ただのだだだし
永原はる
前編
水族館は恋人名詞。カラオケは友人名詞で、音楽は恋人名詞。いやいや、クラシックとロックとで話が変わるんじゃないか、と問うと、ジャズは間違いなく恋人名詞だね、と藤堂朱音は答えた。ちなみに私が思うに、クラシックは恋人名詞でロックは友人名詞だ。
その時の私たちは駅前のカフェにいて、恋人名詞、友人名詞の当てっこをしていた。これは朱音の発明した遊びで、名刺にはすべて男性名詞、女性名詞、中性名詞などの別があるけれど、それと同時に、恋人名詞、友人名詞の区別があって然るべきだ、と彼女は言った。私は、こういう知的でユーモラスな発想が彼女の魅力なんだよなあ、と感心してしまったのだけど「ってなことを太宰治が『人間失格』の中でやっていまして」と二番煎じであることをあっさり白状した。
そこでふと「じゃあ、これから私たちが行く『杜氏と語る酒の会』と冠する日本酒飲み放題パーティーはどちらに分類されるのだろう」と考えてしまった。そもそも『杜氏と語る』って何についてだろう、と思考は一度脇道に逸れて、てか私なんか「杜氏」が酒造の最高責任者の呼称であることをついさっき知ったぐらいお酒に疎いし、つーか「杜さん」って人の名前かと思うじゃんね普通、と心の中で言い訳を溢しながら、だからつまり私なんかが行って場違いじゃないかなといまだにびくびくしているわけで、あれ、結局何の話だっけ? あ、そうだ、日本酒パーティーは友人たちのための催し物か、はたまた恋人たちのものか、そういう疑問だったっけ。とやっと振り出しに立ち返った時には、もう朱音は席を立っていた。
「ごちそうさまです」
と言い残して、朱音は店の外へ出た。私は伝票を持ってレジへ向かう。どうやら日本酒パーティーは朱音が全額持ってくれるらしく、いやさすがに万単位の奢りは受け入れられないよ、と一度は拒否したのだが、ならここのコーヒー代を出してよ、それで貸し借りナシね、とそういうことになっていた。
お会計、千四百三十円です。とレジの可愛らしいお姉さんに言われてから財布の中身を見ると、小銭が四百二十七円しか無いことに気づいた。あとは一万円札が二枚。まあ一万円札で会計を済ませてしまえばいい話なんだけど、この「あと三円、もしくは十円玉一枚」の歯がゆさがたまらなかった。と、そこで、
「助けに来たよ」朱音の声が聞こえた。彼女は財布の中を覗き込みながら言う。「細かいの、あといくら?」
「あ、えっと……十円」
ん、と朱音は相槌を打ち、十円玉をトレーに乗せた。
助けに来たよ。まるでヒーローの常套句みたいなセリフ。彼女は、そいつを頻繁に無駄撃ちする。十円玉が足りないところに駆けつけて「助けに来たよ」。ほかにも、タバコを吸うときにライターが無いことに気づいた私にジッポライターを差し出して「助けに来たよ」。アルバイト帰りに私を待ち伏せて「助けに来たよ」、そのあと豚骨ラーメンを食べに行った。今回のは比較的正しい用法だったけれど、他のシチュエーションは大概怪しい。たぶん朱音の中では「ほれ」とか「やあ」とか「ん」みたいな相槌感覚で使っているんだろう。
ま、今に始まったことじゃない。朱音と出会った夜も、彼女は私を「助けに来た」。
◆
二十歳の誕生日に私は、暴れ狂っていた。暴れ狂う、という表現を自分に使うのはちょっとだけむず痒いというか、いいやちょっとどころじゃない、かなり痛々しいんだけど、そう形容するしかないぐらいグッチャグチャだった。
当時、通いつめていたライブハウス。その夜も私はそこにいて、今日で二十歳なんでお酒解禁です、酒をくれー酒をくれー、と叫び散らかして、スミノフアイスを次々に飲み干して三本目、そうたった三本目でアルコールに身体と理性を乗っ取られていた。
もう止めた方がいいよ、という大人の助言も聞き入れず、五本目を注文したあたりで私はフロア中を駆け巡り、しばらくして踊り始めた。ライブハウスは音楽を聴くところ、ロックバンドの演奏に踊らされるところだという不文律をすっかり無視して、酒を吞み、酒の力に踊らされた。フロアの隅に置かれたドラム缶を中央まで移動し、そこに乗り上げて身体を揺らすと、誰かが手を叩いて爆笑しているのが視界の隅で映った。いいね、もっと私をノせてくれ、と私は腰を回した。普段よくしてくれるブッキングマネージャーやPAさんなんかが近づいてきて、私の腕を引っ張った。いまが人生で一番気持ちいいんだ、水を差すな、とそれを振り払ったところで、体内の奥底で何かが噴火するような衝動の気配を感じた。というか、端的に言えばアレだ。吐く。マズい、と咄嗟に両手で口をふさいだ。
「うぷっ」
間一髪だったな、などと一度は安心したけれど、小指と小指の隙間から吐瀉物がしたたり落ちて瞬時に「もう無理だ」と悟った。ええい、ままよ。その手をどかして盛大に……そのあとの記憶は曖昧で、気が付いたらライブハウス前に設置されたベンチでうなだれていた。
膝の上には一枚の紙。赤文字で大きく『出入り禁止』と書かれていた。
こうして私は、誕生日に居場所を失った。ハッピーバースデー。一生の思い出だね。とため息交じりに自嘲して立ち上がる。まだ少しだけ頭がぐわんぐわん揺れていたけれど、このぐらいの体調なら家まで帰れないこともない。よし、行こう。と、腹を決めた。
その時だった。
「助けに来たよ」
聞き覚えのない声に振り向くと、そこにはロングヘアとスーツ姿の似合う凛とした女性が立っていた。彼女から視線を外してあたりを見回す。ほかには誰もいないことを確認し、とすると先の発言は私に向けられていたのだ、と確信した。しかし、意味が分からん。助けに来た? 呼んだ覚えはない。それに彼女の風貌に一切の見覚えがない。初対面であることも間違いなさそうだった。
「若いっていいねえ。出禁になるやつ、初めて見たよ。感動した」
けれど、彼女は話を続ける。私は口を半開きにしたまま、
「ど、どちら様?」とだけ、尋ねた。すると、その女性は腰に手を当てて、
「あなたのファン。に、さっきなった者だけど」と言いながら、私の腕を引っぱり、歩き出した。「吞みなおそうよ。あなたも、もっと素敵な誕生日にしたいと思うでしょ?」
これが、藤堂朱音との出会いだった。
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