それにしては、関係者集めて、ウチの二階まで借りて、真相を語るなんて、何考えちゅうがやろうねェ?売名行為でもないやろうし……」
と、お寅さんが言った。
「そうですね、怪しいと言えば、怪しい男ですね」
と、小政さんが、お寅さんの言葉を繋ぐように言った。
「まず、『金田一』ゆう名前が、怪しいでしょう?それと、自分の手柄やないのに、関係者集めて、わざわざ、最後の皇帝、溥儀の弟、溥傑のことまで話すなんて、必要ないことですよね」
「そうや、ワザとその名前を出して、もう、解決した。秘密はない、と関係者に言いたかった、としか思えんよね」
「そうや、ボンのゆうとおりや。終わらしたかったんや。変な噂をたてられる前に、関係者を集めて、事件は終わったと釘を刺す。それが目的やったんや」
「けど、探偵さんが、なんでそんなことセナならんがです?アッシにはとんと、話が見えてきませんぜェ」
と、変な方言交じりの言葉をマッちゃんが発した。
「あの探偵さんはGHQからの依頼で動いていたのよ。わたしが依頼人を勝手に、家に泊った方の『本位田さん』やと思ったことを巧く利用して、本当の依頼主を誤魔化した。あの探偵さん、喰わせもん、やったかもしれんよ」
と、千代が言った。
「そうか、GHQの息が掛かっていた。それなら辻褄が合いますね。流石、顔回の……」
小政さんはそこまで言って、急に口をつぐんだ。千代が怖い眼で睨んでいた。
千代は周りから『一を聞いて十を知る』と言われた、孔子の弟子『顔回』の生まれ変わりと呼ばれることがあり、本人はそれをひどく嫌っているのである。
少しの間、その場に沈黙が下りる。
「じゃあ、探偵さんの解決には、嘘の部分もあったんと違う?」
と、S氏が沈黙を破るように、誰に問いかけるでもなく話し出した。
「昨日の祖母ちゃんの話で、あれ?って思ったことがあるんよ」
と、話を続ける。
「なんぞね?あれって……」
と、お寅さんが孫の話を受け取る。
「家(うち)に泊った本位田さん、探偵さんの言うには『横溝』ゆうのが本名らしい。けど、それって、誰も確かめてないやろう?僕が疑問に思うたのは、そのひとが百合子さんのこと、エライ詳しゅう知っていたことなんよ。女優志願やとか、最初の声をかけてきた時のこととか、貰った手紙のこととか、本人しか知らんことが多いと思わん?マラリヤで高熱の出ていた人間がそこまで喋るとは思えんし、まあ、横溝さんと本位田さんが親友で、兵隊行く前から、百合子さんのことを知っていた可能性もあるけんど、それにしても、詳し過ぎると思わんかえ?」
「そうや、アテもあれは正直、自分のことを喋りゅうと思うてたもん」
と、お寅さんが大きく頷く。
「この道、二十数年のお寅さんの感覚ですからね。と、いうことは、ボン、刻屋に泊った『本位田強志』は本物、つまり本人やったことになるね?」
「ほいたら、千代が推理したことは間違うてた?名前のない下着、名前を呼んでも返事せんかった、ってゆうのは……?」
「本位田さん、逃亡したんでしょう?名前を変えて、台湾まで行って。だから、本位田という名前は封印されてたんだよ。下着に名前がないのも、名前を呼ばれても反応がなかったのも、そのためだったと思うよ」
「そいたら、横溝って名前が嘘になる……。いや、それだけやない、死んだことさえ、嘘になる。マラリヤに罹(かか)って秘密を打ち明けたってことも……」
「そう、全て、金田一と名乗った探偵さんの作り話、マッちゃん顔負けのテンゴウ噺やったってことだよ」
「えっ?アッシは正直もんのマツでござんすよ」
と、話題にされた本人は芝居がかった口調で反論する。
「だって、金田一って名前も眉唾もんでしょう?その名前を、本物と思わすために、友人に『横溝』という男がいる、その男の伯父が岡山に疎開している、つまり、獄門島の作者、横溝正史と関係がある、と思わせたかったんやろう?そうすることで、自分は名探偵、事件は解決いたしました、って、幕引きを図ったんやろう。どう?僕の推理……」
「いや、感心する。ボンの名推理や。合ってるよ。親父の手帳に、岡山からの返事の――手紙か電報か解らんけど――内容が書かれてあって、『本位田強志、お尋ねの住所に帰還後、東京へ帰還、東京の住所は調査中』って……」
と、勇さんが新事実を披露した。
「ほいたら、本位田さん、生きてたんや。あれ?千代さんあんた、全然驚かんね?」
お寅さんは、その事実に大いに驚かされたのであるが、隣の千代は、笑顔を浮かべて訊いている。その表情に疑問を持ったのである。
「母ちゃん、知っていたんやね?さっきも、探偵さんはGHQに雇われていた、って、断定的に言ってたもんね」
「ええっ?千代さん、知ってて黙っていたんかね?」
と、お寅さんが驚く。
「だって、わたし、あの事件がこんなに話題になっちゅうなんて知りませんもん。それに知ったがは、だいぶ、あとのことですよ」
「あとのこと?何時(いつ)ぞね?どうやって知ったがぞね?」
お寅さんは、少し興奮気味に娘を追及する。
「本位田さんから、お礼の手紙、結婚しましたって、手紙が届いたんですよ。私宛やったし、内容も、秘密にしてくれってことやったし……」
千代の声が最後は小さくなっていった。
「まあ、親子の縁を切ろうかねェ……」
と、お寅さんは自分が蚊帳の外だったことに腹を立てていた。
「結婚?百合子さんと結婚したがですか?」
と、小政さんが、千代の話の一部分に興味を示した。
「ううん、別のひとよ。二人は結局、連絡も取らず、いや、お互い連絡の方法がなかったがかもしれんけんど、別々の人生を歩んだようよ」
「その手紙に、金田一ゆう探偵のことは書かれてなかったがですか?わたしは、その探偵が、本位田君と同じ部隊にいたことは事実だったんではないかと思うんです。嘘と真を、巧く調和させて、話を作った感じがするんですがね。溥傑の娘―つまり、百合子が家庭教師を務めた当人のことは真実のようですし……」
「流石、ホームズの生まれ変わり」
と、今度は千代が小政さんの嫌がる、通称を冗談っぽくお返しをする。小政は、右手で髪の毛を掻きまわす。金田一耕助のように……。
「探偵さん――名無しだと困るから、金田一にしとくね――は本位田さんの戦友だそうよ。GHQの依頼で動いていたらしいの。元々、警察官の息子で――勇さんと同じね――刑事になろうとしたこともあったそうよ。けど、召集でなれんかって、帰還後は探偵になろうとしたらしい。GHQのある組織が調査して、百合子には『本位田強志』という、許婚者(いいなずけ)がいることが判明した。そう、まず最初に、何故GHQが百合子さんに眼を付けたかが問題よね。その情報の元は、嵯峨侯爵家から出たものらしいのよ。それで、その男と同じ部隊に居った金田一に依頼が来たがやろう。その時点では、GHQの調査でも本位田さん、生死不明やったんやからね。
金田一はまず、友人の『B』――つまり、贋者の本位田さん――を高知に派遣する。本位田家に寄って、強志さんが、帰国後、高知に向かったことをそこで知ったのよ。
Bは、陸軍中野学校の出身。秘密捜査はお手のもん、でもなかったのか、中野学校の同僚に手伝いを頼む。それが、『C』――○○組の組員――。あとは、金田一が語ったような経過で、殺人、死体遺棄事件が発生したってことよね。BもCも金田一が依頼人と思っている。金儲けの種と思っていたのかもね。GHQからの依頼――そんな大きな組織が絡んでいること――はもちろん伏せられていたのよ。
金田一は岡山でBからの連絡を待っていた。そこへ本位田さんが帰ってくる。旧友再会で、高知へ行っていた理由を漏らしてしまう。まあ、火曜市で女性を探していたくらいの話よね。金田一はGHQから情報を得ているから、ピンと来た。火曜市の娘が『野村百合子』であること、それをBに電報で知らせる。Bが『本位田』の名前を使って猪口屋に宿泊する、となるわけよ。本位田の名を使えば、その噂が、百合子さんに伝わる可能性があると思ったのよね。百合子さんは、火曜市の近くにいる、と思っていたんじゃないかしら。
Bからの連絡がない。金田一はCのことは詳しくは知らない。しかたなく、自ら、高知に出向くことにした。そこで、今回の狂言を書くことにしたのよ。本位田さんが亡くなっていて、家に泊った本位田は贋者、横溝正史の甥と思わせる。自分は金田一を名乗る。父親の伝手で紹介状を書いてもらい、まあ、GHQからの依頼やき、そこは簡単やったろうね。高知の警察と協力する。Bの失踪の状況をそこで知ったのよ。たぶん、勇さんのお父さんの調査で、○○組との関係も解っていたんやと思うし、筆山で死体が見つかってからは、簡単やったと思うよ。
ただ、金田一には、百合子さんの居場所が解らん。そこで、『たずね人欄』を使(つこ)うた。その時、GHQからお達しがあって、この事件から手を引け、関係者全員に、事件は解決した。秘密の文書などない、と信じ込ませろ。そうゆうて来たんやと思うよ。おそらく、溥傑さんから、そんなものは存在しないと、証言があったのよ。それで、あの一同を集めての真相を語る、ってお芝居が始まったってわけよ」
そこまで語って、千代は冷めかけたお茶を啜る。
「金田一は百合子さんには会ってないですよね?となると、溥傑から預かった重要な物のことは知らない。勇さんの父上が残した、娘へのメッセージってのが、唯一の手掛かりか……?勇さん、その後のお父上の捜査はどうなったがです?警視庁から返事が来たがですか?」
小政さんは、その明晰な頭脳をフル回転させ始めたらしい。もう一つ残された謎、最後の皇帝、溥儀の弟、溥傑から預かった重要な物が何であったのか?そちらの方の謎を解こうとしているのである。
「はい、親父の手帳には、最後の皇帝の姪、名前を慧生(えいせい)と言うそうですが、その娘(こ)に間違いないと書かれてありました。父親は、戦犯として、ソ連に抑留中、近く、身柄を中国共産党に渡される予定、とありました」
「満州国皇帝の愛新覚羅溥儀の弟やから、しゃぁないですよね?親子対面はいつになることやら……」
と、小政さんが呟くように言った。
「アイシンカクラ?その娘さんのお父さん、溥傑ゆうてましたけど、別の姓があったんですか?」
と、突然、マッちゃんが言葉を発する。
「何、驚いてるの?」
と、千代がマッちゃんの言葉の唐突さに声を上げる。
「いや、その子の話、知りませんか?映画にもなりましたでしょう?確か、三ツ矢歌子が演じてたと思うけど、『天城山心中事件』を題材にした映画でしたよ。『天国に結ぶ恋』って題名だったと思いますが、その娘が、アイシンカクラ、って、苗字でした」
映画通のマッちゃんが、今年の春ごろ観たという、映画の話を披露した。
「そや、去年の今頃、天城山で男女の心中事件があって、その片割れが、愛新覚羅溥儀の姪、嵯峨侯爵家にいた、学習院大学の十九歳の娘さんやった」
と、千代が膝を叩く。
「そうか、年齢も丁度ですね?十年になるから……」
と、小政さんが千代の言葉を補うように言った。
「それって、どんな事件?心中の相手とか、心中せなイカン理由とか……?」
と、S氏が大人の世界の話には詳しくないため、周りに問いかけた。
「ボン、わたしが説明するワ」
と、ここは、インテリの小政さんが大人を代表して話し始める。
その事件とは、
最後の皇帝、溥儀の弟、溥傑の娘、名前は慧生。幼い頃から母親の実家『嵯峨侯爵』家で父母や妹と離れて暮らしていた。戦時中、新京で暮らしていた、母と妹も終戦後、苦労の末帰還し、嵯峨家で一緒に暮らすようになったが、父親は拘束中である。
学習院大学に通っていた彼女に恋人ができた。大久保武道という青年、同じ学習院に通う大学生である。
その大久保と慧生が伊豆の天城山でピストル自殺、つまり、心中をしてしまう。享年わずか、十九歳。事件は『天城山心中事件』として、マスコミに大きく取り上げられた。
いろんな憶測が飛び交ったようで、心中にあらず、大久保による、殺害、その後の犯人自殺論。無理心中論。悲恋の心中事件。嵯峨家はあくまで、大久保は慧生に付きまとっていた、今で言う『ストーカー』であり、慧生は彼に殺された、との立場を取っていた。
「心中の理由は?」
と、S氏が尋ねる。
「二人の結婚を嵯峨家では反対、いや、決して認めない、って態度だったんよ」
「母親の、浩(ひろ)さんっていう方とは、一緒に暮らしていた期間も短いし、浩さん自身が、言うなれば、『政略結婚』で溥傑の奥さんになった訳やから、まあ、下々のもんと、結婚はさせん、って、決めていたんやろうね」
と、小政さんの言葉を、千代が補足する。
「その遺体の状況は?無理心中と思われる状況やったがやろうか?」
「うん、そこが微妙でね。ピストルを握っていたのは大久保。慧生は左のコメカミを撃たれて死んでいた。だから、大久保が慧生を撃ち殺し、自分も後を追って自殺したのは間違いない。だから、慧生が撃たれることを納得していたかどうかで、殺人か心中かが違ってくるんよ」
「それで、その納得の上かどうかは、どうゆう判断になったが?」
「二人が婚約したのは事実らしい。まあ、二人だけの約束やろうけどね。手紙が残されていて、結婚を反対されて、悩んでいたことは確かや。大久保の方は、死にたい、って、周りに言ってたそうやが、慧生はそこまでは思い詰めてなかったやろう。ただ、大久保に、一緒に死のう、と言われたら、心中をする可能性もあった。だから、憶測が飛び交っているんよ」
「ねえ、百合子さんが預かった、秘密の文書、娘に好きな人ができたら渡すように、って言わんかった?さっき、勇さん……」
「ああ、そうでした。親父の手帳に、そう書いてました」
と、勇さんがS氏の問いに答える。
「としたら、その文書、慧生さんに渡った可能性があるがやない?」
「ボン、そのとおりや。そしたら、去年の心中事件と、百合子さんが預かった、秘密の文書が係わりを持っている可能性も生まれてくる、ってことや」
「何か、僕にはよう解らん、複雑な話になってきましたね?」
と、勇さんが頭を掻く。
「勇さん、お父上の手帳ってまだ残っている?あったら、現物を見てみたいんやけど……」
「はい、親父の現役時代のもんも含めて、大事に残していますよ」
「そりゃあ、刑事としての字引みたいなもんやき、大事にせんとイカンはねェ」
「お寅さんのゆうとおりです。僕にとっては教科書みたいなもんですき。けど、現物見て、どうするんですか?小政さん……」
「その中に、まだ、大事なことが書かれているかもしれんろう?勇さんの記憶以外に、さりげのう書かれた言葉とかに、ヒントがあるかもしれんやいか。名刑事さんの見解とやらを、この目で確かめてみたいがよ」
「あらあら、本格的に『ホームズの生まれ変わり』になりゆうね?」
「いや、千代さん、ホームズやのうて、金田一耕助――ホンマもん――になった気分ですよ」
小政さんはそう言って、髪の毛を右手で掻きまわした。
8、「ホームズの生まれ変わり」の報告
勇さんから、父親の手帳を借り受け、小政さんは、しばらく刻屋には現れなかった。マッちゃんの噂によれば――眉唾もんではあるが――火曜市で見かけたのこと。
「よっちゃんや、金物屋の大将――百合子に合っている年寄――と何やら話していたようですよ」
と、お寅さんに伝える。
「へぇ?金物屋の爺さん、まだ生きてて、火曜市に出てるんかえ?」
「お母さん、そっちを驚いてどうするんです?小政さんの行動の方でしょう、驚くのは……」
「そ、そうやった、マッちゃん、噺作ってないろうねェ?」
「噺作るって、アッシは『正直もんのマツ』ですぜ。一昨日のことですき、間違いありませんよ」
「まあ、そこまでは信用するけんど、それから?噺はどう進むんや?」
「ヘェ、昨日は県警本部へ行って、勇さんや杉下って、強面の刑事さんに逢(おう)ってきたそうですぜ」
「誰に訊いたん、その噺?」
「えっ?本人に決まってますよ。小政さん本人……」
そこへ、小政さん本人が「今日は」と、惣菜売り場の硝子戸を開けて入って来た。
「今日は風が吹いてて、寒いですねえ。やっぱり、師走は師走ですねえ」
と、両手を擦りながら、挨拶代わりの言葉をかける。
「おや、マッちゃんも来てたんか?今日は床屋は?定休日やないろう?」
「小政の兄ィさん、丁度良かった。あんたの噂してたとこよ。あんた、昨日、警察本部へ行ってたんやって?」
「おや、お寅さん、噂以上の『早や耳』ですねェ。何処で仕入れました?」
「この、暇な御仁や」
「ひ、暇やないですよ。客を断ってまでの、ご注進ってやつですよ」
「マッちゃん、さっきの本人から訊いた、って言うのは、嘘やね?いつもの、盛った噺やったがやね?」
「千代さん、勘弁。お多可さんに訊いたもんです。本人と変わらんでしょう?」
「大違いや、このセンミツが!江ノ口川のドブに放り込んじゃろうか?」
「わぁ、お寅さん、勘弁、勘弁、ほいたら、アッシは客を待たしてますき……」
マッちゃんはそう言って、慌てて硝子戸を開けて出て行った。
「ははは、相変わらずですねェ」
と、小政さんがその背中を見送りながら言った。
「ほんま、困った男よ」
「いえ、マッちゃんやのうて、ハチキンさんの方ですけど……」
「あんた、アテをからかいに来たがかね?」
「と、とんでもない、お寅さんをからかうなんて、うちの社長以外、できませんやろう?」
「お母さん、立ち話もなんやから、座ってもろうたら?きっと、例の事件のことでしょう?」
千代の言葉に、まあ、エイワ、と、笑顔を浮かべて、お寅さんが小政さんをいつものテーブルに導く。千代はお茶の用意に台所に入って行った。
「それで、何か進展あった?」
千代が小政に熱いお茶の入った、大き目の湯呑を勧めながら尋ねた。
「ボンはまだ学校ですか?」
と、小政さんが千代の質問をまずは無視するかのように、お茶を啜りながら尋ねてきた。
「そうね、もう帰って来ないとイカン時間やけど……」
と、千代は玄関から見える場所に置かれている、大きな振り子時計を振り返りながら眺めて言った。
「もう、モンテ来るろう?後で、アテが話しするき、噺、始めや」
そこへ、玄関の硝子戸を「ガラガラ」と音をたてさせながら、
「ただいま」
と、男の子の声が聞こえてきた。
「おやまあ、エライ、タイミングのエイ子や……」
と、その声に反応して、お寅さんが呆れたような口調で言った。
学校の荷物を部屋に置いて、S氏が玄関脇のテーブルに帰ってくる。
「小政さん、何か進展があったが?」
と、母親と同じ質問をする。
ゆっくりとお茶を飲んでいた小政さんは湯呑を置いて噺を切り出した。
「例の勇さんの父上の手帳に書かれていた事件の覚書を読ませていただきました。この前の勇さんの噺と重複するところもありますが、解ったことをお知らせします」
ここから、坂本孝兵衛元刑事の覚書による物語を綴ることになる。
お寅さんは、話の途中で、電話がかかってきて、出かけることになり、話半分で、座を退席して行った。
お寅さんから依頼を受けたコウさんは、元刑事の勘で、すぐ、その怪しい男たち――刻屋の様子を見張っているという――が、警察関係、或いは私設の探偵社だと、推理した。そこで、元部下だった刑事に、さり気なく問い質(ただ)す。
「刻屋旅館の見張り、大変そうやな?」
「へえ、もう、コウさんの耳に入ってるんですか?」
「こっちの事件の捜査やないがやろう?何処からの指令や?」
コウさんは、他県で起きた事件の捜査に、本県の警察が協力していると思ったのである。
「指令?そこまで察しちゅうがですか?流石、鬼と言われたひとやな」
若い刑事は何か勘違いをしたようだ。「指示」「要請」と言わずに「指令」と言ったことが、功を奏したらしい。黙って、次の言葉を促した。
「GHQからのお達しらしいですよ。刑事課の田中班がやらされているんですワ。まあ、ヤル気ないこと……。解るでしょう?GHQ嫌いのコウさんやから……」
「田中君か。まあ、ご苦労なこっちゃ。けど、あんまり、素人さんに迷惑をかけたらいかんでェ。おまんから、田中君にゆうといてや」
「コウさん、直接ゆうてくださいよ。元、直属の部下、コンビも組んでたやないですか……」
「その、元コンビってやつが、気後れする原因よ」
「なんちゃあやない。田中さん喜びますよ。コウさんどうしゆうろう?ってゆうてましたよ。そうや、もう帰ってくる頃や。待ってみますか?」
「ほいたら、前の喫茶店に居るから、カマンかったら、ゆうてくれるか?」
それから、十分後、半袖の開襟シャツを汗で滲ませて、ゴマ塩頭のひと眼で刑事と解る、ずんぐりとした体形の男が、喫茶店の扉を開けて入って来た。
あまり美味しくないコーヒーを啜りながら、二人――元、と現役――の刑事は世間話から、会話を始める。コーヒーを半分飲んだ辺りで、コウさんが、GHQがらみの事件に話題を転じた。
「秘密裏に、ってことなんですがね。見張っていた若いもんが、どうも下手糞で、住民に知れ渡っているようですね?」
「やる気がないんやから、仕方ないワナ」
と、コウさんはコーヒーを口に運びながら、噺の続きを促す。
(井口町で、怪しい者がいたら、すぐに、マッちゃんが噂を広めてしまう。住民の眼も光るようになってしまう。そういう場所なのだ)
と、心の中で呟きながら……。
GHQからの指令は、『火曜市近辺』に出没した『復員兵』らしき男、名前を自称『本位田』という男の捜査である。同人か別人か解らないが、火曜市に三週間続けて現れ、何やら探っている様子である。スパイの疑いがある。共産主義者かもしれない。近所の旅館に潜伏する可能性があり、張り込みをせよ。というものであった。
「スパイか共産主義者?また、エライホラ話にしたもんやな」
と、刻屋の方の本位田のことをそこそこ訊いているコウさんは呆れかえった。
「それで、その本位田ちゅう男、何を探っているのか、訊いちゅうかえ?」
「いや、人探し、以外は訊いてません。訊いても教えてくれませんよ。『重要機密』ってことで……。ほんで、我々もまあ、やる気がないがですけどね」
と、田中刑事は、冷めかけたコーヒーを口に運びながら言った。
結局、警察は本腰で『本位田強志』を追い掛けてはいなかった。「秘密裏に」という指令を盾にとり、刻屋にも猪口屋にも、聴き取り調査を行わなかった。ただ見張るだけ、時期が来れば、指令の解除が出るはずである。それまでは、やる気のない張り込みを続けるだけであった。
「岡山の警察に照会もしてないんやろうなぁ。本人かどうかも確かめてない。お寅さんを安心さすためには、こっちで調べちゃらんとイカンやろうなぁ」
元刑事は、薄くなりかけた髪の毛を掻いて、ひとり言のようにつぶやいていた。
「まずは、千代さんに、刻屋に泊った『本位田』のことを、もうチックと詳しゅうに訊いておくか。あの娘(こ)は、賢いし、人を見る眼もある。刑事の嫁にしたいくらいや。ウチの息子の出来がもうチックと良かったら、幸雄さんの代わりに養子にもろうてもろうたに……」
と、コウさんは、土佐弁の『もうチックと(もう少し)』を繰返しながら、ため息交じりに言った。
警察本部から、自転車に跨って刻屋に寄る。ついでのふりをして、千代の話をさり気なく訊いた。お寅さんはちょうど、留守であったので、お寅さんには内緒にしておいてくれと頼んでいった。
千代から仕入れた、火曜市の出店者、よっちゃんと金物屋の親父に訊き取りをする。野村百合子という名はこの時点では聞いていないが、本位田が探しているという娘は、四十代の漁師の女将さん風の女性と一緒だったこと、リヤカーを引いて、帰って行ったのは、旭の方向、つまり西、であることを確認した。そして、その、女将さんの特徴を、親父から、詳しく訊き出したのである。
百合子を見つけるまでの話は、勇さんが語ったとおりである。毎日早朝から、変速機付きの自転車に跨り、仁淀川沿いを河口に向けて走る。まずは、左岸、今の春野町辺りである。諸木地区、漁港の辺り、仁ノ地区と、東から西へと捜査が続けられた。
金物屋の親父から訊いた、漁師の女将の容貌は、あまり特徴のあるものではない。小柄だと言ったが、あてにはならない。だから、それらしき女性は、所々で見つかるのである。その一人一人に面会し――昼間は兼業で農業をしていて、逢える時間も定まらないことが多い――違っていることを確認する。そんな毎日が続いたのである。
ひと月近く経って、今度は川の右岸、新居地区から、宇佐に入って行った。そこは、鰹節製造で有名な土地であり、アジやサバの開きやイワシの丸干し(=メザシ)などの干物の生産も盛んである。そこらじゅうが、漁師の女将さんでいっぱいであった。
そこで、コウさんは、百合子の特徴――黒い色眼鏡をかけた若い娘――を合体して訊き取りを始めたのである。
宇佐の海岸線を東から西へ自転車を走らせながら、漁師の女将さんと思える女性に声をかける。魚を行商している女将さんは、思った以上に多かった。去年の震災前に、火曜市へ鮮魚を売りに行った、女性はとうとう見つからないまま、一カ月以上が経過し、宇佐から浦ノ内湾の方へ捜査の範囲を広げたのは、お盆を過ぎて、土用波が海岸に押し寄せる頃であった。
小さな台風が土佐沖を通過した翌日、三日ぶりに晴れ渡った空を見上げ、コウさんは自転車を走らせていた。
浦ノ内湾の曲がりくねった海岸線を走り、深浦という漁港に辿り着いた。丁度、漁港で蟹の籠から生きの良い渡り蟹を取り出している、若い漁師に出くわした。海が荒れて、漁に出られず、岸辺に仕掛けてあった、蟹籠を回収していたようである。
「兄さん、この辺で、黒い色眼鏡をかけちゅう、眼がちっくと悪そうな、若い娘、知らんかよ?」
コウさんは自転車に跨ったまま、若い漁師に尋ねた。
「おう、おんちゃん、この辺のもんやないろう?はや、そんな噂が広まっちゅうかよ?」
「ほいたら、居るがかェ?」
コウさんは、驚きと興奮を、出来る限り抑えた口調でそう言ったが、やはり、声のトーンは押え切れなかったようだ。
若者は、ちょっと気後れしたように、身を引き、眼を見張った。
「おんちゃん、どこまで噂になっちゅうか知らんけんど、あんまり、広げたらイカンぜよ。何でも、里見の家では、秘密にしちょったらしいき。終戦前から住んじゅうに、ほんの四、五日まえまで、誰も気づかんかったそうやき……」
と、漁師らしくない小声でコウさんに忠告した。
「里見?その家はどの辺ぜよ?」
「おんちゃん、まさか、逢いに行くがやないろうね?行ってもエイけんど、ワシがゆうた、とはゆわんといてよ。里見家に恨まれとうないき……」
若者はそう念を押すように言って、里見の家はもう少し湾の奥、小学校の辺りで訊いたら誰でも知っちゅう、と教えてくれた。
コウさんは礼を言って、自転車を走らせ、小学校の校舎が見えて来た辺りの雑貨屋のお婆さんに、里見家を尋ねた。棚田や段々畑を上った処に、里見家の大きな屋敷が建っていた。
開かれていた、大きな門から中を覗くと、丁度、若い娘が庭に生えている、ユリの花を鋏で摘んでいる処であった。
「娘さん、突然、現れて、つかぬことをお尋ねするが、あなた、戦時中、東京のW大の近くの食堂で働いていたことはないかね?」
コウさんは、千代から訊いてきた、本位田が語った、女性との出会いの場所のことを尋ねてみた。その声にユリの花を斬り終えた娘が顔を上げる。その顔には黒いサングラスが掛けられており、驚いたのか、不審に思ったのか、表情を読み取ることはできなかった。
「どちらさまでしょうか?」
と、娘は、鈴の鳴るような可愛い声で、しかし、訝るように少し身を固くしながらコウさんに質問した。
「いや、怪しいもんやない。とゆうても、怪しいと思われても致し方ない。あんたの名前も知らんと、訪ねてきたんやから……。ただ、あんた、本位田強志とゆう男を知っちゃあせんかえ?その男のことで、訊きたいことがあって……。ああ、ワシは坂本ゆうもんや。坂本孝兵衛。元やが、警察官や。けど、犯罪調査やないき……。まあ、チックと、説明し難い噺になるんやが、あんたがその、食堂に居った、別嬪さんやったら、噺を訊いて欲しいがやけんど……」
コウさんは流暢ではないが、精一杯、穏やかに、丁寧に訪問した理由をそう切り出した。
「本位田さんのことで……」
と、小さくつぶやいた後、
「ああ、立ち話も何ですから、どうぞ中へ」
と、ユリの花ときりばさみを足元に置いていた竹籠に入れて、踵を返した。
広い屋敷の裏にある離れに案内され、そこで、勇さんが先日語った物語を訊かされたのである。
「勇さんの記憶は、まあ確かなもんでした。おそらく、繰返し読んでいたのでしょう、手垢の痕が随分ありましたから……」
と、小政さんはそこで一旦、物語を止めて、お茶を一口飲んだ。
「じゃあ、勇さんのお父さんは、そこで初めて、百合子さんの名前と、その高貴なお方から何か文書を預かっていることを知ったがやね?母ちゃんは百合子さんの名前を教えちゃらんかったがや」
「そら、そうや。本位田さんから、絶対内緒や、って言われていたもん。お母さんにも本当やったら、喋ったらイカンことやったがやき、いくら、元刑事ゆうても、他人さんやし……」
「けど、その所為で、お父さん、エライ苦労して、探し出したがやろう?名前が解っちょったら、もうちょっと、早(はよ)うに見つけられたろうに……」
「いや、ボン、丁度良かったがよ。そのくらいの時やったら、GHQも手を引く頃や。けど、もっと早い時期に見つけていたら……」
「そうか、GHQの息がかかったもんに知れて、コウさんも、いや、百合子さんにも災いが降りかかったかもしれんよね?わたしの行動は正しかったんや」
「母ちゃん、それ、結果論やお?」
「結果が良ければエイんよ。それで、小政さん他に何か解ったことあった?」
都合が悪くなって、千代は話題を変える。
「ええ、勇さんは気づいてなかったようやけど、お父上は、百合子さんの言ってた、然る高貴な方の娘さんの身元を解っていたようです。覚書の百合子さんを訪問した後に『シンのコウテイか?』って走り書きが……」
「シンのコウテイって何?」
「ボン、旧満州国の皇帝『愛新覚羅溥儀』っていう人は、中華民国が建国される前の清国の最後の皇帝やった人よ。日本の関東軍が満州国を建設、つまり、独立国家にするために、傀儡として立てた皇帝ながよ」
「けど、コウさん、どうやって知ったがやろう?警視庁へ照会する前やろう?」
「百合子さんの証言ゆうか、話の中にヒントがあったがですよ。父母、両方と離れて暮らしている、九歳の女の子。高貴なお方の娘さんで、そりゃあ、戦時中ですき、父親と離れて暮らす娘は居りますろう。けど、両親ともとなると、これは、特殊な環境ですよ。しかも、九歳やのうて、その前、小学校に入った頃かららしいから……」
「そうか、日本の皇族や貴族では考えられんってことか」
千代と息子は深く頷いた。
「コウさんは、その推測を確かめるべく、警視庁の知り合いに手紙を書いたのです。つまり裏付けを取るために……。その返事が来る間に、今度は本位田強志の捜査に当たることになります」
「猪口屋へ行って、贋者の方が残していた、荷物を調べるんやったね?」
「そう、荷物はそのまま。だけど、身元に繋がる物はその、『陸軍から支給された軍人手帳』のみ。下着にも、衣服、持ち物にも名前はない」
「しかも、手帳の中身は『暗号だらけ』やった……。そりゃ、怪しい男、丸出しやね。猪口屋の悦子さんが思い切って警察に相談していたら、もっと早うに……」
そう、言いかけて、S氏ははっと、母親の顔色を覗(うかが)う。
「はいはい、わたしのアドバイスが悪かったんです」
「いや、千代さん、これも結果論ですが、早くに捜査を始めていたら、GHQがどんな行動をとっていたか……。何もせん。傍観する、は間違うてなかったがですよ。千代さんは凄いです。正しい判断が続いたんですから……」
「そうかなぁ?たまたまやと思うけど……」
そう言って、S氏はしまったと思った。(イカン、こづかい、減らされる)と、心の中で叫んでいた。
「それと、面白いことがありますよ」
と、小政さんが話題を変えるように物語を進め始める。
「面白いことって?」
と、千代が尋ねた。
「コウさん、それから、岡山の警察に電報を打ったでしょう?その知り合いの刑事ゆうのが、名前を『磯川』ゆうそうですよ」
「えっ?それって、金田一耕助の獄門島や八つ墓村に出てくる、岡山の警部さん?」
「ははは、偶然でしょうね、同姓の刑事が居ったがですよ。警部やのうて、警部補やったらしいですよ」
「待って、確か、金田一という――あの贋者の探偵さんやけど――が帰る時、田中ゆう刑事さんが金田一の名前を呼んで、『イソガワさんによろしく』って言わんかった?」
「そうよ。その前に『××いちさん』って、探偵さんの名前を早口でゆうたのよ」
「そいたら、その磯川さんが探偵さんの紹介状を書いた人。つまり、探偵さんのお父さんの知り合いの刑事さんながやろう?」
「あんた、何が言いたいが?訳解らんなる」
「いや、偶然かもしれんけど、磯川に金田一、それと横溝、やっぱり、探偵さんと横溝正史はどこかで繋がっているよ。知り合いとしか思えん」
「大正解」
「えっ?何、その大正解って……」
「千代さん、ボンの直感はほんまもんですよ。これは後から話そうと思ったがですけどね。コウさんの問い合わせに対して、岡山の警察からの回答には、本位田強志のことだけやのうて、その後で、金田一と名乗った、自称『探偵』のことも書いているんですよ。その返事の中に、横溝正史と昵懇(じっこん)になって、探偵稼業をするのに、『金田一』って姓を使わせてもらったらしいのです。名前は流石に『耕助』ではなく、『耕作』だそうですがね。これも横溝のよく使う名前で『山名耕作』って主人公の物語もあるくらいです」
「金田一耕作、はっきり言って、悪ノリにしか思えんね。明智大五郎の方がまだマシやと思うけどね」
S氏は、江戸川乱歩の探偵小説に登場する、名探偵『明智小五郎』をもじった名前を披露したのであった。
「金田一の話は置いといて、コウさんの覚書の続き、岡山の警察からの返事について、勇さんの話以外に、書かれていたことがあります」
小政さんの話の続きが始まった。
「本位田強志は、一度、岡山の伯父の元へ帰っています。コウさんが、調査を依頼した時には、その伯父という方も東京の自家に引き上げていたようで、強志の東京での居場所は調査中との返信でした。
本位田家は岡山の旧家で、強志の父は三男、疎開していた、伯父さんが次男。その上の長男が岡山の実家を継いでいるんですが、その跡取りが戦死してしまって、本位田の若い男は強志君一人になっているらしい。本家の跡継ぎを誰にするか、その時、問題になっていたそうです。その結果は、また後ほどになるんですが、そういう状況だったことを憶えていてください」
そこで、小政さんは、話をひと区切りするかのように、お茶を口に運ぶ。
「さて、その岡山からの返事が届く頃、金田一探偵が高知に現れます。磯川警部補の紹介状を持って、高知の警察を訪れ、野村百合子という女性について尋ねます。高知の警察では、その名前は全く知られていない。金田一は空振りに終わる訳です。しかたなく、自分で捜査することになる。まずは、連絡の途絶えた、本位田の贋者――B氏――の行方を探ります。Bが泊った、猪口屋に自らも泊り、火曜市で行方不明になったことを――おそらく、番頭さんから――訊き出します。その翌日、火曜市のBが行方不明になった場所を実地検分に行く。そこで、千代さんと先生に出会うわけです」
「ああ、火曜市の公園でのことね?」
「ええ、そうです。そこで、千代さんが、本位田本人から、野村百合子のことを訊いていることを知ります。GHQからの依頼で、おそらく、一般人を巻きこまないよう、秘密裏に……と言われていたのでしょう。とっさに、狂言を作ります。Bを拉致したのは、大きな組織であると匂わせたのです」
「そうか、GHQとは言わんかった。あれは、先生が勝手にそう思い込んだんやった」
「GHQの犯行でないことは、金田一には解っていたはずですからね。まあ、一種の脅しですよ。要らん噂を広めるな、ってことですかね?
おそらく、千代さんが野村百合子の名前を知っているってことは、GHQのエイジェントに知らせたはずです。それが、最終的に、あの一同を集めての、真相の打ち明け話、幕引きに繋がっているんです。どこまで、広がっているか解らないから、関係者全員を集めるしかなかったんですよ」
「マッちゃんが知らんでよかったね。知ってたら、上町地区全員に噂が流れちょったろうね」
「ははは、まっこと、ボンのゆうとおりですね。」
と、S氏の言葉に小政が大いに同意する。
「その後、金田一は再び、警察署に赴きます。そこで、偶然、コウさんに出会うのです。コウさんが、Bの身元の情報を持って、行方不明者としての捜査を頼みに来ていたんです。そこで、金田一を紹介され、彼もBを探していることを知ります。コウさんは、その時点で、○○組による拉致事件との見解を持っていたようです。そして、翌日の台風、Bの死体の発見。○○組の犯行の裏付け捜査となるわけです。
もうひとつの、百合子さんのほうは、コウさんは約束どおり、誰にも話していません。金田一は最後の手段の『たずね人欄』への投稿をします。結果的に、里見家の女主人がそれを見て、連絡をくれる訳ですが、百合子さんはその時は、大阪の病院に居りましたし、その広告を見たGHQのエイジェントから、マズイ、噂が広がらないうちに、幕引きをすること、とのお達しがあったと思われます」
「さっきから、『思われます』って、言ってるけど、それは、小政さんの想像?」
と、千代が尋ねた。
「いえ、わたしじゃなくて、コウさんの覚書の中で、そう推測している部分があるがです」
「ってことは、コウさん、金田一についても、わざわざ、岡山の警察に問い合わせして、調べたってこと?向こうから、磯川って刑事か警部補か知らんけど、が、ちょうど、そっちの警察に私が紹介状書いた男が行ってる、ってついでに知らせてくれたがやのうて……」
「そうです。だって、怪しいでしょう?名前から、容貌、それに、本位田が戦死しているって、話もあとで、田中刑事から訊いたそうですから、金田一と名乗る男の方が、本位田より怪しいと思いますよね?」
「そうか、あの真相を話す場面に、田中刑事が居ったんや。そりゃあ、コウさんの耳にも入るわよね。そしたら、コウさんのなら、調べるよね、絶対……」
「だから、さっき、僕の想像が『大正解』って、ゆうたがや。コウさんの覚書に、金田一のことが――その後の調査のことが――詳しうに書かれてあったんや」
「そのとおりです。ですから、コウさんはほぼ事件の全容を把握していたことになります。GHQに雇われていた、金田一より、百合子さんについての情報は掴んでいますから……」
「じゃあ、コウさんが生きていたら、今回の『天城山心中事件』の謎も解けていたかもしれんね?」
と、千代がしみじみした口調で言った。
「名刑事、って居るんや。名探偵より、格好エイねェ。勇さん、成れるんかなぁ?お父さんみたいな名刑事に……」
「無理やと思うでェ、未だに、みっちゃん、よう、くどかん男やから……。人が善(よ)すぎる。刑事には向かんタイプや」
「けど、みんなから好かれてますよね?特に、お寅さんにも千代さんにも……」
「な、何ゆうてんの、小政さん?わたし、勇さんのこと、全然、タイプやないよ」
と、千代が慌てて否定する。
「母ちゃん、何、焦ってるん?小政さん、変な意味でゆうてないやろう?好きか嫌いかやったら、僕かて、好きやし、そうゆう意味の『好いてる』やろう?何、勘違いしてるの?男と女の仲やと思うたんか?」
「ははは、ボンのゆうとおりや。わたしの言い方も悪かったですね。勿論、わたしも勇さん、好きですよ。エイ男です。顔やのうて、心がですけどね……」
「けど、小政さんも、『勇さんは刑事に向いてない』と、思うちゅう派ながやろう?母ちゃんと同じで……。でも、僕は、今のお父さんの話訊いてて、ひょっとしたら、勇さん名刑事になるかも、いや、その素質だけは、遺伝しているかも、って思うたんよ。これ、希望的観測かもしれんけどね……」
「そうであって欲しいですね。刑事には向いてないが、刑事にしかなれん男ですから……」
「小政さん、巧いことゆう、わたしもその通りやと思うワ」
「噺、脱線してる。勇さんのお父さんの覚書、肝心な、百合子さんの秘密がまだ解ってないやいか。今度の『天城山心中事件』に繋がっているのかいないのか、その辺はどうなの?何か書かれてあった?」
「御免、御免、話を戻すワ。金田一と名乗った探偵に疑問を抱いたコウさんは、再び、岡山の警察に、電報を打った。その回答は、さっきゆうたように、金田一は仮名、横溝正史に断りを入れて、名乗っていること。本当の名前も、警察官の父親のことも知らせてきた。GHQに雇われての調査のことも、Bとゆう男との関係も、知らせてくれたらしい。で、その金田一やが、この事件からは手を引いた。GHQから、お達しがあったし、野村百合子については、興味がなくなったがやろう。ただ、本物の本位田には事件の顛末を知らせたらしい。これは、磯川警部補が、金田一の父親から直接訊いたことやそうや。紹介状を書いてくれたもんから、息子のことを訊かれたら、そりゃぁ、正直に答えるろうきにね……。
金田一のことはここまでにしとこう、その後、彼が名探偵になったかは、コウさんの覚書にも書かれてないき、事件とは関係のうなったがやろう……。
さて、続きは、東京の方からの返事や……」
小政は、ここで、またお茶を飲む。
「警視庁からの返事には、コウさんが思うてたとおり、百合子の家庭教師をしていた先が、嵯峨侯爵家にいる娘――つまり、愛新覚羅溥儀の姪――だと記されていた。そして、これは、重要機密に属している、と、注釈付きだったらしい。その返事をくれた警視庁の知人は、コウさんと同じく、GHQ嫌い。それでかどうかわからんが、調べたことを詳しく知らせてくれた。機密事項にも関わらずやから、相当な捻くれもんやったがやろう。
百合子のゆうてたとおり、溥傑氏から、何やら重要な文書を預かった、元家庭教師が、お尋ねの『野村百合子』と思われる。このことは、当時――昭和十九年に――溥傑氏が一時帰国し、満州に帰国する前日に渡されたものであるとのこと。それに立ちあった、嵯峨家の遠縁で、書生だった男が証言している。と書かれてあったそうや」
「嵯峨家の遠縁の書生?」
と、そこで千代が反応した。
「何?母ちゃん、そんなとこで口挟んで?」
「ううん……、噺の腰を折りそうやから……」
「何、ゆうてんの?今までも随分、折ってきた気がするけど……」
「そうですよ、何か気になったら、遠慮のう、言ってください。こっちが気になりますから」
小政さんに促されて、千代は決心がついたように話し始める。
「この前、本位田さんからお礼の手紙、結婚の知らせの手紙が届いてる、ってゆうたろう?」
「ああ、金田一がGHQに雇われてたとか、色々教えてくれたがやったね?」
「そう、その中に、百合子さんの結婚相手のことが書かれてあったのよ」
「まさか、その相手が、元、嵯峨家の書生、って言うんやないでしょうね?」
「流石、ホームズの……、あっ、御免、言われんがやった」
「いえ、千代さんの顔回ほど、嫌ではないですき……。と、いうことは、その書生と結婚したがですね?」
「そう、あの事件から、三年ぐらい後のことらしい」
「よう、解らんなる。この際やき、母ちゃん、その本位田さんの手紙の内容を話して。小政さんの話の続きはそれからにしよう」
9、「顔回の生まれ変わり」の打ち明け噺
「本位田さんからの手紙が来たのは、家の娘が生まれた頃やった」
と、千代の話が始まった。娘とは、S氏の妹のことである。
その手紙の表書き――受取人の住所氏名――には、『高知市井口町、刻屋旅館、気付』、段落を変えて、『若女将、千代さま』、そして『親展』と左端に書かれてあった。
「へえ、よう、そんな宛名で封書が届いたねぇ。住所も名前も、中途半端、いや、解らんろう、今やったら……」
「まあ、刻屋旅館は有名ながですよ」
と、小政さんがフォローする。
「有名って、旅館としてやのうて、別の処でやろうけどね……」
「郵便屋さん、笑ってたワ。けど、しっかり、ここやと、解りますねェって、ゆうてくれたよ。わたしが直に受け取ったんやから……。まあ、宛名はこちらも悪いんや。正確な住所も、うちとこの姓も伝えてなかったんやから。それで、本位田さん、手紙をよう出さんかったみたいよ。手紙の中――冒頭――にも、挨拶の後に、この手紙が、無事に千代さんに届くか、一抹の不安がありますが、って書いてあったから……」
「それで?親展扱いってことは、千代さんだけに伝えたいことがあったがですよね?届かない可能性もあるのにもかかわらず……」
「そうよ、だって、百合子さんのことは、私にだけに話したことになっているんだもの。金田一の贋もんから、事件の顛末は訊いたらしいけど、あの、大げさな一同集めての、真相解明の場面は省略されたらしいのよ。ただ、わたしと逢って、事件の真相を話したってことにしていたようよ。だから、手紙の内容の大部分は、戦友でもある、金田一と名乗った探偵が、わたしに迷惑をお掛けした、事実でないことをお話ししたらしいから、という、お詫びの手紙だったのよ」
「そりゃあ、そうですよね、自分が戦死していることになっていたんだから」
「それに、自分も本位田に成りすまして、嘘を語っていたと思われちゅうがやもんねェ。そりゃ、弁解せんと困るよね」
「けど、千代さん驚いたでしょう?死んだ人間からの手紙やったんやから……」
小政と息子の言葉に軽く肯(うなず)いて、千代は話を進める。
「そうね、けど、実はわたし、コウさんから、訊いてたんよ。本位田は生きている。金田一の話は、そうゆうこと――金田一が描いた筋書き――で、丸く事件を解決するための方便やった、って……」
「えっ?母ちゃん、それはないろう?祖母ちゃんが居らんでよかったワ。『親子の縁切る』って、また、怒ってるよ」
「だって、前もゆうたけど、あの事件がこんなに話題になっちゅうなんて、知らんし、コウさんからは、口止めされてるし、もう、時効よ、その辺は……」
「そうですね、今回、事件が掘り返されたんは、マッちゃんの『私は貝になりたい』の主人公のモデルが自分だ、って、ホラ噺がきっかけですもんね。千代さんには何の落ち度もないですよ。お寅さんにわたしから、そう言っときます」
ありがとう、こまささん、と、千代はにっこりと小政さんの方に笑顔を見せて、話題を切り替えた。
「だから、手紙の最初の部分は、お詫びと、金田一の素姓、金田一から訊かされた、事件の顛末の嘘の部分の訂正――本当の真相――が書いてあったのよ」
「それが、この前、千代さんが語った、事件の内容ですね?」
「そう、金田一が戦友だったこと。GHQからの依頼。金田一とBやCとの関係。そのBとCの素姓。金田一のお父さんのこと、それと、横溝正史との係わりも、書かれてあったわ」
「そやき、詳しかったがか、母ちゃんの『名推理』やのうて、本位田さんの告白文やったがや……」
「わたし、自分の推理みたいに話してた?」
「いや、そうでもなかった、だから、どっからそんなに詳しい情報を仕入れたんやろう、って思うてた。長い手紙やったがやね?本位田さんからの。僕、結婚しましたって、挨拶状程度かと思うてたから……」
「だから、事件の真相や、金田一のことは省(はぶ)くね。手紙の後半部分に移るよ」
と、千代はテーブルを挟んで座っている二人に承諾を得るような視線を向けた後、話の続きを始めた。
「本位田さんが、岡山の伯父さんの疎開先に帰りついたその晩、金田一が現れて、まあ、戦友の帰還を祝った訳よ。帰ってくることは、伯父さんから、電報を打ったことを訊いていたからや。そこで、高知で娘を探してたけど、見つからんかった、という話をした。金田一はその娘が、GHQから依頼のあった、溥傑から、重要文書を預かった娘と気付いた。自分の推理、本位田が高知の知人を訪問しているのは、恋仲やった、百合子を探すためかもしれんと思って、Bを派遣したことが的中して、心の中で、手を叩いていたやろうなぁ。そこで、金田一は、自分が『探偵』として、GHQに雇われていること、その娘を探し出して、重要文書を手に入れることを依頼されていることを打ち明けたそうよ」
そこで、金田一が提案する。本位田強志は、戦死したことにしよう。GHQは本位田の生死は掴んでいない。帰還していることが知れると、本位田の身に危険が迫る可能性――拉致、いや暗殺――があるのである。GHQは本位田と百合子が親密な仲――婚約者程度――とまでは把握しているが、百合子が秘密文書のことを、本位田に伝えたかどうかは、解っていないのである。ただ、本位田が百合子の帰省先を知っている、とは、確信しているようであった。GHQにとって、本位田は百合子へ――つまり、秘密文書へ――繋がる、ひとつの線上の駒にすぎないのであった。
本位田の伯父さんにも、強志が帰還したことを、しばらく内緒にしておくよう頼んで、高知に派遣した、B氏に火曜市を捜査するよう指令を出した。GHQには、B氏を使って捜査していることも伝えていない。時間を稼いで、銭も稼がしてもらおう、とでも思っていたのかもしれない。
だが、そのことが、裏目に出る。B氏が怪しい行動をとる男、百合子の持つ、秘密文書を狙う、別組織――ソ連か中国か――に雇われたエイジェントとGHQに睨まれ、その事が、すぐ、○○組にも伝わったのである。それが、B氏の拉致、殺害、死体遺棄へと繋がって行ったのである。
B氏からの連絡が途絶えたにもかかわらず、金田一は動かない。百合子が高知にいることは、GHQは掴んでいないと、タカを括っていたのである。ところが、痺れを切らしたGHQのエイジェントから、督促を受ける。進展がないなら、契約を解除する、と言われ、慌てて、百合子は高知にいることを掴んだ、これから、高知に向かうところだ、と言い訳して、旅立つこととなったのである。
「丁度その頃、本位田さんは、岡山から東京へ帰ったそうよ」
と、千代が説明を付け加える。
「こっちでは、コウさんの調査が進んでいて、百合子さんは大阪の病院へ行った頃ですよね?」
と、小政さんが、確認するように言った。
「そう、だから、本位田さんが事件の顛末を知ったのは、随分後のことになるのよ。金田一が東京に出て来て、再会するまで、何年も経ってしまったのよ」
「それで、慌てて、母ちゃんに手紙を書いたんや。自分が死んでいたり、嘘を吐いていたり、って、母ちゃんに誤解されていると思って……」
「もっと早く、事件の顛末を知っていたら、ひょっとして、本位田さん百合子さんを探し出していたかもしれませんね?百合子さんが無事で、眼も見えるようになって、秘密文書の為に身を危険にさらすことも無くなって……」
「いや、それ以上に、自分の息子が居ることを知らされたら……」
と、小政さんの言葉を遮るように、S氏が言った。その言葉を受けるように、千代が疑問を投げかける。
「そ、そうや、忘れてた。二人の間には子供ができていて、里子に出したって言ってたよね?」
「その子、どうなったがやろう?」
「本位田さんの手紙には、子供のことは書かれてなかった。これは私の想像やけど、金田一の事件の顛末の話の中に、子供が生まれたことはなかった。つまり、金田一は黙っていたんやないかと思う」
刻屋の母子の問答を受けて、小政さんが言葉を発した。
「里子に出した子は、コウさんの覚書に書かれていました」
と、そう切り出したのである。
「里子に出していた先から、里見家の女主人が連れ戻して、跡取りにしようとしたらしい、けど、眼が治った百合子さんが、反対して、その子を連れて、家を出て行ったそうや。まあ、その子は里見家からしたら、嫁に出した娘の孫、外孫。けど、本位田家にとっては、三男の孫。前にゆうたように、本位田家も跡継ぎが居らん。けど、まだ、強志さんと百合子さんは籍を入れてないし、正式にその子は二人の子供とは認知されて居らん。里子に出した、夫婦の子になってるんやからね。だから、百合子さんは決断したんやと思う。自分の子供、私生児、父親は不明、それでも自分の手元で育てよう。その為には、高知を出て行くしかなかったんやろうね。
コウさんの覚書には、東京の知人を頼って出て行った、と書かれている。コウさん、百合子さんのことは、ずっと気になっていて、つまり、本当にGHQが手を引いたか、金田一ゆう探偵は『眉唾もん』やと解っていたから、一抹の不安があったがやろう。大阪から帰って来た百合子さんとも往来があって、百合子さんの決心も訊いていたそうや。高知を離れる時も、駅で見送ったって書いてある」
「その、東京の知人ってゆうのが、嵯峨侯爵家にいた書生だったのね?そうでなくても、その近辺の人だった……」
「百合子さんが結婚した頃には、コウさん、亡くなった頃やから、そこまでは、書かれていませんね。ただ、昔の知人を頼るって言ってたそうですから、嵯峨侯爵家の関係者か、本位田さんと出逢った、定食屋の女将さんかしかないでしょうね?嵯峨侯爵家は、当時、元のような生活は出来ていなかっただろうし……。ただ、東京へ着いた後、百合子さんから近況を知らせる手紙が届いたようで、その知人のおかげで、仕事を見つけられ、子供と一緒に幸せに暮らしているって、書いていたそうです。
コウさんの覚書は置いといて、千代さん、本位田さんの手紙の続きをお願いしますよ。本位田さん、東京でのことを知らせて来たんでしょう?」
と、小政さんが話題を元に戻した。
「そうね、事件とは関係ないけど、金田一と再会して、こちらでの事件の顛末を訊いた頃、本位田さん、作家になっていたそうよ。学生時代の夢だった、映画や芝居の脚本を書いたり、雑誌の編集を手伝ったりして、その後、小説家になったそうよ。何とか、食えるくらいになったから、編集者時代の会社の同僚の彼女と結婚することになったって……。ただ、金田一から百合子さんが東京に出てきているようだと訊かされて、まあ、金田一もそこそこ、事件のその後を気にしてはいた訳よ。それで、また、学生時代の友人や、定食屋の女将さんなどの伝手を使って、百合子さんを探し始めたそうよ。で、探し出した時には、百合子さんは結婚していた。自分にも婚約者がいた。だから、本位田さんは、そのままにしておこうと、思っていたそうよ。ところが、逆に、本位田さんが百合子さんを探していることが、百合子さんに伝わった。多分、定食屋の女将さんが知らせたんやと思う。二人の中を知っている、数少ない人やからね。それで、百合子さんから本位田さんに逢いたいって、連絡が来たそうよ」
「じゃあ、二人は再会できたってことですね?」
と、小政さんが確認するように言葉を発した。
「そうね、手紙には詳しく書かれていなかったけど、一度、お二人でお話をしたそうよ。それで、百合子さんが元嵯峨侯爵家にいた時代に知り合った男性とご結婚したことを知ったそうよ。自分も、近々、結婚することが決まったってことも打ち明けた。その後で、例の秘密の文書のことを切り出してみたそうよ。高知で起きた、事件や、百合子さんを探しに、火曜市へ行ったことを打ち明けてね。もう、GHQなんかが、手を引いていることも説明したそうよ。百合子さんは、坂本いう、高知の元刑事さんから、事件のことは訊いている。秘密の文書についても、そんな重要なものではないことを溥傑氏が証言して、わたしに危険がないことも承知している、って、答えたそうよ。それで、その文書は?と尋ねたら、まだ、預かっているって。その当時、慧生さんは中学生くらいだから、まだ、渡すには早すぎると思っていたらしいのよ」
「では、まだ、その中身は、誰も読んでいないんですね?その時点では……」
「そう、封印されたまま、ただ、百合子さんは、夫である、元嵯峨侯爵家の遠縁に当たる、男性から、その内容について、溥傑氏から、訊かされたことがあるって教えられたそうよ」
「つまり、その書生だった男性は、その文書が手渡されるところに立ち合っただけでなく、その内容まで、ある程度、教えられていたってことですね?」
「そう、日本における、溥傑氏の秘書的な役目をしていたのかもしれないわね」
「母ちゃん、その文書の内容は?書いてあったがやろう?本位田さんからの手紙に……。そやから、本位田さんは、『親展扱い』にして、母ちゃんに誰にも内緒、って、忠告したがやろう?勿体ぶらんと、早(はよ)う、話や……」
と、S氏がじれったそうに母親に催促した。
その言葉に、大人二人は驚いたように、大きく眼を広げ、
「あんた、よう解るね?」
「流石、ルパンの生まれ変わり……」
と、同時に声を上げた。
「このくらいは、誰でも解るろう?噺が長すぎや。結論ゆうてよ。その文書が、去年の『天城山心中事件』と係わりがあるかが、今、僕らぁが検討しゆうことながやき……」
「そうでした、ボンの言うとおり」
「小政さんはコウさんの覚書を読んでるし、母ちゃんは本位田さんの手紙があるから、事件のその後を知っちゅうろうけんど、僕は白紙の状態ながやきね。祖母ちゃんと、先生から訊いた話がそもそも、不確かやったかもしれんがやろう?金田一の話は嘘が混じっていたし……」
「ははは、そうでしたね。けど、それでもボンはわたしらぁと同じくらい、事件の真相に近づいてるんやから、たいしたもんですよ。流石、探偵小説好きですね?」
「小政さんほどやないからね、僕はまだまだ……。母ちゃん、早(はよ)う続きを始めや」
「はいはい、ほいたら、本位田さんの手紙の重要な部分をゆうきね」
息子に急かされて、千代が話を始める。
本位田はさり気なく、百合子に尋ねる。
「今も、例の秘密の文書を持っているのですか?」
と……。
それは、数年前、彼に赤紙が届く数日前、言わば、最後のデートとなった日に訊かされた話、百合子が誰にも話せずにいた、心の中のしこりを吐き出した瞬間だったのだ。本位田にとっても、それは衝撃的なことであった。女優志願の夢見る少女とばかり思っていた彼女に、そんな思い荷物が背負わされていたとは……。満州国の皇帝が関東軍の傀儡であることは、日本人の大部分が知っている。満州は日本の植民地である、との認識が一般的であったのだ。だが、いかに傀儡といえども、元清国の皇帝でもある一族の長からの預かり物。しかも、男の子がいない、溥傑にとっては、跡継ぎと言うべき、長女への伝言。家族でなく、一介の家庭教師――ナニーというべきか――に託すほどのものとは……?
「御免なさい、言うべきではなかった。忘れてください」
と、慌てて百合子は言ったのである。
「いえ、よく打ち明けてくれました。大丈夫。何があろうと、僕が百合子さんをお守りします。このことは二人の間だけの秘密にしておきましょう。決して、他人には話さないこと。いいですね?僕を信じてください。僕はあなたの為なら、この命さえ……」
「はい、強志さまを信頼しております。ですから、打ち明けてしまって……。でも、後悔はいたしません」
本位田は百合子の肩を強く抱きしめた。
だが、運命の糸車は……。
「ご無事にご帰還、本当にようございました。強志さんはきっと、生きて帰ってくると、信じておりました。本来なら、ずっと、お待ちしなければならなかったのですが……」
「いえ、僕から、お別れを言ったのです。今、お幸せそうで、何よりです」
「例の溥傑さまからのお預かり物は、今も、私が大事に持っております。慧生さまとは、時々お会いすることもあるのですが、まだ、お父さまの言われていた時期にはなっておりませんし、お父さまもやがては許されて、ご帰還なさるか、大陸の方へ、ご家族で渡られることになるでしょうから、必要ないものになるかもしれませんから……」
「そうですか。で、その内容は、解らないままですか?」
「いえ、私の夫が、夫は溥傑さまのお傍に居りましたので、内容について、少しは知っているようです」
「ほほう、秘書的な役割だったのですね?」
「ええ、中国語に堪能で、通訳も兼ねておりました。私がその文書を渡された時も、立ち会っておりました。
その夫の言うには、その文書は、慧生さまのご結婚に係わることである、とのことです」
「ご結婚?その当時だと、かなり先のお話ですよね?」
「ええ、でも、お家柄が、お家柄ですから……」
「そうか、皇帝の一族。日本の天皇家の一員と同じようなものですからね?いや、不遜なことを申し上げました」
「確かに、特別なご家庭です。でも、あの時代、強志さんも、薄々感じてらしていたでしょう?日本は戦争に負けるんやないかって……。多分、溥傑さまはもっと、状況判断ができていたと思います。日本が負ける。その可能性が大きい。その時、愛新覚羅一族はどうなるか?おそらく、戦犯として、悪くすれば、死刑でしょうね。その家族も、罪に問われる。幼い娘もです。その可能性を考えていたはずです」
「では、溥傑氏は娘にどうしろと、伝えたかったのですか?」
「あなたならどうしますか?離れて暮らす娘に、災いが起きかもしれない、でも、その場では、伝えることができない、そんな状況の時、あなたなら……」
「解りません。逃げろと、言いたいですが、それは許されることではないでしょう?家族を捨てろ、ってことですから。自分――つまり父親――との縁を斬れってことですから……」
「そうでしょう?多分、そういう内容だったはずです。好きな人ができたら、家族を捨ててもいい。愛新覚羅一族に縛られるな。そう伝えたかったと思いますよ。慧生さまのお母さまの浩さまは言わば、『政略結婚』で溥傑さまとご結婚されました。溥傑さまは、浩さまを愛しておられましたし、ご家族の和は普通の家庭以上のものだったと、私は思っております。けれど、今後のことは解りません。娘も母と同じ運命になることを、父親として、好ましく思ってはいなかったことでしょうね」
「では、結婚に関しては、自由に選べと……。もし、反対されたら、家族を捨てろと……、そういった、内容なんですか?その文書ってものは……」
「解りません。でも、それに近いと思います。ただ、当時と今は状況が違ってきています。皇帝の姪であった彼女と、今は、平民、元華族か皇族の嵯峨侯爵の孫娘という立場では……」
「いずれにしても、父親として、娘の幸せを願ってのメッセージ、だとは思われるんですね?」
「はい、夫の言うには、そう思います」
「わたしは、慧生さんが溥傑氏の本当の娘ではないとか、逆に、娘に、一族の再興、つまり、敗戦でおそらく、処刑される運命を感じていて、後を託す内容かのどちらかだと思っていました」
「そうですよね。私も手渡された時は、そう思いました。後を託す。だって、男のお子さんはいないんですもの。一族の繁栄を託せるのは、慧生さまであった訳ですから……」
10、「ホームズの生まれ変わり」の活動
「本位田さんの手紙はそこで終わり。文書の内容は、どちらだったかは、永遠の謎……」
千代はそう言って、話を終えた。
「つまり、百合子さんの夫の見解は娘に自由な結婚を勧める、そうゆう内容だと……。でも、本位田さんや百合子さんは、ひょっとして、娘に過酷な『一族の再興』という使命を追わせるものではないのか?との疑い、とゆうか、憶測があったがですね?」
「それで、その文書は、慧生さんの手に渡ったのやろうか?」
と、S氏は小政さんの質問に千代が答える前に、もうひとつの疑問点を投げかけた。
「それは解らないわ。その手紙の時点では、渡されていないけど、大久保という、恋人ができて、あの心中事件が起きるまで、半年以上は期間があったはずだから、渡した可能性が高いと思うわね」
「どう思う、小政さんは……?」
「うん、わたしも渡されたと思いますよ。ただ、それと、心中事件が絡んでいるかどうかまでは、推理できませんね。可能性としたら、あるかもしれない、って程度ですからね……」
「じゃあ、渡されていたという前提で、物語を組み立ててみてよ。マッちゃんやないけど、小政さんも狂言描くの得意やないの……」
「そうですねぇ。では、わたしの想像をお話しますね。あくまで、可能性があるかも、って程度の、おとぎ話として訊いてくださいよ」
小政さんは冷めたお茶を飲んで、話をスタートさせた。
「まず、文書の内容が、娘の幸せを願った、自由恋愛の勧めだった場合です。この場合、ストーリーは簡潔です。文書を読んだ慧生は家族を捨ててまで、純愛に準じて、大久保の望みどおり、一緒に死ぬことにした。つまり、同意のもとの心中になりますね。
もうひとつ、文書が彼女の手に渡るのが、遅かった場合。もう、一緒に死ぬしか、結ばれる方法がないと、大久保に迫られた後に、受け取った場合があります。その時、慧生は父親がこの結婚を許してくれると思ったのではないでしょうか?そして、大久保を説得しようとします。もう少し我慢をすれば、父が釈放される。そうなれば、結婚を許してくれると……。だが、大久保は待てないと言った。そして、無理心中に至ってしまった……」
「待って、その時、父親の溥傑さんはどういう状況だったの?まだ、中国で拘束されていたわけ?」
「ボン、エイ質問や。微妙なとこやが、拘束が解かれる直前だったらしい。中国で家族一緒に暮らすって計画もあったらしい。ただ、まだ大学が二年残っているから、慧生さんは卒業を待って、ってことになったやろうけどね」
「父親とは、手紙のやり取りもできんかったがやろうか?」
「事件の後、色々、マスコミが騒いで、残された手紙とか、手記とかが、見つかっているそうや。その中には、溥傑氏とのやり取りもあって、父親は、周りの者と相談して決めなさい、みたいなことをゆうたとか、ってことになっている。けど、真実かどうかは、本人しか知らんことや」
「じゃあ、その、父親と手紙のやり取りした時点では、百合子さんから、秘密の文書は渡されていないね。渡されてたら、父親の気持ち、解っているはずやもんね」
「そうゆうことになるなぁ。とゆうことは、ギリギリの時点で、渡された可能性が強いってことか……」
「小政さん、家の子の話に耳を傾けんでエイきに、自分の推理を早うに喋りや」、
千代が話の続きを促した時、
「こんちわ、お寅さんの顔が見えませんねェ」
と、惣菜売り場の扉を開けて、角刈りの頭が辺りを覗うように入って来た。
「あら、マッちゃん、また来たの?」
と、千代が驚く。
「またって、何?」
と、息子が尋ねる。
「嫌ですよ、千代さん。さっきは、お客を待たしてるって、言ったでしょう。二人ばかり、終わらせて、小政先生のご高察を承りに、はせ参じましたんですよ」
「お母さんが居らんのを見計らってね?結構、悪知恵が働くのね?」
「千代さん、人聞きの悪いこと、言いなさんな。アッシは……」
「はいはい、『正直もんのマツ』ってゆうんでしょう?まあ、エイワ、ここへ座り。話はもう終局よ」
「祖母ちゃんが居らん……、とか、さっぱり解らん……」
と、マッちゃんが、一時退散した場面を知らないS氏は首を捻っていた。
マッちゃんが、丸椅子に腰を降ろしたところで、小政さんの話が再開されるはずが、いきなり、マッちゃんが、質問を切り出したのである。
「小政の兄ィ、火曜市へ行ったり、警察へ行ったり、大分ご活躍で……。探偵稼業が板についてきやしたね?何か、掴んでらっしゃると、お見受けいたしやしたが……?」
「あんた、それで、お母さんに怒鳴られたがやろう?知ったかぶりして、先走って……」
「ち、千代さん、知ったかぶり、じゃあゴザンせんで。ちゃんと、情報収集したんですぜ。アッシも探偵団の一員ですからね」
「探偵団って、もう解散しちゅう、って……。いや、そもそも、探偵団なんて作ってないよ。あんたが、言い触らしたがやろうがね、わたしらぁが、ちょっと、勇次さんの仕事を手伝うことになっただけで……」
「そ、そうでした?いえ、探偵団はあるんでしょう?顔役さんが、困ったことがあったら、何時でも探偵団は復活や、って、仰ってましたよ」
「ははは、うちの社長も、好きですねェ。まあ、そうゆうことにしておきましょう。まぼろしの探偵団ってことでね」
「桑田次郎の『まぼろし探偵』みたいやな、『少年画報』に載っている奴……」
「あんた、漫画ばっかり読んでないで、いや、探偵小説もやけど、勉強しィや」
「しもうた、イランことゆうてしもうたか……」
S氏は母親の小言に、坊ちゃん刈りの――つい先日、眼の前の男に刈り上げられたばかりの――頭髪を掻きまわした。
「そいたら、話は戻るけど、小政さん、マッちゃんがゆうたように、探偵をしよったが?」
と、話題を転換する。
「まあ、探偵の真似ごとはしましたけど、これといった収穫はないですよ。ただ、今回の事件、ゆうか、噺は、どうも嘘と真が入り混じっている、って気がしましてね。ほら、金田一の話が、眉唾もんだったでしょう?それで、確認の意味で、当事者に聞き込みをしたんですよ。火曜市のおふたかたや、当時、若かった杉下警部とか……。車を走らせて、里見家まで行って、女当主って方にもお目にかかってきましたよ」
小政さんは、元刑事のコウさんの覚書を辿ってみたのである。
まず、火曜市の『よっちゃん』に逢い、金物屋の親父さんを紹介してもらった。親父さんは、七十歳半ばくらいの日に焼けた皺の多い顔、頭髪はすっかりはげ上がって、ほぼ、スキンヘッドである。顎に白い髭を伸ばし、一見、仙人を思わせる風貌であった。
「ほう、あんたが有名な『山長』の軍師、言われゆう、小政さんかね?最近は探偵団で、ホームズの生まれ変わり、ゆわれゆうそうやが……、なるほど、インテリや。エエ面構え、オナゴにモテて困りゅうろう?」
いきなり、小政さんを上から下まで眺めながら、親父はそう言った。『山長』とは、顔役さんの経営する会社の屋号『山長商会』のことであり、京大卒の小政さんは、会社経営以外でも、法的なトラブル、土地の売買に係わる案件、商法一般など、会社の頭脳として活躍している。その為、周りから『軍師』などと呼ばれているのである。ただし、火曜市の一角の年寄りにまで、その綽名が広がっているのは、言うまでもないことだが、散髪屋のマッちゃんの所為である。
小政さんは、照れたように髪の毛を掻きまわし――これは、千代が金田一のファンと知って、あえてしているうちに、癖になったもの――『火曜市の娘さん探し』の一件を問い質した。
「ああ、あれかえ?あんたで何人目やろう?警察は一人も来んかったけんど……。そうや、まず、復員服の男が、この辺りまで、店出しちゅうもんに訊きよったね。わしん処へも訊きに来るかと思うたら、ちょっと強面の兄さんが来て、何やら話してから、電車通りの方へ行ってしもうた。それから、よっちゃんが帰り際に来て、こうこうゆう、若い娘が親子づれで、臨時に店を出しちゃあせざったか、って訊くきに、そう言やぁ、と思いだしたがよ。震災前のことやったきね。刻屋の若女将?ああ、あの別嬪さんかえ?いや、その日は逢うてないのう。そうか、わしが便所へ行っちゅう時に、通りがかったがやろう。年をとると、近(ちこ)うなってのう……。あとは、元刑事ゆう、坂本のコウさんが訊きに来た。少し経ってからぞね。梅雨の盛りの頃やったはずや。娘のことより、連れの女将さんの方のことを訊いていったぞね。それから、だいぶしてから、そのコウさんちゅうひとが、おかげさんで、見つけ出したって、わざわざ、お礼言いに来てくれた。律儀な人やったね。そうや、その時、復員服の男のことをちらっと訊かれて、さっきゆうた、強面の男と電車通りの方へ行きよったことを話したがやった」
つまり、坂本元刑事は、百合子さんと会った翌週の火曜日に、この親父さんにお礼を言いに来て、ついでにか、こちらが主であったかは解らないが、行方不明の『本位田の贋者』の捜査を始めていたのである。
その後は誰からもその話題は出ていないと言って、親父さんの話は終わった。GHQのお達しで、百合子のことは封印されたのであろう。警察の捜査は行われなかったようである。
「その次に、里見家を訪問しましてね」
と、小政さんが話題を転じた。
愛車のダットサン――後の『ブルーバード』の前身――を走らせ、浦ノ内にある、里見家を訪問したのである。ただ、訪問の目的が、十年ほど前に家を出て行った、姪についての訊き取りであるだけに、『山長商会 社長秘書』の肩書では都合が悪かった。そこで、かれは贋の肩書を作ることにしたのである。山長商会の顧問弁護士に、都筑という五十代の男性がいる。小政さんとは仕事上以外でも懇意にしてくれていて、小政さんに、
「山長を辞めて、うちの事務所へ来い」
と、いうくらい、小政さんの才能を見込んでいるのである。
その、都筑法律事務所の職員の肩書を借りることにした。勿論、所長の都筑氏には了解を得てある。却って、面白がっている節もあるのである。
名刺には『弁護士 助手 都筑政司』と印刷している。もし、仮に、事務所に連絡された場合、見習いとして、所長の甥である、と言ってもらえるように手配していた。
里見家の大きな門をくぐり抜け、案内を乞うと、家政婦らしき中年の女性が現れた。女主人の名を出し、名刺を差し出す。訪問目的はあやふやにして、重要な案件と思わせる。法律事務所の肩書が功を奏して、家政婦らしき女性は、慌てて奥に走って行った。
その後、掃除の行き届いた十二帖ほどの和室に案内され、座卓の前に座ると、お茶が出てくる。そのお茶を一口含んだ処へ、和服姿の五十代後半と思われる、品の良い女性が、先ほどの家政婦と共に現れた。家政婦が、もうひとつのお茶をテーブルに置くと、女将は無言で、退席するように彼女を促す。
「弁護士の都筑さま、と仰られますか?何の御用で、当家へ……?」
と、まず、女将の方から声をかけてきた。小政さんは、自分が書いた狂言をここから演じることになる。
「以前、そう、戦争が終わる頃から、数年間ですか、こちらに、姪御さんに当たる、野村百合子さまとおっしゃるお嬢様がお住まいやったと……」
「何処で、訊きました?あの子は、もう、ウチ処とは縁を切っております。勝手に家を出て行って……。ウチ処とは縁もゆかりもない娘、何かの間違いやないですか?今更、何のことですろう?」
随分な言い方である。余程、跡取りと見込んでいた、百合子の息子を連れて行かれたことが腹立たしいのであろう。
「まあ、ご立腹するお気持ちは解ります。跡取りになろうかという、男の子を連れていかれたそうですから……」
「そ、そんなこと、誰がゆうてます?」
女主人は益々顔を硬直させ、怒りをあらわにし始めた。
「まあ、お気持ちを静めてください。色々、秘密にしておきたい事柄はおありやと、それは当方も十分承知いたしております。決してご当家の名誉を傷つけるようなことはいたしません。ただ、調査上、確認せねばならない事柄でございまして……。是非、奥様にもご協力をお願いいたします」
「何ぞ、事件の捜査ですの?」
と、小政さんの弁に少し冷静になったのか、言葉のトーンが下がって、女将が尋ねてきた。
「はい、奥様もご存じかと思いますが、昨年発生いたしました『天城山心中事件』と係わりがある案件でございます」
「天城山心中事件?ああ、旧満州国皇帝の姪が死んだ、ゆう事件ですね?それが、百合子とどうゆう関係があるんですろう?」
「奥さま、ご存じではないのでしょうか?百合子さまは、戦時中の一時、そのお亡くなりになった、娘さまの家庭教師――英国では、ナニーというそうですが――を務めていらっしゃいました」
「ああ、然る高貴なお宅で働いているってことは訊いていましたが、そうでしたか、嵯峨侯爵さまのお宅で……」
「それから、現在の百合子さまのご主人に当たるお方が、その嵯峨侯爵家の遠縁のお方。元、侯爵家にお住まいだったお方ということは、ご存じではないのでしょうか?」
「ああ、そう言えば、百合子から、結婚の知らせが来ていて、そんなこと書いてました。ウチとこは、縁を切った間柄、式にも列席せんかったから、忘れておりました」
「ですから、ご主人との縁もあり、お亡くなりになった娘さま――慧生さまと申しますが――ともお付き合いが再会いたしたようでございます」
「ま、まさか、百合子がその心中事件と係わりがあるとでも仰るんですか?」
女当主は再び顔色を変える。
「ある、とまでは言いきれませんが、可能性があるといいますか、まあ、そこの処を調査するのが、私どもの使命でございまして……」
「ど、何方からのご依頼ですの?警察は同意の上の心中で解決してるんでしょう?何を今更、調査する必要があるんです?」
「ひとつは、生命保険」
「生命保険?誰の?」
「勿論、慧生さまです。心中なら、自殺と同じ。保険金は……」
「そうか、おりないこともあるんや。けど、ひとつは、と仰いましたね?まだあるんですか、理由が……?」
「はい、嵯峨侯爵家――もう元になるのですけど――にとっては、名誉に係わってきております。一介の大学生と、元華族、いや皇帝の姪が心中したなんて、決して認められないのですよ」
「ええっ?それじゃあ、やっぱり、あれは、無理心中?相手の男が、娘を殺したってことながですか?」
「そう考えているお方が……、いるってことでしょうね。それで、東京の方から、こちらの方を調べて欲しいと、まあ、そうゆう、次第でございます」
「そりゃあ、大事ですわね?元華族のご依頼ですから……」
女当主は、小政に同情するような言葉を投げかけた。
「東京からの指示といいますか、依頼の内容ですが、どうも、要領を得んと申しますか、不可解なものでして……」
「不可解?と言いますと……?」
「はい、百合子さまが、何か重要な、文書か物かをその娘さんの父親から預かっていないか、それが、こちらに残されていないかの調査でして……。具体的にどうゆうもんかは、解らんそうですが……。何かそういった、秘密めいたものを百合子さまがお持ちでなかったか、奥さま、ご記憶がございませんでしょうか?些細なことでも構わないのですが……」
「そんなものは、ここには残されておりませんよ。東京から帰って来た時は、本当に、焼け出されて、着のみ着のまま、手荷物ひとつでしたし、出て行く時も、着替えを入れた鞄ひとつ。ほとんど、子供のもんだったでしょうが……。
秘密めいたもん……?そう言えば、あの子は、眼が不自由でしたが、介添い人などはつけず、何とか日常生活は出来ておりましたんですけど、お風呂に入る時など、何か大事そうに着物から取り出して、油紙に包んで、風呂の中まで持って入っていたような……。おかしいことするなぁ、と思うたことがありましたワ」
「ほう、肌身離さず、ってやつですね?そのものについては、何かお話にならんかったのですか?」
「そうねぇ、何を大事にしてるん?お腹の子の父親からの手紙?って訊いたことがありましたけど、笑ってはぐらかされて……、そのままですワ」
「では、手紙のようだったと?」
「ええ、油紙からだしてたところを見たことがあります。封書のようでした」
「では、中身については、解らないってことですね?その手紙のようなものも、百合子さまは大事に持って行ったってことでございますね?」
「ええ、ここには残っておりません」
「何か他に……、そう、こちらにお住まいの頃の日記とか、何方からかの手紙とか、百合子さまに係わる物は残っていませんか?」
「そういったものは、全く……。なんせ、眼が不自由でしたもので、字を書くことはめったになく……。そう、一度、お城下へ出かけた後に、東京の知人さんに荷物を送るゆうて、その時、何か手紙を書いていたと記憶してますが……、それ以外は……。ここで暮らしていることも、殆ど知られておりませんでしたから……」
「そうだ、奥さま、お城下の西に『刻屋』という旅館があるのをご存じでしょう?百合子さまが大阪の眼科病院で手術をされていた頃、新聞の『たずね人欄』に百合子さまの名前が載っていて、探偵がその旅館に案内したと思いますが……」
「ああ、たずね人欄ね?ええ、観ましたよ。それで、連絡先の『諏訪弁護士事務所』に連絡して、まあ、家にそれらしき娘はおるが、内緒にして欲しいとお願いして、そのままですよ。探偵なんて来やしませんし、刻屋なんて旅館も知りませんよ」
「ええっ?じゃあ、金田一が連れてきた、あの奥さんは誰?」
と、そこで、千代が大きな声を上げた。
「金田一が雇った、贋者、だったんでしょうね」
と、小政さんが答えた。
「まあ、なんて奴なの?そこまで、嘘をつく必要があったのかしら?」
「そこまでして、話を完結したかったのでしょう」
「十年後にマッちゃんのテンゴウ噺から、掘り返されるとは、金田一の贋もんさんも思ってもいなかったやろうきにねェ」
「ボ、ボン、テンゴウ噺って、本当のことですよ、あれは……」
「嘘言いな、あれは、加藤中尉ってひとの獄中の手記が原作やって、ちゃんと新聞に出てたよ。マッちゃん、嘘の上塗りは辞めとき、信用なくすよ。唯でさえ少ない信用を……」
「ち、千代さんまで……ひどいなぁ。アッシは……」
「はいはい、『正直もんのマツでござんす』って、お決まりのセリフやろう?もう、訊き飽きたワ」
「ははは、まあ、マッちゃんの話は置いといて、結局、里見家で仕入れたネタは、その贋者というだけでね。その、金田一が雇うた、贋者は、どうやら、私を案内した、家政婦やったようですよ。帰り際に、ちょっとカマをかけたら、顔色がサアッと変わって行きましたからね。贋者ゆうても、里見家の事情に詳しいもん、単なる、思い付きが、功を奏しただけですけど……。肝心の、百合子さんの現在の状況は解らんがですよ。ただ、結婚の案内状が残っていて、相手の男性の名前と、職業は解りました。大手の商社マンだそうです。その手紙の住所には、現在、お住まいやないそうです。なんとか、連絡の方法はないですか?と尋ねたんですが、ありません、と言うだけで……」
「まあ、仕方ないわねェ。勘当した娘、いや、縁を切った姪のことやから……」
「あああ、百合子さんへの手掛かり無しか?『天城山心中事件』は永遠の謎、ってことかなぁ」
「でも、小政さん、昨日は警察本部へ行っていたんでしょう?杉下警部に逢えたの?」
「ええ、逢うには逢えましたがね、忙しそうで……。何でも、ヤクザの関係者が出所してくるようで、それも纏って、数人が……。凶悪犯らしゅうて、十年以上服役してた奴らしいんですワ。それで、杉さん、曖昧な返事やったがですが、千代さんが気にしてる、ってゆうたら、ほいたら、古い記録を調べて、刻屋へ持って行くワって、そう言ってましたよ。杉さんも千代姐さんのファンですからねぇ……」
「ははは、母ちゃん、モテるねぇ」
S氏の言葉に、千代は怖い眼で睨む。『顔回の生まれ変わり』と言われるのと同じくらいの視線であった。
「ああ、それと、勇さんが帰り際に廊下で出くわして、彼も忙しそうで、早口に喋ったがですが、何でも、亡くなった父上宛に手紙が届いたとか……。今度持って行くから、って言いましたよ。誰からの手紙か言わんかったけど……」
11、強面警部の打ち明け話
「邪魔するでェ」
と、玄関のほうの硝子戸を乱暴に引き開けて、ドスの利いた声を張り上げて、数人の男たちが入って来た。
声を上げた先頭の男は、小太りの三十代の男であるが、その後に続いた男たちは、ひと目で、あっちの方の住人――暗黒街――と解る顔立ちであった。
「な、なんですの、あんたたち、いきなり、入り込んで……?」
と、千代は気丈にも、立ちはだかる格好を示した。それを遮るように、小政さんが、千代の前に身体を運ぶ。マッちゃんは、これも男気を出してか、子供のS氏を背中で庇うような体勢をとった。
「ここは旅館やろうが?客商売やろうが?いきなりも糞もあるか。用件は簡単や。ここへ、しょっちゅう、坂本ゆう刑事が来ゆうそうやな?そのおっさんに用があるがじゃ。何処に住んじゅうか教えてくれたら、ここには迷惑かけん。知っちゅうろう?早う、ゆうてくれたら、それで、事足りるがよ」
と、先頭の小太りが、脅すような言葉を投げかけた。
「坂本刑事に何の用です?」
と、小政さんが問い質す。
「お礼を言いに来たがよ。坂本のおっちゃんのおかげで、臭い飯を十年以上喰わしてもろうたきねェ」
と、今度はその後ろにいた、痩せぎすの、頬に傷がある男が言った。
「十年前?坂本刑事は刑事になって、六、七年ですよ。しかも、おっちゃん、言われる年やないし、人違いやないですか?」
小政さんの言うとおり、十年前は警察官になりたての頃、こんな見るからにヤーさんを捕まえる手柄を立てるはずもない。
「人違い?まだ若い?そんなはずはない。当時、五十くらいや、もう六十くらいのおっさん、ゆうより、年寄りのはずや」
「ああ、コウさんのほうか」
「そ、そうや、坂本孝兵衛、てゆうてたと思うワ。そいつ、この近所に住んでるんやろう?何処や、ねぐらは……」
「コウさんなら、天国ですよ。あんたらぁは死んでも逢いには行けませんねェ」
「な、なんやて?」
「おい、兄さん、孝兵衛さんが天国行ったゆうがは、本当やろうなぁ?誤魔化したら、後が怖いでェ」
今まで黙っていた三人目のスキンヘッドに口髭、こちらも唇の上から横辺りに、刀傷があり、最もヤーさんの趣がある男が念を押す。
「おい、おまんらぁ、客商売の邪魔や、ちょっと表で話さんか」
と、ヤクザらしい男連の背中から、低音の渋い声が聞こえてきた。
「なんな、おまんは?」
と、最後尾にいた、小男がその声を発した方を向いて言った。
「おんちゃん、わしらぁ、昨日、ムショから出てきたばかりや。そう訊いても、偉そうな口、叩けるがかえ?」
「まあ、出てきいや。そこは狭すぎるし、これからの話では、店の迷惑になる。それとも、エイ年の兄さん方が、怖がりばっかしやないろうねェ?ムショ暮らしが長すぎて……」
男の挑発に、眼の色を変えて、四人の強面が表に飛び出す。スキンヘッドがゆっくり、出て行く処をみると、この男が、兄貴分らしい。その男が玄関先に出たとたん、男の右側から、小柄な男が現れ、肩を触れるように、
「おっと、御免よ」
と、言って、通り過ぎた。
「な、なんや、あいつ?」
と、スキンヘッドが、不思議そうにその背中を見送る。
その男は、小さな橋――江ノ口川の支流、旭川に掛かっている――の上で立ち止まり、振り返って、
「こんな物騒なもん、懐に入れてたらいけませんでぇ。安全ピンも解除したままや。いつ暴発するか解ったもんやない……」
と、言いながら、手にした黒い物体――ブローニング製の小型拳銃――から弾奏を外して、軽くなったピストルを元の持ち主に投げ返した。
「い、何時の間に……」
「何時の間に、って、さっきすれ違った時以外ないやろうが」
と、最初にヤクザたちに声をかけた男がバカにしたように薄笑いを浮かべて言った。
「おまんら、グルか?」
と、小男が言う。
「まあ、物騒なもんは取り上げておかんと、これからの話に差し支えるきに。おとなしゅう、帰ってくれ、ゆうても、訊いてもらえんろうきにねェ」
「よう、解っちゅうやいか。おんちゃん、誰か知らんけんど、余計なおせっかいやったねェ。拳銃なんぞ、使わんじゃち、まだ、こうゆうもんもあるがぜ」
小男の言葉に、他の連中も懐から刃物を取り出す。俗にいう、ドスという、鞘付きの小刀である。
「ほう、そんなもんでエイがかえ?ムショ出たてで、使い方も忘れちゅうろうに……」
「おい、年寄りと思うて、親切に逃げちょれ、言いゆうに、おまんも、命知らずやのう。どうなっても、わしぁ知らんで……。おい、かわいがっちゃれ」
スキンヘッドが、残りの三人を顎で使うように命じた。
「ほいったら、わたしが遊んであげるワ」
そう言いながら、橋の方とは反対側の電柱の陰から、スラリとした、髪の長い、若い女性が現れた。男物のスタジアムジャンパーを着て、スラックス姿の男装であるが、その顔は女性らしい妖艶な雰囲気が漂っていた。
「なんな、ねえちゃん?おまんもこいつらの仲間か?」
「そうや、悪党退治が大好きな姐さんや。刃物使うやったら、骨の二、三本は折れる覚悟で掛かってきいよ。ちょっとは手加減しちゃるけど、この杖がゆうこと訊かんかもしれへんからね」
そう言いながら、手にしていた、一メートルほどの樫の木の杖を片手で青眼に構えた。
「テンゴウぬかすな」
と、怒鳴り声をあげて、小男が、ドスを振りかざして、その女性に切りかかる。
女性は身を引くこともなく、杖を下から上に撥ね上げ、小男の右手首を強打した。振りおろそうとしたドスを持つ手が、その勢いが加わって、手首の骨が折れる鈍い音がした。
「ぎゃぁ」
と、いう悲鳴が終わるより先に、女性の手にした杖が軌道を変えて、男の首元を袈裟がけに強打していた。男は悲鳴の余韻と共に、道路にうつぶせに倒れて行った。
呆気にとられていた、スキンヘッドが、痩せぎすの男に視線を送り、女性に立ち向かうように指示をする。
「おい、おまんはわしと勝負するかえ?」
ヤクザにおんちゃんと呼ばれた、初老の男性はスキンヘッドに笑顔でそう誘いをかけた。
「なんや?おんちゃん、ワシと勝負したいがか?得物は何ぜよ?懐にピストルでも仕込んじゅうがかよ?それやったら、早う出さんと間に合わんぜよ」
「いや、わしはこのとおり、素手じゃが、イカンかえ?凶器を持つと人を殺すことになるかもしれんき、まあ、素手でも大丈夫やろう、そのドスぐらいやったら……」
「なんやと?舐めたらイカンぜよ。怪我じゃぁすまんぜよ。恨みなよ」
スキンヘッドは、いきなり間合いを詰めて、初老の男にドスを突き出すようにして向かって行った。初老の男は、少し膝を曲げ、縮みこむような姿勢から、わずかに体を開いて、その切っ先を避けた。と思った瞬間、どういうわけか、スキンヘッドの身体が、その差し出した腕を中心にして、クルリと宙返りをするように、体が浮き、その後、ドスンとかなりの音を立てて、地べたに背中から倒れ込んだのである。
周りの人間には見えていないが、橋の上にいたブローニングを掏り取った男にだけは、初老の男が一瞬のうちに、スキンヘッドの軸足を払い、服の肘の辺りを引っ張ったように見えた。動体視力のかなり発達した、スリの名人の眼にも留まらないほどの速さで、投げ技をかけたのである。
「まるで、伝説の空気投げやな」
と、スリの名人は感心していた。
スキンヘッドは受け身もできないまま、地面の上で息絶え絶えの状態。戦力外となっている。残ったふたりの内、ひょろりとした男は、杖を構えた女性に、ドスを突き付けるように向かって行ったが、ドスが相手に届く前に、杖で鳩尾を深く突かれて、そのまま前のめりに崩れて行った。
「ああぁ、一撃で終わったワ。留めもいらんなぁ、こいつらほんまにヤクザか?」
と、ジャンパー姿の女性が男のようなセリフを吐く。
「おい、そこの太ったおっさん。あんたは少しは歯ごたえがあるかえ?」
最後に残った小太りの男に、そう、声をかける。男はドスを両手で握ったまま、どうしようもなく、切っ先を震わせていた。
「おい、武器を捨てろ。抵抗すると撃つぞ」
女性の背中越しに、警察官の制服が、へっぴり腰で、両手でリボルバーを突き出すように構えてそう言った。
「おう、山ちゃん、早かったねェ。けんど、もう、終わったきに。こいつはもう、抵抗はようせんろう」
初老の男は、現れた巡査に笑いながら言葉を投げかけ、凶器を構えたままの小太りに素早く近づき、両手から凶器を奪い取った。何の抵抗もなく、男はその場にしゃがみこんだ。
リボルバーを腰のケースに収め、山ちゃんと呼ばれた巡査が小太りの両手に、腰から外した手錠をかける。
「手錠が足りませんねェ。まあ、いいか、他は、気絶しているし、もうすぐ、本部から応援が来ますき」
と,ひとり言のようにつぶやいた後、
「おい、おまん、○○組のもんやな?確か……、そうや、近藤、のコンゆう、三下やったな。ここで、寝ているんは、ムショから出たてのおまんの兄貴筋か?」
山ちゃんの問いに、コンと呼ばれた小太りは無言で頷く。
「名前は?このスキンヘッドの名前や」
「へ、へえ、黒部、通称、クロベーで……。それから、痩せた男が、安岡、ヤスって呼ばれてるます。それから、背の低いんが、丸岡、マルです」
「何の罪でムショ行ってたんやったかなぁ?」
「さ、殺人と死体遺棄、その前に、拉致監禁の罪です。クロさんが主犯格。ヤスが、殺しの実行、マルが死体を埋めた。まあ、三人の共謀罪でしたけど……」
「ああ、あの復員者殺しか、筆山で見つかった。確か、コンちゃんも捕まったがやなかったかえ?」
「へえ、アシは軽い罪で、まあ、死体を埋めるのを手伝うた、だけで、二年で出てこれましたきに……」
「筆山の復員者殺し?じゃあ、こいつらが、本位田強志と名乗った贋もんを拉致して殺して、死体を埋めた張本人らぁか……」
玄関先から、表の様子を覗っていた小政さんが驚いたように声を上げた。
「ほんで、坂本のコウさんにお礼参り、って、ゆうてたんか?辻褄が合(お)うたワ……」
そこへ、サイレンを響かせて、パトカーならぬ、ジープに乗った警官と私服刑事の一団が到着する。
「若女将、怪我はないか?」
いきなりジープから飛び降りてきた、サングラス――レイヴァン製――に、バーバリーの背広。身体のがっしりとした、警察官かヤクザかと問われると、後者と答えそうな男が、犯人――ヤーさんたち――には眼もくれず、玄関先から飛び込んで行った。
「あらあら、杉下さんやないですか?血相変えて、どないしましたんや?」
「いや、刻屋にヤクザが乱入して、若女将が人質に取られたと訊いて……。まあ、無事で何より。それで、ヤクザゆうんは……?」
「嫌やワ、表に転がってますやないですか。大政さんと、石川の悟郎さん、睦実さんの兄妹の活躍で、あっとゆう間の鬼退治でしたワ」
「そ、そうか?若女将の無事な顔をみるまで、周りが見えんかった。まあ、ここは、探偵団の本部やし、腕利きが揃うちゅうし、心配はせんでもよかったがやけんど、山長の女将、否、あれは、石さんの奥方か?がえろう興奮した口調で、大事や、ゆうから……」
「まあまあ、けど、杉下さんにそないに心配かけて、えろう、すんません。お忙しい身やのに……」
「いや、忙しいゆうても、こいつらの所為やったがやき、一気に仕事が片付いたも同じよ。若女将が気にするにヨウバン。
おい、そいつら連行して行け、わしは若女将と話がある。あとで、勇次に迎えにこらせ。あいつも何やら、探偵団の用事がある、ゆうとったき」
警察官の一団にそう命令して、杉下警部は刻屋の玄関から、いつものテーブルに腰をかける。
表から、
「おい、小政、この貸しは、一升瓶でエイきにな。司牡丹の一級にしてくれよ」
と、大政と呼ばれた、初老の空気投げの達人が、小政さんに声をかけて、退散して行った。
「わたしらぁも、引越しの準備で忙しいですき、これで……」
と、スリの名人、石川悟郎と呼ばれた、男も声をかけて、大政の後に続いた。
「わたしは、小政さんと居りたいけど……。まあ、いいか、悟郎の手伝いに来たんやから、そっちが優先か……。ああぁ、もうちょっと、手強い相手かと思うたに、まるで歯ごたえがない。汗もかかん。運動不足で、太りそうや……。小政さん、後でね」
杖術の使い手の女性、睦実もそう言って、男ふたりの後に続いていった。
「若女将さん、大丈夫でした?」
と、言って、勝手口の方から入って来たのは、この刻屋の女中さんのみっちゃんである。奥の台所にいた彼女が、玄関先の異変に気付き、勝手口から抜け出して、山長商会の顔役さんの元へ掛け込んだのである。顔役さんは留守であったが、大番頭の講道館柔道の黒帯の大政と、このたび、山長を退職し、京都の映画会社に就職が決まった悟郎と妻の真(まこと)、引越しの手伝いに来ている、悟郎の双子の妹、睦実がいて、すぐに駆けつけたのである。真が警察に連絡し、本丁筋の交番から、山ちゃんこと、山田巡査が駆けつけたのである。
「みっちゃん、ありがとう。おかげで、誰も怪我なく、悪人退治ができたワ。流石、みっちゃん、刑事の嫁さんになれるね?」
「若女将さん、わたし、駄目です。怖うて、夜も寝られんし、ご飯も……」
「そう言えば、みっちゃん、頬がこけてきてる」
と、小政さんが初めて気づいたように言った。
「そうか、やっぱり、刑事の嫁さんは無理か。勇さんガッカリするろうねェ……」
千代は残念そうにつぶやいた。
「何や、さかもっちゃん、みっちゃんを狙うてたんか?無理無理、みっちゃんほどの別嬪さんをあいつが仕留められるわけがない。大丈夫、諦めてもらえるワ。高根の花狙うてもイカンと思い知るろう……」
「杉下さん、でも、しばらくは、黙っといてくださいよ。まだ、プロポーズも出来てないうちから、駄目とはゆわれんから……」
「なんや、まだ告白もしてへんのか?ダラシない。男はドーンといって、ドーンと散ったらエエんよ。それが、男らしいちゅうもんよ。そしたら、次に生きる。失敗は成功の元。恋愛も同じよ、ねぇ若女将?」
「さて、わたし、経験ないから……」
「えっ?若女将、熱い恋をして、失恋したこと無いがか?イカン、イカン、美人やゆうて、それはイカン。人生、損をしちゅうぞ。まだ間に合う。今から恋をして、大失恋を経験しいや」
「嫌やワ、杉下さん、わたしもうエエ加減な年ですよ。見て呉れは若いけど……。それに、もう、幸雄ゆう、夫が居りますき……」
「おう、そのご主人が羨ましい、こんな別嬪で、才女を嫁にできるなんて、日本一の、いや、世界一の果報もんよ」
「はいはい、お世辞はもう沢山。それより、お話があるんでしょう?インマさっきの、ヤーさんたちが絡んでいた事件のことでしょう?」
「さすが、顔回の……、おっと、禁句やったねェ。どうも、若女将の顔をみると、雄弁になるとゆうか、イランお喋りが多くなるき……。
そしたら、本題に移るワ。昨日、そこの小政の兄ィさんに頼まれちょったことよ。もう訊いちゅうろう?本位田と百合子の事件の顛末よ」
と、杉下警部は話を始めた。
「事件の調書と、当時のワシの覚書を捲ってみた。そうや、さかもっちゃんの親父さんのコウさんから訊いた話も大分入っちゅうがよ」
と、前置きして、
「GHQは知っとるよな?戦後、日本を統治していた、連合国、まあ、アメリカさんの駐留軍が本体や。そのGHQのある組織、詳しゅうには言えんが、諜報部関連の男からの要請、ゆうか、指令で、この近所に出没する、自称、本位田と名乗る男を拘束せよ、と、わしが所属してた班に命令が出された。本位田という男は、ソ連か中共かのスパイの可能性があり、地方にて、暴動を企てている可能性がある、ゆう理由やった。今、思うたら、ばかげた話や。一人でそんなことできるはず、ないもんなぁ。じゃから、GHQは、別の目的で、本位田を追っていたんやろうが、そのことは、我々警察には知らされていなかった。それを知ったがは、さかもっちゃんの親父さんの孝兵衛さんからの情報や。まあ、その頃には、本位田の捜査依頼も終了していたんやが……」
杉下警部は長い前置きのあと、みっちゃんが淹れてきた、熱いお茶を一口啜り、本題に入った。
「その、孝兵衛さん――わしらぁは、コウさん、言いゆうが――が本位田と名乗る男の失踪と、その原因となる、火曜市の女性――この時は、百合子ゆう名前も、秘密文書の詳しい内容も訊かされていなかったんやが――の存在を教えてくれた、その数日後やったか、『金田一』と名乗る、私立探偵が、岡山の警察の紹介状を持って現れたんや」
ここから、S氏が既に聞かされた話が展開する。杉下警部の話は要約すると、次のようなものである。
コウさんの推測から、本位田の贋者、Bは、○○組の組員と関係しており、その失踪にも、○○組が関与していることが発覚した。内定を続ける矢先に、筆山にて、遺体が発見され、ただちに、犯人逮捕に至ったのである。
金田一とBとの関係は、警察は全く知らなかったようである。金田一は、本物の本位田以外には、そのことを隠しとおしたらしい。
その時、捉えられた、犯人というのが、先ほど、刻屋の玄関先を騒がした、黒部ほかのメンバーたちであったのだ。
本位田の贋者――B――の失踪、殺害事件はそれであっさりと解決したのであるが、そこへ、ふたたび、金田一が現れ、事件の真相を関係者たちに説明をしなくてはいけない。警察関係者にも参加して欲しい、と、依頼してきた。本来なら、断る処であるが、ここでも、GHQの指令とやらが発動されたのである。
つまり、金田一はその「GHQの代理人」として、警察に無言の圧力をかけていたのである。
田中班のリーダーである、田中刑事と、杉下さんが出席し、黙って、その金田一の真相解明の話を訊いていた。杉下さんはそこで初めて、百合子の名前や、秘密文書の発信元を知らされたのであった。
その真相開示のあと、杉下さんは田中刑事と共に、コウさんに逢い、金田一の話を伝えた。コウさんは首を捻る。岡山の磯川警部補からの連絡では、本位田は無事帰還を果たしているのである。それ以外は、おおよそ、コウさんの調査、警視庁からの報告と一致している。疑問に思ったコウさんは、金田一の身元について、そして、本位田の東京での住まいについて、それぞれの警察に、再度調査を依頼したのである。
その結果、金田一の正体、GHQの目論見が判明、同時に、本位田家の状況、現在の本位田強志の行方、職業も把握できたのであった。
丁度その頃、百合子が退院し、里見家では、百合子の子供を養子に迎える計画が進行中であったのだ。コウさんは百合子の決心を知り、その決意の強さを確認すると、それを支援するかのように、取り計らった。本位田強志のことを伝えようとしたが、百合子は首を振って、
「まだ、しばらくは逢わないでいます。時期が来るまで……」
そう言って、息子のことを、決して本位田さんに話さないでくれ、と懇願して、旅立ったのである。コウさんは、その約束を守るべく、岡山にいるはずの金田一探偵に手紙を書き、本位田に逢うことがあっても、百合子との間に子供がいることは、伝えないように釘を刺した。そのおかげか、本位田は子供のことは現在に至るまで、知らされていないのである。
「ほう、コウさんは、金田一の元まで、手紙を出していたんですか?覚書には書いていなかったですが……」
と、話の途中で小政さんが口を挟んだ。
「ああ、コウさんは、現役時代でも、事件の関係者のその後を気にする人やった。事件があると、誰もが傷つく。その傷が、大きゅうならんように、気を配る人やった。刑事の鏡のような人よ。ワシが最も尊敬する先輩よ」
「そうか、それで、杉下さん、勇次さんのこと、気にかけてくれてはるんですね?」
「い、いや、若女将、そうゆう理由やないぞ、誤解せんように……。さかもっちゃんは、さかもっちゃんやき……。先輩として、まあ、刑事の自覚を促しちゅうだけやき……」
千代の疑問に慌てて弁解するように、強面の顔が、紅く染まる。誰もがその言い訳じみた言葉を信用する者はいなかった。
「それで、杉下さんは、百合子の預かっていた、秘密文書ってやつには、タッチしてないんですか?」
「小政の兄ィさん、エエ質問や。今から話そうと思うちょった。
わしも若かったき、GHQの言いなりで、張り込みさせられたり、幕引きされたりしたがに、チックと、腹を立てちょったがよ。そこで、コウさんに頼んで、コウさんが調査の結果、知り得た情報を全部訊き出したがよ」
杉下警部は百合子と本位田のこと、溥傑氏やその妻の実家、嵯峨侯爵家のことなど、事件の裏側を全て教えてもらったのである。コウさんにしたら、自分はもう、刑事ではない。今後、この事件がどう動くのかを、追跡できる立場にはならないことがわかっていた。そこで、若い杉下さんを仲介として、事件の経緯を見守りたかったのであろう。二人は協力関係を作っていたのである。
「そやから、ワシは、その後の、百合子と強志のことも、元侯爵家のことも、それなりに把握し続けた。コウさんが亡くなったあとも……」
「わたしは、コウさんの覚書から、ほぼ事件の全容は把握できていますが、我々の知りたい事柄は、その、秘密文書の内容です。それが、どのようなものであって、昨年の溥傑の娘、慧生の心中事件と繋がっているのか……」
「ほほう、小政の兄ィさん、いや、若女将も含め、そこのボンも、関心があるがは、去年の『天城山心中事件』やったがか?どおりで、今更、なんで、十年以上前の事件を掘り繰り返しゆうかと思うちょったが……、そうゆうことか……」
「はい、特に、ボンが……」
「ははは、ルパンの生まれ変わりやき、そら、興味があるろうねェ。確かに、謎が多い事件や。警視庁でも、問題になっちょったらしい」
「で、杉下さんの見解は……?」
「いや、ワシ個人の見解など、ないきに……。警視庁の発表どおりや。あれは、心中や。大久保の意志が固うて、慧生も従うしかなかったがやろう。半分は、無理心中に近かったかもしれんが、殺人とは言えんろうな」
「我々は、その心中事件が起きる前、多分、その数日前以内に、百合子から慧生に、その秘密文書が渡されていると、考えているんです。ですから、何らかの影響があったのではないかと、そう、考えているんですが、警察の調べで、そのような文書が見つかってはいないのでしょうか?」
「小政の兄ィさん、その、文書がその時期に手渡されたと、推測する根拠は何ぜよ?単なる、想像か?何らかの確証でもあるんか……?」
杉下警部の疑問に、小政さんは、千代が受け取った、本位田からの手紙の内容と、そこから導いた、推測を打ち明けた。
「ほほう、かなり、確証のある推理やねェ。流石、井口の探偵団の頭脳やねェ。それを訊くと、ワシもそうゆう結論に達するねェ」
「では、やはり、文書の内容は、慧生に『自由に生きろ』と言うもんだったのでしょうか?」
「そこまでは、ワシにも解らん。じゃが、ワシは違うと思う」
「違う?それは、どういう意味でしょう?」
「まず、その手紙の内容は、誰も見てない、書いた本人の溥傑と、渡された娘、慧生以外は……」
「そうです。その慧生も亡くなっていますから、溥傑氏ひとりになっています」
「では、その文書が何故『秘密文書』と呼ばれるようになったか?何故、GHQが躍起になって、その行方を追っていたか?わかるかえ?」
「エーエ、エーと、そう、嵯峨侯爵家の書生の証言……」
「そう、その書生は?」
「今、百合子さんの夫になった人ですよね?」
「若女将、もう、解ったろう?『顔回の生まれ……』、おっと、言われんがやった……」
「はあ?何が『解ったろう?』です?さっぱり解りませんよ」
「ほいたら、小政の兄ィさんは、どうぜよ?」
「わたしにも、さっぱり……」
「そうか、証言者はひとりなんや!」
「えっ?」「何や?」と、千代と小政さんが、声を同時に発した。
「ほほう、こりゃまいったちや。ルパンが一枚上やったか……」
「杉さん、いや、ボン、どうゆう意味です?解るように説明してください」
「ほら、ルパンさんよ、ホームズさんが困っちゅうぞ、早う、解説しちゃり……」
杉下警部に促され、S氏が言葉を発する。
「間違うてても、笑いなよ。百合子さんが溥傑さんから預かった文書が、国家に係わる、重要な文書と、ゆうた人も、いや、その文書は慧生さんの将来の生き方を父親として伝えたかったもんやと、ゆうた人も、同じ人物……。つまり、嵯峨侯爵家の書生やった男ながよ」
「それは、解るよ。けど、そこからが……」
「いや、千代さん、同じ人物が、違う証言をしているんですよ。そうか、どちらかが、嘘、あるいは、どちらも……」
「ええっ?嘘やったの?」
「そう、だって、たかが、書生さんでしょう?通訳も兼ねていたかもしれんけど……。そんな男が、文書の中身を知るはずがないよ。だから、どちらもデマカセ、憶測で言ったんだと思うよ。つまり、GHQに質問された時は、あたかも、重要な書類であったかのように、証言して、妻となる百合子さんには、当たり障りのない、娘に対する父親からの文書ってことにしたんだよ」
「流石、若女将の息子や。将来、名刑事になる素質充分やな。さかもっちゃんより、絶対有望や。まあ、刑事には、ならんほうがエイけどな。仕事はキツイが、給料は安い……」
「それ、愚痴ですの?」
「けど、中国かソ連に拘束中やった、溥傑氏は、そんな国家的な秘密文書の存在を否定しているんでしょう?」
「小政の兄ィさんらしゅうないのう、拘束中の人間が本当のことを言うとは限らんやろうが、いや、娘や、百合子に危害が加わるかもしれんのに、正直に言うわけがないやろう?」
「では、やはり、国家的な……」
「いや、やっぱり、違う。GHQが諦めたんやから、それほどのもんやなかった、と判断したんや。GHQかて、アホやない。溥傑の証言を鵜呑みにするわけがない。それでも、調査打ち切りになったがは……」
「国家的なもんではなかった……」
「或いは、蓋をしてしまった方が良いと判断したか……」
「そう、若女将と小政の兄ィさんの推測どおりや」
「ええっ?そしたら、ふりだしに戻るやない?金田一の幕引きの場面に……」
「おっと、ボン、そうとも言えんでェ。ひとつだけ、可能性が残っているんや。ワシはその可能性が高いと思うてるんやが……」
「何ですの?その残っている可能性って?」
「若女将、わからんか?生きてる人間で、その文書に一番関係していた人物や」
「百合子さん、ってことですか?」
「けど、百合子さんは中身を見ず、慧生さんに手渡しているはずですよ」
「そう、その時点では、百合子は内容を知らない……」
「そうか、慧生さんが読んだ後、百合子さんに内容を伝えた可能性がある……」
「またまた、ルパンの勝ちかな?」
「あり得ますよ。慧生さんにしてみれば、十年以上、大事に保管してくれていた人なんやから、その内容が、危険なもの、国家的なものでなかったら、たとえ、自分の出生の秘密であろうが、百合子さんに伝えたはずです」
「国家的なもんだったとしても、自分一人の胸の中には仕舞い込まないわよ。その文書について、話せる人物は……」
「百合子さんだけ……」
「じゃあ、百合子さんに連絡をして……って、誰が知ってるの?百合子さんの連絡先って……」
「杉下さん、警察なら調べられますよね?」
「若女将、調べれんことはないろうけんど……。それより、さかもっちゃんに訊いたらどうぞ?お父さんと百合子さんは交流があったはずやき、五、六年前までは……」
12、二代目刑事の報告
「おや、おや、皆さんお揃いで……。あれ?ハチキンさんの顔が見えませんねェ」
玄関の硝子戸を大きな音を立てて開け、大股に入って来たのは、今、話題に出ていた、『さかもっちゃん』こと、坂本刑事、勇さんである。
「おやおや、は、こっちのセリフや。噂してたら、本当に『影が射す』や……」
「千代さん、じゃあ、僕の噂してたんですか?ほんで、さっき、クシャミが連発したんや。悪口やなかったでしょうね?」
「皆で、勇さんに期待をかけてた処よ」
「期待?僕にですか?何を期待するがやろう?」
「まあ、座り。何か、用事があるがやろう?探偵団のほうに……」
「ああ、その期待ですか?昨日、小政さんに逢うて、手紙のことをちらっとゆうたから、そんで、期待してくれてたんですね?」
勇さんは勘違いをしているが、そのまま促して、話題に入らせることにした。
「手紙?誰からの?」
と、まず、千代が尋ねる。
「それが、意外な人から、意外な人への手紙ながですよ」
「意外な人?勿体ぶらんと、早う話し」
「はいはい、けど、まず、お茶を……」
「もう、わたしの飲みかけを飲み」
「えっ?千代さんの口つけたの、エエんですか?間接キッス……」
「アカン、アカン、若女将、ワシの残りで上等や。これ飲めェ……」
杉下警部の一言に、勇さん以外の一同が、ドッと笑う。勇さんは渋々、杉下警部の差し出した湯呑の冷めたお茶を飲み干す。
すぐに、みっちゃんが新しい湯呑に熱いお茶を入れて運んできた。
「ああ、やっぱり、みっちゃんの淹れてくれたお茶が一番美味しいワ……」
「どうでもエイ。早う、手紙のこと話せ。あっ、みっちゃん、ワシにも熱いお茶……」
「は、はい、みなさん、お茶を入れ替えですね?お薬缶ごと持ってきます」
一同、熱いお茶で気分を落ち着かせる。
「意外な人から、意外な人へ、って、さっきゆうたけど、宛名は勇次さんのお父さん宛だったんでしょう?そしたら、まさか……、僕らぁが、一番期待している人からの手紙……?」
熱いお茶は苦手な、S氏がまず、話を切り出した。
「おや、ボン、親父宛の手紙って……、そうか、昨日、小政さんにちらっとゆうてしもうたか……。けど、その、一番期待しちゅう人って、誰ながです?」
「野村百合子さん、いや、もう姓は変わっちゅうき……」
「ええっ?どういて、わかるがです?」
「勇さん、子供でもわかるやろう?お父さんが亡くなっていること知らん人で、あんたが、わたしらぁに、教えないかん人からの手紙やったら……。何人も居らんろうがね?」
「そうですよ。特に、今回の事件の関係者では、百合子さん以外はね……。まあ、さっきの、ヤーさんからの、脅迫状の可能性もないことはないんですが、あいつら、住所、知りませんものね……」
「さかもっちゃん、おまん、まだまだやのう、親父さんの域に達するがは……。若女将の爪の垢を……、いや、若女将のはイカン、おまんには毒や。ボンのほうがエイ。ボンの爪の垢を飲ませてもらえ……」
「ええっ?わたしの爪の垢、毒なんですか?」
「そうよ、効きすぎて、こいつには身体に毒や……」
「あのう、噺がえろう、脱線してますが……」
と、遠慮がちに、マッちゃんが言葉を発した。
「そうよ、勇さん、早う、手紙のこと話し……」
と、千代が怒ったように催促した。
「は、はい、では……」
と、緊張した顔つきになって、坂本刑事は、父親宛の手紙について語り始める。
百合子からの手紙は、ご無沙汰していることのお詫びから始まり、彼女の近況が綴られていた。夫の仕事の関係で、中国の香港支社に家族で行くことになったとの知らせである。夫とは、例の、元嵯峨侯爵家の遠縁の書生だった男。大手商社勤務で、その商社が香港に支社を作り、その支社の重要ポストに抜擢されたのである。当分、日本には帰ってこれない。それを知らせる手紙であった。
「それだけ?慧生さんの事件について、何にも書いてないの?」
「ああ、ボン、そこやが、意味深な文言がある」
百合子は最後、追伸として、
『昨年、私が以前家庭教師、ナニーとして、お付き合いがございました、お嬢様がお亡くなりになりました。その事件につきまして、もし、孝兵衛さまが、ご関心がございましたら、お耳に入れたいことがございます。但し、もう過去のことと、お思いでしたら、お訊き流してくださいませ……』
と、綴られていたのである。
最後に、香港の新居の住所が添えられていた。
「そ、そしたら、百合子さん、心中事件に関係した何かについて、知らせたいことがあったんですね?けど、遠慮して、孝兵衛さんの気持ち次第、ってことで、打ち明けるのを一旦保留した、そうゆうことですよね?」
小政さんが、柄にもなく、酷く興奮した口調で言う。
「ああ、兄ィさんのゆうとおりや。こりゃ、ワシの思うてた『可能性』ゆうやつが、現実味を帯びてきたやないか?」
「秘密の文書の中身を、慧生さんから、百合子さんが訊いた、その可能性ですね?」
「若女将、こりゃあ、ほっとけん。おい、勇次、おまん、すぐ、その住所に手紙を書け。エイか、父親は亡くなったが、自分は父の遺志を継ぎ、刑事として、今回の心中事件の解明に、真摯に取り組んでいる、そう、強調するんや。香港まで、出張はできん。おまんの手紙以外、真相を解明できる手段はないぞ。これは、個人の問題やない。日本の警察全体の問題やぞ!」
「ええっ?そんな大げさなもんになってしもうたがですか?僕、今回の事件に『真摯に取り組んでる』なんて、嘘つけませんよ」
「アホウ、嘘も方便やろうが。百合子以外に、誰も知らんがぞ。真実を追求するがが、警察官の、いや、刑事の使命やろうが……、親父が生きちょったら、おまん、殴られちゅうぞ!」
「そうよ、お父さんが生きてたら、絶対、見逃さん。百合子さんに手紙書いてるよ。刑事として、真相を解明するために……」
「けど、僕は、百合子ゆう女性を知りませんよ。どんなふうに書いたら、エイのか……、息子で、刑事しゆうだけで、僕に真相を教えてくれるでしょうか……?」
「イカン、そうやった、こいつに文才がないことを忘れちょった。事件の報告書を書かせても、意味不明ばっかしやった……。若女将、いや、小政の兄ィさんもや、ふたりの知恵貸しちゃってくれ。このとおりや、ワシが頭さげて、頼む……」
「そうですねェ。わたしらぁ、でよければ……、ねえ、千代さん」
「うん、文才ゆうたら、小政さんが一番やき、わたしは、微力ながら……」
「ねえ、小政さん、その手紙に、うちの祖母ちゃんのこと書いてみん?ほら、コウさんが、一番最初に百合子さんに逢うた時、本位田さんが泊った旅館の女将が、二人のこと、随分心配して、それで、コウさんが、調査を始めたって、切りだしたがやろう?百合子さん、きっと、そのこと、憶えているよ。だから……」
「そうや、お寅さんが、今でも心配している。息子の勇次――手紙では私になるけんど――にも事件のことが質問されるって……。嘘やないきにねェ……」
「ああ、本人居らんでよかった。『アテを出汁に使いな』って、怒鳴られていたわよ、きっと……」
そう言う千代の言葉に、勇さんが、言葉を繋ぐ。
「お寅さん、今頃、クシャミ、連発ですね……?」
13、元ナニーからの報告
「昔話は、ここまでですがね」
新しい酒をグラスに注いで、ひとくち飲むと、S氏がそう言って、私の顔を見つめた。中途半端な結末になったことを申し訳なく思っているようであった。
「結局、残された謎、最後の皇帝、溥儀の弟、溥傑から預かった重要な物、これは永遠の謎となったのですか?百合子さんから、お返事が来なかったのでしょうか?」
「いえ、小政さんと、うちの母親が協力して、名文を書きあげ、勇次さんがそれを清書して、香港の百合子さん宛に送りました。そして、返事が届いたのですが……」
「何か、問題があったのですか?」
「はい、他言無用、とでも言いますか、決して、他人には話さないでくれ。話していいのは、私たちを心配してくれている、旅館の女将さんだけ。その方にも、きつく、口止めをして欲しい。と、百合子さんが書いているのです。でも、わたしも、母も、小政さんも内容は知ることになりますけど、他人にお話しするのは……、まして、小説になることは、まだ、百合子さんのご親族がご存命の内は、どうも……」
「なるほど、秘密の文書ですものね。いくら、半世紀以上が経ったといえども、公にはできない……。解りました、が、これでは、小説として、中途半端すぎます。私が創作して結論を出しましょう。あくまでも小説としてのです。そこで、少しは、ヒントを頂けますかな?私の質問に、答える、ということで……」
「いいでしょう、あくまで、フィクションとゆうことで……」
さて、ここから、いや、既にこの物語は、フィクションであると、お断りしていたはずである。少し、歴史上の人物が、そのままの実名で登場してはいるが、フィクションなのである。で、あるから、S氏がこれから語る物語も、フィクションの域を出ないものと、お考えいただきたい。
私が質問形式で、聞き取りした内容を、ここでまた、ドラマ形式で、綴って行くことにする。
「その、百合子さんからの手紙が届いたのは、翌年の春でした」
S氏が、再び話を開始する。
「当時の外国向けの郵便事情もありますが、百合子さんの方にも事情があったものと思われます。おそらく、ご主人の仕事の関係で、香港に用意された住所に留まってなく、あちらこちらを、転々としており、結局、元の住所に帰りついたのが、その頃となってしまったようです。ちょうど、その頃、坂本刑事――勇さん――は研修と言う名目で、一年間、大阪府警に転勤になっておりました。ですから、本人はその手紙を受け取ることができなかったのです。いえ、いえ、宛名人不明で返されたわけではありません。当時、同居していた、お兄さんが受け取ってくれたのです。外国からの手紙ですから、宛名はローマ字で書かれてありました。しかも、筆記体です。その「YUJI」という文字が「YUKI」に読み違えられて、坂本有紀、お兄さんの奥様、つまり、勇さんにとっては、義理の姉宛の手紙と思われたのです。義姉の有紀さんもその当時、海外にいる友人と文通をしていたんだそうです」
有紀さんは、封書を開けて、自分宛でないことに気づき、すぐ、勇さんの兄にその事を伝えた。お兄さんは、慌てて、大阪の勇さんに連絡すると、勇さんは、刻屋の千代さんに届けてくれ、と依頼したのである。
そのおかげで、千代と小政さんとS氏は百合子の手紙を読むことができた。
そこに書かれていたものは、三人が想像していたとおり、慧生が事件で亡くなる前に、例の父親から渡されていた秘密の文書を彼女に渡したこと。そして、彼女が失踪する前日に書かれたと思われる手紙によって、その文書の内容を教えられたことが書かれてあった。
その文書の内容は、三人の想像とは違っていたものであった。それは、愛新覚羅一族、つまり、清王朝の祖先の秘密であった。
清王朝は、モンゴル族が起こした王朝である。その先祖は、勿論、チンギス汗である。そのチンギス汗が、実は、奥州で、亡くなったはずの、源義経であるというのである。義経生存説は、江戸時代にあり、そこから、元王朝のフビライ汗の祖先、チンギス汗は奥州から、蝦夷、蝦夷から、大陸へと落ちのびた、義経である、という、珍説が生まれたのである。清王朝も元王朝と同じ、モンゴル系。そこから、清王朝の始祖は、チンギス汗=義経の伝説が生まれたのであろう。
こんな奇抜な始祖説を、溥傑は、いや、愛新覚羅一族は信じ、継承してきたのであろうか?溥傑の文書から、その真理は、判断し難かった。ただ、そういう、伝承があり、我々一族は、日本人と血が繋がっていることを、娘や子孫に伝える必要があったのだろうか?
文書は次の段階に続いて行く。慧生に対する、父親としての言葉である。
『好きな人ができたら、その人と結ばれなさい。しかし、あなたは、清の皇帝、遡っては、源義経の血を引く者であることを、忘れず、一族の繁栄を忘れず、生きて行かなければなりません。辛い道のりを超えて行かなければなりません。私は、その時、傍にいてあげられないでしょうから……』
「何これ?これって、溥傑の遺書みたいやないの……」
百合子の手紙の慧生が打ち明けたとされる、父親からの文書を読んだ後、千代は憤慨したような言葉を発した。
「そうですね。遺書だったんでしょう。満州に帰れば、二度と逢えない運命を、溥傑氏は予感していたのでしょうね」
「けど、あんまり、エイ遺書やないと思うなぁ。中途半端や。娘に何が言いたいがやろう?結婚は好きな相手で良い。しかし、家系を守れ。矛盾してるね。それ相応の家庭の者を選べってことになる。こじゃんと、範囲狭いよ。清の皇帝の子孫やき……」
「ボンのゆうとおりですね。これじゃあ、自由恋愛は出来ない」
「小政さん、自由恋愛なんて、当時はなかったのよ。ほぼ、家系第一。今みたいに、民間から、お妃さまが迎えられる、って時代が来るとは誰も思ってなかったのよ」
「正田美智子さまのようにですね?」
この年の四月十日、皇太子殿下と美智子妃殿下の結婚、そのパレードが、全国に中継されたのである。
「そう、溥傑さんはその狭いお婿選びの中で、好きな人を選びなさい、と言ったんだと思うわ。それが、精一杯の、親心……」
「でも、この文書を鵜呑みにすると、大久保との結婚は、ダメ、ってことになるがやない?大久保が、どんな家系か知らんけど、嵯峨侯爵家が反対したくらいやから、上流家庭の出とは思えんけんど……」
「そうですね、確か、大久保の父親は、元、憲兵だったと、訊いています。その父親が所持していた、拳銃で、自殺したそうですから……」
「じゃあ、慧生さんは悲観するかもね。父親の眼鏡にかなった相手やないと、思うろうきね……」
「では、百合子さんの手紙の続きを……」
百合子が、その秘密文書の内容を知ったのは、その年の十二月五日、慧生からの最後の手紙によってであった。
その手紙には、慧生が大久保との仲をどうするのか、いや、どうしたいのか、は書かれてなかった。ただ、数日前に渡された、父からの文書の内容を伝えるだけだった。
そのことが、余計、百合子に不安を掻きたてたのである。慧生に連絡を取ろうとしたが、もう、その時は、行方が解らなかった。そして、数日後、訃報を知らされる結果となったのである。
『私は、間違ってしまったのでしょうか?慧生さまに、お父さまからの手紙をお渡ししたことが……。そのことが、あの事件、心中に繋がったのではないかと、未だに、悔やまれてなりません。
勇次さまのお父さまが、ご存命であったなら、きっと、私の行動は間違っていなかった、と仰ってくださいますことでしょうね?そのお言葉を訊きたくて、つまらない、愚痴を書いてしまいました。どうぞ、お忘れくださいませ。
遠い、異国の空の下から、お父さまに負けない、勇次さまのご活躍をお祈り申し上げております。
草々 』
「百合子さんの書いてるとおり、コウさんが生きてたら、百合子さんの行動は間違っていなかった、と返事を書いていたでしょうね。でも、我々では、その代役はできませんね」
「小政さん、どう思う?心中事件と『秘密の文書』の関係。やっぱり、永遠の謎、で、終止符、となるのかなぁ……?」
「いや、我々の中だけでも、結論を出しましょう。それが間違っていたとしても、誰にも迷惑はかかりませんからね」
「そうね、じゃあ、どうゆう結論にする?」
「千代さんの考えは……?」
「つまり、三つの説があるのよ。
一、 純愛の心中説で、秘密文書は関係なし。
二、 純愛の心中だけど、秘密文書に却って、後押しされてしまった。つまり、絶望する、内容だった、慧生さんにとってね。
三、 無理心中説。秘密文書の『自由恋愛』部分を信じて、大久保を説得しようとした。けれど、大久保には通じなかった」
「どれも、悲劇やねぇ。僕はもうひとつの可能性があると思うよ」
「何よ、もうひとつって?」
「それは、『自由恋愛』を拡大解釈して、自分たちの意志を全うした。つまり、天国で結ばれましょう、ってことになって……」
「何よ、それじゃあ、義経、ご先祖説は完全無視、じゃあないの。あんた、変なメロドラマ見たんと違う?」
「いや、千代さん、義経も静御前という、元白拍子、つまり、身分違いの女性と結ばれていますよ。わたしは、千代さんの第三の説が有力だと思いますが、でも、ボンのメロドラマ、『天国で結ぶ恋』にしておきましょう。我々だけの結論ですから……」
「そうね、悲劇よりは、少しはハッピーエンドに近い方がいいかもね」
「まあ、その時、私たちが出した結論は、そういうことになりましたがね……」
そう言って、S氏は酒を口に運ぶ。
「それと、もうひとつ、小政さんが言っていた、金田一と名乗った探偵さんが、何故、『鬼首村』へ行く、と言って去って行ったかの謎なんですがね。小政さんは思い違いをしていたかもしれませんが、『夜歩く』という作品は、『八つ墓村』より先に連載が始まっています。昭和二十三年二月、『男女』という月刊誌だそうです。ところが、ある事情で、トリックがほぼ同じような作品が、先に発表されて、構想を変える必要になり、完結が遅れたのです。その間に『八つ墓村』の連載が始まった。小政さんは、八つ墓村が先と勘違いしていたみたいです。
まあ、それでも、あの探偵さんが、高知を離れた時期からすると、半年ほどの開きがあるわけで、不思議は不思議なのですが……。おそらく、作者の横溝正史と探偵さんの雑談の中で、事件が起きる場所に相応しい村の名称――もちろん架空の――をあれこれ語っていた中に、『鬼首村』と書いて、『おにこべむら』と読ます、架空の場所の構想が出たんだと思いますよ。次の事件の舞台にしようってことだったんじゃあないですかね?その事が記憶に残っていて、咄嗟に、『鬼首村』へ行く、と告げたんだと、私は推理するんですがね」
S氏は、そう結論づけて、物語を語り終えると、にんまりと笑って、小鉢に残っていた『チャンバラ貝』を美味そうに口に含み、土佐鶴という酒を飲みほした。
エピローグ
この物語を、フィクションとして書きあげたころ、日本の皇室で、ひとつの事件があった。皇女と民間の一青年との婚約、そして、その延期の発表である。
私は、慧生と大久保のことが脳裏に浮かんだ。今は時代が違う。おふたかたには、ハッピーエンドの結末を迎えていただきたいと思っている。
そんな思いを込めながら、ある日、高知の街中を歩いていた私の眼に飛び込んで来たものがあった。
RKC(現、高知放送)、テレビ開局○○周年の看板である。
「ほほう、あの当時から、こんな年数が経ったのか……」
と、感慨にふけっていた私は、ふと、あることに気が付いたのである。
それは、その開局日が、昭和三十四年四月一日。「私は貝になりたい」が放送されたのは、その前年の十月であったはずだ。
「あれ?高知の人間は、『私は貝になりたい』を何時、どのテレビ局で見たんだろう?NHKではないはずだ。街頭テレビも高知にはなかったはずだし……」
調べてみると、NHK高知放送局のテレビ開局は、その前年の十二月。有名な、ペギー葉山が急遽依頼されて、いやいやながら『南国土佐を後にして』を唄ったという、エピソードが残っているから、間違いない。
そこで、私はふと、思ったのである。例の『テンゴウ噺』の得意なマッちゃん、あれは、S氏自身の投影ではないのかと……。
実話とフィクションが入り乱れて、語られた物語だと、私が思っていた回想噺は、実は全て、フィクションだったのだ。S氏の頭の中で描き出された物語を、実話のように訊かされていたのだ。だから、私が何度も、「この物語はフィクションとして、読んでいただきたい」などと、注釈を付けなくても良かったのだ。例の秘密の文書など、ありはしなかったのだから……。
「まあ、いい。美味しい地酒と、土佐の変わった逸品をいつもご馳走になるんだ。私が気づいたことは内緒にして、これからも、昔話を訊きに行くか……」
私はそう心の中で呟いて、次の物語を拝聴するため、S氏の待つご自宅へ足を向けたのだった。
エピソードⅠ:三人の復員者事件 了
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