第96話 クラブ活動に習い事
前作で、妻がソフトボールチームでプレイした話を紹介したが、彼女にとっては、これが初めての組織的なスポーツチームへ参加した経験だった。日本のものすごい田舎で育った私は、スポーツクラブなどの経験はないが、中学では軟式野球部、高校ではハンドボール部に所属してた。小学校でも5−6年の時は、町内のソフトボール大会に参加するチームとして練習をしていた時期もあった。そして、習い事といえば、小学生の頃、隣町のそろばん教室へ、毎週、日曜日に自転車30分以上かけて通っていた時期があった。私の小学校の同級生の男子で、これ以外のレッスンとか習い事をしていた生徒は知らない。女子には、ピアノを習っていた子もいたらしいが、詳しいことは知らない。
今では、私の実家あたりでも小学生時代から野球、水泳、サッカー、バレーボール、武道等に参加できるらしい。数年前にはレスリングも教室ができたと聞いた。音楽教室は多くある。例えば、隣町のスイミングクラスへは、お母さんたちが車で送り迎えしている。私が幼い頃は、そんな送り迎えができるような環境ではなかった。町内でも、女性としては最初に車の免許を取ったうちの一人だった母でも、それは私が小学校六年生の時だった。9歳年下の妹は、音大を卒業した近所のおねいさんからピアノを習っていた。我が家は田舎の一軒家で、近所と言っても、そのおねいさんは最初は自転車で、嫁いでからは、車で教えに来ていた。そのおねいさんは、小学生の頃から、バスで、ピアノ教室へ通っていたそうだった。
この話を妻にすると、彼女の両親も継父も、そういう課外活動は全くさせてくれなかったと言う。従姉妹には、少し音楽系のレッスンを受けていた者もいたらしいが、彼女の親族ではそういう風習はなかったそうだった。一番若い従弟はBMXのチームに所属していたが。米国では、音楽もスポーツも幼い頃から公共の機関でもプライベートでもレッスンに参加できた。妻の家族の唯一の例外は、中高生時代の姉は、人気者でチアリーダーに選ばれて、あの米国の高校生の男子のほとんどがセクシーと思うユニフォームを着て、バスケやアメフトの試合で飛び回って応援していた。ちなみに、姉は、その頃から身長が伸びす、10年後くらいに再婚した際に、新婚旅行へ行くスーツケースに、その頃のチアーリーダーのユニフォームを隠し入れていたのを、義妹に見つけられて、真っ赤になっていた。彼女の再婚相手は、30代後半だったが、未婚で女性経験はなかったと、その義妹が言っていた。キリスト教の敬虔な信者だったからだと言うことだった。しかし、そんな30男が、新婚旅行で、新妻に高校生時代のチアリーダーのユニフォームを着せるのかと、白目を剥いた(rolled their eyesなのだが、この日本語訳はあっているのかは不明)。
話は妻に戻って、妻は、高校一年生の時(米国の高校は四年制なので、年齢的には中学三年)に、体育の先生から、バスケットボールのチームへ入る様に誘われたとこがあったが、家に帰ってその話を母と継父にしたら却下されたらしい。体育の授業で、シュートが一番うまかったのだそうだ(本人曰く)。米国の高校では、バスケやアメフトのスポーツチームは、まず14−15歳の生徒はジュニア・バーシティーという二軍のようなチームから始める。活躍すると、バーシティと呼ばれる一軍の選手となる。米国の青春映画に良く出てくるバーシティジャケットを着る権利が与えられる。大学へ進んでもこのバーシティージャケットはあり、これを着てキャンパスを颯爽と歩く選手もいた(工学部には稀だった)。妻はジュニア・バーシティに勧誘されたらしい。コーチはそこで頑張って、高学年になってバーシティの選手になれるまで成長してほしかったのだろう。しかし、妻は痩せすぎていて、きっと弾き飛ばされていたただろう。
妻は、姉はチアリーダーで活躍させてもらっていたのに、自分はバスケができなかったと恨んでいる。前に書いた様に、姉はチアリーダーであった高校生の時に、家から出て行ったので、母親は、妻が姉の二の舞になるのを恐れていたのだろう。そして、できるだけ早く仕事(バイト)について、家計を助けて欲しかったのだろうと思う。
おかげで、妻は、息子には幼い頃から色々なスポーツを経験し、楽器のレッスンも受けさせてきた。妻は、息子がそんなにやる気もないのに、まずはピアノの練習に連れて行った。実は、妻は幼い頃、ピアノのレッスンを受けたかったのだが、そんな金はないと、ピアノレッスンも拒否されていたのだった。その反響で、息子には何かの楽器のレッスンを受けさせたかった。息子はピアノはいやで、サキソホンかドラムスの話になっていた。結局、ドラムスを少し習った。そのほかに、妻は息子をサッカーと陸上のチームへ入れた。5−6歳くらいだったと思う。その年で陸上かよと、私は思ったが。もちろん、バスケと少年野球を始めたが、その頃の息子はバスケはそんなにやる気はなかったので、野球(リトルリーグ)が主なスポーツとなった。
その後、息子はカリフォルニアで、ローラーホッケーを始め、日本ではアイスホッケーに変えた。インターナショナルスクールでは、生徒数が少なくバスケだけがメジャーなスポーツだったが、キャプテンになるほど練習していた。(妻は、自分もコーチに誘われた事があると言って、必死にアピールしていたが、息子には相手にされなかった。もう、中学生で、ママは息子の相手にはならなっかので。)そして、知り合いの日本人の少年たちに誘われて、息子は学外でサッカーを始めた。
日本で私の両親と夏休みを過ごす間に、エレキギターのレッスンも受けさせてもらっていた。弟のギターを見つけて、一人で夜遅くまで練習していたらしかったが、あまりにもうるさいので、父が、母に言って正式なレッスンを受けさせたらしかった。妻は、ピアノのレッスンを諦めていなかったので、ピアノにしないかと電話で薦めていたが、息子は聞く耳を持たなかった。私たちが日本へ引っ越した後、妻は念願のピアノレッスンを近くのヤマハ音楽教室で受けた。今でも一人で練習しているが、なかなかうまくならないと言っている。
私は息子が6歳になった頃、武道をはじめさせたかったが、私の所属していた空手クラブは高校生以上でないと稽古に参加できなかった。街に韓国人の師範がいるテコンドーの道場があり、そこで教えてもらえないかと尋ねてみたら、その師範は、大学でクラブの指導も行っていたが、週三回の連取のうち、日曜日しかクラブで指導できないので、私が火曜日と木曜日の練習のリーダーの一人になったら、道場での息子の稽古はただで参加できると言われた。そこで、私は月水日が空手、火木日がテコンドーの練習日となった。日曜日は朝が空手で夜がテコンドーだった。もちろん、ソフトボールをやる時間はなかった。テコンドーの型は空手と似た様なもので、覚えるのも楽だった。空手よりも蹴り技が中心だったが、個人的に蹴り技を余計に練習していたので、それも問題なくこなせた。(ちゃんと、本業のはずの研究していたかという疑問はここでは避けさてもらいます。)
妻も息子と同時期にテコンドーを始めた。空手はアザができるほどの練習なので嫌だと言って。金土のスケジュールはできるだけ開けて、家族サービスをしないといけなかった。テコンドーの土曜の朝練に家族で参加する様にもなった。妻とは、最低でも週一ペースでデートに出掛けていた。これって、米国の若いカップルでは常識でした。
カリフォルニアへ引っ越してからは、家族全員、テコンドーも空手もやめた。私はウエイトトレーニングにはまり、妻は同じジムで色々な運動していた。息子は野球とローラーホッケーチームに所属していたは、近くに住んでいたラオス人のクラスメイトとその友人達とバスケをする様にもなっていた。これが日本へ移住した後のバスケのチームへ入る引き金になったのかも知れない。
私の母が、5人姉妹弟のうちで、高校を卒業後、一人だけ進学させてもらえなかったことを恨んで、自分の息子は絶対に大学へ入るという信念で、私を教育したのに少し似た様に、妻は息子にスポーツや音楽のできる環境を与えていた。おかげで、息子はスポーツ好きで、今では、大学でスポーツ関連の教科を教えている。米国に住んでいるが、いつもヨーロッパへ行って欧州のサッカーの試合を観戦している。残念ながら、科学者又はエンジニアにはならなかったので、そこは妻の遺伝子を受け継いでいるのだろう。
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