中編
高校生までの私は、かなりお行儀がよく品のある、清純派な女の子だったと思う。
それはひとえに、両親から与えられた有り余るほどの愛情のおかげだ。言い換えれば、過保護のせいだ。みちみちの箱入り娘として育てられた私は、むちむちの常識人に成った。
その反動からだろうか。十九の私は、夜な夜なライブハウスへと通うようになった。その果てに暴れ狂った二十歳の誕生日があり、藤堂朱音との出会いがある。
知らない大人にはついていっちゃいけません。これもまた一つ、かつての「常識」。しかし、いまとなっちゃ、疑わしい固定観念。大人の階段を一段登るような要領で、私は知らない大人の女性についていくことにした。
四つ年上で広告代理店に勤務しているという藤堂朱音は、私に社会の面倒臭さや、焼酎の種類についてや、大学で専攻していた精神分析学の話やらを聞かせてくれた。モラトリアムの真っ只中で、今日初めてお酒を口にした、経済学を専攻している私にとっては、そのどれもがまるでおとぎ話にも似た異世界体験談で、アルコールに侵された頭で聞くには勿体ないほど興味深い内容だった。そう、興味を惹かれた。最初はその程度。しかし、二軒目、三軒目と居酒屋を渡り歩き、共有する時間が増えるにつれて、彼女そのものに惹かれていった。
白状しよう。私はこの日、まんまと藤堂朱音に好意を抱いた。
彼女と解散したのは、JRの始発が出る時間よりも後だった。
「ありがとね。とても楽しかったよ。間違いなく、特別な夜だった」改札前で、藤堂朱音はそう言った。「あなたにとっても、そうだったら嬉しいけど」
私も特別な日になりました。と言おうとした。けれど、何か他に言うべきことがあるんじゃないか、と踏み止まる。いや違う。べき、でなく、言いたいこと、がある気がした。
「あのっ」だからまず声を出して、それから考えて、「ライブハウスに行ったら、また会えますか?」
と尋ねた。しばし間が空いて、朱音は吹き出した。
「あはっ。そりゃ、あたしはよく行くけど。あなた出禁じゃん」
言われて思い出す。忌々しき、数時間前の出来事。その結果、再会の場を失うことになってしまった現実も突き付けられて、どん底へと落ちていく気分にさせられた。が、しかし、
「じゃあ、」と朱音はスマホを取り出して、「連絡先でも交換しとく?」
私を、どん底から掬い上げたのだった。
◆
恋愛感情というものは、自覚してすぐ急速に沸点に達するが、その後すぐに冷めていくものである。いや、そういうものだと思うっていう、あくまで個人的経験による推察でしかないが、でもまあきっとあの夜に抱いた藤堂朱音へのそれも次に会った時には冷え冷えになっているだろうという、根拠薄弱な確信があった。しかし、そうはならなかった。自分でも不思議で仕方ないのだが、ぐつぐつと煮えたぎった彼女への感情は高温を保ち続けた。
基本は月に一度、多いときは隔週に一度ぐらいの頻度で私たちは会い、酒を呑み交わした。アルコールを入れると、身体が火照る。あ、だからかもしれない。私が朱音を好きでい続けたのは、適度にアルコールで体温を上げていたから。その状態を恋だと錯覚してしまった、そういうことなのかも──と、言い訳を繰り返していたのが、最初の一年半。
言い訳が利かなくなったのが、大学四年生の夏前。
私は、就活生になっていた。
ESを書けば落ちたり通過したりして、面接へ行けば落ちたり落ちたりする日々だった。六月に突入しても、内定はゼロ。周りの同期たちは、既に内定の一つや二つ持っているのが普通で、私は焦っていた。
そういった不安に押しつぶされそうになった夜。
「助けてほしい」
ふと真っ暗な自室の中、呟いていた。と同時に、朱音の顔が脳裏に浮かんだ。浮かんですぐ、机の上のスマホを手に取った。通話ボタンを押す。コールが鳴って三度目。もしもし、どしたの? の声が聴こえて、脊髄反射的に、
「朱音、会いたい」
私は、そう言っていた。
「あはっ。どうしたのさ、死にそうな声して」
「今どこ?」
「おいおい、会話する気ゼロかい。ま、いーよ。もうすぐ仕事終わるから、一時間後に赤坂駅までおいで」
「いく。すぐ行く」
電話口で「だから一時間後だって」という声がした。一時間は長すぎる。今すぐ会いたい、私を抱きしめてほしい。なんて欲求が胸の奥底からこみ上げてきてしまったときの私はシラフだったから、もう言い訳は無理だね、さすがに恋だわ、と気づいてしまった。
約束の時間より十五分早く朱音はやってきて、いつものように居酒屋へ連れて行ってくれた。酒の席での彼女は、いい意味で空気を読まない。バッドモードの私に妙な気を遣わずに朗らかに接してくれる。おかげで救われた。重たく沈んでいた気持ちが、ちょっとだけ軽くなった。余裕ができた。
その余裕が、私を大胆にさせた。
帰り道。
「あ、あのっ……朱音」私は意を決して、「私、朱音のことが好き」
想いを伝えた。わりとすんなり言葉にできた自分に驚いた。けれど、好き、って言葉は結構多義的で、
「あ、うん。あたしもあんたが好きだよ。一緒にいて楽しいし。心の友、って感じ」
と、曲解されてしまった。違う、違うんだよ朱音。私は朱音を愛していて、キスとかセックスとかしたい、って思っているんだよ。そういう意味だったんだけど、渾身の一撃を外してしまうと、さすがに二発目を撃つ勇気ってなかなか出ない。歩道の真ん中で足を止めて、無意識で俯いてしまった。
そんな私の不自然な動作に違和感を覚えたのだろう。朱音も立ち止まり、
「えっ、あ。……え?」と狼狽したのち、「もしかして、そういう話じゃなくて?」
と尋ねた。私は肯き返した。
「あっ、そう……好きって……そういう」
しばらく、沈黙が二人の間に横たわった。明らかに気まずいムード。それが何を意味するかを気づかないわけない。脈ナシ。そういうことだ。
思考が先走って、口が空回って、
「やっぱり、私が女だから……?」
というお断り前提の質問が、沈黙を裂くセリフとなった。
「いや、女だからとか、男だったらとか、そういう話じゃなくて……。考えてもなかったから、そういう可能性をさ。……驚いてるっていうか、なんていうか」
朱音はそこまで言って、また黙った。都会の夜の鈍い空気が、さらにどんよりと重くなった気がした。いよいよ詰みだ。失恋を覚悟した。でも悔いはない……と強がる準備も万全。顔を上げる。朱音の顔をじっと見つめた。
そして、私は驚く。彼女の真剣なまなざし。初めて見る類のものだったからだ。
「あなたの気持ち、分かった。うれしい。ありがとう。こんなに真面目に向き合うことって初めてだから、ちょっと照れくさいけど、でもあたしも真面目に返事をしなくちゃいけないよね」朱音はそう言ってから、呼吸を挟み、「これから言うことは、本当の話で、なにも体よくあなたをフるために言うんじゃないから、信じて欲しいし、信じてくれる前提で話すんだけど」
その前置きの時点で、失恋は確定した。けれど、彼女の「真面目」を裏切るわけにいかないから、私は出来るだけ涙を流さないよう必死でこらえながら、耳を傾けた。
それから、朱音は言う。
「あたし、人を好きになれないの」
◆
アセクシャル。他者に対して性的欲求や恋愛感情を抱かないセクシャリティのこと。
藤堂朱音に告白したことで、初めて得た知識だった。
要するに、藤堂朱音がそれだった。
『小学五年生の時。周りは初恋だなんだ、恋バナがどーだって浮かれ切っていた頃かな。それを自認するキッカケになったのは。好きな人がいないのはおかしい、とか言われてさ、咄嗟に隣の席の男子の名前を挙げちゃって。でも、ぜんぜん恋愛感情なんてないわけで。向こうも朱音のこと好きらしいよ、って友達に言われて、両想いみたいな感じになっちゃって、けれど、ぜんぜんときめくとか無くて、一週間でフっちゃった。
中学生になっても、高校生になっても、てんでダメで、告白は何度かされたけど全部断って。そうすると、お高く留まってんな、みたいに言われるようになって、よけい恋愛とか敬遠がちになっちゃって、高校を卒業するまでそんな感じで。
でもね、セックスの経験は一度だけあるの。二十一のとき。大学の同期と、酔った勢いで? みたいな。勢い、っても、むこうがグイグイ来て、あたしが防御をおろそかにしたってだけだけど、嬉しかったな。彼に抱かれたことが、じゃないよ? ああ、あたしセックスは出来るんだ、って。やっと周りの人たちと同じになれた、って思えたからさ。それまで普通じゃない自分が怖かったから。ぶっちゃけ、気持ちいい、とかはなかったけどね。激痛! って思い出しかない。で、まあ、二回目はマジで嫌で断っちゃったから、やっぱり周りとは違う自分を認めざるを得ないんだけど』
朱音は、一気に語って、
『だから、ごめん。あたし、あなたともきっと恋愛ができない』
私を真正面からフった。それが、二年前の出来事だ。
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