第95話 子育て中の不満

息子がなんとか無事に1歳になる直前、私は大変なことを発見した。私のパスポートとビザが切れていたのだ。それも一年前に。高校でホームステイする留学のためにパスポートとビザを取っていたが、その頃のパスポートは五年が期限だった。その後、日本の高校へ復帰して2学期と3学期を終えて、卒業し、再度、米国へ渡った。この時点で、パスポートとビザは、発行後2年経っていた。そして大学を4年で卒業すると、発行から6年経っていたのだった。私は、この期限切れに気づかず、1年間違法滞在していたのだった。今なら、国外追放かもしれないが、同時多発テロ前のその頃の米国移民事情は甘かった。私は、急遽、グリーンカードを取得する手続きを始めた。妻の父がスポンサーになってくれたおかげで、書類提出は順調に進み、移民局のインタービューも、息子がすでに10ヶ月と確認されて、それに夫婦でイエスと答えたら、担当官から書類にスタンプが押された。簡単はインタビューだったことは以前書いたと思う。


実は、最初に行ったシカゴの日本の領事館でのパスポート再発行の方で問題になりかけた。一年もパスポートが切れていたことに、外務省の若き官僚らしき若者が、タバコを咥えなが、日本国民としてはパスポートを切らさない義務があるとか、説教をしてきた。日本の大人の社会を経験したことのなかった私は、そっちがそうなら、こっちも喧嘩腰で行くぜと、「お前は日本国の公僕だろうが、公僕は国民のために尽くすのが仕事だ。黙って早く手続きを済ませろ!」と言ってしまった。その若い官僚は、黙って後ろに下がり、中年のおばさんが出てきて、いかにもビジネスという感じで処理してくれた。私の後にきた大学生は、パスポートはまだ一年期限が残っているが、カリフォルニアへ引っ越すために、今方更新の手続きをするべきか聞いていた。腰の低い話し方で。これを見て、日本人とのやり取りはこうなんだと、我に帰った私だったが、もう遅かった。あの時のお兄さん、ごめんなさい。この窓口、あの頃でも、ガラス(きっと防弾ガラス)で仕切ってあって、来訪した人間が領事館スタッフに手を出せない様になっていた。あの頃から、日本の外務省はセキュリティーに金をかけていたのだろう。時たま、私の様な来訪者もいるのも理由の一つだったのかもしれない(笑)。


おかげで、なんとか違法滞在者のステータスから脱出できて、無事に大学院生活を始めた。私はある大学院生から、学科のソフトボールチームに入る様に頼まれた。誰かが、私が学部生の頃、寮のソフトボールチームで活躍していたと彼に伝えたらしかった。第一回目のミーテインングがあるというので、行ってみたら、新しい院生が私を含めて4人いた。このチームのキャプテンは中国系米国人のビルという学生だった。新たにキャプテンになったと張り切っていた。しかし、次に彼が、このチームは2年以上勝ち星がないと言い放った。その上で、昨年の最後の試合に、ワンストライクまで待ってから打っていく方針に変えたら、もう少しで試合に勝てたと言って、今年もその方針で行くと言い出した。私たち新人は、複雑は表情で、顔を見合わせていた。


このソフトボールというのが、米国では人気のスローピッチソフトボールというルールで行われる。普通のソフトボールと違うのは、まず、ピッチャーがボールを下手でトスして、ボールは最低でも6フィート(183cm)の高さまで上がって落ちてこないといけない。落ちてきたボールがホームプレートに当たるとふとライクになる。審判は、ボールの高さと落下点の二つを確認してストライクかボールの判定をするのだ。おかげで、投球はゆるやかな山形になる。それを、バッターは怪力でぶっ飛ばそうとするのである。たいてい乱打戦になる。ベースに出たランナーはリードオフなしで、盗塁もなし。そして、外野手が4人いて、チーム当たり10人の選手がいる。そして、バッターはツーストライクでアウト。ファールはストライクとみなされ、ワンストライクからファールを打ったらアウト。ボールも三つで、一塁へでる(普通の矢キュやソフトのフォーボールとおなじで、実はカウントを1−1から始めるようなものだ)。普通の試合は乱打戦になるのを強調しておきたい。強いチームは腕っ節の強うそうな選手がたくさんいる。


ところが、私の所属した学科のチームは打てない先輩ばかりだった。どうも、昔野球をやりたかったが、メンバーに選ばれなったか、万年補欠だった様なメンバーばかりだった。ギークという、オタク的な勉強ばかりしていた者を侮辱する言葉があるが、まさにギークの集団だった。筋力がないので打撃練習でも飛ばせない選手ばかりだった。それに比べて、私を含めて新メンバーは、がんがん飛ばしていた。私は、小学校はソフトで、中学の時代に野球をやっていたので、スイングのスピードが速かったため、チームでも一番遠くまで飛ばせた。最初の試合では、キャプテンの言うワンストライクまで待ってから打つ方針を貫いたが、負けてしまった。次の試合では新メンバーがこのルールを無視して最初から打って出て、試合は勝った。古いメンバーは大喜びしていた。そのシーズンは勝率5割ほどで終わった。シーズン終了後、そのキャプテンは、感慨深げに、自分の代で、無敗記録を止めたことが大変嬉しかったと言っていた。彼は、その二年後に、博士課程を修了して去っていった。


私がソフトの試合をしていると、よく妻がよちよち歩きの息子を連れて来ていた。ソフトをしない院生やチームメンバーの配偶者やガールフレンドも来ていたので、それに混ざって見ていた。しかし、後で聞いてみると、子供連れはたいてい彼女だけで、いつも動き回る息子に目をやっていないといけないので、かなり欲求不満が溜まっていたらしい。私は、それに気づいていなかったし、妻は、私に苦情を言うと、育児放棄に思えるのではないかと、言えなかったと後で言っていた。私は、そう言ってくれても育児放棄などとは思うこともなかったのだが。やはり、そう言う点で妻は、プレッシャーを内にしてしまう性格だったのだろう。


その後、妻は短大へ行く様になり、やがて、四年生大学の教育学部へ編入した。私がカリフォルニアで就職するまでに、全てのコースは修了したが、教育実習は終えていなかった。私はソフトをするのはやめたが、妻の大学最後の2年間は、私の大学院の友人の奥さんの働く会計士の会社のソフトボールチームでプレイした。今度は逆に、私が観戦していた。ただし、練習は夫やボーイフレンド達も参加して、いろいろ口出ししていた。妻のチームは、大学ではなく、社会人のリクリエーションのリーグで、勝つと、でかいトロフィーが出た。そして、会計会社の経営者がパーティを開いて、チームメンバーをもてなしてくれた。私のチームの貧乏学生の安いピザとビールの打ち上げとはレベルが違った。


この話を書いていて、思い出したのが、私と同じ時期に、あの貧弱チームに加わったメンバーの一人のことだ。彼の奥さんも、妻がプレーしたチームのメンバーだった。彼女は身長も175cmくらいで、チームで一番うまい助っ人だった。妻は、誘ってくれた私の友人の奥さんが、会計事務所では一番上の役職を持ったキャプテンだったので、彼女のおかでプレーできたのだった。このリーグでは、社員以外に2人がプレーできた。妻は誰もやりたがらない、キャッチャーをやって出場していた。私のチームメイトだった院生は、卒業後、シリコンバレーの半導体系の会社でエンジニアとして働き始め、ソフトチームの助っ人だった彼の奥さんも、一緒に引っ越して行った(私は彼女の職業をしらない)。しかし、私が日本から米国へ帰ってきて、二年目に、この私のチームメイトだったエンジニアが、シリコンバレーのど真ん中で、ロードバイクで走っている間に急性心臓死で亡くなったと言うニュースを聞いた。毎日30−60kmくらい自転車で走っていて、皆、彼は健康な人間だと思っていたのに、突然の出来事だった。彼はまだ40代前半だったと思う。

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