後編

 『杜氏と語る酒の会』の会場は、麻布駅から十分弱歩いたところにあった。普段は会員制のワインバルだという。受付を済ませて、あらかじめ割り振られた席に座る。カウンター席の奥に座っているグレーのスーツを着たダンディなおじさんが「杜氏さんだよ」と朱音は教えてくれた。


 あたりを見回す。どうも二十代前半の客は私一人みたいで、お金持ちそうなマダムの団体や、初老の男性二人組、三十手前ほどの男女。やはり、私のような世間知らず、杜氏の意味知らずな若造は場違いなんじゃないか、と窮屈な心地にさせられる。仮病を使っての早退を申し出ても、まだ間に合うんじゃないだろうか。と、学生時代の悪癖が再発しそうになった時、杜氏さんが立ち上がり、「皆様。本日はご足労いただき、誠にありがとうございます」と、開催の挨拶を始めたので、腹を決めるしかなくなった。まあ、いい。朱音の陰に隠れて、高貴な若者を演じて乗り切ろう。


 ところで私は、こういう畏まった挨拶というのがいまだに苦手で、一端の社会人になった現在でも、小学校の校長先生のお話を聞き流す要領で右から左に受け流してしまう。代わりにぼーっと思考を巡らすのだが、その内容は、さっきのカフェでした「恋人名詞」と「友人名詞」のことだった。結局、このイベントはどっちに分類されるんだろう。それは世間的に、ではなく、朱音的に。なんて、深く考えるだけ無駄なんだけど、気にならずにはいられない。


 失恋からいくつ夜を超えても、未だに期待してしまう自分がいる。


 あの告白は、私と朱音の関係を引き裂くきっかけ足りうる事件だった。それでもまだこうして飲み友達を続けていられるのは、私が諦めたフリをしているからだ。私と朱音で、二人の関係を「友人名詞」に分別する契りを交わしたからである。


「ところで、本日はどちらから?」

 とそこで、杜氏さんが一番近くの席に座る二人組の男女に話を振った。男性は、浅い会釈を挟み、

「大宮からです。今日は結婚記念日でして。せっかく特別な日なので」

 と答えた。杜氏さんは、埼玉からわざわざ! とややオーバーなリアクションをして、我々のお酒を愛していただきありがとうございます、と礼をした。周囲から大きな拍手の音が鳴った。


 とりあえず、周囲に合わせて拍手をしてみる。ふと朱音の方を見る。彼女は拍手をしていなかった。件の夫婦たちをじっと見たまま固まっていた。

「どしたの?」

 声をかける。すると彼女はハッとして、

「あ、ううん。なんでも。なんでも、ない」

 歯切れの悪い返事をした。




 私はその様子を気に留めないこととした。少なくとも、この瞬間は。




 けれど、どうしても気にせずにいられなかった。これは私の心持ちの問題ではない。朱音の振る舞いの問題だ。


 杜氏さんの挨拶のあと、各テーブルに一杯目のお酒が配られた。恐る恐る、一口。というのも、私は二十歳の誕生日時点で下戸という事実が発覚してしまっている。

 対して、朱音は酒に強い。九州の生まれだから、とか昔言っていたそれが理由なのかは分からないが、とにかく酒に飲まれたところを見たことがなかった。だから、一杯目を一気に飲み干したところで、まだ「違和感」と呼ぶには程遠い。


 四杯目あたりだと思う。今日の朱音はおかしい、と眉をひそめたのは。


 私が一杯目の半分呑んだところで、彼女は既に三杯飲み切っていた。しかもその間、ほぼ無言。いくら飲み放題とはいえ、漫画の中の海賊みたいな下品な飲み方をしなくてもいい。さすがの私でも、そう思った。どうしたの、と声をかけた。しかし朱音は返答をくれず、「もう一杯ください」と叫ぶ始末。


「ねぇ、朱音──」


 二度目の問いかけをした。と、その時だった。


「藤堂さん、だよね?」


 聞きなれない声が頭上で鳴って、視線をあげた。そこには、本日が結婚記念日だという三十代手前ほどの男性が立っていた。


「あ、やっぱりそうだ。久しぶりだね」

 朱音は酒器を持つ手を止め、視線だけを男性へと向けた。

「……。久しぶり」

「あはは。どうしたのさ、元気ないようだけど」

「別に。君は幸せそうで何よりだよ。結婚記念日? だっけ。おめでと」

「うん。ありがとう」男性はそう返事をして、太陽のようにはにかんだあと、「藤堂さんはどう? 彼氏とかできた?」


 まるで他愛もない話題という具合に、素っ気なく尋ねた。

 私も、酒器を持つ手が止まる。


「……いないけど」


 緊張が走る。


「そう。そっか。でも藤堂さんらしいや。大学の時から、孤高、って感じだったし。そういう部分に憧れていたやつも多かったし。うん。でもね、当時から気にかけていたんだ。僕も、君のファンだったからさ。幸せになった君を見てみたい。そう思ってたんだ」


 男性の言葉を聞きながら、体内の奥底で何かが噴火するような衝動の気配を感じた。


「月並みだけど、恋愛は人間を成長させ、世界を広げてくれるものだからさ。最近思うんだけど、僕らも三十手前で、大人になってきたし、次の世代に何かを引き継ぐ役割を担わなくちゃだよね。様々な人とかかわって、良い恋愛をして、家庭を持ち、価値観を広げていかなくちゃって」


 衝動の気配は、やがて実感に変わる。


「ああ、長々とごめん。とにかく、君にも良い出会いがあるように祈ってる、って話なんだ。よかったら今度、ご飯でもどうだい? そこで互いの未来のこととか語り合えたらいいよね──」


 そして、我慢の限界を突破した。私はとっさに立ち上がり、見ず知らずの彼に向かって──


「未来?」怒鳴りつけてやろう、と思った。しかし、それより早く、「それって、子孫繁栄みたいな話?」


 朱音が声を出した。


「ずいぶん崇高なこと仰ってますけど、違うだろ。お前の性欲の末路だろ」


 ぴしゃり。朱音はそう言い放って、手元のお酒を一気に飲み干した。


 それ以降、男性は口を閉ざしてしまった。眩しいはにかみ顔も、引きつり笑顔に変わり、「じゃあ、戻るね」とだけ言い残し、自分の席へと戻っていく。私も私で、結局何も言えないまま、彼がどなたかも尋ねられないまま、ゆっくりと腰を下ろす。すると朱音が、


「あいつさ、」囁くように、言った。「初体験と激痛をくれた男」


 そこから、朱音の酒を呑む勢いが増した。私は事情を理解して、朱音の心情を慮って、それでも何を言ったらいいか分からない。無力さを痛感して、もうお酒なんて一滴も飲む気分になれなくて、ただただ朱音の表情を見ていた。


 ほんの五分後くらいの出来事だ。


「──ッうぷ」


 と朱音が悲鳴にも似た声を上げて、両手で口元をふさいだ。そのままの勢いで立ち上がり、駆け出していく。その先にはトイレがあった。扉を開け、中へと消えていく。


「朱音っ!」と声を上げるも、返事はかえってこない。


 やぁねぇ。と、隣の席のマダムの声がした。


 あの娘、ずっと安酒みたいに飲んでいたわよ。お酒の価値が分からない子なのね。これだから教養がない若者は嫌いなの。失礼よね、杜氏さんがいらっしゃるのに、目の前でもよおすなんて。


 小声のつもりなのだろうか。それでも私の耳には届く。


 きっとファッション感覚なのね。こういう場に参加できる自分は高尚な存在だと思ってるのよ。歴史も知らずに美術館に通う学生と一緒ね。良さも分からずブランドものを着てネットにあげる十代と同じだわ。


 大義のつもりなのだろうか。それでも私の胸を締め付ける。


 いてもたってもいられなかった。


 席を立ち、なりふり構わずトイレへと駆け出した。勢い余ったせいで、膝をテーブルにぶつけた。そのあとで、背後から薄いガラスの割れる音がした。知ったものか。扉を開ける。中には、便器へと顔を突っ込む朱音の背中があった。そして、喉を震わす。


「朱音っ」何を言おう。何か言わなくちゃ。そういった逡巡の末、私の口から漏れ出た言葉は、「助けに来たよ」

 たったそれだけだった。


 朱音が振り返り、私の膝を両腕で抱きしめた。足元で、すすり泣く声がきこえた。


「なんていうかさ……」何も言わなくていい、と思う。けれど、何も言わなくていい、という声は出ない。「今日は、出会った日のあなたの気持ち、ちょっと分かる日だ」


 たぶん、いいや、絶対違うよと思う。あの日の私と今の朱音はぜんぜん。一緒にしないでほしい。私みたいなしょうもない人間の苦悩と藤堂朱音のそれを、ごちゃまぜにしないで。


「あたし……おかしいね。こんなとこ、見せるなんて。……ちがうな。ずっと、おかしいんだ」


 おかしくなんかない。おかしくなんかないよ。それだって言いたくても、私の口から出る言葉はきっと軽い。だから、私は朱音を抱きしめ返すことしかできない。


 そうして、朱音は、





「あなたと恋愛ができる人間になれたらよかったのに」





 いいよ。聞き流してあげる。そのセリフは、私の胸を引き裂くほどの暴力性を孕んでいるけど、いいよ、私たちはそうならなくてもいい。朱音が苦しむぐらいなら一生私たちにつけられたラベルは「友人名詞」でいい。いまこうして泣きじゃくる朱音を介抱できるのは私しかいない。朱音を助けに来られるのは私しかいない。その事実だけで充分幸福だって思うことにするから。朱音とキスやセックスをしたい、朱音が欲しい、好きだから好きになってほしい、そういった感情は全部、只の駄々だし、もう二度と口にしないから。「ほれ」とか「やあ」とか「ん」みたいな相槌感覚で「助けに来たよ」を言い合おう。そうだ、このあと豚骨ラーメンでも食べに行こうよ。そうしない? 奢ってあげるから、そうしようよ。

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ただのだだだし 永原はる @_u_lala_

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